日本語の起源と歴史に興味を持つすべての方へ

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こんにちは。金平譲司と申します。ここに「日本語の意外な歴史」と題するブログを立ち上げました。

このブログは、日本語ならびに日本語と深い関係を持つ言語の歴史を解明するものです。言語学者だけでなく、他の分野の専門家や一般の方々も読者として想定しています。

謎に包まれてきた日本語の起源

日本語はどこから来たのかという問題は、ずいぶん前から様々な学者によって論じられてきましたが、決定的な根拠が見つからず、大いなる謎になってしまった感があります。しかしながら、筆者の研究によってようやくその全貌が明らかになってきたので、皆さんにお話ししようと思い立ちました。

日本語は、朝鮮語、ツングース諸語(エヴェンキ語、満州語など)、モンゴル諸語(モンゴル語、ブリヤート語など)、テュルク諸語(トルコ語、中央アジアの言語など)と近い関係にあるのではないか、あるいはオーストロネシア語族(台湾、フィリピン、インドネシア、マレーシア、オセアニアなどの言語から成る言語群)と近い関係にあるのではないかというのが従来の大方の予想でしたが、これらの予想はポイントを外しています。

中国語を見て全く違うと感じた日本人が、日本語は北方の言語と関係があるのではないか、南方の言語と関係があるのではないかと考えたのは、至極当然のことで、北方の言語と南方の言語に視線を注ぐこと自体は間違っていません。問題なのは、北方のごく一部の言語と南方のごく一部の言語に関心が偏ってしまったことです。

上記の言語のうちで、朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語は、日本語によく似た文法構造を持つことから、日本語に近縁な言語ではないかと盛んに注目されてきました。同時に、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語は、互いに特に近い関係にあるとみなされ、いわゆる「アルタイ語族」という名でひとまとめにされることがしばしばありました。日本語の起源をめぐる議論は、このような潮流に飲まれていきました。

しかしながら、筆者がこれから明らかにしていく歴史の真相は、かなり違います。日本語は、朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語と無関係ではないが、別の言語群ともっと近い関係を持っているようなのです。

実を言うと、筆者は日本語やその他の言語の歴史に興味を持つ人間ではありませんでした。筆者は若い頃にフィンランドのヘルシンキ大学で一般言語学や様々な欧州言語を学んでいましたが、その頃の筆者の興味は言語と思考の関係や外国語の学習理論などで、もっぱら現代の言語に関心が向いていました。歴史言語学の講義もありましたが、特に気に留めていませんでした。

筆者が言語の歴史について真剣に考えるようになったきっかけは、ロシアの北極地方で少数民族によって話されているサモエード諸語との出会いでした。サモエード諸語は、フィンランド語やハンガリー語と類縁関係にある言語です。フィンランド語とハンガリー語はヨーロッパの中では異色の存在で、北極地方の少数民族の言語と類縁関係を持っています。フィンランド語、ハンガリー語、サモエード諸語などから成る言語群は、「ウラル語族」と呼ばれます。

言語学者が使う「語族」という用語について若干説明しておきます。私たちが万葉集や源氏物語の言葉を見ると、「読みにくいな」と感じたり、「なにを言っているのかわからないな」と感じたりします。言語は時代とともに少しずつ変化しています。言語は単に変化するだけでなく、分化もします。ある程度広い範囲で話されている言語には、地域差が生じてきます。

この地域ごとに少しずつ異なる言葉が方言です。しかし、これらの方言が地理的に隔たってさらに長い年数が経過すると、最初は小さかった方言同士の差が大きくなっていき、やがて意思疎通ができないほどになります。

あまりに違いが大きくなれば、もう方言ではなく、別々の言語と言ったほうがふさわしくなります。一律の学校教育やマスメディアが発達していない時代には、この傾向は顕著です。ある言語が別々の言語に分化するのです。分化してできた言語がさらに分化することもあります。言語学では、おおもとの言語と分化してできた諸言語をまとめて「語族」といいます。世界で最もよく知られている語族は、インド・ヨーロッパ語族と呼ばれる語族で、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語などはこの語族に属します。例えるなら、イヌ、オオカミ、キツネ、タヌキが共通祖先を持っているように、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語は共通祖先を持っているということです。

