「お主も悪よのう」と「そちも悪よのう」

※卑弥呼(ひみこ)と卑弥弓呼(ひみくこ)の話をするための準備をします。

時代劇に出てくる悪代官と悪徳商人の会話で、「お主も悪よのう」あるいは「そちも悪よのう」というセリフを聞いたことがあるでしょう。

このonusi(お主)とsoti(そち)は二人称代名詞として働いていますが、それぞれタイプが異なります。

以前にお話ししたように、なぜ一人称代名詞と二人称代名詞が必要になるかというと、会話は基本的に二人で行うもので、二人のうちの一方を指しているのか、他方を指しているのか知らせたいからです。日本語で「こっちは元気です。そっちはどうですか。」などと言ったりしますが、このようなところに人称代名詞の本質があるのです。

上のsoti(そち)は、sotti(そっち)の古形です。soti(そち)はもともと、人を意味する語ではなく、一方と他方のうちの他方を意味していた語で、それが二人称代名詞の働きもこなすようになっただけです。人類の言語の歴史を考えると、soti(そち)は典型的な二人称代名詞といえます。

現代の日本語で使われているanata(あなた)もそうです。kotti(こっち)、sotti(そっち)、atti(あっち)が場所・方角を意味しているのと同様に、konata(こなた)、sonata(そなた)、anata(あなた)も場所・方角を意味していました。いずれも、人称代名詞として使われることがありました。現代では、konata(こなた)とsonata(そなた)は廃れ、anata(あなた)だけが残っています。

※konata(こなた)、sonata(そなた)、anata(あなた)に含まれているna(な)は、no(の)と並んで同じ働きをしていた助詞です。ta(は)、方・方角・方向を意味していた語です。hinata(ひなた)も、太陽を意味するhi(日)と、助詞のna(な)と、方・方角・方向を意味するta(た)がくっついています。方・方角・方向を意味するta(た)という語があったということが重要です。日本語でよくあった変化ですが、ta(た)がte(て)になることもありました。yuku(行く)と方・方角・方向を意味していたte(て)がくっついたのが、yukute(行く手)です(漢字に惑わされてはいけません)。

「人(ひと)」の語源、その複雑なプロセスが明らかにの記事などで説明したように、方・方角・方向を意味していた語は、人間を意味するようになりやすいです。「あの方」のkata(方)も方向を意味していたし、「あの人」のhito(人)も方向を意味していました。方向を意味するta(た)/te(て)が人間を意味することもありました。だから、「話し手」、「聞き手」、「雇い手」、「働き手」のような語が残っているのです(やはり漢字に惑わされてはいけません。「手」の話ではありません)。

soti(そち)は場所・方角を意味していた語ですが、onusi(お主)は全然違う語です。nusi(主)にo(お)がくっつきましたが、nusi(主)はなにを意味していたのでしょうか。nusi(主)は統治者・支配者を意味していた語です。くだけた言い方をすれば、「偉い人」を意味していた語です。なぜ統治者・支配者を意味していた語が、二人称代名詞になるのでしょうか。

それは、統治者・支配者を意味していた語が、特に目上の男と対面した時の敬称として用いられるようになるからです。目上の男と対面する時には、その男がどこかの地方の統治者・支配者でなくても、皆が統治者・支配者を意味する語を使うのです。ここから、統治者・支配者を意味していた語は、いくつかの異なる道を歩み始めます。

そのうちの一つが、以下の道です。

(1)「統治者・支配者」→「目上の男に対して使われる敬意ある二人称代名詞」→「二人称代名詞」

統治者・支配者を意味していた語が、目上の男に対して使われる敬意ある二人称代名詞として使われるようになります。しかし、頻繁に使われているうちに、敬意がどんどん薄れていき、最終的にただの二人称代名詞になり果てます。onusi(お主)がまさにこれです。途中でo(お)を付けましたが、もうこの流れは止まりませんでした。kimi(君)もそうです。統治者・支配者を意味していましたが、最終的にただの二人称代名詞になり果てました。

(1)の道とちょっと違うのが、(2)の道です。

(2)「統治者・支配者」→「目上の男に対して使われる敬意ある二人称代名詞」→「目上の男」

統治者・支配者を意味していた語が、目上の男に対して使われる敬意ある二人称代名詞として使われるようになります。そしてここから、一般に目上の男を意味するようになります。目上の男というのは、祖父、父、おじなどです。

かなり前に「父」の正体の記事でお話ししましたが、古代中国語のtsyu(主)チウが日本語にtiとして入り、このtiが目上の男を意味していました。oɸo(大)がtiにくっついて、oɸodi(おほぢ)になります。tiが重ねられて、titi(父)になります。wo(小)がtiにくっついて、wodi(をぢ)になります。現代の日本語の「おじいさん、父、おじさん」は、古代日本語のtiから来ている、もっとさかのぼれば、古代中国語のtsyu(主)から来ているわけです。

(2)はさらに展開して、(3)になります。

(3)「統治者・支配者」→「目上の男に対して使われる敬意ある二人称代名詞」→「目上の男」→「男」

「目上の男」を意味していた語が、一般に「男」を意味するようになるのです。

(3)で「男」を意味する語が生まれるわけですが、この「男」を意味する語が男の人名に組み込まれることがよくあります。

(4)「統治者・支配者」→「目上の男に対して使われる敬意ある二人称代名詞」→「目上の男」→「男」→男の人名に組み込まれる

古事記と日本書紀には、名前にɸiko(彦)が入っている男たちが大勢出てきます。このɸiko(彦)は、かつて「男」を意味し、さらにその前には「統治者・支配者」を意味していたと考えられるものです。つまり、非常に古い日本語に、統治者・支配者を意味するɸikoという語があったということです。

