日本語の起源と歴史に興味を持つすべての方へ

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こんにちは。金平譲司と申します。ここに「日本語の意外な歴史」と題するブログを立ち上げました。

このブログは、日本語ならびに日本語と深い関係を持つ言語の歴史を解明するものです。言語学者だけでなく、他の分野の専門家や一般の方々も読者として想定しています。

謎に包まれてきた日本語の起源

日本語はどこから来たのかという問題は、ずいぶん前から様々な学者によって論じられてきましたが、決定的な根拠が見つからず、大いなる謎になってしまった感があります。しかしながら、筆者の研究によってようやくその全貌が明らかになってきたので、皆さんにお話ししようと思い立ちました。

日本語は、朝鮮語、ツングース諸語(エヴェンキ語、満州語など)、モンゴル諸語(モンゴル語、ブリヤート語など)、テュルク諸語(トルコ語、中央アジアの言語など)と近い関係にあるのではないか、あるいはオーストロネシア語族(台湾、フィリピン、インドネシア、マレーシア、オセアニアなどの言語から成る言語群)と近い関係にあるのではないかというのが従来の大方の予想でしたが、これらの予想はポイントを外しています。

中国語を見て全く違うと感じた日本人が、日本語は北方の言語と関係があるのではないか、南方の言語と関係があるのではないかと考えたのは、至極当然のことで、北方の言語と南方の言語に視線を注ぐこと自体は間違っていません。問題なのは、北方のごく一部の言語と南方のごく一部の言語に関心が偏ってしまったことです。

上記の言語のうちで、朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語は、日本語によく似た文法構造を持つことから、日本語に近縁な言語ではないかと盛んに注目されてきました。同時に、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語は、互いに特に近い関係にあるとみなされ、いわゆる「アルタイ語族」という名でひとまとめにされることがしばしばありました。日本語の起源をめぐる議論は、このような潮流に飲まれていきました。

しかしながら、筆者がこれから明らかにしていく歴史の真相は、かなり違います。日本語は、朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語と無関係ではないが、別の言語群ともっと近い関係を持っているようなのです。

実を言うと、筆者は日本語やその他の言語の歴史に興味を持つ人間ではありませんでした。筆者は若い頃にフィンランドのヘルシンキ大学で一般言語学や様々な欧州言語を学んでいましたが、その頃の筆者の興味は言語と思考の関係や外国語の学習理論などで、もっぱら現代の言語に関心が向いていました。歴史言語学の講義もありましたが、特に気に留めていませんでした。

筆者が言語の歴史について真剣に考えるようになったきっかけは、ロシアの北極地方で少数民族によって話されているサモエード諸語との出会いでした。サモエード諸語は、フィンランド語やハンガリー語と類縁関係にある言語です。フィンランド語とハンガリー語はヨーロッパの中では異色の存在で、北極地方の少数民族の言語と類縁関係を持っています。フィンランド語、ハンガリー語、サモエード諸語などから成る言語群は、「ウラル語族」と呼ばれます。

言語学者が使う「語族」という用語について若干説明しておきます。私たちが万葉集や源氏物語の言葉を見ると、「読みにくいな」と感じたり、「なにを言っているのかわからないな」と感じたりします。言語は時代とともに少しずつ変化しています。言語は単に変化するだけでなく、分化もします。ある程度広い範囲で話されている言語には、地域差が生じてきます。

この地域ごとに少しずつ異なる言葉が方言です。しかし、これらの方言が地理的に隔たってさらに長い年数が経過すると、最初は小さかった方言同士の差が大きくなっていき、やがて意思疎通ができないほどになります。

あまりに違いが大きくなれば、もう方言ではなく、別々の言語と言ったほうがふさわしくなります。一律の学校教育やマスメディアが発達していない時代には、この傾向は顕著です。ある言語が別々の言語に分化するのです。分化してできた言語がさらに分化することもあります。言語学では、おおもとの言語と分化してできた諸言語をまとめて「語族」といいます。世界で最もよく知られている語族は、インド・ヨーロッパ語族と呼ばれる語族で、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語などはこの語族に属します。例えるなら、イヌ、オオカミ、キツネ、タヌキが共通祖先を持っているように、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語は共通祖先を持っているということです。

日本語とウラル語族

英語などが属するインド・ヨーロッパ語族は巨大な言語群ですが、フィンランド語やハンガリー語が属するウラル語族はこじんまりとした言語群です。ウラル語族の言語は、ロシアの北極地方から北欧・東欧にかけて分布しています。地理的に遠く離れているので、ウラル語族の言語は一見したところ東アジアの言語、特に日本語とはなんの関係もないように見えますが、実はここに大きな盲点があります。日本語の歴史を考えるうえで大変重要になるので、ウラル語族の話を続けます。以下にウラル語族の内部構造を簡単に示します。

ウラル語族の言語を研究する学者の間に意見の相違がないわけではありませんが、上の図は従来広く受け入れられてきた見方です。ウラル語族の言語は、まずフィン・ウゴル系とサモエード系に分かれ、フィン・ウゴル系はそこからさらにフィン系とウゴル系に分かれます。フィンランド語はフィン系に属し、ハンガリー語はウゴル系に属します。サモエード系の言語は、ロシアの北極地方に住む少数民族によって話されています。現在残っているサモエード系の言語はネネツ語、エネツ語、ガナサン語、セリクプ語の四つのみで、特に後の三つは消滅の危機にあります。

