箸墓古墳(はしはかこふん)についてもっと詳しく、古代日本に果たして殉葬はあったのか

飛鳥時代と奈良時代のショッキングな話に入る前に、卑弥呼の墓かと注目度が高まってきた箸墓古墳(はしはかこふん)についてもう少し情報を付け加えておきます。

魏志倭人伝が卑弥呼の死を伝えている部分を、もう一度振り返りましょう(藤堂2010)。

卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩。狥葬者奴婢百餘人。

卑弥呼以に死し、大いに冢を作る、径百余歩なり。狥葬する者奴婢百余人なり。

非常に短い記述ですが、「徑百餘歩(径百余歩なり)」と「狥葬者奴婢百餘人(狥葬する者奴婢百余人なり)」という記述がそこにあります。

前回の記事では、考古学者の都出比呂志氏が弥生時代の墓の変遷を描いたスケッチを紹介しました(都出1998)。

(周溝に囲まれた)四角い墓とまるい墓がまずあって、その墓と外部の連絡部分がのちに墓の突起部分になるという変遷です。

魏志倭人伝の「徑百餘歩(径百余歩なり)」という書き方からして、卑弥呼の墓は円墳か、円墳に突起部分が付いたものであったと推測されます。

下は、箸墓古墳の写真で、現代の日本人はこのような墓を「前方後円墳」と呼んでいますが、これは現代の日本人がそう呼んでいるだけで、古代の日本人が箸墓古墳のような墓をどう呼んでいたか(どう見ていたか)は、不明です(写真は朝日新聞様のウェブサイトより引用)。

ただ、箸墓古墳より前に作られた、箸墓古墳のような形の墓を見ると、円形部分に対して台形部分が小さく、箸墓古墳自身も、都出氏のスケッチのようにして生まれたことはまず確実です。箸墓古墳自身も、「円墳になにかがくっついたもの」という見方をされていた可能性は十分にあります。

ここで気になるのが、魏志倭人伝の「徑百餘歩(径百余歩なり)」という記述です。前方後円墳について語る時には、「墳丘長」という言葉がよく使われ、「箸墓古墳の墳丘長は約280メートルである」などと言われます。「墳丘長」というのは、円形部分の一番上から台形部分の一番下までの長さです。確かに、箸墓古墳の墳丘長は約280メートルですが、円形部分に注目すると、円形部分の直径は約160メートルなのです(大塚2021)。円形部分の直径が約160メートルだからなんなのかということですが、以下の表を見てください(大塚2021)。

古代中国では、6尺が1歩でした。1歩の長さが何メートルだったのかは時代によって少々異なりますが、魏志倭人伝の「徑百餘歩(径百余歩なり)」という記述と、箸墓古墳の円形部分の直径が約160メートルであるという事実は、完璧といってよいほど合致するのです。現代の日本人が使う「前方後円墳」という呼び名は、円形部分が本体部で、台形部分が付属部であると強調していないが、やはり、古代の日本人は、円形部分が本体部で、台形部分が付属部であると見ていたのではないか、そんなふうに考えたくなるところです(都出氏のスケッチの変遷を踏まえれば、当然です)。

魏志倭人伝の「徑百餘歩(径百余歩なり)」という記述は、形と大きさの両方の点で、箸墓古墳とよく合います。こうなると、いっしょにある「狥葬者奴婢百餘人(狥葬する者奴婢百余人なり)」という記述が大きな問題になってきます。

中国語の「狥」は「徇」の俗字なので、「狥葬」というのは「徇葬」のことです。「殉葬」とも書かれます。偉い人が死んだ時に、他の者が自殺しあるいは殺され、この他の者をお供として葬ることです。古代中国の殉葬はよく知られていますが、実は、古代日本の殉葬の存在はいまひとつ不明です。しかし、古事記は述べていないのですが、日本書紀は古代日本の殉葬に関して気になることを述べています。

古事記と日本書紀は、以前にお話ししたように、天照大神(あまてらすおおみかみ)などの神々が登場する神話が最初にあって、その後に神武天皇から始まる歴代の天皇の話が続きます。神話と歴代の天皇の話はつながっています。天照大神の孫がニニギノミコトで、ニニギノミコトが天上界から地上界に降り、ニニギノミコトのひ孫が神武天皇であるという作りになっています。

