日本語の起源と歴史に興味を持つすべての方へ

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こんにちは。金平譲司と申します。ここに「日本語の意外な歴史」と題するブログを立ち上げました。

このブログは、日本語ならびに日本語と深い関係を持つ言語の歴史を解明するものです。言語学者だけでなく、他の分野の専門家や一般の方々も読者として想定しています。

謎に包まれてきた日本語の起源

日本語はどこから来たのかという問題は、ずいぶん前から様々な学者によって論じられてきましたが、決定的な根拠が見つからず、大いなる謎になってしまった感があります。しかしながら、筆者の研究によってようやくその全貌が明らかになってきたので、皆さんにお話ししようと思い立ちました。

日本語は、朝鮮語、ツングース諸語(エヴェンキ語、満州語など)、モンゴル諸語(モンゴル語、ブリヤート語など)、テュルク諸語(トルコ語、中央アジアの言語など)と近い関係にあるのではないか、あるいはオーストロネシア語族(台湾、フィリピン、インドネシア、マレーシア、オセアニアなどの言語から成る言語群)と近い関係にあるのではないかというのが従来の大方の予想でしたが、これらの予想はポイントを外しています。

中国語を見て全く違うと感じた日本人が、日本語は北方の言語と関係があるのではないか、南方の言語と関係があるのではないかと考えたのは、至極当然のことで、北方の言語と南方の言語に視線を注ぐこと自体は間違っていません。問題なのは、北方のごく一部の言語と南方のごく一部の言語に関心が偏ってしまったことです。

上記の言語のうちで、朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語は、日本語によく似た文法構造を持つことから、日本語に近縁な言語ではないかと盛んに注目されてきました。同時に、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語は、互いに特に近い関係にあるとみなされ、いわゆる「アルタイ語族」という名でひとまとめにされることがしばしばありました。日本語の起源をめぐる議論は、このような潮流に飲まれていきました。

しかしながら、筆者がこれから明らかにしていく歴史の真相は、かなり違います。日本語は、朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語と無関係ではないが、別の言語群ともっと近い関係を持っているようなのです。

実を言うと、筆者は日本語やその他の言語の歴史に興味を持つ人間ではありませんでした。筆者は若い頃にフィンランドのヘルシンキ大学で一般言語学や様々な欧州言語を学んでいましたが、その頃の筆者の興味は言語と思考の関係や外国語の学習理論などで、もっぱら現代の言語に関心が向いていました。歴史言語学の講義もありましたが、特に気に留めていませんでした。

筆者が言語の歴史について真剣に考えるようになったきっかけは、ロシアの北極地方で少数民族によって話されているサモエード諸語との出会いでした。サモエード諸語は、フィンランド語やハンガリー語と類縁関係にある言語です。フィンランド語とハンガリー語はヨーロッパの中では異色の存在で、北極地方の少数民族の言語と類縁関係を持っています。フィンランド語、ハンガリー語、サモエード諸語などから成る言語群は、「ウラル語族」と呼ばれます。

言語学者が使う「語族」という用語について若干説明しておきます。私たちが万葉集や源氏物語の言葉を見ると、「読みにくいな」と感じたり、「なにを言っているのかわからないな」と感じたりします。言語は時代とともに少しずつ変化しています。言語は単に変化するだけでなく、分化もします。ある程度広い範囲で話されている言語には、地域差が生じてきます。

この地域ごとに少しずつ異なる言葉が方言です。しかし、これらの方言が地理的に隔たってさらに長い年数が経過すると、最初は小さかった方言同士の差が大きくなっていき、やがて意思疎通ができないほどになります。

あまりに違いが大きくなれば、もう方言ではなく、別々の言語と言ったほうがふさわしくなります。一律の学校教育やマスメディアが発達していない時代には、この傾向は顕著です。ある言語が別々の言語に分化するのです。分化してできた言語がさらに分化することもあります。言語学では、おおもとの言語と分化してできた諸言語をまとめて「語族」といいます。世界で最もよく知られている語族は、インド・ヨーロッパ語族と呼ばれる語族で、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語などはこの語族に属します。例えるなら、イヌ、オオカミ、キツネ、タヌキが共通祖先を持っているように、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語は共通祖先を持っているということです。

日本語とウラル語族

英語などが属するインド・ヨーロッパ語族は巨大な言語群ですが、フィンランド語やハンガリー語が属するウラル語族はこじんまりとした言語群です。ウラル語族の言語は、ロシアの北極地方から北欧・東欧にかけて分布しています。地理的に遠く離れているので、ウラル語族の言語は一見したところ東アジアの言語、特に日本語とはなんの関係もないように見えますが、実はここに大きな盲点があります。日本語の歴史を考えるうえで大変重要になるので、ウラル語族の話を続けます。以下にウラル語族の内部構造を簡単に示します。

ウラル語族の言語を研究する学者の間に意見の相違がないわけではありませんが、上の図は従来広く受け入れられてきた見方です。ウラル語族の言語は、まずフィン・ウゴル系とサモエード系に分かれ、フィン・ウゴル系はそこからさらにフィン系とウゴル系に分かれます。フィンランド語はフィン系に属し、ハンガリー語はウゴル系に属します。サモエード系の言語は、ロシアの北極地方に住む少数民族によって話されています。現在残っているサモエード系の言語はネネツ語、エネツ語、ガナサン語、セリクプ語の四つのみで、特に後の三つは消滅の危機にあります。

サモエード系の言語は、フィンランド語やハンガリー語と同じウラル語族の言語ですが、フィンランド語やハンガリー語とは文法面でも語彙面でも著しく異なっています。同じ言語から分かれた言語同士でも、別々の道を歩み始め、何千年も経過すれば、似ても似つかない言語になってしまいます。特に、サモエード系の言語が辿った運命とフィンランド語・ハンガリー語が辿った運命は対照的です。サモエード系の言語は、北極地方にとどまり、他の言語との接触が比較的少なかったために、昔の姿をよく残しています。それに対して、フィンランド語とハンガリー語は、有力な言語がひしめくヨーロッパに入り込み、大きく姿を変えました。サモエード系の言語は、いわば「生きた化石」です。人類の歴史を解明するうえで、大変重要な言語です。サモエード系の言語との出会いは、筆者にとってショッキングな出来事でした。これ以降、筆者は言語の歴史について本格的に研究し始めることになります。

