日本語の起源と歴史に興味を持つすべての方へ

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こんにちは。金平譲司と申します。ここに「日本語の意外な歴史」と題するブログを立ち上げました。

このブログは、日本語ならびに日本語と深い関係を持つ言語の歴史を解明するものです。言語学者だけでなく、他の分野の専門家や一般の方々も読者として想定しています。

謎に包まれてきた日本語の起源

日本語はどこから来たのかという問題は、ずいぶん前から様々な学者によって論じられてきましたが、決定的な根拠が見つからず、大いなる謎になってしまった感があります。しかしながら、筆者の研究によってようやくその全貌が明らかになってきたので、皆さんにお話ししようと思い立ちました。

日本語は、朝鮮語、ツングース諸語(エヴェンキ語、満州語など)、モンゴル諸語(モンゴル語、ブリヤート語など)、テュルク諸語(トルコ語、中央アジアの言語など)と近い関係にあるのではないか、あるいはオーストロネシア語族(台湾、フィリピン、インドネシア、マレーシア、オセアニアなどの言語から成る言語群)と近い関係にあるのではないかというのが従来の大方の予想でしたが、これらの予想はポイントを外しています。

中国語を見て全く違うと感じた日本人が、日本語は北方の言語と関係があるのではないか、南方の言語と関係があるのではないかと考えたのは、至極当然のことで、北方の言語と南方の言語に視線を注ぐこと自体は間違っていません。問題なのは、北方のごく一部の言語と南方のごく一部の言語に関心が偏ってしまったことです。

上記の言語のうちで、朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語は、日本語によく似た文法構造を持つことから、日本語に近縁な言語ではないかと盛んに注目されてきました。同時に、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語は、互いに特に近い関係にあるとみなされ、いわゆる「アルタイ語族」という名でひとまとめにされることがしばしばありました。日本語の起源をめぐる議論は、このような潮流に飲まれていきました。

しかしながら、筆者がこれから明らかにしていく歴史の真相は、かなり違います。日本語は、朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語と無関係ではないが、別の言語群ともっと近い関係を持っているようなのです。

実を言うと、筆者は日本語やその他の言語の歴史に興味を持つ人間ではありませんでした。筆者は若い頃にフィンランドのヘルシンキ大学で一般言語学や様々な欧州言語を学んでいましたが、その頃の筆者の興味は言語と思考の関係や外国語の学習理論などで、もっぱら現代の言語に関心が向いていました。歴史言語学の講義もありましたが、特に気に留めていませんでした。

筆者が言語の歴史について真剣に考えるようになったきっかけは、ロシアの北極地方で少数民族によって話されているサモエード諸語との出会いでした。サモエード諸語は、フィンランド語やハンガリー語と類縁関係にある言語です。フィンランド語とハンガリー語はヨーロッパの中では異色の存在で、北極地方の少数民族の言語と類縁関係を持っています。フィンランド語、ハンガリー語、サモエード諸語などから成る言語群は、「ウラル語族」と呼ばれます。

言語学者が使う「語族」という用語について若干説明しておきます。私たちが万葉集や源氏物語の言葉を見ると、「読みにくいな」と感じたり、「なにを言っているのかわからないな」と感じたりします。言語は時代とともに少しずつ変化しています。言語は単に変化するだけでなく、分化もします。ある程度広い範囲で話されている言語には、地域差が生じてきます。

この地域ごとに少しずつ異なる言葉が方言です。しかし、これらの方言が地理的に隔たってさらに長い年数が経過すると、最初は小さかった方言同士の差が大きくなっていき、やがて意思疎通ができないほどになります。

あまりに違いが大きくなれば、もう方言ではなく、別々の言語と言ったほうがふさわしくなります。一律の学校教育やマスメディアが発達していない時代には、この傾向は顕著です。ある言語が別々の言語に分化するのです。分化してできた言語がさらに分化することもあります。言語学では、おおもとの言語と分化してできた諸言語をまとめて「語族」といいます。世界で最もよく知られている語族は、インド・ヨーロッパ語族と呼ばれる語族で、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語などはこの語族に属します。例えるなら、イヌ、オオカミ、キツネ、タヌキが共通祖先を持っているように、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語は共通祖先を持っているということです。

日本語とウラル語族

英語などが属するインド・ヨーロッパ語族は巨大な言語群ですが、フィンランド語やハンガリー語が属するウラル語族はこじんまりとした言語群です。ウラル語族の言語は、ロシアの北極地方から北欧・東欧にかけて分布しています。地理的に遠く離れているので、ウラル語族の言語は一見したところ東アジアの言語、特に日本語とはなんの関係もないように見えますが、実はここに大きな盲点があります。日本語の歴史を考えるうえで大変重要になるので、ウラル語族の話を続けます。以下にウラル語族の内部構造を簡単に示します。

ウラル語族の言語を研究する学者の間に意見の相違がないわけではありませんが、上の図は従来広く受け入れられてきた見方です。ウラル語族の言語は、まずフィン・ウゴル系とサモエード系に分かれ、フィン・ウゴル系はそこからさらにフィン系とウゴル系に分かれます。フィンランド語はフィン系に属し、ハンガリー語はウゴル系に属します。サモエード系の言語は、ロシアの北極地方に住む少数民族によって話されています。現在残っているサモエード系の言語はネネツ語、エネツ語、ガナサン語、セリクプ語の四つのみで、特に後の三つは消滅の危機にあります。

サモエード系の言語は、フィンランド語やハンガリー語と同じウラル語族の言語ですが、フィンランド語やハンガリー語とは文法面でも語彙面でも著しく異なっています。同じ言語から分かれた言語同士でも、別々の道を歩み始め、何千年も経過すれば、似ても似つかない言語になってしまいます。特に、サモエード系の言語が辿った運命とフィンランド語・ハンガリー語が辿った運命は対照的です。サモエード系の言語は、北極地方にとどまり、他の言語との接触が比較的少なかったために、昔の姿をよく残しています。それに対して、フィンランド語とハンガリー語は、有力な言語がひしめくヨーロッパに入り込み、大きく姿を変えました。サモエード系の言語は、いわば「生きた化石」です。人類の歴史を解明するうえで、大変重要な言語です。サモエード系の言語との出会いは、筆者にとってショッキングな出来事でした。これ以降、筆者は言語の歴史について本格的に研究し始めることになります。

