日本語の起源と歴史に興味を持つすべての方へ

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こんにちは。金平譲司と申します。ここに「日本語の意外な歴史」と題するブログを立ち上げました。

このブログは、日本語ならびに日本語と深い関係を持つ言語の歴史を解明するものです。言語学者だけでなく、他の分野の専門家や一般の方々も読者として想定しています。

謎に包まれてきた日本語の起源

日本語はどこから来たのかという問題は、ずいぶん前から様々な学者によって論じられてきましたが、決定的な根拠が見つからず、大いなる謎になってしまった感があります。しかしながら、筆者の研究によってようやくその全貌が明らかになってきたので、皆さんにお話ししようと思い立ちました。

日本語は、朝鮮語、ツングース諸語(エヴェンキ語、満州語など)、モンゴル諸語(モンゴル語、ブリヤート語など)、テュルク諸語(トルコ語、中央アジアの言語など)と近い関係にあるのではないか、あるいはオーストロネシア語族(台湾、フィリピン、インドネシア、マレーシア、オセアニアなどの言語から成る言語群)と近い関係にあるのではないかというのが従来の大方の予想でしたが、これらの予想はポイントを外しています。

中国語を見て全く違うと感じた日本人が、日本語は北方の言語と関係があるのではないか、南方の言語と関係があるのではないかと考えたのは、至極当然のことで、北方の言語と南方の言語に視線を注ぐこと自体は間違っていません。問題なのは、北方のごく一部の言語と南方のごく一部の言語に関心が偏ってしまったことです。

上記の言語のうちで、朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語は、日本語によく似た文法構造を持つことから、日本語に近縁な言語ではないかと盛んに注目されてきました。同時に、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語は、互いに特に近い関係にあるとみなされ、いわゆる「アルタイ語族」という名でひとまとめにされることがしばしばありました。日本語の起源をめぐる議論は、このような潮流に飲まれていきました。

しかしながら、筆者がこれから明らかにしていく歴史の真相は、かなり違います。日本語は、朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語と無関係ではないが、別の言語群ともっと近い関係を持っているようなのです。

実を言うと、筆者は日本語やその他の言語の歴史に興味を持つ人間ではありませんでした。筆者は若い頃にフィンランドのヘルシンキ大学で一般言語学や様々な欧州言語を学んでいましたが、その頃の筆者の興味は言語と思考の関係や外国語の学習理論などで、もっぱら現代の言語に関心が向いていました。歴史言語学の講義もありましたが、特に気に留めていませんでした。

筆者が言語の歴史について真剣に考えるようになったきっかけは、ロシアの北極地方で少数民族によって話されているサモエード諸語との出会いでした。サモエード諸語は、フィンランド語やハンガリー語と類縁関係にある言語です。フィンランド語とハンガリー語はヨーロッパの中では異色の存在で、北極地方の少数民族の言語と類縁関係を持っています。フィンランド語、ハンガリー語、サモエード諸語などから成る言語群は、「ウラル語族」と呼ばれます。

言語学者が使う「語族」という用語について若干説明しておきます。私たちが万葉集や源氏物語の言葉を見ると、「読みにくいな」と感じたり、「なにを言っているのかわからないな」と感じたりします。言語は時代とともに少しずつ変化しています。言語は単に変化するだけでなく、分化もします。ある程度広い範囲で話されている言語には、地域差が生じてきます。

この地域ごとに少しずつ異なる言葉が方言です。しかし、これらの方言が地理的に隔たってさらに長い年数が経過すると、最初は小さかった方言同士の差が大きくなっていき、やがて意思疎通ができないほどになります。

あまりに違いが大きくなれば、もう方言ではなく、別々の言語と言ったほうがふさわしくなります。一律の学校教育やマスメディアが発達していない時代には、この傾向は顕著です。ある言語が別々の言語に分化するのです。分化してできた言語がさらに分化することもあります。言語学では、おおもとの言語と分化してできた諸言語をまとめて「語族」といいます。世界で最もよく知られている語族は、インド・ヨーロッパ語族と呼ばれる語族で、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語などはこの語族に属します。例えるなら、イヌ、オオカミ、キツネ、タヌキが共通祖先を持っているように、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語は共通祖先を持っているということです。

日本語とウラル語族

英語などが属するインド・ヨーロッパ語族は巨大な言語群ですが、フィンランド語やハンガリー語が属するウラル語族はこじんまりとした言語群です。ウラル語族の言語は、ロシアの北極地方から北欧・東欧にかけて分布しています。地理的に遠く離れているので、ウラル語族の言語は一見したところ東アジアの言語、特に日本語とはなんの関係もないように見えますが、実はここに大きな盲点があります。日本語の歴史を考えるうえで大変重要になるので、ウラル語族の話を続けます。以下にウラル語族の内部構造を簡単に示します。

ウラル語族の言語を研究する学者の間に意見の相違がないわけではありませんが、上の図は従来広く受け入れられてきた見方です。ウラル語族の言語は、まずフィン・ウゴル系とサモエード系に分かれ、フィン・ウゴル系はそこからさらにフィン系とウゴル系に分かれます。フィンランド語はフィン系に属し、ハンガリー語はウゴル系に属します。サモエード系の言語は、ロシアの北極地方に住む少数民族によって話されています。現在残っているサモエード系の言語はネネツ語、エネツ語、ガナサン語、セリクプ語の四つのみで、特に後の三つは消滅の危機にあります。

