高句麗人が書き残した謎の漢字

高句麗語はわずかな文字記録を残して消滅してしまいました。身体部位を表す語彙もほとんど窺い知ることができません。しかし、幸いなことに、高句麗語で「口」を意味した語が記録に残っています。高句麗語で「口」を意味した語は、「忽次」および「古次」と書き表されています。

高句麗語の「忽次、古次」・・・口を意味する

古代中国語のxwot(忽)フオトゥまたはクオトゥ、ku(古)、tshij(次)ツィという語を考えれば、高句麗語の「忽次、古次」が日本語のkuti(口)に対応する語であることは明らかでしょう。

高句麗語で目を意味した語、耳を意味した語、鼻を意味した語、歯を意味した語、舌を意味した語は記録に残っていません。しかし、高句麗語で口を意味した語は記録に残っており、「忽次、古次」と書き表されているのです。

これは、高句麗語の数詞に注目するの記事で見た光景に似ています。高句麗語のほんの一部の語がちらっちらっと見え、それらが日本語に酷似しているパターンです。

しかし、高句麗語の「忽次、古次」と日本語のkuti(口)の話には、厄介なところもあります。高句麗人が高句麗語で口を意味する語を「忽次、古次」と書き表したのは事実ですが、「忽次、古次」ではなく「串」と書き表すこともあったのです。

古代中国語のtsyhwen(串)チウエンまたはkwæn(串)クアンという語を考えると、高句麗語の「串」を日本語のkuti(口)に結びつけるのは無理があります。

Beckwith氏は、高句麗語の「忽次、古次」と高句麗語の「串」は同一の語であると考えています(Beckwith 2004)。発音が全然違うであろう「忽次、古次」と「串」を同一の語と考えようとするので、混乱に陥ってしまっています。筆者は、高句麗語の「忽次、古次」と高句麗語の「串」は別々の語ではないかと考えています。

筆者の考えもかなり奇妙に響くでしょう。当然、以下のような反論が予想されます。高句麗語には、口を意味する「忽次、古次」という語があり、それとは別に、口を意味する「串」という語があった。高句麗語には口を意味する語が二つあったことになる。これはおかしいではないかと。

高句麗語に口を意味する語がある、近隣の言語にも口を意味する語がある、この当たり前の状況を考えてみてください。近隣の言語で口を意味していた語が高句麗語に入ってきて、高句麗語で口を意味していた語を脅かすかもしれません。どうなるでしょうか。高句麗語で口を意味していた語と近隣の言語で口を意味していた語が一時的に並存するかもしれません。しかし、このような並存が長続きするとは思えません。口を意味する語はなかなか変わらないので、近隣の言語で口を意味していた語は高句麗語で最終的に口を意味することができず、口に関係のあるなにかを意味するようになるでしょう。なにを意味するようになるでしょうか。

現代の日本語にkutiという語があります。kutiは、方言によっては、口だけでなく言葉も意味しています。沖縄の人たちは自分たちの言葉を「うちなーぐち」と呼んでいます。おきなわが変化した「うちなー」(キチ変化が起きています)と言葉を意味する「くち」がくっついたものです。口を意味していた語が言葉を意味するようになるのは、容易に理解できるでしょう。現代の私たちは、言葉を紙に書いたり、パソコンの画面に入力したりしますが、文字のない時代には、言葉はもっぱら口から発するものだったのです。

筆者は、高句麗語の「串」は、口を意味することができず、口から発せられる音を意味するようになっていった語ではないかと推測しています。古代中国語のkwæn(串)という語を考えると、高句麗語の「串」は、日本語のkuti(口)より、日本語のkowe(声)に結びつきそうです。

筆者は、日本語のkowe(声)をウラル語族のフィンランド語korva(耳)(祖形*korwa)などと結びつけようとしたこともありました。確かに、耳は聞くことや音と密接な関係があります。しかし、日本語のkowe(声)は、音一般を意味するのではなく、口から発せられる音を意味するところに大きな特徴があります。kowe(声)の語源は「口」ではないかと考えたくなるのです。

