蘇我馬子は、敏達天皇→用明天皇→崇峻天皇→推古天皇という四人の天皇の時代に大臣だったことになっています。前々回の記事では、敏達天皇の実在性が危うくなってきました。そして前回の記事では、推古天皇の実在性も危うくなってきました。
この二人の間に位置する用明天皇と崇峻天皇はどうでしょうか。やはりとても怪しげです。用明天皇は天皇になって2年ほどで病死します。崇峻天皇は天皇になって5年ほどで大臣の蘇我馬子に暗殺されます。日本書紀によれば、そういうことになっています(以下、日本書紀の一連の現代語訳は宇治谷1988より引用)。
五年冬十月四日、猪をたてまつる者があった。天皇は猪を指さしておっしゃった。「いつの日かこの猪の頸を斬るように、自分がにくいと思うところの人を斬りたいものだ」と。朝廷で武器を集めることが、いつもとどうも違っていることがあった。十日、蘇我馬子宿禰は、天皇が仰せられたという言葉を聞いて、自分を嫌っておられることを警戒した。一族の者を招集して、天皇を弑することを謀った。
この月、大法興寺の仏堂と歩廊の工を起こした。
十一月三日、馬子宿禰は群臣をだましていうのに、「今日東の国から調をたてまつってくる」と。そして東漢直駒を使って、天皇を弑したてまつった。この日、天皇を倉梯岡陵に葬った。
五日、早馬を筑紫の将軍たちのところに遣わして、「国内の乱れによって、外事を怠ってはならぬ」と伝えた。
この月、東漢直駒は、蘇我嬪河上娘を奪って自分の妻とした。馬子宿禰はたまたま河上娘が駒に盗まれたことを知らないで、死んだものかと思っていた。駒は嬪を汚したことが露見し、大臣のために殺された。
大法興寺というのは、飛鳥寺のことです。飛鳥時代の象徴といえる飛鳥寺の建築が本格的に始まる頃に、崇峻天皇は蘇我馬子に暗殺され、推古天皇が登場します(画像は奈良新聞様のウェブサイトより引用)。
※創建時の飛鳥寺は、現在の20倍ぐらいの面積を持つ壮大な寺院で、五重塔と三つの金堂がありました(飛鳥寺は日本最古の寺ですが、もうかつての建物は残っていないので、法隆寺や東大寺が観光スポットになっています)。
大臣の蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺したというのに、なんのお咎めも、なんの乱れもありません。推古天皇が即位し、何事もなかったかのように時間が流れていきます。蘇我馬子と推古天皇のこんな悠長なやりとりまであります。
この日蘇我馬子は盃をたてまつって、
天下をお治めになるわが大君の、おはいりになる広大な御殿、出で立たれる御殿を見ると、まことに立派で、千代万代までこのようであって欲しい。そうすれば畏こみ、拝みながらお仕えします。私は今、お祝いの歌を献上いたします。
と寿ぎのことばを申しあげた。天皇が答えて歌われた。
蘇我の人よ、蘇我の人よ、お前は馬ならばあの有名な日向の国の馬、太刀ならばあの有名な異国の真太刀である。もっともなことである。そんな立派な蘇我の人を、大君が使われるのは。
「倭の五王」をめぐる論争の行方、いわゆる「応神天皇陵」と「仁徳天皇陵」についての記事では、安康天皇が眉輪王に暗殺されたことをお話ししました。眉輪王は、すぐに安康天皇の弟の雄略天皇によって殺されました。普通なら、そうなりそうです。しかし、蘇我馬子は、悠々と大臣であり続けます。
敏達天皇と推古天皇は怪しげですが、ちょっと現れてすぐに消える用明天皇と崇峻天皇には、また違う怪しさがあります。用明天皇は、病死したこと以外、ほぼなにも書かれていないし、崇峻天皇も、暗殺されたこと以外、ほぼなにも書かれていません。「天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト」の著者の大山誠一氏も、理解に苦しむと述べています(大山2009)。
結局、用明にしろ崇峻にしろ、『日本書紀』の中で、大王としての資質も役割も与えられていない。新しい大陸の文化を象徴する飛鳥寺は蘇我馬子の権力を象徴している。そういう現実の政治状況と、大王とされた用明・崇峻という存在が、まったくかみ合っていない。王権の歴史を描くはずの『日本書紀』の自己矛盾と言わねばならない。