サモエード系の言語は、フィンランド語やハンガリー語と同じウラル語族の言語ですが、フィンランド語やハンガリー語とは文法面でも語彙面でも著しく異なっています。同じ言語から分かれた言語同士でも、別々の道を歩み始め、何千年も経過すれば、似ても似つかない言語になってしまいます。特に、サモエード系の言語が辿った運命とフィンランド語・ハンガリー語が辿った運命は対照的です。サモエード系の言語は、北極地方にとどまり、他の言語との接触が比較的少なかったために、昔の姿をよく残しています。それに対して、フィンランド語とハンガリー語は、有力な言語がひしめくヨーロッパに入り込み、大きく姿を変えました。サモエード系の言語は、いわば「生きた化石」です。人類の歴史を解明するうえで、大変重要な言語です。サモエード系の言語との出会いは、筆者にとってショッキングな出来事でした。これ以降、筆者は言語の歴史について本格的に研究し始めることになります。

筆者が初めてサモエード系の言語を見た時には、「文法面ではモンゴル語やツングース諸語に似ているな」という第一印象を受けました。しかし、よく調べると、「あれっ、語彙面では日本語に似ているな」という第二印象を受けました。少なくとも言語の根幹をなす基礎語彙に関しては、モンゴル語やツングース諸語より、ウラル語族のサモエード系の言語のほうが日本語に近いと思いました。なんとも不思議な感じがしました。なんで日本の近くで話されているモンゴル語やツングース諸語より、北極地方で話されているウラル語族のサモエード系の言語のほうが日本語に近いんだろうと考え始めました。様々な言語を見てきましたが、サモエード系の言語には今までにない特別なものを感じました。なにか重大な秘密が隠されている予感がしました。

フィンランド語とハンガリー語だけを見ていた時は気づかなかったのですが、サモエード系の言語を介しながらフィンランド語とハンガリー語を見てみると、やはりフィンランド語とハンガリー語にも日本語との共通語彙があります。日本語の中にある、ウラル語族と共通している語彙、そしてウラル語族と共通していない語彙を見分けていくうちに、二つの疑問が頭に浮かんできました。一つ目の疑問は、日本語の祖先とウラル語族の言語の祖先の接点は地理的にどの辺にあったのだろうという疑問です。二つ目の疑問は、日本語の中にある、ウラル語族と共通していない語彙はどこから来たのだろうという疑問です。日本語の中には、ウラル語族と共通している語彙も多いですが、共通していない語彙も多いのです。

東アジアには黄河文明とは違う文明が存在した

ウラル語族の各言語の語彙を研究するうちに、ウラル語族が日本語だけでなく、モンゴル語、ツングース諸語、朝鮮語、さらには中国語にもなんらかの形で関係していることが明らかになってきたので、ウラル語族の言語と東アジア・東南アジアの言語の大々的な比較研究を開始しました。着実かつ合理的に歴史を解明するため、考古学および生物学の最新の研究成果を適宜参照しました。考古学も生物学も近年めざましい発展を遂げており、数々の重要な発見がありました。

かつては、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、そして東アジアの黄河文明が並べられ、世界四大文明と呼ばれていました。ところが、その後の発見によって、東アジアには黄河文明のほかに二つの大きな文明が存在したことがわかってきました(このテーマを包括的に扱った書籍はいくつかありますが、考察の広さ・深さの点でShelach-Lavi 2015が優れています)。

その二つの大きな文明とは、長江文明と遼河文明(りょうがぶんめい)です。日本列島で縄文時代が進行する間に、大陸側はこのようになっていたのです。黄河文明と長江文明に比べて、遼河文明は知名度が高くないかもしれません。しかし、遼河文明は、日本語の歴史を解明するうえで重要な鍵を握っているようなのです。

生物学が発達し、人間のDNA配列が調べられるようになりました。DNA配列は、正確には「DNAの塩基配列」といい、アデニンA、チミンT、グアニンG、シトシンCという四種類の物質が作る列のことです。最近では、生きている人間のDNA配列だけでなく、はるか昔に生きていた人間のDNA配列も調べられるようになってきました。大変興味深いことに、遼河文明が栄えていた頃に遼河流域で暮らしていた人々のDNA配列を調べた研究があります(Cui 2013)。

人間は父親と母親の間に生まれるので、子のDNA配列が父親のDNA配列と100パーセント一致することはなく、子のDNA配列が母親のDNA配列と100パーセント一致することもありません。しかし、父親から息子に代々不変的に受け継がれていく部分(Y染色体DNA)と、母親から娘に代々不変的に受け継がれていく部分(ミトコンドリアDNA)があります。代々不変的に受け継がれていく部分と書きましたが、この部分にも時に突然変異が起きます。つまり、その部分のDNA配列のある箇所が変化するのです。変化していないY染色体DNA配列を持つ男性がそれを息子に伝える一方で、変化したY染色体DNA配列を持つ男性がそれを息子に伝えるということが起き始めます。同様に、変化していないミトコンドリアDNA配列を持つ女性がそれを娘に伝える一方で、変化したミトコンドリアDNA配列を持つ女性がそれを娘に伝えるということが起き始めます。こうして、時々起きる突然変異のために、Y染色体DNAのバリエーション、ミトコンドリアDNAのバリエーションができてきます。人類の歴史を研究する学者は、このY染色体DNAのバリエーション、ミトコンドリアDNAのバリエーションに注目するのです。

