民主制御型資本主義

「民主制御型資本主義」という新しい政治・経済の構想を紹介していきます。

実は、筆者が最初に考えていたのは、格差の問題ではなく、GDPでした。格差の問題に入る前に、まずその話をします。

GDPは、「国内総生産」と訳され、教科書的には、「一定期間内に国内で生み出されたモノ・サービスの付加価値の合計」と説明されます(GDPについては、後で深く考察しましょう)。

皆さんも、新聞、テレビ、インターネットなどで、GDPという言葉をよく目にしているでしょう。毎年毎年、「GDPが何パーセント増えたか」ということが語られ、GDPが何パーセントか増えることが義務のようになっています。

一般に、なにかを改善しようという姿勢は悪くないけれども、パーセントで示される変化を強要するのはどうかと、筆者は考えていました。

もとの状態がAで、毎年3%の変化を強要してみましょう。

A × 1.03 × 1.03 × 1.03 × 1.03 × 1.03 × ・・・

1.03をかけることを繰り返すわけです。100回繰り返すと、どうなるでしょうか。

1.03100 ≒ 19.22

大体19.22です。100年の間に、Aが19.22Aになることが強要されるわけです。

1000回繰り返すとどうなるでしょうか。

1.031000 ≒ 6874240231169

大体6874240231169です。1000年の間に、Aが6874240231169Aになることが強要されるわけです。

次の100年、次の1000年を考えましたが、もう次の10000年を考えるのが恐ろしくなってきます。

人類は近視眼的にA × 1.03 × 1.03 × 1.03 × 1.03 × 1.03 × ・・・のようなことを言っていますが、地球が大きくなっているわけでもないのに、このような変化を強要するのがよいことなのか、大いに疑問です。

先ほど言ったように、筆者は「パーセントで示される変化を強要する」ことに問題を感じていました。そこから、経済学における「パーセント」の使用に疑問を持ち始めました。もちろん、経済学における「パーセント」の使用を全否定しているわけではありません。おかしなところがあるのではないかということです。

そのように、筆者が「パーセント」というものに対していくらか批判的になっていた時に、新しい構想が芽生え始めました。

本題に入りましょう。

まず、単純なモデルとして、10人から成る社会を考えます。

上の図は、その10人の年収を示したものです。Aさんの年収が特別に多く、残りの9人の年収は同じくらいです。

10人は共同社会のために税金を払いますが、その時に収入の多いAさんには高い税率を課そう、収入の少ない残りの9人には低い税率を課そうというのが、「累進課税」です。

累進課税は、深刻な格差の問題を解決するのに理想的なもののように思われますが、果たしてそうでしょうか。

Aさんに高い税率を課そう、残りの9人に低い税率を課そうと言う時、それが税率の話、すなわち「パーセント」の話になっていることに注意してください。

GDPの話で出てくる「パーセント」に疑いの目を向けるようになっていた筆者は、税金の話で出てくる「パーセント」にも疑いの目を向けるようになりました。

皆さんもよく、政治の世界で、なにに税金をかけようか、税率を何パーセントにしようかと議論しているのを聞くでしょう。

「なにに税金をかけようか」
「税率を何パーセントにしようか」

どうですか、ごく当たり前に聞こえないでしょうか。

しかし、「パーセント」というものに対していくらか批判的になっていた筆者には、これが当たり前には聞こえませんでした。

ある日、いつものように翻訳の仕事をしていました。翻訳する文書に「何パーセント、何パーセント、何パーセント、何パーセント、何パーセント」と大量に書かれていて、目がチカチカしてしまうことがありますが、その日は、文書に「何倍、何倍、何倍、何倍、何倍」と大量に書かれていて、目がチカチカしていました。

仕事を終えてしばらく、頭の中が「倍率」でいっぱいになっていました。その時に、先ほどの図を見ました。そして、いつもと違うことを考え始めました。先ほどの図に、一本の赤いラインを加えます。

この赤いラインは、10人の年収の平均を示しています。赤いラインは平均年収なので、これを上回っている人もいれば、下回っている人もいます。ここで、「Aさんの年収は平均年収の何倍になっているか、Bさんの年収は平均年収の何倍になっているか、Cさんの年収は平均年収の何倍になっているか・・・」という視点を導入します。

深刻な格差の問題というのは、ごく少数の人たちが、平均的な年収に比べてとてつもない年収を得ることによって、生じてきたものです。「年収の多い人たちが、平均年収に比べて何倍の年収を得ているか」というのは、深刻な格差の問題において、本質的な点です。「年収の多い人たちが、平均年収に比べて何倍の年収を得ているか」というのが本質的な点なら、その「何倍」の部分を変数化して、その変数を調節するのが合理的かつ効果的なのです。

ここで、以下のルールを導入します。

一人の人間が得ることのできる収入は、平均収入のL倍までとする。

ここに出てくるLは、筆者がL値と呼んでいるものです。LはLimitの頭文字です。

ここで、「得ることのできる収入に上限を設けるのか、それはおかしい」という主張が出てくると思いますが、上記のLは変数で、Lは非常に大きな値になることも可能だし、∞(無限大)になることも可能なのです。

筆者は、人類が深刻な格差の問題において直視してこなかった本質的な点を、変数化したにすぎません。

ある人が「得ることのできる収入に上限を設けるべきではない」と主張したとしましょう。この主張は、尊重されるべきです。しかし、一人の人間の意見として尊重されるべきなのです。