ちょっと現れてすぐに消える用明天皇と崇峻天皇がなんなのか理解するためには、系譜の問題を考えなければなりません。淳中倉太珠敷皇子(敏達天皇になったとされる)、大兄皇子(用明天皇になったとされる)、泊瀬部皇子(崇峻天皇になったとされる)、額田部皇女(推古天皇になったとされる)、そして厩戸王(いわゆる聖徳太子)の位置づけを見てみましょう。
欽明天皇およびその後の時代を考えるうえで、欽明天皇の以下の三人の妻が重要であると述べました。
- 堅塩媛
- 小姉君
- 石姫
詳しくは天皇(大王)だった可能性が出てきた蘇我氏、日本史における最大の衝撃の記事で説明しましたが、堅塩媛と小姉君は、蘇我稲目の娘、蘇我馬子の姉妹であり、石姫は、蘇我氏と全然関係のない人です。
欽明天皇と堅塩媛の間には、13人の子どもが生まれます。その中に、大兄皇子(用明天皇になったとされる)と額田部皇女(推古天皇になったとされる)がいます。
欽明天皇と小姉君の間には、5人の子どもが生まれます。その中に、穴穂部間人皇女と泊瀬部皇子(崇峻天皇になったとされる)がいます。
欽明天皇と石姫の間には、3人の子どもが生まれます。その中に、淳中倉太珠敷皇子(敏達天皇になったとされる)がいます。
大兄皇子と穴穂部間人皇女の間に長男として生まれたのが、厩戸王(いわゆる聖徳太子)です。
日本書紀によれば、欽明天皇とその皇后である石姫の間に生まれた淳中倉太珠敷皇子が、欽明天皇の次の敏達天皇になりました。淳中倉太珠敷皇子には、箭田珠勝大兄皇子という兄がいましたが、この兄は早くに亡くなっています。箭田珠勝大兄皇子、淳中倉太珠敷皇子、あと一人は女性です。
敏達天皇が死ぬとどうなるでしょうか。
ここで額田部皇女(欽明天皇と堅塩媛の第4子)が推古天皇になるのは、無理があります。
欽明天皇と堅塩媛の間には13人の子どもがおり、まずだれよりも長男の大兄皇子がいます。いきなり推古天皇とその皇太子(なおかつ摂政)である聖徳太子の話が始まるのは、系譜上無理があるのです。しかも、日本書紀の系譜によれば、この時点ではまだ女性が天皇になったことがありません。
実際、敏達天皇が死んだ後、大兄皇子が用明天皇になります。額田部皇女にとってみれば、「兄が天皇になった」、厩戸王にとってみれば、「父が天皇になった」ということになります。そして、この用明天皇がすぐに死ぬのです。
前回の記事で見たように、中国の隋書に日本の飛鳥時代を暴露され、推古天皇と聖徳太子の話は創作である可能性が高くなってきました。しかし、たとえ創作だとしても、歴史書という体裁を取っている以上、なんでも勝手に書くことはできません。
用明天皇が死んだ時には、もう石姫が産んだ皇子はいませんが、小姉君が産んだ穴穂部皇子と泊瀬部皇子がいました。穴穂部皇子は天皇になろうとし、物部守屋も支持します。しかし、蘇我馬子らが反対し、穴穂部皇子と同皇子を支持した物部守屋を殺します。こうして、泊瀬部皇子が崇峻天皇になりますが、この崇峻天皇も、蘇我馬子に暗殺されてしまうわけです。
額田部皇女は敏達天皇が広姫と死別した後で敏達天皇の皇后になっていたので、父は欽明天皇、夫は敏達天皇、兄は用明天皇です。石姫が産んだ皇子も、小姉君が産んだ皇子ももういません。このような状況で、群臣・百官に推されて、推古天皇が誕生しました。
用明天皇と崇峻天皇は、完全に「お膳立て」の役です。
ここまで細かく具体的に聞かされると、本当かなと信じてしまいそうですね。
いや、日本人は実際に日本書紀を信じてきたのです。でも、中国の隋書は全然違うことを語っています。
どっちが真実なのでしょうか。
中国の隋書です。
ここでもやっぱり鍵を握るのは「古墳」です。日本の歴史のこの上なく貴い証人です。
考古学者の白石太一郎氏によって作成された巨大前方後円墳の編年図をもう一度示します(白石2013)。
すばらしい編年図です。これ一枚で日本の歴史を容赦なく明らかにしてしまうところがすごいです。まさに、「古墳は嘘をつかない」です。