高句麗語の「串」(古代中国語のkwæn(串)からしてkwaかkweのような音であったと推測されます)と日本語のkowe(声)に関係があると思われるのが、古代中国語のkhuw(口)クウです。古代中国語のkhuw(口)のような語が、口を意味しようとしたが叶わず、口から発せられる言葉や音を意味するようになったと考えると、合点がいきます。

筆者はこのように、高句麗語の「忽次、古次」と高句麗語の「串」は類義語(つまり別々の語)であったと考えています。

※Beckwith氏と同じように、筆者もなぜ高句麗人が口を意味する語を「串」と書き表したのか戸惑いました。前回の人を惑わせる万葉仮名、ひらがなとカタカナの誕生の記事で説明した日本人の場合のように、高句麗人が「忽次、古次」という漢字を選んだ際の方針と、「串」という漢字を選んだ際の方針が異なっていたのかとも考えました。

maという音を書き表すのに、「麻」や「磨」のような漢字を使うか、「真」や「間」のような漢字を使うかという問題です。中国語の「麻」や「磨」の発音はmaと同じか似ていますが、中国語の「真」や「間」の発音はmaと全然違います。maという音から日本語のある語を思い浮かべ、その語と意味的に対応する漢字が「真」や「間」なのです。

日本語にkuti(口)と×kuti(串)という語があれば、そのような可能性も検討できなくはないですが、実際にあるのは、kuti(口)とkusi(串)です。高句麗人が意味的な動機から口を意味する語を「串」と書き表したと考えるのは、困難と言わざるをえません。高句麗人は、表したい音と同じ音または似た音を持つ漢字を使うという方針に徹しているように見えます。

高句麗人が「忽次、古次」と書き残しただけだったら単純な話でしたが、「串」とも書き残したために混乱が発生しました。

日本語のkowe(声)と高句麗語の「串」が古代中国語のkhuw(口)のような語から来たのなら、日本語のkuti(口)と高句麗語の「忽次、古次」はどこから来たのでしょうか。

日本語のme(目)の語源とmimi(耳)の語源はすでに明らかにしましたが、me(目)もmimi(耳)ももともと身体部位を表す語ではありませんでした。kuti(口)ももともと身体部位を表す語ではなかった可能性が高いです。kuti(口)はもともとなにを意味していたのでしょうか(写真はVerygood様のウェブサイトより引用)。

古代中国語のhwet(穴)フエトゥ、khwot(窟)クオトゥ、gjut(堀)ギウトゥ、gjut(掘)ギウトゥなどの語が気になります。kuti(口)の語源については、別に一つ記事を設け、そこで論じることにしましょう。

 

参考文献

Beckwith C. I. 2004. Koguryo: The Language of Japan’s Continental Relatives. Brill Academic Publishers.

人を惑わせる万葉仮名、ひらがなとカタカナの誕生

「ひらがな」と「カタカナ」はおなじみですが、「万葉仮名」と言われると首をかしげてしまう人もいるのではないでしょうか。ひらがなとカタカナが文字の集まりであるように、万葉仮名も文字の集まりです。

重要な前提ですが、奈良時代の日本語の発音体系は、現代の日本語の発音体系と少し異なっていました。

現代の日本語

奈良時代の日本語

現代の日本語のaという音を「あ」と書く、iという音を「い」と書く、uという音を「う」と書く、eという音を「え」と書く、oという音を「お」と書く・・・。これがひらがなです。ひらがなはシンプルです。

現代の日本語のaという音を「ア」と書く、iという音を「イ」と書く、uという音を「ウ」と書く、eという音を「エ」と書く、oという音を「オ」と書く・・・。これがカタカナです。カタカナもシンプルです。