サモエード系の言語は、フィンランド語やハンガリー語と同じウラル語族の言語ですが、フィンランド語やハンガリー語とは文法面でも語彙面でも著しく異なっています。同じ言語から分かれた言語同士でも、別々の道を歩み始め、何千年も経過すれば、似ても似つかない言語になってしまいます。特に、サモエード系の言語が辿った運命とフィンランド語・ハンガリー語が辿った運命は対照的です。サモエード系の言語は、北極地方にとどまり、他の言語との接触が比較的少なかったために、昔の姿をよく残しています。それに対して、フィンランド語とハンガリー語は、有力な言語がひしめくヨーロッパに入り込み、大きく姿を変えました。サモエード系の言語は、いわば「生きた化石」です。人類の歴史を解明するうえで、大変重要な言語です。サモエード系の言語との出会いは、筆者にとってショッキングな出来事でした。これ以降、筆者は言語の歴史について本格的に研究し始めることになります。

筆者が初めてサモエード系の言語を見た時には、「文法面ではモンゴル語やツングース諸語に似ているな」という第一印象を受けました。しかし、よく調べると、「あれっ、語彙面では日本語に似ているな」という第二印象を受けました。少なくとも言語の根幹をなす基礎語彙に関しては、モンゴル語やツングース諸語より、ウラル語族のサモエード系の言語のほうが日本語に近いと思いました。なんとも不思議な感じがしました。なんで日本の近くで話されているモンゴル語やツングース諸語より、北極地方で話されているウラル語族のサモエード系の言語のほうが日本語に近いんだろうと考え始めました。様々な言語を見てきましたが、サモエード系の言語には今までにない特別なものを感じました。なにか重大な秘密が隠されている予感がしました。

フィンランド語とハンガリー語だけを見ていた時は気づかなかったのですが、サモエード系の言語を介しながらフィンランド語とハンガリー語を見てみると、やはりフィンランド語とハンガリー語にも日本語との共通語彙があります。日本語の中にある、ウラル語族と共通している語彙、そしてウラル語族と共通していない語彙を見分けていくうちに、二つの疑問が頭に浮かんできました。一つ目の疑問は、日本語の祖先とウラル語族の言語の祖先の接点は地理的にどの辺にあったのだろうという疑問です。二つ目の疑問は、日本語の中にある、ウラル語族と共通していない語彙はどこから来たのだろうという疑問です。日本語の中には、ウラル語族と共通している語彙も多いですが、共通していない語彙も多いのです。

東アジアには黄河文明とは違う文明が存在した

ウラル語族の各言語の語彙を研究するうちに、ウラル語族が日本語だけでなく、モンゴル語、ツングース諸語、朝鮮語、さらには中国語にもなんらかの形で関係していることが明らかになってきたので、ウラル語族の言語と東アジア・東南アジアの言語の大々的な比較研究を開始しました。着実かつ合理的に歴史を解明するため、考古学および生物学の最新の研究成果を適宜参照しました。考古学も生物学も近年めざましい発展を遂げており、数々の重要な発見がありました。

かつては、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、そして東アジアの黄河文明が並べられ、世界四大文明と呼ばれていました。ところが、その後の発見によって、東アジアには黄河文明のほかに二つの大きな文明が存在したことがわかってきました(このテーマを包括的に扱った書籍はいくつかありますが、考察の広さ・深さの点でShelach-Lavi 2015が優れています)。

その二つの大きな文明とは、長江文明と遼河文明(りょうがぶんめい)です。日本列島で縄文時代が進行する間に、大陸側はこのようになっていたのです。黄河文明と長江文明に比べて、遼河文明は知名度が高くないかもしれません。しかし、遼河文明は、日本語の歴史を解明するうえで重要な鍵を握っているようなのです。

生物学が発達し、人間のDNA配列が調べられるようになりました。DNA配列は、正確には「DNAの塩基配列」といい、アデニンA、チミンT、グアニンG、シトシンCという四種類の物質が作る列のことです。最近では、生きている人間のDNA配列だけでなく、はるか昔に生きていた人間のDNA配列も調べられるようになってきました。大変興味深いことに、遼河文明が栄えていた頃に遼河流域で暮らしていた人々のDNA配列を調べた研究があります(Cui 2013)。

人間は父親と母親の間に生まれるので、子のDNA配列が父親のDNA配列と100パーセント一致することはなく、子のDNA配列が母親のDNA配列と100パーセント一致することもありません。しかし、父親から息子に代々不変的に受け継がれていく部分(Y染色体DNA)と、母親から娘に代々不変的に受け継がれていく部分(ミトコンドリアDNA)があります。代々不変的に受け継がれていく部分と書きましたが、この部分にも時に突然変異が起きます。つまり、その部分のDNA配列のある箇所が変化するのです。変化していないY染色体DNA配列を持つ男性がそれを息子に伝える一方で、変化したY染色体DNA配列を持つ男性がそれを息子に伝えるということが起き始めます。同様に、変化していないミトコンドリアDNA配列を持つ女性がそれを娘に伝える一方で、変化したミトコンドリアDNA配列を持つ女性がそれを娘に伝えるということが起き始めます。こうして、時々起きる突然変異のために、Y染色体DNAのバリエーション、ミトコンドリアDNAのバリエーションができてきます。人類の歴史を研究する学者は、このY染色体DNAのバリエーション、ミトコンドリアDNAのバリエーションに注目するのです。