先ほど述べた遼河流域の人々のDNA研究は、Y染色体DNAのバリエーション(例えば、C系統か、D系統か、N系統か、O系統か)を調べたものです。その結果はどうだったでしょうか。古代の人々の研究なのでサンプル数は限られていますが、それでも大まかな傾向は十分に捉えられています。遼河文明が栄えていた頃の遼河流域では、当初はN系統が圧倒的に優勢だったが、次第にO系統とC系統が増え(つまり他の地域から人々が流入してきたということ)、N系統はめっきり少なくなってしまったようです。現在の日本、朝鮮半島、中国では、N系統はほんの少し見られる程度です(Shi 2013)。対照的に、ウラル語族の言語が話されているロシアの北極地方からフィンランド方面にかけてN系統が非常に高い率で観察されています(Rootsi 2007)。

見え始めた日本語の正体

筆者もウラル語族の言語が東アジアの言語と深い関係を持っていることを知った時には大いに驚きましたが、考古学・生物学の発見と照らし合わせると、完全に合致します。日本語がウラル語族の言語と深い関係を持っていることは非常に興味深いですが、もう一つ興味深いことがあります。日本語の中には、ウラル語族と共通している語彙も多いですが、共通していない語彙も多く、ウラル語族とは全く異なる有力な言語群も日本語の形成に大きく関与したようなのです。

ウラル語族の言語と東アジア・東南アジアの言語の大々的な比較研究を行い、様々な紆余曲折はありましたが、漢語流入前の日本語(いわゆる大和言葉)の語彙構成が以下のようになっていることがわかってきました。

「ウラル語族との共通語彙」も多いですが、「黄河文明の言語との共通語彙」と「長江文明の言語との共通語彙」も多く、この三者で漢語流入前の日本語の語彙の大部分を占めています。

「その他の語彙1」というのは、日本語が大陸にいた時に取り入れた語彙で、「ウラル語族との共通語彙」にも、「黄河文明の言語との共通語彙」にも、「長江文明の言語との共通語彙」にも該当しないものです。

「その他の語彙2」というのは、日本語が縄文時代に日本列島で話されていた言語から取り入れた語彙です。

漢語流入前の日本語の語彙構成の特徴的なところは、なんといっても、語彙の大きな源泉が三つあることです。三つの有力な言語勢力が交わっていたことを窺わせます(遼河文明と黄河文明と長江文明の位置を思い出してください)。

「日本語の意外な歴史」では、ウラル語族との共通語彙、黄河文明の言語との共通語彙、長江文明の言語との共通語彙、その他の語彙1、その他の語彙2、いずれも詳しく扱っていきます。

では、日本語およびその他の言語の歴史を研究するための準備に取りかかりましょう。

 

外国語の単語の表記について

英語と同じようなアルファベットを使用している言語では、それをそのまま記します。言語学者が諸言語の発音を記述するのに使う国際音声記号(IPA)というのがありますが、音韻論の専門家でない限り、多くが見慣れない記号です。そのため、本ブログではIPAの使用はできるだけ控えます。特に朝鮮語は、IPAを用いて記すと複雑になるため、市販されている初心者向けの韓国語の文法書で採用されている書き方にならいました。一般の読者にとって見慣れない記号を用いる場合には、補助としてのカタカナ表記を付け加えます。慣習を考慮し、ヤ行の子音は基本的に、北方の言語(ウラル語族の言語など)では「j」で表し、南方の言語(中国語、東南アジアの言語)では「y」で表します。古代中国語のアルファベット表記の仕方は、Baxter 2014に従います。

 

参考文献

Baxter W. H. et al. 2014. Old Chinese: A New Reconstruction. Oxford University Press.

Cui Y. et al. 2013. Y chromosome analysis of prehistoric human populations in the West Liao River Valley, Northeast China. BMC Evolutionary Biology 13: 216.

Rootsi S. et al. 2007. A counter-clockwise northern route of the Y-chromosome haplogroup N from Southeast Asia towards Europe. European Journal of Human Genetics 15: 204-211.

Shelach-Lavi G. 2015. The Archaeology of Early China: From Prehistory to the Han Dynasty. Cambridge University Press.

Shi H. et al. 2013. Genetic evidence of an East Asian origin and paleolithic northward migration of Y-chromosome haplogroup N. PLoS One 8(6): e66102.


►言語の歴史を研究するための準備へ

世界の人々の髪の毛の話、これを知らないと人類史を誤解してしまう

東アジア・東南アジアの歴史に引き続き迫っていきますが、ここでちょっと「髪の毛の話」を挟みます。これを知らないと、人類史を誤解してしまうからです。いや、すでに誤解してしまいました。

前回の記事では、背が低く、色が黒く、髪が縮れているフィリピンの少数民族「ネグリト」の話をしました。

この「ネグリト」という語は、当初はフィリピンの少数民族に対して使われていました。

しかし、フィリピンから少し離れたところ(インドネシア、マレーシア、タイ、そしてその西のインド洋に浮かぶアンダマン諸島)にも、背が低く、色が黒く、髪が縮れている人たちがおり、その人たちにも「ネグリト」という語が使われるようになりました。

フィリピンのAeta族(画像はPreda Foundation様のウェブサイトより引用)

マレーシアのJehai族(画像はWikipedia(Muhammad Adzha様)より引用)

これらの民族は互いに近縁であるにちがいないと見当をつけたわけですが、これが混乱を招きました。

前回のJ.C. Teixeira氏らの図を、もう一度掲げましょう(Teixeira 2021)。

人類はアフリカからスンダランドまでやって来ましたが、その後、スンダランドにとどまった人々と、スンダランドから海を渡った人々がいました。

Teixeira氏らの図は、東南アジア、パプアニューギニア、オーストラリア(アボリジニ)の人々のDNAに、デニソワ人のDNAがどのくらい入っているか調べたものですが、その差は歴然としていました。