大山氏も、敏達天皇、用明天皇、推古天皇、厩戸王の陵墓に注目し、以下のように述べています(崇峻天皇は、蘇我馬子に暗殺され、その日に埋葬されたことになっており、陵がどこにあるのか不明です)(大山2009)。
これらの人物が活躍していたのは飛鳥を中心とする大和のはずである。にもかかわらず、西の方、山を越えた河内の磯長に葬られたとされる。今日の大阪府南河内郡太子町である。では、飛鳥周辺には墓は作られなかったのかというと、そうではない。・・・(中略)・・・飛鳥周辺に埋葬されたのは、蘇我稲目から始まり、馬子・蝦夷・入鹿と続く蘇我氏四代で、蘇我氏でないのは、堅塩媛と合葬されることになる欽明だけである。『日本書紀』が大王とする敏達・用明・推古など、ほかはみな河内の磯長に葬られている。
欽明天皇が死んだ時には、蘇我氏の本拠地に堂々と作られた巨大な前方後円墳、五条野丸山古墳(ごじょうのまるやまこふん)に葬られました。これが最後の巨大前方後円墳になります。
次の敏達天皇が死んだ時には、敏達天皇の陵は作られず、母の石姫が眠る古墳に葬られました。この古墳は、河内の磯長の太子西山古墳(たいしにしやまこふん)で、五条野丸山古墳より少し古いようです。
ここから先は、もう前方後円墳ではありません。
用明天皇が死んだ時は、まず飛鳥周辺に葬られますが、その後、河内の磯長の春日向山古墳(かすがむかいやまこふん)に改葬されます。推古天皇が死んだ時も、まず飛鳥周辺に葬られますが、その後、河内の磯長の山田高塚古墳(やまだたかつかこふん)に改葬されます。
推古天皇が最初に葬られた古墳は、飛鳥周辺の植山古墳(うえやまこふん)と考えられていますが(白石2018)、この古墳は、推古天皇のために作れらた古墳ではなく、敏達天皇と推古天皇の間に長男として生まれながら夭折した竹田皇子が眠っていたと見られる古墳です。推古天皇が、自分を手厚く葬る必要はなく、竹田皇子の古墳に葬ればよいと言い、その希望が叶えられたことになっています。
大兄皇子(用明天皇になったとされる)と額田部皇女(推古天皇になったとされる)は、欽明天皇と蘇我氏出身の堅塩媛の間に生まれた子どもで、もともとよい身分です。立派な古墳が作られて当然です。実際、春日向山古墳も、山田高塚古墳も、立派な古墳です。しかし、大山氏が指摘しているように、大兄皇子と額田部皇女が飛鳥周辺から河内の磯長に改葬された点は見逃せません。
厩戸王も、(欽明天皇と堅塩媛の間に生まれた)大兄皇子と(欽明天皇と小姉君の間に生まれた)穴穂部間人皇女の長男なので、間違いなくよい身分ですが、河内の磯長に葬られています。
天皇(大王)だった可能性が出てきた蘇我氏、日本史における最大の衝撃の記事で、欽明天皇の陵が蘇我氏の意向で河内大塚古墳(かわちおおつかこふん)から蘇我氏の本拠地の五条野丸山古墳に変更されたのではないかと述べました。そして、蘇我氏が蘇我氏の人間ではない欽明天皇にそのような最高の待遇をしたのは、欽明天皇が蘇我堅塩媛と結婚してくれたことによって、蘇我氏に皇位継承権が生じたからではないかと述べました。
欽明天皇と石姫の間に生まれた淳中倉太珠敷皇子(敏達天皇になったとされる)は、蘇我氏と全く関係のない人であり、河内の磯長に葬られるのはわかります。しかし、欽明天皇と堅塩媛の間から生まれた子孫も、欽明天皇と小姉君の間から生まれた子孫も、河内の磯長に葬られているのです。
蘇我氏が最高の扱いをするのは、「欽明天皇と堅塩媛」そのもの、そして「蘇我稲目→蘇我馬子→・・・のライン」だけです。欽明天皇と蘇我氏出身の女性(堅塩媛を含めて)の間から生まれた子孫は、別扱いです。決してひどい扱いをされるわけではありませんが、別扱いです。
