太陽と火を意味する言葉、日本語の「日(ひ)」と「火(ひ)」から考える

現代の日本語ではhi(日)とhi(火)は同じ音ですが、奈良時代にはhi(日)はɸi甲類、hi(火)はɸi乙類であり、微妙に異なる音でした。ɸi乙類は怪しい音です。ɸi乙類に限らず、イ列乙類はすべて怪しいです。

例えば、奈良時代にはki(木)とmi(身)という語がありました。ki(木)の発音はki乙類で、mi(身)の発音はmi乙類でした。ki(木)は組み込まれたko-という形を見せ、mi(身)は組み込まれたmu-という形を見せていました。ki乙類(木)は*koから変化したと考えられる語で、mi乙類(身)は*muから変化したと考えられる語です。

同様のことが、ɸi乙類(火)にもいえます。ɸi甲類(日)の古形は*pi(日)で、ɸi乙類(火)の古形は*po(火)であったと見られます。奈良時代のɸonoɸo(炎)の一番目のɸoは火を意味し、二番目のɸoは先端・末端を意味しています(二番目のɸoはinaɸo(稲穂)のɸoと同じものです)。

このように、現代の日本語のhi(日)はかつて*pi(日)で、現代の日本語のhi(火)はかつて*po(火)であったと考えられるのですが、だからといって、*pi(日)と*po(火)が無関係であるとは限りません。

因縁のɸikari(光)

筆者は、ɸikari(光)の語源を明らかにしようとして、何度も阻まれてきました。筆者にとって、ɸikari(光)はいわば因縁の語です。pikapika(ぴかぴか)、pikaʔ(ぴかっ)、ɸikaru(光る)、ɸikari(光)のもとになった*pikaが考察対象です。

筆者は、ɸikaru(光る)のもとになった*pikaと、ɸirameku(ひらめく)のもとになった*piraは、アイヌ語のpirka(よい、きれい、美しい)に関係があるのではないかと考えていました。pirk-という形が認められず、pir-とpik-という形になるというのは、日本語ではおなじみのパターンです。しかしどうやら、アイヌ語のpirka(よい、きれい、美しい)が日本語に入ったという単純な展開ではなさそうです。

光の届く空間と届かない空間の記事で日本語のyoru(夜)が「水」から来ていることを示し、明るさと赤さの記事で日本語のasa(朝)が「水」から来ていることを示しました。水・水域を意味していた語が、水域の深い部分(暗い部分)を意味するようになったり、浅い部分(明るい部分)を意味するようになったりするために、このようなことが起きます。日本語のɸiru(昼)も「水」から来ているのではないかと考えたくなります。以下のように並べてみると、どうでしょうか。

ɸi(日)の古形の*pi
ɸiru(昼)の古形の*piru
ɸirameku(ひらめく)のもとになった*pira
ɸikaru(光る)のもとになった*pika

明るさに関係のある語彙がpirk-という語根に支配されているのがわかります。ここで思い出されるのが、水のことをpark-、pirk-、purk-、perk-、pork-(par-、pir-、pur-、per-、por-、pak-、pik-、puk-、pek-、pok-)のように言っていた言語群です。水・水域を意味していたpirk-(pir-、pik-)のような語が水域の浅くて明るい部分を意味するようになり、そこから明るさを意味するようになれば、上に並べたɸi(日)、ɸiru(昼)、ɸirameku(ひらめく)、ɸikaru(光る)などが生まれます。また、水・水域を意味していたpork-(por-、pok-)のような語が水域の浅くて明るい部分を意味するようになり、そこから明るさを意味するようになれば、ɸi(火)(古形*po)、pokapoka(ぽかぽか)、ɸokaɸoka(ほかほか)なども生まれます。おそらく、水のことをmiduと言ったりmiと言ったりしていたように、火のことを*pokaと言ったり*poと言ったりしていたと思われます。明るいことを意味していたɸogaraka(朗らか)も同類でしょう。