筆者が初めてサモエード系の言語を見た時には、「文法面ではモンゴル語やツングース諸語に似ているな」という第一印象を受けました。しかし、よく調べると、「あれっ、語彙面では日本語に似ているな」という第二印象を受けました。少なくとも言語の根幹をなす基礎語彙に関しては、モンゴル語やツングース諸語より、ウラル語族のサモエード系の言語のほうが日本語に近いと思いました。なんとも不思議な感じがしました。なんで日本の近くで話されているモンゴル語やツングース諸語より、北極地方で話されているウラル語族のサモエード系の言語のほうが日本語に近いんだろうと考え始めました。様々な言語を見てきましたが、サモエード系の言語には今までにない特別なものを感じました。なにか重大な秘密が隠されている予感がしました。

フィンランド語とハンガリー語だけを見ていた時は気づかなかったのですが、サモエード系の言語を介しながらフィンランド語とハンガリー語を見てみると、やはりフィンランド語とハンガリー語にも日本語との共通語彙があります。日本語の中にある、ウラル語族と共通している語彙、そしてウラル語族と共通していない語彙を見分けていくうちに、二つの疑問が頭に浮かんできました。一つ目の疑問は、日本語の祖先とウラル語族の言語の祖先の接点は地理的にどの辺にあったのだろうという疑問です。二つ目の疑問は、日本語の中にある、ウラル語族と共通していない語彙はどこから来たのだろうという疑問です。日本語の中には、ウラル語族と共通している語彙も多いですが、共通していない語彙も多いのです。

東アジアには黄河文明とは違う文明が存在した

ウラル語族の各言語の語彙を研究するうちに、ウラル語族が日本語だけでなく、モンゴル語、ツングース諸語、朝鮮語、さらには中国語にもなんらかの形で関係していることが明らかになってきたので、ウラル語族の言語と東アジア・東南アジアの言語の大々的な比較研究を開始しました。着実かつ合理的に歴史を解明するため、考古学および生物学の最新の研究成果を適宜参照しました。考古学も生物学も近年めざましい発展を遂げており、数々の重要な発見がありました。

かつては、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、そして東アジアの黄河文明が並べられ、世界四大文明と呼ばれていました。ところが、その後の発見によって、東アジアには黄河文明のほかに二つの大きな文明が存在したことがわかってきました(このテーマを包括的に扱った書籍はいくつかありますが、考察の広さ・深さの点でShelach-Lavi 2015が優れています)。

その二つの大きな文明とは、長江文明と遼河文明(りょうがぶんめい)です。日本列島で縄文時代が進行する間に、大陸側はこのようになっていたのです。黄河文明と長江文明に比べて、遼河文明は知名度が高くないかもしれません。しかし、遼河文明は、日本語の歴史を解明するうえで重要な鍵を握っているようなのです。

生物学が発達し、人間のDNA配列が調べられるようになりました。DNA配列は、正確には「DNAの塩基配列」といい、アデニンA、チミンT、グアニンG、シトシンCという四種類の物質が作る列のことです。最近では、生きている人間のDNA配列だけでなく、はるか昔に生きていた人間のDNA配列も調べられるようになってきました。大変興味深いことに、遼河文明が栄えていた頃に遼河流域で暮らしていた人々のDNA配列を調べた研究があります(Cui 2013)。

人間は父親と母親の間に生まれるので、子のDNA配列が父親のDNA配列と100パーセント一致することはなく、子のDNA配列が母親のDNA配列と100パーセント一致することもありません。しかし、父親から息子に代々不変的に受け継がれていく部分(Y染色体DNA)と、母親から娘に代々不変的に受け継がれていく部分(ミトコンドリアDNA)があります。代々不変的に受け継がれていく部分と書きましたが、この部分にも時に突然変異が起きます。つまり、その部分のDNA配列のある箇所が変化するのです。変化していないY染色体DNA配列を持つ男性がそれを息子に伝える一方で、変化したY染色体DNA配列を持つ男性がそれを息子に伝えるということが起き始めます。同様に、変化していないミトコンドリアDNA配列を持つ女性がそれを娘に伝える一方で、変化したミトコンドリアDNA配列を持つ女性がそれを娘に伝えるということが起き始めます。こうして、時々起きる突然変異のために、Y染色体DNAのバリエーション、ミトコンドリアDNAのバリエーションができてきます。人類の歴史を研究する学者は、このY染色体DNAのバリエーション、ミトコンドリアDNAのバリエーションに注目するのです。

先ほど述べた遼河流域の人々のDNA研究は、Y染色体DNAのバリエーション(例えば、C系統か、D系統か、N系統か、O系統か)を調べたものです。その結果はどうだったでしょうか。古代の人々の研究なのでサンプル数は限られていますが、それでも大まかな傾向は十分に捉えられています。遼河文明が栄えていた頃の遼河流域では、当初はN系統が圧倒的に優勢だったが、次第にO系統とC系統が増え(つまり他の地域から人々が流入してきたということ)、N系統はめっきり少なくなってしまったようです。現在の日本、朝鮮半島、中国では、N系統はほんの少し見られる程度です(Shi 2013)。対照的に、ウラル語族の言語が話されているロシアの北極地方からフィンランド方面にかけてN系統が非常に高い率で観察されています(Rootsi 2007)。

見え始めた日本語の正体

筆者もウラル語族の言語が東アジアの言語と深い関係を持っていることを知った時には大いに驚きましたが、考古学・生物学の発見と照らし合わせると、完全に合致します。日本語がウラル語族の言語と深い関係を持っていることは非常に興味深いですが、もう一つ興味深いことがあります。日本語の中には、ウラル語族と共通している語彙も多いですが、共通していない語彙も多く、ウラル語族とは全く異なる有力な言語群も日本語の形成に大きく関与したようなのです。

ウラル語族の言語と東アジア・東南アジアの言語の大々的な比較研究を行い、様々な紆余曲折はありましたが、漢語流入前の日本語(いわゆる大和言葉)の語彙構成が以下のようになっていることがわかってきました。

「ウラル語族との共通語彙」も多いですが、「黄河文明の言語との共通語彙」と「長江文明の言語との共通語彙」も多く、この三者で漢語流入前の日本語の語彙の大部分を占めています。

「その他の語彙1」というのは、日本語が大陸にいた時に取り入れた語彙で、「ウラル語族との共通語彙」にも、「黄河文明の言語との共通語彙」にも、「長江文明の言語との共通語彙」にも該当しないものです。