ところが、奈良時代の日本には、まだひらがなとカタカナがありませんでした。奈良時代の日本語を書き表そうとすると、漢字を使うしかなかったのです。

実は、奈良時代の日本語のaという音を書き表すのに、いくつもの漢字が使われていました。iからwoまでの各音についても、同様です。一つの音に対していくつもの漢字が使われていたのです。表中のaのところに漢字をたくさん詰め込んでください。表中のiからwoまでのところにも漢字をたくさん詰め込んでください。万葉仮名とは、そういうものだったのです。万葉仮名は漢字の集まりです。

ひらがなとカタカナの文字数はごく限られていますが、万葉仮名の文字数は膨大です。万葉仮名は、ひらがなとカタカナのように簡単にまとめて示すことができないのです。万葉仮名をひらがなとカタカナのようにイメージしにくい理由がここにあります。

そのような途方もない万葉仮名を前にすれば、だれしも思うでしょう。aという音を表す漢字は一つでよいのではないか、iという音を表す漢字は一つでよいのではないか、uという音を表す漢字は一つでよいのではないか、eという音を表す漢字は一つでよいのではないか、oという音を表す漢字は一つでよいのではないかと。実際、昔の日本人はそのようにしたのです。

aという音を書き表すのに使われていた漢字の中に、「安」という漢字がありました。この「安」という漢字を少し崩します(以下に挙げる各字体はWikipediaより引用)。

iという音を書き表すのに使われていた漢字の中に、「以」という漢字がありました。この「以」という漢字を少し崩します。

uという音を書き表すのに使われていた漢字の中に、「宇」という漢字がありました。この「宇」という漢字を少し崩します。

eという音を書き表すのに使われていた漢字の中に、「衣」という漢字がありました。この「衣」という漢字を少し崩します。

oという音を書き表すのに使われていた漢字の中に、「於」という漢字がありました。この「於」という漢字を少し崩します。

このように、万葉仮名の中からわずかな漢字を選び出し、それらをもとにひらがなを作りました。ひらがなのもとになった漢字の一覧は、以下の通りです(Wikipediaより引用、一部改変)。

カタカナの場合も同様で、やはり万葉仮名の中からわずかな漢字を選び出し、それらをもとにカタカナを作りました。

※漢字そのものは漢語の中に出てくるので、それを変形したひらがなとカタカナという新しい文字体系を作り出すのが合理的だったのでしょう。

こうして作られたひらがなとカタカナが普及し、一般的には万葉仮名は忘れ去られてしまった感があります。しかし、日本語の起源や歴史を考える時に最も重要な奈良時代の日本語は万葉仮名で書き表されており、この点で万葉仮名の存在を無視することはできません。

万葉仮名には、人を惑わせるところもあります。例として、万葉仮名のマ行を見てみましょう。

奈良時代の日本語のマ行の音(ma、mi甲類、mi乙類、mu、me甲類、me乙類、mo)を表すのに、以下の漢字などが使われていました(一部しか挙げていません)(上代語辞典編修委員会1967)。

上に示した漢字は、ある方針に基づいて選ばれています。表したい日本語の音と同じ音または似た音を持つ漢字を使うという方針です。これは、日本人以外の外国人にとってもわかりやすいのではないかと思います。

しかし、それとは別の方針で漢字を選んでいる場合も結構あるのです。例えば、maという音を「真」や「間」と書き表したり、mi甲類という音を「三」や「水」と書き表したり、me甲類という音を「女」や「婦」と書き表したりします。発音の観点からすると、古代中国語のtsyin(真)チインやkɛn(間)ケンはmaに似ていません。古代中国語のsam(三)やsywij(水)シウイもmi甲類に似ていません。古代中国語のnrjo(女)ニオやbjuw(婦)ビウもme甲類に似ていません。これらの漢字は、先ほどの方針とは全く違う方針に基づいて選ばれています。表したい日本語の音から日本語のある語を思い浮かべ、その語と意味的に対応する漢字を使うという方針です。これは、特に日本人以外の外国人にとってはわかりにくいのではないかと思います。

