日本語の意外な歴史

これまで知られてこなかった日本語の起源、日本語の歴史について語っていきます。私たちが使っている言葉には、驚くべき人類の軌跡が隠されています。

2018年08月

すでにお話ししたように、日本語の中にはウラル語族と共通していない語彙が大量にあり、筆者は日本の近隣地域(東アジア・東南アジア)の言語の語彙を詳細に調べるようになりました。大がかりな比較作業で、最初は暗中模索の状態でしたが、次第に光明が見え始めました。日本語の中にあるウラル語族と共通していない語彙の大部分は、シナ・チベット語族とベトナム系言語の語彙らしいということがわかってきました。

しかしながら、トントン拍子というわけにはいかず、特にシナ・チベット語族の語彙の研究は難局を極めました。日本語のこれらの語彙は古代中国語から取り入れられたようだ、これらの語彙は古代中国語ではなく、遠くに追いやられたシナ・チベット系言語から取り入れられたようだという具合に明らかになってきたのですが、同時にいわくありげな謎の語彙も浮かび上がってきたのです。シナ・チベット語族の雰囲気を漂わせているが、古代中国語の語彙とも、遠くに追いやられたシナ・チベット系言語の語彙ともどうも少し違う、そんな語彙が日本語の中にあり、しかも重要な位置を占めていることがわかってきました。

遼河流域から南下してきた言語は、ごく単純化して示せば、以下のような感じでシナ・チベット語族の言語、ベトナム系の言語、タイ系の言語と接したと見られます(日本語の語彙を見る限り、もっと複雑な歴史があったと考えられますが、まずは日本語に最も大きな影響を与えたシナ・チベット語族の言語とベトナム系の言語、そしてこれらに加えてタイ系の言語に焦点を当てます。日本語に取り入れられたタイ系の語彙は、シナ・チベット系とベトナム系の語彙ほど多くはありませんが、日本語がタイ系の語彙を取り入れた時代・場所は、シナ・チベット系とベトナム系の語彙を取り入れた時代・場所に近いと思われます。そのため、タイ系の語彙はシナ・チベット系とベトナム系の語彙と同時進行で分析していきます)。

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時代が進むにつれて古代中国語は他を圧倒する大言語になっていきましたが、かつては古代中国語以外のシナ・チベット系言語が存在する余地も十分にあったのです。それらのシナ・チベット系言語は、消し去られるか、遠くに追いやられるかする運命を辿りました。上の図の「シナ・チベット語族の言語」は、「のちに消し去られるシナ・チベット系言語」+「古代中国語」+「のちに遠くに追いやられるシナ・チベット系言語」です。

筆者も、最初から「消し去られたシナ・チベット系言語」の存在を考えていたわけではありません。日本語の中にあるシナ・チベット語族のものと見られる語彙の総体が、「古代中国語」と「遠くに追いやられたシナ・チベット系言語」だけではどうしても説明しきれなかったのです。「古代中国語」と「遠くに追いやられたシナ・チベット系言語」に似ている、しかし「古代中国語」と「遠くに追いやられたシナ・チベット系言語」とは違う、そういう言語があったようだという考えに筆者は至ります。この過程は、詳しく実例を示す必要があるので、本ブログの記事を書き連ねる中で説明していきます。「日本語の意外な歴史」では当面、以下のような形で日本語の語彙の出所を明らかにしていきます。

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」の部分は、U~Tのどれにも当てはまらない語彙です。実を言うと、日本語の「」の部分も複雑です。日本語は、カオスとは言わないまでも、かなりごちゃ混ぜです。筆者もこんなに混ざっているのかと驚愕しました。「日本語の意外な歴史」では、U~Tの語彙をどんどん絞り出し、「」の部分を残していきます。日本語の語彙の大部分はU~Tの語彙が占めていますが、「」の部分もすべて寄せ集めるとある程度の量になります。量は比較的少ないものの、「」の部分の語彙は歴史を明らかにするうえで極めて重要になります。