水を意味するpark-、pirk-、purk-、perk-、pork-(par-、pir-、pur-、per-、por-、pak-、pik-、puk-、pek-、pok-)のような語が存在し、それが明るさを意味するようになっていったことは、朝鮮語のpakta(明るい)(組み込まれたpalg-という形をよく見せます)やpul(火)からも窺えます。水から明るさへの意味変化は、非常に古い時代から起き始めていたと見られます。太陽と火も水と同じように原始的な存在に思えますが、ɸi(日)とɸi(火)も「水」から来ているというのは驚きです。

とはいえ、水を意味する語が明るさを意味するようになっていく過程を説明されれば、上の日本語の語彙と朝鮮語の語彙は納得できるでしょう。謎に包まれているのが、アイヌ語のpirka(よい、きれい、美しい)です。英語のgoodに相当するアイヌ語といえば、このpirkaです。筆者も、「よい」と「悪い」のような語はどのようにして生まれたのだろうと前から思っていました。「よい」と「悪い」のような語は、哲学的な問題を考える時にも重要でしょう。なかなか手がかりがつかめない筆者にヒントを与えてくれたのが、アイヌ語のpirkaでした。アイヌ語のpirkaの問題に進みたいところですが、その前に別の問題をはさみます。

別の問題というのは、水のことをpark-、pirk-、purk-、perk-、pork-(par-、pir-、pur-、per-、por-、pak-、pik-、puk-、pek-、pok-)のように言い、日本語、朝鮮語、アイヌ語に語彙を与えていたのはだれかという問題です。park-、pirk-、purk-、perk-、pork-(par-、pir-、pur-、per-、por-、pak-、pik-、puk-、pek-、pok-)という語形は、朝鮮語mul(水)やアイヌ語wakka(水)などと遠い関係があることを思わせます。どうやら、朝鮮半島の金さん(キムさん)に続いて、朴さん(パクさん)に目を向ける必要がありそうです。

明るさと赤さ

光の届く空間と届かない空間の記事では、日本語のyoru(夜)、kura(暗)、ɸuka(深)が「水」から来ていることをお話しし、ɸiru(昼)、aka(明)、asa(浅)も「水」から来ているのではないかと示唆しました。

asa(浅)について

水域における浅さと明るさの一体性からして、asa(浅)とasa(朝)は同源でしょう(昔のasa(浅)は色の淡さ・薄さも意味しました。奈良時代のasu(浅す)が現代のaseru(褪せる)になっています)。

水を意味するasaのような語が存在したことは、日本語のase(汗)(推定古形*asa)から窺えます。水を意味していた語が水以外の液体(血、汗、涙、唾液、尿など)を意味するようになるパターンです。

azayaka(鮮やか)も関係があるかもしれません。奈良時代には、azayaka(鮮やか)とazaraka(鮮らか)という語があり、azayaka(鮮やか)ははっきりした美しさ、際立った美しさを意味し、azaraka(鮮らか)は新鮮であること、生き生きとしていることを意味していました。azaraka(鮮らか)については、現代のmizumizusii(みずみずしい)という語を考えるとわかりやすいと思います。mizumizusii(みずみずしい)は、「水」を語源に持ちながら、新鮮であること、生き生きとしていることを意味しています。同じように、azaraka(鮮らか)も、「水」を語源に持ちながら、新鮮であること、生き生きとしていることを意味していたと見られます。azayaka(鮮やか)は水の透明性(つまりぼやけていないということ)から来ている語かもしれません。

aka(明)について

奈良時代のakaは、明るさを意味することもあれば、赤さを意味することもありました。それにしたがって、「明」と書かれたり、「赤」と書かれたりしていました。

ここで「赤」が出てくるのが特徴的です。先ほどのasa(浅)のケースと違うところです。akaとakiという形で明るいことを意味していましたが、それに対応して、akaとakiという形で赤いことを意味することもあったと思われます。

日本語のaki(秋)はここから来ている可能性が高いです。世界の言語を見渡すと、木々の葉が見せる変化が季節または月の名前に取り込まれているケースが散見されます。日差し・気温の変化に加えて、木々の葉の変化を観察しながら、季節の移り変わりを感じていたのでしょう。アメリカ英語では落葉の季節ということでfall(秋)と言うようになりましたが、日本語では紅葉の季節ということでaki(秋)と言うようになったと考えられます(写真はリクルートライフスタイルじゃらんニュース様のウェブサイトより引用)。

