卑弥呼(ひみこ)と卑弥弓呼(ひみくこ)、なぜこんなに名前が似ているのか、両者の関係とは

魏志倭人伝には、以下の記述があります(藤堂2010)。

其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯・烏越等詣郡、說相攻撃狀。遣塞曹掾史張政等因齎詔書・黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。

其の八年、太守王頎、官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯・烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因りて詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為りて之に告喩せしむ。

「其八年」というのは、中国の「正始八年」、すなわち「西暦247年」のことです。倭王の卑弥呼(ひみこ)が狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)と対立し、戦いが起きていることを伝えています。「素不和(素(もと)より和せず)」という表現は、注意を引きます。卑弥呼にとって、卑弥弓呼は、新しく現れた敵対者ではなく、昔から知っている敵対者だったということです。

前回の記事では、昔の日本語に統治者・支配者を意味するɸikoという語があったようだと述べました。この統治者・支配者を意味するɸikoが、目上の男に対して使われる敬称になったり、目上の男を意味するようになったり、一般に男を意味するようになったり、男の名前に組み込まれたりしたわけです。

上記の支配者・統治者を意味するɸikoはもちろんですが、ɸimiko(卑弥呼)とɸimikuko(卑弥弓呼)という名も注目に値します。ɸimiko(卑弥呼)とɸimikuko(卑弥弓呼)という名がよく似ていることから、これらは人名というより、地位に付けられた名であろうと述べました。

ɸiko、ɸimiko、ɸimikukoのほかに、もう一つ注目したい言葉があります。それは、卑弥呼よりも後の時代の日本で、天皇などに対して用いられたɸinomiko(日の御子)という言葉です。ɸiko、ɸimiko、ɸimikuko、ɸinomikoと並べてみると、統治者・支配者を意味していたɸikoという語は、ɸi(日)とko(子)がくっついた語だったのだろうと推測できます。

この推測には、無理がありません。古代中国にthen(天)テンとtsi(子)ツィをくっつけたthen tsi(天子)テンツィという語があり、これが統治者・支配者を意味していましたが、それと同様の発想です。

卑弥呼が即位する場面を思い出してください(日本の誕生のからくり、まさかこのようにして生まれた国だったとは・・・などを参照)。九州連合と本州・四国連合の間で行われた倭国大乱が終わり、各国の王たちが卑弥呼を共立する場面です。

当時の日本列島にはいくつもの国があり、それぞれの国に統治者・支配者がいました。それらの統治者・支配者が連合を作り、この連合の最高位に一人の少女を据えました。この地位は、従来の統治者・支配者の地位とは違います。この地位は、従来の統治者・支配者の地位の上に作られた別格の地位です。だから、従来のɸiko(日子)という言葉は使わず、特別なɸimiko(日御子)という名が付けられたと見られます。mi(御)は尊敬・畏敬の念を表す接頭語です(例えば、kokoro(心)からmikokoro(御心)が作られます)。太陽を意味するɸi(日)と尊敬・畏敬の念を表すmi(御)と子どもを意味するko(子)から作られたのがɸimiko(日御子)ですから、共立された一人の少女をこのように呼ぶことに問題はありません。

ɸiko(日子)、ɸimiko(日御子、卑弥呼)、ɸinomiko(日の御子)は理解しやすいですが、難解なのがɸimikuko(卑弥弓呼)です。ɸimikuko(卑弥弓呼)のɸiはɸi(日)、miはmi(御)、koはko(子)と予想されますが、ɸimikuko(卑弥弓呼)のkuはなんでしょうか。

ɸimikuko(卑弥弓呼)とは何者なのか、その位置づけを考えてみましょう。ɸimikuko(卑弥弓呼)というより、ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力の位置づけと言ったほうがよいかもしれません。以下は、倭国大乱の構図です。

倭国大乱を戦った九州連合と本州・四国連合、そしてどちらの連合にも属さない外部に分けてあります(「九州連合」と呼んでいますが、九州のすべての勢力が参加していたわけではありません。同様に、「本州・四国連合」と呼んでいますが、本州・四国のすべての勢力が参加していたわけではありません)。ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力は、どこにいた勢力でしょうか。