先ほど述べた遼河流域の人々のDNA研究は、Y染色体DNAのバリエーション(例えば、C系統か、D系統か、N系統か、O系統か)を調べたものです。その結果はどうだったでしょうか。古代の人々の研究なのでサンプル数は限られていますが、それでも大まかな傾向は十分に捉えられています。遼河文明が栄えていた頃の遼河流域では、当初はN系統が圧倒的に優勢だったが、次第にO系統とC系統が増え(つまり他の地域から人々が流入してきたということ)、N系統はめっきり少なくなってしまったようです。現在の日本、朝鮮半島、中国では、N系統はほんの少し見られる程度です(Shi 2013)。対照的に、ウラル語族の言語が話されているロシアの北極地方からフィンランド方面にかけてN系統が非常に高い率で観察されています(Rootsi 2007)。

見え始めた日本語の正体

筆者もウラル語族の言語が東アジアの言語と深い関係を持っていることを知った時には大いに驚きましたが、考古学・生物学の発見と照らし合わせると、完全に合致します。日本語がウラル語族の言語と深い関係を持っていることは非常に興味深いですが、もう一つ興味深いことがあります。日本語の中には、ウラル語族と共通している語彙も多いですが、共通していない語彙も多く、ウラル語族とは全く異なる有力な言語群も日本語の形成に大きく関与したようなのです。

ウラル語族の言語と東アジア・東南アジアの言語の大々的な比較研究を行い、様々な紆余曲折はありましたが、漢語流入前の日本語(いわゆる大和言葉)の語彙構成が以下のようになっていることがわかってきました。

「ウラル語族との共通語彙」も多いですが、「黄河文明の言語との共通語彙」と「長江文明の言語との共通語彙」も多く、この三者で漢語流入前の日本語の語彙の大部分を占めています。

「その他の語彙1」というのは、日本語が大陸にいた時に取り入れた語彙で、「ウラル語族との共通語彙」にも、「黄河文明の言語との共通語彙」にも、「長江文明の言語との共通語彙」にも該当しないものです。

「その他の語彙2」というのは、日本語が縄文時代に日本列島で話されていた言語から取り入れた語彙です。

漢語流入前の日本語の語彙構成の特徴的なところは、なんといっても、語彙の大きな源泉が三つあることです。三つの有力な言語勢力が交わっていたことを窺わせます(遼河文明と黄河文明と長江文明の位置を思い出してください)。

「日本語の意外な歴史」では、ウラル語族との共通語彙、黄河文明の言語との共通語彙、長江文明の言語との共通語彙、その他の語彙1、その他の語彙2、いずれも詳しく扱っていきます。

では、日本語およびその他の言語の歴史を研究するための準備に取りかかりましょう。

 

外国語の単語の表記について

英語と同じようなアルファベットを使用している言語では、それをそのまま記します。言語学者が諸言語の発音を記述するのに使う国際音声記号(IPA)というのがありますが、音韻論の専門家でない限り、多くが見慣れない記号です。そのため、本ブログではIPAの使用はできるだけ控えます。特に朝鮮語は、IPAを用いて記すと複雑になるため、市販されている初心者向けの韓国語の文法書で採用されている書き方にならいました。一般の読者にとって見慣れない記号を用いる場合には、補助としてのカタカナ表記を付け加えます。慣習を考慮し、ヤ行の子音は基本的に、北方の言語(ウラル語族の言語など)では「j」で表し、南方の言語(中国語、東南アジアの言語)では「y」で表します。古代中国語のアルファベット表記の仕方は、Baxter 2014に従います。

 

参考文献

Baxter W. H. et al. 2014. Old Chinese: A New Reconstruction. Oxford University Press.

Cui Y. et al. 2013. Y chromosome analysis of prehistoric human populations in the West Liao River Valley, Northeast China. BMC Evolutionary Biology 13: 216.

Rootsi S. et al. 2007. A counter-clockwise northern route of the Y-chromosome haplogroup N from Southeast Asia towards Europe. European Journal of Human Genetics 15: 204-211.

Shelach-Lavi G. 2015. The Archaeology of Early China: From Prehistory to the Han Dynasty. Cambridge University Press.

Shi H. et al. 2013. Genetic evidence of an East Asian origin and paleolithic northward migration of Y-chromosome haplogroup N. PLoS One 8(6): e66102.