筆者が初めてサモエード系の言語を見た時には、「文法面ではモンゴル語やツングース諸語に似ているな」という第一印象を受けました。しかし、よく調べると、「あれっ、語彙面では日本語に似ているな」という第二印象を受けました。少なくとも言語の根幹をなす基礎語彙に関しては、モンゴル語やツングース諸語より、ウラル語族のサモエード系の言語のほうが日本語に近いと思いました。なんとも不思議な感じがしました。なんで日本の近くで話されているモンゴル語やツングース諸語より、北極地方で話されているウラル語族のサモエード系の言語のほうが日本語に近いんだろうと考え始めました。様々な言語を見てきましたが、サモエード系の言語には今までにない特別なものを感じました。なにか重大な秘密が隠されている予感がしました。

フィンランド語とハンガリー語だけを見ていた時は気づかなかったのですが、サモエード系の言語を介しながらフィンランド語とハンガリー語を見てみると、やはりフィンランド語とハンガリー語にも日本語との共通語彙があります。日本語の中にある、ウラル語族と共通している語彙、そしてウラル語族と共通していない語彙を見分けていくうちに、二つの疑問が頭に浮かんできました。一つ目の疑問は、日本語の祖先とウラル語族の言語の祖先の接点は地理的にどの辺にあったのだろうという疑問です。二つ目の疑問は、日本語の中にある、ウラル語族と共通していない語彙はどこから来たのだろうという疑問です。日本語の中には、ウラル語族と共通している語彙も多いですが、共通していない語彙も多いのです。

東アジアには黄河文明とは違う文明が存在した

ウラル語族の各言語の語彙を研究するうちに、ウラル語族が日本語だけでなく、モンゴル語、ツングース諸語、朝鮮語、さらには中国語にもなんらかの形で関係していることが明らかになってきたので、ウラル語族の言語と東アジア・東南アジアの言語の大々的な比較研究を開始しました。着実かつ合理的に歴史を解明するため、考古学および生物学の最新の研究成果を適宜参照しました。考古学も生物学も近年めざましい発展を遂げており、数々の重要な発見がありました。

かつては、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、そして東アジアの黄河文明が並べられ、世界四大文明と呼ばれていました。ところが、その後の発見によって、東アジアには黄河文明のほかに二つの大きな文明が存在したことがわかってきました(このテーマを包括的に扱った書籍はいくつかありますが、考察の広さ・深さの点でShelach-Lavi 2015が優れています)。

その二つの大きな文明とは、長江文明と遼河文明(りょうがぶんめい)です。日本列島で縄文時代が進行する間に、大陸側はこのようになっていたのです。黄河文明と長江文明に比べて、遼河文明は知名度が高くないかもしれません。しかし、遼河文明は、日本語の歴史を解明するうえで重要な鍵を握っているようなのです。

生物学が発達し、人間のDNA配列が調べられるようになりました。DNA配列は、正確には「DNAの塩基配列」といい、アデニンA、チミンT、グアニンG、シトシンCという四種類の物質が作る列のことです。最近では、生きている人間のDNA配列だけでなく、はるか昔に生きていた人間のDNA配列も調べられるようになってきました。大変興味深いことに、遼河文明が栄えていた頃に遼河流域で暮らしていた人々のDNA配列を調べた研究があります(Cui 2013)。

人間は父親と母親の間に生まれるので、子のDNA配列が父親のDNA配列と100パーセント一致することはなく、子のDNA配列が母親のDNA配列と100パーセント一致することもありません。しかし、父親から息子に代々不変的に受け継がれていく部分(Y染色体DNA)と、母親から娘に代々不変的に受け継がれていく部分(ミトコンドリアDNA)があります。代々不変的に受け継がれていく部分と書きましたが、この部分にも時に突然変異が起きます。つまり、その部分のDNA配列のある箇所が変化するのです。変化していないY染色体DNA配列を持つ男性がそれを息子に伝える一方で、変化したY染色体DNA配列を持つ男性がそれを息子に伝えるということが起き始めます。同様に、変化していないミトコンドリアDNA配列を持つ女性がそれを娘に伝える一方で、変化したミトコンドリアDNA配列を持つ女性がそれを娘に伝えるということが起き始めます。こうして、時々起きる突然変異のために、Y染色体DNAのバリエーション、ミトコンドリアDNAのバリエーションができてきます。人類の歴史を研究する学者は、このY染色体DNAのバリエーション、ミトコンドリアDNAのバリエーションに注目するのです。

先ほど述べた遼河流域の人々のDNA研究は、Y染色体DNAのバリエーション(例えば、C系統か、D系統か、N系統か、O系統か)を調べたものです。その結果はどうだったでしょうか。古代の人々の研究なのでサンプル数は限られていますが、それでも大まかな傾向は十分に捉えられています。遼河文明が栄えていた頃の遼河流域では、当初はN系統が圧倒的に優勢だったが、次第にO系統とC系統が増え(つまり他の地域から人々が流入してきたということ)、N系統はめっきり少なくなってしまったようです。現在の日本、朝鮮半島、中国では、N系統はほんの少し見られる程度です(Shi 2013)。対照的に、ウラル語族の言語が話されているロシアの北極地方からフィンランド方面にかけてN系統が非常に高い率で観察されています(Rootsi 2007)。

見え始めた日本語の正体

筆者もウラル語族の言語が東アジアの言語と深い関係を持っていることを知った時には大いに驚きましたが、考古学・生物学の発見と照らし合わせると、完全に合致します。日本語がウラル語族の言語と深い関係を持っていることは非常に興味深いですが、もう一つ興味深いことがあります。日本語の中には、ウラル語族と共通している語彙も多いですが、共通していない語彙も多く、ウラル語族とは全く異なる有力な言語群も日本語の形成に大きく関与したようなのです。