遼河流域から南下してきた言語が中国東海岸地域(今の山東省・江蘇省のあたり)でシナ・チベット語族の言語、ベトナム系の言語、タイ系の言語と接していたとなれば、当然以下の疑問が生じます。

(疑問1)中国東海岸地域で話されていた言語は、どのようにして日本列島に入ってきたのか。朝鮮半島を経由したのか、しなかったのか。もし経由したのであれば、朝鮮半島でなにがあったのか。

(疑問2)中国東海岸地域で話されていた言語が日本列島に入ってきた時、そこではどのような言語が話されていたのか。つまり、縄文時代の日本列島ではどのような言語が話されていたのか。

興味をお持ちの方も多いかと思います。これらの疑問を解くための鍵は、日本語の「」の部分にあります。一見遠回りに見えますが、U~Tの語彙をしっかり把握することによって、「」の部分がくっきり見えてきます。


► 高句麗語の数詞に注目する(5)へ

一般的にBC6200年頃(つまり8200年前ぐらい)に出現した興隆窪文化(こうりゅうわぶんか)が遼河文明の始まりと考えられるようです(Liu 2006)。ウラル語族の研究者の多くは、ウラル語族のおおもとの言語(ウラル祖語)が話されていたのはBC4000年頃(つまり6000年前ぐらい)であろうと見積もってきましたが(Kallio 2006)、筆者も、ウラル語族内部の言語の分岐構造、語彙のばらつき・隔たり、そしてインド・ヨーロッパ語族の言語から長きにわたって取り入れられてきた語彙の積層からして、大体それらの見積りの通りであろうと考えています。ウラル語族と日本語の結びつきは6000年前よりもっと古いものということになります。例えば、上肢に関する語彙の考察のところで、フィンランド語のkäsi(手、腕)カスィ、kyynärpää(肘)キューナルパー、olka(肩)、kainalo(脇)という語を取り上げ、これらが日本語の語彙と関係していることを示しましたが、パッと見ただけでは、日本語のどの語に関係しているのか全然わかりません。何千年という時間が経過すると、このようなことになってしまいます。ウラル語族と日本語の結びつきは非常に古く、遼河文明の初期の頃のものと見られます。

遼河文明は、興隆窪文化の後、紅山文化(こうさんぶんか)(BC4500~BC3000年頃)などの文化が栄え、やがて夏家店下層文化(かかてんかそうぶんか)(BC2000~BC1500年頃)に至りますが、実はBC2200年頃から遼河流域で気候変動による砂漠化が始まったことが近年の科学調査でわかってきました(Yang 2015)。それまでの生活が維持できなくなるような深刻な環境変化に見舞われていたのです。この異変を受けて、遼河流域から南のほう(黄河下流域のほう)へ移動していった人々がいたと見られます。遼河流域から北に向かうとシベリアなので、農耕を行うのであれば選択肢は当然南だったでしょう。BC2200年頃から砂漠化が始まり、まもないタイミングで遼河流域から黄河下流域のほうへ南下していくと、どのようなことになるでしょうか。

まず、この問題を考えるための前提として、遼河文明と黄河文明の初期の頃の様子から見ておきましょう。Shelach-Lavi 2015から引用した以下の図は、遼河文明と黄河文明の初期の各文化を示したものです(図中の1、2、3はこれらの文化の発生にいくらか先行する遺跡で、それぞれ南荘頭遺跡(なんそうとういせき)、東胡林遺跡(とうこりんいせき)、虎頭梁遺跡(ことうりょういせき)です)。

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Xinglongwaはすでに言及した遼河流域の興隆窪文化(こうりゅうわぶんか)、Houli、Cishan、Peiligang、Dadiwanは黄河流域の後李文化(こうりぶんか)、磁山文化(じさんぶんか)、裴李崗文化(はいりこうぶんか)、大地湾文化(だいちわんぶんか)です。BC6500年~BC5500年頃(つまり8500年前~7500年前ぐらい)の様子です。見ての通り、黄河文明の初期の頃から、有力な文化が内陸部にも下流域にも存在しました。

