ikiru(生きる)の語源を説明する前に、kiri(霧)の話をはさみます。
水を意味していた語が「雨、氷、雪」を意味するようになるパターンはこれまでにたくさん出てきましたが、水を意味していた語が「水蒸気、湯気、霧、雲」を意味するようになるパターンも多いです。気体になったり、液体になったり、固体になったりするH2Oの話です。
細かいことを言うと、水蒸気は気体で目に見えません。空気には水蒸気が含まれていますが、空気の温度によって含むことのできる水蒸気の量が変わります。温度の高い空気は多量の水蒸気を含むことができますが、温度の低い空気は少量の水蒸気しか含むことができません。温度の高い空気が冷やされると(空気は常に限界量の水蒸気を含んでいるわけではありません。限界量の50パーセントの水蒸気を含んでいれば湿度50%、限界量の30パーセントの水蒸気を含んでいれば湿度30%と言います)、今まで含んでいた水蒸気を含みきれなくなってきます。含みきれなくなった水蒸気は、微細な水の粒になって(つまり気体から液体になって)空気中に現れます。この微細な水の粒が、湯気、霧、雲の正体です。湯気、霧、雲は、根本的に同じものです。
日本語のkiri(霧)の語源も「水」のようです。かつてアムール川・遼河周辺に存在した様々な言語は、日本語に非常に大きな影響を与えています。これらの言語は、日本語だけでなく、ツングース系言語にも大きな影響を与えているので、ツングース系言語にも目を向けることが大事です。
ツングース諸語に、エヴェンキ語giri(岸)、ナナイ語giria(森林)(このほかにkira(岸)という語もあります)、満州語girin(地帯)などの語があります。意味にばらつきがありますが、水・水域を意味することができなかった語が陸に上がったのではないかと思わせるところがあります。日本語の語彙も考え合わせると、水・水域を意味するkir-のような語が存在したと見られます。水・水域を意味することができなかった語が端の部分、境界の部分を意味するようになれば、girigiri(ぎりぎり)やkiru(切る)などの語が生まれます。kiri(霧)の語源も「水」でしょう。
水を意味するkir-のような語が広く存在したのであれば、本ブログで再三示しているキチ変化を通じてtʃir-、ʃir-のような語が生じる可能性が高いです。日本語のsira(白)とsiru(汁)は関係があるでしょう。以前にウラル語族のサモエード系にネネツ語のsɨra(雪)スィラのような語があることをお話ししましたが、日本語のsira(白)は、水を意味していた語が雪を意味しようとしたが、最終的にそれが叶わず、白を意味するようになったものと考えられます。日本語のsiru(汁)は、水を意味していた語が水以外の液体を意味するようになったものと考えられます。
水を意味した語は、sir-という形だけでなく、tir-という形でも日本語に入ったかもしれません。怪しいのがtiri(塵)とtiru(散る)です。これらもかつては霧の類を意味し、そこから意味が若干ずれながら、空気中に広がるもの、広がることを意味するようになったのかもしれません。英語のdust(塵)とドイツ語のDunst(霧)が対応しているので、ありえそうな話です。ウラル語族のサモエード系には、ネネツ語のtir(雲)のような語があります。
これらの例からして、北ユーラシアに水を意味するkir-のような語、そしてキチ変化を起こしたtʃir-、ʃir-のような語が存在したことは確実です。水を意味する語が水蒸気、湯気、霧、雲の類を意味するようになることがわかれば、ikiru(生きる)の語源はもうすぐそこです。謎を解く鍵は、人間が吐き出す白い息にあります。遼河のあたりは日本の北海道なみに寒いので、十分に白い息を見ることができます。気温が10°Cぐらいまで下がれば、はっきりと白い息が見えます。
古代北ユーラシアの巨大な言語群で水を意味したjak-、jik-、juk-、jek-、jok-のような語が、yuk-という形だけでなく、yik-またはik-という形でも日本語に入ってきたようです。これに該当するのが、*ika→ike(池)やiki(息)/iku(生く)です。iki(息)は、霧の類を意味していたところから息を意味するようになったのでしょう。そしてiku(生く)は、息をすることを意味していたところから生きることを意味するようになったのでしょう。
※息のことをiki(息)と言うこともあれば、*iko(息)と言うこともあったかもしれません。古代中国語では、sik(息)が息をすることだけでなく、休むことを意味する場合がありました。現代の日本語でも、「一息つく」と言って、休むことを意味する場合があります。*iko(息)からikoɸu(憩ふ)が作られたのかもしれません。
意外ですが、ikaru(怒る)も関係がありそうです。インディアンと日本語の深すぎる関係の記事で、amaru(余る)、aburu(溢る)、abaru(暴る)は「水」から来たのではないかと述べましたが、ikaru(怒る)も「水」から来たと思われます。abaru(暴る)と同様に、ikaru(怒る)ももともと水・水域が荒れ狂うことを意味したのでしょう。同じようなことは、midu(水)とmidaru(乱る)からも窺えます。midu(水)はかつては*mida(水)だったと考えられます。midu(水)が*mida(水)だったとすると、インド・ヨーロッパ語族とウラル語族に一層近づきます(「水(みず)」の語源、日本語はひょっとして・・・を参照)。midara(淫ら)のような語もできました。abaru(暴る)、ikaru(怒る)、midaru(乱る)のような語はどのようにして生まれたのだろうと考えてしまいますが、水のことだったのです。水道などがない遠い昔の人々は、水域の近くに住み、水域に通っていたはずで、水域の様子は大きな関心事だったにちがいありません。
最後に、ama(天)にも言及しておきましょう。インド・ヨーロッパ語族のラテン語nebula(霧)、古代ギリシャ語nephele/nephos(雲)、サンスクリット語nabhas(霧、雲、空)、ロシア語nebo(空)などからわかるように、霧・雲から空への意味変化はよく起きます。インディアンと日本語の深すぎる関係の記事で、北ユーラシアで水を意味したam-、um-、om-のような語が日本語のama(雨)になったとお話ししました。水を意味することができないamaは、雨を意味したり、霧・雲を意味したりしていたと考えられます。その結果が日本語のama(雨)とama(天)です。