例えば、マレーシアのJehai族は、スンダランドにとどまった人々で、フィリピンのAeta族は、スンダランドから海を渡った人々です。両者の間には、5万年ぐらいの隔たりがあります。にもかかわらず、外見をぱっと見て、「ネグリト」としてひとくくりにしてきたのです。「ネグリト」の肌の色に加えて、髪に目を奪われたのでしょう。

髪は、世界各地の人間集団で同じではありません(画像はIVANKA様のウェブサイトより引用)。

縮毛傾向の強い集団から、中間的な集団を経て、直毛傾向の強い集団まであります。東アジアの人々は、直毛傾向が強い部類です。

下の写真の人は、だれでしょうか(画像はApple様のウェブサイトより引用)。

名前が書いてありますね。マイケル・ジャクソンです。

彼が子どもの頃です。大人になってからは、縮れ毛を伸ばしたり、カツラを着用したりしていたようです(余談も参照)。

マイケル・ジャクソンは、アフリカ系の人で、東南アジアのネグリトとは全く関係ありません。彼のような髪型は、「アフロヘア―」と呼ばれます。

東南アジアのいわゆる「ネグリト」が見せている髪型は、「ネグリト」に限ったものではなく、熱帯の人々によく見られる髪型なのです。ここを間違えてはいけません。熱帯と縮れ毛の間に強い関係があるのです。

世界各地で人間の遺骨が発見されていますが、頭蓋骨が出てくるだけで、どんな髪、髪質、髪型をしていたかまではわかりません。

しかし、人類は熱帯出身です。技術の獲得によって、生活圏を温帯、冷帯、寒帯へと広げていったのです。

つまり、これはどういうことでしょうか。

人類においては、もともとマイケル・ジャクソンや「ネグリト」のような髪が一般的で、ヨーロッパのタイプや東アジアのタイプは新しいタイプだろうということです。

一般的に言われているように、熱帯の人々によく見られる縮れ毛には、熱帯の強烈な日光から脳を保護する働きがあるというのは、確かでしょう。人類は特に脳が大きくなりました。チンパンジーやゴリラに比べて大量の毛を失う中で、頭の毛を失わなかったのは、その脳の保護のためでしょう。

フィリピンのAeta族やマレーシアのJehai族は昔ながらの髪を保っているだけで、変わったのは東アジアの人々のほうである可能性が高そうです。現在の東南アジアの人々の大部分が縮れ毛でないのは、先祖の大部分が最近北のほう(黄河流域・長江流域のほう)からやって来た人たちだからです。

フィリピンのAeta族とマレーシアのJehai族の髪型が似ているからといって、互いに近縁ということにはなりません。

かつてのスンダランド東海岸より東の住民(すなわち「かつてのフィリピンの住人」、「かつてのインドネシア東部の住人」、「パプア人」、「アボリジニ」)と、西の住民(すなわち「かつてのマレーシアの住民」、「かつてのインドネシア西部の住人」)には、かなり違う歴史がありそうです。

「ネグリト」をめぐる論争(「ネグリト」としてひとくくりにされた各民族が互いに近縁なのかどうかという論争)では、私たちは重要なことを再確認しました。「人類の系統図における近い/遠い」と「表面的な特徴の似ている/似ていない」は、必ずしも一致しないということです。系統的に近い集団と集団が、表面的に似ていないこともありうるし、系統的に遠い集団と集団が、表面的に似ていることもありうるということです。

 

余談

髪型と肌の色

マイケル・ジャクソンは、髪型だけでなく、肌の色まで変わったので、驚いた人も多かったでしょう。しかし、肌の色の変化は、彼が望んだものではありませんでした。

マイケル・ジャクソンは、「尋常性白斑」という病気に侵されていました。これは、皮膚の一部の色が抜け、大小の白い斑点ができる病気です(画像はMichael Jackson Wikiより引用)。

全部が黒ければ、あるいは全部が白ければ、様になりますが、まだらになると、とても不自然になってしまいます。はじめはメイクによってすべて黒くなるようにしていましたが、病気がどんどん進行し、今度はメイクによってすべて白くなるようにしていました。

マイケル・ジャクソンは病気のことを隠していたので、様々な憶測が飛び交いました。決して黒人から白人になることを夢見ていたのではなく、病気に悩まされていたのです。

こういうショッキングな病気もあるのです。

 

参考文献

Teixeira J.C. et al. 2021. Widespread Denisovan ancestry in Island Southeast Asia but no evidence of substantial super-archaic hominin admixture. Nature Ecology & Evolution 5(5): 616-624.