しかし、なぜ「赤」が出てきたのでしょうか。水域の浅いところは確かに明るいですが、水域の浅いところを見ていても、上の写真のような色は出てきそうにありません。

現代のような照明器具のない時代において、明るいものといえばなんでしょうか。言うまでもなく、太陽と火です。地味な存在として、月とその他の星があります。太陽または火なら、上の写真の色と完全に合います。

asa(浅)/asa(朝)の語源は「水」で、aka(明)/aka(赤)の語源は「太陽」または「火」であると考えれば、この問題は解決しそうに見えます。ところが、この問題はそこで終わらないのです。

※よく聞く「真っ赤な嘘」は、「akaの嘘」というフレーズを変形して作ったと考えられるものです。「akaの嘘」のakaは明らかであることを意味したが、それが赤いことを意味していると解釈され、その結果、「真っ赤な嘘」という表現ができたというわけです。「akaの他人」のakaも、明らかであること、明確であること、はっきりしていることを意味していたものです。

 

補説

「諦める」の哲学

akarui(明るい)やakiraka(明らか)と同源の語として、意外ですが、akirameru(諦める)があります。akirameru(諦める)は実は、明らかにすることを意味するakiramu(明らむ)という動詞でした。なんだか戸惑ってしまいますが、この話は英語のclearに似たところがあります。

英語のclearはもともと、明るい感じ、透明な感じ、澄んだ感じを意味する語でした。そこから、そのような感じを作り出す行為を意味するようになり、「きれいにする、取り除く、一掃する、消し去る」などの意味が生じました。この意味展開は、英語以外の言語にもよく見られます。

日本語のakiramu(明らむ)も、似た経緯をたどり、うまくいかない考えや望みを捨てることを意味するようになっていったようです。現代の日本語で「きれいさっぱりと捨てる」などと言いますが、akirameru(諦める)というのは、そのようにきれいさっぱりとした状態にする行為だったのです。

明らかにするという意味のakiramu(明らむ)は、理解すること、認識すること、悟ることなども意味していたので、そのような意味も現代の日本語のakirameru(諦める)に影を落としていると考えられます。

くりくりした目

興味深い「火」の話に入る前に、一つ補足記事をはさみます。

波に関係のある話として、yurayura(ゆらゆら)やkurakura(くらくら)の話をしました。

yurayura(ゆらゆら)をyuruyuru(ゆるゆる)に替えると、意味は少し変わりますが、まだ同じ範疇にある感じがします。しかし、kurakura(くらくら)をkurukuru(くるくる)に替えると、どうでしょうか。kurukuru(くるくる)は、「揺れる、振れる、振動する」というより、「回る、回転する」という感じです。形と意味を考えると、kuruma(車)も関係がありそうです。

日本語にはkurikuri(くりくり)という語もあります。まるい目をかわいらしく表現して、「くりくりした目」と言います。kurukuru(くるくる)とkurikuri(くりくり)には、共通性が感じられます。その共通性とは、ずばり円形です。

前に、参考になる例がありました。「目(め)」の語源の記事を思い出してください。ベトナム語のmắt(目)マ(トゥ)のような語が日本語に入って、*ma(目)、mato(的)、matoka(円か)/matoyaka(円やか)などになったようだとお話ししました。目を意味していた語が、目だけでなく、まるいもの・まるいことを意味している点に注目してください。

古代人はこのように考えていたの記事で、古代人が人間の目を切れ目・裂け目・割れ目などの一種として捉えたことを説明しました。しかし、人間の目がただの切れ目・裂け目・割れ目と違うのは、中にまるいものが入っているところです。

水を意味しようとしてそれができなかった語は、なんとかして水に関係のあるものを意味しようとします。同じように、目を意味しようとしてそれができなかった語は、なんとかして目に関係のあるものを意味しようとします。目を意味することができなかった語がまるいもの・まるいことを意味するようになるのは、一つのパターンのようです。