まず考えにくいのが、九州連合です。九州連合は倭国大乱で敗れ、地方官(一大率など)を置かれて恐れているあるいは従順になっている様子が魏志倭人伝から窺えます(ところで、邪馬台国九州説はどうなってしまったのかを参照)。近畿にいた卑弥呼たちと戦う勢力は、近畿か近畿からそれほど離れていないところにいた可能性が高いです。

ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力は、「外部」出身か、「本州・四国連合」出身かということになります。ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力が「外部」出身だったとしたら、本州・四国連合は九州連合を下した後に、別の敵を抱えたのかもしれません。ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力が「本州・四国連合」出身だったとしたら、本州・四国連合は九州連合を下した後に、内部で分裂したのかもしれません。

筆者は、ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力は、「本州・四国連合」出身である可能性が高いと考えています。

昔の日本語に統治者・支配者を意味するɸiko(日子)という語があって、これを変形したと考えられるのがɸimiko(日御子、卑弥呼)です。ɸimikoという名は、倭国大乱が終わって一人の少女が共立される時に生まれたものでしょう。ɸimikoという名をさらに変形したと思われるのが、ɸimikukoです。

ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力が「本州・四国連合」出身だったとしたら、本州・四国連合は九州連合を下した後に、内部で分裂したのかもしれないと述べました。この可能性は高いです。卑弥呼が即位する場面を思い出してください。九州連合を倒した本州・四国連合の王たちは、だれを連合の最高位にするかもめ、象徴として一人の少女を最高位に据えました。当然のことながら、象徴として一人の少女を最高位に据えるというやり方に賛成しない王たちもいたにちがいありません。

筆者は、ɸimikoからɸimikukoを作る時に加えられたkuは、「男」を意味する語だったのではないかと考えています。ɸi(日)、mi(御)、ko(子)から成るのがɸimikoで、ɸi(日)、mi(御)、*ku(男)、ko(子)から成るのがɸimikukoです。ɸimikukoという名は、一人の少女を最高位に据えることに反対する立場から生まれたものだということです。「なんでこんな女が最高位なんだ」という姿勢がむき出しになっているようにも見えます。ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力は、倭国大乱の時には本州・四国連合に参加していたが、卑弥呼の共立には賛成せず、離反したのでしょう(あるいは、最初は卑弥呼の共立に賛成して、途中で離反した可能性も考えられなくはないかもしれません)。

問題は、「男」を意味する*kuという語があったかどうかです。これは確実といってよいです。古代中国語のkjun(君)キウンが日本語に入り、「男」を意味していたことは、すでに挙げた以下の語彙から明らかです。

wotoko「若い盛りの男性」とwotome「若い盛りの女性」
okina「年をとった男性」とomina「年をとった女性」
woguna「男の子」とwomina「女の子」
izanaki「男の神であるイザナキ」とizanami「女の神であるイザナミ」

昔の日本語では、kiunとは言えず、kinともkunとも言えないので、ki、ku、kina、kunaのようになるしかないわけです。

冒頭の魏志倭人伝の一節は、卑弥呼側と卑弥弓呼側が戦っており、卑弥呼の使いがそのことを中国に知らせ、中国の使いが詔書と軍旗を持ってきたところです。戦いの結末がどうなったかは書かれず、次に以下の文がいきなり出てきます(藤堂2010)。

卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩。狥葬者奴婢百餘人。

卑弥呼以に死し、大いに冢を作る、径百余歩なり。狥葬する者奴婢百余人なり。

卑弥呼の後を継いだ台与がまた中国に使いを送るので、卑弥呼側の勢力が卑弥弓呼側の勢力に敗れたという展開はまず考えられません。箸墓古墳や西殿塚古墳のような巨大前方後円墳が作られ始めることから考えても、最終的に卑弥弓呼側が卑弥呼側に取り込まれたと見られます。

倭国大乱で本州・四国連合に参加した勢力は皆、中国の文明・文化を取り入れることを望んでいたはずです。それができなくなってしまっては、元も子もありません。卑弥呼の共立に賛成せず、対立していた勢力も、最終的に妥協せざるをえなかったと見られます。

