日本語の起源と歴史に興味を持つすべての方へ

本ブログの記事一覧はこちら

こんにちは。金平譲司と申します。ここに「日本語の意外な歴史」と題するブログを立ち上げました。

このブログは、日本語ならびに日本語と深い関係を持つ言語の歴史を解明するものです。言語学者だけでなく、他の分野の専門家や一般の方々も読者として想定しています。

謎に包まれてきた日本語の起源

日本語はどこから来たのかという問題は、ずいぶん前から様々な学者によって論じられてきましたが、決定的な根拠が見つからず、大いなる謎になってしまった感があります。しかしながら、筆者の研究によってようやくその全貌が明らかになってきたので、皆さんにお話ししようと思い立ちました。

日本語は、朝鮮語、ツングース諸語(エヴェンキ語、満州語など)、モンゴル諸語(モンゴル語、ブリヤート語など)、テュルク諸語(トルコ語、中央アジアの言語など)と近い関係にあるのではないか、あるいはオーストロネシア語族(台湾、フィリピン、インドネシア、マレーシア、オセアニアなどの言語から成る言語群)と近い関係にあるのではないかというのが従来の大方の予想でしたが、これらの予想はポイントを外しています。

中国語を見て全く違うと感じた日本人が、日本語は北方の言語と関係があるのではないか、南方の言語と関係があるのではないかと考えたのは、至極当然のことで、北方の言語と南方の言語に視線を注ぐこと自体は間違っていません。問題なのは、北方のごく一部の言語と南方のごく一部の言語に関心が偏ってしまったことです。

上記の言語のうちで、朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語は、日本語によく似た文法構造を持つことから、日本語に近縁な言語ではないかと盛んに注目されてきました。同時に、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語は、互いに特に近い関係にあるとみなされ、いわゆる「アルタイ語族」という名でひとまとめにされることがしばしばありました。日本語の起源をめぐる議論は、このような潮流に飲まれていきました。

しかしながら、筆者がこれから明らかにしていく歴史の真相は、かなり違います。日本語は、朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語と無関係ではないが、別の言語群ともっと近い関係を持っているようなのです。

実を言うと、筆者は日本語やその他の言語の歴史に興味を持つ人間ではありませんでした。筆者は若い頃にフィンランドのヘルシンキ大学で一般言語学や様々な欧州言語を学んでいましたが、その頃の筆者の興味は言語と思考の関係や外国語の学習理論などで、もっぱら現代の言語に関心が向いていました。歴史言語学の講義もありましたが、特に気に留めていませんでした。

筆者が言語の歴史について真剣に考えるようになったきっかけは、ロシアの北極地方で少数民族によって話されているサモエード諸語との出会いでした。サモエード諸語は、フィンランド語やハンガリー語と類縁関係にある言語です。フィンランド語とハンガリー語はヨーロッパの中では異色の存在で、北極地方の少数民族の言語と類縁関係を持っています。フィンランド語、ハンガリー語、サモエード諸語などから成る言語群は、「ウラル語族」と呼ばれます。

言語学者が使う「語族」という用語について若干説明しておきます。私たちが万葉集や源氏物語の言葉を見ると、「読みにくいな」と感じたり、「なにを言っているのかわからないな」と感じたりします。言語は時代とともに少しずつ変化しています。言語は単に変化するだけでなく、分化もします。ある程度広い範囲で話されている言語には、地域差が生じてきます。

この地域ごとに少しずつ異なる言葉が方言です。しかし、これらの方言が地理的に隔たってさらに長い年数が経過すると、最初は小さかった方言同士の差が大きくなっていき、やがて意思疎通ができないほどになります。

あまりに違いが大きくなれば、もう方言ではなく、別々の言語と言ったほうがふさわしくなります。一律の学校教育やマスメディアが発達していない時代には、この傾向は顕著です。ある言語が別々の言語に分化するのです。分化してできた言語がさらに分化することもあります。言語学では、おおもとの言語と分化してできた諸言語をまとめて「語族」といいます。世界で最もよく知られている語族は、インド・ヨーロッパ語族と呼ばれる語族で、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語などはこの語族に属します。例えるなら、イヌ、オオカミ、キツネ、タヌキが共通祖先を持っているように、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語は共通祖先を持っているということです。

日本語とウラル語族

英語などが属するインド・ヨーロッパ語族は巨大な言語群ですが、フィンランド語やハンガリー語が属するウラル語族はこじんまりとした言語群です。ウラル語族の言語は、ロシアの北極地方から北欧・東欧にかけて分布しています。地理的に遠く離れているので、ウラル語族の言語は一見したところ東アジアの言語、特に日本語とはなんの関係もないように見えますが、実はここに大きな盲点があります。日本語の歴史を考えるうえで大変重要になるので、ウラル語族の話を続けます。以下にウラル語族の内部構造を簡単に示します。

ウラル語族の言語を研究する学者の間に意見の相違がないわけではありませんが、上の図は従来広く受け入れられてきた見方です。ウラル語族の言語は、まずフィン・ウゴル系とサモエード系に分かれ、フィン・ウゴル系はそこからさらにフィン系とウゴル系に分かれます。フィンランド語はフィン系に属し、ハンガリー語はウゴル系に属します。サモエード系の言語は、ロシアの北極地方に住む少数民族によって話されています。現在残っているサモエード系の言語はネネツ語、エネツ語、ガナサン語、セリクプ語の四つのみで、特に後の三つは消滅の危機にあります。

サモエード系の言語は、フィンランド語やハンガリー語と同じウラル語族の言語ですが、フィンランド語やハンガリー語とは文法面でも語彙面でも著しく異なっています。同じ言語から分かれた言語同士でも、別々の道を歩み始め、何千年も経過すれば、似ても似つかない言語になってしまいます。特に、サモエード系の言語が辿った運命とフィンランド語・ハンガリー語が辿った運命は対照的です。サモエード系の言語は、北極地方にとどまり、他の言語との接触が比較的少なかったために、昔の姿をよく残しています。それに対して、フィンランド語とハンガリー語は、有力な言語がひしめくヨーロッパに入り込み、大きく姿を変えました。サモエード系の言語は、いわば「生きた化石」です。人類の歴史を解明するうえで、大変重要な言語です。サモエード系の言語との出会いは、筆者にとってショッキングな出来事でした。これ以降、筆者は言語の歴史について本格的に研究し始めることになります。

筆者が初めてサモエード系の言語を見た時には、「文法面ではモンゴル語やツングース諸語に似ているな」という第一印象を受けました。しかし、よく調べると、「あれっ、語彙面では日本語に似ているな」という第二印象を受けました。少なくとも言語の根幹をなす基礎語彙に関しては、モンゴル語やツングース諸語より、ウラル語族のサモエード系の言語のほうが日本語に近いと思いました。なんとも不思議な感じがしました。なんで日本の近くで話されているモンゴル語やツングース諸語より、北極地方で話されているウラル語族のサモエード系の言語のほうが日本語に近いんだろうと考え始めました。様々な言語を見てきましたが、サモエード系の言語には今までにない特別なものを感じました。なにか重大な秘密が隠されている予感がしました。

フィンランド語とハンガリー語だけを見ていた時は気づかなかったのですが、サモエード系の言語を介しながらフィンランド語とハンガリー語を見てみると、やはりフィンランド語とハンガリー語にも日本語との共通語彙があります。日本語の中にある、ウラル語族と共通している語彙、そしてウラル語族と共通していない語彙を見分けていくうちに、二つの疑問が頭に浮かんできました。一つ目の疑問は、日本語の祖先とウラル語族の言語の祖先の接点は地理的にどの辺にあったのだろうという疑問です。二つ目の疑問は、日本語の中にある、ウラル語族と共通していない語彙はどこから来たのだろうという疑問です。日本語の中には、ウラル語族と共通している語彙も多いですが、共通していない語彙も多いのです。