日本語のkurakura(くらくら)は、古代北ユーラシアで水を意味したkalm-、kilm-、kulm-、kelm-、kolm-(kal-、kil-、kul-、kel-、kol-、kam-、kim-、kum-、kem-、kom-)のような語から来ていました。水を意味していた語が波を意味するようになるのはよくあるパターンですが、水を意味していた語が目を意味するようになるのもよくあるパターンです。

水から波を経て、揺れることを意味するようになったのがkurakura(くらくら)で、水から目を経て、まるいもの・まるいことを意味するようになったのがkurikuri(くりくり)とkurukuru(くるくる)と考えられます(kurikuri(くりくり)が目について使われることが圧倒的に多いのもその傍証でしょう)。kuruma(車)も同類です。kurumaは、もともと車輪を意味していて、そこから乗り物を意味するようになった語です。kuruma(車)は、古代北ユーラシアに存在したkulm-(あるいはkurm-)という形をよく残していると考えられます。

abaru(暴る)、ikaru(怒る)、midaru(乱る)などがもともと水・水域が荒れ狂うことを意味していたように、kuruɸu(狂ふ)ももともと水・水域が荒れ狂うことを意味していたのでしょう。やはり古代北ユーラシアで水を意味したkalm-、kilm-、kulm-、kelm-、kolm-(kal-、kil-、kul-、kel-、kol-、kam-、kim-、kum-、kem-、kom-)のような語から来ているわけです。

このように、kurikuri(くりくり)、kurukuru(くるくる)、kuruma(車)などは水から来ていると考えられますが、肝心のmaru(丸、円)の語源はどうかというと、なかなか微妙です。

奈良時代の人々は、小便・大便を排泄することをmaru(まる)と言っていました。現代の日本語のomaru(おまる)はここから来ています。水を意味していた語が水以外の液体(血、汗、涙、唾液、尿など)を意味するようになるのはよくあるパターンです。古代北ユーラシアに水のことをmark-、mirk-、murk-、merk-、mork-(mak-、mik-、muk-、mek-、mok-、mar-、mir-、mur-、mer-、mor-)のように言う巨大な言語群が存在し、日本語のそばにも水のことをmar-のように言う言語があったと思われます。

奈良時代の人々は、mari(鋺、椀)と呼ばれるお椀のような器を使って水や酒を飲んでいました(写真は長野県松本市のウェブサイトより引用)。

水は直接手に持てないので、奈良時代の人々に限らず、人類は器を用意して、水を飲んできたにちがいありません。水を意味する語が実に様々なものを意味するようになっていく過程は本ブログで詳しく示していますが、水を意味する語が水を入れる器を意味するようになることも多かったと思われます。水と水を入れる器の関係は極めて近いと言ってよいでしょう。

上記のmari(鋺、椀)も水から来ている可能性が高いです。mari(鋺、椀)は、写真のような形状をしているので、上から見れば円形、横から見れば半球状です。maririka(まりりか)という語もあり、まるいことを意味していました。mari(鋺、椀)とmaririka(まりりか)のほかに、mari(鞠)(蹴ったりして遊ぶものです)とmaro(丸、円)という語もありました。後者が現代のmaru(丸、円)になります。

水と水を入れる器の極めて近い関係を考えると、水を入れる器を意味していた語が一般に円形・球形を意味するようになっていったのかもしれません。円形・球形というのは抽象的な概念です。それに先立つ具体的ななにかがあったはずです。奈良時代のmari(鋺、椀)もそうですが、現代の私たちが使っているコップや鍋や洗面器もまるいです。水から丸・円に直接行くことはなさそうですが、水から水を入れる器を経由して丸・円に行くことはありそうです。

水から目を経由してまるいという意味に至ることもあれば、水から水を入れる器を経由してまるいという意味に至ることもあったように見えます。いずれにせよ、水と丸・円の間には深い関係がありそうです。日本語以外の言語も調べながら、さらに検討する必要があるでしょう。

それでは、「火」の話に入ります。