►言語の歴史を研究するための準備へ

いよいよ縄文人の正体が明らかに、まずは理解するための背景知識・予備知識から(現在執筆中)

前回の記事で紹介したS. Carlhoff氏らは、自分たちが発見したインドネシアのスラウェシ島の古代人のDNAを、東アジア・東南アジア・オセアニアの様々な現代人ならびに古代人のDNAと比較しています(図はCarlhoff 2021より引用)。

Carlhoff氏らの関心は、自分たちがインドネシアのスラウェシ島で発見したLeang Panningeさんにあります。しかし、Carlhoff氏らが示したデータは、縄文人の起源を考えるうえでも、貴重なデータになっています。

縄文人の正体を探る前に、BianbianさんやMalaysia Hoabinhianさん/Laos Hoabinhianさんなどの重要な古代人について知る必要があるので、ひとまずCarlhoff氏らの図から離れ、後でまた戻ってくることにします。

DNA研究が進む中で、中国の山東省の古代人のデータが欠けていましたが、ようやく待望のデータが出てきたので、その話から始めましょう。まずは、Wang Baitong氏らの研究を紹介します(図はWang 2024より引用)。

Wang氏らの図は、大雑把なデータですが、そのためにかえって、大雑把な展開がよく見えます。

図の左上は、黄河文明が栄えていた頃のデータです。黄河中流域の人々、黄河下流域の人々、南方の人々は、互いにある程度異なるDNAを持っています(黄河中流域の「China_YR_MN」と「China_YR_LN」では、「China_YR_MN」のほうが古く、「China_YR_LN」のほうが新しいです)。右上は、戦国~秦~漢の頃のデータで、下は、現代の中国のデータです。図の左上の黄河中流域の人々のDNAは後世にどのくらい受け継がれたか、黄河下流域の人々のDNAは後世にどのくらい受け継がれたか、南方の人々のDNAは後世にどのくらい受け継がれたか、そういう視点で見ているのです。

驚くべきことに、左上から右上に移るところで、黄河下流域の人々のDNAは完全に消滅し、後は、黄河中流域の人々のDNAと南方の人々のDNAが形作る世界になっています。黄河中流域の人々が勢力を拡大して、中国が形成されていったことは、皆知っています。しかしそこで、南方の人々のDNAはある程度残ったものの、黄河下流域の人々のDNAは全く残らなかったのです。黄河下流域の人々は、まるごと消えたということです。そのことをはっきり示しているのが、Wang氏らの図です。

※図の左上から右上に移るところでは「China_YR_MN」が基準になっていますが、右上から下に移るところでは「China_Shandong_Qinglanfu_Historic」が基準になっているので注意してください。そのために、色使いが薄い青から薄い緑に変更されています。

Wang氏らの図は大雑把なので、もう少し深入りしましょう。図の左上では、黄河中流域の人々のDNAと黄河下流域の人々のDNAは異なっています。異なっていたのはDNAだけではありません。文化も異なっていました。黄河中流域には黄河中流域の文化があり、黄河下流域には黄河下流域の文化があったのです。

ところが、黄河中流域で栄えていた仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)と黄河下流域で栄えていた大汶口文化(だいぶんこうぶんか)が統合されて龍山文化(りゅうざんぶんか)になるという意味深長な現象が起きます。

この現象は、筆者も昔から気になっていました。黄河中流域にいた人々が優位に立って統合されたのか、黄河下流域の人々が優位に立って総合されたのか、それとも両者が対等に交わって統合されたのか。

この問題にも、明確な答えが出ています。ここでは、Fang Hui氏らの研究を紹介しましょう(図はFang 2025より引用)。

※Yangshao=仰韶、Dawenkou=大汶口、Longshan=龍山、Erlitou=二里頭、Shandong=山東。

Fang氏らの図の左上は、仰韶文化と大汶口文化が栄えていた頃のデータです。これを見ると、仰韶文化の人々と大汶口文化の人々が全くの別物ではなかったことがわかります。紫は黄河中流域の人々のDNA、緑は黄河文明が始まる頃に黄河下流域にいた狩猟採集民のDNAを示しています。仰韶文化と大汶口文化の時点ですでに、黄河中流域の人々が黄河下流域に流れ込んでいたということです。

波乱の時代の幕開け、崩れゆく山東龍山文化、そこに現れた異質な岳石文化の記事でお話ししましたが、黄河下流域は以下のように変遷しました。

※最初の文化は「後李文化(こうりぶんか)」、次の文化は「北辛文化(ほくしんぶんか)」、最後の文化は「岳石文化(がくせきぶんか)」です。

黄河文明が始まってから終わるまでの黄河下流域の変遷を詳細に研究している考古学者のZhang Guoshuo氏は、北辛文化と大汶口文化と龍山文化に強いつながりを認める一方で、「後李文化→北辛文化」のところと「龍山文化→岳石文化」のところに大きな変化を認めていました(Zhang 1989、1994)。

Fang氏らの研究とZhang氏の指摘を踏まえると、後李文化の段階ではかつての黄河下流域の狩猟採集民のDNAが色濃く残っていたが、北辛文化の段階から黄河中流域の人々のDNAが顕著に増えてきたと見られます。

この傾向は続きます。Fang氏らの図の左上は仰韶文化と大汶口文化が栄えていた頃のデータでしたが、右上は龍山文化が栄えていた頃のデータです。青は大汶口文化から受け継いだDNA、紫は黄河中流域からのDNA、赤は南方からのDNAを示しています。黄河中流域からのDNAの流入が続いています。

Fang氏らの図の左下は、夏~殷~周の頃のデータです。殷から周に移行する3000年前頃の黄河下流域には、もうかつての黄河下流域の人々のDNAは見られません。Fang氏らのデータは、Wang氏らのデータと同じことを示しています。