ウラル語族の言語と東アジア・東南アジアの言語の大々的な比較研究を行い、様々な紆余曲折はありましたが、漢語流入前の日本語(いわゆる大和言葉)の語彙構成が以下のようになっていることがわかってきました。

「ウラル語族との共通語彙」も多いですが、「黄河文明の言語との共通語彙」と「長江文明の言語との共通語彙」も多く、この三者で漢語流入前の日本語の語彙の大部分を占めています。

「その他の語彙1」というのは、日本語が大陸にいた時に取り入れた語彙で、「ウラル語族との共通語彙」にも、「黄河文明の言語との共通語彙」にも、「長江文明の言語との共通語彙」にも該当しないものです。

「その他の語彙2」というのは、日本語が縄文時代に日本列島で話されていた言語から取り入れた語彙です。

漢語流入前の日本語の語彙構成の特徴的なところは、なんといっても、語彙の大きな源泉が三つあることです。三つの有力な言語勢力が交わっていたことを窺わせます(遼河文明と黄河文明と長江文明の位置を思い出してください)。

「日本語の意外な歴史」では、ウラル語族との共通語彙、黄河文明の言語との共通語彙、長江文明の言語との共通語彙、その他の語彙1、その他の語彙2、いずれも詳しく扱っていきます。

では、日本語およびその他の言語の歴史を研究するための準備に取りかかりましょう。

 

外国語の単語の表記について

英語と同じようなアルファベットを使用している言語では、それをそのまま記します。言語学者が諸言語の発音を記述するのに使う国際音声記号(IPA)というのがありますが、音韻論の専門家でない限り、多くが見慣れない記号です。そのため、本ブログではIPAの使用はできるだけ控えます。特に朝鮮語は、IPAを用いて記すと複雑になるため、市販されている初心者向けの韓国語の文法書で採用されている書き方にならいました。一般の読者にとって見慣れない記号を用いる場合には、補助としてのカタカナ表記を付け加えます。慣習を考慮し、ヤ行の子音は基本的に、北方の言語(ウラル語族の言語など)では「j」で表し、南方の言語(中国語、東南アジアの言語)では「y」で表します。古代中国語のアルファベット表記の仕方は、Baxter 2014に従います。

 

参考文献

Baxter W. H. et al. 2014. Old Chinese: A New Reconstruction. Oxford University Press.

Cui Y. et al. 2013. Y chromosome analysis of prehistoric human populations in the West Liao River Valley, Northeast China. BMC Evolutionary Biology 13: 216.

Rootsi S. et al. 2007. A counter-clockwise northern route of the Y-chromosome haplogroup N from Southeast Asia towards Europe. European Journal of Human Genetics 15: 204-211.

Shelach-Lavi G. 2015. The Archaeology of Early China: From Prehistory to the Han Dynasty. Cambridge University Press.

Shi H. et al. 2013. Genetic evidence of an East Asian origin and paleolithic northward migration of Y-chromosome haplogroup N. PLoS One 8(6): e66102.


►言語の歴史を研究するための準備へ

箸墓古墳(はしはかこふん)についてもっと詳しく、古代日本に果たして殉葬はあったのか

飛鳥時代と奈良時代のショッキングな話に入る前に、卑弥呼の墓かと注目度が高まってきた箸墓古墳(はしはかこふん)についてもう少し情報を付け加えておきます。

魏志倭人伝が卑弥呼の死を伝えている部分を、もう一度振り返りましょう(藤堂2010)。

卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩。狥葬者奴婢百餘人。

卑弥呼以に死し、大いに冢を作る、径百余歩なり。狥葬する者奴婢百余人なり。

非常に短い記述ですが、「徑百餘歩(径百余歩なり)」と「狥葬者奴婢百餘人(狥葬する者奴婢百余人なり)」という記述がそこにあります。

前回の記事では、考古学者の都出比呂志氏が弥生時代の墓の変遷を描いたスケッチを紹介しました(都出1998)。

(周溝に囲まれた)四角い墓とまるい墓がまずあって、その墓と外部の連絡部分がのちに墓の突起部分になるという変遷です。

魏志倭人伝の「徑百餘歩(径百余歩なり)」という書き方からして、卑弥呼の墓は円墳か、円墳に突起部分が付いたものであったと推測されます。

下は、箸墓古墳の写真で、現代の日本人はこのような墓を「前方後円墳」と呼んでいますが、これは現代の日本人がそう呼んでいるだけで、古代の日本人が箸墓古墳のような墓をどう呼んでいたか(どう見ていたか)は、不明です(写真は朝日新聞様のウェブサイトより引用)。

ただ、箸墓古墳より前に作られた、箸墓古墳のような形の墓を見ると、円形部分に対して台形部分が小さく、箸墓古墳自身も、都出氏のスケッチのようにして生まれたことはまず確実です。箸墓古墳自身も、「円墳になにかがくっついたもの」という見方をされていた可能性は十分にあります。

ここで気になるのが、魏志倭人伝の「徑百餘歩(径百余歩なり)」という記述です。前方後円墳について語る時には、「墳丘長」という言葉がよく使われ、「箸墓古墳の墳丘長は約280メートルである」などと言われます。「墳丘長」というのは、円形部分の一番上から台形部分の一番下までの長さです。確かに、箸墓古墳の墳丘長は約280メートルですが、円形部分に注目すると、円形部分の直径は約160メートルなのです(大塚2021)。円形部分の直径が約160メートルだからなんなのかということですが、以下の表を見てください(大塚2021)。

古代中国では、6尺が1歩でした。1歩の長さが何メートルだったのかは時代によって少々異なりますが、魏志倭人伝の「徑百餘歩(径百余歩なり)」という記述と、箸墓古墳の円形部分の直径が約160メートルであるという事実は、完璧といってよいほど合致するのです。現代の日本人が使う「前方後円墳」という呼び名は、円形部分が本体部で、台形部分が付属部であると強調していないが、やはり、古代の日本人は、円形部分が本体部で、台形部分が付属部であると見ていたのではないか、そんなふうに考えたくなるところです(都出氏のスケッチの変遷を踏まえれば、当然です)。

