「名前(なまえ)」とは何か、平仮名と片仮名についてもう一言

最近は言語以外に関する記事が続いていたので、たまには言語に関する記事も書きましょう。

人を惑わせる万葉仮名、ひらがなとカタカナの誕生の記事にアクセスしてくださる方が多く、感謝しております。

「万葉仮名、平仮名、片仮名」にはkana(仮名)という語が含まれていますが、これは歴史的にはkarina(仮名)→kanna(仮名)→kana(仮名)と変化したものです。もともとは、karina(仮名)だったわけです。

karina(仮名)ってなに?ということなりますが、ひとまずkari(仮)とna(名)に分け、na(名)について考えましょう。

現代の日本ではnamae(名前)という語がよく使われますが、奈良時代の日本にはまだこの語はありませんでした。

na(名)の語源は、以下のように考えるのが適切と思われます。

以前にお話ししたように、奈良時代の日本語には、naru(鳴る)、nasu(鳴す)、naku(鳴く)という語がありました(nasu(鳴す)は廃れてしまいましたが、「鳴らす」という意味です)。これらにはnaが組み込まれており、かつて*na(音)という語があったと推測されます。ne(音)という語の存在も、この推測を裏づけています。*na(音)→ne(音)の変化は、*ma(目)→me(目)や*ta(手)→te(手)の変化と同じです。

*na(音)がne(音)になったのは確かですが、その一方で、*na(音)はそのままの形でも残り、na(名)になったのではないかと考えられます。

私たち一人一人は、それぞれ違う名前を持っています。みんなの名前がTarouだったら、困るでしょう。「Tarouが○○をした」と聞かされても、どのTarouかなと考え込んでしまいます。区別するために、私たち一人一人にそれぞれ違う名前が与えられているのです。

昔は文字がなく、名前はただ「音」として存在していました。区別するために、一人一人に違う「音」が割り当てられていたわけです。こう考えると、*na(音)がna(名)になったのは自然です。

筆者は、この*na(音)が文字を意味することもあったと考えています。日本人が「あ、い、う、え、お、か、き、く、け、こ・・・」と書き並べて、それを「五十音(表)」と呼んできたことを思い起こしてください(日本語の発音が変化しているので、もう五十ではありませんが)。

このような例を見るに、*na(音)が文字を意味することがあってもおかしくありません。

奈良時代の日本語には、まだ平仮名と片仮名がありませんでした。例えば、kaɸa(川、河)という日本語があっても、「かは」または「カハ」と書くことはできず、「可波」と書いていました。

独自の文字がないので、中国語から漢字を借りてこないといけないわけです。この中国語から借りた文字が、karina(仮名)にほかなりません。kariの部分は借りたことを意味し、naの部分は文字を意味しています。karina(仮名)というのは、「借りた文字」ということです(karu(借る)/kari(借り)/kari(仮)が中国語からの外来語であることについては、「足りる」と「足す」になぜ「足」という字が使われるのか?の記事を参照)。

人を惑わせる万葉仮名、ひらがなとカタカナの誕生の記事で説明したように、平仮名と片仮名は、漢字を崩したり、漢字の一部を抜き出したりして作られました(図はWikipediaより引用)。

hiragana(平仮名)とkatakana(片仮名)のhiraとkataの部分は、漢字を崩したり、漢字の一部を抜き出したりすることと関係があると見られます。日本語にhitohira(一片)という語があるのを思い出してください。

na(名)、kana(仮名)、hiragana(平仮名)、katakana(片仮名)については、このようにして理解できます。

となると、疑問として残るのは、namae(名前)です。

namae(名前)という語は、明治のいくらか前に現れ、明治から頻繁に使用されるようになりました。

明治というのは、庶民が名字(苗字)を名乗り始めた時代です。それまでは、名字を名乗っていたのは、武士や公家のような特別な身分の人たちでした。

そのような経緯を考えると、namae(名前)は、「na(名)のmae(前)」と解釈するのが自然です。当初は、na(名)は下の名前を意味し、namae(名前)は上の名前を意味していたのでしょう。そこから、namae(名前)の使い方がどんどん広がっていったのです。

