梅原猛氏、上山春平氏、大山誠一氏らの研究によって浮かび上がってきた藤原不比等の存在は、日本の歴史を考えるうえで非常に重要で、本ブログでも大きく取り上げます。
前回の記事でお話ししたように、藤原不比等は、天武天皇の後を継いだ持統天皇の時代に頭角を現します。
当時は、中国の法体系を見習った日本の法体系を作っている時期でした。この法体系またはそれに基づく国の体制は、律令制(りつりょうせい)と呼ばれます。中国の「律」(刑法)と「令」(行政法その他)から来ています。
日本の律令制を確立する作業の中心にいたのが、藤原不比等でした。従来は、藤原不比等といえば、この律令制を確立した政治家というイメージでした。しかし、梅原氏、上山氏、大山氏らの研究によって、そのイメージが変わってきました。
上山氏が当時の中国の政治体制と日本の政治体制をわかりやすく比較しています(上山1985)。確かに、日本は中国の法体系を見習ったのですが、もとになった中国の法体系とできあがった日本の法体系には違いもあり、特に違いが著しいのが、中国の皇帝と日本の天皇です。中国の皇帝が絶大な権力を持つのに対し、日本の天皇は権力を剥ぎ取られた格好になっています。現代の日本の話をしているのではありません。藤原不比等の時代の日本の話をしているのです。
日本の律令制では、天皇の傍らに「太政官」(だいじょうかん)というものが置かれました。「太政官」は、一人の人間ではなく、何人かの人間から成る組織・機関です。ここで注目すべきなのは、政治は「太政官」に委ねられ、天皇は単に祭祀を行う存在になってしまったことです(祭祀というのは、神霊相手の儀式で、慰めたり、祈ったり、感謝したり、崇めたりします)。日本の法体系を整えますよと言いつつ、さりげなくあるいは巧妙に、天皇を政治から外したのです。日本の天皇は、中国の皇帝とは全然違う運命を辿ることになります(うしろを読んでいただければわかると思いますが、天皇がなぜ残っているかというと、権力を持っていないからです)。
律令制より少し遅れて日本書紀が完成し、日本の奇妙な展開が始まります。政治から外された天皇は、どうでもよい存在になったのかというと、そうはなりません。読んでの通り、日本書紀は、神の子孫として天皇を崇拝させる気満々です。どうなるかというと、天皇を神の子孫として崇拝させつつ、違う人間が政治決定を下すという構図ができるのです。なんか、おなじみというか、鮮明に目に浮かぶ構図です。
恐ろしいのは、この構図は偶然生じたのではなく、計算されていたであろうということです。
藤巻一保氏が「偽史の帝国〝天皇の日本〟はいかにして創られたか」という著作で明治から戦後にかけての日本の歴史を冷静・冷徹に描いています。藤巻氏は、以下のように書いています(藤巻2021)。
神輿に担がれたシンボルとして生きるという生き方は、天皇家の伝統といってよい。神輿の争奪戦は、過去から連綿とつづいてきた。古い担ぎ手が斃され、新たな担ぎ手が表舞台に出てくるというのが「天皇の国」の歴史の大半で、皇居の外が神輿の争奪戦でいかに騒然となっていようとも、神輿そのものはおおむね安泰だった。鎌倉倒幕に動いた後鳥羽天皇や、室町倒幕に動いた後醍醐天皇のように、神輿から飛び出してその手に実権をにぎろうとした天皇は、まったく例外的な存在だった。
武家政権の最後の担ぎ手となった徳川家康は、天皇家を京都御所という事実上の座敷牢に封じこめ、文化的な権威と多少の権力、小大名程度のわずかな食禄(禁裏御料、当初は一万石でのちに三万石になった)を与えて、政治にはいっさい関わらせない体制をつくった。しかも天皇家は、時代が進むにつれてこの暮らしに次第になじんでいき、安住するまでになった。
明治になり、新たな担ぎ手である薩長幕府の不動のエースとなった伊藤博文は、表向きはいっさいの権力を天皇に集中させるとともに、天皇家を日本一の大財閥に仕立てあげ、政治的には政府を筆頭とする補弼機関が国家全体を動かすという秀逸なシステムをつくりあげた。形態こそ前代とは異なっているが、天皇が神輿のなかの御神体であることに変わりはなかった。
伊藤がはしなくも漏らした本音を、東京医学校教師としてドイツから招かれ、宮内省侍医も勤めたベルツが日記に書き留めている。明治三十三年(一九〇〇)五月の明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)と九条節子(貞明皇后)の結婚に関する会議の席上、なかば有栖川宮のほうに顔を向けて、伊藤がこういったというのだ。
「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいながら伊藤は、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたのである。(五月九日条)