東アジアには黄河文明とは違う文明が存在した

ウラル語族の各言語の語彙を研究するうちに、ウラル語族が日本語だけでなく、モンゴル語、ツングース諸語、朝鮮語、さらには中国語にもなんらかの形で関係していることが明らかになってきたので、ウラル語族の言語と東アジア・東南アジアの言語の大々的な比較研究を開始しました。着実かつ合理的に歴史を解明するため、考古学および生物学の最新の研究成果を適宜参照しました。考古学も生物学も近年めざましい発展を遂げており、数々の重要な発見がありました。

かつては、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、そして東アジアの黄河文明が並べられ、世界四大文明と呼ばれていました。ところが、その後の発見によって、東アジアには黄河文明のほかに二つの大きな文明が存在したことがわかってきました(このテーマを包括的に扱った書籍はいくつかありますが、考察の広さ・深さの点でShelach-Lavi 2015が優れています)。

その二つの大きな文明とは、長江文明と遼河文明(りょうがぶんめい)です。日本列島で縄文時代が進行する間に、大陸側はこのようになっていたのです。黄河文明と長江文明に比べて、遼河文明は知名度が高くないかもしれません。しかし、遼河文明は、日本語の歴史を解明するうえで重要な鍵を握っているようなのです。

生物学が発達し、人間のDNA配列が調べられるようになりました。DNA配列は、正確には「DNAの塩基配列」といい、アデニンA、チミンT、グアニンG、シトシンCという四種類の物質が作る列のことです。最近では、生きている人間のDNA配列だけでなく、はるか昔に生きていた人間のDNA配列も調べられるようになってきました。大変興味深いことに、遼河文明が栄えていた頃に遼河流域で暮らしていた人々のDNA配列を調べた研究があります(Cui 2013)。

人間は父親と母親の間に生まれるので、子のDNA配列が父親のDNA配列と100パーセント一致することはなく、子のDNA配列が母親のDNA配列と100パーセント一致することもありません。しかし、父親から息子に代々不変的に受け継がれていく部分(Y染色体DNA)と、母親から娘に代々不変的に受け継がれていく部分(ミトコンドリアDNA)があります。代々不変的に受け継がれていく部分と書きましたが、この部分にも時に突然変異が起きます。つまり、その部分のDNA配列のある箇所が変化するのです。変化していないY染色体DNA配列を持つ男性がそれを息子に伝える一方で、変化したY染色体DNA配列を持つ男性がそれを息子に伝えるということが起き始めます。同様に、変化していないミトコンドリアDNA配列を持つ女性がそれを娘に伝える一方で、変化したミトコンドリアDNA配列を持つ女性がそれを娘に伝えるということが起き始めます。こうして、時々起きる突然変異のために、Y染色体DNAのバリエーション、ミトコンドリアDNAのバリエーションができてきます。人類の歴史を研究する学者は、このY染色体DNAのバリエーション、ミトコンドリアDNAのバリエーションに注目するのです。

先ほど述べた遼河流域の人々のDNA研究は、Y染色体DNAのバリエーション(例えば、C系統か、D系統か、N系統か、O系統か)を調べたものです。その結果はどうだったでしょうか。古代の人々の研究なのでサンプル数は限られていますが、それでも大まかな傾向は十分に捉えられています。遼河文明が栄えていた頃の遼河流域では、当初はN系統が圧倒的に優勢だったが、次第にO系統とC系統が増え(つまり他の地域から人々が流入してきたということ)、N系統はめっきり少なくなってしまったようです。現在の日本、朝鮮半島、中国では、N系統はほんの少し見られる程度です(Shi 2013)。対照的に、ウラル語族の言語が話されているロシアの北極地方からフィンランド方面にかけてN系統が非常に高い率で観察されています(Rootsi 2007)。

見え始めた日本語の正体

筆者もウラル語族の言語が東アジアの言語と深い関係を持っていることを知った時には大いに驚きましたが、考古学・生物学の発見と照らし合わせると、完全に合致します。日本語がウラル語族の言語と深い関係を持っていることは非常に興味深いですが、もう一つ興味深いことがあります。日本語の中には、ウラル語族と共通している語彙も多いですが、共通していない語彙も多く、ウラル語族とは全く異なる有力な言語群も日本語の形成に大きく関与したようなのです。

ウラル語族の言語と東アジア・東南アジアの言語の大々的な比較研究を行い、様々な紆余曲折はありましたが、漢語流入前の日本語(いわゆる大和言葉)の語彙構成が以下のようになっていることがわかってきました。

「ウラル語族との共通語彙」も多いですが、「黄河文明の言語との共通語彙」と「長江文明の言語との共通語彙」も多く、この三者で漢語流入前の日本語の語彙の大部分を占めています。

「その他の語彙1」というのは、日本語が大陸にいた時に取り入れた語彙で、「ウラル語族との共通語彙」にも、「黄河文明の言語との共通語彙」にも、「長江文明の言語との共通語彙」にも該当しないものです。

「その他の語彙2」というのは、日本語が縄文時代に日本列島で話されていた言語から取り入れた語彙です。

漢語流入前の日本語の語彙構成の特徴的なところは、なんといっても、語彙の大きな源泉が三つあることです。三つの有力な言語勢力が交わっていたことを窺わせます(遼河文明と黄河文明と長江文明の位置を思い出してください)。

「日本語の意外な歴史」では、ウラル語族との共通語彙、黄河文明の言語との共通語彙、長江文明の言語との共通語彙、その他の語彙1、その他の語彙2、いずれも詳しく扱っていきます。

では、日本語およびその他の言語の歴史を研究するための準備に取りかかりましょう。

 

外国語の単語の表記について

英語と同じようなアルファベットを使用している言語では、それをそのまま記します。言語学者が諸言語の発音を記述するのに使う国際音声記号(IPA)というのがありますが、音韻論の専門家でない限り、多くが見慣れない記号です。そのため、本ブログではIPAの使用はできるだけ控えます。特に朝鮮語は、IPAを用いて記すと複雑になるため、市販されている初心者向けの韓国語の文法書で採用されている書き方にならいました。一般の読者にとって見慣れない記号を用いる場合には、補助としてのカタカナ表記を付け加えます。慣習を考慮し、ヤ行の子音は基本的に、北方の言語(ウラル語族の言語など)では「j」で表し、南方の言語(中国語、東南アジアの言語)では「y」で表します。古代中国語のアルファベット表記の仕方は、Baxter 2014に従います。

 

参考文献

Baxter W. H. et al. 2014. Old Chinese: A New Reconstruction. Oxford University Press.

Cui Y. et al. 2013. Y chromosome analysis of prehistoric human populations in the West Liao River Valley, Northeast China. BMC Evolutionary Biology 13: 216.

Rootsi S. et al. 2007. A counter-clockwise northern route of the Y-chromosome haplogroup N from Southeast Asia towards Europe. European Journal of Human Genetics 15: 204-211.

Shelach-Lavi G. 2015. The Archaeology of Early China: From Prehistory to the Han Dynasty. Cambridge University Press.

Shi H. et al. 2013. Genetic evidence of an East Asian origin and paleolithic northward migration of Y-chromosome haplogroup N. PLoS One 8(6): e66102.