欽明天皇には、ものすごい名前が付けられています。「天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)」と言います(私たちが聞きなれている「欽明天皇」という言い方(漢風諡号)は、後で考え出された言い方で、日本書紀に記されている言い方は、「天国排開広庭天皇」という言い方(和風諡号)です)。敏達天皇の「渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと)」、用明天皇の「橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)」、崇峻天皇の「泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)」、推古天皇の「豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)」と比べて、別格です。
「天国(あめくに)」は、「天国(てんごく)」のことではなく、「天と地」のことです。
例えば、日本書紀は、以下のように始まります(書き下し文は坂本1994、現代語訳は宇治谷1988より引用)。
古に天地未だ剖れず、陰陽分れざりしとき、渾沌れたること鶏子の如くして、溟涬にして牙を含めり。其れ清陽なるものは、薄靡きて天と為り、重濁れるものは、淹滞ゐて地と為るに及びて、精妙なるが合へるは摶り易く、重濁れるが凝りたるは竭り難し。故、天先づ成りて地後に定る。然して後に、神聖、其の中に生れます。(昔、天と地がまだ分かれず、陰陽の別もまだ生じなかったとき、鶏の卵の中身のように固まっていなかった中に、ほの暗くぼんやりと何かが芽生えを含んでいた。やがてその澄んで明らかなものは、のぼりたなびいて天となり、重く濁ったものは、下を覆い滞って大地となった。澄んで明らかなものは、一つにまとまりやすかったが、重く濁ったものが固まるのには時間がかかった。だから天がまずでき上って、大地はその後でできた。そして後から、その中に神がお生まれになった。)
これは、天地開闢(てんちかいびゃく)という思想です。天と地はもともと混沌として一つであったが、天と地に分かれ、世界が始まったという思想で、中国から来ている思想です。
欽明天皇に付けられた「天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)」という名前は、まさにこれです(昔は、ɸiraku(開く)と同様の意味を持つɸaraku(開く)という動詞がありました)。
現代でいえば、「宇宙はビッグバンから始まった」みたいな話でしょうか。
ともかく、欽明天皇はそのような始祖として位置づけられているわけです。
大山氏は、「あめくにおしはらき」について、以下のように述べています(大山2009)。
先に、この語を、天地開闢を思わせる神話的表現と述べておいたが、それは、欽明が「アメクニ」を押し開いた英雄とされたことを意味しているのではないだろうか。
飛鳥に葬られたこと自体、欽明が蘇我一族の一員とされたことを意味している。その欽明が天地開闢の英雄とされたのである。それはまさしく、蘇我王朝の始祖として位置づけられたことを意味していると言えよう。ここに蘇我王朝が誕生し、馬子は正式に大王になったのである。
筆者は、昔の日本は結婚を通じて新たに皇位継承権が生じるシステムなので、「王朝」という言葉は使いませんが、基本的な考えは大山氏と同じです。
蘇我氏にとっては、結婚した欽明天皇と堅塩媛の存在は、蘇我氏に皇位継承権が生じた瞬間であり、そのシンボル(記念)として、最後の巨大前方後円墳である五条野丸山古墳が蘇我氏の本拠地に残されたのでしょう。
そして、欽明天皇の後に最高位に就いた蘇我馬子が、新たな方向へ舵を切り始めます。「これから新しい国を作るのだ」と意気込んでいたでしょう。こうして、五条野丸山古墳を最後に巨大前方後円墳が廃止されます。この歴史的決定を下せるのは、蘇我馬子以外にいません。代わって、飛鳥寺をはじめとする寺院が新たな方向の象徴になります。五条野丸山古墳の完成に飛鳥寺の建築が続いているのは、なによりも注目されるべき点です。日本書紀は蘇我馬子が50年以上大臣だったと書いているので、蘇我馬子は50年以上大王だった可能性があります。まさに巨星です。