黄河文明はこのような状態から変化していき、遼河流域で砂漠化が始まったBC2200年頃には、黄河流域は龍山文化(りゅうざんぶんか)に大きく覆われていました。かつて大地湾文化が存在したところも、裴李崗文化・磁山文化が存在したところも、後李文化が存在したところも龍山文化の圏内になります。とはいえ、夏・殷・周の時代に入る前なので、龍山文化の圏内の言語が画一的だったはずはなく、細かく分かれたシナ・チベット語族の言語が並存していたと考えられます。

※夏王朝が実在したかどうかということについては考古学界で議論が続いていますが、夏王朝が実在したのであれば二里頭遺跡(にりとういせき)がその跡であろうという見方が支配的です。二里頭遺跡の位置は、上の地図でいうと、PeiligangとDadiwanの間のあたりです。夏王朝に関しては、禹(う)が大洪水後の治水事業を成功させ、夏王朝の創始者になった話が有名ですが、最近の科学調査で黄河の特大級の洪水の存在が具体的に示され、目が離せない展開になっています(Wu 2016)。

殷王朝も周王朝も黄河下流域を支配下に入れましたが、殷王朝の開始はBC16世紀頃、周王朝の開始はBC1046年です。BC2200年頃から遼河流域で砂漠化が始まり、そこから南下してきた人々を待っていたのは、まだ殷王朝・周王朝の支配が存在しない、しかし遠くないうちに殷王朝・周王朝の支配が始まる、そんな時代の黄河下流域だったのです。そのような黄河下流域の言語状況はどのようになっていたのでしょうか。まだ殷王朝・周王朝の支配は始まっていませんが、黄河下流域は黄河文明の初期からその一角を担っており、内陸部と連続する龍山文化が広がっていました。

どうやら、遼河流域からやって来た言語はまず、古代中国語ではなく、古代中国語と比較的近い関係を持つ言語に出会ったようです。

※BC2200年頃から始まった砂漠化は非常に大きな出来事だったと見られますが、それ以前に遼河流域から黄河方面への人の移動が全くなかったと考えるのは極端です。Y染色体DNAのN系統の拡散のところで見たように、遼河文明の初期の頃からユーラシア大陸の北方に大きく広がっていく人の流れがあり、最も遠いところではヨーロッパにまで及びました。そのようななかで、南方の近場への移動がゼロだったというのは考えづらいことです。



参考文献

英語

Shelach-Lavi G. 2015. The Archaeology of Early China: From Prehistory to the Han Dynasty. Cambridge University Press.

Wu Q. et al. 2016. Outburst flood at 1920 BCE supports historicity of China’s Great Flood and the Xia dynasty. Science 353(6299): 579-582.

Yang X. et al. 2015. Groundwater sapping as the cause of irreversible desertification of Hunshandake Sandy Lands, Inner Mongolia, northern China. Proceedings of the National Academy of Sciences 112(3): 702-706.

その他の言語

Kallio P. 2006. Suomen kantakielten absoluuttista kronologiaa. Virittäjä 110: 2-25.(フィンランド語)

Liu G. 2006. 西辽河流域新石器时代至早期青铜时代考古学文化概论. 辽宁师范大学学报(社会科学版) 29(1): 113-122.(中国語)


► 朝鮮半島でなにかあったのか(4)へ

古代中国語のljang(良)リアンが昔の日本語のyosi(良し)になり、古代中国語のak(惡)が昔の日本語のasi(悪し)になったという話をしました。前者のケースは少し複雑ですが、昔の日本語がryauとは言えず、yauとも言えず、yoと言うことしかできなかったために、yosi(良し)という語が生まれました。私たちがよく使う日本語のyoi(良い)は、中国語由来であるということが判明しました。