魏志倭人伝の「徑百餘歩(径百余歩なり)」という記述は、形と大きさの両方の点で、箸墓古墳とよく合います。こうなると、いっしょにある「狥葬者奴婢百餘人(狥葬する者奴婢百余人なり)」という記述が大きな問題になってきます。

中国語の「狥」は「徇」の俗字なので、「狥葬」というのは「徇葬」のことです。「殉葬」とも書かれます。偉い人が死んだ時に、他の者が自殺しあるいは殺され、この他の者をお供として葬ることです。古代中国の殉葬はよく知られていますが、実は、古代日本の殉葬の存在はいまひとつ不明です。しかし、古事記は述べていないのですが、日本書紀は古代日本の殉葬に関して気になることを述べています。

古事記と日本書紀は、以前にお話ししたように、天照大神(あまてらすおおみかみ)などの神々が登場する神話が最初にあって、その後に神武天皇から始まる歴代の天皇の話が続きます。神話と歴代の天皇の話はつながっています。天照大神の孫がニニギノミコトで、ニニギノミコトが天上界から地上界に降り、ニニギノミコトのひ孫が神武天皇であるという作りになっています。

ところが、不思議なことに、古事記と日本書紀は、神話を詳しく記し、神武天皇の話を詳しく記した後、第2代の綏靖天皇から第9代の開化天皇までのことについてはほとんど語りません。系譜以外のことは全くわからない状態です。そのため、第2代の綏靖天皇から第9代の開化天皇までは、「欠史八代」と呼ばれています。

1. 神武天皇
2. 綏靖天皇
3. 安寧天皇
4. 懿徳天皇
5. 孝昭天皇
6. 孝安天皇
7. 孝霊天皇
8. 孝元天皇
9. 開化天皇
10. 崇神天皇
11. 垂仁天皇
12. 景行天皇
13. 成務天皇
14. 仲哀天皇
15. 応神天皇

古事記と日本書紀が天皇のことについて再び詳しく語り始めるのは、第10代の崇神天皇からです。古事記と日本書紀の宮(天皇の家)と陵(天皇の墓)の記述などから、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の話は、三輪山周辺が舞台になっていることがはっきりと見て取れます。

前回の記事を思い出してください。三輪山周辺というのは、最初の巨大前方後円墳である箸墓古墳とそれに続く巨大前方後円墳がある場所です(図は千賀2008より引用)。

第2代の綏靖天皇から第9代の開化天皇までほとんど語らなかった古事記と日本書紀が、第10代の崇神天皇から盛んに語り始めるのは、やはり訳があると思われます。かつて三輪山周辺で起きたことについては、ある程度詳しい文字記録あるいは口頭伝承があったのでしょう。もちろん、古事記と日本書紀が実際にあったことをそのまま書いているとは限りません。いや、書いていないでしょう。しかし、もとになる話は十分にあったと思われるのです。それが、第2代の綏靖天皇から第9代の開化天皇までのまるで内容のないわずかな記述と、第10代の崇神天皇からの内容豊かな記述の違いとなって表れていると考えられます。

前回の記事で示したように、卑弥呼と台与という少女を最高位に据えたのは「暫定的措置」で、この二人の後は男性が最高位についた可能性が高いです。これらの男性は、純粋に象徴であった卑弥呼と台与と違って、ある程度の権力を持っていたのでしょう。これらの男性がそのまま古事記と日本書紀の崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇であるとは言いませんが、実際に存在したこれらの男性の話が古事記と日本書紀の崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の話にある程度取り込まれていることは十分に考えられます。

さて、殉葬の問題に戻りましょう。殉葬の話がまさにここに出てくるのです。垂仁天皇のところで出てきます。「宇治谷孟、日本書紀(上)、講談社、1988年」の現代日本語訳を示します。

「生きているときに愛し使われた人々を、亡者に殉死させるのはいたいたしいことだ。古の風であるといっても、良くないことは従わなくてもよい。これから後は議って殉死を止めるように」

「殉死がよくないことは前に分った。今度の葬はどうしようか」

「君王の陵墓に、生きている人を埋め立てるのはよくないことです。どうして後の世に伝えられましょうか。どうか今、適当な方法を考えて奏上させて下さい」

「これから後、この土物を以て生きた人に替え、陵墓に立て後世のきまりとしましょう」

「今から後、陵墓には必ずこの土物をたてて、人を損なってはならぬ」

天皇とその周囲の者の口から、こういう発言が出てくるわけです。古代中国の殉葬はよく知られているが、古代日本には殉葬は全くなかった、そう仮定してみましょう。それで、上のような発言が日本書紀に出てくるでしょうか。名誉なことや誇らしいことだったら、嘘をついてあったと書くかもしれません。しかし、上の発言を見てわかるように、殉葬はそういうものとして捉えられてはいません。天皇とその周囲の者は、よくないことだと言って、退けています。

続きは現在執筆中です

 

参考文献

大塚初重、「邪馬台国をとらえなおす」、吉川弘文館、2021年。

千賀久、「ヤマトの王墓 桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳」、新泉社、2008年。

都出比呂志、「総論 弥生から古墳へ」、都出比呂志編『古代国家はこうして生まれた』、角川書店、1998年。

藤堂明保ほか、「倭国伝 中国正史に描かれた日本 全訳注」、講談社、2010年。

前方後円墳とは何だったのか、その始まりも重要だが、その終わりも重要<更新版>

日本の歴史において弥生時代の次の時代は「古墳時代」と呼ばれていますが、この名称はもちろんあの巨大な前方後円墳から来ています。

下の写真は、ところで、邪馬台国九州説はどうなってしまったのかの記事でお話しした、卑弥呼の墓である可能性が高まってきた箸墓古墳(はしはかこふん)です(写真は朝日新聞様のウェブサイトより引用)。