蘇我馬子がここまで絶大な存在として君臨していたとなると、その後の展開も気になります。欽明天皇と蘇我氏出身の堅塩媛の長男として生まれた大兄皇子(用明天皇になったとされる)ですら、飛鳥からよそへ改葬されました。この改葬が行われたのは593年、つまり飛鳥寺の建築が本格的に始まった頃です。蘇我馬子がバリバリの時に、そういうことをしているわけです。蘇我馬子からその息子へ大王位が引き継がれるのは当たり前で、その他の可能性は検討もされなさそうな雰囲気です。
日本書紀では、大臣の蘇我馬子が死んだ後、その息子の蘇我蝦夷が大臣になっています。
歴史学者と考古学者を悩ませてきた五条野丸山古墳と梅山古墳
以下は、一部の歴史学者と考古学者に知られているだけのマニアックな話です。しかし、無視できない話でもあります。
白石氏の巨大前方後円墳の編年図をもう一度見てください。これまで言及しませんでしたが、五条野丸山古墳の近くに、梅山古墳(うめやまこふん)という別の前方後円墳があります。五条野丸山古墳は墳丘長310メートルで、梅山古墳は墳丘長140メートルです。五条野丸山古墳よりは小さいですが、実は梅山古墳も結構大きな前方後円墳なのです。五条野丸山古墳と梅山古墳は、空間的にも、時代的にも、極めて近いです。梅山古墳の被葬者はだれなのかという問題は、五条野丸山古墳の被葬者はだれなのかという問題と密接に絡んでいます。
五条野丸山古墳と梅山古墳があるあたりは、かつて「檜隈(ひのくま)」と呼ばれていました。これは、確かなことです。
日本書紀には、「五条野丸山古墳」と「梅山古墳」という表記は出てきません。その代わりに、「檜隈坂合陵」と「檜隈大陵」と「檜隈陵」という三つのまぎらわしい表記が出てきます。ここから、「檜隈坂合陵」は「五条野丸山古墳」と「梅山古墳」のどっちなのか、「檜隈大陵」は「五条野丸山古墳」と「梅山古墳」のどっちなのか、「檜隈陵」は「五条野丸山古墳」と「梅山古墳」のどっちなのかという問題が生じてきます。この問題に、歴史学者と考古学者は頭を悩ませてきたのです。
日本書紀にはまず、「檜隈坂合陵」が出てきます。次に、「檜隈大陵」が出てきます。そして最後に、「檜隈陵」が出てきます。
「檜隈坂合陵」という表記は、欽明32年(571年)の記事に出てきます(以下、日本書紀の一連の現代語訳は宇治谷1988より引用)。
九月、檜隈坂合陵に葬った。
「檜隈大陵」という表記は、推古20年(612年)の記事に出てきます。
二月二十日、皇太夫人堅塩媛を、檜隈大陵に改め葬った。この日、軽の街中で、誄を奏上した。第一番目に阿倍内臣鳥が、天皇のお言葉をよみたてまつり霊に物をお供えした。それは祭器・喪服の類が一万五千種もあった。二番目に諸皇子が序列に従って行われ、三番目に中臣宮地連鳥摩侶が蘇我馬子のことばを誄した。四番目に馬子大臣が、多数の支族らを率い、境部臣摩理勢に、氏姓のもとについて誄をのべさせた。時の人がいうのに、「摩理勢・鳥摩侶の二人はよく誄をのべたが、鳥臣だけはよく誄をすることができなかった」と。
「檜隈陵」という表記は、推古28年(620年)の記事に出てきます。
冬十月、さざれ石を、檜隈陵の敷石にしいた。域外に土を積み上げて山を造った。各氏に命ぜられて、大きな柱を土の山の上に建てさせた。倭漢坂上直が建てた柱が、ずば抜けて高かった。それで時の人は名づけて、大柱の直といった。
欽明32年(571年)の記事は、シンプルです。欽明天皇が「檜隈坂合陵」に葬られたと書かれています。
推古20年(612年)の記事には、欽明天皇の妻であった堅塩媛が、「檜隈大陵」に改葬されたことが書かれています。推古天皇と蘇我馬子を含む大勢の人が参加し、誄(死者の生前の功徳をたたえ、哀悼の意を表する言葉)を述べていることや供え物などから、盛大な儀式だったにちがいありません。「檜隈大陵」に改葬されたということは、堅塩媛は当初は別の場所に葬られており、その別の場所から「檜隈大陵」に改葬されたということです。この記事からは、その別の場所がどこなのかはわかりません。「檜隈大陵」という表記は、その書き方からして、梅山古墳よりはるかに大きい五条野丸山古墳を指しているとしか考えられません。堅塩媛は、別の場所から五条野丸山古墳に改葬されたのです。前にお話ししたように、五条野丸山古墳には、二つの石棺が納められていることが古くから知られています。堅塩媛は、別の場所から五条野丸山古墳に改葬され、だれかに並べられたのです。このだれかを、父の蘇我稲目と考える立場と、夫の欽明天皇と考える立場があるわけです。