►言語の歴史を研究するための準備へ

「日本語はどこから来たのか」、この問いには二つの意味がある、私たちは何を知ろうとしているのか

日本の最高位にあった蘇我馬子が死んだ後、日本の歴史はどうなったのかというのは、非常に興味深い問題ですが、蘇我馬子が死んだ後の時代は、まさに激動の時代で、様々な説が飛び交っている時代でもあります。日本書紀の制作者らが、過去の記録をすべて葬り、嘘で固めた日本書紀を残したことが、根本原因です。日本書紀には、正義の中大兄皇子(のちの天智天皇)が悪の蘇我入鹿を斬り殺した話が堂々と記されていますが、これも史実ではないようです。さらに先行研究を消化したうえで、続きをお話ししたいので、この問題からは少しの間離れることにします。

本ブログの主題である日本語の歴史に立ち返りましょう。

近年の考古学および生物学の進歩は本当にすばらしく、筆者も言語の歴史を研究する際の考え方、方針、方法を大きく改めることになりました。

何千年~何万年にわたる言語の歴史を研究する際には、農耕が始まる前の人間世界についてよく知ることがとても重要です。農耕が始まったことによって、ユーラシア大陸は激変し、かつてのユーラシア大陸の姿が見づらくなっている、あるいは見えなくなっています。

しかし、幸いなことに、貴重な生き証人がいます。それは、アメリカ大陸のインディアンです。東アジアの人々にとっては、アメリカ大陸のインディアンは、どこか似ていて、どこか違う感じがする、不思議な人々でしょう。

アメリカ大陸のインディアンは、ユーラシア大陸が農耕の開始によって激変する前に、ユーラシア大陸からアメリカ大陸に移っています。そのため、かつてのユーラシア大陸を知るうえで、非常に重要な存在なのです。

2014年に、M. Raghavan氏らが、「Upper Palaeolithic Siberian genome reveals dual ancestry of Native Americans」と題された論文を発表しました(Raghavan 2014)。

考古学の世界では、アフリカから中東に出た後、中央アジアに向かった人間集団と、東南アジアに向かった人間集団がおり、この二つの人間集団は東アジアで合流したのではないかという見方が以前からありました(詳細については、東アジアの人々の本質、アフリカから東アジアに至る二つの道および4万年前の東アジアを参照。図はGoebel 2007とBae 2010より引用)。

Raghavan氏らの研究は、上記の考古学者の予想を、生物学(DNA)によって裏づけました。アメリカ大陸のインディアンは、中央アジアからやって来た集団と東南アジアからやって来た集団が混ざり合った人間集団であるということです。Raghavan氏らの研究発表後も、生物学は目覚ましく進歩しており、現在では、アメリカ大陸のインディアンのDNAの30~40%ほどが中央アジアから来ており、60~70%ほどが東南アジアから来ていることがわかっています(Moreno-Mayar 2018、Yu 2020)。

シベリアで発見された24000年前頃のMal’taさんと17000年前頃のAfontova Gora 2さんは、考古学者、生物学者、人類学者の間では、有名人です(図はRaghavan 2014より引用)。

Mal’taさんはバイカル湖の近くで発見され、Afontova Gora 2さんはバイカル湖よりいくらか西で発見されました。バイカル湖というのは、現代のモンゴルのすぐ上にある湖です。Mal’taさんとAfontova Gora 2さんの存在は、人類の歴史において意味深長です。

Mal’taさんとAfontova Gora 2さんはともに男性で、Mal’taさんのY染色体DNAはR系統、Afontova Gora 2さんのY染色体DNAはQ系統です。Mal’taさんのR系統も、Afontova Gora 2さんのQ系統も、中東から中央アジアに進出した人間集団から来ていることが確実な系統です(R系統とQ系統は近縁な系統で、R系統は現代のヨーロッパの人々で支配的であり、Q系統はアメリカ大陸のインディアンで支配的です)。

Mal’taさんについては、遺骨の保存状態がよく、Y染色体DNAだけでなく、全DNAが詳しく調べられています。Mal’taさんは、どんな人だったのでしょうか(図はZhang 2021より引用、一部改変)。

図中の「MA-1」が、Mal’taさんです。Mal’taさんのDNAは、明らかに現代のヨーロッパの人々のDNAに近いです。特に、東アジアの人々のDNAとは全く関わりがありません。図中の「YR_MN」は黄河文明の人々、「WLR_MN」は遼河文明の人々、「Baikal_EN」はそれらの文明が始まった頃のバイカル湖周辺の人々、「AR_EN」はそれらの文明が始まった頃のアムール川流域の人々ですが、これらの人々のDNAがほとんど同じに見えてしまうくらい、Mal’taさんのDNAはかけ離れています。

時代が違うことに注意してください。Mal’taさんは24000年前頃の人です。それに対して、「YR_MN」、「WLR_MN」、「Baikal_EN」、「AR_EN」の人々は、せいぜい過去10000年以内の人々です。

すでに述べたように、Mal’taさんはバイカル湖の近くで発見されました。バイカル湖のすぐ下はモンゴルです。モンゴルの左脇は、中国北西部(ウイグル)です。モンゴルの右脇は、中国北東部(遼河流域)です。Mal’taさんは、東アジアのすぐ近くで生きていた人なのです。しかし、Mal’taさんのDNAは、東アジアの人々のDNAと全然違うのです。

Mal’taさんは特殊な人なのかというと、決してそうではありません。同じ図中のAfontova Gora 3さん(「AG3」、女性です)を見てください。Afontova Gora 3さんのDNAも、明らかに現代のヨーロッパの人々のDNAに近く、東アジアの人々のDNAとは全く関わりがありません。

これは一体どういうことでしょうか。

農耕が始まったことによって、ユーラシア大陸は激変したが、かつては、バイカル湖周辺に西洋風の人々が住んでいたということです。

20世紀に、中国北西部のタリム盆地で謎のミイラが続々と発見され、話題になりました。特に注目されたのは、ミイラが中国人風というより、西洋人風だったからです。インド・ヨーロッパ語族の人々がやって来たのかと考えられていましたが、最近の研究でそうではないことがわかりました(Zhang 2021)。

先ほどの図をもう一度見てください。「Tarim_EMBA1」と「Tarim_EMBA2」が、タリム盆地の謎の人々です。タリム盆地の謎の人々のDNAが、Mal’taさんとAfontova Gora 3さんのDNAに近いのがわかります。「MA-1」と「AG3」の位置から、東アジアの人々のほうへ少し引っ張ると、「Tarim_EMBA1」と「Tarim_EMBA2」の位置になります。東アジアの人々が少し混じったということでしょう。

タリム盆地の謎の人々の正体が明らかになると同時に、バイカル湖周辺に西洋風の人々が住んでいたことがますます確実になってきました。

バイカル湖周辺に住んでいた西洋風の人々に言及したのは、訳があります。どうも、この人たちの言語(あるいはその中の一部)が、(1)インド・ヨーロッパ語族、(2)モンゴル系言語、(3)遼河文明の言語(ウラル語族、日本語など)の成り立ちに関係していそうなのです。筆者の研究ではちょうど、そのような展望が開けてきたところです。

新しい展望について、お話ししましょう。

※現存する言語だけを取り上げて、人類の言語の歴史を語ろうとするのは、現代人のよくない癖です。したがって、上記の筆者の言い方も、よい言い方ではありません。(1)、(2)、(3)以外にも多数の言語が存在したが、それらはすべて消滅し、(1)、(2)、(3)しか残らなかったということです。決して(1)、(2)、(3)だけで歴史が展開していたわけではありません。

 

参考文献

Moreno-Mayar J. V. et al. 2018. Terminal Pleistocene Alaskan genome reveals first founding population of Native Americans. Nature 553(7687): 203-207.

Raghavan M. et al. 2014. Upper Palaeolithic Siberian genome reveals dual ancestry of Native Americans. Nature 505(7481): 87-91.

Yu H. et al. 2020. Paleolithic to Bronze Age Siberians reveal connections with First Americans and across Eurasia. Cell 181(6): 1232-1245.

Zhang F. et al. 2021. The genomic origins of the Bronze Age Tarim Basin mummies. Nature 599(7884): 256-261.