誤解のないように言っておくと、箸墓古墳は「最初の前方後円墳」というより、「最初の巨大前方後円墳」です。上の鍵穴のような形をした墓は、卑弥呼の時代より前からありました。卑弥呼が死んだ頃から、いきなり巨大化したのです。

2016年に、卑弥呼の時代よりいくらか古いと見られる、前方後円墳のような墓が奈良県で発見され、ニュースになりました(写真は産経新聞奈良県専売会様のウェブサイトより引用)。

前方後円墳の「円形+台形」の台形の部分は、かつては小さかったのでしょう。考古学者の都出比呂志氏は、弥生時代の様々な墓について考察し、以下のような変遷があったのではないかと推測していますが、妥当な推測と思われます(都出1998)。

要するに、(周溝に囲まれた)四角い墓とまるい墓がまずあって、その墓と外部の連絡部分がのちに墓の突起部分になったのだろうということです。前方後円墳では特に、この突起部分が大きくなったわけです。

すでに述べたように、箸墓古墳が巨大前方後円墳の第1号で、西殿塚古墳(にしとのづかこふん)→桜井茶臼山古墳(さくらいちゃうすやまこふん)→メスリ山古墳(めすりやまこふん)→行燈山古墳(あんどんやまこふん)→渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん)と、巨大前方後円墳の造営が続きます(千賀2008)。

巨大前方後円墳第1号の箸墓古墳と第2号の西殿塚古墳は、卑弥呼と台与の墓である可能性が十分にありますが、その後の桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳は、かなり謎めいています。巨大前方後円墳の多くは、宮内庁が禁止しているために、中に入ることができず、考古学調査が満足に行えない状態ですが、なぜか古事記と日本書紀は桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳には言及しておらず(桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳も、箸墓古墳と西殿塚古墳に迫る巨大前方後円墳であり、気づかないということはありえません)、桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳に対しては本格的な考古学調査が行われています。以下の図を見てもわかるように、桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳は他の古墳から離れたところにある訳ありの古墳です(図は千賀2008より引用)。

桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳はこういう古墳なので、他の古墳に対してどういう関係にあるのか、本当に最高位の者(かつての大王、のちの天皇)の墓なのか、考古学者の間でも意見が分かれています。ただし、桜井茶臼山古墳も、メスリ山古墳も、武器が大量に出ており、男性の墓と見られます(千賀2008)。

ちなみに、桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳の後の行燈山古墳と渋谷向山古墳については、古事記と日本書紀は崇神天皇と景行天皇の墓であると言いたいようであり、どの天皇の墓かはともかく、行燈山古墳と渋谷向山古墳も男性の墓と見られます。

天皇の起源はもしかして・・・倭国大乱と卑弥呼共立について考えるの記事でも述べましたが、やはり卑弥呼と台与という少女を最高位に据えたのは「暫定的措置」(その場を切り抜けるためのやむを得ない措置)の性格が強く、この二人の後は男性が最高位についた可能性が高そうです。卑弥呼と台与の後の最高位の者が桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳の被葬者であれ、行燈山古墳と渋谷向山古墳の被葬者であれ、そういうことになりそうです。

※興味深いことに、箸墓古墳→西殿塚古墳→桜井茶臼山古墳→メスリ山古墳→行燈山古墳→渋谷向山古墳と続いた後、最高位の者の墓(最も大きな前方後円墳)は大和に作られなくなってしまいます。最高位の者の墓は、大和古墳群から遠く離れた佐紀古墳群へと移動し、しばらくして、佐紀古墳群から遠く離れた大阪平野の古市古墳群・百舌鳥古墳群へと移動します。最高位の者の墓がそのように露骨に遠くに行ってしまうことはなにを意味しているのかというのは大きな問題で、これまで様々な学者によって論じられてきましたが、ここでは話がそれるので、別のところで論じることにします。ちなみに、日本の前方後円墳の中で最も有名な誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)(いわゆる「応神天皇陵」)と大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)(いわゆる「仁徳天皇陵」)はそれぞれ大阪平野の古市古墳群と百舌鳥古墳群にあります。

近畿の大和を中心として始まった大きな前方後円墳の造営は、日本の歴史を研究する者を戸惑わせてきました。最近は考古学の目覚ましい進歩によって邪馬台国研究の状況も大きく変わりましたが、その前は歴史学者の井上光貞氏が示したような見方が根強く存在しました(井上2005)。

邪馬台国論争の決め手は、けっきょく倭人伝の地理的記事をどう読むかにかかっている。以上述べてきたことは、この問題をめぐるおもな問題点で、わたくしはそれをたどりながら、九州説のほうがより合理的である、という結論に達した。このことは、二世紀末、日本にはじめて生まれた国家らしい国家はまず九州の地においてであり、この三世紀には、まだ西部日本と中部日本とを打って一丸とする国家はできていなかったということである。

このことは、より広い歴史の流れからみても自然ではないだろうか。なぜなら、二世紀のごく初頭までは、最先進地の北九州の、それも沿岸地方にせいぜい数国の連合が形成されていた程度であったのに、文明化のやや遅れていた畿内の勢力が、それから一世紀もたたないうちに起こった倭国の大乱を機に、一挙に九州から東国に及ぶほどの大国家を形成したとは考えがたいからである。

これは日本の歴史において非常に重要なことですが、卑弥呼の時代の日本に大国家などなかったのです。中国の文明・文化の取り入れを邪魔してきた北九州の勢力を倒すために、本州・四国で大きな連合が組まれました。この連合は、北九州の勢力との戦いで勝利を収めたものの、だれを最高位にするかもめ、象徴として少女の卑弥呼を最高位に据えました。卑弥呼が死んだ後も、だれを最高位にするかもめ、大規模な殺し合いまで起きてしまい、象徴として少女の台与を最高位に据えました。少女の卑弥呼を最高位に据えたのも、少女の台与を最高位に据えたのも、崩壊しようとする連合をなんとかつなぎとめようとする苦しい一手です。この今にも崩壊しそうになっている連合は、とても大国家などと呼べるものでありません。この今にも崩壊しそうになっている連合が始めたのが、大きな前方後円墳の造営です。