日本語とウラル語族

英語などが属するインド・ヨーロッパ語族は巨大な言語群ですが、フィンランド語やハンガリー語が属するウラル語族はこじんまりとした言語群です。ウラル語族の言語は、ロシアの北極地方から北欧・東欧にかけて分布しています。地理的に遠く離れているので、ウラル語族の言語は一見したところ東アジアの言語、特に日本語とはなんの関係もないように見えますが、実はここに大きな盲点があります。日本語の歴史を考えるうえで大変重要になるので、ウラル語族の話を続けます。以下にウラル語族の内部構造を簡単に示します。

ウラル語族の言語を研究する学者の間に意見の相違がないわけではありませんが、上の図は従来広く受け入れられてきた見方です。ウラル語族の言語は、まずフィン・ウゴル系とサモエード系に分かれ、フィン・ウゴル系はそこからさらにフィン系とウゴル系に分かれます。フィンランド語はフィン系に属し、ハンガリー語はウゴル系に属します。サモエード系の言語は、ロシアの北極地方に住む少数民族によって話されています。現在残っているサモエード系の言語はネネツ語、エネツ語、ガナサン語、セリクプ語の四つのみで、特に後の三つは消滅の危機にあります。

サモエード系の言語は、フィンランド語やハンガリー語と同じウラル語族の言語ですが、フィンランド語やハンガリー語とは文法面でも語彙面でも著しく異なっています。同じ言語から分かれた言語同士でも、別々の道を歩み始め、何千年も経過すれば、似ても似つかない言語になってしまいます。特に、サモエード系の言語が辿った運命とフィンランド語・ハンガリー語が辿った運命は対照的です。サモエード系の言語は、北極地方にとどまり、他の言語との接触が比較的少なかったために、昔の姿をよく残しています。それに対して、フィンランド語とハンガリー語は、有力な言語がひしめくヨーロッパに入り込み、大きく姿を変えました。サモエード系の言語は、いわば「生きた化石」です。人類の歴史を解明するうえで、大変重要な言語です。サモエード系の言語との出会いは、筆者にとってショッキングな出来事でした。これ以降、筆者は言語の歴史について本格的に研究し始めることになります。

筆者が初めてサモエード系の言語を見た時には、「文法面ではモンゴル語やツングース諸語に似ているな」という第一印象を受けました。しかし、よく調べると、「あれっ、語彙面では日本語に似ているな」という第二印象を受けました。少なくとも言語の根幹をなす基礎語彙に関しては、モンゴル語やツングース諸語より、ウラル語族のサモエード系の言語のほうが日本語に近いと思いました。なんとも不思議な感じがしました。なんで日本の近くで話されているモンゴル語やツングース諸語より、北極地方で話されているウラル語族のサモエード系の言語のほうが日本語に近いんだろうと考え始めました。様々な言語を見てきましたが、サモエード系の言語には今までにない特別なものを感じました。なにか重大な秘密が隠されている予感がしました。

フィンランド語とハンガリー語だけを見ていた時は気づかなかったのですが、サモエード系の言語を介しながらフィンランド語とハンガリー語を見てみると、やはりフィンランド語とハンガリー語にも日本語との共通語彙があります。日本語の中にある、ウラル語族と共通している語彙、そしてウラル語族と共通していない語彙を見分けていくうちに、二つの疑問が頭に浮かんできました。一つ目の疑問は、日本語の祖先とウラル語族の言語の祖先の接点は地理的にどの辺にあったのだろうという疑問です。二つ目の疑問は、日本語の中にある、ウラル語族と共通していない語彙はどこから来たのだろうという疑問です。日本語の中には、ウラル語族と共通している語彙も多いですが、共通していない語彙も多いのです。

