「笑う」の語源はやはり・・・

日本語のnikoniko(にこにこ)、niyaniya(にやにや)、nitanita(にたにた)は古代中国語で太陽を意味していた語から来ているようだとお話ししましたが、日本語のwarau(笑う)も同じような由来を持っているようです。

ウラル語族のフィンランド語では、valkoinen/valkea(白い)、valo(光)、valoisa/vaalea(明るい)、valaista(明るくする、照らす)、valaistus(照明)のように、valk-、val-という語根が明るさに関連した語彙を支配しています。vという子音はウラル語族全体では一般的でなく、かつてはwであったと推定されているので、walk-、wal-という語根について考えることになります。

上のwalk-、wal-では、先頭の子音がwですが、インド・ヨーロッパ語族では、先頭の子音がwではなくbである語根が認められます。balk-、bal-、あるいはインド・ヨーロッパ語族の言語は語頭に二重子音を好んで使うのでblak-、bla-のような語根が認められるのです。このような語根から、白さ、光、明るさに関連した語彙が作られています。

例えば、bal-のような語根から、スラヴ系のロシア語bjelyj(白い)ビェーリイ、ポーランド語biały(白い)ビャウィやバルト系のリトアニア語baltas(白い)、ラトビア語balts(白い)が作られています。blak-のような語根から来ていると見られるのが、イタリック系のフランス語blanc(白い)ブロン、スペイン語blanco(白い)ブランコ、イタリア語bianco(白い)ビアンコなどです(従来あまり注目されてきませんでしたが、このようにnが挿入される変化はヨーロッパ方面では広範に起きています。重要な問題なので、別の機会に本格的に論じます。ちなみに、ゲルマン系でb、スラヴ系でb、イタリック系でfという対応が標準的なので、フランス語blanc、スペイン語blanco、イタリア語biancoなどは、ずっと受け継がれてきた語ではなく、ある時点で非イタリック系の言語からイタリック系の言語に入った可能性があります)。blak-のような語根からは、英語のbleach(漂白する、白くする)(古形blæcanブラーカン)も作られています。

悩ましいのが、英語のblack(黒い)(古形blæcブラク)です。black(黒い)は上記の一連の語と全然関係がないように思えますが、実はそうでもありません。インド・ヨーロッパ語族の言語では、balk-、bal-あるいはblak-、bla-のような語根から、燃えることを意味する語も作られているのです。燃えるというのは、明るく輝く現象ですが、その後に黒くなる現象でもあります。どうやら、物が燃えることを表しているうちに、「白さ、光、明るさ」の領域から「黒さ」の領域への劇的な移行が起きたようです。

いくつもの語を挙げましたが、要するに、インド・ヨーロッパ語族ではbalk-、bal-、blak-、bla-のような語根から、ウラル語族ではwalk-、wal-という語根から、白さ、光、明るさに関連した語が作られているということです。上に挙げたインド・ヨーロッパ語族とウラル語族の語彙に関係があると思われる語は、東アジアのほうにも広がっています。

とりわけ、朝鮮語のpakta(明るい)は注目に値します。朝鮮語のpakta(明るい)は、palgɯmjɔn(明るければ)パルグミョン、palgasɔ(明るいので)パルガソ、palgatta(明るかった)パルガッタのように、組み込まれたpalg-という形を見せます。この形が昔の姿をよく示していると考えられる形です。

ここで注意しなければならないのは、昔のウラル語族と朝鮮語には、語頭でbのような濁音を使えないという制約があるということです。ウラル語族で頭子音がbでなくwになり、朝鮮語で頭子音がbでなくpになっているのは、当然の帰結です。インド・ヨーロッパ語族のbalk-、bal-、blak-、bla-のような形は現れえないのです。