「その他の語彙2」というのは、日本語が縄文時代に日本列島で話されていた言語から取り入れた語彙です。

漢語流入前の日本語の語彙構成の特徴的なところは、なんといっても、語彙の大きな源泉が三つあることです。三つの有力な言語勢力が交わっていたことを窺わせます(遼河文明と黄河文明と長江文明の位置を思い出してください)。

「日本語の意外な歴史」では、ウラル語族との共通語彙、黄河文明の言語との共通語彙、長江文明の言語との共通語彙、その他の語彙1、その他の語彙2、いずれも詳しく扱っていきます。

では、日本語およびその他の言語の歴史を研究するための準備に取りかかりましょう。

 

外国語の単語の表記について

英語と同じようなアルファベットを使用している言語では、それをそのまま記します。言語学者が諸言語の発音を記述するのに使う国際音声記号(IPA)というのがありますが、音韻論の専門家でない限り、多くが見慣れない記号です。そのため、本ブログではIPAの使用はできるだけ控えます。特に朝鮮語は、IPAを用いて記すと複雑になるため、市販されている初心者向けの韓国語の文法書で採用されている書き方にならいました。一般の読者にとって見慣れない記号を用いる場合には、補助としてのカタカナ表記を付け加えます。慣習を考慮し、ヤ行の子音は基本的に、北方の言語(ウラル語族の言語など)では「j」で表し、南方の言語(中国語、東南アジアの言語)では「y」で表します。古代中国語のアルファベット表記の仕方は、Baxter 2014に従います。

 

参考文献

Baxter W. H. et al. 2014. Old Chinese: A New Reconstruction. Oxford University Press.

Cui Y. et al. 2013. Y chromosome analysis of prehistoric human populations in the West Liao River Valley, Northeast China. BMC Evolutionary Biology 13: 216.

Rootsi S. et al. 2007. A counter-clockwise northern route of the Y-chromosome haplogroup N from Southeast Asia towards Europe. European Journal of Human Genetics 15: 204-211.

Shelach-Lavi G. 2015. The Archaeology of Early China: From Prehistory to the Han Dynasty. Cambridge University Press.

Shi H. et al. 2013. Genetic evidence of an East Asian origin and paleolithic northward migration of Y-chromosome haplogroup N. PLoS One 8(6): e66102.


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卑弥呼は一体どんな人だったのか、日本の歴史の研究を大混乱させた幻の神功皇后

卑弥呼と邪馬台国のことは、中国の歴史書には書かれているのに、日本の歴史書(「古事記」と「日本書紀」)には書かれていないと述べました。しかし、日本の歴史書にも、怪しげな記述はあるのです。

前回の記事でお話ししたようにより複雑な成立事情を持つ古事記はひとまず脇に置いておき、ここでは日本書紀を見ることにします。日本書紀は、神代(歴代の天皇に先立つ神々の時代)の話がはじめにあり、そこから○○天皇の話、○○天皇の話、○○天皇の話・・・というふうに展開していきます。このように神代の話の後は歴代の天皇の話が続いていくのですが、そこに一人だけ天皇でない人物がいます。一つだけ特別枠が設けられているのです。神功皇后(じんぐうこうごう)という人物です。神功皇后は、第14代天皇の仲哀天皇の妻、第15代天皇の応神天皇の母として描かれています。神功皇后は、地味に登場するのではなく、派手に登場します。夫の仲哀天皇よりも大きく取り上げられており、その姿は日本の歴史における主要人物の一人という感じです。

日本書紀は、時代順に起きた出来事を書いていくスタイルですが、私たちになじみの「西暦」では書かれていません。「天智元年、天智2年、天智3年・・・、天武元年、天武2年、天武3年・・・」のようなスタイルです。そのため、日本書紀に書かれている出来事が西暦何年に起きたのかということは必ずしも自明ではなく、古い時代の話になればなるほど不確かです。

日本書紀の神功皇后の時代の記述を追っていくと、おやっと思わずにはいられません。神功39年、神功40年、神功43年に、以下の記述があります。日本書紀は漢語(つまり昔の中国語)で書かれているので、ここでは「宇治谷孟、日本書紀(上):全現代語訳、講談社、1988年」の現代日本語訳を示します。

►神功39年
魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に、倭の女王は大夫難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢をもってきた。太守の鄧夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。

►神功40年
魏志にいう。正始元年、建忠校尉梯携らを遣わして詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。

►神功43年
魏志にいう。正始四年、倭王はまた使者の大夫伊声者掖耶ら、八人を遣わして献上品を届けた。

さらに、神功66年に以下の記述があります。

►神功66年
この年は晋の武帝の泰初二年である。晋の国の天子の言行などを記した起居注に、武帝の泰初二年十月、倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している。

日本書紀はこのように書いているわけですが、この日本書紀の神功39年、神功40年、神功43年、神功66年の記述に特徴的なのは、あくまで中国の歴史書はそう言っているという体裁を取っているところです。

実際、上の日本書紀の記述は、前回の記事で取り上げた魏志、そしてその次の晋書の記述とよく合います。魏志には、景初二年に倭の女王である卑弥呼が帯方郡に使いを送り、魏の皇帝に朝貢したいと言ってきたこと、正始元年に卑弥呼にそのお返しがあったことが記されています。魏志にはさらに、正始四年に卑弥呼が再び使いを送ったこと、その後まもなく卑弥呼が死亡し、男王が立ったがうまくいかず、殺し合いが発生してしまい、卑弥呼の一族の台与という少女が後を継いだことが記されています。魏志の次の晋書には、泰始二年に倭人が朝貢したことが記されています(泰始が正しく、泰初は誤りです)。

年代的には、よく合います(魏志の景初二年と日本書紀の景初三年が違っているだけです)。しかし、卑弥呼と台与がやったことを、神功皇后がやったかのように書いている日本書紀には大いに問題があります。

卑弥呼と台与は倭王(最高位の者)です。それに対して、神功皇后は摂政(一般的には、最高位の者が幼かったり、病弱だったり、女性だったりする場合に、代わりに政務を執り行う者)です。日本書紀では、第14代天皇の仲哀天皇の死亡から第15天皇の応神天皇の即位まで、天皇の地位が長いこと空位になっています。具体的に言うと、仲哀2年に仲哀天皇が気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)を皇后とし、仲哀9年に仲哀天皇が死亡します。同じ仲哀9年の終わりに神功皇后がのちの応神天皇を生みますが、神功皇后が政務を執り行います。70年ぐらい経って神功皇后が死亡し、ようやく応神天皇が即位します。

