「死ぬ」と「殺す」の語源

「殺す」を意味する語には、主に二つの作られ方があります。一つ目のパターンは、打撃を加えたり、苦しめたりすることを意味する語がもとになるパターンです。英語のkillは、今では「殺す」を意味していますが、その前に「打つ、叩く」を意味していた時代がありました。ロシア語のubitj(殺す)ウビーチもbitj(打つ)ビーチがもとになっており、ポーランド語のzabić(殺す)ザビチもbić(打つ)ビチがもとになっています。

二つ目のパターンは、「死ぬ」を意味する語がもとになるパターンです。朝鮮語のtʃugida(殺す)チュギダはこのパターンです。朝鮮語のtʃugida(殺す)は、tʃukta(死ぬ)チュクタがもとになっています。アイヌ語のrayke(殺す)もこのパターンです。アイヌ語のrayke(殺す)は、ray(死ぬ)がもとになっています。

日本語のkorosu(殺す)はどうでしょうか。日本語のkorosu(殺す)は二つ目のパターンのようです。oku(起く)からokosu(起こす)、otu(落つ)からotosu(落とす)、oru(下る)からorosu(下ろす)が作られたのと同様に、koruからkorosuが作られたと見られます。「死ぬ」を意味するkoruから、「殺す」を意味するkorosuが作られたのです。

筆者がなぜそのように考えるかというと、フィンランド語kuolla(死ぬ)(語幹kuol-)、エルジャ語kuloms(死ぬ)、コミ語kulnɨ(死ぬ)クルニ、マンシ語xoluŋkwje(死ぬ)ホルンクイェ、ハンガリー語hal(死ぬ)のような語がウラル語族のほぼすべての言語に存在するからです。日本語にもかつて「死ぬ」を意味するkoruという自動詞が存在し、ここから「殺す」を意味するkorosuという他動詞が作られたと見られます。

サーミ語はjápmit(死ぬ)ヤープミフトゥという全く違う動詞を持っていますが、この語はネネツ語のjaʔməsj(病気である)ヤッムスィなどと同源であり、病気になることを意味していた語が死ぬことを意味するようになったと考えられます。これらの語は日本語のyamu(病む)に通じるものでしょう。

「死ぬ」を意味するkoruと「殺す」を意味するkorosuがペアになっているところへ、sinuという新しい語が割り込んできます。koruは「死ぬ」という意味を失い、痛い目にあうこと、ひどい目にあうことを意味するようになっていったようです。こうして、奈良時代のkoru(懲る)、さらに現代のkoriru(懲りる)に至ります。

sinu(死ぬ)という語はどこからやって来たのでしょうか。奈良時代の日本語において、sinu(死ぬ)はinu(往ぬ)とともに特殊な語形変化を見せており、これらはナ行変格活用動詞と呼ばれます。ナ行変格活用という特殊な語形変化を見せたのは、動詞のsinu(死ぬ)、inu(往ぬ)、そして完了の助動詞のnu(ぬ)、この三語のみです(inu(往ぬ)は「行く、行ってしまう、去る」という意味です)。

奈良時代の日本語で一般的な四段活用なら「死な、死に、死ぬ、死ぬ、死ね、死ね」となるところですが、実際には上のように「死な、死に、死ぬ、死ぬる、死ぬれ、死ね」だったのです。このような事情からして、sinu(死ぬ)はsiに完了の助動詞のnuがくっついてできており、inu(往ぬ)はiに完了の助動詞のnuがくっついてできていると考えられます。つまり、siの部分とiの部分が実質的な意味を持っているということです。「死ぬこと」を意味するsi、「行くこと、行ってしまうこと、去ること」を意味するiとは、一体なんでしょうか。

少なくとも、前者は明らかでしょう。sinuのsiは、古代中国語のsij(死)スィイあるいは古代中国語以外のシナ・チベット系言語に存在した同源の語を取り込んだものと見られます(チベット語shi(死ぬ)、ミャンマー語the(死ぬ)を含めて、同源の語はシナ・チベット語族の内部に大きく広がっています)。外来語のsinuが、古くからあったkoruを追いやってしまったのです。シナ・チベット系の語彙がウラル語族との共通語彙を追いやる構図が窺えます。他の例を見てみましょう。

その前に、少し脇道にそれますが、もう一つのナ行変格活用動詞であるinu(往ぬ)の語源も明らかにしておきましょう。inu(往ぬ)という動詞そのものは廃れてしまったのであまり関心を引かないかもしれませんが、この語は日本語の歴史を考えるうえで重大な問題をはらんでいるようです。