ここでは、関連する話題として、「ちゃんとしなさい」のtyan(ちゃん)と「きちんとしなさい」のkitin(きちん)を取り上げます。「ちゃんとしなさい」も「きちんとしなさい」も、よく母親が子どもに言うセリフなので、すっかりおなじみでしょう。しかしなんと、こんなところにも中国語が入っているようなのです。

古代中国語にtsyeng(正)チェン
という語がありました。正しいありさま、適切なありさま、整ったありさまなどを表す語です。日本語にはsyauとseiという読みで取り入れられました。しかし、これは日本語の書き言葉だけを見た場合の話です。どうやら、古代中国語のtsyeng(正)は日本語の話し言葉のほうにもtyanという読みで入ったらしいのです。「ちゃんとしなさい」のtyan(ちゃん)は、正しいありさま、適切なありさま、整ったありさまなどを表す古代中国語のtsyeng(正)を取り入れたものではないかというわけです(古代中国語のtsyeng(整)チェンも関わっている可能性があります)。こう考えると、ことごとくつじつまが合ってきます。

「ちゃんとしなさい」のtyan(ちゃん)と意味が似ている「きちんとしなさい」のkitin(きちん)に目を向けましょう。kitin(きちん)のほかにkitiʔ(きちっ)、kittiri(きっちり)という言い方もあるので、kitiがポイントと見られます。このkitiは一体なんでしょうか。

古代中国語にkjit(吉)キイトゥという語がありました。日本語にはkiti、kituという読みで取り入れられました。「吉」という字を見ると、縁起がよいこと、めでたいこと、幸せ、幸運などを連想するかと思います。確かに、中国語でも日本語でも中心的な意味はそのようなものです。しかし、この語には「よい、すぐれている、立派だ」という意味もありました。このマイナーなほうの意味を受け継いだのが、日本語のkitin(きちん)、kitiʔ(きちっ)、kittiri(きっちり)と見られます。

それを裏づけるのが、古代中国語のkhjit(詰)キイトゥです。古代中国語のkjit(吉)と同じように、古代中国語のkhjit(詰)もkiti、kituという読みで日本語に取り入れられました。古代中国語のkjit(吉)のkは息をあまり吐き出さないようにしながら発音する子音、古代中国語のkhjit(詰)のkhは息を強く吐き出しながら発音する子音です(現代の中国語を学んだことがある方は無気音と有気音の区別をご存知だと思いますが、まさにそれです)。ちなみに、「詰」の中の「吉」は音を表しているだけで、縁起がよいこと、めでたいこと、幸せ、幸運などとは全く関係ありません。偏(へん)で意味領域を表し、旁(つくり)で音を表すという中国語のお得意のパターンです。

「詰」の中の「言」が示すように、古代中国語のkhjit(詰)は主に、責めたり、追いつめたりするような発話を意味した語ですが、「詰める、詰まる」という意味も持っていました。この古代中国語のkhjit(詰)が持つ「詰める、詰まる」という意味を受け継いだのが、日本語のgitigiti(ぎちぎち)、gittiri(ぎっちり)、gissiri(ぎっしり)、kitusi(きつし)などと見られます。

古代中国語のkjit(吉)は、日本語の書き言葉にkiti、kituという音読みで入り、日本語の話し言葉にはkitin(きちん)、kitiʔ(きちっ)、kittiri(きっちり)という形で入った、同様に、古代中国語のkhjit(詰)は、日本語の書き言葉にkiti、kituという音読みで入り、日本語の話し言葉にはgitigiti(ぎちぎち)、gittiri(ぎっちり)、gissiri(ぎっしり)、kitusi(きつし)などの形で入ったということです。