前方後円墳とはなんだったのか、古墳時代とはなんだったのか、考古学者の福永伸哉氏は以下のように述べています(福永2001)。

巨大な前方後円墳を眼前にしたときの、その巨大さに対する驚きは、高層ビル群を見慣れた現代の私たちにも新鮮である。世界各地の農耕社会の成立から巨大な王陵誕生までの時間を比較した佐原眞は、西アジア、中国、ヨーロッパで数千年を要したのに対して、日本では弥生時代開始から六〇〇年ほどで前方後円墳を生みだしたことに注目する。たしかに、日本列島における王陵誕生の速度はきわめて速かった。

ただそのいっぽうで、列島において、巨大な墳丘に社会関係を表示する役割を担わさなくてはならなかった理由も考える必要がある。前方後円墳が登場した三世紀は、中国においては横穴式の塼室墓による薄葬化が進む時期であるし、朝鮮半島でも巨大な墳丘は発達していないのである。さらに、その後三五〇年にわたって大豪族から有力農民にいたる各層がこぞって墳丘や周溝をもつ墳墓をつくり続けた点も特異といわざるをえない。この間に築造された古墳の数は三〇万基とも四〇万基ともいわれる。気の遠くなるような多くのエネルギーが 古墳築造を含む葬送儀礼に投入されたのである。

これだけのエネルギーがたとえば道路整備に向けられていたなら、車両による運搬がはやくに導入され、物資流通の効率が劇的に向上したかもしれないし、農地開拓にあてられていれば農業生産の飛躍的な増大が各地でみられたかもしれない。しかし、一部で大規模な灌漑・運搬用の人工水路が開削された可能性はあるものの、古墳築造に匹敵するような公共工事が行われた形跡は希薄である。増加した農業生産も、つぎつぎと古墳築造に投入されていったというのが実態であろう。逆説的ではあるが、古墳時代とは巨大な墳丘の威容とはうらはらに、ある意味で停滞の時代ではなかったかとさえ思えるのである。

しかし、日本という国家の形成へ向かうためには、葬送儀礼に精力を注いで各地の倭人社会をつなぎとめ、古墳に社会の秩序を語らせた三五〇年間もまた必要であった。社会内部の十分な成熟を待たずして東アジアの国際舞台へ登場した倭国にとって、古墳時代とは早熟な王権形成がはらむ諸矛盾を儀礼のなかに解消しようとした時代だったのである。

本質がよく捉えられていると思います。(中国の文明・文化の取り入れを邪魔してきた北九州の勢力を倒すために組まれた)即席の連合が、日本という国家の母体になったという点が大事です。重要なポイントは、強力な中央集権体制が誕生して、その強力な中央集権体制が巨大前方後円墳を作り始めたのではないということです。全く逆です。今にも崩壊しそうな連合が作り始めたのが、巨大前方後円墳なのです。

次回の記事で補足しますが、巨大前方後円墳の第1号である箸墓古墳は、各地域に存在していた墓の特徴を組み合わせて作られたことが明らかになっています。地域Aの墓の特徴、地域Bの墓の特徴、地域Cの墓の特徴・・・、そういう様々な特徴を組み合わせて作られたのが、箸墓古墳だということです。様々な地域の人々が参加して箸墓古墳が作られたこと、そして、様々な地域の人々によって立てられた人物が箸墓古墳の被葬者であることが窺えます。

様々な地域の墓の特徴を組み合わせた一つの規格を定め、その規格にしたがった墓を生産することにしたわけですが、これは、今にも崩壊しそうな連合に、同族意識を生み出そうとする、一体感を生み出そうとする試みではなかったかと思われます。前にも述べたように、現代では一族がばらばらになって暮らしているので、現代人は少し違う感覚を持っていると思いますが、古代人にとっては墓の意義はとても大きかったと見られます。箸墓古墳から始まる大きな前方後円墳には、同族意識を生み出す、一体感を生み出すという目的があり、実際に、そのような効果があったと考えられます。前方後円墳が日本各地に作られていたことからわかるように、前方後円墳は古代エジプトや古代中国の支配者の墓とはちょっと違うのです。要するに、今にも崩壊しそうな連合を、一つの国家になるまでずっとつなぎとめていたのが、前方後円墳であるということです。前方後円墳は墓ですが、そういう役割を果たしたという点で、日本の歴史において極めて重要な存在といえます。

しかし、そのような極めて重要な役割を果たした巨大前方後円墳がついに廃れる日が来ます。巨大前方後円墳の出現に比べると、巨大前方後円墳の消滅はあまり注目されていませんが、これも重要なことです。巨大前方後円墳の消滅は、支配体制が弱まったからではなく、むしろ、支配体制が強まったからとも考えられます。

今にも崩壊しそうな連合をつなぎとめるために、巨大前方後円墳が作られ始めたことを思い出してください。今にも崩壊しそうだった連合が、長い時間を経て、一つの国家の体を成してくると、福永氏が指摘しているように莫大なエネルギーを費やして巨大前方後円墳を作る必要もなくなってきます。支配体制が強固になった時代の支配者は、違う墓を作り始めるかもしれません。日本の歴史において、巨大前方後円墳の出現は一つの画期ですが、巨大前方後円墳の消滅も一つの画期です。

ここで当然注目されるのは、巨大前方後円墳を作るのをやめたのはいつの時代だろうか、もっと細かく言うと、巨大前方後円墳を作るのをやめたのはどの天皇の時代だろうかということです。日本の歴史において重要な意味を持ち、長く続いてきた伝統を断ち切るわけですから、ここも画期です。

「古墳時代」の次に「飛鳥時代」が来ることから察しがつくかと思いますが、飛鳥時代が始まる頃から前方後円墳は廃れます。飛鳥時代が始まる頃はどういう(政治)状況だったのか考えたいところですが、ここに非常に大きな問題が立ちはだかります。