最高位は仲哀→応神と継承されており、その間に政務を執り行った神功皇后を、中国の歴史書は「倭の女王」とか「倭王」と呼んでいる、日本書紀はそう言いたいようです。この日本書紀の怪しい感じは、中国・朝鮮の歴史書(中国の魏志、晋書、朝鮮の三国史記)と照らし合わせると、ますます怪しくなってきます。作表は、倉西裕子氏の「日本書紀の真実 紀年輪を解く」(講談社)を参考にしています(倉西2003)。

※「薨じた(こうじた)」というのは、「死んだ」という意味です。ここでは意図的に上の表と下の表に分けていますが、日本書紀には神功39年、40年、43年、55年、64年、65年、66年の出来事はこの順序で平然と書き連ねられています

まず上の表を見てください。日本書紀が神功39年、神功40年、神功43年、神功66年に起きたとしていることは、西暦238年、240年、243年、266年に起きたことなのです。次に下の表を見てください。日本書紀が神功55年、神功64年、神功65年に起きたとしていることは、西暦375年、384年、385年に起きたことなのです。

日本書紀はこうやって歴史を歪めています。卑弥呼がやったことを、卑弥呼がやったと書かずに、神功皇后がやったかのように書く、台与がやったことを、台与がやったと書かずに、神功皇后がやったかのように書く、もうこの時点で明らかな歴史の改竄ですが、上の表は、日本書紀はもっと大がかりな歴史の改竄を行っているのではないかと疑わせるものです。

日本書紀が上の表のような怪しい作りになっていることは、かなり前から井上光貞氏などが指摘してきました(井上1960)。そのことを鮮明な形で改めて示したのが、倉西裕子氏だったわけです(倉西2003)。

井上氏や倉西氏の指摘にもかかわらず、多くの学者は日本書紀に対して厳しい態度を取ろうとしません。ただ、これもわからなくはありません。古事記と日本書紀を神聖視するよう強要された時代があり、その余韻が残っていることも理由の一つだと思いますが、筆者はそのほかにも大きな理由があると考えています。

(理由1)日本書紀が歴史を改竄しているような感じはしても、だれがなんのために日本の歴史を改竄したのかさっぱりわからない。

(理由2)日本書紀による歴史の改竄があまりに大規模であるために、その全容が容易には捉えられない。当然の心理として、大規模であればあるほど、信じがたくなる。

この二つの理由が大きいと考えられます。これらに対応しますが、これからの日本の歴史の研究では、以下の二つの問い(観点)が重要になります。

(問い1)だれがなんのために日本の歴史を改竄したのか。

(問い2)日本の実際の歴史はどうだったのか。

卑弥呼と台与と神功皇后の例が示すように、日本書紀が行っている歴史の改竄は全く単純ではありません。日本書紀はゼロからファンタジーを作っているわけではないのです。そんなものを作っても、信用されないでしょう。歴史について語る際には、以下の視点が重要です。

このうちの一部分が正しくないと、それはもう真実の歴史ではないのです。組み合わせの正しさが重要です。「だれが」の部分を改変してしまう、「いつ」の部分を改変してしまう、「どこで」の部分を改変してしまう、「なにをした」の部分を改変してしまう、それはもう真実の歴史ではないのです。日本書紀はまさにこのようなことを行っています。日本書紀が、多くの改竄を含んでいるのに、真実らしく見えてしまう理由が、ここにあります。日本書紀はそのことを巧みに利用しています。読む者を本気で信じさせようとしています。歴史書というより、一種の宗教書の様相を呈しています。

上の(問い1)と(問い2)はどちらも重い問いですが、どちらの問いに関しても21世紀に入ってから重要な研究が発表されています。しかし、以前に述べたように、現代は情報があふれる時代であり、重要な研究がかき消されてしまっています。

今回の記事では「神功皇后」に疑惑を向けましたが、とうとう「聖徳太子」その他の人物にも疑惑が向けられるようになってきました。なにしろ、奈良時代(710~794年)より前に書かれた文献、その直前に書かれた文献すら、残っていないのです。はっきり言いましょう、消されているのです。この領域で最先端を行く大山誠一氏らの研究を紹介したいと思いますが、その前に、日本という国家の起源に関係がありそうなのに、あまりに謎に包まれている卑弥呼と台与についてもう少しお話しします。

 

補説

神功皇后の「三韓征伐」はなんと・・・

日本書紀の神功皇后の箇所には、いわゆる「三韓征伐」の話が出てきます。神功皇后が朝鮮半島に出兵し、新羅、百済、高句麗を服属させたという話です。「三韓征伐」と聞くと、激しい戦いを想像するかもしれませんが、日本書紀の記述は全然違います。再び「宇治谷孟、日本書紀(上):全現代語訳、講談社、1988年」の現代日本語訳を示します。神功皇后らが日本を発つところです。

冬十月三日、鰐浦から出発された。そのとき風の神は風を起こし、波の神は波をあげて、海中の大魚はすべて浮かんで船を助けた。風は順風が吹き、帆船は波に送られた。舵や楫を使わないで新羅についた。そのとき船をのせた波が国の中にまで及んだ。これは天神地祇がお助けになっているらしい。新羅の王は戦慄して、なすべきを知らなかった。多くの人を集めていうのに、「新羅の建国以来、かつて海水が国の中にまで上ってきたことは聞かない。天運が尽きて、国が海となるのかも知れない」と。その言葉も終わらない中に、軍船海に満ち、旗は日に輝き、鼓笛の音は山川に響いた。新羅の王は遥かに眺めて、思いの外の強兵がわが国を滅ぼそうとしていると恐れ迷った。やっと気がついていうのに、「東に神の国があり、日本というそうだ。聖王があり天皇という。きっとその国の神兵だろう。とても兵を挙げて戦うことはできない」と。白旗をあげて降伏し、白い綬を首にかけて自ら捕われた。地図や戸籍は封印して差出した。

唖然としながらさらに読むと、以下の記述があります。

高麗、百済の二国の王は、新羅が地図や戸籍も差出して、日本に降ったと聞いて、その勢力を伺い、とても勝つことができないことを知って、陣の外に出て頭を下げて、「今後は永く西蕃(西の未開の国)と称して、朝貢を絶やしません」といった。それで内官家屯倉を定めた。これがいわゆる三韓である。皇后は新羅から還られた。