namae(名前)という語が頻繁に使用されるようになった時期と、庶民が名字を名乗り始めた時期が一致しているのは、偶然でないと思われます。

読者の皆様へ、本ブログの今後の予定について3 藤原不比等が残したもの、過去、現在、未来

梅原猛氏、上山春平氏、大山誠一氏らの研究によって浮かび上がってきた藤原不比等の存在は、日本の歴史を考えるうえで非常に重要で、本ブログでも大きく取り上げます。

前回の記事でお話ししたように、藤原不比等は、天武天皇の後を継いだ持統天皇の時代に頭角を現します。

当時は、中国の法体系を見習った日本の法体系を作っている時期でした。この法体系またはそれに基づく国の体制は、律令制(りつりょうせい)と呼ばれます。中国の「律」(刑法)と「令」(行政法その他)から来ています。

日本の律令制を確立する作業の中心にいたのが、藤原不比等でした。従来は、藤原不比等といえば、この律令制を確立した政治家というイメージでした。しかし、梅原氏、上山氏、大山氏らの研究によって、そのイメージが変わってきました。

上山氏が当時の中国の政治体制と日本の政治体制をわかりやすく比較しています(上山1985)。確かに、日本は中国の法体系を見習ったのですが、もとになった中国の法体系とできあがった日本の法体系には違いもあり、特に違いが著しいのが、中国の皇帝と日本の天皇です。中国の皇帝が絶大な権力を持つのに対し、日本の天皇は権力を剥ぎ取られた格好になっています。現代の日本の話をしているのではありません。藤原不比等の時代の日本の話をしているのです。

日本の律令制では、天皇の傍らに「太政官」(だいじょうかん)というものが置かれました。「太政官」は、一人の人間ではなく、何人かの人間から成る組織・機関です。ここで注目すべきなのは、政治は「太政官」に委ねられ、天皇は単に祭祀を行う存在になってしまったことです(祭祀というのは、神霊相手の儀式で、慰めたり、祈ったり、感謝したり、崇めたりします)。日本の法体系を整えますよと言いつつ、さりげなくあるいは巧妙に、天皇を政治から外したのです。日本の天皇は、中国の皇帝とは全然違う運命を辿ることになります(うしろを読んでいただければわかると思いますが、天皇がなぜ残っているかというと、権力を持っていないからです)。

律令制より少し遅れて日本書紀が完成し、日本の奇妙な展開が始まります。政治から外された天皇は、どうでもよい存在になったのかというと、そうはなりません。読んでの通り、日本書紀は、神の子孫として天皇を崇拝させる気満々です。どうなるかというと、天皇を神の子孫として崇拝させつつ、違う人間が政治決定を下すという構図ができるのです。なんか、おなじみというか、鮮明に目に浮かぶ構図です。

恐ろしいのは、この構図は偶然生じたのではなく、計算されていたであろうということです。

藤巻一保氏が「偽史の帝国〝天皇の日本〟はいかにして創られたか」という著作で明治から戦後にかけての日本の歴史を冷静・冷徹に描いています。藤巻氏は、以下のように書いています(藤巻2021)。

神輿に担がれたシンボルとして生きるという生き方は、天皇家の伝統といってよい。神輿の争奪戦は、過去から連綿とつづいてきた。古い担ぎ手が斃され、新たな担ぎ手が表舞台に出てくるというのが「天皇の国」の歴史の大半で、皇居の外が神輿の争奪戦でいかに騒然となっていようとも、神輿そのものはおおむね安泰だった。鎌倉倒幕に動いた後鳥羽天皇や、室町倒幕に動いた後醍醐天皇のように、神輿から飛び出してその手に実権をにぎろうとした天皇は、まったく例外的な存在だった。

武家政権の最後の担ぎ手となった徳川家康は、天皇家を京都御所という事実上の座敷牢に封じこめ、文化的な権威と多少の権力、小大名程度のわずかな食禄(禁裏御料、当初は一万石でのちに三万石になった)を与えて、政治にはいっさい関わらせない体制をつくった。しかも天皇家は、時代が進むにつれてこの暮らしに次第になじんでいき、安住するまでになった。

明治になり、新たな担ぎ手である薩長幕府の不動のエースとなった伊藤博文は、表向きはいっさいの権力を天皇に集中させるとともに、天皇家を日本一の大財閥に仕立てあげ、政治的には政府を筆頭とする補弼機関が国家全体を動かすという秀逸なシステムをつくりあげた。形態こそ前代とは異なっているが、天皇が神輿のなかの御神体であることに変わりはなかった。