日本語にはgitigiti(ぎちぎち)と似た意味を持つgyūgyū(ぎゅうぎゅう)、gyuʔ(ぎゅっ)、kyuʔ(きゅっ)、kyun(きゅん)などの語もありますが、これらももとは古代中国語のgjuwng(窮)ギウウンでしょう。

外国語由来なのにそのことが知らされなかったら、摩訶不思議なものと思われて当然です。日本人は、いわゆる擬態語を日本語の特徴として強調する一方で、その擬態語に異質な感じも抱いてきたのではないでしょうか。その異質な感じは、根拠のないものではなかったのです。

近年では、Ilumäe 2016 のように、Y染色体DNAのN系統の内部が細かく分類され、N系統の拡散が精密に捉えられるようになってきましたが、そこでも、ウラル山脈方面―ヤクート地方―ブリヤート地方の密接なつながりがしっかりと裏づけられています。Shi 2013では、N系統の拡散経路を以下のように推定しています。

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赤い矢印は「東アジア南部からの最初の拡散(21000年前頃)」、青い矢印は「東アジア北部からシベリアへの第二の拡散(12000~14000年前頃)」、黒い矢印は「中央アジアとヨーロッパへの最近の拡散(8000~10000年前頃)」と説明されています。筆者は、拡散の時期に関してはShi氏らと少し見積りが違いますが、拡散の経路に関しては大体Shi氏らの言う通りであろうと考えています。

遼河文明の言語がいきなりはるか離れたウラル山脈方面に伝わるわけはなく、連続する経路があったはずです。どうやら、遼河文明の言語はかつて遼河流域からウラル山脈方面にかけて広く分布していたが、その後テュルク系の言語やモンゴル系の言語が有力になり、遼河文明の言語(ウラル語族の言語およびそれに近縁な言語)からテュルク系言語やモンゴル系言語への大規模な乗り換えが起きたようです。遼河文明の言語を話していた人々がテュルク系言語やモンゴル系言語に乗り換えたという意味です。遼河文明・黄河文明・長江文明とは全く違う生活様式を持つ遊牧民集団がシベリアで大勢力を築いたのは周知の通りです。

ウラル語族の言語およびそれに近縁な言語がヤクート地方、ブリヤート地方、遼河流域に連続して分布しているのを見たら、日本語の起源を探求する学者たちもそれらの言語に大いに注目したことでしょう。しかし、大規模な言語の乗り換えが起きた結果、日本からはるか離れたウラル山脈方面にウラル語族の言語が残るのみになってしまいました。しかも、テュルク系言語とモンゴル系言語とツングース系言語が同系統であると主張する「アルタイ語族」という仮説が根拠が十分でないにもかかわらずあまりに有名になり、ウラル語族の研究者の視線は「アルタイ語族」でせき止められて日本語まで届かず、日本語の研究者の視線も「アルタイ語族」でせき止められてウラル語族まで届かないようになってしまいました。総じて、ウラル語族の研究者の意識はインド・ヨーロッパ語族と「アルタイ語族」にあり、日本語の研究者の意識は朝鮮語と「アルタイ語族」にあったので、ウラル語族と日本語を比較する舞台設定すらありませんでした。

さらに困難なことに、(奈良時代から現代の)日本語を例えばフィンランド語やハンガリー語と並べる機会があったとしても、似ていると感じることはできません。筆者自身、歴史とは全然違う言語学の研究でフィンランド語やハンガリー語を長年研究していましたが、フィンランド語やハンガリー語は日本語に関係があるのではないかなどと考えたことは全くありませんでした。今では巨大な体系になったインド・ヨーロッパ語族の研究も、もともとイギリス人のウィリアム・ジョーンズ氏らがヨーロッパの言語とインドの言語を見比べて似ていると感じたところから始まっています。まず最初にある程度似ていると感じなければ、系統関係の研究は始まらないのです。