※魏志倭人伝が、北九州から南に行ったところに邪馬台国があると記していることは、すでにお話しした通りです(ところで、邪馬台国九州説はどうなってしまったのかを参照)。この南という方向が当時の中国人の先入観に基づいていることも、すでにお話しした通りです(同記事を参照)。しかし、その魏志倭人伝が、卑弥呼の統治が及ぶ領域より南に狗奴国があったと記していることは、注目してよいと思われます。北九州から長旅をして邪馬台国に辿り着き、さらにその奥に狗奴国があったということは言えそうだからです。白石太一郎氏や福永信哉氏などの考古学者は、考古学データに基づいて、卑弥呼たちに戦いを仕掛けるほどの狗奴国は三重県、愛知県、岐阜県のあたりにあったのではないかと推定しています(白石1991、福永1998)。狗奴国が大和より東で、大和からそれほど遠くないところにあった可能性は高いと思われます。

 

参考文献

白石太一郎、「邪馬台国時代の近畿・東海・関東」、国立歴史民俗博物館編『歴博フォーラム 邪馬台国時代の東日本』、六興出版、1991年。

藤堂明保ほか、「倭国伝 中国正史に描かれた日本 全訳注」、講談社、2010年。

福永伸哉、「銅鐸から銅鏡へ」、都出比呂志編『古代国家はこうして生まれた』、角川書店、1998年。

「お主も悪よのう」と「そちも悪よのう」

※卑弥呼(ひみこ)と卑弥弓呼(ひみくこ)の話をするための準備をします。

時代劇に出てくる悪代官と悪徳商人の会話で、「お主も悪よのう」あるいは「そちも悪よのう」というセリフを聞いたことがあるでしょう。

このonusi(お主)とsoti(そち)は二人称代名詞として働いていますが、それぞれタイプが異なります。

以前にお話ししたように、なぜ一人称代名詞と二人称代名詞が必要になるかというと、会話は基本的に二人で行うもので、二人のうちの一方を指しているのか、他方を指しているのか知らせたいからです。日本語で「こっちは元気です。そっちはどうですか。」などと言ったりしますが、このようなところに人称代名詞の本質があるのです。

上のsoti(そち)は、sotti(そっち)の古形です。soti(そち)はもともと、人を意味する語ではなく、一方と他方のうちの他方を意味していた語で、それが二人称代名詞の働きもこなすようになっただけです。人類の言語の歴史を考えると、soti(そち)は典型的な二人称代名詞といえます。

現代の日本語で使われているanata(あなた)もそうです。kotti(こっち)、sotti(そっち)、atti(あっち)が場所・方角を意味しているのと同様に、konata(こなた)、sonata(そなた)、anata(あなた)も場所・方角を意味していました。いずれも、人称代名詞として使われることがありました。現代では、konata(こなた)とsonata(そなた)は廃れ、anata(あなた)だけが残っています。

※konata(こなた)、sonata(そなた)、anata(あなた)に含まれているna(な)は、no(の)と並んで同じ働きをしていた助詞です。ta(は)、方・方角・方向を意味していた語です。hinata(ひなた)も、太陽を意味するhi(日)と、助詞のna(な)と、方・方角・方向を意味するta(た)がくっついています。方・方角・方向を意味するta(た)という語があったということが重要です。日本語でよくあった変化ですが、ta(た)がte(て)になることもありました。yuku(行く)と方・方角・方向を意味していたte(て)がくっついたのが、yukute(行く手)です(漢字に惑わされてはいけません)。

「人(ひと)」の語源、その複雑なプロセスが明らかにの記事などで説明したように、方・方角・方向を意味していた語は、人間を意味するようになりやすいです。「あの方」のkata(方)も方向を意味していたし、「あの人」のhito(人)も方向を意味していました。方向を意味するta(た)/te(て)が人間を意味することもありました。だから、「話し手」、「聞き手」、「雇い手」、「働き手」のような語が残っているのです(やはり漢字に惑わされてはいけません。「手」の話ではありません)。

soti(そち)は場所・方角を意味していた語ですが、onusi(お主)は全然違う語です。nusi(主)にo(お)がくっつきましたが、nusi(主)はなにを意味していたのでしょうか。nusi(主)は統治者・支配者を意味していた語です。くだけた言い方をすれば、「偉い人」を意味していた語です。なぜ統治者・支配者を意味していた語が、二人称代名詞になるのでしょうか。