東アジアには黄河文明とは違う文明が存在した

ウラル語族の各言語の語彙を研究するうちに、ウラル語族が日本語だけでなく、モンゴル語、ツングース諸語、朝鮮語、さらには中国語にもなんらかの形で関係していることが明らかになってきたので、ウラル語族の言語と東アジア・東南アジアの言語の大々的な比較研究を開始しました。着実かつ合理的に歴史を解明するため、考古学および生物学の最新の研究成果を適宜参照しました。考古学も生物学も近年めざましい発展を遂げており、数々の重要な発見がありました。

かつては、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、そして東アジアの黄河文明が並べられ、世界四大文明と呼ばれていました。ところが、その後の発見によって、東アジアには黄河文明のほかに二つの大きな文明が存在したことがわかってきました(このテーマを包括的に扱った書籍はいくつかありますが、考察の広さ・深さの点でShelach-Lavi 2015が優れています)。

その二つの大きな文明とは、長江文明と遼河文明(りょうがぶんめい)です。日本列島で縄文時代が進行する間に、大陸側はこのようになっていたのです。黄河文明と長江文明に比べて、遼河文明は知名度が高くないかもしれません。しかし、遼河文明は、日本語の歴史を解明するうえで重要な鍵を握っているようなのです。

生物学が発達し、人間のDNA配列が調べられるようになりました。DNA配列は、正確には「DNAの塩基配列」といい、アデニンA、チミンT、グアニンG、シトシンCという四種類の物質が作る列のことです。最近では、生きている人間のDNA配列だけでなく、はるか昔に生きていた人間のDNA配列も調べられるようになってきました。大変興味深いことに、遼河文明が栄えていた頃に遼河流域で暮らしていた人々のDNA配列を調べた研究があります(Cui 2013)。

人間は父親と母親の間に生まれるので、子のDNA配列が父親のDNA配列と100パーセント一致することはなく、子のDNA配列が母親のDNA配列と100パーセント一致することもありません。しかし、父親から息子に代々不変的に受け継がれていく部分(Y染色体DNA)と、母親から娘に代々不変的に受け継がれていく部分(ミトコンドリアDNA)があります。代々不変的に受け継がれていく部分と書きましたが、この部分にも時に突然変異が起きます。つまり、その部分のDNA配列のある箇所が変化するのです。変化していないY染色体DNA配列を持つ男性がそれを息子に伝える一方で、変化したY染色体DNA配列を持つ男性がそれを息子に伝えるということが起き始めます。同様に、変化していないミトコンドリアDNA配列を持つ女性がそれを娘に伝える一方で、変化したミトコンドリアDNA配列を持つ女性がそれを娘に伝えるということが起き始めます。こうして、時々起きる突然変異のために、Y染色体DNAのバリエーション、ミトコンドリアDNAのバリエーションができてきます。人類の歴史を研究する学者は、このY染色体DNAのバリエーション、ミトコンドリアDNAのバリエーションに注目するのです。

先ほど述べた遼河流域の人々のDNA研究は、Y染色体DNAのバリエーション(例えば、C系統か、D系統か、N系統か、O系統か)を調べたものです。その結果はどうだったでしょうか。古代の人々の研究なのでサンプル数は限られていますが、それでも大まかな傾向は十分に捉えられています。遼河文明が栄えていた頃の遼河流域では、当初はN系統が圧倒的に優勢だったが、次第にO系統とC系統が増え(つまり他の地域から人々が流入してきたということ)、N系統はめっきり少なくなってしまったようです。現在の日本、朝鮮半島、中国では、N系統はほんの少し見られる程度です(Shi 2013)。対照的に、ウラル語族の言語が話されているロシアの北極地方からフィンランド方面にかけてN系統が非常に高い率で観察されています(Rootsi 2007)。

見え始めた日本語の正体

筆者もウラル語族の言語が東アジアの言語と深い関係を持っていることを知った時には大いに驚きましたが、考古学・生物学の発見と照らし合わせると、完全に合致します。日本語がウラル語族の言語と深い関係を持っていることは非常に興味深いですが、もう一つ興味深いことがあります。日本語の中には、ウラル語族と共通している語彙も多いですが、共通していない語彙も多く、ウラル語族とは全く異なる有力な言語群も日本語の形成に大きく関与したようなのです。

