「瞳(ひとみ)」の奥に隠された歴史

シナ・チベット語族の「目」

現代の中国語では、目のことをyǎn jing(眼睛)イエンチンと言います。しかし、中国語でもともと目を意味していたのは、mjuwk(目)ミウクです。目を意味する語が変わった珍しいケースです。それでも、古代中国語のmjuwk(目)は、跡形もなく消え去ったわけではなく、現代の中国語のあちこちに残っています。シナ・チベット語族には、古代中国語のmjuwk(目)と同源の語が広がっており、チベット語のmig(目)やミャンマー語のmyeʔsi(目)ミエッスィなどがあります。

ベトナム系言語のベトナム語mắt(目)マ(トゥ)のような語が日本語にma(目)という形で入りましたが、シナ・チベット語族の古代中国語のmjuwk(目)、チベット語のmig(目)、ミャンマー語のmyeʔsi(目)のような語も日本語に*mi(目)という形で入ろうとしたと見られます。目を意味することができなくなった語が真っ先に意味するのは、見ることです。奈良時代の日本語のmiru(見る)、misu(見す)、miyu(見ゆ)は、シナ・チベット語族の「目」から来たと考えられます。現代の日本語では、misu(見す)はmiseru(見せる)になり、miyu(見ゆ)はmieru(見える)になっています。

上記の*mi(目)は、miru(見る)、miseru(見せる)、mieru(見える)だけでなく、hitomi(瞳)にも組み込まれて残ったのではないかと思われます。hitomi(瞳)の推定古形は*pitomi(瞳)です。瞳の意味を確認しておきましょう(図は参天製薬様のウェブサイトより引用)。

日本人の目は大体こんな感じでしょう。白い部分に囲まれた色の付いた部分が虹彩(こうさい)です。虹彩の真ん中にあいている穴が瞳孔(どうこう)です。周囲の明るさ・暗さに応じて、この穴の大きさがコントロールされます。虹彩と瞳孔の手前側は、角膜(かくまく)という透明な膜で覆われています。瞳は、瞳孔を意味したり、瞳孔を含む虹彩を意味したりします。hitomi(瞳)の推定古形の*pitomi(瞳)の*pitoの部分が暗さ・黒さを意味し、*miの部分が目を意味していたのではないかと思われます。現代の日本語にkurome(黒目)という言い方があるのを考えても、その可能性が高いです。

少し脱線

前に、数詞の起源について説明したことがありました(数詞の起源について考える、語られなかった大革命を参照)。

水を意味していた語が、水を意味することができなくなり、その横の部分を意味するようになる話です。例えば、上のような構図から、pitoが、二つあるうちの一つ(一方)を意味するようになったり、二つあるうちのもう一つ(他方)を意味するようになったり、二つあるうちの二つ(両方)を意味するようになったりする可能性があります。

水を意味するpitoのような語があったことは、hitaru(浸る)、hitasu(浸す)、bityabitya(びちゃびちゃ)、bityobityo(びちょびちょ)、bisyabisya(びしゃびしゃ)、bisyobisyo(びしょびしょ)などの語を見ればわかります。

水を意味していた語が、水を意味することができず、雨を意味することもできず、「落下、下方向、下」を意味するようになる頻出パターンを思い出してください。水を意味するpit-のような語も、「落下、下方向、下」を意味することがあったにちがいありません。

pit-と近い関係にあるpat-は、bataʔ(ばたっ)、battari(ばったり)、batabata(ばたばた)のように「落下、下方向、下」を意味するようになっているし、pit-と近い関係にあるpot-も、potapota(ぽたぽた)、potupotu(ぽつぽつ)、potopoto(ぽとぽと)のように「落下、下方向、下」を意味するようになっています。

こうして見ると、「水」→「雨」→「落下、下方向、下」という意味変化が頻出パターンであることが改めてよくわかります。そうなると、「落下、下方向、下」を意味するところで終わらない語が次々に出てきます。

kurome(黒目)のkuro(黒)は、kura(暗)とともに、「落下、下方向、下」という意味から変化してきた語でした(日没の時間、明るさと暗さについての再考を参照)。(日が)落ちることを意味していた語が、暗さ・黒さを意味するようになるのでした(kuru(暮る)はkura(暗)/kuro(黒)と同源ということです)。yami(闇)もこのパターンでした(前記の記事を参照)。同じように、*pitomi(瞳)の*pitoも、「落下、下方向、下」を意味していて、暗さ・黒さを意味するようになった可能性があります。