それは、統治者・支配者を意味していた語が、特に目上の男と対面した時の敬称として用いられるようになるからです。目上の男と対面する時には、その男がどこかの地方の統治者・支配者でなくても、皆が統治者・支配者を意味する語を使うのです。ここから、統治者・支配者を意味していた語は、いくつかの異なる道を歩み始めます。

そのうちの一つが、以下の道です。

(1)「統治者・支配者」→「目上の男に対して使われる敬意ある二人称代名詞」→「二人称代名詞」

統治者・支配者を意味していた語が、目上の男に対して使われる敬意ある二人称代名詞として使われるようになります。しかし、頻繁に使われているうちに、敬意がどんどん薄れていき、最終的にただの二人称代名詞になり果てます。onusi(お主)がまさにこれです。途中でo(お)を付けましたが、もうこの流れは止まりませんでした。kimi(君)もそうです。統治者・支配者を意味していましたが、最終的にただの二人称代名詞になり果てました。

(1)の道とちょっと違うのが、(2)の道です。

(2)「統治者・支配者」→「目上の男に対して使われる敬意ある二人称代名詞」→「目上の男」

統治者・支配者を意味していた語が、目上の男に対して使われる敬意ある二人称代名詞として使われるようになります。そしてここから、一般に目上の男を意味するようになります。目上の男というのは、祖父、父、おじなどです。

かなり前に「父」の正体の記事でお話ししましたが、古代中国語のtsyu(主)チウが日本語にtiとして入り、このtiが目上の男を意味していました。oɸo(大)がtiにくっついて、oɸodi(おほぢ)になります。tiが重ねられて、titi(父)になります。wo(小)がtiにくっついて、wodi(をぢ)になります。現代の日本語の「おじいさん、父、おじさん」は、古代日本語のtiから来ている、もっとさかのぼれば、古代中国語のtsyu(主)から来ているわけです。

(2)はさらに展開して、(3)になります。

(3)「統治者・支配者」→「目上の男に対して使われる敬意ある二人称代名詞」→「目上の男」→「男」

「目上の男」を意味していた語が、一般に「男」を意味するようになるのです。

(3)で「男」を意味する語が生まれるわけですが、この「男」を意味する語が男の人名に組み込まれることがよくあります。

(4)「統治者・支配者」→「目上の男に対して使われる敬意ある二人称代名詞」→「目上の男」→「男」→男の人名に組み込まれる

古事記と日本書紀には、名前にɸiko(彦)が入っている男たちが大勢出てきます。このɸiko(彦)は、かつて「男」を意味し、さらにその前には「統治者・支配者」を意味していたと考えられるものです。つまり、非常に古い日本語に、統治者・支配者を意味するɸikoという語があったということです。

魏志倭人伝は、古代日本の邪馬台国にɸimiko(卑弥呼)という女王がいて、狗奴国のɸimikuko(卑弥弓呼)という男王と対立していたと伝えています。ɸimiko(卑弥呼)とɸimikuko(卑弥弓呼)という名は、だれが見ても明らかに似ています。ここから容易に推測できるのは、ɸimiko(卑弥呼)とɸimikuko(卑弥弓呼)は、人名というより、地位に付けられた名であろうということです。

ɸimiko(卑弥呼)とɸimikuko(卑弥弓呼)の考察に入りましょう。

 

補説

kimi(君)はどこから来たのか

奈良時代には、統治者・支配者を意味する語として、kimi(君)という語が非常に広く使われていました。

しかし、卑弥呼の時代の日本を記述した魏志倭人伝には、kimi(君)という語は出てきません。当時の日本列島に存在したいくつもの国のことが記されていますが、kimi(君)という地位名は見当たりません。