彼らは一体誰なのか?アボリジニ、パプア人、そして疑惑の「ネグリト」

現代人のDNAだけでなく、古代人のDNAまで調べられるようになったのは、頼もしい限りです。東南アジアは高温多湿で、古代人の遺骨の保存状態がよくない点は不利ですが、それでも、驚くべき研究が次々に発表されています。

まずは、M. Lipson氏らの図をどーんと掲げましょう(図はLipson 2014より引用)。

東南アジアの歴史に関しては、研究者の間で意見が一致していることと、意見が分かれていることがあります。Lipson氏らの図は、現時点で研究者の間で意見が一致していることを要領よくまとめたものです。

矢印が多いので、順に説明しましょう。赤、オレンジ、青、緑の矢印は、人の動きを示しています。赤とオレンジの矢印は非常に古い矢印で、青と緑の矢印は比較的新しい矢印です(矢印のルートは完全に正確ではありません)。そして、各棒は、現代の各地の民族のDNAを示しています。

赤とオレンジの矢印は、人類がアフリカを出て、中東と南アジアを通過し、東南アジアに到達した頃のものです。つまり、5万年前頃のものです。

当時は現在と地形が全然違うので、もう一度確認しておきましょう(図はWikipediaより引用)。

スンダランドとサフルランドという巨大な陸が相対していたことは、以前にお話ししました。

インドネシアには、スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島(カリマンタン島ともいいます)、スラウェシ島という四つの大きな島がありますが、スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島は、大陸とつながっていました。スラウェシ島は、大陸とつながっていませんでした。

フィリピンは、大陸とつながっていそうで、つながっていませんでした。

フィリピンとインドネシアのスラウェシ島が大陸につながっていなかったというのは重要なポイントなので、覚えておいてください。

Lipson氏らの図に戻りましょう。

赤とオレンジの矢印は、人類がアフリカから東南アジアに到達した頃のものですが、赤の矢印は、スンダランドからフィリピンに向かう動き、オレンジの矢印は、スンダランドからサフルランド(パプアニューギニアとオーストラリア)に向かう動きを示しています。スンダランドから先は、海を渡らなければなりませんでした。

フィリピンには、背が低く、色が黒く、髪が縮れているいくつかの少数民族が住んでおり、これらの少数民族はまとめて、「ネグリト」と呼ばれています(画像はPreda Foundation様のウェブサイトより引用)。

前回の記事では、オーストロネシア語族の言語を話す人々が、5000年前頃から、中国南東部を離れて、台湾、フィリピン、インドネシア、マレーシアに進出していったことをお話ししました。Lipson氏らの図の青の矢印が、オーストロネシア語族の言語を話す人々の動きです。

オーストロネシア語族の言語を話す人々がやって来る前からフィリピンにいたのが、ネグリトです。「ネグリト」という名は、スペイン人が付けたもので、スペイン語で「小さな黒人」を意味するnegritoから来ています(フィリピンがスペインの植民地になった経緯については、補説を参照)。

ネグリトは、長い間、人類学者、生物学者、考古学者にとって大きな謎でしたが、人間の全DNAが容易に調べられるようになって、ようやくその素性が明らかになってきました。

Lipson氏らの図のフィリピンのところを見てください。Ayta(またはAeta)というのは、フィリピンで最もよく知られている少数民族です。Tagalogというのは、現在のフィリピンで多数派になっている普通のフィリピン人です。AytaのDNAを見ると、赤の矢印の人々のDNAの割合が高いですが、青の矢印の人々のDNAもある程度入っています。TagalogのDNAを見ると、青の矢印の人々のDNAの割合が高いですが、赤の矢印の人々のDNAもある程度入っています。中国南東部からやって来た人々とフィリピンの原住民は、ある程度混ざり合ったということです。

ネグリトに関しては、もう一つ重要なことがわかりました。

以前に、デニソワ人の話をしたことがありました。デニソワ人は、ネアンデルタール人とは別種の古人類です。デニソワ人は2008年に発見されたばかりなので、知らない人も多いかと思います。詳しくは、本ブログの過去の記事を参照してください。

ネアンデルタール人が現生人類と交わったのと同様に、デニソワ人も現生人類と交わったわけですが、特にパプアニューギニアとオーストラリア(アボリジニ)の人々のDNAに、デニソワ人のDNAが顕著に入っていることが明らかになりました。このように、まずはパプア人とアボリジニのDNAに注目が集まりましたが、すぐにネグリトのDNAも注目されました。パプア人、アボリジニ、そしてネグリトを含む東南アジアの人々のDNAに、デニソワ人のDNAがどのくらい入っているか見てみましょう(図はTeixeira 2021より引用)。

パプア人とアボリジニに入っているデニソワ人のDNAの量は同じくらいで、その量を100%としています。そして、東南アジアの人々にデニソワ人のDNAがどのくらい入っているか見ています。

見ての通り、かつてのサフルランドの地域にいる人々には、デニソワ人のDNAが顕著に入っていますが、かつてのスンダランドの地域にいる人々には、デニソワ人のDNAはほとんど入っていません。そして、かつてのサフルランドとスンダランドの間の地域にいる人々には、デニソワ人のDNAがほどほどに入っています。

これは、どう解釈したらよいのでしょうか。

結論を先に言ってしまうと、スンダランドとサフルランドの間の地域には、サフルランドの人々と同系統の人々が住んでいたということです。

しかし、スンダランドとサフルランドの間の地域には、のちにオーストロネシア語族の人々とオーストロアジア語族(ベトナム系言語)の人々が流入してきたのです。

さりげなく述べましたが、オーストロネシア語族の人々だけでなく、オーストロアジア語族(ベトナム系言語)の人々も流入してきたのです。

Lipson氏らの図を見ると、青の矢印のほかに、緑の矢印がありますね。青の矢印は、オーストロネシア語族の人々の流入で、緑の矢印は、オーストロアジア語族(ベトナム系言語)の人々の流入です。DNA研究によって、両方の流入があったことが明らかになったのです(インドネシア西部の人々のDNAを見ると、青の矢印の人々のDNAだけでなく、緑の矢印の人々のDNAも多いです。農耕は、中国の長江下流域から台湾に伝わりましたが、その一方で、長江中流・上流域からインドシナ半島(ベトナム、カンボジア、タイ、ラオスなどがあるところ)にも伝わりました)。

