日本語の起源と歴史に興味を持つすべての方へ

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こんにちは。金平譲司と申します。ここに「日本語の意外な歴史」と題するブログを立ち上げました。

このブログは、日本語ならびに日本語と深い関係を持つ言語の歴史を解明するものです。言語学者だけでなく、他の分野の専門家や一般の方々も読者として想定しています。

謎に包まれてきた日本語の起源

日本語はどこから来たのかという問題は、ずいぶん前から様々な学者によって論じられてきましたが、決定的な根拠が見つからず、大いなる謎になってしまった感があります。しかしながら、筆者の研究によってようやくその全貌が明らかになってきたので、皆さんにお話ししようと思い立ちました。

日本語は、朝鮮語、ツングース諸語(エヴェンキ語、満州語など)、モンゴル諸語(モンゴル語、ブリヤート語など)、テュルク諸語(トルコ語、中央アジアの言語など)と近い関係にあるのではないか、あるいはオーストロネシア語族(台湾、フィリピン、インドネシア、マレーシア、オセアニアなどの言語から成る言語群)と近い関係にあるのではないかというのが従来の大方の予想でしたが、これらの予想はポイントを外しています。

中国語を見て全く違うと感じた日本人が、日本語は北方の言語と関係があるのではないか、南方の言語と関係があるのではないかと考えたのは、至極当然のことで、北方の言語と南方の言語に視線を注ぐこと自体は間違っていません。問題なのは、北方のごく一部の言語と南方のごく一部の言語に関心が偏ってしまったことです。

上記の言語のうちで、朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語は、日本語によく似た文法構造を持つことから、日本語に近縁な言語ではないかと盛んに注目されてきました。同時に、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語は、互いに特に近い関係にあるとみなされ、いわゆる「アルタイ語族」という名でひとまとめにされることがしばしばありました。日本語の起源をめぐる議論は、このような潮流に飲まれていきました。

しかしながら、筆者がこれから明らかにしていく歴史の真相は、かなり違います。日本語は、朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語と無関係ではないが、別の言語群ともっと近い関係を持っているようなのです。

実を言うと、筆者は日本語やその他の言語の歴史に興味を持つ人間ではありませんでした。筆者は若い頃にフィンランドのヘルシンキ大学で一般言語学や様々な欧州言語を学んでいましたが、その頃の筆者の興味は言語と思考の関係や外国語の学習理論などで、もっぱら現代の言語に関心が向いていました。歴史言語学の講義もありましたが、特に気に留めていませんでした。

筆者が言語の歴史について真剣に考えるようになったきっかけは、ロシアの北極地方で少数民族によって話されているサモエード諸語との出会いでした。サモエード諸語は、フィンランド語やハンガリー語と類縁関係にある言語です。フィンランド語とハンガリー語はヨーロッパの中では異色の存在で、北極地方の少数民族の言語と類縁関係を持っています。フィンランド語、ハンガリー語、サモエード諸語などから成る言語群は、「ウラル語族」と呼ばれます。

言語学者が使う「語族」という用語について若干説明しておきます。私たちが万葉集や源氏物語の言葉を見ると、「読みにくいな」と感じたり、「なにを言っているのかわからないな」と感じたりします。言語は時代とともに少しずつ変化しています。言語は単に変化するだけでなく、分化もします。ある程度広い範囲で話されている言語には、地域差が生じてきます。

この地域ごとに少しずつ異なる言葉が方言です。しかし、これらの方言が地理的に隔たってさらに長い年数が経過すると、最初は小さかった方言同士の差が大きくなっていき、やがて意思疎通ができないほどになります。

あまりに違いが大きくなれば、もう方言ではなく、別々の言語と言ったほうがふさわしくなります。一律の学校教育やマスメディアが発達していない時代には、この傾向は顕著です。ある言語が別々の言語に分化するのです。分化してできた言語がさらに分化することもあります。言語学では、おおもとの言語と分化してできた諸言語をまとめて「語族」といいます。世界で最もよく知られている語族は、インド・ヨーロッパ語族と呼ばれる語族で、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語などはこの語族に属します。例えるなら、イヌ、オオカミ、キツネ、タヌキが共通祖先を持っているように、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語は共通祖先を持っているということです。

日本語とウラル語族

英語などが属するインド・ヨーロッパ語族は巨大な言語群ですが、フィンランド語やハンガリー語が属するウラル語族はこじんまりとした言語群です。ウラル語族の言語は、ロシアの北極地方から北欧・東欧にかけて分布しています。地理的に遠く離れているので、ウラル語族の言語は一見したところ東アジアの言語、特に日本語とはなんの関係もないように見えますが、実はここに大きな盲点があります。日本語の歴史を考えるうえで大変重要になるので、ウラル語族の話を続けます。以下にウラル語族の内部構造を簡単に示します。

ウラル語族の言語を研究する学者の間に意見の相違がないわけではありませんが、上の図は従来広く受け入れられてきた見方です。ウラル語族の言語は、まずフィン・ウゴル系とサモエード系に分かれ、フィン・ウゴル系はそこからさらにフィン系とウゴル系に分かれます。フィンランド語はフィン系に属し、ハンガリー語はウゴル系に属します。サモエード系の言語は、ロシアの北極地方に住む少数民族によって話されています。現在残っているサモエード系の言語はネネツ語、エネツ語、ガナサン語、セリクプ語の四つのみで、特に後の三つは消滅の危機にあります。

サモエード系の言語は、フィンランド語やハンガリー語と同じウラル語族の言語ですが、フィンランド語やハンガリー語とは文法面でも語彙面でも著しく異なっています。同じ言語から分かれた言語同士でも、別々の道を歩み始め、何千年も経過すれば、似ても似つかない言語になってしまいます。特に、サモエード系の言語が辿った運命とフィンランド語・ハンガリー語が辿った運命は対照的です。サモエード系の言語は、北極地方にとどまり、他の言語との接触が比較的少なかったために、昔の姿をよく残しています。それに対して、フィンランド語とハンガリー語は、有力な言語がひしめくヨーロッパに入り込み、大きく姿を変えました。サモエード系の言語は、いわば「生きた化石」です。人類の歴史を解明するうえで、大変重要な言語です。サモエード系の言語との出会いは、筆者にとってショッキングな出来事でした。これ以降、筆者は言語の歴史について本格的に研究し始めることになります。