黄河中流域が黄河下流域に対して優勢であったことは明らかです。しかし、北辛文化、大汶口文化、龍山文化の時代には、黄河中流域の人々のDNAが流入しても、かつての黄河下流域の人々のDNAが消えることはありませんでした。殷の時代になって、かつての黄河下流域の人々のDNAが消えたのです。東アジアの運命を決定した三つ巴、二里頭文化と下七垣文化と岳石文化の記事でお話ししたように、殷による大規模な軍事的侵攻があったと考えられます。

凄まじい話です。朝鮮半島と日本列島に多く見られ、稲作に関係があると考えられるY染色体DNAのO-M176系統が全くと言ってよいほど中国に見られず、大きな疑問とされてきました(パズルの最後の1ピースを探し求めて、注目される山東省のDNAのデータを参照)。しかし、実際のところは、父から息子へ代々伝えられるY染色体DNAの一系統(O-M176)が消えた程度の話ではなかったわけです。黄河文明が栄えていた頃に黄河下流域で暮らしていた人々は、男女ともども完全に消え、子孫を残すことが全くできなかったということです、中国には。その代わりに、朝鮮半島と日本列島に子孫を残すことになったのです。Liu Juncen氏らの研究を紹介しましょう(図はLiu 2025より引用)。

※AR=アムール川、WLR=西遼河、YR=黄河、SD=山東、DWK=大汶口、LS=龍山、CD=中国の歴代王朝の時代。

先に紹介したWang氏らの研究とFang氏らの研究と同様に、Liu氏らの研究も山東省の古代人のDNAを時系列的に調べています。しかし、Liu氏らの研究が違うのは、そこからさらに、山東省の古代人のDNAを、日本列島の縄文時代、弥生時代、古墳時代の人々のDNAと比較している点です。

Liu氏らの図のAは、山東省の古代人およびその他の古代人の発見場所を示しています。Bは、山東省の古代人の年代(何年前頃の人か)を示しています。そして、CとDが、古代人のDNAのデータです。Cの一部を拡大したのがDです。Cは中国の南方まで含んでいますが、Dは含んでいません。

図の中のInitialJomon、EarlyJomon、MidLateJomon、LateJomon、Jomon_2.8Kは、縄文時代の早い段階から遅い段階までの古代人のDNAですが、東アジア全体の中で見ると、ばらつきがとても小さいです(図のDの左下のほうに固まっています)。縄文時代は16000年前頃から3000年前頃まで非常に長く続きましたが、この時代の日本列島の人々のDNAは、バリエーションが乏しく、あまり変化しなかった可能性が高そうです(ただし、沖縄のNagabakaではばらつきがやや大きくなっており、これは別途検討が必要でしょう)。

続きは現在執筆中です。

東アジア・東南アジアで生じてきた新たな問題、最近のDNA研究の意外な展開

現代人および古代人の全DNAが調べられるようになり、DNA分析は飛躍的に進歩しました。

しかし、新たな問題も生じてきました。従来の問題が解決されつつ、新たな問題が生じてくるというのは、よくあることです。新たな問題の存在を示している最近の研究を紹介しましょう。

今回の記事の話は、一見関係がないように見えながら、実は「縄文人」の起源にもつながる話なので、耳を傾けていただければと思います。

前に掲げたM. Lipson氏らの図を、もう一度掲げましょう(Lipson 2014)。

彼らは一体誰なのか、アボリジニ、パプア人、そして疑惑の「ネグリト」の記事で詳しく解説したLipson氏らの図は、東南アジアのDNA研究でこれまでにわかっていることを要領よくまとめたものですが、この図には、大きな問題が隠されています。

赤とオレンジの矢印は、5万年前頃の非常に古い矢印で、赤の矢印は、スンダランドからフィリピンに向かう動き、オレンジの矢印は、スンダランドからサフルランド(パプアニューギニアとオーストラリア)に向かう動きを示していました。

それに対して、青と緑の矢印は、過去5千年ぐらいの間の比較的新しい矢印で、青の矢印は、オーストロネシア語族の人々が南に広がっていく動き、緑の矢印は、オーストロアジア語族(ベトナム系言語)の人々が南に広がっていく動きを示していました。

Lipson氏らの図には、大きな問題が隠されています。赤とオレンジの矢印は、5万年前頃の非常に古い動きです。青と緑の矢印は、過去5千年ぐらいの間の比較的新しい動きです。5万年前頃に大きな動きがあった、過去5千年ぐらいの間に大きな動きがあった、それはよいのですが、それらの間の期間にあったことが隠されているのです。

実は、「?」の期間は、よくわかっていないのです。5万年前と5千年前では、4万5千年の開きがあります。この4万5千年の期間になにも起きなかったとは、到底考えられません。なにしろ、この4万5千年の期間には、巨大なスンダランドの大部分が水没するという出来事もあったのです。

2021年に、S. Carlhoff氏らが、「Genome of a middle Holocene hunter-gatherer from Wallacea」と題された論文を発表しました。Carlhoff氏らは、インドネシアのスラウェシ島で、7000~7500年前頃の古代人を発見しました(図はCarlhoff 2021より引用)。

スラウェシ島は、スンダランドからサフルランドに向かう途中にある島です。スラウェシ島は、昔も今も島で、大陸とはつながっていません。

一人の古代人の遺骨が見つかっただけですが、この古代人が不思議な古代人でした。

スラウェシ島はスンダランドからサフルランドに向かう途中にあるので、この古代人はパプア人やアボリジニと同系統ではないかと予想したくなるところですが、案の定、その通りでした。