オーストロアジア語族(ベトナム系言語)は、東南アジア大陸部の歴史では大いに注目されてきましたが、東南アジア島嶼部の歴史ではほとんど注目されてこなかったので、これは意外な事実です。

先ほどのTeixeira氏らの図から、かつての東南アジアの歴史が窺えます。

人類はアフリカからスンダランドまでやって来た。スンダランドにとどまった人々と、スンダランドから海を渡った人々がいた。スンダランドにとどまった人々と、スンダランドから海を渡った人々の間には、その後、多少の往来はあったものの、盛んな往来はなかった。スンダランドから海を渡ったところには、のちにオーストロネシア語族の人々とオーストロアジア語族(ベトナム系言語)の人々が流入したが、これらの語族の人々は、パプアニューギニアとオーストラリアには進出しなかったあるいはできなかった。

デニソワ人のDNAの広がり具合からして、スンダランド東海岸から各島々に渡るあたりで、現生人類(の一部)とデニソワ人の本格的な交わりがあった可能性が高そうです。

Lipson氏らの図で、フィリピンの各民族のDNAを見ます。そして、青の矢印の人々のDNAがどのくらい入っているか見ます。次に、Teixeira氏らの図で、フィリピンの各民族のDNAを見ます。そして、これらの民族に入っているデニソワ人のDNAが、パプア人とアボリジニに入っているデニソワ人のDNAに比べて、どのくらい減っているか見ます。Lipson氏らのデータとTeixeira氏のデータは、見事に一致しています。オーストロネシア語族の人々のDNAが入った分(割合)だけ、デニソワ人のDNAが減っているのです。

フィリピンと同様のことが、インドネシア東部についてもいえます。オーストロネシア語族の人々とオーストロアジア語族(ベトナム系言語)の人々のDNAが入った分(割合)だけ、デニソワ人のDNAが減っているのです。

つまり、オーストロネシア語族の人々とオーストロアジア語族(ベトナム系言語)の人々のDNAが入る前は、デニソワ人のDNAの量はパプア人とアボリジニと同じくらいあったということです。

Lipson氏の図のオレンジの矢印の流れを汲んでいるので、「かつてのインドネシア東部の住民」は、「パプア人」と「アボリジニ」と近い関係にありそうです。

Lipson氏の図の赤の矢印の流れを汲んでいるので、「かつてのフィリピンの住民」は、「かつてのインドネシア東部の住民」、「パプア人」、「アボリジニ」とやや近い関係にありそうです。

前回の記事では、オーストロネシア語族の言語を話す人々は、中国南東部を離れた後、台湾、フィリピン、インドネシア、マレーシアの原住民と出会ったが、その原住民はどんな人たちだったのかと述べました。

「かつてのフィリピンの住民」と「かつてのインドネシア東部の住民」は、パプア人とアボリジニに(やや)近そうだなと推測できます。

「かつての台湾の住民」、「かつてのインドネシア西部の住民」、「かつてのマレーシアの住民」はどんな人たちだったのでしょうか。

最近、この問題を考えるうえで気になる研究が発表されました。(続く)

 

補説

大航海時代、コロンブス、バスコダガマ、マゼラン

フィリピンのネグリトの話のところで、スペインが出てきました。フィリピンとスペインが結び付かない人がいるかもしれないので、一応書いておきます。

コロンブスの時代のヨーロッパの人たちは、邪魔・妨害をする中東を経由せずに、その向こうの東方の品物を手に入れようとしていました。そこで、陸路の代わりに海路に目が向けられました。しかし当時は、ヨーロッパから海路で東方に行けるかどうか不明でした。

コロンブスは、地球は丸いと信じていたので、ヨーロッパから西に進んでインドに到達できると考えていました。実際に、スペインの援助を受けてインドを目指します。しかし、中米に到着してしまいます。コロンブスは、「自分はインドに到達した」と信じていました。その後、アメリゴベスプッチの探検によって、それがインドではなく新大陸であることが明らかにされました。それでも、コロンブスは、「自分はインドに到達した」と信じていました。

そうこうしているうちに、ポルトガルのバスコダガマが、ヨーロッパからアフリカ大陸の南端を回ってインドに到達してしまいます。こっちは本物のインドです。

ポルトガルに先を越されたスペインは、新しい航路を確保しようとします。スペインの援助を受けたマゼランが、南アメリカ大陸の南端を通過し、太平洋を横断します。マゼランはコロンブスとアメリゴベスプッチの後の世代だったので、これを成し遂げることができました。マゼランは、香辛料ですでに有名だったインドネシアのモルッカ諸島に行くつもりでしたが、途中のフィリピンに立ち寄ります。

これがフィリピンとスペインの縁の始まりです。

マゼランは、フィリピンでの戦闘で死亡してしまいます。マゼランの部下たちは、航海を続け、モルッカ諸島に行き、アフリカ大陸の南端を回って、スペインに戻りました。これが、初めての世界一周です。5隻あった船は1隻になり、270名いた船員は18名になるという、過酷な旅でした。

このマゼランの航海をきっかけに、スペインによるフィリピンの植民地化が始まりました。スペインによる植民地支配は、300年以上も続きました。

フィリピンは、スペインの王様のFelipe IIの島々として、Islas Filipinas(もとのeはiに変化)と呼ばれ、スペイン人によって統一が進められました。現在のThe Philippinesという国名は、ここから来ています。

スペインによる植民地支配の後には、アメリカによる植民地支配が待っていました。

 

参考文献

Lipson M. et al. 2014. Reconstructing Austronesian population history in Island Southeast Asia. Nature Communications 5(1): 4689.

