言語学者を悩ませてきたインディアン諸語の関係

まずは、説明のために南米の地図を示します。

ケチュア語の分布域は、エクアドル、ペルー、ボリビアを中心として、コロンビア、チリ、アルゼンチンにも少し入り込んでいます。ケチュア語を使用していたインカ帝国の首都クスコは今のペルーの南部にありました。アイマラ語の分布域は、それよりは小さく、ペルー、ボリビア、チリが接しているあたりです。ケチュア語のyaku(水)とアイマラ語のuma(水)に目を向けましょう。

「水」を意味する語がなかなか変わらないことはすでにインド・ヨーロッパ語族とウラル語族の例で示していますが、ケチュア語のyaku(水)もインディアンが南米に入った時から使われ続けていると考えられます。なぜそう考えられるかというと、南米の西側だけでなく、南米の東側でも、ケチュア語のyaku(水)に関係がありそうな語が広く見られるからです(前回の記事の西ルートと東ルートの話を思い出してください)。

かつて北ユーラシアに水のことをjak-、jik-、juk-、jek-、jok-(jは日本語のヤ行の子音)のように言う巨大な言語群が存在し、この言語群がインド・ヨーロッパ語族やウラル語族に大きな影響を与えたようだと述べました。ウラル語族のフィンランド語jää(氷)ヤー、ハンガリー語jég(氷)イェーグ、フィンランド語joki(川)ヨキ、ハンガリー語jó(川)ヨーなどでは語頭の子音jが残っていますが、インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト語ekuzi(飲む)、トカラ語yoktsi(飲む)、ラテン語aqua(水)のように時に語頭の子音jが消えることもあります。おそらく、古代ギリシャ語で大きな川または海を意味したokeanosも、ラテン語のaqua(水)と同様で、インド・ヨーロッパ語族の外に語源があると思われます。古代ギリシャ語に語彙を提供した言語と、ラテン語に語彙を提供した言語で、すでに語形がかなり異なっていたのでしょう。古代ギリシャ語のokeanos(大きな川または海)から英語のocean(大洋)も来ています。

ケチュア語のyaku(水)は語頭の子音jを保っていますが、南米のインディアンの言語でも語頭の子音jが消えることが多かったようです。アンデス山脈より東側の地域(ブラジルおよびその周辺)に大きく広がっているアラワク系の言語、ゲ系の言語、トゥピ系の言語を見てみましょう。

トゥピ系のグアラニー語は、南米のインディアンの言語の中ではケチュア語に次ぐ大言語です。グアラニー語では、水のことをyと言います。グアラニー語の語形はすっかり崩れていますが、互いに近い言語でトゥパリ語yika(水)イカ、メケンス語ɨkɨ(水)イキ、マクラップ語ɨ(水)のようになっており、グアラニー語の語形もこのような感じで崩れたと見られます。本ブログではキチ変化と呼んでいますが、ikiがitʃiイチ/iʃiイシになったり、ikeがitʃeイチェ/iʃeイシェになったりする変化は非常に起きやすく(先ほどの古代ギリシャ語のokeanosと英語のoceanもそうです)、ムンドゥルク語idibi(水)やカリティアナ語ese(水)なども十分予想される範囲内です。トゥピ系の「水」も、ケチュア語のyaku(水)と同様に、jak-、jik-、juk-、jek-、jok-のような形から来ていると見られます。

アラワク系の言語とゲ系の言語はもっと事情が複雑なので、トゥカノ系の言語の例をはさみます。

トゥカノ系の言語は、コロンビア、エクアドル、ペルー、ブラジルが接しているあたりで話されています。このあたりはアマゾン川の上流域で、そこからアマゾン川は東へ流れていきます。トゥカノ系の言語では、ほとんどの言語でトゥカノ語oko(水)、バラサノ語oko(水)、クベオ語oko(水)のようになっています。ピラタプヨ語ako(水)やグアナノ語ko(水)のような形もあります。