ウラル語族の言語と東アジア・東南アジアの言語の大々的な比較研究を行い、様々な紆余曲折はありましたが、漢語流入前の日本語(いわゆる大和言葉)の語彙構成が以下のようになっていることがわかってきました。

「ウラル語族との共通語彙」も多いですが、「黄河文明の言語との共通語彙」と「長江文明の言語との共通語彙」も多く、この三者で漢語流入前の日本語の語彙の大部分を占めています。

「その他の語彙1」というのは、日本語が大陸にいた時に取り入れた語彙で、「ウラル語族との共通語彙」にも、「黄河文明の言語との共通語彙」にも、「長江文明の言語との共通語彙」にも該当しないものです。

「その他の語彙2」というのは、日本語が縄文時代に日本列島で話されていた言語から取り入れた語彙です。

漢語流入前の日本語の語彙構成の特徴的なところは、なんといっても、語彙の大きな源泉が三つあることです。三つの有力な言語勢力が交わっていたことを窺わせます(遼河文明と黄河文明と長江文明の位置を思い出してください)。

「日本語の意外な歴史」では、ウラル語族との共通語彙、黄河文明の言語との共通語彙、長江文明の言語との共通語彙、その他の語彙1、その他の語彙2、いずれも詳しく扱っていきます。

では、日本語およびその他の言語の歴史を研究するための準備に取りかかりましょう。

 

外国語の単語の表記について

英語と同じようなアルファベットを使用している言語では、それをそのまま記します。言語学者が諸言語の発音を記述するのに使う国際音声記号(IPA)というのがありますが、音韻論の専門家でない限り、多くが見慣れない記号です。そのため、本ブログではIPAの使用はできるだけ控えます。特に朝鮮語は、IPAを用いて記すと複雑になるため、市販されている初心者向けの韓国語の文法書で採用されている書き方にならいました。一般の読者にとって見慣れない記号を用いる場合には、補助としてのカタカナ表記を付け加えます。慣習を考慮し、ヤ行の子音は基本的に、北方の言語(ウラル語族の言語など)では「j」で表し、南方の言語(中国語、東南アジアの言語)では「y」で表します。古代中国語のアルファベット表記の仕方は、Baxter 2014に従います。

 

参考文献

Baxter W. H. et al. 2014. Old Chinese: A New Reconstruction. Oxford University Press.

Cui Y. et al. 2013. Y chromosome analysis of prehistoric human populations in the West Liao River Valley, Northeast China. BMC Evolutionary Biology 13: 216.

Rootsi S. et al. 2007. A counter-clockwise northern route of the Y-chromosome haplogroup N from Southeast Asia towards Europe. European Journal of Human Genetics 15: 204-211.

Shelach-Lavi G. 2015. The Archaeology of Early China: From Prehistory to the Han Dynasty. Cambridge University Press.

Shi H. et al. 2013. Genetic evidence of an East Asian origin and paleolithic northward migration of Y-chromosome haplogroup N. PLoS One 8(6): e66102.


►言語の歴史を研究するための準備へ

ベーリング陸橋、危ない橋を渡った人々

南米のケチュア語のyaku(水)やアイマラ語のuma(水)は大変注目されますが、南米のインディアンの言語を調べる前に付け足しておきたいことがあります。

閉ざされていたアメリカ大陸への道の記事では、Last Glacial Maximum(最終氷期最盛期)が終わり、北米にでき始めた通路(海岸ルートと内陸ルート)を通って、インディアンがアメリカ大陸に進出していったことをお話ししました。これは、LGMが終わった直後の話です。その前に、LGMの最中の話があります。LGMの直後の様子だけでなく、LGMの最中の様子も明らかになりつつあります。