ところが、不思議なことに、古事記と日本書紀は、神話を詳しく記し、神武天皇の話を詳しく記した後、第2代の綏靖天皇から第9代の開化天皇までのことについてはほとんど語りません。系譜以外のことは全くわからない状態です。そのため、第2代の綏靖天皇から第9代の開化天皇までは、「欠史八代」と呼ばれています。

1. 神武天皇
2. 綏靖天皇
3. 安寧天皇
4. 懿徳天皇
5. 孝昭天皇
6. 孝安天皇
7. 孝霊天皇
8. 孝元天皇
9. 開化天皇
10. 崇神天皇
11. 垂仁天皇
12. 景行天皇
13. 成務天皇
14. 仲哀天皇
15. 応神天皇

古事記と日本書紀が天皇のことについて再び詳しく語り始めるのは、第10代の崇神天皇からです。古事記と日本書紀の宮(天皇の家)と陵(天皇の墓)の記述などから、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の話は、三輪山周辺が舞台になっていることがはっきりと見て取れます。

前回の記事を思い出してください。三輪山周辺というのは、最初の巨大前方後円墳である箸墓古墳とそれに続く巨大前方後円墳がある場所です(図は千賀2008より引用)。

第2代の綏靖天皇から第9代の開化天皇までほとんど語らなかった古事記と日本書紀が、第10代の崇神天皇から盛んに語り始めるのは、やはり訳があると思われます。かつて三輪山周辺で起きたことについては、ある程度詳しい文字記録あるいは口頭伝承があったのでしょう。もちろん、古事記と日本書紀が実際にあったことをそのまま書いているとは限りません。いや、書いていないでしょう。しかし、もとになる話は十分にあったと思われるのです。それが、第2代の綏靖天皇から第9代の開化天皇までのまるで内容のないわずかな記述と、第10代の崇神天皇からの内容豊かな記述の違いとなって表れていると考えられます。

前回の記事で示したように、卑弥呼と台与という少女を最高位に据えたのは「暫定的措置」で、この二人の後は男性が最高位についた可能性が高いです。これらの男性は、純粋に象徴であった卑弥呼と台与と違って、ある程度の権力を持っていたのでしょう。これらの男性がそのまま古事記と日本書紀の崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇であるとは言いませんが、実際に存在したこれらの男性の話が古事記と日本書紀の崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の話にある程度取り込まれていることは十分に考えられます。

さて、殉葬の問題に戻りましょう。殉葬の話がまさにここに出てくるのです。垂仁天皇のところで出てきます。「宇治谷孟、日本書紀(上)、講談社、1988年」の現代日本語訳を示します。

「生きているときに愛し使われた人々を、亡者に殉死させるのはいたいたしいことだ。古の風であるといっても、良くないことは従わなくてもよい。これから後は議って殉死を止めるように」

「殉死がよくないことは前に分った。今度の葬はどうしようか」

「君王の陵墓に、生きている人を埋め立てるのはよくないことです。どうして後の世に伝えられましょうか。どうか今、適当な方法を考えて奏上させて下さい」

「これから後、この土物を以て生きた人に替え、陵墓に立て後世のきまりとしましょう」

「今から後、陵墓には必ずこの土物をたてて、人を損なってはならぬ」

天皇とその周囲の者の口から、こういう発言が出てくるわけです。古代中国の殉葬はよく知られているが、古代日本には殉葬は全くなかった、そう仮定してみましょう。それで、上のような発言が日本書紀に出てくるでしょうか。名誉なことや誇らしいことだったら、嘘をついてあったと書くかもしれません。しかし、上の発言を見てわかるように、殉葬はそういうものとして捉えられてはいません。天皇とその周囲の者は、よくないことだと言って、退けています。

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参考文献

大塚初重、「邪馬台国をとらえなおす」、吉川弘文館、2021年。

千賀久、「ヤマトの王墓 桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳」、新泉社、2008年。

都出比呂志、「総論 弥生から古墳へ」、都出比呂志編『古代国家はこうして生まれた』、角川書店、1998年。

藤堂明保ほか、「倭国伝 中国正史に描かれた日本 全訳注」、講談社、2010年。