天皇を神の子孫として崇拝させつつ、違う人間が政治決定を下すという構図は、明治以降露骨になり、狂気といえるほどエスカレートし(日本は神の子孫である天皇が統治する国であるという意識、そして他国はそうでないという意識から、どんどん尊大で過激な態度になっていきます)、最終的には第二次世界大戦での敗北にまで至ります。上述の藤巻氏の著作は、その過程を鮮やかに示した著作です。
第二次世界大戦後に、東條英機は、東京裁判の宣誓供述書で以下のように述べました(藤巻2021)。
天皇は自己の自由の意思をもって、内閣及び統帥部[陸軍参謀部と海軍軍令部]の組織を命ぜられませぬ。内閣及び統帥部の進言は拒否せらるることはありませぬ。天皇陛下の御希望は[常時補弼の任にある]内大臣の助言によります。しかもこの御希望が表明せられました時においても、これを内閣及び統帥部においてその責任において審議し上奏します。この上奏は拒否せらるることはありませぬ。これが我国史上空前の重大危機における天皇陛下の御立場であられたのであります。現実の慣例が以上の如くでありますから、政治的、外交的及び軍事上の事項決定の責任は、全然内閣及び統帥部にあるのであります。
ここに、ドイツのヒトラーやイタリアのムッソリーニとは異なる日本の天皇の微妙な立場(外国からするとわかりにくい立場)があります。
藤原不比等の時代に行われたことは、現代の日本に無関係な遠い昔の話ではありません。その後の日本の歴史全体に特大の影響を与えており、現代の日本にも影を落としています。
マッカーサーの腹心であったフェラーズからマッカーサーへの報告書に、以下のように記されています(藤巻2021)。
天皇の退位や絞首刑は、日本人全員の大きく激しい反応を呼び起こすであろう。日本人にとって天皇の処刑は、われわれにとってのキリストの十字架刑に匹敵する。そうなれば、全員がアリのように死ぬまで戦うであろう。軍国主義者のギャングたちの立場は、非常に有利になるであろう。・・・・・・天皇にだけ責任を負う独立した軍部が日本にあるかぎり、それは平和にたいする永久の脅威である。しかし、天皇が日本の臣民にたいしてもっている神秘的な指導力や、神道の信仰があたえる精神的な力は、適切な指導があれば、必ずしも危険であるとは限らない。日本の敗北が完全であり、日本の軍閥が打倒されているならば、天皇を平和と善に役立つ存在にすることは可能である。
※フェラーズが「軍国主義者のギャングたち」と呼んでいるのは、天皇のまわりにいる軍閥のことです。フェラーズは、戦争を起こしているのが天皇ではなく、天皇のまわりにいる軍閥であることを見抜いたうえで、上のように言っているのです。
当時の日本は、古事記と日本書紀の神話(天皇が神の子孫であるという話)に異を唱えられる国ではありませんでした。大日本帝国憲法からして「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス、皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス、天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス・・・」という憲法です。異論の余地はないのです。
現代の日本では、古事記と日本書紀は学校教育に入っていませんが、これはGHQが危険とみなして外したからであって、日本が自発的に外したわけではありません。
※GHQは、第二次世界大戦で敗北した日本を占領・管理するための連合国の機関です。上に「古事記と日本書紀」と書きましたが、正確に言うと、古事記と日本書紀は漢文で書かれていて、普通の日本人は読めないので、古事記と日本書紀の内容をもとにした教材が与えられていました。
GHQに言われていやいや教材を引っ込めただけで、古事記と日本書紀に対する日本の認識が変わったわけではなく、実はまだ危険が残っています(補説も参照)。
古事記と日本書紀の問題は、依然として日本に突き刺さっています。古事記と日本書紀が弥生時代から奈良時代にかけての日本の歴史をぐちゃぐちゃに歪めているので、どうしても古事記と日本書紀を無視することはできません。これは、民族の問題を考える場合にもそうだし、言語の問題を考える場合にもそうだし、政治の問題を考える場合にもそうです。
歴史学者の井上光貞氏が、以下のように述べています(井上2005)。