※地図と戸籍を差し出すという行為は、統治下に入ることを示す行為と考えてよいでしょう。内官家屯倉(うちつみやけ)というのは、大和朝廷の直轄領(直接支配する土地)を意味します。

実は、「三韓征伐」の記述は驚くほどあっさりとしていて、倭が戦うまでもなく、新羅、百済、高句麗が降伏したという内容になっています。朝鮮半島の歴史がこの通りだったかというと、そうではありません。倭が朝鮮半島に進出し、一つの勢力になっていたことは事実です。しかし、朝鮮半島全体(新羅、百済、高句麗)を支配していたかのような記述は、事実ではありません。特に、北方の高句麗が強大であり、新羅、百済、倭を含む朝鮮半島の南側の勢力が脅かされたり、痛い目にあわされたりしていたというのが事実です。

昔、江上波夫氏が「騎馬民族征服王朝説」を唱えて、大きな話題になったことがありました(江上1991)。日本は弥生時代に農耕社会になり、その延長線上に大和朝廷が生まれたというのが従来の見方であり、騎馬民族が侵入してきて、大和朝廷を立てたという見方はショッキングなものだったのです。今では、この見方は様々な方面から反論を受け、すっかり下火になっています。

確かに、四世紀後半から五世紀に倭の軍事および文化・文明全体に顕著な変化が見られ、外から何者かが侵入してきたように見えたのは、わからなくはありません。しかし、ここでも、北方の強大な高句麗が朝鮮半島の南側の新羅、百済、倭などを脅かしたり、痛め目にあわせたりしていたことが背景にあります。

高句麗の騎馬隊に苦しめられた倭は、朝鮮半島から新しい軍事品・軍事技術を取り入れることを余儀なくされました。倭の軍事に顕著な変化が見られたのは、このためです。同時に、同じように高句麗に苦しめられていた新羅、百済およびその他の勢力と近づくことにもなりました。日本が中国の文化・文明から大きな影響を受けたことはよく知られていますが、朝鮮半島を介して受けた影響も大きいのです。

倭では弥生時代の途中から石器に代わって鉄器の使用が増えていきましたが、鉄の供給も朝鮮半島に依存していました。鉄器を作るためには、材料の鉄が必要です。鉄は自然界にほとんど単体で存在せず、鉄鉱石・砂鉄から鉄を取り出す作業(すなわち製鉄)が欠かせません。しかし、日本に製鉄遺跡が認められるようになるのは、古墳時代の後のほうの六世紀になってからです(白石2013)。材料の鉄自体は、長いこと朝鮮半島頼みだったのです。

当時の倭と朝鮮半島の関係は、神功皇后の「三韓征伐」が描いている通りではありません。高句麗で414年に建てられた広開土王の石碑などから、倭が朝鮮半島で戦いを起こし、ある程度の戦果を上げていたことは確かですが、神功皇后の「三韓征伐」は話を大きく膨らませてしまっています。

 

参考文献

井上光貞、「日本国家の起源」、岩波書店、1960年。

江上波夫、「騎馬民族国家 日本古代史へのアプローチ」、中央公論新社、1991年。

倉西裕子、「日本書紀の真実 紀年輪を解く」、講談社、2003年。

白石太一郎、「古墳からみた倭国の形成と展開」、敬文舎、2013年。

改竄された日本の歴史、なぜ古事記と日本書紀は本当のことを書かなかったのか

日本の歴史に興味を持ったことがある人なら、だれでも「卑弥呼(ひみこ)」という名前を聞いたことがあるでしょう。中国の歴史書には、西暦200~250年頃の日本に卑弥呼という女王がいて、中国と接していたこと、そして邪馬台国という場所にいたことが記されています。

この卑弥呼と邪馬台国のことを書かず、不自然に沈黙しているのが、日本の歴史書の「古事記」と「日本書紀」です。

なぜ古事記と日本書紀という二つの歴史書が残ることになったのか、実は明らかになっていません。一般的には、古事記は712年に完成、日本書紀は720年に完成したとされています。奈良時代(710~794年)のはじめのことです。

ただ、古事記の712年という成立年代には、以前から疑問が投げかけられてきました。古事記という書物には、日本書紀よりも古いのではないかと思わせる部分と、日本書紀よりも新しいのではないかと思わせる部分があり、古事記の成立年代をめぐる議論は混乱模様を呈しています。

これまでに発表された古事記の成立年代をめぐる研究の中で、筆者が特に優れていると思うのは、大和岩雄氏の研究です(大和1997(筆者は1997年の版しか読んでいませんが、新版も出ているようです))。大和氏自身の考察も優れていますが、これまでの他者の研究を網羅的に取り上げている点も優れています。

大和氏は、日本書紀より前に存在した書物があり、その書物に変更・追加が施されて日本書紀よりだいぶ後に完成したのが、今残っている古事記であると考えています。古事記に日本書紀より古いと見られる部分と日本書紀より新しいと見られる部分があることが、うまく説明されています。筆者も、大和氏が示している可能性が高いのではないかと考えています。

日本書紀は、第41代天皇の持統天皇のところで記述が終わっています。持統天皇は奈良時代のすぐ前の天皇であり、これは普通に理解できます。それに対して、古事記は、第33代天皇の推古天皇のところで記述が終わっており、天皇がなにを言ったか、なにをしたかという具体的な記述は、第23代天皇の顕宗天皇のところで終わっています。古事記は未完の感じがありありと出ている書物です。日本書紀より前に、途中まで書かれて、放棄された書物があったのではないかと考えたくなるところです。

ただし、天から降りてきた神の子孫が天皇になったという話の根幹部分は、多少の違いはあれど、古事記と日本書紀に共通しており、このことは認識しておく必要があります。

当面は、古事記の問題には深入りせず、主に日本書紀のほうを取り上げます。

卑弥呼と邪馬台国のことが記されている「魏志倭人伝」

「魏志倭人伝」という名前も、聞いたことのある人が多いでしょう。中国に「魏志(魏書)」という歴史書があり、その中に倭人について書かれている部分があります。この部分が、日本では「魏志倭人伝」と呼びならわされています。魏志倭人伝は2000字ぐらいの記述ですが、同時代に書かれた記録が日本側にないので、魏志倭人伝は非常に貴重な資料になっています。