しかし、スラウェシ島で発見された古代人のDNAの51%はパプア人やアボリジニと共通しているものの、49%はパプア人やアボリジニと違うものでした。残りの49%のDNAはなんなのかということですが、これがなんと東アジアの人々と共通しているものだったのです。

この結果は、意外です。なぜかというと、このスラウェシ島の古代人は、7000~7500年前頃の人だからです。

Lipson氏らの図が示しているように、黄河流域・長江流域で始まった農耕は、5000年前頃から東南アジア大陸部と東南アジア島嶼部にも伝わってきます。

しかし、問題のスラウェシ島の古代人は、7000~7500年前頃の人なのです。

Carlhoff氏らの研究のポイントは、以下のことを示した点にあります。

東アジア(黄河流域・長江流域)で始まった農耕は、5000年前頃から東南アジア大陸部と東南アジア島嶼部に広まっていった。しかし、農耕が伝わってくる前から、スラウェシ島のあたりに、東アジア(黄河流域・長江流域)の人々に近いDNAを持つ人々がいた。

Carlhoff氏らの研究は、なにかの間違いなのでしょうか。いや、間違いではなさそうです。Carlhoff氏ら以外の研究でも、同様のことが示されているからです。

2023年に、P. Kusuma氏らが、「Deep ancestry of Bornean hunter-gatherers supports long-term local ancestry dynamics」と題された論文を発表しました(Kusuma 2023)。

Carlhoff氏らの研究は、スラウェシ島で行われたものですが、Kusuma氏らの研究は、スラウェシ島の左上にあるボルネオ島で行われたものです。

Kusuma氏らは、ボルネオ島の熱帯雨林に住む狩猟採集民のPunan族に焦点を当てました。

現在のボルネオ島は、オーストロネシア語族一色に染まっており、Punan族が話すのも、オーストロネシア語族のプナン語です。

しかし、ボルネオ島のほとんどの民族が定住・農耕生活を送っているのに、Punan族は移動・狩猟採集生活を続けています。Punan族は、移動・狩猟採集生活をずっと続けているのだろうか、それとも、他の民族と同じように定住・農耕生活を送った後で、移動・狩猟採集生活に戻ったのだろうかと、憶測が飛び交いました。

いずれにせよ、Punan族はボルネオ島の異色の民族で、Kusuma氏らは、このPunan族に焦点を当てたのです。Punan族の外見は、明らかに、ネグリト・パプア人・アボリジニ寄りではなく、東アジア人寄りです(画像はNew York Times様のウェブサイトより引用)。

Kusuma氏らがPunan族のDNAを調べたところ、これまた興味深い結果が出ました。

現在の東南アジアはかつての東南アジアと大きく異なっている、いわゆる渡来人と縄文人についての記事でお話ししたように、オーストロネシア語族の言語を話す人々は、中国南東部から台湾に渡り、台湾から南の島々に広がっていきました。

しかし、Punan族の人々のDNAは、これらの人々のDNAと少し違っていました。Punan族の人々のDNAは、中国南東部から台湾に渡り、台湾から南の島々に広がっていった人々のDNAが経ている変異を経ていなかったのです。

右の人々と左の人々の違いがわかるでしょうか。舞台は昔の中国南海岸地域です。

Punan族の祖先は、右の人々ではなく、左の人々なのです。そして、Punan族はのちに、オーストロネシア語族の言語に乗り換えたのです(誤解のないように言っておくと、Punan族がボルネオ島でオーストロネシア語族の言語に乗り換えたということです)。

Kusuma氏らの研究は、中国南海岸地域から海に出る行為が、農耕が始まる前から行われていたことを示唆しています。中国南海岸地域から台湾を経由して東南アジアの島々に行くことも可能ですが、台湾を経由しないで東南アジアの島々に行くことも可能です。Punan族の祖先が取ったルートは、後者なのでしょう。

東南アジアの歴史について論じる時には、賛成するにせよ、反対するにせよ、松村博文氏らのTwo-Layer Model(二重構造モデル)がよく取り上げられてきました(Matsumura 2019、2021)。これは、東南アジアにはもともとネグリト・パプア人・アボリジニ風の狩猟採集民が住んでいたが、のちに黄河流域・長江流域のほうから全く違う容姿を持つ農耕民が大量に押し寄せてきたとする説です。

松村氏らの研究は、古代人のDNAではなく、頭蓋骨の形態を調べている研究です。近年のDNA研究の発達があまりにもすばらしいので、DNA研究がすっかり主役になっていますが、頭蓋骨の形態を調べる研究も続けられており、こちらも精度が上がっています。

松村氏らが主張するように、黄河流域・長江流域のほうから農耕民が大量に押し寄せてくる前に、東南アジアにネグリト・パプア人・アボリジニ風の狩猟採集民がかなりいたことは間違いありません。そのことは、松村氏らの一連の研究がよく示しています。

しかし、今回の記事で紹介しているCarlhoff氏らの研究とKusuma氏らの研究は、東南アジアの歴史がそう単純ではないことを示しています。Carlhoff氏らの研究とKusuma氏らの研究は、農耕が伝わってくる前の東南アジアに、「ネグリト・パプア人・アボリジニ風の狩猟採集民」だけでなく、「東アジア風の狩猟採集民」がいたことを強く示唆しています。