伊藤がはしなくも漏らした本音を、東京医学校教師としてドイツから招かれ、宮内省侍医も勤めたベルツが日記に書き留めている。明治三十三年(一九〇〇)五月の明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)と九条節子(貞明皇后)の結婚に関する会議の席上、なかば有栖川宮のほうに顔を向けて、伊藤がこういったというのだ。

「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいながら伊藤は、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたのである。(五月九日条)

天皇を神の子孫として崇拝させつつ、違う人間が政治決定を下すという構図は、明治以降露骨になり、狂気といえるほどエスカレートし(日本は神の子孫である天皇が統治する国であるという意識、そして他国はそうでないという意識から、どんどん尊大で過激な態度になっていきます)、最終的には第二次世界大戦での敗北にまで至ります。上述の藤巻氏の著作は、その過程を鮮やかに示した著作です。

第二次世界大戦後に、東條英機は、東京裁判の宣誓供述書で以下のように述べました(藤巻2021)。

天皇は自己の自由の意思をもって、内閣及び統帥部[陸軍参謀部と海軍軍令部]の組織を命ぜられませぬ。内閣及び統帥部の進言は拒否せらるることはありませぬ。天皇陛下の御希望は[常時補弼の任にある]内大臣の助言によります。しかもこの御希望が表明せられました時においても、これを内閣及び統帥部においてその責任において審議し上奏します。この上奏は拒否せらるることはありませぬ。これが我国史上空前の重大危機における天皇陛下の御立場であられたのであります。現実の慣例が以上の如くでありますから、政治的、外交的及び軍事上の事項決定の責任は、全然内閣及び統帥部にあるのであります。

ここに、ドイツのヒトラーやイタリアのムッソリーニとは異なる日本の天皇の微妙な立場(外国からするとわかりにくい立場)があります。

藤原不比等の時代に行われたことは、現代の日本に無関係な遠い昔の話ではありません。その後の日本の歴史全体に特大の影響を与えており、現代の日本にも影を落としています。

マッカーサーの腹心であったフェラーズからマッカーサーへの報告書に、以下のように記されています(藤巻2021)。

天皇の退位や絞首刑は、日本人全員の大きく激しい反応を呼び起こすであろう。日本人にとって天皇の処刑は、われわれにとってのキリストの十字架刑に匹敵する。そうなれば、全員がアリのように死ぬまで戦うであろう。軍国主義者のギャングたちの立場は、非常に有利になるであろう。・・・・・・天皇にだけ責任を負う独立した軍部が日本にあるかぎり、それは平和にたいする永久の脅威である。しかし、天皇が日本の臣民にたいしてもっている神秘的な指導力や、神道の信仰があたえる精神的な力は、適切な指導があれば、必ずしも危険であるとは限らない。日本の敗北が完全であり、日本の軍閥が打倒されているならば、天皇を平和と善に役立つ存在にすることは可能である。

※フェラーズが「軍国主義者のギャングたち」と呼んでいるのは、天皇のまわりにいる軍閥のことです。フェラーズは、戦争を起こしているのが天皇ではなく、天皇のまわりにいる軍閥であることを見抜いたうえで、上のように言っているのです。

当時の日本は、古事記と日本書紀の神話(天皇が神の子孫であるという話)に異を唱えられる国ではありませんでした。大日本帝国憲法からして「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス、皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス、天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス・・・」という憲法です。異論の余地はないのです。

現代の日本では、古事記と日本書紀は学校教育に入っていませんが、これはGHQが危険とみなして外したからであって、日本が自発的に外したわけではありません。

※GHQは、第二次世界大戦で敗北した日本を占領・管理するための連合国の機関です。上に「古事記と日本書紀」と書きましたが、正確に言うと、古事記と日本書紀は漢文で書かれていて、普通の日本人は読めないので、古事記と日本書紀の内容をもとにした教材が与えられていました。

GHQに言われていやいや教材を引っ込めただけで、古事記と日本書紀に対する日本の認識が変わったわけではなく、実はまだ危険が残っています(補説も参照)。

古事記と日本書紀の問題は、依然として日本に突き刺さっています。古事記と日本書紀が弥生時代から奈良時代にかけての日本の歴史をぐちゃぐちゃに歪めているので、どうしても古事記と日本書紀を無視することはできません。これは、民族の問題を考える場合にもそうだし、言語の問題を考える場合にもそうだし、政治の問題を考える場合にもそうです。