魏志倭人伝の一部をのぞいてみましょう。中国の皇帝と卑弥呼がやりとりしている場面です。魏志倭人伝の原文は当然昔の中国語なので、ここでは「藤堂明保ほか、倭国伝:中国正史に描かれた日本:全訳注、講談社、2010年」の現代日本語訳を示します。

魏の明帝の景初二年(二三八年)六月、倭の女王卑弥呼は、大夫難升米らを帯方郡によこし、魏の天子に直接あって、朝献したい、と言ってきた。郡の太守劉夏は、役人を遣わして難升米らを魏の都まで送って行かせた。その年の十二月、倭の女王に返事の詔が出た。「親魏倭王卑弥呼へ詔す。帯方郡の太守劉夏が送りとどけた汝の大夫(正使の)難升米、副使の都市牛利らが、汝の献上品である男奴隷四人、女奴隷六人、斑織りの布二匹二丈を持って到着した。汝の住むところは、海山を越えて遠く、それでも使いをよこして貢献しようというのは、汝の真心であり、余は非常に汝を健気に思う。さて汝を親魏倭王として、金印・ 紫綬を与えよう。封印して、帯方郡の太守にことづけ汝に授ける。土地の者をなつけて、余に孝順をつくせ。汝のよこした使い、難升米・都市牛利は、遠いところを苦労して来たので、今、難升米を率善中郎将、都市牛利を率善校尉とし、銀印・青綬を与え、余が直接あってねぎらい、賜り物を与えて送りかえす。そして、深紅の地の交竜の模様の錦五匹、同じく深紅の地のちぢみの毛織り十枚、茜色の絹五十匹、紺青の絹五十匹で、汝の献じて来た貢ぎ物にむくいる。また、そのほかに、特に汝に紺の地の小紋の錦三匹と、こまかい花模様の毛織物五枚、白絹五十匹、金八両、五尺の刀二振り、銅鏡百枚、真珠・鉛丹をおのおの五十斤、みな封印して、難升米・都市牛利に持たせるので、着いたら受け取るように。その賜り物をみな汝の国の人に見せ、魏の国が、汝をいつくしんで、わざわざ汝によい物を賜わったことを知らせよ」と。

正始元年(二四〇年)、帯方郡の太守弓遵は、建中校尉梯儁らを遣わして、詔と印綬を倭の国に持って行かせ、倭王に任命した。そして、詔と一緒に、黄金・白絹・錦・毛織物・刀・鏡、その他の賜り物を渡した。そこで倭王は、使いに託して上奏文を奉り、お礼を言って詔に答えた。

飛行機やインターネットがある時代ではないので、言葉と物のやりとりにとてつもない時間がかかっています。ご存じの方が多いと思いますが、念のために言っておくと、帯方郡(たいほうぐん)とは、当時の中国が朝鮮半島に置いていた植民地のことで、そこを通じて中国の皇帝と卑弥呼のやりとりが行われています。

とてつもない時間がかかっているやりとりですが、中国の皇帝の言葉が倭王の卑弥呼に口頭で伝えられ、倭王の卑弥呼の言葉が中国の皇帝に口頭で伝えられているのでしょうか。いや、そんなことはありません。

現代日本語訳の最後の「そこで倭王は、使いに託して上奏文を奉り、お礼を言って詔に答えた」という部分が明白に示しています。中国語原文では「倭王因使上表答謝恩詔」です。ここに出てくる古代中国語のpjew(表)ピエウは、日本語で「上奏文」と訳されているように、皇帝に出す文書(手紙)のことです。卑弥呼は、皇帝から文書を受け取り、皇帝に文書を出しているのです。卑弥呼自身が筆を動かしているわけではないと思われますが、卑弥呼のそばに文字を読み、文字を書くことのできる人間がいるのです。

前回の記事で、漢字が刻まれた埼玉県出土の稲荷山鉄剣と熊本県出土の江田船山鉄刀に言及し、日本人が奈良時代よりもかなり前から文字を書き記していたと述べました。稲荷山鉄剣と江田船山鉄刀に漢字が刻まれたのは、そこに書かれている内容から、五世紀後半(450~500年頃)と考えられています。

しかし、魏志倭人伝の記述からわかるように、稲荷山鉄剣と江田船山鉄刀の時代(450~500年頃)どころではなく、卑弥呼が倭王だった時代(200~250年頃)に、日本ですでに文字が書き記されていたのです。

ちなみに、稲荷山鉄剣に刻まれた文は、乎獲居臣(ヲワケノオミ)と名乗る人物が語っているもので、先祖の意富比垝(オホヒコ)から七世代下の自分に至るまで朝廷に仕えてきたこと、自分が獲加多支鹵大王に仕えていること、そして自分がそのことを刻んだ鉄剣を作らせたことが誇らしく語られています。「獲加多支鹵」の部分をどう読んだらよいかということが問題になりますが、確実にわかるもっと後の隋・唐の頃の発音は以下の通りです。

hwɛk(獲)フウェク
kæ(加)
ta(多)
tsye(支)チエ (tsye(支)は*ke(支)から変化したと考えられている形です(Baxter 2014))
lu(鹵)

これが、幼武(ワカタケル)という実名を持っていた第21代天皇の雄略天皇を思い起こさせるわけです。

乎獲居臣は五世紀後半(450~500年頃)に生き、雄略天皇に仕えていたと考えられる人物ですが、その乎獲居臣が七世代前の意富比垝から朝廷に仕えてきたと言っているのは、興味深いところです。五世紀後半(450~500年頃)から七世代遡ると、いつ頃になるでしょうか。

意富比垝から乎獲居臣までが仕えてきた王を遡っていくと、つまり獲加多支鹵大王から遡っていくと、その先に卑弥呼がいるのでしょうか。それとも、いないのでしょうか。魏志倭人伝を読む限り、卑弥呼は夫を持たず、子もいなかったと考えられる女性です。これは一体どういうことでしょうか。日本という国家の起源を考えるうえで、非常に重大な場面に差しかかります。

このように見てくると、日本の本格的な文字記録が奈良時代(710~794年)のはじめからしか残っていないということに、皆さんは異常なものを感じないでしょうか。なぜ古事記と日本書紀はあんなに長い話を書くことができたのでしょうか。