このトゥカノ系の言語の例を頭に入れながら、アラワク系の言語とゲ系の言語を見てみましょう。

アラワク系の言語は、言語の数が非常に多いです。アラワク語ではoniabo(水)と言いますが、アラワク系の言語全体を見渡すと、多くの言語でピアポコ語uni(水)やクリパコ語oni(水)のようになっています。少数ながら、ユクナ語huni(水)、レシガロ語honi(水)のような形、ワレケナ語weni(水)、ヤビテロ語weni(水)のような形、あるいはマチゲンガ語nia(水)、アシャニンカ語nixa(水)ニハのような形もあります。

ゲ系の言語では、シャバンテ語â(水)、パナラ語ko(水)、カヤポ語ŋo(水)ンゴ、カインガン語ŋoy(水)ンゴイのようになっています(シャバンテ語のâ(水)の発音は曖昧母音の[ə]です。少し前までは頭子音kがありましたが、それが消えてしまいました)。

ちなみに、南米の南のほうでは、インディアンの言語はマプチェ語を除いてほぼ絶滅の状態です。マプチェ語自身も孤立しており、近い系統関係を持つ言語が次々に消えていったと見られます。マプチェ語でも、ko(水)と言います。

インディアンが南米に入ってから15000~16000年ぐらい経っています。インド・ヨーロッパ語族の歴史の倍ぐらいあります。言語学者が南米のインディアンの言語の系統関係を明らかにしようとして、大きな壁にぶつかったのは当然です。大体、はるかに詳しく調べられてきたユーラシア大陸とその周辺の言語でさえ、歴史を15000~16000年ぐらい遡るなんていうことは全然できていないのです。そんな状態で、南米のインディアンの言語の系統関係を明らかにしようとしても、無理があります。

上では有力な言語・言語群を少し紹介しただけですが、南米のインディアンの諸言語を詳しく調べると、「やはり系統関係がありそうだ」という感じがするとともに、「系統関係があっても容易には明らかにできそうにない」という感じもします。

まず、長らく行われてきたユーラシア大陸とその周辺の言語の研究に大きな不備があり、この不備を修正・改善する必要があります。ここでいったん、話をユーラシア側に戻します。

立ちはだかるアンデス山脈とアマゾン熱帯雨林

南米に入ったインディアンがどのように広がっていったのかということも明らかになってきています。すでに述べたように、アメリカ大陸のインディアンのミトコンドリアDNAにはA、B、C、D、Xという五つの系統が見られますが、南米のインディアンに限ればA、B、C、Dの四系統です。A、B、C、Dそれぞれの下位系統を細かく明らかにし、個々の下位系統の分布を調べれば、インディアンが南米にどのように広がっていったのかわかります。

このような研究は充実してきており、例えばGómez-Carballa 2018では、ミトコンドリアDNAのB系統の下位系統を詳しく調べています。南米で最も有名なケチュア語の話者、そしてそのすぐそばで話されているアイマラ語の話者のミトコンドリアDNAは、大部分がB系統です(Batai 2014)。ケチュア語とアイマラ語の話者は、南米の西を縦に走るアンデス山脈沿いにいます。以下の地図は、Gómez-Carballa氏らが、B系統の下位系統の分布を詳しく調べた結果に基づきながら、南米におけるインディアンの移動・拡散を大雑把にスケッチしたものです。

見ての通り、南米のインディアンの移動・拡散の仕方は独特です。なぜこのようになるかというと、南米の西を走るアンデス山脈と南米の北部に広がるアマゾン熱帯雨林が大きな障壁になっているためです。アンデス山脈とアマゾン熱帯雨林のために、南米に入ったインディアンの移動・拡散が制限されただけでなく、各地に広がったインディアンは再び交わりにくくなっています。地形的な理由から、人々が分散し、その後も分散したままになるという状況が発生しやすいのです。