歴史をまとめるばあい、過去のことを記録しておきたいというすなおな動機もたしかにあるだろう。しかし国家や宗教の支配層に属する公の機関が歴史をまとめるばあい、そこに自分たちの支配体制を歴史的に肯定しようという意図がしばしば一本の筋となって貫かれている。つまり、自分たちが君臨しているのは偶然のことではなく、本来、当然そうあるべきだったのだ、ということを自他ともに示したい動機がひそんでいるのである。とすれば、どうしても、自分たちに都合のわるいことはタブーとしてなるべく書かないし、実際にはなかったことでも書きたくなるであろう。したがって、自分たちに都合のわるい事実を明らかにする者が出ると、世を惑わす者として処罰するといったことも起こってくる。そして、これらの支配体制が変革をうけると、たちまち歴史が書きかえられるのである。
このような「歴史」のありかたは、古今東西に共通してみられることで、ここに例をあげるまでもないとおもう。しかし、このような「歴史」のありかたを克服したときに、はじめて近代的な文明国になったといえるのではないだろうか。
私も、井上氏と同じようなことを思います。
井上氏が指摘しているのは、深刻な問題です。
人々が、遠い過去ではなく、近い過去(日本なら、明治から令和)のことをどれだけ知っているだろうと考えてみても、深刻な問題です。
支配層が自分に都合の悪いことを知られないようにするというのは、昔に限った話ではないからです。
過去を正確に知らないと、なぜ現在のようになっているのか理解することができません。
変わっていない認識
第二次世界大戦で敗北した後の昭和21年の元日に、昭和天皇は詔書を発しました。この詔書は、今日では「人間宣言」と呼ばれています。詔書には、以下のように述べられています。
朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。
現御神(あきつみかみ)というのは、奈良時代から用いられてきた言葉で、「この世に人間の姿で現れている神」という意味です。現人神(あらひとがみ)も同じ意味です。人間宣言では、「天皇は現御神である、日本人は他の民族より優れた民族である、世界を支配しなければならない運命にある」というのは架空の観念とされています。
実は、上の詔書が発せられる前に、日本とアメリカの間で以下のような応酬がありました(藤巻2021)。
日本側:「日本人は神の子孫である」というのは架空の観念である。
↓
アメリカ側:「天皇は神の子孫である」というのは架空の観念である。
↓
日本側:「天皇は現御神である」というのは架空の観念である。
最終的に、日本側の文案が通ります。日本側の思惑通りです。一見まるくおさまったように見えますが、そうではありません。藤巻氏は、以下のように鋭く指摘しています(藤巻2021)。
人間宣言をめぐっては、今日にいたるまで天皇による現人神説の否定部分に焦点をあてた論説ばかりがおこなわれてきた。しかし、この詔書のもつほんとうの意味、もっと重要なポイントは、右に記したとおり、天皇を「神の裔」とする観念を保存することに成功したところにこそあったのである。
藤巻氏の指摘通り、日本側は「天皇は神の子孫である」という主張を死守しています。天皇は神なのか、人間なのか、ポイントはそこではないのです。詔書を発する前から、昭和天皇は、以下のように言っていました(藤巻2021)。
「本庄だったか、宇佐美だったか、私を神だと云うから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない、そういう事を云われては迷惑だと云ったことがある」
日本に特大の問題をもたらしたのは、古事記と日本書紀の「天皇は神の子孫である」という主張です。天皇は神なのか、人間なのかというのは、ポイントがずれているのです。そのようにしてポイントをずらし、「天皇は神の子孫である」という主張を死守するのが、日本側の思惑だったわけです。
第二次世界大戦で、日本が形勢不利になっていき、敗北に至ったことは、皆が知っています。しかし、敗北に至るまでの過程をよく見ると、「(このままでは)神の子孫である天皇が統治する国が消滅してしまう!」→「いかん!」→「敗北を認めよう!」という展開だったのです。
戦前も、戦中も、戦後も、日本は「天皇は神の子孫である」という主張にしがみついているのです。
天皇という地位の継承者である昭和天皇自身は、藤巻氏が記しているような状態にありました(藤巻2021)。
このように、昭和天皇は一貫して自分が現人神だということについては否定していたが、自分が「神の裔」だという点については、「架空」と認めることはできなかった。
参考文献
井上光貞、「日本の歴史<1> 神話から歴史へ」、中央公論新社、2005年。
上山春平、「天皇制の深層」、朝日新聞社、1985年。
藤巻一保、「偽史の帝国〝天皇の日本〟はいかにして創られたか」、アルタープレス、2021年。