※最近では、弥生時代の遺跡で硯(すずり)のようなものが相次いで発見され、卑弥呼の時代よりももっと前から文字が書かれていたのではないかという見方すら強まってきています。以下は「朝日新聞、2021年2月10日、弥生時代の「硯」各地で次々」からの一部抜粋です。

弥生時代に西日本で広く文字が使われていた可能性を示す遺物の発見が相次いでいる。福岡県など各地で硯(すずり)の可能性がある石製品が次々と出てきているのに加え、文字のような痕跡がある土器や石製品も見つかった。研究者の見解が分かれる資料もあるが、弥生時代中期後半(紀元前後ごろ)か、さらにそれ以前から日本でも外交や交易で文字が使われていたという見方が強まりつつある。

弥生時代の硯が注目されたのは2001年。西谷正・九州大学名誉教授らが、松江市の環濠(かんごう)集落・田和山(たわやま)遺跡で出土した石製品の破片を「硯ではないか」と指摘した。前漢~後漢時代(紀元前206~紀元220年)の中国や、その出先である朝鮮半島の楽浪郡(紀元前108~313年)では、薄い板石を木製の台にはめた硯が墓の副葬品などとして出土する。田和山遺跡の石製品も、これらと同様の硯と推定された。

九州でも16年、福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で硯とみられる板石が見つかった。同遺跡は「魏志倭人伝」に登場する伊都国の中枢とみられ、弥生時代から中国や朝鮮半島と文書で外交をしていた可能性が浮上した。

出土品を再検討

同市に住む柳田康雄・国学院大客員教授は、今まで砥石(といし)とされてきた弥生時代の石製品の中に硯が含まれているのではないかと注目。17年ごろから各地で過去の出土品を再検討し、これまでに300点以上の弥生の石製品を、硯やそれとセットで使う研石(けんせき)(すり石)だと判定してきた。

弥生時代には固形の墨はなく、粒状の墨を硯と研石ですりつぶし、水に溶いて使ったとみられる。柳田さんは研石とこすれた痕や、顔料らしい黒や赤の付着物を手がかりに硯を見つけている。その分布は九州だけでなく、島根県や岡山県、奈良県に及ぶ。

 

参考文献

日本語

大和岩雄、「古事記成立考 増補改訂版」、大和書房、1997年。

英語

Baxter W. H. et al. 2014. Old Chinese: A New Reconstruction. Oxford University Press.

「私(わたくし)」の語源

前回の記事でお話ししたように、日本語のかつての一人称代名詞は、北ユーラシアの多くの言語と通じるmi(身)(古形*mu)であったと考えられます。そこに、a(我、吾)とwa(我、吾)が入ってきたわけです。なかなか変わらないはずの一人称代名詞が変わったのです。このa(我、吾)とwa(我、吾)は、どこから来たのでしょうか。

一人称代名詞が変わるというのは、ただごとではありません。日本語がそのような劇的な変化を経たのはいつかというと、真っ先に考えられるのは、気候変化によって遼河流域でアワとキビの栽培を行えなくなった少数の日本語の話者が南下し、そこでシナ・チベット語族の話者、ベトナム系言語の話者、タイ系言語の話者などと出会った時です(現代人あるいは現代の言語学者が陥りがちな考えを参照)。

一人称代名詞と同じように、なかなか変わらないはずの「目」を意味する語が変わったのも、この時でした。シナ・チベット語族の言語から*mi(目)という語が入って、miru(見る)、misu(見す)、miyu(見ゆ)になり、ベトナム系言語から*ma(目)という語が入って、me(目)になったのでした(以下の記事を参照)。

日本語の一人称代名詞が変わったのではないかと見られるのも、その時期です。特に怪しいのは、シナ・チベット語族の古代中国語nga(我)ンガ、チベット語nga、ミャンマー語ngaのような一人称代名詞です。先頭は[ŋ]という子音で、日本語の話者には不慣れな音です。シナ・チベット語族の一人称代名詞を日本語に取り入れるために、一番手っ取り早いのは、先頭の[ŋ]を取り除いて、ŋaをaにすることです。これで、一人称代名詞のa(我、吾)が生まれます(実際に、朝鮮語でも古代中国語のnga(我)をaとしました)。

古代中国語の一人称代名詞であったnga(我)は、方言によってngoになったり、woになったりしています。現代の中国の標準語では、wo(我)ウォです。

唇のところで作る音(m、p、b、f、v、wなど)と口の奥のほうで作る音(k、g、x、hなど)の間にある程度行き来があることは、以前にお話ししました。日本語の「は」の読みがɸaからhaになったのは、そのような例です(唇のところ→口の奥のほう)。古代中国語のnga(我)がngoを通じてwoになったのも、そのような例です(口の奥のほう→唇のところ)。

東アジアにこのような例が実際に存在することから、シナ・チベット語族のŋaという一人称代名詞が、日本語にaとして入るだけでなく、waとして入ることもあったと思われます。これで、一人称代名詞のwa(我、吾)が生まれます(日本語で語頭の濁音が許されるようになった時代であれば、ga(我、吾)も一つの選択肢になりますが、語頭の濁音が許されていない時代には、その選択肢はなかったのです)。

奈良時代の日本語の一人称代名詞であったa(我、吾)とwa(我、吾)は、シナ・チベット語族の言語から入った可能性が非常に高いです。そのシナ・チベット語族の言語というのは、古代中国語に近い言語だったかもしれないし、古代中国語そのものだったかもしれません。つまるところ、a(我、吾)とwa(我、吾)はおおもとは同じである異形です。

一人称代名詞が外来語なのかと驚かれるかもしれませんが、watasi(私)とboku(僕)のうちのboku(僕)のほうは明らかに中国語由来です。watasi(私)のほうはどうでしょうか(ore(俺)については、本記事の最後にある補説を参照してください)。

watakusi(私)の語源

現代の日本語のwatasi(私)のもとになったのは、奈良時代の日本語のwatakusiという語です。奈良時代の日本語のwatakusiは、前回の記事で述べたように、そもそも一人称代名詞ではなく、「公のこと」の反対として「個人的なこと」を意味する語でした。

その長さからしても、watakusiは複合語と考えられます。このwatakusiについては、いろいろと考えさせられましたが、watakusiのwaの部分は一人称代名詞のwa(我、吾)である可能性が高いと考えていました。wa(我、吾)は、上で説明したように、古代中国語に近い言語か、古代中国語そのものから入った可能性が非常に高いわけです。そうなると、watakusiのwaのうしろのtakusiの部分も中国語に関係があるかなと考えてみたくなります。