この可能性は高そうです。

日本語のhisomu(ひそむ)、hisomeru(ひそめる)、hisohiso(ひそひそ)、hisohiso(ひっそり)、hisoyaka(ひそやか)、hisoka(ひそか)などの語彙は、それぞれかなり抽象化していますが、かつて「落下、下方向、下」を意味する*pisoという語があったことを強く示唆しています。

hisomeru(ひそめる)からいきましょう。

「声をひそめる」と言いますが、これは声を小さくすること、別の言い方をすれば、声を落とすこと、声を低くすることです。hisohiso(ひそひそ)も同じところから来ているでしょう。

「眉をひそめる」とも言います。眉間にしわを寄せる動作という理解で正しいですが、他の語彙との関連を考えると、もともと以下の図のように眉を下へ動かすことを意味していたと見られます。

hisomu(ひそむ)は、「潜む」と書かれることが多いですが、沈むことを意味していたのではないかと思われます。水中に隠れるところから、一般に隠れることを意味するようになったのでしょう。hisomu(ひそむ)が隠れることを意味し、hisomeru(ひそめる)が隠すことを意味するようになるわけです。

sita(下)がsizumu(沈む)とsizuka(静か)(古形はsidumu(沈む)とsiduka(静か))と同源であることを考えれば、hissori(ひっそり)、hisoyaka(ひそやか)、hisoka(ひそか)などもすんなり理解できるでしょう。最初は静かなことを意味していて、そこに、知られないようにする、秘密にするなどの意味が加わったのでしょう。

「落下、下方向、下」を意味する*pito、*pisoあるいはこれらに似た形の語があった可能性はやはり高いです。

今回の「目」の話のついでに、日本語のmayu(眉)にも言及しておきましょう。奈良時代にはmayo(眉)でした。これは、ベトナム語のmày(眉)マイに非常によく似ています。古代中国語のmij(眉)ミイにもいくぶん似ています。日本語、ベトナム系言語、シナ・チベット語族以外の周辺言語の「眉」を調べても、さらに「目」と「毛」を調べても、上記のような語は見られないので、日本語のmayu(眉)とベトナム語のmày(眉)と古代中国語のmij(眉)の間になんらかの関係があることは間違いありません。「目」を意味する語ほどではありませんが、「眉」を意味する語も結構変わりにくいです。隋・唐の頃の古代中国語のmij(眉)と比べて、日本語のmayu(眉)とベトナム語のmày(眉)の形がやや異なっているので、もっともっと古い殷~周~春秋・戦国~秦・漢の頃の古代中国語(時代差・地域差があります)の「眉」が、日本語のmayu(眉)とベトナム語のmày(眉)になったのかもしれません。

ベトナム系言語の「目」、タイ系言語の「目」、シナ・チベット語族の「目」と見てきました。次は、いよいよモンゴル系言語の「目」です。

日本語が来た道:遼河流域→山東省→朝鮮半島→日本列島

日本語は遼河流域からどのようにして日本列島にやって来たのかという核心的な問題に、いよいよ踏み込みましょう。Robbeets 2021の図を再び掲げます。

実際にどのような歴史展開があったのか考えず、単純に地図だけを見れば、遼河流域から直接朝鮮半島に移動し、朝鮮半島から日本列島に移動するのが一番手っ取り早く思えるでしょう。しかし、本記事の前の三つの記事でお話ししたように、紀元前1500年頃(つまり3500年前頃)から、遼東半島、山東省あるいはその両方から朝鮮半島にイネの栽培を導入した人たちが、先住民である狩猟採集民(かつてのアワ・キビの栽培が衰えてしまったことはすでに述べました)を圧倒する形で、朝鮮半島を支配するようになりました。そして、イネの栽培を行う人たちが支配するようになった朝鮮半島から日本語が日本列島にやって来ました。

そのようなわけで、日本語は遼河流域から遼東半島を通ってやって来たのか、それとも、遼河流域から山東省を通ってやって来たのかという点が焦点になります。しかしながら、言語だけに限った話ではないのですが、遼河流域にあったものが遼東半島を通って朝鮮半島に入る流れは盛んに注目されているものの、遼河流域にあったものが山東省を通って朝鮮半島に入る流れは驚くほど注目されていません。考古学は近年すばらしい進歩を遂げていますが、その考古学でも遼河流域から山東省を通って朝鮮半島に入る流れはまだ注目されていません。それだけ難しい問題あるいは気づきにくい問題なのです。確かに、山東省は遼河流域ではなく、黄河下流域にあるので、遼河流域と山東省の結びつきについて考える動きが鈍いのはよくわかります。