歴史学者の井上光貞氏が、以下のように述べています(井上2005)。

歴史をまとめるばあい、過去のことを記録しておきたいというすなおな動機もたしかにあるだろう。しかし国家や宗教の支配層に属する公の機関が歴史をまとめるばあい、そこに自分たちの支配体制を歴史的に肯定しようという意図がしばしば一本の筋となって貫かれている。つまり、自分たちが君臨しているのは偶然のことではなく、本来、当然そうあるべきだったのだ、ということを自他ともに示したい動機がひそんでいるのである。とすれば、どうしても、自分たちに都合のわるいことはタブーとしてなるべく書かないし、実際にはなかったことでも書きたくなるであろう。したがって、自分たちに都合のわるい事実を明らかにする者が出ると、世を惑わす者として処罰するといったことも起こってくる。そして、これらの支配体制が変革をうけると、たちまち歴史が書きかえられるのである。

このような「歴史」のありかたは、古今東西に共通してみられることで、ここに例をあげるまでもないとおもう。しかし、このような「歴史」のありかたを克服したときに、はじめて近代的な文明国になったといえるのではないだろうか。

私も、井上氏と同じようなことを思います。

井上氏が指摘しているのは、深刻な問題です。

人々が、遠い過去ではなく、近い過去(日本なら、明治から令和)のことをどれだけ知っているだろうと考えてみても、深刻な問題です。

支配層が自分に都合の悪いことを知られないようにするというのは、昔に限った話ではないからです。

過去を正確に知らないと、なぜ現在のようになっているのか理解することができません。

 

補説

変わっていない認識

第二次世界大戦で敗北した後の昭和21年の元日に、昭和天皇は詔書を発しました。この詔書は、今日では「人間宣言」と呼ばれています。詔書には、以下のように述べられています。

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。

現御神(あきつみかみ)というのは、奈良時代から用いられてきた言葉で、「この世に人間の姿で現れている神」という意味です。現人神(あらひとがみ)も同じ意味です。人間宣言では、「天皇は現御神である、日本人は他の民族より優れた民族である、世界を支配しなければならない運命にある」というのは架空の観念とされています。

実は、上の詔書が発せられる前に、日本とアメリカの間で以下のような応酬がありました(藤巻2021)。

日本側:「日本人は神の子孫である」というのは架空の観念である。

アメリカ側:「天皇は神の子孫である」というのは架空の観念である。

日本側:「天皇は現御神である」というのは架空の観念である。

最終的に、日本側の文案が通ります。日本側の思惑通りです。一見まるくおさまったように見えますが、そうではありません。藤巻氏は、以下のように鋭く指摘しています(藤巻2021)。

人間宣言をめぐっては、今日にいたるまで天皇による現人神説の否定部分に焦点をあてた論説ばかりがおこなわれてきた。しかし、この詔書のもつほんとうの意味、もっと重要なポイントは、右に記したとおり、天皇を「神の裔」とする観念を保存することに成功したところにこそあったのである。

藤巻氏の指摘通り、日本側は「天皇は神の子孫である」という主張を死守しています。天皇は神なのか、人間なのか、ポイントはそこではないのです。詔書を発する前から、昭和天皇は、以下のように言っていました(藤巻2021)。

「本庄だったか、宇佐美だったか、私を神だと云うから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない、そういう事を云われては迷惑だと云ったことがある」

日本に特大の問題をもたらしたのは、古事記と日本書紀の「天皇は神の子孫である」という主張です。天皇は神なのか、人間なのかというのは、ポイントがずれているのです。そのようにしてポイントをずらし、「天皇は神の子孫である」という主張を死守するのが、日本側の思惑だったわけです。

第二次世界大戦で、日本が形勢不利になっていき、敗北に至ったことは、皆が知っています。しかし、敗北に至るまでの過程をよく見ると、「(このままでは)神の子孫である天皇が統治する国が消滅してしまう!」→「いかん!」→「敗北を認めよう!」という展開だったのです。