「飛鳥時代の始まり」と言われると、皆さんはなにを思い浮かべるでしょうか。推古天皇が天皇で、聖徳太子が摂政だった時だなと、日本人はそういうイメージを植え付けられています。

以前にお話ししたように、古事記は推古天皇のところで記述が終わっており、推古天皇と聖徳太子についてほぼなにも語っていません。日本人が抱く推古天皇と聖徳太子のイメージは、日本書紀から来ています。

日本書紀という書物に疑いの目が向けられることは何度もありました。しかし、そのような厳しい目は、神武天皇や神功皇后などの古い時代に向けられることが多く、それよりずっと新しい飛鳥時代に向けられることはあまりありませんでした。しかし今、ここが怪しくなってきています。実は、天皇ではなかった人物が天皇だったことにされているのではないか、天皇だった人物が天皇ではなかったことにされているのではないか、そんな疑いまで出てきています。なんともショッキングな展開です。

卑弥呼は一体どんな人だったのか、日本の歴史の研究を大混乱させた幻の神功皇后の記事で、これからの日本の歴史の研究では、以下の二つの問い(観点)が重要になると述べました。

(問い1)だれがなんのために日本の歴史を改竄したのか。

(問い2)日本の実際の歴史はどうだったのか。

本ブログでは、今年は(問い2)の話ばかりで、(問い1)の話をすることができませんでしたが、来年からは(問い1)の話にも踏み込んでいきます。

近年の考古学の進歩はすばらしいです。しかし、筆者自身もそうだったのですが、考古学の進歩によって、日本の実際の歴史が日本書紀に書かれていることとは違っていたということはよくわかるものの、その日本書紀に書かれている「嘘」がどこから来たのかということがさっぱりわかりませんでした。日本書紀に書かれていることは「嘘」だで終わらせるのではなく、その「嘘」がどこから来たのか明らかにしなければ、日本人は完全に納得できないでしょう。日本の歴史が改竄されたというのも日本の歴史の一部で、これも本格的な研究の対象となるべきものです。(問い1)の「だれがなんのために日本の歴史を改竄したのか」ということについても、すぐれた研究が現れており、本ブログで紹介していきます。

 

参考文献

井上光貞、「日本の歴史<1> 神話から歴史へ」、中央公論新社、2005年。

千賀久、「ヤマトの王墓 桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳」、新泉社、2008年。

都出比呂志、「総論 弥生から古墳へ」、都出比呂志編『古代国家はこうして生まれた』、角川書店、1998年。

福永伸哉、「邪馬台国から大和政権へ」、大阪大学出版会、2001年。

卑弥呼(ひみこ)と卑弥弓呼(ひみくこ)、なぜこんなに名前が似ているのか、両者の関係とは

魏志倭人伝には、以下の記述があります(藤堂2010)。

其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯・烏越等詣郡、說相攻撃狀。遣塞曹掾史張政等因齎詔書・黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。

其の八年、太守王頎、官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯・烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因りて詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為りて之に告喩せしむ。

「其八年」というのは、中国の「正始八年」、すなわち「西暦247年」のことです。倭王の卑弥呼(ひみこ)が狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)と対立し、戦いが起きていることを伝えています。「素不和(素(もと)より和せず)」という表現は、注意を引きます。卑弥呼にとって、卑弥弓呼は、新しく現れた敵対者ではなく、昔から知っている敵対者だったということです。

前回の記事では、昔の日本語に統治者・支配者を意味するɸikoという語があったようだと述べました。この統治者・支配者を意味するɸikoが、目上の男に対して使われる敬称になったり、目上の男を意味するようになったり、一般に男を意味するようになったり、男の名前に組み込まれたりしたわけです。

上記の支配者・統治者を意味するɸikoはもちろんですが、ɸimiko(卑弥呼)とɸimikuko(卑弥弓呼)という名も注目に値します。ɸimiko(卑弥呼)とɸimikuko(卑弥弓呼)という名がよく似ていることから、これらは人名というより、地位に付けられた名であろうと述べました。

ɸiko、ɸimiko、ɸimikukoのほかに、もう一つ注目したい言葉があります。それは、卑弥呼よりも後の時代の日本で、天皇などに対して用いられたɸinomiko(日の御子)という言葉です。ɸiko、ɸimiko、ɸimikuko、ɸinomikoと並べてみると、統治者・支配者を意味していたɸikoという語は、ɸi(日)とko(子)がくっついた語だったのだろうと推測できます。

この推測には、無理がありません。古代中国にthen(天)テンとtsi(子)ツィをくっつけたthen tsi(天子)テンツィという語があり、これが統治者・支配者を意味していましたが、それと同様の発想です。

卑弥呼が即位する場面を思い出してください(日本の誕生のからくり、まさかこのようにして生まれた国だったとは・・・などを参照)。九州連合と本州・四国連合の間で行われた倭国大乱が終わり、各国の王たちが卑弥呼を共立する場面です。

当時の日本列島にはいくつもの国があり、それぞれの国に統治者・支配者がいました。それらの統治者・支配者が連合を作り、この連合の最高位に一人の少女を据えました。この地位は、従来の統治者・支配者の地位とは違います。この地位は、従来の統治者・支配者の地位の上に作られた別格の地位です。だから、従来のɸiko(日子)という言葉は使わず、特別なɸimiko(日御子)という名が付けられたと見られます。mi(御)は尊敬・畏敬の念を表す接頭語です(例えば、kokoro(心)からmikokoro(御心)が作られます)。太陽を意味するɸi(日)と尊敬・畏敬の念を表すmi(御)と子どもを意味するko(子)から作られたのがɸimiko(日御子)ですから、共立された一人の少女をこのように呼ぶことに問題はありません。

ɸiko(日子)、ɸimiko(日御子、卑弥呼)、ɸinomiko(日の御子)は理解しやすいですが、難解なのがɸimikuko(卑弥弓呼)です。ɸimikuko(卑弥弓呼)のɸiはɸi(日)、miはmi(御)、koはko(子)と予想されますが、ɸimikuko(卑弥弓呼)のkuはなんでしょうか。