日本人が知らない日本史、想像を絶する虚像と虚構の向こう側(未完)

蘇我馬子は、敏達天皇→用明天皇→崇峻天皇→推古天皇という四人の天皇の時代に大臣だったことになっています。前々回の記事では、敏達天皇の実在性が危うくなってきました。そして前回の記事では、推古天皇の実在性も危うくなってきました。

この二人の間に位置する用明天皇と崇峻天皇はどうでしょうか。やはりとても怪しげです。用明天皇は天皇になって2年ほどで病死します。崇峻天皇は天皇になって5年ほどで大臣の蘇我馬子に暗殺されます。日本書紀によれば、そういうことになっています(以下、日本書紀の一連の現代語訳は宇治谷1988より引用)。

五年冬十月四日、猪をたてまつる者があった。天皇は猪を指さしておっしゃった。「いつの日かこの猪の頸を斬るように、自分がにくいと思うところの人を斬りたいものだ」と。朝廷で武器を集めることが、いつもとどうも違っていることがあった。十日、蘇我馬子宿禰は、天皇が仰せられたという言葉を聞いて、自分を嫌っておられることを警戒した。一族の者を招集して、天皇を弑することを謀った。

この月、大法興寺の仏堂と歩廊の工を起こした。

十一月三日、馬子宿禰は群臣をだましていうのに、「今日東の国から調をたてまつってくる」と。そして東漢直駒を使って、天皇を弑したてまつった。この日、天皇を倉梯岡陵に葬った。

五日、早馬を筑紫の将軍たちのところに遣わして、「国内の乱れによって、外事を怠ってはならぬ」と伝えた。

この月、東漢直駒は、蘇我嬪河上娘を奪って自分の妻とした。馬子宿禰はたまたま河上娘が駒に盗まれたことを知らないで、死んだものかと思っていた。駒は嬪を汚したことが露見し、大臣のために殺された。

大法興寺というのは、飛鳥寺のことです。飛鳥時代の象徴といえる飛鳥寺の建築が本格的に始まる頃に、崇峻天皇は蘇我馬子に暗殺され、推古天皇が登場します(画像は奈良新聞様のウェブサイトより引用)。

※創建時の飛鳥寺は、現在の20倍ぐらいの面積を持つ壮大な寺院で、五重塔と三つの金堂がありました(飛鳥寺は日本最古の寺ですが、もうかつての建物は残っていないので、法隆寺や東大寺が観光スポットになっています)。

大臣の蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺したというのに、なんのお咎めも、なんの乱れもありません。推古天皇が即位し、何事もなかったかのように時間が流れていきます。蘇我馬子と推古天皇のこんな悠長なやりとりまであります。

この日蘇我馬子は盃をたてまつって、

天下をお治めになるわが大君の、おはいりになる広大な御殿、出で立たれる御殿を見ると、まことに立派で、千代万代までこのようであって欲しい。そうすれば畏こみ、拝みながらお仕えします。私は今、お祝いの歌を献上いたします。

と寿ぎのことばを申しあげた。天皇が答えて歌われた。

蘇我の人よ、蘇我の人よ、お前は馬ならばあの有名な日向の国の馬、太刀ならばあの有名な異国の真太刀である。もっともなことである。そんな立派な蘇我の人を、大君が使われるのは。

「倭の五王」をめぐる論争の行方、いわゆる「応神天皇陵」と「仁徳天皇陵」についての記事では、安康天皇が眉輪王に暗殺されたことをお話ししました。眉輪王は、すぐに安康天皇の弟の雄略天皇によって殺されました。普通なら、そうなりそうです。しかし、蘇我馬子は、悠々と大臣であり続けます。

敏達天皇と推古天皇は怪しげですが、ちょっと現れてすぐに消える用明天皇と崇峻天皇には、また違う怪しさがあります。用明天皇は、病死したこと以外、ほぼなにも書かれていないし、崇峻天皇も、暗殺されたこと以外、ほぼなにも書かれていません。「天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト」の著者の大山誠一氏も、理解に苦しむと述べています(大山2009)。

結局、用明にしろ崇峻にしろ、『日本書紀』の中で、大王としての資質も役割も与えられていない。新しい大陸の文化を象徴する飛鳥寺は蘇我馬子の権力を象徴している。そういう現実の政治状況と、大王とされた用明・崇峻という存在が、まったくかみ合っていない。王権の歴史を描くはずの『日本書紀』の自己矛盾と言わねばならない。

ちょっと現れてすぐに消える用明天皇と崇峻天皇がなんなのか理解するためには、系譜の問題を考えなければなりません。淳中倉太珠敷皇子(敏達天皇になったとされる)、大兄皇子(用明天皇になったとされる)、泊瀬部皇子(崇峻天皇になったとされる)、額田部皇女(推古天皇になったとされる)、そして厩戸王(いわゆる聖徳太子)の位置づけを見てみましょう。

欽明天皇およびその後の時代を考えるうえで、欽明天皇の以下の三人の妻が重要であると述べました。

  • 堅塩媛
  • 小姉君
  • 石姫

詳しくは天皇(大王)だった可能性が出てきた蘇我氏、日本史における最大の衝撃の記事で説明しましたが、堅塩媛と小姉君は、蘇我稲目の娘、蘇我馬子の姉妹であり、石姫は、蘇我氏と全然関係のない人です。

欽明天皇と堅塩媛の間には、13人の子どもが生まれます。その中に、大兄皇子(用明天皇になったとされる)と額田部皇女(推古天皇になったとされる)がいます。

欽明天皇と小姉君の間には、5人の子どもが生まれます。その中に、穴穂部間人皇女と泊瀬部皇子(崇峻天皇になったとされる)がいます。

欽明天皇と石姫の間には、3人の子どもが生まれます。その中に、淳中倉太珠敷皇子(敏達天皇になったとされる)がいます。

大兄皇子と穴穂部間人皇女の間に長男として生まれたのが、厩戸王(いわゆる聖徳太子)です。

日本書紀によれば、欽明天皇とその皇后である石姫の間に生まれた淳中倉太珠敷皇子が、欽明天皇の次の敏達天皇になりました。淳中倉太珠敷皇子には、箭田珠勝大兄皇子という兄がいましたが、この兄は早くに亡くなっています。箭田珠勝大兄皇子、淳中倉太珠敷皇子、あと一人は女性です。

敏達天皇が死ぬとどうなるでしょうか。

ここで額田部皇女(欽明天皇と堅塩媛の第4子)が推古天皇になるのは、無理があります。

欽明天皇と堅塩媛の間には13人の子どもがおり、まずだれよりも長男の大兄皇子がいます。いきなり推古天皇とその皇太子(なおかつ摂政)である聖徳太子の話が始まるのは、系譜上無理があるのです。しかも、日本書紀の系譜によれば、この時点ではまだ女性が天皇になったことがありません。

実際、敏達天皇が死んだ後、大兄皇子が用明天皇になります。額田部皇女にとってみれば、「兄が天皇になった」、厩戸王にとってみれば、「父が天皇になった」ということになります。そして、この用明天皇がすぐに死ぬのです。

前回の記事で見たように、中国の隋書に日本の飛鳥時代を暴露され、推古天皇と聖徳太子の話は創作である可能性が高くなってきました。しかし、たとえ創作だとしても、歴史書という体裁を取っている以上、なんでも勝手に書くことはできません。

用明天皇が死んだ時には、もう石姫が産んだ皇子はいませんが、小姉君が産んだ穴穂部皇子と泊瀬部皇子がいました。穴穂部皇子は天皇になろうとし、物部守屋も支持します。しかし、蘇我馬子らが反対し、穴穂部皇子と同皇子を支持した物部守屋を殺します。こうして、泊瀬部皇子が崇峻天皇になりますが、この崇峻天皇も、蘇我馬子に暗殺されてしまうわけです。

額田部皇女は敏達天皇が広姫と死別した後で敏達天皇の皇后になっていたので、父は欽明天皇、夫は敏達天皇、兄は用明天皇です。石姫が産んだ皇子も、小姉君が産んだ皇子ももういません。このような状況で、群臣・百官に推されて、推古天皇が誕生しました。