本ブログでもよく「遼河文明、黄河文明、長江文明」と言っていますが、遼河流域の歴史展開と、黄河流域の歴史展開と、長江流域の歴史展開は全然別々のものではなく、時代によって、遼河流域のある部分と黄河流域のある部分に密接なつながりがあったり、黄河流域のある部分と長江流域のある部分に密接なつながりがあったりします。

日本語は実は、遼河流域にあったものが山東省を通って朝鮮半島に入る流れがあったことをまざまざと示している言語です。(1)モンゴル系の言語から日本語に語彙が入り、(2)シナ・チベット語族の言語から日本語に語彙が入り、(3)タイ系の言語から日本語に語彙が入り、(4)ベトナム系の言語から日本語に語彙が入る様子を見てみましょう。(1)~(4)のことがセットで可能になるのは、どんな場合でしょうか。日本語が遼河流域から直接朝鮮半島に入った場合では、無理でしょう。日本語が遼河流域から遼東半島を通って朝鮮半島に入った場合でも、無理そうです。(1)~(4)のことがセットで可能になるのは、日本語が遼河流域から山東省を通って朝鮮半島に入った場合なのです。

※遼河文明の要素は、遼河流域から直接朝鮮半島に入ることもあったし、遼河流域から遼東半島を通って朝鮮半島に入ることもあったし、遼河流域から山東省を通って朝鮮半島に入ることもありました。日本語が遼河流域から山東省を通って朝鮮半島に入ったとしても、日本語に系統的に近い言語が、遼河流域から直接朝鮮半島に入ったり、遼河流域から遼東半島を通って朝鮮半島に入ったりした可能性は十分にあります。ここでは、日本語に系統的に近い言語ではなく、日本語そのものの移動ルートを問題にしています。同一の起源を持つ言語がそれぞれ違う方向に広がっていくのは、当然のことです。

この記事は、考古学の話を続ける前にはさんだつなぎの記事で、考古学の話を続ける前に簡単なスケッチを見せることを目的としています。ここでは、モンゴル系言語で「目」を意味する語が日本語に入ってくるところ、シナ・チベット語族の言語で「目」を意味する語が日本語に入ってくるところ、タイ系言語で「目」を意味する語が日本語に入って来るところ、ベトナム系言語で「目」を意味する語が日本語に入ってくるところを捉えます。

「目」を意味する語は、他の語とはわけが違います。人間の言語の語彙の中で自然に関する語彙と身体部位を表す語彙は変化しにくいですが、自然に関する語彙の中で最も変化しにくいのが「水」を意味する語で、身体部位を表す語彙の中で最も変化しにくいのが「目」を意味する語です。たとえ、「水」を意味していた語が「水」を意味することができなくなっても、「目」を意味していた語が「目」を意味することができなくなっても、残り方に大きな特徴があります。

前に、「目(め)」の語源の記事で、ウラル語族の「目」について論じましたが、ウラル祖語で「目」を意味していた語が、現代のウラル語族のすべての言語でも「目」を意味しているという驚くべき状況になっていました。

「目」を意味する語は、このぐらい変化しにくいのです。

実際、モンゴル系言語の「目」を見ても、シナ・チベット語族の「目」を見ても、タイ系言語の「目」を見ても、ベトナム系言語の「目」を見ても、ほとんど変化していません。過去の記事のおさらいを含みますが、ベトナム系言語の「目」→タイ系言語の「目」→シナ・チベット語族の「目」→モンゴル系言語の「目」の順に見ていきましょう。

ちなみに、ベトナム系言語の「目」はベトナム語のmắt(目)マ(トゥ)ような語、タイ系言語の「目」はタイ語のtaa(目)のような語、シナ・チベット語族の「目」は古代中国語のmjuwk(目)ミウクのような語、モンゴル系言語の「目」はモンゴル語のnüd(目)ヌドゥのような語です。

ベトナム系言語の「目」

ベトナム系言語のベトナム語mắt(目)マ(トゥ)のような語は、日本語にma(目)として入り、のちにme(目)に変化しました(この変化はta(手)がte(手)になったのと同じ変化です)。