戦前も、戦中も、戦後も、日本は「天皇は神の子孫である」という主張にしがみついているのです。

天皇という地位の継承者である昭和天皇自身は、藤巻氏が記しているような状態にありました(藤巻2021)。

このように、昭和天皇は一貫して自分が現人神だということについては否定していたが、自分が「神の裔」だという点については、「架空」と認めることはできなかった。

 

参考文献

井上光貞、「日本の歴史<1> 神話から歴史へ」、中央公論新社、2005年。

上山春平、「天皇制の深層」、朝日新聞社、1985年。

藤巻一保、「偽史の帝国〝天皇の日本〟はいかにして創られたか」、アルタープレス、2021年。

読者の皆様へ、本ブログの今後の予定について2 天武天皇と持統天皇と藤原不比等の時代

本ブログを本格的に再開する時には、古墳時代から飛鳥時代・奈良時代に入っていくところから再開します。

古事記と日本書紀は、日本という国家の始まりに位置する卑弥呼たちのことを隠しましたが、飛鳥時代・奈良時代についても重大なことを隠しているようです。

戦前に、津田左右吉氏が、古事記と日本書紀の先頭に堂々と掲げられた神話は、ほのぼのした昔話ではなく、強い政治的意図に基づいて作られた話ではないかと主張し、波紋を呼びました。

その後、梅原猛氏、上山春平氏、大山誠一氏らのすぐれた研究が現れます。その後の研究を見ると、古事記と日本書紀の神話は強い政治的意図に基づいて作られた話であるという津田左右吉氏の主張は正しかったようです。

津田左右吉氏の主張は、その後の研究のきっかけを作ったという点で重要な意義を持ちますが、大きな修正も必要なようです。津田左右吉氏は、古事記と日本書紀に記された神話は、古事記と日本書紀の完成時期よりずっと前からあったものと考えましたが、梅原猛氏、上山春平氏、大山誠一氏らは、古事記と日本書紀に記された神話は、古事記と日本書紀の完成時期のほんの少し前に作られたものと考えています。だれが日本の歴史を書き換えたのか(改竄したのか)、梅原猛氏と上山春平氏の研究でぼんやりと浮かび上がってきて、大山誠一氏の研究でいよいよはっきりしてきた感があります。

今はこの件についてブログを書き進める時間がないので、ひとまず大山誠一氏の著作を紹介しておきます(梅原猛氏、上山春平氏、大山誠一氏らの著作は、本ブログでも詳しく取り上げます)。

(1)大山誠一、「聖徳太子と日本人、天皇制とともに生まれた<聖徳太子>像」、角川書店、2005年。

(2)大山誠一、「天孫降臨の夢、藤原不比等のプロジェクト」、NHK出版、2009年。

(1)は、聖徳太子に焦点を当てた本です。大山氏の研究は、最初聖徳太子の話から始まって、そこから古事記・日本書紀の話へと発展していきます。なので、(1)から読んだほうが、大山氏の研究を理解しやすいです。

大山氏の研究は、「聖徳太子はいなかった」というフレーズとともに紹介されることが多いですが、これにはちょっと注意が必要です。大山氏と違って、大部分の日本人は飛鳥時代のことをほとんどなにも知りません。いきなり「聖徳太子はいなかった」と言うと、大山氏の著作はトンデモ本なのかなと受け取られかねません。大山氏の著作は、そういう本ではなく、堅実な研究書です。

正確に言えば、大山氏の主張は、「一般に厩戸王(うまやどおう)と呼ばれている人物は実在したが、彼にかぶせられたスーパーマン的な「聖徳太子」という人物像は虚像であった」といったところです。

私は、青の文は赤の文より長いですが、青の文のほうが誤解を招きにくく、大部分の日本人にとって受け入れやすいのではないかと思っています。大山氏自身は、赤のような言い方をする時もあれば、青のような言い方をする時もあります。ただ、大山氏の研究が紹介される時には、短くて言いやすいので赤の文が選択されるのです。

(2)ではいよいよ、だれが日本の歴史を改竄したのかが明らかになってきます。梅原氏と上山氏と同様に、大山氏も、古事記と日本書紀に記された神話は、古事記と日本書紀の完成時期のほんの少し前に作られたものと考えています。