筆者が初めてサモエード系の言語を見た時には、「文法面ではモンゴル語やツングース諸語に似ているな」という第一印象を受けました。しかし、よく調べると、「あれっ、語彙面では日本語に似ているな」という第二印象を受けました。少なくとも言語の根幹をなす基礎語彙に関しては、モンゴル語やツングース諸語より、ウラル語族のサモエード系の言語のほうが日本語に近いと思いました。なんとも不思議な感じがしました。なんで日本の近くで話されているモンゴル語やツングース諸語より、北極地方で話されているウラル語族のサモエード系の言語のほうが日本語に近いんだろうと考え始めました。様々な言語を見てきましたが、サモエード系の言語には今までにない特別なものを感じました。なにか重大な秘密が隠されている予感がしました。

フィンランド語とハンガリー語だけを見ていた時は気づかなかったのですが、サモエード系の言語を介しながらフィンランド語とハンガリー語を見てみると、やはりフィンランド語とハンガリー語にも日本語との共通語彙があります。日本語の中にある、ウラル語族と共通している語彙、そしてウラル語族と共通していない語彙を見分けていくうちに、二つの疑問が頭に浮かんできました。一つ目の疑問は、日本語の祖先とウラル語族の言語の祖先の接点は地理的にどの辺にあったのだろうという疑問です。二つ目の疑問は、日本語の中にある、ウラル語族と共通していない語彙はどこから来たのだろうという疑問です。日本語の中には、ウラル語族と共通している語彙も多いですが、共通していない語彙も多いのです。

東アジアには黄河文明とは違う文明が存在した

ウラル語族の各言語の語彙を研究するうちに、ウラル語族が日本語だけでなく、モンゴル語、ツングース諸語、朝鮮語、さらには中国語にもなんらかの形で関係していることが明らかになってきたので、ウラル語族の言語と東アジア・東南アジアの言語の大々的な比較研究を開始しました。着実かつ合理的に歴史を解明するため、考古学および生物学の最新の研究成果を適宜参照しました。考古学も生物学も近年めざましい発展を遂げており、数々の重要な発見がありました。

かつては、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、そして東アジアの黄河文明が並べられ、世界四大文明と呼ばれていました。ところが、その後の発見によって、東アジアには黄河文明のほかに二つの大きな文明が存在したことがわかってきました(このテーマを包括的に扱った書籍はいくつかありますが、考察の広さ・深さの点でShelach-Lavi 2015が優れています)。

その二つの大きな文明とは、長江文明と遼河文明(りょうがぶんめい)です。日本列島で縄文時代が進行する間に、大陸側はこのようになっていたのです。黄河文明と長江文明に比べて、遼河文明は知名度が高くないかもしれません。しかし、遼河文明は、日本語の歴史を解明するうえで重要な鍵を握っているようなのです。

生物学が発達し、人間のDNA配列が調べられるようになりました。DNA配列は、正確には「DNAの塩基配列」といい、アデニンA、チミンT、グアニンG、シトシンCという四種類の物質が作る列のことです。最近では、生きている人間のDNA配列だけでなく、はるか昔に生きていた人間のDNA配列も調べられるようになってきました。大変興味深いことに、遼河文明が栄えていた頃に遼河流域で暮らしていた人々のDNA配列を調べた研究があります(Cui 2013)。

人間は父親と母親の間に生まれるので、子のDNA配列が父親のDNA配列と100パーセント一致することはなく、子のDNA配列が母親のDNA配列と100パーセント一致することもありません。しかし、父親から息子に代々不変的に受け継がれていく部分(Y染色体DNA)と、母親から娘に代々不変的に受け継がれていく部分(ミトコンドリアDNA)があります。代々不変的に受け継がれていく部分と書きましたが、この部分にも時に突然変異が起きます。つまり、その部分のDNA配列のある箇所が変化するのです。変化していないY染色体DNA配列を持つ男性がそれを息子に伝える一方で、変化したY染色体DNA配列を持つ男性がそれを息子に伝えるということが起き始めます。同様に、変化していないミトコンドリアDNA配列を持つ女性がそれを娘に伝える一方で、変化したミトコンドリアDNA配列を持つ女性がそれを娘に伝えるということが起き始めます。こうして、時々起きる突然変異のために、Y染色体DNAのバリエーション、ミトコンドリアDNAのバリエーションができてきます。人類の歴史を研究する学者は、このY染色体DNAのバリエーション、ミトコンドリアDNAのバリエーションに注目するのです。

先ほど述べた遼河流域の人々のDNA研究は、Y染色体DNAのバリエーション(例えば、C系統か、D系統か、N系統か、O系統か)を調べたものです。その結果はどうだったでしょうか。古代の人々の研究なのでサンプル数は限られていますが、それでも大まかな傾向は十分に捉えられています。遼河文明が栄えていた頃の遼河流域では、当初はN系統が圧倒的に優勢だったが、次第にO系統とC系統が増え(つまり他の地域から人々が流入してきたということ)、N系統はめっきり少なくなってしまったようです。現在の日本、朝鮮半島、中国では、N系統はほんの少し見られる程度です(Shi 2013)。対照的に、ウラル語族の言語が話されているロシアの北極地方からフィンランド方面にかけてN系統が非常に高い率で観察されています(Rootsi 2007)。

見え始めた日本語の正体

筆者もウラル語族の言語が東アジアの言語と深い関係を持っていることを知った時には大いに驚きましたが、考古学・生物学の発見と照らし合わせると、完全に合致します。日本語がウラル語族の言語と深い関係を持っていることは非常に興味深いですが、もう一つ興味深いことがあります。日本語の中には、ウラル語族と共通している語彙も多いですが、共通していない語彙も多く、ウラル語族とは全く異なる有力な言語群も日本語の形成に大きく関与したようなのです。

ウラル語族の言語と東アジア・東南アジアの言語の大々的な比較研究を行い、様々な紆余曲折はありましたが、漢語流入前の日本語(いわゆる大和言葉)の語彙構成が以下のようになっていることがわかってきました。

「ウラル語族との共通語彙」も多いですが、「黄河文明の言語との共通語彙」と「長江文明の言語との共通語彙」も多く、この三者で漢語流入前の日本語の語彙の大部分を占めています。

「その他の語彙1」というのは、日本語が大陸にいた時に取り入れた語彙で、「ウラル語族との共通語彙」にも、「黄河文明の言語との共通語彙」にも、「長江文明の言語との共通語彙」にも該当しないものです。

「その他の語彙2」というのは、日本語が縄文時代に日本列島で話されていた言語から取り入れた語彙です。

漢語流入前の日本語の語彙構成の特徴的なところは、なんといっても、語彙の大きな源泉が三つあることです。三つの有力な言語勢力が交わっていたことを窺わせます(遼河文明と黄河文明と長江文明の位置を思い出してください)。

「日本語の意外な歴史」では、ウラル語族との共通語彙、黄河文明の言語との共通語彙、長江文明の言語との共通語彙、その他の語彙1、その他の語彙2、いずれも詳しく扱っていきます。