現在では、ユーラシア大陸の北東部とアメリカ大陸の北西部はつながっておらず、ベーリング海峡になっています(海峡というのは、陸と陸に挟まれて、海が狭くなっているところです)。ベーリング海峡のある辺りはかつて陸続きで、この陸続きの部分は一般にベーリング陸橋と呼ばれます(ベーリング地峡と呼ばれることもあります)。LGMにベーリング陸橋にいた人々が、LGMが終わってでき始めた通路を通ってアメリカ大陸に進出していったのです。ここで、重要なことがあります。どうやら、LGMが終わってアメリカ大陸に進出していった人々は、何千年か続いたLGMの間、ベーリング陸橋に閉じ込められていたようなのです。

現生人類が3~4万年前に北ユーラシアのあちこちに現れていたことはすでに述べました。LGMは2万数千年前から始まりますが、それよりも前に人類が北極海の近くまで来ていたこともわかっています(Pitulko 2004)。以下の地図は、Pitulko 2004からの引用で、同論文で記述している3万年前ぐらいのヤナ川流域の遺跡の位置を示しています。

LGMよりも前に人類がベーリング地方からやや離れたところまで来ていたというのは、大きな発見です。上の地図に描かれているシベリア東部は、特に寒さが厳しい地域です。ロシアのヤクーツクやオイミャコンからマイナス50℃になった、マイナス60℃になったというニュースがよく入ってきますが、それはこの地域です。氷期でなくてもそのような地域が氷期になったら、まして氷期の最盛期になったらどうなるでしょうか。

LGMのベーリング陸橋は、西側は人間が住めないほど寒さが厳しくなったシベリア、東側は完全に氷にブロックされて進めない北米という状況に置かれたと見られます。そのシベリアと北米の間で立ち往生した人たちがいたのではないかというのが、E. Tamm氏らが提唱するBeringian Standstill(ベーリング地方での足止め)という仮説です(Tamm 2007)。以下の地図は、Tamm 2007からの引用で、ユーラシア側とインディアン側の詳しいミトコンドリアDNAのデータに基づきながら、過去にユーラシア大陸とアメリカ大陸の間でどのような人間の移動があったか推定しています。

入り組んでいるので、解説を加えます。①は、LGMが始まる少し前に人間集団がベーリング地方にやって来たことを示しています。②は、LGMが始まってベーリング地方の人間集団が閉じ込められ、何千年か続くLGMの期間中に、のちにアメリカ大陸に進出することになるミトコンドリアDNAの系統(A2、B2、C1b、C1c、C1d、C4c、D1、D4h3、X2a)が出揃ったことを示しています。ベーリング地方に閉じ込められた時から、インディアン側のA、B、C、D、X系統は、ユーラシア側のA、B、C、D、X系統とは違う独自の道を歩み始めたのです。③は、LGMが終わって閉鎖が解け、人々がアメリカ大陸とユーラシア大陸へ移動していったことを示しています。④は、それより後の時代に、すでに貫通している空間を東から西に移動していった人々、西から東に移動していった人々がいたことを示しています。

インディアン側のA、B、C、D、X系統を詳しく調べたFagundes 2008などの他の研究でも、インディアン側のA、B、C、D、X系統がLGMと大体一致する年代から独自の道を歩み始めていることが示されており、Beringian Standstill仮説は現実味を帯びています。

上の地図は、要するに、「人間集団がベーリング地方にやって来た」→「ベーリング地方が閉鎖空間になった」→「閉鎖空間が開放されて、人々が右と左に移動していった」→「その後も左から右に向かう移動、右から左に向かう移動があった」という歴史展開を示しています。LGMによるベーリング地方の閉鎖が頭に入っていれば、自然に考えられる歴史展開です。このような歴史展開があったことは、ユーラシアの言語とインディアンの言語を比べる際に覚えておかなければなりません。

それにしても、一般に海の近くは内陸ほど寒くならないとはいえ、Last Glacial Maximum(最終氷期最盛期)のベーリング地方に閉じ込められたのは、結構厳しい事態だったのではないでしょうか。LGMに直面して、北ユーラシアのほとんどの人は南下していったことでしょう。インディアンは、危ない橋を渡った人々といえるかもしれません。

それでは、LGMの後にでき始めたルートを通って南米に入っていったインディアンを追跡することにしましょう。

 

参考文献

Fagundes N. J. R. et al. 2008. Mitochondrial population genomics supports a single pre-Clovis origin with a coastal route for the peopling of the Americas. American Journal of Human Genetics 82(3): 583-592.