推古28年(620年)の記事には、「檜隈陵」にさざれ石(細石)を敷いたことが書かれています。これは明らかに、石山とも呼ばれる梅山古墳の特徴です。五条野丸山古墳とは全然合いません。
日本書紀の「檜隈大陵」が五条野丸山古墳であること、そして「檜隈陵」が梅山古墳であることは揺らぎそうにありません。
五条野丸山古墳と梅山古墳の問題の焦点はやはり、五条野丸山古墳が蘇我稲目の墓なのか、欽明天皇の陵なのかという点にあります。
この問題を論じる際に、歴史学者と考古学者はあまり注目してきませんでしたが、筆者は、時間的に少し先行する墳丘長335メートルの河内大塚古墳の存在が無視できないと考えています。河内大塚古墳は、蘇我氏の本拠地とは全然違うところにあり、蘇我稲目のために作られたと考えることは全くできず、欽明天皇のために作られたとしか考えられません。
しかし、この河内大塚古墳は、築造作業が中止され、未完成に終わってしまいます。335メートルの巨大な古墳をかなりのところまで作って、そこで築造作業を中止するというのですから、おおごとです。なぜ築造作業を中止したのでしょうか。それは別のところに作るためでしょう。
これまでお話ししてきたように、欽明天皇は、蘇我堅塩媛と結婚して13人の子どもをもうけ、蘇我小姉君と結婚して5人の子どもをもうけました。蘇我氏とべったりの天皇です。蘇我氏が欽明天皇の陵を蘇我氏の本拠地に作るよう熱烈に招くことは、十分可能でしょう。
しかし、335メートルの巨大な古墳になるはずだった欽明天皇の陵を140メートルの古墳(梅山古墳)にし、大臣の蘇我稲目の墓を310メートルの古墳(五条野丸山古墳)にするかというと、それはありえないでしょう。欽明天皇に付けられた「天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)」という名前からも窺えるように、欽明天皇に対する蘇我氏の思いは特別です。
やはり、335メートルの河内大塚古墳の築造を中止して、新たに作られたのは、310メートルの五条野丸山古墳です。
つまり、欽明天皇が葬られた「檜隈坂合陵」は、五条野丸山古墳です。
実は、「檜隈坂合陵」は五条野丸山古墳、「檜隈大陵」は五条野丸山古墳、「檜隈陵」は梅山古墳という見方は、過去にも示されたことがありました(白石2018)。
筆者は、欽明天皇は「檜隈坂合陵」(五条野丸山古墳)に葬られ、堅塩媛は「檜隈陵」(梅山古墳)に葬られたが、のちに、堅塩媛は「檜隈陵」(梅山古墳)から「檜隈大陵」(五条野丸山古墳)に改葬された可能性が高いと考えています。
この考えには、一つ問題があります。
「陵」というのは、天皇と皇后(あるいは皇后だった者)の墓を指すのです。
欽明天皇の皇后ではなく、妃の一人にすぎない堅塩媛の墓を「檜隈陵」と呼ぶのはおかしいというわけです。しかし、これは、「欽明天皇の皇后は石姫で、堅塩媛は妃の一人にすぎない」という日本書紀の主張を真に受けているからです。
天皇(大王)だった可能性が出てきた蘇我氏、日本史における最大の衝撃の記事で詳しく論じたように、継体天皇の勾大兄皇子と檜隈高田皇子が殺されたという「辛亥の変(しんがいのへん)」が現実味を帯びてきており、石姫が欽明天皇の皇后になった、石姫が産んだ淳中倉太珠敷皇子が次の天皇になったという日本書紀の話が、極めて怪しくなってきています。
欽明天皇は、五条野丸山古墳で、皇后でないはずの堅塩媛といっしょに眠っており、先ほどの推古20年(612年)の記事にあったように、国による盛大な儀式まで行われています。
その一方で、皇后であるはずの石姫は、遠いよそに眠っているのです。
日本書紀の主張とは逆で、「欽明天皇の皇后は堅塩媛で、石姫は妃の一人にすぎない」ような状況になっているわけです。
