前回の記事では、水のことをkum-のように言う人々が朝鮮半島と日本列島にまたがっていたという話をしました。水のことをkum-のように言う人々がいつ頃から朝鮮半島と日本列島のあたりにいたのかというのは、日本の縄文時代を考えるうえで重要な問題です。縄文時代の終わり頃からいた、縄文時代の中頃からいた、縄文時代の初め頃からいたでは、それぞれ意味するところがかなり異なるからです。
水のことをkum-のように言う人々がいつ頃から朝鮮半島と日本列島のあたりにいたのか知ることはできるでしょうか。興味深い問題です。もちろん簡単ではありませんが、不可能というわけでもありません。
例えば、インド・ヨーロッパ語族の「水」を考えてみましょう。印欧祖語で水を意味していた語は、インド・ヨーロッパ語族の多くの言語に残っています。しかし、各言語に残っている語は、全く同じ形をしているわけではありません。例えば、英語water(水)、ドイツ語Wasser(水)、フランス語onde(波)(現代では工学などで用いられるのみ)、ロシア語voda(水)、リトアニア語vanduo(水)は、少しずつ形が違います。同一の語がこのように様々に変化するわけです。容易にわかると思いますが、経過した時間が長ければ長いほど、バリエーション(ばらつき)は大きくなっていきます。
水のことをkum-のように言う言語群が朝鮮半島と日本列島にまたがって分布していましたが、もしこの言語群が朝鮮半島と日本列島のあたりで短い歴史しか持っていなければ、同地域におけるこの言語群の内部のバリエーション(ばらつき)は小さかったと考えられます。逆に、もしこの言語群が朝鮮半島と日本列島のあたりで長い歴史を持っていれば、同地域におけるこの言語群の内部のバリエーション(ばらつき)は大きかったと考えられます。
水のことをkum-のように言っていた言語群は日本語と朝鮮語に語彙を託しており、日本語と朝鮮語の語彙を隅々まで調べることが重要です。そこで、kum-と大して変わらない形の語彙しか見つからなければ、水のことをkum-のように言っていた言語群は朝鮮半島と日本列島のあたりで短い歴史しか持っていないことがわかるし、kum-を含めて多様な形の語彙が見つかれば、水のことをkum-のように言っていた言語群は朝鮮半島と日本列島のあたりで長い歴史を持っていることがわかります。
6000~8000年ぐらいの歴史を持つインド・ヨーロッパ語族とウラル語族の内部のバリエーションは参考になります。仮に、水のことをkum-のように言う言語群の内部のバリエーションがインド・ヨーロッパ語族とウラル語族の内部のバリエーションをはるかに超えていれば、6000~8000年より明らかに長い歴史を持っていると見当がつくし、水のことをkum-のように言う言語群の内部のバリエーションがインド・ヨーロッパ語族とウラル語族の内部のバリエーションに遠く及ばなければ、6000~8000年より明らかに短い歴史しか持っていないと見当がつきます。
水のことをkum-のように言う言語群の内部のバリエーションを調べましょう。
日本語でもその他の言語でもuとoの間は大変変化しやすく、kum-という形があったのであれば、kom-という形があったかどうか真っ先に検討しなければなりません。
実際、奈良時代には、水が入り込んだり、浸透したり、充満したりすることを意味するkomu(浸む)という動詞がありました。現代のkomiageru(こみ上げる)に通じていると考えられます。すっかり抽象的になっているkomu(込む)、komeru(込める、籠める)、komoru(込もる、籠もる)は、中に入ること/中に入れることを意味していますが、これらもひょっとしたらもともとは水関連の語彙だったのかもしれません(komu(込む)、komeru(込める、籠める)、komoru(込もる、籠もる)については、別のところでもう一度取り上げます)。
水のことをkumaと言ったり、komaと言ったりしていたことが窺えます。komayaka(細やか)、komaka(細か)、komagoma(細々)のkoma(細)も関係があるでしょう。このkoma(細)は、線・糸を意味していたと考えられます。水・水域を意味していた語が境を意味するようになり、境を意味していた語が線・糸を意味するようになるパターンです。
kum-とkom-という形があったのであれば、kum-、kub-、kup-、kuw-、kuv-およびkom-、kob-、kop-、kow-、kov-のような形も考えなければなりません。
水を意味するkob-またはkop-のような語から、大(おほ)と多(おほ)、もともと一語だったのはなぜかの記事で触れたkoboru(こぼる)、kobosu(こぼす)、koɸoru(凍る)、koɸori(氷)が作られたのは間違いないでしょう。gobogobo(ごぼごぼ)も同源にちがいありません。
水を意味するkum-、kub-、kup-、kuw-、kuv-およびkom-、kob-、kop-、kow-、kov-のような語から来ていると考えられる語彙は日本語の中にたくさんありますが、ここでは奈良時代のkuɸasiとkoɸasiを追加するにとどめます。
奈良時代のkuɸasiは細さ・細かさ・繊細さを意味していました。「水・水域」→「境」→「線・糸」のパターンでしょう。奈良時代のkuɸasiは現代のkuwasii(詳しい)になりました。
奈良時代のkoɸasiはかたさを意味していました。「水・水域」→「氷」→「かたさ」のパターンでしょう。奈良時代のkoɸasiは現代のkowai(怖い)になりました。少し奇妙な感じがするかもしれませんが、「かたい」→「強固な、頑強な」→「おっかない、恐ろしい」という意味変化がありました。
やはり、kum-という形だけでなく、ある程度バリエーションがあったことがわかります。これは十分に予想されたことです。焦点となるのは、バリエーションが上に示した程度なのか、それともそれを超えるのかという点です。どうやら、はるかに超えるようです。