Teixeira J.C. et al. 2021. Widespread Denisovan ancestry in Island Southeast Asia but no evidence of substantial super-archaic hominin admixture. Nature Ecology & Evolution 5(5): 616-624.

現在の東南アジアはかつての東南アジアと大きく異なっている、いわゆる渡来人と縄文人について

人類の実際の歴史はとても複雑なので、少しずつ明らかにしていくしかありませんが、私たちは往々にして以下のように考えがちです。

「中国、朝鮮、日本の北のほうに目をやる。北のほうにはあのような人たちが住んでいる。かつても北のほうにはあのような人たちが住んでいたにちがいない。中国、朝鮮、日本の南のほうに目をやる。南のほうにはあのような人たちが住んでいる。かつても南のほうにはあのような人たちが住んでいたにちがいない。」

このような考えです。北のほうに関しても、南のほうに関しても、この考えは全然当たっていないようです。

すでにお話ししたように、中央アジアからやって来た人々と東南アジアからやって来た人々が東アジアで合流したことが明らかになってきました(図はGoebel 2007より引用)。

モンゴルのすぐ上のバイカル湖周辺に西洋風の人々が住んでいたという驚きの事実も浮かび上がってきました(農耕が始まる前のユーラシア大陸、バイカル湖周辺に住んでいた謎の西洋人を参照)。

北のほうに負けず劣らず、南のほうにも驚きの事実が隠されているようです。

現在、南のほうには、オーストロネシア語族の言語、ミャオ・ヤオ語族の言語、タイ・カダイ語族の言語(タイ系言語)、オーストロアジア語族の言語(ベトナム系言語)を話す人々が住んでいます。

これらの四つの語族は、南のほうで話されている言語ということでいっしょに考察されることもありましたが、ここではまず、最もよく研究されてきたオーストロネシア語族に注目しましょう(図はChambers 2021より引用)。

オーストロネシア語族は、台湾を起点として、南の島々に広がっていった言語群です。パプアニューギニアとオーストラリア(アボリジニ社会)を除くすべてを覆い尽くした感じです(オーストロネシア語族の人々は、ニュージーランドにも到達しましたが、のちにイギリス人が押し寄せてきたため、現在では少数派になっています。これが、マオリ族です)。オーストロネシア語族は、言語数の多さ、分布域の広さで際立っています。

オーストロネシア語族がここまで栄えたのは、なんといっても、古代中国の戦乱に巻き込まれなかったからです。古代中国は、4000年前頃から夏殷周を経て大戦乱の時代に突入していきますが、オーストロネシア語族の人々の祖先は、すでに5000年前頃に中国南東部から台湾に渡っており、戦乱の影響を全く受けていません(ミャオ・ヤオ語族の人々とタイ・カダイ語族の人々が壊滅的なダメージを受けたのとは対照的です)。

オーストロネシア語族の言語は、上の図からわかるように大変広く分布していますが、互いによく似ています。特に、台湾以外の言語は、非常によく似ています。オーストロネシア語族の言語がもともと台湾で話されていて、台湾で話されていた言語の一部が残りの地域に広がっていったことがわかります。

ここで注意しなければならないのは、オーストロネシア語族の言語を話す人々が中国南東部から南の島々に進出しようとする時に、すでに南の島々には原住民がいたということです。台湾にも、フィリピンにも、そしてインドネシアとマレーシアにも、古くからの原住民がいたのです。オーストロネシア語族の言語を話す人々は、中国南東部を離れた後、台湾の原住民、フィリピンの原住民、そしてインドネシアとマレーシアの原住民と混ざり合っていったということです。

科学技術の著しい進歩を受けて東南アジアの人々のDNAも盛んに調べられていますが、ここで興味深いことがわかりました。オーストロネシア語族の言語を話す人々は、中国南東部を離れて、台湾、フィリピン、インドネシア、マレーシアの原住民と混ざり合っていきましたが、これらの原住民と混ざり合っていない集団がわずかに残っているようなのです(Mörseburg 2016)。

原住民と混ざり合っていない「純粋な」集団として注目されているのが、フィリピン北部に住むイゴロット族です。どんな人たちなのでしょうか(画像はIgorotage様のウェブサイトより引用)。

中国人、朝鮮人、日本人をちょっと南国風にアレンジした感じですね(補説も参照)。

中国南東部から台湾に渡った人たちには、気になる点がありました。台湾とオーストロネシア語族の記事でお話ししたように、この人たちは、イネだけでなく、アワとキビも栽培していたのです。中国南部を流れる長江流域で栽培が始まったイネを栽培していたというのは、わかります。しかし、中国北部を流れる黄河流域で栽培が始まったアワとキビを栽培していたというのは、どういうことでしょうか。

ここから、L. Sagart氏らのように、山東省のあたりにいた人々が、中国東海岸沿いを南下し、福建省のあたりに辿り着き、そこから台湾に入ったのではないかという考えが出てくるわけです(図はSagart 2018より引用)。

最近のDNA研究によって、Sagart氏らが指摘した可能性が高まっています。Wei Lanhai氏らの研究とYu Huixin氏らの研究を紹介しましょう。

以前にお話ししたように、黄河流域・長江流域からの農耕の拡散に関与しているY染色体DNAのO系統は、以下のようになっています。

中国と東南アジアの男性のY染色体DNAの大部分はO系統なので、上の図のような大雑把な分類では、人の動きをよく追うことができません。各系統の下位系統まで細かく調べる必要があります。