要するに、東アジアから東南アジアに向かう人の動きが、農耕が始まる前から、ある程度あったということです。

東アジア~東南アジアでは、母から娘に代々伝えられるミトコンドリアDNAは、かなり多様ですが、父から息子に代々伝えられるY染色体DNAは、O系統がとても目立ちます。東アジア~東南アジアのY染色体DNAについては、以前にお話ししたことがありましたが、チベットと日本に顕著に見られるD系統を除くと、東アジア~東南アジアのY染色体DNAはO系統一色に近いです(アイヌ人と沖縄人のDNAを比べると・・・(Y染色体ハプログループDの研究)を参照)。

農耕の拡散とY染色体DNAのO系統の間に密接な関係があることは、疑いありません。しかし、注意しなければならないのは、農耕が始まったのがせいぜい1万年前ぐらいであるのに対して、O系統の歴史はそんなに浅くないということです。以前に示しましたが、O系統の系統図をもう一度示します。

O-M95はオーストロアジア語族(ベトナム系言語)の人々によく見られる系統で、O-M176は朝鮮人と日本人によく見られる系統ですが、この二つの系統を結びつけるだけでも、2.5~3万年ぐらい時間を遡らなければなりません(日本人のY染色体ハプログループOの研究、人と稲作と言語の広がりは必ずしも一致しないを参照)。さらにO-M119を結びつけ、O-M122も結びつけようとすると、もっともっと時間を遡らなければなりません。O系統は、農耕が始まるはるか前から存在し、広がっていたのです。

O系統はどこで発生したのか、どのように広がっていったのか、農耕が始まる直前の時点でどこまで広がっていたのか、また、その間、O系統の人々はなにをしていたのか、これらの問いが重要になってきました。Carlhoff氏らの研究によって、東アジアの人々に近いDNAを持つ人々が、従来考えられていたよりも早くからパプアニューギニアやオーストラリアの近くにいたことが明らかになったからです。

Carlhoff氏らの研究は、ここまで述べてきたことだけでも十分に価値がありますが、さらに驚くべきデータを含んでいます。すでにお話ししたように、Carlhoff氏らはインドネシアのスラウェシ島で7000~7500年前頃の古代人を発見しました。そして、その古代人のDNAを調べ、その51%がパプア人やアボリジニと共通しており、49%が東アジアの人々と共通していることを発見しました。この研究で、Carlhoff氏らは問題の古代人のDNAを東アジア・東南アジア・オセアニアの様々な現代人ならびに古代人のDNAと比較しているのですが、そこで、とんでもないハプニングが起きました。Carlhoff氏らは、気づいていないのか、特に言及していませんが、Carlhoff氏らのデータではなんと、縄文人の正体が丸見えになっています。

「今までずっとわからなかった縄文人の正体がどうして急に?」と思う人がいるかもしれません。この何年かの間に東アジア~東南アジアの古代人のDNAのデータがどんどん蓄積してきたことが、大変効いているのです。筆者も、Carlhoff氏らのデータを見て、「どうりで現代人をいくら調べても縄文人の正体がわからないはずだ」と納得しました。そもそも、古代人のDNAを調べられるようになったのが、最近のことなのです。

今では、縄文時代に日本列島にいた「縄文人」と弥生時代に日本列島に入ってきた「渡来人」が混ざり合って日本人になったという理解が定着していますが、その「縄文人」自体も、混合集団だったようです(筆者は、画一的な印象を与えるので、「縄文人」という言い方はよくないと思っていますが)。

大注目のCarlhoff氏らの研究を、引き続き紹介しましょう。

 

参考文献

Carlhoff S. et al. 2021. Genome of a middle Holocene hunter-gatherer from Wallacea. Nature 596(7873): 543-547.

Kusuma P. et al. 2023. Deep ancestry of Bornean hunter-gatherers supports long-term local ancestry dynamics. Cell Reports 42(11): 113346.

Lipson M. et al. 2014. Reconstructing Austronesian population history in Island Southeast Asia. Nature Communications 5(1): 4689.

Matsumura H. et al. 2019. Craniometrics reveal “two layers” of prehistoric human dispersal in eastern Eurasia. Scientific Reports 9: 1451.

Matsumura H. et al. 2021. Female craniometrics support the ‘two-layer model’ of human dispersal in eastern Eurasia. Scientific Reports 11: 20830.

世界の人々の髪の毛の話、これを知らないと人類史を誤解してしまう

東アジア・東南アジアの歴史に引き続き迫っていきますが、ここでちょっと「髪の毛の話」を挟みます。これを知らないと、人類史を誤解してしまうからです。いや、すでに誤解してしまいました。

前回の記事では、背が低く、色が黒く、髪が縮れているフィリピンの少数民族「ネグリト」の話をしました。

この「ネグリト」という語は、当初はフィリピンの少数民族に対して使われていました。

しかし、フィリピンから少し離れたところ(インドネシア、マレーシア、タイ、そしてその西のインド洋に浮かぶアンダマン諸島)にも、背が低く、色が黒く、髪が縮れている人たちがおり、その人たちにも「ネグリト」という語が使われるようになりました。