昔の日本語にも、語頭でbのような濁音を使えないという制約がありました。日本語の場合はさらに、子音が連続しないという制約もありました。インド・ヨーロッパ語族のbalk-、bal-、blak-、bla-のような形は到底不可能なのです。となると、日本語では、ウラル語族のようにwを使ってwar-という形にするか、朝鮮語のようにpを使ってpar-という形にすることが考えられます。日本語の白さ、光、明るさに関連した語彙に、war-またはpar-という形が現れているか検討しなければなりません。

まずこれに該当すると考えられるのが、奈良時代のɸaru(晴る)です。推定古形は*paru(晴る)です。形的にも意味的にもぴったり一致します。

※余談ですが、奈良時代のɸaru(晴る)は現代ではhareru(晴れる)になっており、harasu(晴らす)と対になっています。俗語のbareru(バレる)は明るみにさらされてしまうこと、barasu(バラす)は明るみにさらしてしまうことで、hareru(晴れる)/harasu(晴らす)と同源と見られます。

*paru(晴る)ほど直接的ではありませんが、nikoniko(にこにこ)、niyaniya(にやにや)、nitanita(にたにた)のところで見たように、明るさと笑いの間にはつながりがあるので、奈良時代のwaraɸu(笑ふ)も無関係でないと思われます。waraɸu(笑ふ)も白さ、光、明るさに関連した語から作られたのではないかということです。

上に挙げたインド・ヨーロッパ語族、ウラル語族、朝鮮語の語彙は、古代中国語のbæk(白)バクなどとの関係も考えなければならず、由来を容易に明らかにすることはできません。それでも、白さ、光、明るさに関する語彙が北ユーラシアの言語によって共有されており、日本語の*paru(晴る)とwaraɸu(笑ふ)もそこから来たということは言えそうです。*paru(晴る)とwaraɸu(笑ふ)では頭子音が異なるので、両方がもとから日本語にあったのではなく、少なくともどちらか一方は外来語であると考えられます。この問題は、*paru(晴る)とwaraɸu(笑ふ)だけでなく、*pとwで始まる日本語の様々な語を北ユーラシアの言語の語彙と比較しなければならないので、いずれ戻ってくることにし、先へ進みます。

次は、hikari(光)の語源を取り上げます。前に、古代中国語のkwang(光)クアンが日本語のkage(影、陰)になったり、ベトナム語の ánh sáng (光)アンサンのような語が日本語のasa(朝)になったりした話をしましたが(まだ読まれていない方は、光と影の微妙な関係「深い」と「浅い」の語源(続き)—2音節の語を取り入れるを参照してください)、肝心のhikari(光)の語源については、お話ししようと思いつつ、機会を逃してきました。

hikari(光)は、筆者が語源を突き止めるのに大変苦労した語です。様々な言語を調べても、日本語のhikari(光)に関係がありそうな語が見つからず、絶望的かと思いかけたところで、まだ「あの言語」を調べていないことに気づきました。

人間の笑い—ニコニコ、ニヤニヤ、ニタニタにも語源がある

araemisi(麁蝦夷)という言葉が出てきたので、これに関連した補足をしておきます。

奈良時代の日本は本州ですら統一が完了しておらず、東北方面に住んでいた人々はemisi(蝦夷)と呼ばれていたという話をしました。朝廷に従わないemisi(蝦夷)はaraemisi(麁蝦夷)と言われ、朝廷に従うemisi(蝦夷)はnikiemisi(熟蝦夷)と言われました。araemisiのaraは「荒い」という意味で、nikiemisiのnikiは「温和な」という意味です。nikiは現代の日本語につながりませんが、nikiの異形として存在していたnikoは現代の日本語につながります。このnikoから作られたのが、nikoyaka(にこやか)、nikoniko(にこにこ)、nikkori(にっこり)などです。

英語のsun(太陽)とフィンランド語のaurinko(太陽)

英語では、sun(太陽)からsunnyという形容詞が作られ、さらにsunnilyという副詞が作られました。smile(笑う)にsunnilyをくっつけると、smile sunnily (にこにこ笑う)という表現ができます。