用明天皇と崇峻天皇は、完全に「お膳立て」の役です。

ここまで細かく具体的に聞かされると、本当かなと信じてしまいそうですね。

いや、日本人は実際に日本書紀を信じてきたのです。でも、中国の隋書は全然違うことを語っています。

どっちが真実なのでしょうか。

中国の隋書です。

ここでもやっぱり鍵を握るのは「古墳」です。日本の歴史のこの上なく貴い証人です。

考古学者の白石太一郎氏によって作成された巨大前方後円墳の編年図をもう一度示します(白石2013)。

すばらしい編年図です。これ一枚で日本の歴史を容赦なく明らかにしてしまうところがすごいです。まさに、「古墳は嘘をつかない」です。

大山氏も、敏達天皇、用明天皇、推古天皇、厩戸王の陵墓に注目し、以下のように述べています(崇峻天皇は、蘇我馬子に暗殺され、その日に埋葬されたことになっており、陵がどこにあるのか不明です)(大山2009)。

これらの人物が活躍していたのは飛鳥を中心とする大和のはずである。にもかかわらず、西の方、山を越えた河内の磯長に葬られたとされる。今日の大阪府南河内郡太子町である。では、飛鳥周辺には墓は作られなかったのかというと、そうではない。・・・(中略)・・・飛鳥周辺に埋葬されたのは、蘇我稲目から始まり、馬子・蝦夷・入鹿と続く蘇我氏四代で、蘇我氏でないのは、堅塩媛と合葬されることになる欽明だけである。『日本書紀』が大王とする敏達・用明・推古など、ほかはみな河内の磯長に葬られている。

欽明天皇が死んだ時には、蘇我氏の本拠地に堂々と作られた巨大な前方後円墳、五条野丸山古墳(ごじょうのまるやまこふん)に葬られました。これが最後の巨大前方後円墳になります。

次の敏達天皇が死んだ時には、敏達天皇の陵は作られず、母の石姫が眠る古墳に葬られました。この古墳は、河内の磯長の太子西山古墳(たいしにしやまこふん)で、五条野丸山古墳より少し古いようです。

用明天皇が死んだ時は、まず飛鳥周辺に葬られますが、その後、河内の磯長の春日向山古墳(かすがむかいやまこふん)に改葬されます。推古天皇が死んだ時も、まず飛鳥周辺に葬られますが、その後、河内の磯長の山田高塚古墳(やまだたかつかこふん)に改葬されます。

推古天皇が最初に葬られた古墳は、飛鳥周辺の植山古墳(うえやまこふん)と考えられていますが(白石2018)、この古墳は、推古天皇のために作れらた古墳ではなく、敏達天皇と推古天皇の間に長男として生まれながら夭折した竹田皇子が眠っていたと見られる古墳です。推古天皇が、自分を手厚く葬る必要はなく、竹田皇子の古墳に葬ればよいと言い、その希望が叶えられたことになっています。

大兄皇子(用明天皇になったとされる)と額田部皇女(推古天皇になったとされる)は、欽明天皇と蘇我氏出身の堅塩媛の間に生まれた子どもで、もともとよい身分です。立派な古墳が作られて当然です。実際、春日向山古墳も、山田高塚古墳も、立派な古墳です。しかし、大山氏が指摘しているように、大兄皇子と額田部皇女が飛鳥周辺から河内の磯長に改葬された点は見逃せません。

厩戸王も、(欽明天皇と堅塩媛の間に生まれた)大兄皇子と(欽明天皇と小姉君の間に生まれた)穴穂部間人皇女の長男なので、間違いなくよい身分ですが、河内の磯長に葬られています。

天皇(大王)だった可能性が出てきた蘇我氏、日本史における最大の衝撃の記事で、欽明天皇の陵が蘇我氏の意向で河内大塚古墳(かわちおおつかこふん)から蘇我氏の本拠地の五条野丸山古墳に変更されたのではないかと述べました。そして、蘇我氏が蘇我氏の人間ではない欽明天皇にそのような最高の待遇をしたのは、欽明天皇が蘇我堅塩媛と結婚してくれたことによって、蘇我氏に皇位継承権が生じたからではないかと述べました。

欽明天皇と石姫の間に生まれた淳中倉太珠敷皇子(敏達天皇になったとされる)は、蘇我氏と全く関係のない人であり、河内の磯長に葬られるのはわかります。しかし、欽明天皇と堅塩媛の間から生まれた子孫も、欽明天皇と小姉君の間から生まれた子孫も、河内の磯長に葬られているのです。

蘇我氏が最高の扱いをするのは、「欽明天皇と堅塩媛」そのもの、そして「蘇我稲目→蘇我馬子→・・・のライン」だけです。欽明天皇と蘇我氏出身の女性(堅塩媛を含めて)の間から生まれた子孫は、別扱いです。決してひどい扱いをされるわけではありませんが、別扱いです。

欽明天皇には、ものすごい名前が付けられています。「天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)」と言います(私たちが聞きなれている「欽明天皇」という言い方(漢風諡号)は、後で考え出された言い方で、日本書紀に記されている言い方は、「天国排開広庭天皇」という言い方(和風諡号)です)。敏達天皇の「渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと)」、用明天皇の「橘豊日(たちばなのとよひのすめらみこと)」、崇峻天皇の「泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)」、推古天皇の「豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)」と比べて、別格です。

「天国(あめくに)」は、「天国(てんごく)」のことではなく、「天と地」のことです。

例えば、日本書紀は、以下のように始まります(書き下し文は坂本1994、現代語訳は宇治谷1988より引用)。

古に天地未だ剖れず、陰陽分れざりしとき、渾沌れたること鶏子の如くして、溟涬にして牙を含めり。其れ清陽なるものは、薄靡きて天と為り、重濁れるものは、淹滞ゐて地と為るに及びて、精妙なるが合へるは摶り易く、重濁れるが凝りたるは竭り難し。故、天先づ成りて地後に定る。然して後に、神聖、其の中に生れます。(昔、天と地がまだ分かれず、陰陽の別もまだ生じなかったとき、鶏の卵の中身のように固まっていなかった中に、ほの暗くぼんやりと何かが芽生えを含んでいた。やがてその澄んで明らかなものは、のぼりたなびいて天となり、重く濁ったものは、下を覆い滞って大地となった。澄んで明らかなものは、一つにまとまりやすかったが、重く濁ったものが固まるのには時間がかかった。だから天がまずでき上って、大地はその後でできた。そして後から、その中に神がお生まれになった。)

これは、天地開闢(てんちかいびゃく)という思想です。天と地はもともと混沌として一つであったが、天と地に分かれ、世界が始まったという思想で、中国から来ている思想です。

欽明天皇に付けられた「天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)」という名前は、まさにこれです(昔は、ɸiraku(開く)と同様の意味を持つɸaraku(開く)という動詞がありました)。

現代でいえば、「宇宙はビッグバンから始まった」のような話でしょうか。

ともかく、欽明天皇はそのような始祖として位置づけられているわけです。

大山氏は、「あめくにおしはらき」について、以下のように述べています(大山2009)。

先に、この語を、天地開闢を思わせる神話的表現と述べておいたが、それは、欽明が「アメクニ」を押し開いた英雄とされたことを意味しているのではないだろうか。

飛鳥に葬られたこと自体、欽明が蘇我一族の一員とされたことを意味している。その欽明が天地開闢の英雄とされたのである。それはまさしく、蘇我王朝の始祖として位置づけられたことを意味していると言えよう。ここに蘇我王朝が誕生し、馬子は正式に大王になったのである。

筆者は、昔の日本は結婚を通じて新たに皇位継承権が生じるシステムなので、「王朝」という言葉は使いませんが、基本的な考えは大山氏と同じです。

蘇我氏にとっては、結婚した欽明天皇と堅塩媛の存在は、蘇我氏に皇位継承権が生じた瞬間であり、そのシンボル(記念)として、最後の巨大前方後円墳である五条野丸山古墳が蘇我氏の本拠地に残されたのでしょう。