「欽明天皇の皇后は石姫で、堅塩媛は妃の一人にすぎない」あるいは「欽明天皇の皇后は堅塩媛で、石姫は妃の一人にすぎない」、どっちが本当なのかということですが、筆者は、歴史学者の遠山美都男氏の指摘にも耳を傾けなければならないのではないかと考えています。遠山氏は、以下のように述べています(遠山2022)。
ここで手掛かりになるのは『日本書紀』において推古が即位以前、「皇后」であったと表記されていることである。しかし、そもそも推古の時代に「皇后」と呼ばれる制度的地位はまだ存在しない。皇后は七世紀後半に大王(正しくは治天下大王)から天皇への転換にともなって正式に成立したものであり、大王段階に対応するのは「大后」表記であった。推古は大后から大王へと飛躍・上昇を遂げたことになる。
ここで大后とは何かが問題となるが、それは皇后とは表記が異なるように、皇后とは明らかに歴史的段階を異にする地位・身分であったと言えよう。大后とは皇太子の前身・前提として大兄と呼ばれる地位があったように、皇后の前身・前提を成すべきものと考えるべきである。大后とはいかなる地位だったのであろうか。
ちなみに、『日本書紀』が記す六世紀初頭の継体天皇以後の歴代皇后を示すと、以下の通りである。
手白香皇女(仁賢天皇皇女、継体天皇皇后、欽明天皇母)
春日山田皇女(仁賢天皇皇女、安閑天皇皇后)*所生子なし
橘仲皇女(仁賢天皇皇女、宣化天皇皇后、上殖葉皇子母)
石姫皇女(宣化天皇皇女、欽明天皇皇后、敏達天皇母)
広姫(息長真手王の娘、敏達天皇皇后、押坂彦人大兄皇子母)
額田部皇女(欽明天皇皇女、敏達天皇皇后、竹田皇子・尾張皇子母)
穴穂部間人皇女(欽明天皇皇女、用明天皇皇后、厩戸皇子母)
宝皇女(茅渟王の娘、舒明天皇皇后、天智天皇母)
間人皇女(舒明天皇皇女、孝徳天皇皇后)*所生子なし
倭姫王(古人大兄皇子の娘、天智天皇皇后)*所生子なし
鸕野讃良皇女(天智天皇皇女、天武天皇皇后、草壁皇子母)以上、『日本書紀』に皇后として見える者がもともと大后と呼ばれていたと考えることができよう。七世紀後半の天武天皇の時に天皇号が成立したと考えられるので、最後の鸕野讃良皇女(持統天皇)は大后ではなく初代皇后であったと見なしてよい。
ただ、大后は律令制下において天皇・皇太子とともに王権中枢を構成した皇后のように厳密な制度的地位ではなく、あくまでも敬称・尊称の類いであった。後で見るように、皇太子の前身とされる大兄が同時期に複数存在しえたように、大后も基本的には同時に複数名が並立しうる地位・身分であったと考えられる。
したがって、『日本書紀』が皇后としている者がかつて大后と呼ばれた者のすべてではないことになる。『日本書紀』は天皇一人に対して皇后も一人という後世の制度的な常識をもとに、「一天皇 ─ 一皇后」として大幅に整理・統合が加えられたと見られる。
蘇我堅塩媛(稲目の娘)という非皇族身分の女性を欽明天皇の「大后」と呼んだ例(中宮寺「天寿国繡帳銘」)があり、豪族のなかでも別格とされた蘇我氏の出身女性は大后と呼称された可能性がある。あるいは欽明の王子女を十三人(そのうちの一人が推古天皇である)も生んだ堅塩媛であるからこそ、特別に大后と呼ばれたのかも知れない。
要するに、大王には複数の妻がいるのが普通だったが、唯一無二の「皇后」という地位はなく、存在感の大きな妻が「大后」と呼ばれ、「大后」は複数存在しえたということです。石姫も「大后」、堅塩媛も「大后」だったのではないかということです。
欽明天皇が堅塩媛といっしょに眠り、石姫が遠いよそに眠っていることを考えると、日本書紀が主張する「欽明天皇の皇后は石姫で、堅塩媛は妃の一人にすぎない」というのは、なさそうです。
参考文献
宇治谷孟、「日本書紀(上)」、講談社、1988年。
大山誠一、「天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト」、NHK出版、2009年。
坂本太郎ほか、「日本書紀(一)」、岩波書店、1994年。
白石太一郎、「古墳からみた倭国の形成と展開」、敬文舎、2013年。
白石太一郎、「古墳の被葬者を推理する」、中央公論新社、2018年。
遠山美都男、「新版 大化改新 「乙巳の変」の謎を解く」、中央公論新社、2022年。