では、日本語およびその他の言語の歴史を研究するための準備に取りかかりましょう。

 

外国語の単語の表記について

英語と同じようなアルファベットを使用している言語では、それをそのまま記します。言語学者が諸言語の発音を記述するのに使う国際音声記号(IPA)というのがありますが、音韻論の専門家でない限り、多くが見慣れない記号です。そのため、本ブログではIPAの使用はできるだけ控えます。特に朝鮮語は、IPAを用いて記すと複雑になるため、市販されている初心者向けの韓国語の文法書で採用されている書き方にならいました。一般の読者にとって見慣れない記号を用いる場合には、補助としてのカタカナ表記を付け加えます。慣習を考慮し、ヤ行の子音は基本的に、北方の言語(ウラル語族の言語など)では「j」で表し、南方の言語(中国語、東南アジアの言語)では「y」で表します。古代中国語のアルファベット表記の仕方は、Baxter 2014に従います。

 

参考文献

Baxter W. H. et al. 2014. Old Chinese: A New Reconstruction. Oxford University Press.

Cui Y. et al. 2013. Y chromosome analysis of prehistoric human populations in the West Liao River Valley, Northeast China. BMC Evolutionary Biology 13: 216.

Rootsi S. et al. 2007. A counter-clockwise northern route of the Y-chromosome haplogroup N from Southeast Asia towards Europe. European Journal of Human Genetics 15: 204-211.

Shelach-Lavi G. 2015. The Archaeology of Early China: From Prehistory to the Han Dynasty. Cambridge University Press.

Shi H. et al. 2013. Genetic evidence of an East Asian origin and paleolithic northward migration of Y-chromosome haplogroup N. PLoS One 8(6): e66102.


►言語の歴史を研究するための準備へ

卑弥呼(ひみこ)と卑弥弓呼(ひみくこ)、なぜこんなに名前が似ているのか、両者の関係とは

魏志倭人伝には、以下の記述があります(藤堂2010)。

其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯・烏越等詣郡、說相攻撃狀。遣塞曹掾史張政等因齎詔書・黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。

其の八年、太守王頎、官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯・烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因りて詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為りて之に告喩せしむ。

「其八年」というのは、中国の「正始八年」、すなわち「西暦247年」のことです。倭王の卑弥呼(ひみこ)が狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)と対立し、戦いが起きていることを伝えています。「素不和(素(もと)より和せず)」という表現は、注意を引きます。卑弥呼にとって、卑弥弓呼は、新しく現れた敵対者ではなく、昔から知っている敵対者だったということです。

前回の記事では、昔の日本語に統治者・支配者を意味するɸikoという語があったようだと述べました。この統治者・支配者を意味するɸikoが、目上の男に対して使われる敬称になったり、目上の男を意味するようになったり、一般に男を意味するようになったり、男の名前に組み込まれたりしたわけです。

上記の支配者・統治者を意味するɸikoはもちろんですが、ɸimiko(卑弥呼)とɸimikuko(卑弥弓呼)という名も注目に値します。ɸimiko(卑弥呼)とɸimikuko(卑弥弓呼)という名がよく似ていることから、これらは人名というより、地位に付けられた名であろうと述べました。

ɸiko、ɸimiko、ɸimikukoのほかに、もう一つ注目したい言葉があります。それは、卑弥呼よりも後の時代の日本で、天皇などに対して用いられたɸinomiko(日の御子)という言葉です。ɸiko、ɸimiko、ɸimikuko、ɸinomikoと並べてみると、統治者・支配者を意味していたɸikoという語は、ɸi(日)とko(子)がくっついた語だったのだろうと推測できます。

この推測には、無理がありません。古代中国にthen(天)テンとtsi(子)ツィをくっつけたthen tsi(天子)テンツィという語があり、これが統治者・支配者を意味していましたが、それと同様の発想です。

卑弥呼が即位する場面を思い出してください(日本の誕生のからくり、まさかこのようにして生まれた国だったとは・・・などを参照)。九州連合と本州・四国連合の間で行われた倭国大乱が終わり、各国の王たちが卑弥呼を共立する場面です。

当時の日本列島にはいくつもの国があり、それぞれの国に統治者・支配者がいました。それらの統治者・支配者が連合を作り、この連合の最高位に一人の少女を据えました。この地位は、従来の統治者・支配者の地位とは違います。この地位は、従来の統治者・支配者の地位の上に作られた別格の地位です。だから、従来のɸiko(日子)という言葉は使わず、特別なɸimiko(日御子)という名が付けられたと見られます。mi(御)は尊敬・畏敬の念を表す接頭語です(例えば、kokoro(心)からmikokoro(御心)が作られます)。太陽を意味するɸi(日)と尊敬・畏敬の念を表すmi(御)と子どもを意味するko(子)から作られたのがɸimiko(日御子)ですから、共立された一人の少女をこのように呼ぶことに問題はありません。

ɸiko(日子)、ɸimiko(日御子、卑弥呼)、ɸinomiko(日の御子)は理解しやすいですが、難解なのがɸimikuko(卑弥弓呼)です。ɸimikuko(卑弥弓呼)のɸiはɸi(日)、miはmi(御)、koはko(子)と予想されますが、ɸimikuko(卑弥弓呼)のkuはなんでしょうか。

ɸimikuko(卑弥弓呼)とは何者なのか、その位置づけを考えてみましょう。ɸimikuko(卑弥弓呼)というより、ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力の位置づけと言ったほうがよいかもしれません。以下は、倭国大乱の構図です。

倭国大乱を戦った九州連合と本州・四国連合、そしてどちらの連合にも属さない外部に分けてあります(「九州連合」と呼んでいますが、九州のすべての勢力が参加していたわけではありません。同様に、「本州・四国連合」と呼んでいますが、本州・四国のすべての勢力が参加していたわけではありません)。ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力は、どこにいた勢力でしょうか。

まず考えにくいのが、九州連合です。九州連合は倭国大乱で敗れ、地方官(一大率など)を置かれて恐れているあるいは従順になっている様子が魏志倭人伝から窺えます(ところで、邪馬台国九州説はどうなってしまったのかを参照)。近畿にいた卑弥呼たちと戦う勢力は、近畿か近畿からそれほど離れていないところにいた可能性が高いです。

ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力は、「外部」出身か、「本州・四国連合」出身かということになります。ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力が「外部」出身だったとしたら、本州・四国連合は九州連合を下した後に、別の敵を抱えたのかもしれません。ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力が「本州・四国連合」出身だったとしたら、本州・四国連合は九州連合を下した後に、内部で分裂したのかもしれません。

筆者は、ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力は、「本州・四国連合」出身である可能性が高いと考えています。