筆者にも幸運が訪れます。ある時に、フィンランド語やハンガリー語と遠い類縁関係にある北極地方のサモエード諸語の研究を始めました。もうずいぶん昔のことなので記憶が定かではありませんが、せっかくフィンランド語とハンガリー語を研究したのだから、ついでに親類の言語も見ておこうかぐらいの動機だったと思います。この時点では、言語の歴史に興味は持っておらず、一般言語学・言語類型論の観点から様々なタイプの言語を見ることに興味がありました。ウラル語族の言語とはいえ、フィンランド語とハンガリー語から最も遠い言語なので、サモエード諸語はとても異質に見えました。

そこから先は本ブログの最初のほうで説明したショッキングな展開になり、筆者はサモエード諸語と日本語の語彙の類似性、さらにはそれをきっかけにウラル語族と日本語の語彙の類似性に気づき始めます。研究を進めるにつれ、日本語の中にウラル語族と共通していない語彙が大量にあること、そしてそのウラル語族と共通していない語彙の大部分がシナ・チベット語族とベトナム系言語の語彙のようだということもわかってきました。

「遼河文明の言語の語彙」と「黄河文明の言語の語彙」と「長江文明の言語の語彙」が混ざり合っていく過程は、日本語の歴史において最も重要な局面です。日本語の大枠が決まった時期、別の言い方をすれば、日本語らしい言語が生じた時期がまさにここなのです。奈良時代から現代に至るまでの日本語も変化していますが、それとは比べ物にならない激動の歴史が前にあります。まず、なぜ「遼河文明の言語の語彙」と「黄河文明の言語の語彙」と「長江文明の言語の語彙」が大々的なスケールで混ざり合うことになったのかお話ししなければなりません。

もう一度上に示したY染色体DNAのN系統の拡散図を見てください。人の移動に伴って、遼河流域からユーラシア大陸の北方に広がっていった言語があります。この一部がウラル語族になります。その一方で、遼河流域に残った言語があります。遼河流域に残った言語はその後どうなったのでしょうか。



参考文献

Ilumäe A. M. et al. 2016. Human Y chromosome haplogroup N: A non-trivial time-resolved phylogeography that cuts across language families. American Journal of Human Genetics 99: 163-173.

Shi H. et al. 2013. Genetic evidence of an East Asian origin and paleolithic northward migration of Y-chromosome haplogroup N. PLoS One 8(6): e66102.


► 遼河文明を襲った異変(3)へ

「日本語の起源を明らかにする手順」は、以下のようなシリーズ記事になっています。

► ウラル語族の秘密(1)
► 変わりゆくシベリア(2)
► 遼河文明を襲った異変(3)
► 朝鮮半島でなにかあったのか(4)
► 高句麗語の数詞に注目する(5)
► 高句麗語と百済語の研究方法について(6)


日本語の中にある、ウラル語族との共通語彙、古代中国語を含むシナ・チベット語族の言語(黄河文明の言語)から取り入れられた語彙、ベトナム系の言語(長江文明の言語)から取り入れられた語彙、そして謎めくタイ系の言語から取り入れられた語彙をどんどん明らかにしているところですが、ここで「日本語の意外な歴史」の今後のストーリー展開を軽くスケッチしておきたいと思います。

高句麗語と百済語にちらっと言及した高句麗語と百済語、その他の消滅した言語たちの記事にアクセスしてくださる方が大変多く、心から感謝しております。同時に、朝鮮半島への関心、特に朝鮮半島が日本・日本人・日本語の歴史にどのように関係しているのかということに対する関心の強さを感じています。

本ブログの最初の四つの記事でお話ししたように、東アジアでは、黄河文明と長江文明のほかにもう一つ、遼河文明と呼ばれる文明が栄えていました。そして、遼河文明が栄えていた頃に遼河流域で暮らしていた人々のDNA(Y染色体DNA)を調べたところ、現在ロシアの北極地方からフィンランド方面でウラル語族の言語を話している人々と紛れもない共通性があることが明らかになりました。図1は、遼河文明において支配的だったY染色体DNAのN系統が、現代の世界でどのように分布しているか示したものです。