独自の文字を持たなかった日本人は、自分たちの言語を漢字で書き表さなければなりませんでした。上で説明した二つの方針が混ざり合った万葉仮名から、日本人が自分たちの言語を漢字でどのように書き表したらよいか思案していたことが窺えます。

同じような状況に置かれたであろう高句麗人はどうだったのでしょうか。独自の文字を持たなかった高句麗人も、自分たちの言語を漢字で書き表さなければなりませんでした。表したい高句麗語の音と同じ音または似た音を持つ漢字を使うという方針があったことは間違いありません。しかし、この方針だけだったのでしょうか。それとも、日本人の場合のように別の方針もあったのでしょうか。

高句麗語の話に戻りましょう。

 

参考文献

上代語辞典編修委員会、「時代別国語大辞典 上代編」、三省堂、1967年。

「畳(たたみ)」の語源、畳まないのになぜ畳と言うのか

前回の記事では、水を意味するtat-のような語があり、この語が陸に上がろうとしていたことをお話ししました。tat-のような語が陸に上がって、盛り上がった土地、丘、山、高さを意味することはあったのでしょうか。結論を先に言うと、あったようです。

山を意味した*tata

日本語にyama(山)という語がありますが、山を意味したのはyamaという語だけではありません。*kasaという語も山を意味していたはずです。日本語のkasa(笠)、kasa(傘)、kasa(嵩)、kasamu(嵩む)、kasanaru(重なる)/kasaneru(重ねる)などの語彙を見ればわかります。*kasaという語だけでなく、*tataという語も山を意味していたようです。

そのことを知るための手がかりが、tatami(畳)にあります。tatami(畳)というのは、tatamu(畳む)という動詞の名詞形です。皆さんはtatamu(畳む)という動詞とtatami(畳)という名詞を見て、なんか変だなと思ったことはないでしょうか。筆者は、畳まないのになぜ畳と言うのだろうと思っていました。

畳を外見がよく似ているござと比べてみてください。違いはなんでしょうか。畳は明らかに厚いです。なぜ厚いかというと、畳は以下のようにして作られているからです(図は坂本畳店様のウェブサイトより引用)。

畳は、畳床(たたみとこ)と畳表(たたみおもて)で構成されています。畳床は藁(わら)でできており、畳表は藺草(いぐさ)でできています。畳表の部分は、まさにござそのものです。ポイントは、畳床の部分です。畳床の部分は、藁を積み重ね、それを圧縮することによって作られています。だから畳は厚いのです。

tatamu(畳む)という動詞のもともとの意味は、現代の「畳む」より、現代の「重ねる」に近かったと見られます。奈良時代には、tatamu(畳む)と同じ使われ方をするtatanu(畳ぬ)という動詞もありました。山を意味する*kasaという語からkasamu(嵩む)とkasanu(重ぬ)という動詞ができ、山を意味する*tataという語からtatamu(畳む)とtatanu(畳ぬ)という動詞ができたのでしょう。

山を意味する*tataという語が存在したことは、以下の考察からも明らかです。

高いことを意味した*tata

人が視線を上に向けているところです。ラテン語のarduus(高い)と古代ギリシャ語のorthos(まっすぐな、正しい)オルトスが示すように、「高い→まっすぐな→正しい」という意味変化はよく起きます。まっすぐなことを意味していた語がよいことを意味するようになり、曲がっていること・傾いていることを意味していた語が悪いことを意味するようになるわけです。

日本語のtadasi(正し)のtada(正)も、このような歴史を持っているようです。上の図のようになにかが上に伸びている、そびえているのを見て、*tataと言っていたと見られます。この*tataから、tate(縦)、tatu(立つ)、tatu(建つ)、tati(館)、tate(盾)などが生まれたのでしょう。tate(縦)とtate(盾)は、組み込まれたtata-という形も見せていました。濁っていますが、tada(直)とtada(正)も同源でしょう。