フィリピンのAeta族(画像はPreda Foundation様のウェブサイトより引用)

マレーシアのJehai族(画像はWikipedia(Muhammad Adzha様)より引用)

これらの民族は互いに近縁であるにちがいないと見当をつけたわけですが、これが混乱を招きました。

前回のJ.C. Teixeira氏らの図を、もう一度掲げましょう(Teixeira 2021)。

人類はアフリカからスンダランドまでやって来ましたが、その後、スンダランドにとどまった人々と、スンダランドから海を渡った人々がいました。

Teixeira氏らの図は、東南アジア、パプアニューギニア、オーストラリア(アボリジニ)の人々のDNAに、デニソワ人のDNAがどのくらい入っているか調べたものですが、その差は歴然としていました。

例えば、マレーシアのJehai族は、スンダランドにとどまった人々で、フィリピンのAeta族は、スンダランドから海を渡った人々です。両者の間には、5万年ぐらいの隔たりがあります。にもかかわらず、外見をぱっと見て、「ネグリト」としてひとくくりにしてきたのです。「ネグリト」の肌の色に加えて、髪に目を奪われたのでしょう。

髪は、世界各地の人間集団で同じではありません(画像はIVANKA様のウェブサイトより引用)。

縮毛傾向の強い集団から、中間的な集団を経て、直毛傾向の強い集団まであります。東アジアの人々は、直毛傾向が強い部類です。

下の写真の人は、だれでしょうか(画像はApple様のウェブサイトより引用)。

名前が書いてありますね。マイケル・ジャクソンです。

彼が子どもの頃です。大人になってからは、縮れ毛を伸ばしたり、カツラを着用したりしていたようです(余談も参照)。

マイケル・ジャクソンは、アフリカ系の人で、東南アジアのネグリトとは全く関係ありません。彼のような髪型は、「アフロヘア―」と呼ばれます。

東南アジアのいわゆる「ネグリト」が見せている髪型は、「ネグリト」に限ったものではなく、熱帯の人々によく見られる髪型なのです。ここを間違えてはいけません。熱帯と縮れ毛の間に強い関係があるのです。

世界各地で人間の遺骨が発見されていますが、頭蓋骨が出てくるだけで、どんな髪、髪質、髪型をしていたかまではわかりません。

しかし、人類は熱帯出身です。技術の獲得によって、生活圏を温帯、冷帯、寒帯へと広げていったのです。

つまり、これはどういうことでしょうか。

人類においては、もともとマイケル・ジャクソンや「ネグリト」のような髪が一般的で、ヨーロッパのタイプや東アジアのタイプは新しいタイプだろうということです。

一般的に言われているように、熱帯の人々によく見られる縮れ毛には、熱帯の強烈な日光から脳を保護する働きがあるというのは、確かでしょう。人類は特に脳が大きくなりました。チンパンジーやゴリラに比べて大量の毛を失う中で、頭の毛を失わなかったのは、その脳の保護のためでしょう。

フィリピンのAeta族やマレーシアのJehai族は昔ながらの髪を保っているだけで、変わったのは東アジアの人々のほうである可能性が高そうです。現在の東南アジアの人々の大部分が縮れ毛でないのは、先祖の大部分が最近北のほう(黄河流域・長江流域のほう)からやって来た人たちだからです。

フィリピンのAeta族とマレーシアのJehai族の髪型が似ているからといって、互いに近縁ということにはなりません。

かつてのスンダランド東海岸より東の住民(すなわち「かつてのフィリピンの住人」、「かつてのインドネシア東部の住人」、「パプア人」、「アボリジニ」)と、西の住民(すなわち「かつてのマレーシアの住民」、「かつてのインドネシア西部の住人」)には、かなり違う歴史がありそうです。

「ネグリト」をめぐる論争(「ネグリト」としてひとくくりにされた各民族が互いに近縁なのかどうかという論争)では、私たちは重要なことを再確認しました。「人類の系統図における近い/遠い」と「表面的な特徴の似ている/似ていない」は、必ずしも一致しないということです。系統的に近い集団と集団が、表面的に似ていないこともありうるし、系統的に遠い集団と集団が、表面的に似ていることもありうるということです。

 

余談

髪型と肌の色

マイケル・ジャクソンは、髪型だけでなく、肌の色まで変わったので、驚いた人も多かったでしょう。しかし、肌の色の変化は、彼が望んだものではありませんでした。

マイケル・ジャクソンは、「尋常性白斑」という病気に侵されていました。これは、皮膚の一部の色が抜け、大小の白い斑点ができる病気です(画像はMichael Jackson Wikiより引用)。

全部が黒ければ、あるいは全部が白ければ、様になりますが、まだらになると、とても不自然になってしまいます。はじめはメイクによってすべて黒くなるようにしていましたが、病気がどんどん進行し、今度はメイクによってすべて白くなるようにしていました。

マイケル・ジャクソンは病気のことを隠していたので、様々な憶測が飛び交いました。決して黒人から白人になることを夢見ていたのではなく、病気に悩まされていたのです。

こういうショッキングな病気もあるのです。

 

参考文献

Teixeira J.C. et al. 2021. Widespread Denisovan ancestry in Island Southeast Asia but no evidence of substantial super-archaic hominin admixture. Nature Ecology & Evolution 5(5): 616-624.