昔の日本語に統治者・支配者を意味するɸiko(日子)という語があって、これを変形したと考えられるのがɸimiko(日御子、卑弥呼)です。ɸimikoという名は、倭国大乱が終わって一人の少女が共立される時に生まれたものでしょう。ɸimikoという名をさらに変形したと思われるのが、ɸimikukoです。

ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力が「本州・四国連合」出身だったとしたら、本州・四国連合は九州連合を下した後に、内部で分裂したのかもしれないと述べました。この可能性は高いです。卑弥呼が即位する場面を思い出してください。九州連合を倒した本州・四国連合の王たちは、だれを連合の最高位にするかもめ、象徴として一人の少女を最高位に据えました。当然のことながら、象徴として一人の少女を最高位に据えるというやり方に賛成しない王たちもいたにちがいありません。

筆者は、ɸimikoからɸimikukoを作る時に加えられたkuは、「男」を意味する語だったのではないかと考えています。ɸi(日)、mi(御)、ko(子)から成るのがɸimikoで、ɸi(日)、mi(御)、*ku(男)、ko(子)から成るのがɸimikukoです。ɸimikukoという名は、一人の少女を最高位に据えることに反対する立場から生まれたものだということです。「なんでこんな女が最高位なんだ」という姿勢がむき出しになっているようにも見えます。ɸimikuko(卑弥弓呼)が属する勢力は、倭国大乱の時には本州・四国連合に参加していたが、卑弥呼の共立には賛成せず、離反したのでしょう(あるいは、最初は卑弥呼の共立に賛成して、途中で離反した可能性も考えられなくはないかもしれません)。

問題は、「男」を意味する*kuという語があったかどうかです。これは確実といってよいです。古代中国語のkjun(君)キウンが日本語に入り、「男」を意味していたことは、すでに挙げた以下の語彙から明らかです。

wotoko「若い盛りの男性」とwotome「若い盛りの女性」
okina「年をとった男性」とomina「年をとった女性」
woguna「男の子」とwomina「女の子」
izanaki「男の神であるイザナキ」とizanami「女の神であるイザナミ」

昔の日本語では、kiunとは言えず、kinともkunとも言えないので、ki、ku、kina、kunaのようになるしかないわけです。

冒頭の魏志倭人伝の一節は、卑弥呼側と卑弥弓呼側が戦っており、卑弥呼の使いがそのことを中国に知らせ、中国の使いが詔書と軍旗を持ってきたところです。戦いの結末がどうなったかは書かれず、次に以下の文がいきなり出てきます(藤堂2010)。

卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩。狥葬者奴婢百餘人。

卑弥呼以に死し、大いに冢を作る、径百余歩なり。狥葬する者奴婢百余人なり。

卑弥呼の後を継いだ台与がまた中国に使いを送るので、卑弥呼側の勢力が卑弥弓呼側の勢力に敗れたという展開はまず考えられません。箸墓古墳や西殿塚古墳のような巨大前方後円墳が作られ始めることから考えても、最終的に卑弥弓呼側が卑弥呼側に取り込まれたと見られます。

倭国大乱で本州・四国連合に参加した勢力は皆、中国の文明・文化を取り入れることを望んでいたはずです。それができなくなってしまっては、元も子もありません。卑弥呼の共立に賛成せず、対立していた勢力も、最終的に妥協せざるをえなかったと見られます。

※魏志倭人伝が、北九州から南に行ったところに邪馬台国があると記していることは、すでにお話しした通りです(ところで、邪馬台国九州説はどうなってしまったのかを参照)。この南という方向が当時の中国人の先入観に基づいていることも、すでにお話しした通りです(同記事を参照)。しかし、その魏志倭人伝が、卑弥呼の統治が及ぶ領域より南に狗奴国があったと記していることは、注目してよいと思われます。北九州から長旅をして邪馬台国に辿り着き、さらにその奥に狗奴国があったということは言えそうだからです。白石太一郎氏や福永信哉氏などの考古学者は、考古学データに基づいて、卑弥呼たちに戦いを仕掛けるほどの狗奴国は三重県、愛知県、岐阜県のあたりにあったのではないかと推定しています(白石1991、福永1998)。狗奴国が大和より東で、大和からそれほど遠くないところにあった可能性は高いと思われます。

 

参考文献

白石太一郎、「邪馬台国時代の近畿・東海・関東」、国立歴史民俗博物館編『歴博フォーラム 邪馬台国時代の東日本』、六興出版、1991年。

藤堂明保ほか、「倭国伝 中国正史に描かれた日本 全訳注」、講談社、2010年。

福永伸哉、「銅鐸から銅鏡へ」、都出比呂志編『古代国家はこうして生まれた』、角川書店、1998年。

「お主も悪よのう」と「そちも悪よのう」

※卑弥呼(ひみこ)と卑弥弓呼(ひみくこ)の話をするための準備をします。

時代劇に出てくる悪代官と悪徳商人の会話で、「お主も悪よのう」あるいは「そちも悪よのう」というセリフを聞いたことがあるでしょう。

このonusi(お主)とsoti(そち)は二人称代名詞として働いていますが、それぞれタイプが異なります。

以前にお話ししたように、なぜ一人称代名詞と二人称代名詞が必要になるかというと、会話は基本的に二人で行うもので、二人のうちの一方を指しているのか、他方を指しているのか知らせたいからです。日本語で「こっちは元気です。そっちはどうですか。」などと言ったりしますが、このようなところに人称代名詞の本質があるのです。

上のsoti(そち)は、sotti(そっち)の古形です。soti(そち)はもともと、人を意味する語ではなく、一方と他方のうちの他方を意味していた語で、それが二人称代名詞の働きもこなすようになっただけです。人類の言語の歴史を考えると、soti(そち)は典型的な二人称代名詞といえます。

現代の日本語で使われているanata(あなた)もそうです。kotti(こっち)、sotti(そっち)、atti(あっち)が場所・方角を意味しているのと同様に、konata(こなた)、sonata(そなた)、anata(あなた)も場所・方角を意味していました。いずれも、人称代名詞として使われることがありました。現代では、konata(こなた)とsonata(そなた)は廃れ、anata(あなた)だけが残っています。

※konata(こなた)、sonata(そなた)、anata(あなた)に含まれているna(な)は、no(の)と並んで同じ働きをしていた助詞です。ta(は)、方・方角・方向を意味していた語です。hinata(ひなた)も、太陽を意味するhi(日)と、助詞のna(な)と、方・方角・方向を意味するta(た)がくっついています。方・方角・方向を意味するta(た)という語があったということが重要です。日本語でよくあった変化ですが、ta(た)がte(て)になることもありました。yuku(行く)と方・方角・方向を意味していたte(て)がくっついたのが、yukute(行く手)です(漢字に惑わされてはいけません)。