Pitulko V. V. et al. 2004. The Yana RHS site: Humans in the Arctic before the last glacial maximum. Science 303(5654): 52-56.

Tamm E. et al. 2007. Beringian standstill and spread of Native American founders. PLoS One 2(9): e829.

水の惑星

英語のwater(水)は、ヒッタイト語watar(水)やトカラ語war(水)とともに、インド・ヨーロッパ語族の標準的な語であると述べました。それに対して、ラテン語のaqua(水)は、インド・ヨーロッパ語族では非標準的な語で、インド・ヨーロッパ語族の外から入って来た外来語のようだと述べました。

語られなかった真実、ラテン語のaqua(水)は外来語だった中国語はなぜ大言語になったのか?の記事では、ヨーロッパから東アジアまでの言語を概観し、かつて北ユーラシアに水のことをjak-、jik-、juk-、jek-、jok-(jは日本語のヤ行の子音)のように言う巨大な言語群が存在したと推論しました。

このような巨大な言語群が存在したのは確実ですが、古代北ユーラシアの言語はみな水のことをjak-、jik-、juk-、jek-、jok-のように言っていたのかというと、そういう単純な状況でもなかったようです。

英語にwet(濡れている)という語があります。water(水)の古形はwæter、wet(濡れている)の古形はwætで、これらは同源です。英語のwet(濡れている)に相当する語として、ラテン語にはumidus(濡れている)という語がありました。ラテン語のumidusはhumidusとも発音され、後者から英語のhumid(湿った)は来ています。ラテン語には濡れていることを意味するumereという動詞があり、これからumidusという形容詞が作られました。

umereとumidusのほかに、液体(特に体液)を意味するumorという名詞もありました。ラテン語のumidusが英語のhumid(湿った)になったのと同様に、ラテン語のumorは英語のhumor(ユーモア)になりました。なんで液体を意味していた語がユーモアを意味するようになるんだと思ってしまいますが、これは昔のヨーロッパの人々が人間の体内にある各種の液体(血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁)によって人間の気質が決まると考えていたためです。

ラテン語で濡れていることを意味したumere/umidusも、液体を意味したumorも、インド・ヨーロッパ語族の標準的な語彙ではありません。um-という語根が見て取れます。ラテン語のそばに、水のことをum-のように言う言語があったのでしょう。

ここで、視線を一気に東アジアに持っていきます。すると、日本語のumi(海)という語が出てきます。日本語のwata(海)の語源がインド・ヨーロッパ語族の英語water(水)の類であったように、日本語のumi(海)の語源も他言語の「水」であった可能性があります。日本の近くで話されているツングース諸語に、飲むことを意味するエヴェンキ語ummī(語幹um-、以下同様)、ウデヘ語umimi(umi-)、ナナイ語omiori(omi-)、ウイルタ語umiwuri(umi-)、満州語omimbi(omi-)のような動詞が見られますが、これらも「水」の存在を示唆しています。

※水・液体の意味範疇に属するumu(膿む)も究極的には同源と思われます。他言語の同様の例は別のところで示します。

このum-のケースは、jak-、jik-、juk-、jek-、jok-のケースに似ています。かつて北ユーラシアに水のことをum-のように言う言語群が存在し、その言語群がヨーロッパ方面と東アジア方面に影響を残していったのではないかと考えたくなります。