※日本語のtada(直)とtada(正)については、まっすぐなことを意味したり、正しいことを意味したりするベトナム語のthẳngタンやthẳng thắnタンタンとの関係を検討したこともありましたが、日本語の語彙全体の中での位置づけを考えると、上記の説明のほうがふさわしいと思われます。

ちなみに、まっすぐなことを意味するtadaと道を意味するti(iɸedi(家路)やtabidi(旅路)に組み込まれているti)がくっついて、tadatiという語ができました。この語は、一直線に向かう道を意味していました。意味が抽象的になりましたが、tadatini(ただちに)という形で現代の日本語に残っています。

このように、日本語の語彙は、山を意味したり、高いことを意味したりする*tataという語が存在したことを明白に物語っています。

山を意味する高句麗語の「達」と高いことを意味する高句麗語の「達、達乙」は、Beckwith氏の言うtarのような語ではなく、tatのような語を書き表したものと考えられます。高句麗語では、tatのような語が山を意味したり、高いことを意味したりしていたということです。これで、高句麗語の語彙と日本語の語彙がさらにつながりました。

しかしながら、Beckwith氏らの主張を完全に無視することはできません。ここから話が複雑になります。Beckwith氏らの主張というのは、古代中国語のdat(達)の末子音tが中国語の一部の方言でrのように変化し、そのために朝鮮語では「達」という字をtarと読んでいたのだという主張です(Beckwith 2004)。筆者もこの主張は正しいだろうと考えています。

ポイントは、古代中国語の末子音tが中国語の一部の方言でrのように変化したということです。

日本語では、「正」という字がsyauと読まれる場合と、seiと読まれる場合がありました。同じように、「明」という字がmyauと読まれる場合と、meiと読まれる場合と、minと読まれる場合がありました。中国語と長く付き合っていれば、一つの漢字に対して複数の読みが蓄積することもあります。ここで注目したいのは、新しい読みが取り入れられたからといって、古い読みは全面的に排除されなかったということです。日本語ではむしろ、新しい読みと古い読みが堂々と混在しています。

筆者は、古代中国語の末子音tがrのように変化する前の読み方も変化した後の読み方も高句麗に存在したのではないかと考えています。

例えば、高句麗語の「乃勿」という語が記録されており、鉛を意味する語であると中国語で説明されています。

高句麗語の「乃勿」・・・鉛を意味する

Beckwith氏は高句麗語の「乃勿」の発音を*namurと推測しています。Beckwith氏が推測するように、末子音はrでしょう。日本語のnamari(鉛)とよく合います。

ちなみに、高句麗語の「勿」という語も記録されており、梁を意味する語であると中国語で説明されています。

高句麗語の「勿」・・・梁を意味する

Beckwith氏は高句麗語の「勿」の発音を*murと推測しています。Beckwith氏が推測するように、末子音はやはりrでしょう。「木(き)」の語源、木には様々な木がある(改訂版)の記事の終わりのほうで柱、梁、桁の話をしましたが、高句麗語の「勿」ももともと木を意味していたと見られます。奈良時代の日本語でネズ(日本に広く見られる樹種で、庭木、生垣、盆栽などにも使われてきました)を意味したmuroと関係がありそうです。mori(森)やmoro(諸)とも無関係でないでしょう。これらはすべて、水・水域を意味していた語がその横の部分、草、木、森、山、緑などを意味するようになるパターンです(moro(諸)については、数詞の起源について考える、語られなかった大革命を参照)。

古代中国語のdat(達)の末子音はtで、古代中国語のmjut(勿)ミウトゥの末子音もtでした。日本語での「達」と「勿」の読み、そして朝鮮語での「達」と「勿」の読みは、以下の通りです。