「人(ひと)」の語源、その複雑なプロセスが明らかにの記事などで説明したように、方・方角・方向を意味していた語は、人間を意味するようになりやすいです。「あの方」のkata(方)も方向を意味していたし、「あの人」のhito(人)も方向を意味していました。方向を意味するta(た)/te(て)が人間を意味することもありました。だから、「話し手」、「聞き手」、「雇い手」、「働き手」のような語が残っているのです(やはり漢字に惑わされてはいけません。「手」の話ではありません)。

soti(そち)は場所・方角を意味していた語ですが、onusi(お主)は全然違う語です。nusi(主)にo(お)がくっつきましたが、nusi(主)はなにを意味していたのでしょうか。nusi(主)は統治者・支配者を意味していた語です。くだけた言い方をすれば、「偉い人」を意味していた語です。なぜ統治者・支配者を意味していた語が、二人称代名詞になるのでしょうか。

それは、統治者・支配者を意味していた語が、特に目上の男と対面した時の敬称として用いられるようになるからです。目上の男と対面する時には、その男がどこかの地方の統治者・支配者でなくても、皆が統治者・支配者を意味する語を使うのです。ここから、統治者・支配者を意味していた語は、いくつかの異なる道を歩み始めます。

そのうちの一つが、以下の道です。

(1)「統治者・支配者」→「目上の男に対して使われる敬意ある二人称代名詞」→「二人称代名詞」

統治者・支配者を意味していた語が、目上の男に対して使われる敬意ある二人称代名詞として使われるようになります。しかし、頻繁に使われているうちに、敬意がどんどん薄れていき、最終的にただの二人称代名詞になり果てます。onusi(お主)がまさにこれです。途中でo(お)を付けましたが、もうこの流れは止まりませんでした。kimi(君)もそうです。統治者・支配者を意味していましたが、最終的にただの二人称代名詞になり果てました。

(1)の道とちょっと違うのが、(2)の道です。

(2)「統治者・支配者」→「目上の男に対して使われる敬意ある二人称代名詞」→「目上の男」

統治者・支配者を意味していた語が、目上の男に対して使われる敬意ある二人称代名詞として使われるようになります。そしてここから、一般に目上の男を意味するようになります。目上の男というのは、祖父、父、おじなどです。

かなり前に「父」の正体の記事でお話ししましたが、古代中国語のtsyu(主)チウが日本語にtiとして入り、このtiが目上の男を意味していました。oɸo(大)がtiにくっついて、oɸodi(おほぢ)になります。tiが重ねられて、titi(父)になります。wo(小)がtiにくっついて、wodi(をぢ)になります。現代の日本語の「おじいさん、父、おじさん」は、古代日本語のtiから来ている、もっとさかのぼれば、古代中国語のtsyu(主)から来ているわけです。

(2)はさらに展開して、(3)になります。

(3)「統治者・支配者」→「目上の男に対して使われる敬意ある二人称代名詞」→「目上の男」→「男」

「目上の男」を意味していた語が、一般に「男」を意味するようになるのです。

(3)で「男」を意味する語が生まれるわけですが、この「男」を意味する語が男の人名に組み込まれることがよくあります。

(4)「統治者・支配者」→「目上の男に対して使われる敬意ある二人称代名詞」→「目上の男」→「男」→男の人名に組み込まれる

古事記と日本書紀には、名前にɸiko(彦)が入っている男たちが大勢出てきます。このɸiko(彦)は、かつて「男」を意味し、さらにその前には「統治者・支配者」を意味していたと考えられるものです。つまり、非常に古い日本語に、統治者・支配者を意味するɸikoという語があったということです。

魏志倭人伝は、古代日本の邪馬台国にɸimiko(卑弥呼)という女王がいて、狗奴国のɸimikuko(卑弥弓呼)という男王と対立していたと伝えています。ɸimiko(卑弥呼)とɸimikuko(卑弥弓呼)という名は、だれが見ても明らかに似ています。ここから容易に推測できるのは、ɸimiko(卑弥呼)とɸimikuko(卑弥弓呼)は、人名というより、地位に付けられた名であろうということです。

ɸimiko(卑弥呼)とɸimikuko(卑弥弓呼)の考察に入りましょう。

 

補説

kimi(君)はどこから来たのか

奈良時代には、統治者・支配者を意味する語として、kimi(君)という語が非常に広く使われていました。

しかし、卑弥呼の時代の日本を記述した魏志倭人伝には、kimi(君)という語は出てきません。当時の日本列島に存在したいくつもの国のことが記されていますが、kimi(君)という地位名は見当たりません。

統治者・支配者を意味するkimi(君)は、どこから来たのでしょうか。

卑弥呼の時代の日本に見られないので、外来語である可能性、とりわけ中国語からの外来語である可能性を考えなければなりません。

「男」と「女」の語源の記事で、以下の例を挙げました。

wotoko「若い盛りの男性」とwotome「若い盛りの女性」
okina「年をとった男性」とomina「年をとった女性」
woguna「男の子」とwomina「女の子」
izanaki「男の神であるイザナキ」とizanami「女の神であるイザナミ」

下の三組は特に形が似ており、男であることを示しているkina、guna、kiの部分は古代中国語のkjun(君)キウンから来たのではないかと述べました。

昔の日本語では、kiunとは言えないし、kinともkunとも言えません。したがって、ki、ku、kina、kunaのようになることが予想されるわけです。

古代中国語のkjun(君)が日本語のkimi(君)になった可能性はあるでしょうか。世界の言語を見渡すと、kim→kinのように末尾のmがnに変化することはよくありますが、kin→kimのように末尾のnがmに変化することはあまりありません。

しかし、そのあまり起きないことが起きたのではないかと思わせる節があります。

日本語のkami(紙)の語源を考えましょう。そもそも日本人は文字を書いていなかったわけですから、kami(紙)は中国語からの外来語である可能性が高いです。日本語のkami(紙)は、古代中国語のtsye(紙)チエには全然似ていませんが、古代中国語のkɛn(簡)ケンにはある程度似ています(ɛは口の開きが大きい「エ」です)。

日本語では「簡」という字を単独で見ることはないので、古代中国語のkɛn(簡)とはなんだろうと考えてしまう方もいるでしょう。古代中国語のkɛn(簡)は、文字を書き記す竹の札のことです(画像はY-History教材工房様のウェブサイトより引用)。

このように、紙に書く前は、竹の札に書いていました。

古代中国語のkɛn(簡)(日本語での音読みはken、kan)が日本語のkami(紙)になった可能性はあるかという問題ですが、これは、古代中国語のmjun(文)ミウン(日本語での音読みはmon、bun)が日本語のɸumi(文)になった可能性はあるかという問題と同じです。古代中国語といっても、時代・地域によるバリエーションがあることに注意してください。

