古代人はこのように考えていた

フィンランド語のsilmä(目)とnähdä(見る)

前回の記事では、水を意味するkilm-のような語が変化して、ウラル語族のフィンランド語silmä(目)スィルマなどになったようだと述べました。「水」を意味していた語が「目」を意味するようになっていく過程を知ることは、人類の言語の歴史を考えるうえで非常に重要です。

フィンランド語には、silmä(目)のほかに、nähdä(見る)ナフダという語があります。フィンランド語のsilmä(目)のような語は、すでにお話ししたように、ウラル語族全体に広がっています。フィンランド語のnähdä(見る)のような語は、ウラル語族全体には広がっていませんが、ウラル語族の大半を占めるフィン・ウゴル系全体に広がっています。フィンランド語のsilmä(目)はウラル祖語の時代から使われている語で、フィンランド語のnähdä(見る)はウラル祖語より少し後の時代に入った外来語と考えられます。

フィンランド語のnähdä(見る)は動詞です。nähdäというのは、辞書の見出しになる形で、英語でいうところの「原形」、インド・ヨーロッパ語族の他の言語でいうところの「不定形」です。以下の表は、フィンランド語のnähdä(見る)の現在形と過去形を示したものですが、主語の人称と数(1人称単数、2人称単数、3人称単数、1人称複数、2人称複数、3人称複数)によって動詞の形が変わります。

フィンランド語のnähdä(見る)は、長い間使われてきた動詞なので語形がいくらか崩れていますが、もともとnäk-という語幹を持っていました。näkyä(見える)ナキアやnäkö(視覚、視界、見える範囲、見た目)ナコなどの語もあります。ウラル語族以外の言語で目のことをnäk-のように言っていて、それがウラル語族に入った可能性が高いです。

「水」を意味していた語が「目」を意味するようになるまでの過程

水を意味していた語がいきなり目を意味するようになるわけではありません。まずは、以下の図を見てください。水と陸が隣り合っているところです。

図1

水・水域を意味していた語が水と陸の境を意味するようになるパターンは、これまでたくさん見てきました。そこから、水と陸の境に限らず、一般に境を意味するようになります。

図2

水を意味していた語が上の図の赤い部分を意味するようになるわけです。赤い部分を少し広げてみましょう。

図3

図2に比べて、図3では赤い部分に若干幅ができました。これによって、新しい語彙が生まれてきます。「線、糸」のような語だけでなく、「切れ目、裂け目、割れ目、隙間、間」のような語が生まれてくるのです。

ここまで来れば、人間の目まであと一歩です。どうやら、古代人は人間の目を切れ目・裂け目・割れ目などの一種として捉えたようです(写真は日本気象協会/ALinkインターネット様のウェブサイトより引用)。

図3から「(人間の)目」を意味する語が生まれてくるのは、大変重要なことです。しかし、図3には続きがあります。図3の赤い部分を指していた語が、図4の赤い部分を指すようになります。

図4

さらに、図4の赤い部分を指していた語が、図5の赤い部分を指すようになります。

図5

水を意味する語から、「中、真ん中、中心」のような語も生まれてくるのです。日本語のnaka(中、仲)はどうでしょうか。日本語のnaka(中、仲)も水から来た語でしょう。フィンランド語のnähdä(見る)(語幹näk-)、näkyä(見える)、näkö(視覚、視界、見える範囲、見た目)などから窺い知れる目を意味したnäk-も、日本語のnaka(中、仲)も、古代北ユーラシアに水を意味するnak-のような語が存在したことを示唆しています。

日本語のnagaru(流る)/nagasu(流す)のnagaも無関係でないでしょう。この水・水域を意味していたnagaがnagu(薙ぐ)を生み出したと見られます。nagitaosu(薙ぎ倒す)のnagu(薙ぐ)です。水・水域を意味していた語が境を意味するようになり、切ったり分けたりすることを意味する語が生まれるパターンです。

水・水域を意味していたnagaはnagasi(長し)も生み出したと見られます。インド・ヨーロッパ語族の古英語berg/beorg(山)、ヒッタイト語parkuš(高い)、トカラ語pärkare(長い)のように、「高い」と「長い」の間には近い関係があります。上方向に伸びているのが「高い」で、方向を問わずに伸びているのが「長い」です。水・水域を意味していた語がその隣接部分、特に盛り上がり、坂、丘、山などを意味するようになり、高さひいては長さを意味する語が生まれるパターンです。

※三省堂時代別国語大辞典上代編(上代語辞典編修委員会1967)では、日本書紀で「中」の読みがnaになっている例を挙げ、nakaという語はnaとkaからできた複合語ではないかと推測しています(このkaはarika(ありか)やsumika(すみか)のように場所を意味するkaです)。筆者も長いことそのように考えていました。しかし、北ユーラシアの言語と日本語の語彙を照らし合わせると、そうではないようです。水のことをmiduと言ったり、miと言ったりしていたのと同様に、中のことをnakaと言ったり、naと言ったりしていたようです。筆者は、水を意味したnak-のような語は、古代北ユーラシアで水のことをjak-、jik-、juk-、jek-、jok-のように言っていた巨大な言語群と関係があると考えていますが、これについては別のところで説明します。

今回の記事で示した「水」を意味していた語が「目」を意味するようになるパターンは重要ですが、「水」を意味していた語が「中」を意味するようになるパターンも重要です。

wata(腸)は内臓全体を意味していた

廃れてしまいましたが、奈良時代の日本語にはwata(腸)という語がありました。この語は、「腸」という漢字が当てられていますが、広く内臓を意味していた語です。

インド・ヨーロッパ語族の英語water(水)、ヒッタイト語watar(水)のような語が日本語のwata(海)になったようだと述べましたが、wata(腸)も無関係とは思えません。水を意味していた語が中を意味するようになり、中を意味していた語が内臓を意味するようになることはよくあるからです。

現代の私たちは、解剖図を見せられて、これが心臓で、これが肺で、これが肝臓で、これが胃で、これが腸で・・・という具合に理解していますが、かつては「体の中(内臓)」として大きく括られていたと考えられます。wata(腸)が広く内臓を意味していたように、kimo(肝)も広く内臓を意味していました。「体の中(内臓)」を意味する語同士がぶつかり合って、意味の分化が始まったのでしょう。

kimo(肝)のほうは、水を意味したkalm-、kilm-、kulm-、kelm-、kolm-(kal-、kil-、kul-、kel-、kol-、kam-、kim-、kum-、kem-、kom-)のような語(前回の記事を参照)から来ていると見られます。

「水」を意味していた語が「目」を意味するようになるパターン、そして「水」を意味していた語が「中」を意味するようになるパターン、この二つの重要パターンを押さえたところで、東アジアの歴史の考察に戻りましょう。

 

参考文献

上代語辞典編修委員会、「時代別国語大辞典 上代編」、三省堂、1967年。