日本語と朝鮮語での読みは、古代中国語の末子音tが中国語の一部の方言でrのように変化したことをよく示しています。そのような変化が起きる時代に、高句麗は存在していたのです。高句麗はこの変化の影響を受けていたと思われます。そう考えると、高句麗人がtatのような語を「達」と書き表したり、murのような語を「勿」と書き表したりしたことが理解できます。

これはなかなかややこしいことです。

高句麗語の「毛乙」という語も記録されており、円を意味する語であると中国語で説明されています。

高句麗語の「毛乙」・・・円を意味する

この「毛乙」はどう読めばよいでしょうか。上で説明したように、古代中国語のit(乙)の末子音tも中国語の一部の方言でrのように変化しました。その通り、「乙」の読みは日本語ではoti/itu/otu、朝鮮語ではɯlウル(古形ur/or)です。

Beckwith氏は高句麗語の「毛乙」の発音を*mawrと推測しています。末子音はrであるという判断です。末子音がrなら、高句麗語の「毛乙」は日本語のmaru(丸、円)に対応する語でしょう。

しかし、末子音はrではなくtである可能性もあります。「目(め)」の語源の記事で触れましたが、日本語にはmatoka(円か)/matoyaka(円やか)という語もあったのです。当然、mato(的)も関係があると考えられます。末子音がtなら、高句麗語の「毛乙」は日本語のmato(的)、matoka(円か)/matoyaka(円やか)に対応する語でしょう。

高句麗語は漢字で書き残されただけなので、このような難問が生じます。末子音tがrのように変化しても、「達」という漢字は変わらないし、「勿」という漢字も、「乙」という漢字も変わらないのです。漢字の難しいところです。

もう一つ全く違うタイプの難問を紹介しましょう。

 

補説

浅いことを意味する高句麗語の「比烈」

山を意味したり、高いことを意味したりした高句麗語の「達、達乙」という語について論じましたが、高句麗語の「比烈」という語も記録されています。浅いことを意味する語であると中国語で説明されています。

高句麗語の「比烈」・・・浅いことを意味する

Beckwith氏が推測するように、高句麗語の「比烈」がpir-のような語を書き表したものであることは間違いないでしょう。Beckwith氏は、高句麗語の「比烈」を日本語のɸira(平)に結びつけようとしています。

浅いことを意味する高句麗語の「比烈」は、水を意味するpark-、pirk-、purk-、perk-、pork-(par-、pir-、pur-、per-、por-、pak-、pik-、puk-、pek-、pok-)のような語から来ていると考えられます。

日本語のɸira(平)もここから来ていると考えられます。水を意味していた語がその横の平らな土地を意味するようになるパターンです。しかし、これはあまり本質的でないと思われます。

重要なのは、水を意味するpark-、pirk-、purk-、perk-、pork-(par-、pir-、pur-、per-、por-、pak-、pik-、puk-、pek-、pok-)のような語が、浅いところを意味するようになり、そこからさらに、明るさ・明かりを意味するようになったことです。このようにして生まれたのが、日本語のɸi(日)、ɸiru(昼)、ɸirameku(閃く)、ɸikaru(光る)などでした(太陽と火を意味する言葉、日本語の「日(ひ)」と「火(ひ)」から考えるを参照)。

浅いところを意味していた語が明るさ・明かりを意味するようになるというのが核心部分です。日本語のasa(浅)とasa(朝)も同源でしょう。

この意味で、高句麗語の「比烈」は、日本語のɸira(平)よりも、日本語のɸi(日)、ɸiru(昼)、ɸirameku(閃く)、ɸikaru(光る)などと密接な関係にあると考えられる語です。

水を意味していた語が浅いところを意味するようになり、浅いところを意味していた語が明るさ・明かりを意味するようになる、高句麗語の「比烈」は、そのような展開が実際にあることを改めて示しています。

深いことを意味する高句麗語の「伏」が日本語のɸuka(深)と完全に一致していたことも思い出してください。

 

参考文献

Beckwith C. I. 2004. Koguryo: The Language of Japan’s Continental Relatives. Brill Academic Publishers.