そして、欽明天皇の後に最高位に就いた蘇我馬子が、新たな方向へ舵を切り始めます。「これから新しい国を作るのだ」と意気込んでいたでしょう。こうして、五条野丸山古墳を最後に巨大前方後円墳が廃止されます。この歴史的決定を下せるのは、蘇我馬子以外にいません。代わって、飛鳥寺をはじめとする寺院が新たな方向の象徴になります。五条野丸山古墳の完成に飛鳥寺の建築が続いているのは、なによりも注目されるべき点です。日本書紀は蘇我馬子が50年以上大臣だったと書いているので、蘇我馬子は50年以上大王だった可能性があります。まさに巨星です。

蘇我馬子がここまで絶大な存在として君臨していたとなると、その後の展開も気になります。欽明天皇と蘇我氏出身の堅塩媛の長男として生まれた大兄皇子(用明天皇になったとされる)ですら、飛鳥からよそへ改葬されました。この改葬が行われたのは593年、つまり飛鳥寺の建築が本格的に始まった頃です。蘇我馬子がバリバリの時に、そういうことをしているわけです。蘇我馬子からその息子へ大王位が引き継がれるのは当たり前で、その他の可能性は検討もされなさそうな雰囲気です。

日本書紀では、大臣の蘇我馬子が死んだ後、その息子の蘇我蝦夷が大臣になっています。

続きは現在執筆中です。

隋の煬帝が遣わした裴世清が見た日本の飛鳥時代、そこに推古天皇と聖徳太子はいなかった

すでにお話ししたように、478年に倭の五王の最後の「武」(雄略天皇)が宋に使いを送りましたが、その直後に宋は滅亡してしまいます。これによって、中国への遣使は長く途絶えます。

600年になってからようやく、隋に使いが送られるようになります。中国の歴史書に、再び日本が現れます(以下、隋書の一連の書き下し文は藤堂2010より引用)。

〔隋の〕開皇二十年、倭王の姓は阿毎(あめ)、字は多利思比弧(たりしひこ)、号して阿輩雞弥(あほけみ)というもの、使いを遣わして闕に詣らしむ。

開皇二十年は、西暦600年です。「阿毎(あめ)」、「多利思比弧(たりしひこ)」、「阿輩雞弥(あほけみ)」は、正確性に全く問題がないとは言えませんが、大体の音を表していると考えられます。最後の「阿輩雞弥(あほけみ)」は、「大王(おほきみ)」を指しているのでしょう。

阿毎多利思比弧(あめたりしひこ)はどう理解したらよいか▶

中国側は、阿毎(あめ)は姓、多利思比弧(たりしひこ)は字と解釈したわけですが、これは極めて不確かです。

例えば、卑弥呼(ひみこ)と卑弥弓呼(ひみくこ)、なぜこんなに名前が似ているのか、両者の関係とはの記事でお話ししたように、ɸimikoは、人名ではなく、地位に付けられた名であったと考えられます。ところが、中国人と日本人の間で以下のような会話が交わされます。

中国人「一番偉い人はなんて言うの」
日本人「ɸimikoと言います」
中国人「ああ、そう、ɸimikoね」

このようにして、ɸimikoが人名として扱われてしまいます。

問題の阿毎多利思比弧(あめたりしひこ)はどうでしょうか。阿毎多利思比弧(あめたりしひこ)が大体の音を表していることは間違いなく、これと古代日本語の語彙を照らし合わせると、筆者は以下のようになるのではないかと考えています。

少し後の時代になりますが、奈良時代の日本語には、oru(下る)、kudaru(下る)、sagaru(下がる)という語がありました。これらのほかに、taru(垂る)という語もありました。taru(垂る)は四段活用です。

奈良時代の日本語のtaru(垂る)は、現代の日本語のtareru(垂れる)と同じような意味を持っていましたが、この語はもともと、oru(下る)、kudaru(下る)、sagaru(下がる)と同様に、下への動きを意味していたと思われます。

上記の記事で説明したように、ɸikoは、統治者・支配者を意味する語が、目上の男に対する敬称になったものですから、阿毎多利思比弧(あめたりしひこ)は、ame+tarisi+ɸikoという構造で(もっと細かく言うと、tariは動詞taruの連用形、siは過去の助動詞kiの連体形)、「天から降りて来られた統治者・支配者」あるいは「天から降りて来られたお方」のような意味だったと考えられます。天から降りて来ることをamakudaru(天下る)と言うのと同じ理屈です。

阿毎多利思比弧(あめたりしひこ)は、このように日本語の中に位置づけるのが自然でしょう。人名というより、定型句です。

その後に、以下の記述があります。

王の妻は雞弥(けみ)と号す。後宮には女六七百人有り。太子を名づけて利歌弥多弗利と為す。

読み進むと、よく知られている以下の場面が出てきます。

〔隋の〕大業三年、其の王多利思比弧、使いを遣わして朝貢せしむ。使者曰く、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人来たりて仏法を学ばしむ」と。其の国書に曰く、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云云」と。帝、之を覧て悦ばず、鴻臚卿に謂いて曰く、「蛮夷の書、無礼なる者有り、復た以て聞する勿かれ」と。

大業三年は、西暦607年です。倭王阿毎多利思比弧の文書を受け取って、隋の皇帝が怒ってしまった場面です。

倭の五王の最後の「武」(雄略天皇)が宋の皇帝に送った文書を思い出してください(藤堂2010)。

もう一度読む▶

順帝の昇明二年(四七八年)に、倭王武は使者を遣わして上表文をたてまつって言った。

「わが国は遠く辺地にあって、中国の藩屏となっている。昔からわが祖先は自らよろいかぶとを身に着け、山野をこえ川を渡って歩きまわり、落ち着くひまもなかった。東方では毛人の五十五ヵ国を征服し、西方では衆夷の六十六ヵ国を服属させ、海を渡っては北の九十五ヵ国を平定した。皇帝の徳はゆきわたり、領土は遠くひろがった。代々中国をあがめて入朝するのに、毎年時節をはずしたことがない。わたくし武は、愚か者ではあるが、ありがたくも先祖の業をつぎ、自分の統治下にある人々を率いはげまして中国の天子をあがめ従おうとし、道は百済を経由しようとて船の準備も行った。

ところが高句麗は無体にも、百済を併呑しようと考え、国境の人民をかすめとらえ、殺害して、やめようとしない。中国へ入朝する途は高句麗のために滞ってままならず、中国に忠誠をつくす美風を失わされた。船を進めようとしても、時には通じ、時には通じなかった。わたくし武の亡父済は、かたき高句麗が中国へ往来の路を妨害していることを憤り、弓矢を持つ兵士百万も正義の声をあげていたち、大挙して高句麗と戦おうとしたが、その時思いもよらず、父済と兄興を喪い、今一息で成るはずの功業も、最後の一押しがならなかっ た。父と兄の喪中は、軍隊を動かさず、そのため事を起こさず、兵を休めていたので未だ高句麗に勝っていない。

しかし、今は喪があけたので、武器をととのえ、兵士を訓練して父と兄の志を果たそうと思う。義士も勇士も、文官も武官も力を出しつくし、白刃が眼前で交叉しても、それを恐れたりはしない。もし中国の皇帝の徳をもって我らをかばい支えられるなら、この強敵高句麗を打ち破り、地方の乱れをしずめて、かつての功業に見劣りすることはないだろう。かってながら自分に、開府儀同三司を帯方郡を介して任命され、部下の諸将にもみなそれぞれ官爵を郡を介して授けていただき、よって私が中国に忠節をはげんでいる」と。

そこで順帝は詔をくだして武を、使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任命した。

「武」(雄略天皇)は、中国の皇帝に従属する態度・姿勢をはっきりと見せています。自分の地位も、中国の皇帝によって認定されるものと考えています。この態度・姿勢は、卑弥呼の時代から倭の五王の時代になっても一貫していました。