ɸimikuko(卑弥弓呼)とは何者なのか、その位置づけを考えてみましょう。ɸimikuko(卑弥弓呼)というより、ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力の位置づけと言ったほうがよいかもしれません。以下は、倭国大乱の構図です。

倭国大乱を戦った九州連合と本州・四国連合、そしてどちらの連合にも属さない外部に分けてあります(「九州連合」と呼んでいますが、九州のすべての勢力が参加していたわけではありません。同様に、「本州・四国連合」と呼んでいますが、本州・四国のすべての勢力が参加していたわけではありません)。ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力は、どこにいた勢力でしょうか。

まず考えにくいのが、九州連合です。九州連合は倭国大乱で敗れ、地方官(一大率など)を置かれて恐れているあるいは従順になっている様子が魏志倭人伝から窺えます(ところで、邪馬台国九州説はどうなってしまったのかを参照)。近畿にいた卑弥呼たちと戦う勢力は、近畿か近畿からそれほど離れていないところにいた可能性が高いです。

ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力は、「外部」出身か、「本州・四国連合」出身かということになります。ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力が「外部」出身だったとしたら、本州・四国連合は九州連合を下した後に、別の敵を抱えたのかもしれません。ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力が「本州・四国連合」出身だったとしたら、本州・四国連合は九州連合を下した後に、内部で分裂したのかもしれません。

筆者は、ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力は、「本州・四国連合」出身である可能性が高いと考えています。

昔の日本語に統治者・支配者を意味するɸiko(日子)という語があって、これを変形したと考えられるのがɸimiko(日御子、卑弥呼)です。ɸimikoという名は、倭国大乱が終わって一人の少女が共立される時に生まれたものでしょう。ɸimikoという名をさらに変形したと思われるのが、ɸimikukoです。

ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力が「本州・四国連合」出身だったとしたら、本州・四国連合は九州連合を下した後に、内部で分裂したのかもしれないと述べました。この可能性は高いです。卑弥呼が即位する場面を思い出してください。九州連合を倒した本州・四国連合の王たちは、だれを連合の最高位にするかもめ、象徴として一人の少女を最高位に据えました。当然のことながら、象徴として一人の少女を最高位に据えるというやり方に賛成しない王たちもいたにちがいありません。

筆者は、ɸimikoからɸimikukoを作る時に加えられたkuは、「男」を意味する語だったのではないかと考えています。ɸi(日)、mi(御)、ko(子)から成るのがɸimikoで、ɸi(日)、mi(御)、*ku(男)、ko(子)から成るのがɸimikukoです。ɸimikukoという名は、一人の少女を最高位に据えることに反対する立場から生まれたものだということです。「なんでこんな女が最高位なんだ」という姿勢がむき出しになっているようにも見えます。ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力は、倭国大乱の時には本州・四国連合に参加していたが、卑弥呼の共立には賛成せず、離反したのでしょう(あるいは、最初は卑弥呼の共立に賛成して、途中で離反した可能性も考えられなくはないかもしれません)。

問題は、「男」を意味する*kuという語があったかどうかです。これは確実といってよいです。古代中国語のkjun(君)キウンが日本語に入り、「男」を意味していたことは、すでに挙げた以下の語彙から明らかです。

wotoko「若い盛りの男性」とwotome「若い盛りの女性」
okina「年をとった男性」とomina「年をとった女性」
woguna「男の子」とwomina「女の子」
izanaki「男の神であるイザナキ」とizanami「女の神であるイザナミ」

昔の日本語では、kiunとは言えず、kinともkunとも言えないので、ki、ku、kina、kunaのようになるしかないわけです。

冒頭の魏志倭人伝の一節は、卑弥呼側と卑弥弓呼側が戦っており、卑弥呼の使いがそのことを中国に知らせ、中国の使いが詔書と軍旗を持ってきたところです。戦いの結末がどうなったかは書かれず、次に以下の文がいきなり出てきます(藤堂2010)。

卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩。狥葬者奴婢百餘人。

卑弥呼以に死し、大いに冢を作る、径百余歩なり。狥葬する者奴婢百余人なり。

卑弥呼の後を継いだ台与がまた中国に使いを送るので、卑弥呼側の勢力が卑弥弓呼側の勢力に敗れたという展開はまず考えられません。箸墓古墳や西殿塚古墳のような巨大前方後円墳が作られ始めることから考えても、最終的に卑弥弓呼側が卑弥呼側に取り込まれたと見られます。

倭国大乱で本州・四国連合に参加した勢力は皆、中国の文明・文化を取り入れることを望んでいたはずです。それができなくなってしまっては、元も子もありません。卑弥呼の共立に賛成せず、対立していた勢力も、最終的に妥協せざるをえなかったと見られます。

※魏志倭人伝が、北九州から南に行ったところに邪馬台国があると記していることは、すでにお話しした通りです(ところで、邪馬台国九州説はどうなってしまったのかを参照)。この南という方向が当時の中国人の先入観に基づいていることも、すでにお話しした通りです(同記事を参照)。しかし、その魏志倭人伝が、卑弥呼の統治が及ぶ領域より南に狗奴国があったと記していることは、注目してよいと思われます。北九州から長旅をして邪馬台国に辿り着き、さらにその奥に狗奴国があったということは言えそうだからです。白石太一郎氏や福永信哉氏などの考古学者は、考古学データに基づいて、卑弥呼たちに戦いを仕掛けるほどの狗奴国は三重県、愛知県、岐阜県のあたりにあったのではないかと推定しています(白石1991、福永1998)。狗奴国が大和より東で、大和からそれほど遠くないところにあった可能性は高いと思われます。

 

参考文献

白石太一郎、「邪馬台国時代の近畿・東海・関東」、国立歴史民俗博物館編『歴博フォーラム 邪馬台国時代の東日本』、六興出版、1991年。

藤堂明保ほか、「倭国伝 中国正史に描かれた日本 全訳注」、講談社、2010年。

福永伸哉、「銅鐸から銅鏡へ」、都出比呂志編『古代国家はこうして生まれた』、角川書店、1998年。