現生人類は3~4万年前には北ユーラシアのあちこちに現れていますが、インド・ヨーロッパ語族とウラル語族の拡散が始まったのはせいぜい6000、7000、8000年前ぐらいです。非常に大きな時間の開きがあります。拡散するインド・ヨーロッパ語族とウラル語族の行く手にいた北ユーラシアの旧来の諸言語が一様であったとは考えられません。たとえそれらの北ユーラシアの旧来の諸言語が同一の起源を持っていたとしても、インド・ヨーロッパ語族とウラル語族の拡散時にはすでに大きく異なっていたはずです。経過した時間が長ければ、現在のインド・ヨーロッパ語族の内部に見られるような違い、現在のウラル語族の内部に見られるような違い程度ではとても済みません。

インド・ヨーロッパ語族とウラル語族の拡散が始まる前の北ユーラシアに、水のことをjak-、jik-、juk-、jek-、jok-のように言う言語群と、水のことをum-のように言う言語群が広がっていたとしても、全然おかしくないわけです。インド・ヨーロッパ語族とウラル語族の拡散が始まる前の北ユーラシアの長い歴史を考えれば、インド・ヨーロッパ語族とウラル語族は極めて大きい差を持つ諸言語に遭遇したにちがいありません。そのようななかで、水のことをjak-、jik-、juk-、jek-、jok-のように言っていた言語群と、水のことをum-のように言っていた言語群は、ヨーロッパ方面にも東アジア方面にも影響を残しており、特に注目されます。

ここで、北ユーラシアの歴史を解明するためのヒントを求めて、アメリカ大陸のインディアンの諸言語に目をやると、はっとする光景が飛び込んできます。すでに述べたように、インディアンの諸言語は互いの隔たりが非常に大きく、なかなか変わらないはずの「水」を意味する語もかなりばらばらです。しかし、完全に無秩序というわけではなさそうです。南米で最も有名なケチュア語のyaku(水)や、そのすぐそばのアイマラ語のuma(水)は鮮烈な印象を与えます。まずは、南米のインディアンの言語を調べる必要がありそうです。

閉ざされていたアメリカ大陸への道

インディアンがどこからアメリカ大陸にやって来たのかという問題も重要ですが、インディアンがいつアメリカ大陸にやって来たのかという問題も重要です。ここで、考古学の話をはさみます。考古学のほうでも重要な進展がありました。まずは、Curry 2012の図を引用します。

地図の中には、Clovis(クロ―ビス)、Monte Verde(モンテベルデ)、Paisley Caves(ペイズリー洞窟)という三つの遺跡が記されています。クロービス遺跡は、最初にアメリカ大陸に入った人々の遺跡であると長い間考えられてきました。これに異を唱えることになったのが、T. D. Dillehay氏らによるモンテベルデ遺跡の発掘でした(Dillehay 1989、Dillehay 1997、Dillehay 2015)。クロービス遺跡よりモンテベルデ遺跡のほうが古いとするDillehay氏らの主張はすんなりとは受け入れられませんでしたが、年代測定を含む考古学調査の技術・方法が進歩してきたことや、ペイズリー洞窟遺跡のようにクロービス遺跡より古いと見られる遺跡が北米でも見つかり始めたことから(Gilbert 2008、Jenkins 2012)、Dillehay氏らの主張は広く認められるようになりました。クロービス遺跡は13000年前ぐらいのもの、モンテベルデ遺跡は14500年前ぐらいのものと推定されています。

冒頭の地図には、人類が15000~16000年前頃に北米の太平洋沿岸を通過し、その後すぐに南米に到達したと示されています。Dixon 2013に、当時の北米の状況が精緻に描かれています。同論文から引用した以下の二枚の地図は、16000年前頃と13000年前頃の北米の状況を映し出したものです。

16000年前頃は、Last Glacial Maximum(最終氷期最盛期)と呼ばれる最も厳しい時期を過ぎたばかりで、まだほとんど氷に覆われています。太平洋沿岸に細い通路ができつつあります。

氷がある程度解けた13000年前頃には、太平洋沿岸の通路はいくらか広くなり、内陸にも別の通路ができています。

アメリカ大陸への道は、このように開通していきました。まず海岸ルートが開け、遅れて内陸ルートが開けたのです。このことは、インディアンの歴史(言語も含めて)を考えるうえで頭に入れておく必要があります。