日本語のma(目)はわかりやすいですが、日本語のmatu(待つ)も見逃してはいけません。目を意味することができなくなった語が、なにを意味するようになるか考えてみてください。目を意味することができなくなった語が、見ることを意味するようになるのは超頻出パターンです。しかし、超頻出パターンなので、目を意味することができず、見ることを意味することもできない語が出てきます。目を意味することができず、見ることを意味することもできない語は、なにを意味するようになるのでしょうか。実は、以下の頻出パターンがあります。

ある人が立っています。親しい人が来るのを待っています。どんな様子でしょうか。親しい人が来ると予想される方向をずっと見たり、ちらちら見たりしているのではないでしょうか。見ることを意味していた語が、待つこと、待ち望むこと、望むことを意味するようなるのは頻出パターンなのです。

例えば、英語のexpect(期待する)はこのパターンです。ラテン語で、外を意味するexと見ることを意味するspectareから、待つことを意味するexspectareが生まれ、これが英語のexpect(期待する)になりました。

ちなみに、英語のwait(待つ)も見ることを意味していた語です。ただし、敵対的な視線を意味していました。待ち伏せしたり、待ち構えたりするような感じです。そこから、敵対的な意味が薄れて、一般に待つことを意味するようになりました。これも、見ることを意味する語が待つことを意味するようになったケースです。ともかく、見ることと待つことには密接な関係があります。

上の「目」→「見ること」→「待つこと、待ち望むこと、望むこと」という意味変化は重要で、後でまた出てくるので覚えておいてください。

タイ系言語の「目」

タイ語のnaam(水)、taa(目)、naam taa(涙)は、本ブログで何度も取り上げており、おなじみでしょう(タイ語は、日本語と違って、うしろから修飾します)。

日本語のnama(生)(焼いたり、干したりしておらず、水っぽいという意味です)やnami(波)から、タイ系言語の話者が近くにいてnaam(水)のように言っていたことがわかります。

日本語のnamida(涙)(奈良時代にはnamita、namuta、namida、namudaという形がありました)から、タイ系言語の話者が近くにいてnaam taa(涙)のように言っていたことがわかります。

タイ系言語の話者がnaam(水)、naam taa(涙)のように言うのを聞いていたのなら、タイ系言語の話者がtaa(目)のように言うのも聞いていたはずです。おそらく、このtaa(目)のような語も日本語に入ろうとしたが、他の語に押し負け、namida(涙)に組み込まれて残ることしかできなかったと思われます。

ベトナム系言語の「目」とタイ系言語の「目」は上のようにして日本語に入りましたが、シナ・チベット語族の「目」とモンゴル系言語の「目」はどのように日本語に入ったのでしょうか。

長くなるので、ここでいったん切ります。

※ウラル語族の「目」(フィンランド語のsilmä(目)スィルマのような語)に日本語のziroʔ(じろっ)、ziroziro(じろじろ)、zirori(じろり)が対応していることは、「目(め)」の語源の記事でお話ししました。日本語ではかつて、*siro(目)と言っていたわけです。sira(白)→siro(白)という発音変化があったので、*sira(目)がもとの形かもしれません。

「じっと見る」のziʔ(じっ)も、ziroʔ(じろっ)、ziroziro(じろじろ)、zirori(じろり)と同源でしょう。ziʔ(じっ)は、見ることを表していたが、待つことなども表すようになり、とどまって動かないという意味が生まれてきたと見られます。

 

参考文献

Robbeets M. et al. 2021. Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature 599(7886): 616-621.

農耕民と狩猟採集民が出会う時、新しくやって来た農耕民は実は・・・

朝鮮半島の櫛文土器時代から無文土器時代への変化はかなり急激でした。

激動の時代、うまくいかなくなったアワとキビの栽培、うまくいかなくなったイネの栽培の記事でお話ししたように、イネの栽培が導入された無文土器時代のはじめから、朝鮮半島の人口は爆発的に増加しました。単純に、イネの栽培を行う人たちが朝鮮半島に入ってきて、その人たちが急激に増加したのかなと考えたくなりますが、これは、イネの栽培が伝わる前から朝鮮半島にいた人たちのことを無視しています。無文土器時代のはじめにイネの栽培を導入した人たちは、櫛文土器時代からいた人たちとなんらかの形で接触したはずであり、そこでなにがあったのか考えなければなりません。