古事記と日本書紀の完成時期のほんの少し前というのは、天皇で言えば、天武天皇から元正天皇にかけての時代です。

第40代 天武天皇 在位673⁓686年
第41代 持統天皇 在位690⁓697年
第42代 文武天皇 在位697⁓707年
第43代 元明天皇 在位707⁓715年
第44代 元正天皇 在位715⁓724年

※上の表を見ると、天武天皇の死と持統天皇の即位の間に数年の空白があるのがわかります。天武天皇の死後、数年の空白を挟んで、天武天皇の皇后が持統天皇として即位したのです。注目に値する時期ですが、ここでは踏み込まずに通り過ぎます。

上の表には歴代の天皇が並んでいますが、この時代を語るうえで、いやそれどころか日本の歴史を語るうえで、絶対に外せない重要な人物がもう一人います。それは、藤原不比等という人物です。

藤原不比等は、天武天皇の時代には存在感がありませんが、持統天皇の時代に急浮上し、持統天皇の後の時代には、実質的な最高権力者にまで上り詰めてしまいます。15歳の文武天皇の即位、皇后の経験もない女性の元明天皇の即位、その娘であるやはり女性の元正天皇の即位と続くあたりは、裏に真の支配者がいることを思わせます。実際にこの後、藤原氏が支配する世になっていきます。

藤原不比等は、もともと天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子の舎人(皇族・貴族のそばに仕え、警備や雑用などをする者)でしたが、その異例の出世ぶりからして、持統天皇に対して大きな功績があった、もっと俗っぽく言えば、持統天皇に大いに気に入られることをした人物であることは間違いありません。もちろん、運だけでなく、卓越した政治能力・手腕があってのことです。

天武天皇は686年に死亡し、持統天皇は703年に死亡します。藤原不比等は720年に死亡しますが、この藤原不比等の死の直前に日本書紀が世に出されるという実に怪しい展開です。藤原不比等の命がもう長くないことが明らかになり、急遽日本書紀が世に出されたのではないかと疑いたくなるところです。

古事記も、日本書紀も、天武天皇が歴史書の編纂を命じたと書いています(古事記は、以前にお話ししたように、推古天皇のところで記述が終わっていますが、古事記の序文が、天武天皇が歴史書の編纂を命じたことを記しています)。おそらく、これは事実でしょう。天武天皇は、壬申の乱(じんしんのらん)によって位についた天皇、すなわち、武力によって位についた天皇であり、自分の立場を正当化する歴史書を後世に残す必要があったと考えられるからです。

※壬申の乱とは、天智天皇の死後に、天智天皇の息子である大友皇子側の勢力と、天智天皇の弟である大海人皇子側の勢力の間に起きたとされる争いです。大海人皇子側が勝利し、大海人皇子が天武天皇として即位しました(ただし、従来は、天武天皇は天智天皇の弟であると、日本書紀の記述がそのまま信じられてきましたが、最近では、疑いが投げかけられています。この問題については、ブログを再開した際に論じます)。

ただ、問題なのは、天武天皇の死から非常に長い年月が過ぎた後で、日本書紀という歴史書が世に出されたということです。天武天皇が死んだのは686年で、日本書紀が世に出されたのは720年です。天武天皇がいなくなって持統天皇と藤原不比等が残っている時期、そして持統天皇がいなくなって藤原不比等だけが残っている時期がとても長いのです。天武天皇は歴史書の編纂を命じたが、最終的にできた歴史書は天武天皇が考えていた歴史書とは全然違うものになった、そんな可能性もなくはないのです。

梅原猛氏、上山春平氏、大山誠一氏らの研究は、ブログを再開した時に詳しく取り上げますが、同氏らが考えるように、古事記と日本書紀に記された神話が古事記と日本書紀の完成時期のほんの少し前に作られた可能性は、もはや揺らぎそうにありません。大山氏らが示している根拠は、非常に強固です。

しかしながら、日本の歴史が天武天皇から元正天皇にかけての時代に改竄されたことがわかっても、どの部分が天武天皇の意向によるものなのか、どの部分が持統天皇の意向によるものなのか、どの部分が藤原不比等の意向によるものなのか見極めるのは、容易ではありません。

これに関しては、私もまだ曖昧な部分が多いです。

特に、「天皇の地位は神の子孫である一家によってずっと受け継がれてきた」と主張するところに古事記と日本書紀の本質があり、この部分がだれの意向によるものなのかという点は注目されます。