統治者・支配者を意味するkimi(君)は、どこから来たのでしょうか。

卑弥呼の時代の日本に見られないので、外来語である可能性、とりわけ中国語からの外来語である可能性を考えなければなりません。

「男」と「女」の語源の記事で、以下の例を挙げました。

wotoko「若い盛りの男性」とwotome「若い盛りの女性」
okina「年をとった男性」とomina「年をとった女性」
woguna「男の子」とwomina「女の子」
izanaki「男の神であるイザナキ」とizanami「女の神であるイザナミ」

下の三組は特に形が似ており、男であることを示しているkina、guna、kiの部分は古代中国語のkjun(君)キウンから来たのではないかと述べました。

昔の日本語では、kiunとは言えないし、kinともkunとも言えません。したがって、ki、ku、kina、kunaのようになることが予想されるわけです。

古代中国語のkjun(君)が日本語のkimi(君)になった可能性はあるでしょうか。世界の言語を見渡すと、kim→kinのように末尾のmがnに変化することはよくありますが、kin→kimのように末尾のnがmに変化することはあまりありません。

しかし、そのあまり起きないことが起きたのではないかと思わせる節があります。

日本語のkami(紙)の語源を考えましょう。そもそも日本人は文字を書いていなかったわけですから、kami(紙)は中国語からの外来語である可能性が高いです。日本語のkami(紙)は、古代中国語のtsye(紙)チエには全然似ていませんが、古代中国語のkɛn(簡)ケンにはある程度似ています(ɛは口の開きが大きい「エ」です)。

日本語では「簡」という字を単独で見ることはないので、古代中国語のkɛn(簡)とはなんだろうと考えてしまう方もいるでしょう。古代中国語のkɛn(簡)は、文字を書き記す竹の札のことです(画像はY-History教材工房様のウェブサイトより引用)。

このように、紙に書く前は、竹の札に書いていました。

古代中国語のkɛn(簡)(日本語での音読みはken、kan)が日本語のkami(紙)になった可能性はあるかという問題ですが、これは、古代中国語のmjun(文)ミウン(日本語での音読みはmon、bun)が日本語のɸumi(文)になった可能性はあるかという問題と同じです。古代中国語といっても、時代・地域によるバリエーションがあることに注意してください。

日本語は中国語から文字(漢字)を取り入れたのであり、日本語のkami(紙)とɸumi(文)が中国語から来た可能性は極めて高いです。おそらく、古代中国語の末尾のnがmに変化して、mのうしろにiが補われたと思われます。

kami(紙)とɸumi(文)も、そして先ほどのkimi(君)も、このパターンでしょう。しかし、中国語から日本語にこのパターンで入った語は極めて少ないです。ひょっとしたら、中国語から別の言語を経て日本語に入るという、特殊な入り方をしたのかもしれません。「古代中国語(末尾はn)」→「朝鮮半島に存在した、日本語とは別の言語(末尾はm)」→「日本語(末尾はmi)」、あるいは「古代中国語(末尾はn)」→「日本列島に存在した、日本語とは別の言語(末尾はm)」→「日本語(末尾はmi)」という経路が考えられます。日本人は子音で終わる語に全く不慣れなので、中国人がkinと発音してもkimと発音してもよく区別できないという場面も時にあったと思われますが、それが原因でkami(紙)、ɸumi(文)、kimi(君)になったのなら、これらと同じパターンが中国語と日本語の間にもっと多く見られてもよいのではないかという気がします。ただ、中国語からの外来語といっても、それぞれ取り入れられた時代・場所が異なるので、このような可能性も完全には否定できません。

卑弥呼の時代の日本に見られず、のちの日本に非常に広く見られるkimi(君)、文字(漢字)と密接な関係にあるkami(紙)とɸumi(文)、やはり中国の文明・文化以外に源を考えるのは困難でしょう。しかし、その伝わり方は単純ではないようです。ちなみに、ɸumi(文)とita(板)がくっついたɸumitaが変化したのが、ɸuda(札)です。そして、ɸumi(文)とte(手)がくっついたɸumiteが変化したのが、ɸude(筆)です。