櫛文土器が広がる朝鮮半島が、無文土器が広がる朝鮮半島に変化しましたが、考古学調査で全く同じ場所から櫛文土器と(早期の)無文土器の両方が出てくることは非常に少ないのです(Kim 2002、2003)。前回の記事で使用したKim 2006の図を再び掲げます。

イネの栽培が伝わる少し前の朝鮮半島では、かつてのアワ・キビの栽培は衰え、狩猟採集の性格が強い生活を送っていました(Ahn 2015)。Residential Siteは、狩猟採集民の生活の本拠(現代人にとっての家のようなもの)で、patchは、なんらかの食べ物がとれる場所です。Residential Siteから、様々なpatchへ出かけています。

全く同じ場所から櫛文土器と(早期の)無文土器の両方が出てくることは非常に少ないと述べましたが、特に、狩猟採集民のResidential Siteだった場所から櫛文土器と(早期の)無文土器の両方が出てくることが極端に少ないのです(Kim 2002、2003)。イネの栽培を行う人たちが朝鮮半島に入ってきて、狩猟採集民のResidential Site以外の場所に進出していったことが窺えます。イネの栽培を行う人たちがやって来た時の朝鮮半島の人口密度はとても低く、いきなり狩猟採集民と対立するようなことをする必要はなかったでしょう。

確かに、移民である農耕民が先住民である狩猟採集民に物理的に襲いかかるという展開にはなっていませんが、問題はなかったのかというと、決してそうではなかったはずです。イネの栽培を行う人たちは完全な農耕民であり、土地を確保して、そこを立入禁止にするという行動に出たことは間違いありません。これをしないと、栽培が成り立ちません。激動の時代、うまくいかなくなったアワとキビの栽培、うまくいかなくなったイネの栽培の記事で示したように、イネの栽培を行う人たちがやって来てから、朝鮮半島の人口は爆発的に増加しました。

Kim Jangsuk氏は、狩猟採集民は上の図のようにResidential Siteを中心として様々なpatchに食べ物を取りに行く生活を送っていたが、農耕民がpatchを含む土地を占有したり、patchに向かう途中の土地を占有したりしたために、狩猟採集民はかつての広く動きまわる生活を送れなくなってしまったと考えています(Kim 2002、2003)。狩猟採集民は一つのpatchにずっといるわけではないし、季節に合わせた移動でpatch全体が変わることもあります。農耕民に入り込まれてしまう「隙」が十分にあるのです。そして、農耕民は一度陣取ったら、もう動きません。狩猟採集民は、少し前まで自由に立ち入りできた土地が立入禁止になっているのをずいぶん経験したはずです。狩猟採集民にとっては、面食らう事態だったでしょう。しかも、そういうことをする農耕民がどんどん増えるのです。農耕民は一定の土地を確保して立入禁止にし、そこで栽培を行いますが、狩猟採集民が送ってきたなじみの生活は、それとは全然違います。

Kim氏が考えるように、狩猟採集民が生き残るためには、最終的には、ほぼすべてにおいて農耕民のやり方に従う形で、農耕民の社会に入れてもらうしかなかったと思われます(狩猟採集民が農耕民のいないところで生きようとしたこともあったでしょう。しかし、農耕民の爆発的な増加があっては、それはわずかな延命にしかならなかったでしょう)。朝鮮半島の考古学調査を見ても、単にイネの栽培が伝わっただけではないのです(Kim 2002、2003)。日々使用する各種道具類も、家も、墓も、櫛文土器時代にはなくて無文土器時代に現れたものが急速に支配的になります(現代人にとっては、墓は「たまに墓参りに行くかな」ぐらいの存在でしかないと思いますが、古代人にとっては、もっと重要な存在だったようです。墓は、考古学の最も重要な研究対象の一つです。一族が固まって暮らしていた時代と、一族が完全に離散し、大勢の知らない人たちあるいは知っているが親族でない人たちの中に埋もれて暮らしている時代では、墓に対する意識も大きく変わったと見られます。墓については、別のところで考察しましょう)。理屈を言えば、イネの栽培に伴うのが無文土器である必然性はなく、イネの栽培に櫛文土器が伴ってもよいでしょう。しかし、櫛文土器はすぐに姿を消します。既存の文化にイネの栽培がちょこんと加わったなどという事態ではないのです。