内陸ルートが開くのを待っていたのでは、14500年前あるいはそれより前にモンテベルデ遺跡のある場所に辿り着くことができません。モンテベルデ遺跡にいた人々は、海岸ルートを通ったはずです。

ここに、ちょっと難しい事情があります。当時はまだ氷期が完全に終わっておらず、海面が低い状態でした。氷期が終わりに近づくにつれて、さらに氷が解け、海面が上昇します。こうなると、モンテベルデ遺跡にいた人々がかつて通ったところは、海中に没してしまいます。ちなみに、Monte Verdeはスペイン語で「緑の山」という意味で、モンテベルデ遺跡はある程度高いところにあります。

普通、人類がユーラシア大陸の北東部からアメリカ大陸に入ったのなら、アメリカ大陸の北のほうで古い遺跡が見つかり、南のほうで新しい遺跡が見つかるのではないかと考えたくなります。この普通に反するモンテベルデ遺跡の発見が大きな反論に遭ったのは理解できます。しかし、(1)まず海岸ルートが開け、遅れて内陸ルートが開けたこと、(2)海岸ルートの通過が速かったこと、(3)その海岸ルートが氷期の終了に伴う海面の上昇によって海中に没したことを考えれば、考古学の現状(モンテベルデ遺跡より確実に古いと認められる北米の遺跡がまだない現状)は異常ではありません(米国テキサス州のFriedkin(フリードキン)/Gault(ゴールト)遺跡のように検討を要する遺跡も出てきています(Waters 2011、Williams 2018))。

上記の海岸ルートと内陸ルートの話からもわかるように、人類のアメリカ大陸への移動・拡散は単純ではありません。アメリカ大陸への道が開ける時代、モンテベルデ遺跡の時代、クロービス遺跡の時代に起きたことだけでなく、その後の時代に起きたことも考えなければなりません。ユーラシア大陸からアメリカ大陸への人類の進出の記事でインディアンのミトコンドリアDNAの話をし、古い時代にアメリカ大陸に入った人間集団と新しい時代にアメリカ大陸に入った人間集団があったのではないかと述べました。さらに、インディアンのDNAから重大な結果が・・・の記事でインディアンのY染色体DNAの話をし、北米でC系統の割合が高くなっていることを述べました。モンテベルデ遺跡・クロービス遺跡の時代から近代(コロンブスの時代)に至るまでの間にも、重要な出来事があったようです。

後からアメリカ大陸に入ってきた人間集団について考える前に、なぜ筆者がアメリカ大陸への人間の移動・拡散をそこまで細かく気にするのか説明しましょう。

 

参考文献

Curry A. 2012. Ancient migration: Coming to America. Nature 485(7396): 30-32.

Dillehay T. D. 1989. Monte Verde: A late Pleistocene settlement in Chile, Vol. 1. Smithsonian Institution Press.

Dillehay T. D. 1997. Monte Verde: A late Pleistocene settlement in Chile, Vol. 2. Smithsonian Institution Press.

Dillehay T. D. et al. 2015. New archaeological evidence for an early human presence at Monte Verde, Chile. PLoS One 10(11): e0141923.

Dixon E. J. 2013. Late Pleistocene colonization of North America from Northeast Asia: New insights from large-scale paleogeographic reconstructions. Quaternary International 285: 57-67.

Gilbert M. T. P. et al. 2008. DNA from pre-Clovis human coprolites in Oregon, North America. Science 320(5877): 786-789.

Jenkins D. L. et al. 2012. Clovis age Western stemmed projectile points and human coprolites at the Paisley Caves. Science 337(6091): 223-228.

Waters M. R. et al. 2011. The Buttermilk Creek complex and the origins of Clovis at the Debra L. Friedkin site, Texas. Science 331(6024): 1599-1603.

Williams T. J. et al. 2018. Evidence of an early projectile point technology in North America at the Gault Site, Texas, USA. Science Advances 4(7): eaar5954.