しかし、倭王阿毎多利思比弧の「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という言葉は、それとはかなり異なっています。もちろん、この倭王は中国の皇帝を侮辱あるいは挑発しようと思ったわけではないでしょう。その前の部分で学ぼうとする意思を示しているのですから、そんなことをするはずがありません。しかし、478年の倭王と600年の倭王で、態度・姿勢が大きく変わったのも事実なのです。

これは、571年に死亡した欽明天皇の五条野丸山古墳(ごじょうのまるやまこふん)が最後の巨大前方後円墳になったこととよく合います。

「倭の五王」をめぐる論争の行方、いわゆる「応神天皇陵」と「仁徳天皇陵」についての記事でお話ししたように、考古学など全く存在しない時代の古事記と日本書紀の制作者は、古代日本の最高位の者の墓が三輪山の麓から佐紀に移り、佐紀から河内・和泉に移ったことを正確に知っていました。古事記と日本書紀が書かれる前に、古代日本の最高位の者の墓が三輪山の麓から佐紀に移り、佐紀から河内・和泉に移る過程を詳しく記した書物があったわけです。冒頭の図の時代の各倭王も、日本という国ができた時から歴代の倭王の墓が巨大な前方後円墳として作られてきたことを知っています。応神天皇のところと継体天皇のところは大きな節目ですが、それでも倭王の墓は巨大な前方後円墳として作られ続けました。

このように日本という国の始まりから続いてきた長い伝統を断ち切るというのは、並大抵のことではありません。前方後円墳は、なんとなく終わるものではなく、「これからは別の国になるのだ」ぐらいのことを考える大胆不敵な倭王が現れないと、終わりそうにないものなのです。478年の倭王と600年の倭王の態度・姿勢の違いは、このことをよく示しています。

607年に倭王阿毎多利思比弧の文書が隋の煬帝を怒らせてしまうというハプニングがありましたが、翌608年に今度は煬帝が裴世清らを日本に送ります。この裴世清らが、貴重な目撃者になるのです(以下、隋書の一連の書き下し文と現代語訳は藤堂2010より引用)。

明年、上、文林郎裴清を遣わして倭国に使いせしむ。

裴世清らの一行は、長旅を経て、都に到着し、倭王と会います。

倭王、小徳阿輩台を遣わし、数百人を従え、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来り迎えしむ。後十日、又大礼哥多毗を遣わし、二百余騎を従え郊労せしむ、既にして彼の都に至るに、其の王、清と相見て、大いに悦びて、曰く、

「我聞く、海西に大隋有り、礼儀の国なり。故に遣わして朝貢せしむ。我は夷人にして、僻りて海隅に在り、礼儀を聞かず。是を以って境内に稽留して、即ち相見えず。今故に道を清め館を飾り、以って大使を待つ。冀わくは大国惟新の化を聞かん(海を渡った西方に大隋国という礼儀の整った国があると、私は聞いていた。そこで使者を遣わして貢ぎ物を持って入朝させた。私は野蛮人であり、大海の一隅に住んでいて、礼儀を知らない。そのために今まで国内に留まっていて、すぐには会えなかった。今、特に道を清め、館を飾って裴大使を待っていた。どうか大隋国の新たな教化の方法を聞かせてほしい)」と。

清、答えて曰く、

「皇帝の徳は二儀に並び、沢は四海に流る。王、化を慕うを以って、故に行人を遣わし、此に来り、宣べ諭さしむ(皇帝の徳の明らかなことは日月と並び、その恩沢は四海に流れ及んでいる。倭国王は隋の皇帝の徳を慕って教化に従おうとしているので、皇帝は使者を遣わしてこの国に来させ、ここに宣べ諭させるのである)」と。

ここに出てくる倭王は、一体だれなのでしょうか。

衝撃的な著作「天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト」を出した大山誠一氏も、当然この点に注目しています。大山氏は、以下のように述べています(大山2009)。

これまで、繰り返し、『日本書紀』の記述が虚構に満ちていると述べてきた。しかし、実は、事実を記した部分もある。推古朝の場合、冠位十二階とか小野妹子の遣隋使など、中国の史書である『隋書』によって事実と確認できるものもある。また、飛鳥寺はもちろん、小墾田宮や飛鳥岡本宮なども、存在自体は考古学により確認されている。もちろん、斑鳩宮と斑鳩寺(法隆寺)の建立も事実である。真実の断片は、決して少なくはないのである。

しかし、そうした中で、大きな謎がある。六〇八年に隋の皇帝煬帝が、裴世清を国使として遣わしたことはよく知られている。そこで裴世清が会った倭王は男性であったと書かれている。倭王は、裴世清のために饗宴を催してもいる。倭王には妻がおり、後宮もあったという。大勢の使者たちの見聞にもとづいた記事である。嘘ではあるまい。では、冠位十二階を制定し、遣隋使を派遣した倭王は誰だったのか。当時の倭王を『日本書紀』は推古としている。日本史の教科書にもそう書かれている。しかし、『隋書』の記述を信用すると、少なくとも女性の推古ではなさそうである。何しろ、妻と後宮があるのだから。これまでの研究者は、この問題を避けてきた。しかし、もはや、避けるわけにはゆかないだろう。

大山氏が指摘するように、まず重要なのは、倭王には妻がいて、後宮があったということです。「妻」も、「後宮」も、隋書原文にある表現です。後宮とは、皇帝の妻と子どもが住む、一般に男子禁制の場所です。中国人のいう「後宮」とは、このような場所です(画像は中華歴史ドラマ列伝様のウェブサイトより引用)。

※隋書原文では「妻」と「後宮」の後に「太子」という表現も見られますが、太子とは、皇帝の長男(皇位を継ぐ予定の者)です。

倭王は男なのです。隋の煬帝が遣わした裴世清は、倭王と会い、倭王と言葉を交わしています。推古天皇ではなく聖徳太子を倭王と間違えたという説明は成り立ちません。天皇の代わりに政務を執り行うにすぎない摂政のために後宮があるわけはないからです。

日本書紀は、593~628年は推古天皇の時代であると言っています。日本書紀の推古天皇の巻はどう書かれているのでしょうか。推古天皇の巻の最初のほうで「厩戸豊聡耳皇子を立てて、皇太子とされ、国政をすべて任せられた」と述べられているように、推古天皇という人物は、もともと存在感が希薄でした。しかし、隋の皇帝が使いを送ったのですから、さすがにこれを推古天皇の巻から省くことはできません。推古天皇の巻の記述は大変怪しげです(以下、日本書紀の一連の現代語訳は宇治谷1988より引用)。

※日本書紀は、隋のことを「大唐」または「唐」と記します。日本書紀が書かれたのが完全に唐の時代であったことが大きいと思われます。私たちは、現代について語る時だけでなく、古代について語る時にも「中国」と言いますが、それに似た感覚でしょう。

秋八月三日、唐の客は都へはいった。この日飾馬七十五匹を遣わして、海石榴市の路上に迎えた。額田部連比羅夫が挨拶の言葉をのべた。

十二日、客を朝廷に召して使いの旨をのべさせられた。阿倍鳥臣・物部依網連抱の二人を、客の案内役とした。唐の国の進物を庭上に置いた。使者裴世清は自ら書を持ち、二度再拝して使いの旨を言上した。その書には、「皇帝から倭皇にご挨拶を送る。使人の長吏大礼蘇因高らが訪れて、よく意を伝えてくれた。自分は天命を受けて天下に臨んでいる。徳化を弘めて万物に及ぼそうと思っている。人々を恵み育もうとする気持には土地の遠近はかかわりない。天皇は海のかなたにあって国民をいつくしみ、国内平和で人々も融和し、深い至誠の心があって、遠く朝貢されることを知った。ねんごろな誠心を自分は喜びとする。時節は漸く暖かで私は無事である。鴻臚寺の掌客裴世清を遣わして送使の意をのべ、併せて別にあるような送り物をお届けする」とあった。そのときに阿倍鳥臣が進み出て、その書を受けとり進むと、大伴囓連が迎え受けて、帝の前の机上に置いた。儀事が終って退出した。このときには皇子・諸王・諸臣はみな冠に金の飾りをつけた。また衣服にはみな錦・紫・繡・織および三色織りのうすものをもちいた。