フィンランド語でも全く同じように、aurinko(太陽)からaurinkoinenという形容詞が作られ、さらにaurinkoisestiという副詞が作られました。hymyillä(笑う)ヒュミュイッラにaurinkoisestiをくっつけると、hymyillä aurinkoisesti (にこにこ笑う)という表現ができます。

日本語ならnikoniko(にこにこ)と言うところで、英語とフィンランド語は太陽を持ち出しています。一風変わった表現だと、若い時分の筆者は思っていました。

ところが、長い年月が過ぎ、そもそも日本語のnikoniko(にこにこ)とはなんなのだろうと考えるようになりました。日本語のいわゆる擬態語の多くが中国語由来であることが明らかになるにつれ、もしかしたらnikoniko(にこにこ)もそうなのかと考えるようになったのです。

古代中国語のnyit(日)

古代中国語のnyit(日)ニトゥは太陽(および一日)を意味する語で、日本語にはnitiとzituという音読みで取り入れられました。nyの部分は発音記号で書くと[ȵ]で、日本語のnya、nyu、nyoの類です。nyitは隋・唐の頃の形ですが、どうやら末子音のtがかつてはkだったらしいということがわかってきました(Baxter 2014、p.240~241)。話が複雑なので、先に結論を述べてしまうと、日本語のnikoniko(にこにこ)のniko、niyaniya(にやにや)のniya、nitanita(にたにた)のnitaはいずれも、古代中国語で太陽を意味していた語から来ているようです。このことを理解するには、言語の発音の変化に関する知識が必要です。説明のために、以下のようなモデルを用意します。

nikという語が存在し、その発音がniyに変化したり、nitに変化したりするモデルです。日本語はk、y、tのような子音で終わることはないではないかと思われるかもしれません。それはその通りです。上のモデルは、日本語で起きた発音の変化を説明するためのものではなく、中国語で起きた発音の変化を説明するためのものです。日本語には、奈良時代よりも前に中国語から取り入れた語がたくさんあります。日本語の一語一語の語源を明らかにする際には、中国語で起きた発音の変化もよく知っておかなければならないのです。

前に幸(さき)と幸(さち)—不完全に終わった音韻変化の記事の中で、ki(キ)という音がtʃi(チ)のようになりやすいこと、ke(ケ)という音がtʃe(チェ)のようになりやすいことをお話しし、このような変化を「キチ変化」と呼びました(名前は筆者が勝手につけているだけなので、あまり気にしなくて結構です)。「キチ変化」のほかにも、重要な発音の変化があります。上のモデルの(1)と(2)の変化も、東アジアの言語の歴史を考えるうえで極めて重要な変化です。(1)の変化を「Day変化」、(2)の変化を「k↔t変化」と呼んでおきます。これらの変化について説明します。

(1)Day変化

英語にday(日)という語があります。ゲルマン系の他の言語にも同源の語がありますが、ドイツ語Tag(日)、スウェーデン語dag(日)、アイスランド語dagur(日)、ゴート語dags(日)のようになっています。見れば明らかですが、英語のday(日)のyの部分はかつてgだったのです。

gだけでなく、kも同じように変化することがあります。例えば、古代中国語のbæk(白)バクは、広東語では「パー(ク)」、標準語では「パイ」になっており、古代中国語のpok(北)は、広東語では「パ(ク)」、標準語では「ペイ」になっています。

末子音のk/gがi/yになる変化は、世界に広く見られます。kやgのような子音で終わることがない日本語では実感できませんが、世界の言語を観察するとそのようになっています。末子音のk/gがi/yになる変化を「Day変化」と呼ぶことにします。