Wei氏らの研究ですでに、O-M122の下位系統の一つであるO-N6がオーストロネシア語族の拡散に関係しているのではないかと指摘されていました(Wei 2017)。Yu 氏らの研究ではさらに、O-N6の分布の中心が山東省のあたりにあること、O-N6の下位系統の一つであるO-F706の分布の中心が山東省のあたりにあること、O-F706の下位系統の一つであるO-B451の分布の中心が山東省のあたりにあることを明らかにしました(Yu 2023)。

これは重要な成果です。上のような関係にあるので、O-N6よりO-F706は若く、O-F706よりO-B451は若いです。O-B451は、農耕が始まる1万年前頃よりちょっと前に山東省のあたりで誕生し、のちにオーストロネシア語族の拡散の主力になりました(より正確に言うと、O-B451の下位系統の一つであるO-AM01756が、オーストロネシア語族の拡散の主力になりました)。

山東省のあたりにいた人々が、中国東海岸沿いを南下し、福建省のあたりに辿り着き、そこから台湾に入ったのではないかというSagart氏らの予想は、的中したわけです。

O-M122の下位系統であるO-B451のほかに、O-M119の下位系統であるO-M110、O-F819、O-YP4610がオーストロネシア語族の拡散の主力になっていますが、これらは中国南部に分布していた系統です。

山東省のあたりにいた人々が南下して、中国南部にいた人々を取り込み、台湾に渡っていったというのが、オーストロネシア語族の起源なのです。

「南の島々の言語」というイメージがすっかり定着しているオーストロネシア語族が、実は北のほうから来ているというのは驚きです。

台湾から南の島々に人が広がっていく動きがあったのは確かです。オーストロネシア語族の拡散は言うまでもなく大きな出来事です。しかし、それだけでは、東南アジアの複雑な歴史を語り尽くすことは到底できません。

最近の考古学、生物学、人類学の研究によって、オーストロネシア語族の拡散以外にも、東南アジアで大きな出来事が起きていたことがわかってきました。

オーストロネシア語族の言語を話す人々は、中国南東部を離れた後、台湾、フィリピン、インドネシア、マレーシアの原住民と出会いましたが、それらの原住民はどんな人たちだったのかという問題があります。東南アジアの原住民だけに、重大な問題です。

現代の東アジアの人々のDNAは、遠く遡れば、大部分が東南アジアから来ているので、東南アジアに人類が現れてからなにが起きてきたのか知ることは非常に重要です。東南アジアの歴史がどこまでわかったのか、そしてなにがわかっていないのか、概観することにしましょう。

 

補説

いわゆる渡来人と縄文人について

1953年に、ワトソンとクリックがDNAの(二重らせん)構造を明らかにしましたが、これは、人類の歴史を考えるうえでまさに「革命」と呼べる出来事でした。

しかし、DNAを調べるのはそう容易ではなく、21世紀のはじめには、母から娘に代々伝えられるミトコンドリアDNAと、父から息子に代々伝えられるY染色体DNAを調べるのがやっとでした。

ところが、そこからの技術の進歩がすばらしく、今では人間のDNA全体を軽々と調べられるようになりました。

現代の日本人は、縄文時代から日本列島にいる人間なのか、弥生時代に日本列島に入ってきた人間なのか、それとも両者が混ざり合った人間なのかという論争がありましたが、この論争にも明確な答えが出ています(図はYamamoto 2024より引用、一部省略)。

※図中のBBJはBiobank Japan、EAはEast Asia、NEAはNortheast Asiaです。

現代の日本人のDNAにおいては、渡来人が縄文人を圧倒しています。縄文人のDNAが占める割合は、沖縄以外の日本人で10%ぐらい、沖縄の日本人で25%ぐらいになっています。以前に紹介したM. Robbeets氏ら(Robbeets 2021)のデータとも一致しており、完全と言ってよいでしょう。やはり、縄文時代から弥生時代への変化は、とても大きな変化だったのです。

(筆者は、画一的な印象を与えやすいので、「渡来人」と「縄文人」という言葉をあまり使いませんが、ここでは短く説明するために使用しました。)

 

参考文献

Chambers G.K. et al. 2021. Reconstruction of the Austronesian Diaspora in the era of genomics. Human Biology 92(4): 247-263.

Goebel T. 2007. The missing years for modern humans. Science 315(5809): 194-196.

Mörseburg A. et al. 2016. Multi-layered population structure in Island Southeast Asians. European Journal of Human Genetics 24(11): 1605-1611.

Robbeets M. et al. 2021. Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature 599(7886): 616-621.

Sagart L. et al. 2018. A northern Chinese origin of Austronesian agriculture: New evidence on traditional Formosan cereals. Rice 11(1): 57.

Wei L. et al. 2017. Phylogeography of Y-chromosome haplogroup O3a2b2-N6 reveals patrilineal traces of Austronesian populations on the eastern coastal regions of Asia. PLoS ONE 12(4): e0175080.

Yamamoto K. et al. 2024. Genetic legacy of ancient hunter-gatherer Jomon in Japanese populations. Nature Communications 15(1): 9780.

Yu H. et al. 2023. The formation of proto-austronesians: Insights from a revised phylogeography of the paternal founder lineage. Molecular Genetics and Genomics 298(6): 1301-1308.