別の人が「得ることのできる収入は平均収入の1000倍まででよいだろう」と主張したら、それも一人の人間の意見として尊重されるべきだし、さらに別の人が「得ることのできる収入は平均収入の100倍まででよいだろう」と主張したら、それも一人の人間の意見として尊重されるべきだし、またさらに別の人が「得ることのできる収入は平均収入の10倍まででよいだろう」と主張したら、それも一人の人間の意見として尊重されるべきなのです。

現状では、「得ることのできる収入に上限を設けるべきではない」というのが、暗黙の大前提になっています。

累進課税で、年収の多い人に50%の税率を課したとしましょう。これは、100億円が課税後に50億円になる、1000億円が課税後に500億円になる、1兆円が課税後に5000億円になるということですが、実は、収入をいくらでも得ることを許容しています。50%の税率を、60%、70%、80%、90%に上げたとしても、同じことです。収入をいくらでも得ることを許容しています。

累進課税について論じている時ですら、「得ることのできる収入に上限を設けるべきではない」というのが、暗黙の大前提になっているのです。

「得ることのできる収入に上限を設けるべきではない」という暗黙の大前提が意味するところを考えてください。以下のようないずれの社会も絶対に実現しないということです。

  1.  得ることのできる収入が平均収入の10倍までに制限された社会
  2.  得ることのできる収入が平均収入の100倍までに制限された社会
  3.  得ることのできる収入が平均収入の1000倍までに制限された社会
  4.  得ることのできる収入が平均収入の10000倍までに制限された社会
  5.  得ることのできる収入が平均収入の100000倍までに制限された社会
  6.  得ることのできる収入が平均収入の1000000倍までに制限された社会

「得ることのできる収入に上限を設けるべきではない」という暗黙の大前提によって、A、B、C、D、E、Fのような社会は、最初から除外され、深刻な格差についての議論に決して出てこないのです。

ある人が「得ることのできる収入に上限を設けるべきではない」と主張するのは自由ですが、社会の一人一人の意見を訊くことなく、この主張を大前提とし、A、B、C、D、E、Fのような社会をすべて最初から除外するのは、民主的でないでしょう。

筆者の構想は、民主的です。先ほどのL値をどのように決定するのかと、疑問に思った方もいるでしょう。L値は、以下のように決定します。

社会の一人一人に、L値を提示する権利を与えます(常識的に考えて、子どもは除きましょう)。「得ることのできる年収に上限を設けるべきではない」という人は、L = ∞を提示します。「得ることのできる収入は平均収入の1000倍まででよいだろう」という人は、L = 1000を提示します。「得ることのできる収入は平均収入の100倍まででよいだろう」という人は、L = 100を提示します。「得ることのできる収入は平均収入の10倍まででよいだろう」という人は、L = 10を提示します。このように、一人一人に自分がよいと思うL値を提示してもらいます(説明を単純にするために、1と0しか使っていませんが、それ以外の数字も使えます。全く自由です)。最小はL = 1で、最大はL = ∞です。

こうして、社会の一人一人が提示したL値を並べます。小さい値は左のほうに、大きい値は右のほうに並べます。

このように並べた時に真ん中に来る値、すなわち中央値を、この時代の社会のL値として採用します。

※並んだL値が偶数個だったら、真ん中に二つのL値が来ますが、その二つのL値が異なっている場合は、どちらにするか多数決で決定したらよいでしょう。

上のL値の決定では、半数を超える人々がL = ∞を提示すれば、得ることのできる収入に上限が設けられていない社会になります。逆に、半数を超える人々が有限のL値を提示すれば、得ることのできる収入に上限が設けられた社会になります。見てわかると思いますが、そういう仕組みになっています。

筆者はさりげなく「この時代の社会のL値」と書きましたが、「この時代の」と書いたことに注意してください。上の方法で決定されたL値は、あくまでその時代のL値なのです。

L値は、定期的に調節されます。いってみれば、変動制です。ある時代の人々がある時代のL値を決定する、次の時代の人々が次の時代のL値を決定する、さらに次の時代の人々がさらに次の時代のL値を決定する・・・という具合です。得ることのできる収入に上限を設けるかどうかは、その時代その時代の人々(社会)の決定次第だし、得ることのできる収入にどのくらいの上限を設けるかも、その時代その時代の人々(社会)の決定次第です。

なぜそのようにするかというと、ある時代の人々の決定を特別扱いせず、ある時代の人々が持つ権利と同等の権利を、後の時代の人々に与えるためです。

ここには、筆者が考える「時代間の平等」という概念がありますが、これについては、後で詳しく説明します。

上のL値を決定する作業(行事)は、「コントロール」といいます。

「民主制御型資本主義」という構想では、「資本主義」の部分よりも、「民主制御型」の部分が重要です。ただし、「民主主義とはなにか」あるいは「民主的であるとはどういうことか」という点で、人類の従来の考えと筆者の考えはかなり異なります。

今日では、「民主主義」という言葉が非常によく使われています。しかし、言葉の使用だけが先走ってしまい、あまり「民主主義」という言葉の意味が深くあるいは厳しく考察されていません。

次回の記事では、「民主主義とはなにか」あるいは「民主的であるとはどういうことか」という点で、人類の従来の考えと筆者の考えがどのように異なるのか、お話しします。