日本語は中国語から文字(漢字)を取り入れたのであり、日本語のkami(紙)とɸumi(文)が中国語から来た可能性は極めて高いです。おそらく、古代中国語の末尾のnがmに変化して、mのうしろにiが補われたと思われます。

kami(紙)とɸumi(文)も、そして先ほどのkimi(君)も、このパターンでしょう。しかし、中国語から日本語にこのパターンで入った語は極めて少ないです。ひょっとしたら、中国語から別の言語を経て日本語に入るという、特殊な入り方をしたのかもしれません。「古代中国語(末尾はn)」→「朝鮮半島に存在した、日本語とは別の言語(末尾はm)」→「日本語(末尾はmi)」、あるいは「古代中国語(末尾はn)」→「日本列島に存在した、日本語とは別の言語(末尾はm)」→「日本語(末尾はmi)」という経路が考えられます。日本人は子音で終わる語に全く不慣れなので、中国人がkinと発音してもkimと発音してもよく区別できないという場面も時にあったと思われますが、それが原因でkami(紙)、ɸumi(文)、kimi(君)になったのなら、これらと同じパターンが中国語と日本語の間にもっと多く見られてもよいのではないかという気がします。ただ、中国語からの外来語といっても、それぞれ取り入れられた時代・場所が異なるので、このような可能性も完全には否定できません。

卑弥呼の時代の日本に見られず、のちの日本に非常に広く見られるkimi(君)、文字(漢字)と密接な関係にあるkami(紙)とɸumi(文)、やはり中国の文明・文化以外に源を考えるのは困難でしょう。しかし、その伝わり方は単純ではないようです。ちなみに、ɸumi(文)とita(板)がくっついたɸumitaが変化したのが、ɸuda(札)です。そして、ɸumi(文)とte(手)がくっついたɸumiteが変化したのが、ɸude(筆)です。

ところで、邪馬台国九州説はどうなってしまったのか<更新版>

卑弥呼が身を置いていた邪馬台国が近畿(大和)にあった可能性が高くなってきたという話をしました。大和の話を続けたいところですが、かつてあれほど騒がれた邪馬台国九州説はどうなってしまったのかと考えている方も少なくないと思います。邪馬台国論争において邪馬台国九州説の存在が大きかったのは事実なので、邪馬台国九州説にも言及しておきましょう。

邪馬台国論争、特に邪馬台国は九州にあったのか近畿にあったのかという論争は、中国の歴史書(魏志倭人伝)から生じてきたものです。そもそも古事記と日本書紀には卑弥呼と邪馬台国のことが書かれていないわけですから、この論争の始まりが中国の歴史書(魏志倭人伝)にあるのは当然のことです。

改竄された日本の歴史、なぜ古事記と日本書紀は本当のことを書かなかったのかの記事で、魏志倭人伝の一部を見ました。中国の皇帝と卑弥呼のやりとりが記された部分です。実は、魏志倭人伝にはこのほかに、日本列島の地理について記された部分があります。この部分こそが、邪馬台国論争を大混乱させた元凶です。しかし、邪馬台国論争を振り返る時に決して無視できないので、この元凶に目を向けることにしましょう。ちょっと長いですが、魏志倭人伝の中の、日本の地理について記された部分を引用します。中国が朝鮮半島に置いていた植民地である帯方郡から日本列島に向かうところです。正確を期すため、現代日本語訳ではなく、魏志倭人伝の原文とその書き下し文を示します(藤堂2010)。

從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國。七千餘里、始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。土地山險、多深林。道路如禽鹿徑。有千餘戸。無良田、食海物自活。乗船南北市糴。

郡従り倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て乍ち南し、乍ち東し、其の北岸狗邪韓国に到る。七千余里にして、始めて一つの海を度り、千余里にして対馬国に至る。其の大官を卑狗と曰い、副を卑奴母離と曰う。居る所、絶島にして、方四百余里可りなり。土地は、山険しくして、深き林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海の物を食いて自活す。船に乗り、南北に市糴す。

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又南渡一海。千餘里、名曰瀚海。至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食。亦南北市糴。

又南して一つの海を渡る。千余里なり。名づけて瀚海と曰う。一大国に至る。官を亦た卑狗と曰い、副を卑奴母離と曰う。方三百里可りなり。竹木の叢林多し。三千許りの家有り。差田地有りて、田を耕せども、猶お食うに足らず。亦た南北に市糴す。

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又渡一海、千餘里至末盧國。有四千餘戸。濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚・鰒、水無深淺、皆沈沒取之。

又一つの海を渡り、千余里にして末廬国に至る。四千余戸有り。山海に浜して居む。草木茂り盛えて、行くに前人見えず。魚・鰒を捕らうることを好み、水は深浅と無く、皆、沈没して之を取る。

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東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。世有王。皆統屬女王國。郡使往來常所駐。

東南に陸行すること五百里にして伊都国に到る。官は爾支と曰い、副を泄謨觚・柄渠觚と曰う。千余戸有り。世王有り。皆、女王国に統属す。郡使往来するとき、常に駐まる所なり。

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東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。

東南して奴国に至る、百里なり。官を兕馬觚と曰い、副を卑奴母離と曰う。二万余戸有り。

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東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。

東に行きて不弥国に至る。百里なり。官を多模と曰い、副を卑奴母離と曰う。千余家有り。

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南至投馬國。水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。

南して投馬国に至る。水行すること二十日なり。官を弥弥と曰い、副を弥弥那利と曰う。五万余戸可り。

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南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七万餘戸。

南して邪馬壱国に至る。女王の都する所なり。水行すること十日、陸行すること一月なり。官には伊支馬有り。次は弥馬升と曰い、次は弥馬獲支と曰い、次は奴佳鞮と曰う。七万余戸可り。

まず、邪馬台国九州説の論者と邪馬台国近畿説の論者に共通していることですが、対馬国、一大国(一支国)、末廬国、伊都国、奴国、不弥国までは北九州の話であると考えられてきました。

問題は、不弥国から先です。上の魏志倭人伝の記述を普通に読めば、対馬国→一大国(一支国)→末廬国→伊都国→奴国→不弥国と移動し、不弥国から投馬国に移動したのだろう、投馬国から邪馬壱国(邪馬台国)に移動したのだろうと考えたくなるところです。

投馬国への移動のところで、「水行二十日」という記述が出てきます。邪馬台国への移動のところで、「水行十日、陸行一月」という記述が出てきます。投馬国も、邪馬台国も、それだけの日数の船旅が必要な場所であり、北九州のすぐ近くにある場所とは考えづらいです。考古学者の水野正好氏が以下のように鋭く指摘しています(石野2006)。