十六日、客たちを朝廷で饗応された。

※宇治谷1988の現代語訳では「帝の前の机上に置いた」と訳されていますが、日本書紀原文の表現は、「帝」ではなく、「大門」です。「宮門」を通ると、「朝庭」が広がっており、そこを突っ切って「大門」を通ると、天皇の居所である「大殿」があるという具合です。

すごいハイライトシーンです。「あれっ、倭王のお出ましは?」と唖然としてしまいます。これは、隋の使いを迎える場面ですが、少し後に、新羅・任那の使いを迎える場面も記されています。

冬十月八日、新羅・任那の使人が都に到着した。この日、額田部連比羅夫に命ぜられて、新羅の客を迎える荘馬の長とし、膳臣大伴を任那の客を迎える荘馬の長とした。大和の阿刀の河辺の館に入らせた。

九日、客人たちは帝に拝礼した。このとき秦造河勝・土部連菟に、新羅の導者を命ぜられた。間人連塩蓋・阿閉臣大籠に任那の導者を命ぜられた。共に南門から入って御所の庭に立った。大伴咋連・蘇我豊浦蝦夷臣・坂本糠手臣・阿倍鳥子臣らは、席から立って中庭に伏した。両国の客人はそれぞれ拝礼して使いの旨を奏上した。四人の大夫は前に進んで大臣に申し上げ、大臣は席を立ち、政庁の前に立って聴いた。終って客人らにそれぞれに応じた賜物があった。

十七日、使者たちを朝廷でもてなされた。河内漢直贄を、新羅の客の相手役とし、錦織首久僧を任那の客の相手役とした。

※宇治谷1988の現代語訳では「客人たちは帝に拝礼した」と訳されていますが、日本書紀原文の表現は、「帝」ではなく、「朝庭」です。「宮門」を通ると、「朝庭」が広がっており、そこを突っ切って「大門」を通ると、天皇の居所である「大殿」があるという具合です。「(政)庁」は、「朝庭」の脇にあります。

新羅・任那の使いが来た時も、隋の使いが来た時と同じ流れですが、「大臣」が現れて終わっています。

大山氏は、これらの二つの場面にも厳しい目を向けます(大山2009)。

そこで、今度は、裴世清に関する『日本書紀』の記事を見ておこう。歓迎行事の中で、倭王がどのように記されているかを確認する必要があるからである。

推古十六年(六〇八)八月壬子条に、その様子が記されている。まず、裴世清が朝庭に召され、日本側の役人が使者の趣を奏上する。阿倍鳥臣と物部依網連抱とが導者となって国信物を庭中に置く。次に、裴世清が自ら国書を読み上げる。それが終わると、阿倍臣がその国書を受け取り、さらにその国書を大伴囓連が受け取って、大門の前の机の上に置き、その旨を奏上する、というものである。ここで、終わっている。要するに、国書をたらい回しして大門の前の机の上に置いたまま終わっているのである。ここで、天皇制という迷信にどっぷり浸かっている人は、天皇を神と考え、使者の前には姿を現さなかったと解釈する。天皇はシャーマンのような神秘的な存在で、邪馬台国の卑弥呼も人々の前には姿を現さなかったではないかというわけである。

しかし、そうではない。ここは、『隋書』によるべきである。倭王は、間違いなく、裴世清と言葉を交わしている。卑弥呼の例をもち出すなど時代錯誤もはなはだしい。倭王が登場しないのは、『日本書紀』が都合が悪かったので書かなかったためと考えるべきである。

しかし、実は、『日本書紀』には、このときの倭王が誰かを推測できる記事がある。新羅と任那の使者に対する歓迎行事の記事である。

推古十八年(六一〇)十月丁酉条に、その記事がある。

まず、隋の使者の場合と同様に、秦造河勝と土部連菟が新羅の導者、間人連塩蓋と阿閉臣大籠が任那の導者となり、両国の使者を案内して南門より朝庭に入る。そのとき、大伴咋連・蘇我豊浦蝦夷臣・坂本糠手臣・阿倍鳥子臣の四人の大夫が席を起って、庭に伏す。両国の使者が、再拝して使の趣旨を言上する。そして、ここからである。先の四人の大夫が起って進んで大臣に奏上し、大臣は、席から起って、庁の前でこれを聞く。その後、使者たちに禄を与えて終わるのであるが、実質上、大臣の登場が儀式の最後と言ってよい。使者たちは、導者と四人の大夫に導かれて、最後に大臣と接見したのである。この大臣こそ、この儀式の主役だったと言ってよい。もちろん、ここで言う大臣とは蘇我馬子のことである。

これが日本の歴史書の推古天皇の巻であり、隋の皇帝が使いを送ってきたというビッグイベントの時の記述なのですから、やはり異常と言うしかないでしょう。隋書が倭王が裴世清と会うシーンを実直に記しているだけに、日本書紀の異常さが際立ちます。

倭王阿毎多利思比弧の文書が隋の煬帝を怒らせてしまうハプニングはありました。倭王阿毎多利思比弧は、「怒らせてしまったのなら、申し訳ない」という趣旨のことは言ったでしょう。中国との接触を再開した後の日本の改革を見ると、倭王阿毎多利思比弧は、中国が日本よりはるかに進んでいることを十分に認識しており、張り合うような態度には見えません。ただ、自分の地位が中国の皇帝によって認定されるものとは考えておらず、この点は昔の倭王と異なっています。

卑弥呼と台与のこともそうでした。古事記と日本書紀がとぼけようとしても、魏志(魏書)が本当のことを暴露していました。継体天皇の勾大兄皇子と檜隈高田皇子のこともそうでした。古事記と日本書紀がとぼけようとしても、百済本記が本当のことを暴露していました。推古天皇と聖徳太子と蘇我馬子のこともそうなのです。古事記と日本書紀がとぼけようとしても、隋書が本当のことを暴露しているのです。

めまいがしそうですね。日本の飛鳥時代が崩壊?いや、そんなことはありません。長く続いた古墳時代から飛鳥時代への移行は、まぎれもなく日本史上の大きな転機です。ただ、新たな方向へ舵を切ったのが、推古天皇の代わりをしていたという聖徳太子ではなく、蘇我馬子だった可能性が出てきたということです。

古事記と日本書紀は、膨大な嘘を積み重ねています。しかし、無秩序に嘘を積み重ねているわけではありません。ある目的があるのです。その目的とは、「万世一系」というフィクションを作り上げ、それを真実として信じ込ませることです。古事記と日本書紀は、そのための執念のかたまりと言っても過言ではありません。だれがそのような狂気のフィクションを作り上げようとし、実際に作り上げたのか、それを完璧に明らかにしたのが、ほかならぬ大山誠一氏の「天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト」です。

前回の記事で敏達天皇の実在性が危うくなってきましたが、推古天皇の実在性も危うくなってきました。ある男女が実在したことは認めているのです。その男女が天皇だったのか問題にしているのです。

蘇我馬子は、敏達天皇→用明天皇→崇峻天皇→推古天皇という四人の天皇の時代に大臣だったことになっています。敏達天皇と推古天皇だけでなく、用明天皇と崇峻天皇も調べないといけないでしょう。

 

参考文献

宇治谷孟、「日本書紀(上)」、講談社、1988年。

大山誠一、「天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト」、NHK出版、2009年。

藤堂明保ほか、「倭国伝 中国正史に描かれた日本 全訳注」、講談社、2010年。