魏志倭人伝は、古代日本の邪馬台国にɸimiko(卑弥呼)という女王がいて、狗奴国のɸimikuko(卑弥弓呼)という男王と対立していたと伝えています。ɸimiko(卑弥呼)とɸimikuko(卑弥弓呼)という名は、だれが見ても明らかに似ています。ここから容易に推測できるのは、ɸimiko(卑弥呼)とɸimikuko(卑弥弓呼)は、人名というより、地位に付けられた名であろうということです。

ɸimiko(卑弥呼)とɸimikuko(卑弥弓呼)の考察に入りましょう。

 

補説

kimi(君)はどこから来たのか

奈良時代には、統治者・支配者を意味する語として、kimi(君)という語が非常に広く使われていました。

しかし、卑弥呼の時代の日本を記述した魏志倭人伝には、kimi(君)という語は出てきません。当時の日本列島に存在したいくつもの国のことが記されていますが、kimi(君)という地位名は見当たりません。

統治者・支配者を意味するkimi(君)は、どこから来たのでしょうか。

卑弥呼の時代の日本に見られないので、外来語である可能性、とりわけ中国語からの外来語である可能性を考えなければなりません。

「男」と「女」の語源の記事で、以下の例を挙げました。

wotoko「若い盛りの男性」とwotome「若い盛りの女性」
okina「年をとった男性」とomina「年をとった女性」
woguna「男の子」とwomina「女の子」
izanaki「男の神であるイザナキ」とizanami「女の神であるイザナミ」

下の三組は特に形が似ており、男であることを示しているkina、guna、kiの部分は古代中国語のkjun(君)キウンから来たのではないかと述べました。

昔の日本語では、kiunとは言えないし、kinともkunとも言えません。したがって、ki、ku、kina、kunaのようになることが予想されるわけです。

古代中国語のkjun(君)が日本語のkimi(君)になった可能性はあるでしょうか。世界の言語を見渡すと、kim→kinのように末尾のmがnに変化することはよくありますが、kin→kimのように末尾のnがmに変化することはあまりありません。

しかし、そのあまり起きないことが起きたのではないかと思わせる節があります。

日本語のkami(紙)の語源を考えましょう。そもそも日本人は文字を書いていなかったわけですから、kami(紙)は中国語からの外来語である可能性が高いです。日本語のkami(紙)は、古代中国語のtsye(紙)チエには全然似ていませんが、古代中国語のkɛn(簡)ケンにはある程度似ています(ɛは口の開きが大きい「エ」です)。

日本語では「簡」という字を単独で見ることはないので、古代中国語のkɛn(簡)とはなんだろうと考えてしまう方もいるでしょう。古代中国語のkɛn(簡)は、文字を書き記す竹の札のことです(画像はY-History教材工房様のウェブサイトより引用)。

このように、紙に書く前は、竹の札に書いていました。

古代中国語のkɛn(簡)(日本語での音読みはken、kan)が日本語のkami(紙)になった可能性はあるかという問題ですが、これは、古代中国語のmjun(文)ミウン(日本語での音読みはmon、bun)が日本語のɸumi(文)になった可能性はあるかという問題と同じです。古代中国語といっても、時代・地域によるバリエーションがあることに注意してください。

日本語は中国語から文字(漢字)を取り入れたのであり、日本語のkami(紙)とɸumi(文)が中国語から来た可能性は極めて高いです。おそらく、古代中国語の末尾のnがmに変化して、mのうしろにiが補われたと思われます。

kami(紙)とɸumi(文)も、そして先ほどのkimi(君)も、このパターンでしょう。しかし、中国語から日本語にこのパターンで入った語は極めて少ないです。ひょっとしたら、中国語から別の言語を経て日本語に入るという、特殊な入り方をしたのかもしれません。「古代中国語(末尾はn)」→「朝鮮半島に存在した、日本語とは別の言語(末尾はm)」→「日本語(末尾はmi)」、あるいは「古代中国語(末尾はn)」→「日本列島に存在した、日本語とは別の言語(末尾はm)」→「日本語(末尾はmi)」という経路が考えられます。日本人は子音で終わる語に全く不慣れなので、中国人がkinと発音してもkimと発音してもよく区別できないという場面も時にあったと思われますが、それが原因でkami(紙)、ɸumi(文)、kimi(君)になったのなら、これらと同じパターンが中国語と日本語の間にもっと多く見られてもよいのではないかという気がします。ただ、中国語からの外来語といっても、それぞれ取り入れられた時代・場所が異なるので、このような可能性も完全には否定できません。

卑弥呼の時代の日本に見られず、のちの日本に非常に広く見られるkimi(君)、文字(漢字)と密接な関係にあるkami(紙)とɸumi(文)、やはり中国の文明・文化以外に源を考えるのは困難でしょう。しかし、その伝わり方は単純ではないようです。ちなみに、ɸumi(文)とita(板)がくっついたɸumitaが変化したのが、ɸuda(札)です。そして、ɸumi(文)とte(手)がくっついたɸumiteが変化したのが、ɸude(筆)です。