言語の歴史を解明するという観点からすると、これは都合のよいことです。分散した言語が再びごちゃごちゃに交わるより、分散したままになっているほうが、歴史を見通しやすいからです。しかし、都合のよいことばかりではありません。コロンブスを先頭にヨーロッパの人々がやって来てから、戦いと伝染病でインディアンが激減してしまったのは痛手です。

南米のインディアンの言語同士の関係はあまり明らかになっていません。上に示した地図で、南米の入口のところ(左上のところ)から二つの経路に分かれています。ここでは西ルートと東ルートと呼びましょう。西ルートのほうには、すでにお話しした14500年前ぐらいのものと推定されるモンテベルデ遺跡があります。東ルートのほうも、モンテベルデ遺跡より若干遅れる遺跡がいくつか見つかっており、歴史は浅くありません(Bueno 2013)。仮に、南米のインディアンの諸言語が、15000~16000年前ぐらいに南米の最北西部に存在した一つの言語から分かれてできたという最も単純なシナリオを想定しても、15000~16000年ぐらいの歴史があるわけです。これですら、インド・ヨーロッパ語族の歴史の倍ぐらいあります。

筆者は、インド・ヨーロッパ語族とウラル語族の言語の研究歴は長いですが、インディアンの諸言語の研究歴は長くありません。インディアンの言語に注目するようになってから、さほど年数は経っていません。インディアンの言語に注目できるようになるまでが、実に長い道のりでした。インディアンの諸言語の研究に関しては、まだまだこれからという感じで、とても網羅的に語ったり、まとめて語ったりすることはできませんが、展望のようなものは持っているので、少しお話しすることにします。まずは、ケチュア語のyaku(水)とアイマラ語のuma(水)の話を続けましょう。

 

参考文献

Batai K. et al. 2014. Mitochondrial variation among the Aymara and the signatures of population expansion in the central Andes. American Journal of Human Biology 26(3): 321-330.

Bueno L. et al. 2013. The Late Pleistocene/Early Holocene archaeological record in Brazil: A geo-referenced database. Quaternary International 301: 74-93.

Gómez-Carballa A. et al. 2018. The peopling of South America and the trans-Andean gene flow of the first settlers. Genome Research 28(6): 767-779.

ベーリング陸橋、危ない橋を渡った人々

南米のケチュア語のyaku(水)やアイマラ語のuma(水)は大変注目されますが、南米のインディアンの言語を調べる前に付け足しておきたいことがあります。

閉ざされていたアメリカ大陸への道の記事では、Last Glacial Maximum(最終氷期最盛期)が終わり、北米にでき始めた通路(海岸ルートと内陸ルート)を通って、インディアンがアメリカ大陸に進出していったことをお話ししました。これは、LGMが終わった直後の話です。その前に、LGMの最中の話があります。LGMの直後の様子だけでなく、LGMの最中の様子も明らかになりつつあります。

現在では、ユーラシア大陸の北東部とアメリカ大陸の北西部はつながっておらず、ベーリング海峡になっています(海峡というのは、陸と陸に挟まれて、海が狭くなっているところです)。ベーリング海峡のある辺りはかつて陸続きで、この陸続きの部分は一般にベーリング陸橋と呼ばれます(ベーリング地峡と呼ばれることもあります)。LGMにベーリング陸橋にいた人々が、LGMが終わってでき始めた通路を通ってアメリカ大陸に進出していったのです。ここで、重要なことがあります。どうやら、LGMが終わってアメリカ大陸に進出していった人々は、何千年か続いたLGMの間、ベーリング陸橋に閉じ込められていたようなのです。

現生人類が3~4万年前に北ユーラシアのあちこちに現れていたことはすでに述べました。LGMは2万数千年前から始まりますが、それよりも前に人類が北極海の近くまで来ていたこともわかっています(Pitulko 2004)。以下の地図は、Pitulko 2004からの引用で、同論文で記述している3万年前ぐらいのヤナ川流域の遺跡の位置を示しています。