新しくやって来た農耕民の文化が前からいた狩猟採集民の文化を圧倒する構図が窺えますが、実はこの話は単純ではありません。櫛文土器時代から無文土器時代への変化が急激で、櫛文土器がすぐに無文土器に取って代わられたというのは、その通りです。しかし、注目すべきことに、無文土器時代の早い段階から、無文土器は一様ではなかったのです(Kim 2008)。無文土器というのは、非常に大雑把な括りです。無文土器時代の早い段階から、地域によって明らかに異なるタイプの無文土器が分布していたのです。

皆さんも、日本の歴史について論じる際に、「日本人はどこから来たのか」という具合に、どこか一箇所から来たことを前提にしているような問いを聞いたことがあるでしょう。朝鮮半島の歴史について論じる際にも、多分にこの傾向がありました。

無文土器時代の朝鮮半島の無文土器に様々なタイプがあることは前から知られていましたが、これに対しても、まずある一つのタイプの無文土器が朝鮮半島にあり、そこから時間の経過とともに様々なタイプの無文土器が生まれたのだという説明が試みられました。特に、Ahn Jaeho氏が最も古い無文土器ではないかと突帶刻目文土器(または刻目突帶文土器)に注目してから、この方向性の研究が盛んになりました(Ahn 2000、Kim 2008)。

しかし、発見された土器の数が増え、年代測定技術が向上するにつれて、まずある一つのタイプの無文土器が朝鮮半島にあり、そこから時間の経過とともに様々なタイプの無文土器が生まれたのだという説明に疑問が呈されるようになってきました(Kim 2008、Hwang 2014、2015)。無文土器時代の最も早い段階に、ある一つのタイプの無文土器ではなく、複数のタイプの無文土器があったのではないかというわけです。

Kim氏が注意しているように、古代人の移動は過度に単純に考えられてしまうことがよくあります(Kim 2008)。Kim氏は現代のアメリカの韓国系移民社会を例に挙げながら説明していますが、筆者は非常に適切な説明だと思います。Kim氏は、現代のアメリカに韓国系移民社会ができたのは、家族レベルの移動が蓄積した結果であると述べています。韓国を出たいと思わせるような大きな要因あるいはアメリカに住みたいと思わせるような大きな要因があったとしても、移動の決定は家族レベルで下されていると述べています。

Kim氏は、朝鮮半島にイネの栽培を導入した農耕民はどこから来たのだろうと考えています。そして、朝鮮半島にイネの栽培を導入した農耕民は一様ではなかったのではないかと感じ始めています(イネだけでなく、コムギとオオムギも朝鮮半島に現れます(Robbeets 2021))。しかし、一様でない農耕民が同じぐらいの時期(紀元前1500年頃~)に一斉に行動を起こすのには、大きな理由が要ります。農耕民はどこか(ある広い地域)から来た、そしてそのどこか(ある広い地域)では、去ろうと思わせるような大きな現象または出来事が起きていた・・・。Kim氏の考えはここまで来ています。

ここから先は、筆者の考えを述べることにしましょう。

いったん話を言語学に移し、再び考古学に戻ることにします。

日本語の起源を解明するうえでの山場を迎えます。

 

参考文献

英語

Ahn S. et al. 2015. Sedentism, settlements, and radiocarbon dates of Neolithic Korea. Asian Perspectives 54(1): 113-143.

Kim J. 2003. Land-use conflict and the rate of the transition to agricultural economy: A comparative study of southern Scandinavia and central-western Korea. Journal of Archaeological Method and Theory 10(3): 277-323.

Kim J. 2006. Resource patch sharing among forages: Lack of territoriality or strategic choice? In Grier C. et al., eds., Beyond affluent foragers: Rethinking hunter-gatherer complexity, Oxbow Books, 168-190.

Robbeets M. et al. 2021. Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature 599(7886): 616-621.

その他の言語

Ahn J. 2000. 韓國 農耕社會의 成立. 한국고고학보 43: 41-66.(朝鮮語)

Hwang J. 2014. 중서부지역 무문토기시대 전기의 시간성 재고: 14C연대 분석을 중심으로. 한국고고학보 92: 36-79.(朝鮮語)

Hwang J. 2015. 청동기시대 전기 편년 연구 검토: 형식 편년과 유형론, 그리고 방사성탄소연대. 고고학 14(1): 69-98.(朝鮮語)

Kim J. 2002. 남한지역 후기신석기-전기청동기 전환: 자료의 재검토를 통한 가설의 제시. 한국고고학보 48: 93-133.(朝鮮語)

Kim J. 2008. 무문토기시대 조기설정론 재고. 한국고고학보 69: 94-115.(朝鮮語)