図1(Rootsi 2007より引用)

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この図を見ると、ウラル山脈やフィンランド方面だけでなく、ユーラシア大陸の東端までを含めた北極地方全体でN系統の割合が高くなっているのがわかります。遼河流域を出た人の流れは、ひたすらウラル山脈やフィンランド方面に向かったわけではないということです。ちなみに、Y染色体DNAのN系統は、黄河流域・長江流域を含む東アジア・東南アジアで優勢なO系統に近い系統です。図2は、現代の世界におけるO系統の分布を示したものです。

図2(Rootsi 2007より引用)

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Y染色体DNAのN系統とO系統を他の系統から区別したり、N系統とO系統を互いに区別したりする作業は、Y染色体DNA配列(アデニンA、チミンT、グアニンG、シトシンCという四種類の物質が作る列)のほんのいくつかの箇所の変異に注目することによって行われています。例えば、N系統とO系統の配列はM214という変異を起こしており、そこからさらに、N系統の配列はM231という変異、O系統の配列はM175という変異を起こしています。

ウラル語族の言語の話者に、Y染色体DNAのN系統、つまりM231という変異が高い率で見られることはすでに述べましたが、Zerjal 1997ではウラル語族の言語の話者に特徴的な別の箇所の変異を調べており、大変興味深い研究結果が出ています。この別の箇所の変異は、ウラル語族の言語の話者以外にはほとんど見られませんが、ヤクート地方でヤクート語(テュルク系言語の一つ)を話している人々とブリヤート地方でブリヤート語(モンゴル系言語の一つ)を話している人々には例外的に高い率で見られるのです(ヤクート地方では21名中18名(86%)、ブリヤート地方では111名中64名(58%)という結果になっています)。注目すべきなのは、上記のウラル語族の言語の話者に特徴的な別の箇所の変異が、ヤクート語以外のテュルク系言語の話者やブリヤート語以外のモンゴル系言語の話者にはあまり見られないことです。テュルク系言語の中でヤクート語の話者が、モンゴル系言語の中でブリヤート語の話者が、例外的な傾向を示しているのです。ヤクート地方とブリヤート地方がウラル語族となにか特別な関係を持っていることを示唆しています。

先ほどの図1をもう一度見てください。モンゴルの上にバイカル湖という湖があり、そのすぐ周辺がブリヤート地方です。そして、ブリヤート地方の右上に大きく広がっているのがヤクート地方です。現在では、ブリヤート地方もヤクート地方もロシア領で、それぞれブリヤート共和国とサハ共和国になっています。ヤクート地方は、ウラル山脈やフィンランド方面と同じくらい、あるいはそれ以上にN系統の割合が高いところです。ブリヤート地方の人々のY染色体DNAを詳細に調べた研究(Kharkov 2014)によれば、ブリヤート地方は西部と東部で大きな差があり、東部の集団でN系統が高い率(60~80%)で観察されるという特徴があります。

ここで、遼河流域、ブリヤート地方、ヤクート地方、ウラル語族のサモエード系言語の分布域、そしてフィン・ウゴル系言語の分布域を眺めると、あることに気づきます。それは、これらの地域が概ね地理的に連続しているということです。



参考文献

Kharkov V. N. et al. 2014. Gene pool of Buryats: Clinal variability and territorial subdivision based on data of Y-chromosome markers. Russian Journal of Genetics 50(2): 180-190.

Rootsi S. et al. 2007. A counter-clockwise northern route of the Y-chromosome haplogroup N from Southeast Asia towards Europe. European Journal of Human Genetics 15: 204-211.

Zerjal T. et al. 1997. Genetic relationships of Asians and Northern Europeans, revealed by Y-chromosomal DNA analysis. American Journal of Human Genetics 60: 1174-1183.


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