平安時代に記された『延喜式』には、官荷を運ぶ船が九州儺津(奴国)から京都(平安京)に至る道程が記されています。九州を出発してから二〇日目には「吉備津」、さらに一〇日目が「淀津」と明記されています。淀川河口の「淀津」を「難波津」に置き換えても大差ありません。ですから平安時代は、倭国女王卑弥呼の時代と船の構造や航海術に若干の時代差はあるでしょうが、長く同日数をかけて往来することが「公」にされていることがわかります。ここまでくるともう疑問はありません。魏志倭人伝に記された倭国女王の王都である邪馬台国、および至る途中の投馬国はどこかと問う時、王都邪馬台国は大和国、投馬国は吉備国に比定すればよいということになるのです。

北九州を出た船が20日後に吉備に到着する、吉備を出た船が10日後に現在の大阪府の海岸に到着する、日本では古来からそういう船の運航が行われてきたということです。魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の時代の船の移動も、まさにこれなのです。

現在の大阪府の海岸に到着したからといって、そこは大和ではなく、さらに内陸に入っていって、ようやく大和です。実際、魏志倭人伝には、投馬国へ「水行二十日」、邪馬台国へ「水行十日、陸行一月」と書かれていて、最後に歩いての移動が出てきます。

水野氏の指摘は的確に見えます。筆者も的確だと思います。しかし、魏志倭人伝の記述との整合性という点で、全く問題がないわけではないのです。

魏志倭人伝の記述をもう一度見てください。投馬国への移動も、邪馬台国への移動も、「南」への移動として書かれています。魏志倭人伝の記述にあくまで忠実に従うと、投馬国と邪馬台国は北九州より南にあったことになってしまうのです。

邪馬台国九州説の論者にとっても、邪馬台国近畿説の論者にとっても、魏志倭人伝の記述には難点があったのです。

邪馬台国九州説の論者にとっての難点
邪馬台国が、北九州から船で多くの日数をかけて行くような遠くにあったと記されていること。

邪馬台国近畿説の論者にとっての難点
邪馬台国が、北九州より南にあったと記されていること。

仮に、邪馬台国が近畿ではなく、九州にあったと主張した場合、どういうことになるでしょうか。代表的な例として、歴史学者の井上光貞氏の主張を見てみましょう(井上2005)。

邪馬台国九州説の人たちは当然、北九州より南に投馬国と邪馬台国を位置づけようとしますが、これはかなり苦しい作業です(狗奴国というのは、魏志倭人伝によれば、卑弥呼の統治が及ぶ領域より南にあり、卑弥呼と対立していた国です。狗奴国については、後で詳しく取り上げます)。邪馬台国九州説の人たちは、邪馬台国と関係があるのではないかと、九州の山門(やまと)という場所を度々持ち出してきましたが、山門は北九州から遠く離れているとはとても言えません。末廬国、伊都国、奴国、不弥国の間を歩いて移動していたのなら、山門も普通に歩いて行く場所です。

邪馬台国九州説の人たちは、北九州から「水行二十日」で投馬国に着き、投馬国から「水行十日、陸行一月」で邪馬台国に着いたと考えると、邪馬台国があまりにも遠くあることになって厳しいので、以下のような解釈の変更も行いました(井上2005、歴史学者の榎一雄氏の説を紹介しています)。

左側のように考えると、邪馬台国が九州に収まりそうにないので、右側のように考えたのです。放射式に解釈して、邪馬台国が近くにあったことにしようとしたわけです(北九州から邪馬台国への行程は、「水行二十日」+「水行十日、陸行一月」ではなくなりますが、それでも、「水行十日、陸行一月」は残ります)。

しかし、単に方向、距離、時間を考えただけの地理的考察は、大きな問題です。魏志倭人伝には、以下の重要な記述があります(藤堂2010)。

自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。

女王国自り以北には、特に一大率を置きて、諸国を検察せしめ、諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於いては刺史の如きもの有り。

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王遣使詣京都・帯方郡・諸韓国、及郡使倭國、皆臨津捜露、傳送󠄁文書賜遺之物詣女王、不得差錯。

王の使いを遣わして京都・帯方郡・諸の韓国に詣らしむるとき、及び郡の倭国に使いするするときは、皆、津に臨みて捜露し、文書、賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯あることを得ず。

※魏志倭人伝は、北九州から「南」に移動して邪馬台国に至ると書いているわけですから、魏志倭人伝によれば、邪馬台国から見て北九州は「北」にあることになります。ここに出てくる「京都」は、魏の都のことです。

伊都国に一大率という地方官が置かれて、諸国がこれを恐れていたという記述は、注目に値します。前回の記事でお話ししたように、倭国大乱で九州連合が本州・四国連合に負けて、二度と逆らわないように本州・四国連合に見張られている状況が考えられるからです。

その後の記述から、弥生時代後期に中国(大陸)からの文明・文化の流入をほぼ独占していた北九州が、今や本州・四国連合と中国(大陸)の間のおとなしい取り次ぎ役のようになっており、時代が大きく変わったことが窺えます。

水野氏が指摘しているように、伊都国の一大率だけでなく、対馬国、一支国、奴国、不弥国に一様に置かれていた卑奴母離(ひなもり)にも注意すべきでしょう(石野2006)。もしかしたら、卑奴母離は末廬国にも置かれていたのかもしれませんが、先ほどの魏志倭人伝の記述を見ればわかるように、末廬国だけはなぜか「官」と「副」の記載がありません。

井上氏は、対馬国、一支国、奴国、不弥国で、「官」の名が卑狗、卑狗、兕馬觚、多模と統一されていないのに対し、「副」の名が卑奴母離で統一されているのは、「副」の地位が新しいものだからと考えていますが、これはおそらく当たっているでしょう(井上2005)。

水野氏が考えるように、ɸinamori(卑奴母離)はɸina(鄙、夷)とmoru(守る)がくっついたものと考えられます。ɸina(鄙、夷)は、都の反対である田舎を意味した語です。現代の日本語にも、田舎っぽいことを意味するhinabita(ひなびた)という語が残っています。卑奴母離も、一大率と同様に、九州の諸国が二度と逆らわないように見張る任務を負っていたのではないかと思われます。かつて日本の中心であった北九州が、まるごとɸina(鄙、夷)扱いされているのです。

このように、日本の中心であった北九州をまるごと倒し、日本の中心を遠くに移すことのできる勢力は、どこにいたのでしょうか。ここで考えられるのはやはり、「大和(やまと)」という日本の不思議な都の記事と、邪馬台国論争は21世紀に入ってから近畿説が優位に、中国と日本が迎えた大きな転機の記事でお話ししましたが、弥生時代後半に中国の文明・文化に大きな関心を示しながらも、北九州の勢力に邪魔され、北九州の勢力に対して身構えていた東方(本州、四国)の勢力です。