(2)k↔t変化

筆者のいう「k↔t変化」とは、末子音のkがtになるあるいは末子音のtがkになる変化です。この変化は、ヨーロッパではあまり起きていないので、注目されてきませんでした。しかし、東アジアではよく起きており、重要です。「k↔t変化」はなぜヨーロッパではあまり起きていないのに東アジアではよく起きているのか、それには理由があります。

説明のために、英語のsip(すする)、sit(座る)、sick(病気だ)の三語を取り上げます。sipの末子音は[p]、sitの末子音は[t]、sickの末子音は[k]です。[p]、[t]、[k]は破裂音と呼ばれ、空気をいったん通行止めにして、それからその通行止めを開放するところに特徴があります。英語では、基本的に、sip、sit、sickを発音する時には、最後のところで息を漏らします。

ところが、東アジアでは、かなり前から、末子音[p]、[t]、[k]を発音する時に息を漏らさなくなってしまったようなのです。例えば、現代の朝鮮語、広東語、ベトナム語では、息を全く漏らしません。sip、sit、sickの最後のところで息を漏らすのが英語流、sip、sit、sickの最後のところで息を漏らさないのが朝鮮語、広東語、ベトナム語流です。朝鮮語、広東語、ベトナム語では、末子音[p]、[t]、[k]を発音する直前で止めてしまう感じです(中国の標準語では、末子音[p]、[t]、[k]は完全に消えました)。

ある人がsip、sit、sickを発音する時に最後のところで息を漏らさなかったら、どうなるでしょうか。見ながら聞いている側からすると、sipは上唇と下唇を合わせるのではっきり別物とわかりますが、sitとsickの違いはよくわからなくなります。口の中のどこかで空気の通行を止めたことがわかるだけです。末子音[p]、[t]、[k]を発音する時の息漏れが極限まで弱まってしまったことが、東アジアで「k↔t変化」がよく起きている理由と見られます。シナ・チベット語族のある言語で末子音がk、別の言語で末子音がtになっているケースもあれば、中国語のある方言で末子音がk、別の方言で末子音がtになっているケースもあります。

日本語のnikoniko(にこにこ)のniko、そして温和であることを意味したnikiは、日本語でnikとできないために母音を補ったものと考えられます。日本語のniyaniya(にやにや)のniya、そしてnitanita(にたにた)のnitaも、日本語でniy、nitとできないために母音を補ったものと考えられます。太陽の特徴(明るい、熱い、温かい)を考えると、nigiyaka(賑やか)/nigiwau(賑わう)のnigiやnukunuku(ぬくぬく)のnukuもnikiの仲間でしょう。

やはりBaxter氏らが主張するように古代中国語のnyit(日)の末子音tはかつてkで、このkが時代・地方によってyに変化したり、tに変化したりし、様々な時代・地方の中国語に接した日本語に上記のnikoniko(にこにこ)、niyaniya(にやにや)、nitanita(にたにた)などが蓄積したと考えるのが自然です。niyaniya(にやにや)とnitanita(にたにた)は、現代の日本語ではちょっとよこしまな感じやいやらしい感じがしますが、もともとは、nikoniko(にこにこ)と同じく、太陽のような明るさ・温かさを意味していたと思われます。

「日」が日本語でnitiと読まれたり、zituと読まれたりするのは、ご存知の通りです。「人」がninと読まれたり、zinと読まれたりするのと同様です。「生」はsyōと読まれたり、seiと読まれたりしているし、「正」もsyōと読まれたり、seiと読まれたりしています。違う時代、違う地方の中国語に接していると、このように少しずつ違う形が蓄積していくのです。nikoniko(にこにこ)、niyaniya(にやにや)、nitanita(にたにた)も一見異なりますが、おおもとは同じだということです。

nikoniko(にこにこ)、niyaniya(にやにや)、nitanita(にたにた)の語源が上の通りなら、warau(笑う)の語源はどうでしょうか。

 

参考文献

Baxter W. H. et al. 2014. Old Chinese: A New Reconstruction. Oxford University Press.