ああではないかこうではないかと考えていた筆者が次第に注目するようになったのは、古代中国語のtsak(作)ツァクとdrzi(事)という語でした。

古代中国語のtsak(作)に関しては、日本語の話者に説明しておかなければならないことがあります。

英語にdo(する)という語とmake(作る)という語があることは、皆さんもご存じでしょう。

英語のdoにあたるフランス語はfaireフェールです。そして、英語のmakeにあたるフランス語もfaireです。

英語のdoにあたるロシア語はdelat’ヂェーラチです。そして、英語のmakeにあたるロシア語もdelat’です。

ちょっと違和感があるかもしれませんが、「する」と「作る」のところで同じ言い方をする言語は世界にとても多いのです。

日本語でも、「揚げ物をする」と言ったり、「揚げ物を作る」と言ったりするので、全くわからないということもないかもしれません(写真はエブリー様のウェブサイトより引用)。

古代中国語のtsak(作)も、「する」と「作る」の意味を併せ持つ語でした。

日本語では「作」にsakuとsaという音読みが与えられ、「事」にziとsiという音読みが与えられましたが、これは日本語と中国語の長きにわたる広範な接触の一端を示しているにすぎません。

古代中国語といっても、時代と場所によって、様々なバリエーションがあります。中国語から日本語への語彙の流入は単純ではないのです。

古代中国語のtsak(作)は、sakuという形だけでなく、*takuという形や*tukuという形でも日本語に入ったかもしれません。専門職人がなにかを製造することを意味していたtakumu(巧む)は関係がありそうだし、tukuru(作る)も関係がありそうです(takumu(巧む)は設計すること・計画することも意味していたので、takuramu(企む)も同源と考えられます)。

古代中国語のtsak(作)が「作る」という意味だけでなく、「する」という意味も持っていたことを思い出してください。

奈良時代の日本語のwatakusiは、一人称代名詞のwa、「する」を意味する*taku、「こと」を意味する*siがくっついてできた語と推測されます。「我」+「作」+「事」という構造です。つまり、中国語のフレーズであるということです。「私のすること」という意味です。「する」を意味するsuruと「こと」を意味するkotoがくっついてsigotoができるのと同様に、「する」を意味する*takuと「こと」を意味する*siがくっついてtakusiができているわけです(現代の日本語に「作事」という語は残っていますが、「仕事、仕業、作業、工事、工業」などと違って、ほとんど使われることのない語として残っています)。

日本で本格的な文字記録が残っているのが「古事記」と「日本書紀」から、つまり奈良時代のはじめからなので、日本語と中国語の関係というと、奈良時代のはじめからの日本語と中国語の関係を考えがちです。

しかし、奈良時代の日本語に入っている中国語を見ると、日本語は奈良時代よりもかなり前から中国語と接触してきたと考えられます。日本人は、奈良時代のはじめよりもかなり前から中国の文明・文化を取り入れ、中国語も取り入れてきたのです。当然、自分たちは持っていないが中国人は持っている「文字」というものにも大きな関心を抱いたはずです。

考古学に詳しい方は、漢字が刻まれた埼玉県出土の稲荷山鉄剣や熊本県出土の江田船山鉄刀をご存じだと思います。これらは、日本人が奈良時代よりもかなり前から「文字」を書き記していたことを明確に示しています。

ここで不思議なのは、もっと露骨に言うと怪しいのは、日本人は奈良時代のはじめよりもかなり前から「文字」というものに関心を抱き、「文字」を書き記していたにもかかわらず、日本での文字記録が、稲荷山鉄剣や江田船山鉄刀のような土の中に埋まっているごく断片的な遺物を除いて、奈良時代のはじめからしか残っていないということです。

そしてその「古事記」と「日本書紀」には、天から降りてきた神の子孫が天皇になったという話が示されているのです。

いよいよ、予告しておいた日本の古代史の話に入ります(予告は特集!激動の日本の古代史、邪馬台国論争を含めての予告編をご覧ください)。

 

補説

ore(俺)の語源

現代の日本語には、watasi(私)とboku(僕)のほかに、ore(俺)という一人称代名詞があります。ore(俺)は、onore(己)が変化したものであるという従来の説が妥当でしょう。奈良時代の日本語を見ると、onore(己)は、「自分」を意味する語として機能したり、一人称代名詞として機能したり、二人称代名詞として機能したりしていました。

奈良時代の日本語には、このようなonore(己)と同じような振る舞いを見せていたna(己)という語がありました。na(己)も、「自分」を意味する語として機能したり、一人称代名詞として機能したり、二人称代名詞として機能したりしていたのです。

なんで一人称代名詞と二人称代名詞が必要なのか考えてみてください。会話は基本的に二人で行うもので、二人のうちの一方を指しているのか、他方を指しているのか知らせたいからです。日本語で「こっちは元気です。そっちはどうですか。」などと言ったりしますが、このようなところに人称代名詞の本質があるのです。本ブログの読者は、筆者がいつもしている「川と両岸」の話だなと察しがつくでしょう。そうです、「川と両岸」の話なのです。

水を意味していた語がその横の部分を意味するようになるというおなじみのパターンです。上の図には、naと記しましたが、この部分はnamであったり、namV(Vはなんらかの母音)であったりもします。おおもとにあるのは、タイ系言語のタイ語naam(水)のような語です。

「自分」を意味する語として機能したり、一人称代名詞として機能したり、二人称代名詞として機能したりしていた奈良時代の日本語のna(己)の語源は、まさにここにあります。奈良時代の日本語の二人称代名詞であったna(汝)、namu(汝)、namuti(汝)の語源も、ここにあります。namuti(汝)に含まれているtiは、kotti(こっち)やsotti(そっち)に残っているtiと同じもので、方向を意味するtiでしょう。namuti(汝)はのちにnanzi(汝)になりました。

日本語のna(己)、na(汝)、namu(汝)、namuti(汝)について述べましたが、朝鮮語の超頻出語であるna(私、僕、俺、自分)の語源も、上の図にあると見られます。

朝鮮語のnam(他人、よその人)などについて説明した「人(ひと)」の語源、その複雑なプロセスが明らかに(改訂版)の記事を参照していただくと、理解が非常に深まります。日本語のhito(人)の語源も記されています。