LGMよりも前に人類がベーリング地方からやや離れたところまで来ていたというのは、大きな発見です。上の地図に描かれているシベリア東部は、特に寒さが厳しい地域です。ロシアのヤクーツクやオイミャコンからマイナス50℃になった、マイナス60℃になったというニュースがよく入ってきますが、それはこの地域です。氷期でなくてもそのような地域が氷期になったら、まして氷期の最盛期になったらどうなるでしょうか。

LGMのベーリング陸橋は、西側は人間が住めないほど寒さが厳しくなったシベリア、東側は完全に氷にブロックされて進めない北米という状況に置かれたと見られます。そのシベリアと北米の間で立ち往生した人たちがいたのではないかというのが、E. Tamm氏らが提唱するBeringian Standstill(ベーリング地方での足止め)という仮説です(Tamm 2007)。以下の地図は、Tamm 2007からの引用で、ユーラシア側とインディアン側の詳しいミトコンドリアDNAのデータに基づきながら、過去にユーラシア大陸とアメリカ大陸の間でどのような人間の移動があったか推定しています。

入り組んでいるので、解説を加えます。①は、LGMが始まる少し前に人間集団がベーリング地方にやって来たことを示しています。②は、LGMが始まってベーリング地方の人間集団が閉じ込められ、何千年か続くLGMの期間中に、のちにアメリカ大陸に進出することになるミトコンドリアDNAの系統(A2、B2、C1b、C1c、C1d、C4c、D1、D4h3、X2a)が出揃ったことを示しています。ベーリング地方に閉じ込められた時から、インディアン側のA、B、C、D、X系統は、ユーラシア側のA、B、C、D、X系統とは違う独自の道を歩み始めたのです。③は、LGMが終わって閉鎖が解け、人々がアメリカ大陸とユーラシア大陸へ移動していったことを示しています。④は、それより後の時代に、すでに貫通している空間を東から西に移動していった人々、西から東に移動していった人々がいたことを示しています。

インディアン側のA、B、C、D、X系統を詳しく調べたFagundes 2008などの他の研究でも、インディアン側のA、B、C、D、X系統がLGMと大体一致する年代から独自の道を歩み始めていることが示されており、Beringian Standstill仮説は現実味を帯びています。

上の地図は、要するに、「人間集団がベーリング地方にやって来た」→「ベーリング地方が閉鎖空間になった」→「閉鎖空間が開放されて、人々が右と左に移動していった」→「その後も左から右に向かう移動、右から左に向かう移動があった」という歴史展開を示しています。LGMによるベーリング地方の閉鎖が頭に入っていれば、自然に考えられる歴史展開です。このような歴史展開があったことは、ユーラシアの言語とインディアンの言語を比べる際に覚えておかなければなりません。

それにしても、一般に海の近くは内陸ほど寒くならないとはいえ、Last Glacial Maximum(最終氷期最盛期)のベーリング地方に閉じ込められたのは、結構厳しい事態だったのではないでしょうか。LGMに直面して、北ユーラシアのほとんどの人は南下していったことでしょう。インディアンは、図らずも危ない橋を渡ることになった人々といえるかもしれません。

それでは、LGMの後にでき始めたルートを通って南米に入っていったインディアンを追跡することにしましょう。

 

参考文献

Fagundes N. J. R. et al. 2008. Mitochondrial population genomics supports a single pre-Clovis origin with a coastal route for the peopling of the Americas. American Journal of Human Genetics 82(3): 583-592.

Pitulko V. V. et al. 2004. The Yana RHS site: Humans in the Arctic before the last glacial maximum. Science 303(5654): 52-56.

Tamm E. et al. 2007. Beringian standstill and spread of Native American founders. PLoS One 2(9): e829.