考古学が目覚ましい発展を遂げ、大量のデータが蓄積した今だからこそいえることですが、九州内の南部や東部に、弥生時代後期に隆盛を誇っていた奴国や伊都国などの北九州の勢力をまとめて倒せるような勢力は存在しないのです。

実際、弥生時代後期の後に古墳時代が始まるわけですが、その古墳時代の初期に主要な古墳が見られたのも、北九州から瀬戸内海を経て近畿に至る一帯です(図は白石2013より引用)。

※箸墓古墳(はしはかこふん)は、日本の古墳時代を特徴づける巨大前方後円墳の第1号であることが判明している古墳です。日本書紀は箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓であるとうそぶいていますが、倭国の最高位の者(かつての大王、のちの天皇)を差し置いてこのようなものを作れるはずがありません。というか、なぜ日本書紀は箸墓古墳が女性の墓であると知っているのでしょうか。箸墓古墳は、著しく進歩している炭素14年代測定法(考古学の花形になっていますが、別の機会に説明します)によって、250~300年頃に作られた可能性が濃厚になってきており、ますます注目されています。昔は、邪馬台国と巨大前方後円墳の間には、かなり大きな間(時間差)があると思われていたのですが、その間がないことがわかってきたというのが、最近の考古学の動向です。魏志倭人伝に卑弥呼の大きな墓が作られたことが記されていますが、前代未聞の巨大な墓が出現したのも、九州ではなく、近畿です。卑弥呼の墓は当然、卑弥呼が死んだ250年頃より少し後に作られたものでなければなりません。西殿塚古墳(にしとのづかこふん)は巨大前方後円墳の第2号です。

こうなってくると、先ほどの魏志倭人伝による日本の地理の記述、すなわち、邪馬台国九州説の論者にとって不利である「邪馬台国が船で多くの日数をかけて行くような遠くにあった」という記述と、邪馬台国近畿説の論者にとって不利である「邪馬台国が北九州より南にあった」という記述も、考え直さなければなりません。

方向・距離を全く測定できない古代人がいたとしましょう。そんな古代人でも、「まず歩いた、次に船に乗った、最後にまた歩いた」ぐらいのことは確実に言えます。小さな数詞さえ持っていれば、経過した日数も言えます。卑弥呼の時代であれば、中国人はもちろん、日本人だってそのくらいの数詞は持っています。

それに比べると、方向・距離は難題です。現代の私たちは、日本地図も見慣れているし、東アジアの地図も見慣れているし、世界地図も見慣れています。しかし、古代人の認識は全然違います。

例えば、1500年頃にヨーロッパからアメリカ大陸に到達したコロンブスは、中央アメリカに到着しました。しかし、コロンブス自身は、自分はインドに到達したのだと信じたまま、死んでいきました。

1500年頃のコロンブスの時代でそうなのです。200~250年頃の卑弥呼の時代はどうでしょうか。当時の中国人にとって、楽浪郡などがあった朝鮮半島はある程度なじみのある土地ですが、日本列島は全くなじみのない土地です。この中国人にとってなじみのない日本列島の地理の記述が問題になっているのです。

魏志倭人伝を含む魏志およびそれと時代的に近い後漢書には、「會稽東治」または「會稽東冶」という地名が記されており、「會稽東治」か「會稽東冶」かはともかく、当時の中国人が会稽山の東のほうに倭国があると考えていたことがわかります。会稽山は、現在の中国の浙江省の紹興市にあります(長江より少し南です)(図はWikipediaより引用)。

魏志も、後漢書も、倭は儋耳・朱崖に似ていると述べています。儋耳・朱崖というのは、海南島のことです。海南島は、現代の中国領の最も南に位置します(現代では中国語の話者が大多数を占めていますが、その前からタイ・カダイ語族(タイ系言語)の話者やミャオ・ヤオ語族の話者が住んでいたところです)。今振り返ると、当時の中国人は長江より南の世界と倭を同様に考えており、倭は南にあるというイメージを強く持っていたと思われます。このイメージが強く働いて、投馬国への長い移動を「南」への移動、邪馬台国への長い移動を「南」への移動と記述した可能性が高いです。卑弥呼の統治が及ぶ領域より南に、対立する狗奴国があると言っているわけですから、倭が南に伸びているイメージを持っていたのでしょう(実際には、日本は、朝鮮半島から入ったところから東北東あるいは北東に長く伸びているのですが)。

※当時の中国人が長江より南の世界と倭が似ていると感じるのは、ごく自然です。東アジアの運命を決定した三つ巴、二里頭文化と下七垣文化と岳石文化の記事と、最近の考古学のちょっと危ない傾向、遼東半島の稲作をめぐる問題の記事でお話ししたように、内陸にいた殷が中国東海岸地域(この地域の人々のDNAと言語は多様でしたが、これらの人々は多くの文化的要素を共有していました)に侵攻してきて以来、中国東海岸地域にいた人々は、一方では東に、他方では南に追いやられたからです。中国人が東と南に似た文化を見るのは、当然なのです。殷から周、春秋戦国、秦、漢と時代が下るにつれて、南に追いやられた人々はさらに南に追いやられました。

古代人の地理認識を考えると、「邪馬台国が船で多くの日数をかけて行くような遠くにあった」という記述より、「邪馬台国が北九州より南にあった」という記述のほうが間違っている可能性が高いのです。この問題も、単独で論じるべき問題ではなく、他の諸問題と並べて論じるべき問題です。

魏志倭人伝には、卑弥呼(ひみこ)が狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみくこ)と対立していたことが記されています。九州連合と本州・四国連合の間で行われた倭国大乱は本州・四国連合の勝利に終わり、本州・四国連合は卑弥呼を連合の最高位に据えました。ところが、その卑弥呼(ひみこ)が卑弥弓呼(ひみくこ)と対立しているというのです。ここでだれでも思うと思うのですが、卑弥呼(ひみこ)と卑弥弓呼(ひみくこ)はなんでこんなに名前が似ているのでしょうか。この件についてだれも論じないので、筆者が論じることにしましょう。

 

参考文献

石野博信ほか、「三角縁神獣鏡・邪馬台国・倭国」、新泉社、2006年。

井上光貞、「日本の歴史<1> 神話から歴史へ」、中央公論新社、2005年。

白石太一郎、「古墳からみた倭国の形成と展開」、敬文舎、2013年。

藤堂明保ほか、「倭国伝 中国正史に描かれた日本 全訳注」、講談社、2010年。