日本語の起源と歴史に興味を持つすべての方へ

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こんにちは。金平譲司と申します。ここに「日本語の意外な歴史」と題するブログを立ち上げました。

このブログは、日本語ならびに日本語と深い関係を持つ言語の歴史を解明するものです。言語学者だけでなく、他の分野の専門家や一般の方々も読者として想定しています。

謎に包まれてきた日本語の起源

日本語はどこから来たのかという問題は、ずいぶん前から様々な学者によって論じられてきましたが、決定的な根拠が見つからず、大いなる謎になってしまった感があります。しかしながら、筆者の研究によってようやくその全貌が明らかになってきたので、皆さんにお話ししようと思い立ちました。

日本語は、朝鮮語、ツングース諸語(エヴェンキ語、満州語など)、モンゴル諸語(モンゴル語、ブリヤート語など)、テュルク諸語(トルコ語、中央アジアの言語など)と近い関係にあるのではないか、あるいはオーストロネシア語族(台湾、フィリピン、インドネシア、マレーシア、オセアニアなどの言語から成る言語群)と近い関係にあるのではないかというのが従来の大方の予想でしたが、これらの予想はポイントを外しています。

中国語を見て全く違うと感じた日本人が、日本語は北方の言語と関係があるのではないか、南方の言語と関係があるのではないかと考えたのは、至極当然のことで、北方の言語と南方の言語に視線を注ぐこと自体は間違っていません。問題なのは、北方のごく一部の言語と南方のごく一部の言語に関心が偏ってしまったことです。

上記の言語のうちで、朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語は、日本語によく似た文法構造を持つことから、日本語に近縁な言語ではないかと盛んに注目されてきました。同時に、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語は、互いに特に近い関係にあるとみなされ、いわゆる「アルタイ語族」という名でひとまとめにされることがしばしばありました。日本語の起源をめぐる議論は、このような潮流に飲まれていきました。

しかしながら、筆者がこれから明らかにしていく歴史の真相は、かなり違います。日本語は、朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語と無関係ではないが、別の言語群ともっと近い関係を持っているようなのです。

実を言うと、筆者は日本語やその他の言語の歴史に興味を持つ人間ではありませんでした。筆者は若い頃にフィンランドのヘルシンキ大学で一般言語学や様々な欧州言語を学んでいましたが、その頃の筆者の興味は言語と思考の関係や外国語の学習理論などで、もっぱら現代の言語に関心が向いていました。歴史言語学の講義もありましたが、特に気に留めていませんでした。

筆者が言語の歴史について真剣に考えるようになったきっかけは、ロシアの北極地方で少数民族によって話されているサモエード諸語との出会いでした。サモエード諸語は、フィンランド語やハンガリー語と類縁関係にある言語です。フィンランド語とハンガリー語はヨーロッパの中では異色の存在で、北極地方の少数民族の言語と類縁関係を持っています。フィンランド語、ハンガリー語、サモエード諸語などから成る言語群は、「ウラル語族」と呼ばれます。

言語学者が使う「語族」という用語について若干説明しておきます。私たちが万葉集や源氏物語の言葉を見ると、「読みにくいな」と感じたり、「なにを言っているのかわからないな」と感じたりします。言語は時代とともに少しずつ変化しています。言語は単に変化するだけでなく、分化もします。ある程度広い範囲で話されている言語には、地域差が生じてきます。

この地域ごとに少しずつ異なる言葉が方言です。しかし、これらの方言が地理的に隔たってさらに長い年数が経過すると、最初は小さかった方言同士の差が大きくなっていき、やがて意思疎通ができないほどになります。

あまりに違いが大きくなれば、もう方言ではなく、別々の言語と言ったほうがふさわしくなります。一律の学校教育やマスメディアが発達していない時代には、この傾向は顕著です。ある言語が別々の言語に分化するのです。分化してできた言語がさらに分化することもあります。言語学では、おおもとの言語と分化してできた諸言語をまとめて「語族」といいます。世界で最もよく知られている語族は、インド・ヨーロッパ語族と呼ばれる語族で、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語などはこの語族に属します。例えるなら、イヌ、オオカミ、キツネ、タヌキが共通祖先を持っているように、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語は共通祖先を持っているということです。

日本語とウラル語族

英語などが属するインド・ヨーロッパ語族は巨大な言語群ですが、フィンランド語やハンガリー語が属するウラル語族はこじんまりとした言語群です。ウラル語族の言語は、ロシアの北極地方から北欧・東欧にかけて分布しています。地理的に遠く離れているので、ウラル語族の言語は一見したところ東アジアの言語、特に日本語とはなんの関係もないように見えますが、実はここに大きな盲点があります。日本語の歴史を考えるうえで大変重要になるので、ウラル語族の話を続けます。以下にウラル語族の内部構造を簡単に示します。

ウラル語族の言語を研究する学者の間に意見の相違がないわけではありませんが、上の図は従来広く受け入れられてきた見方です。ウラル語族の言語は、まずフィン・ウゴル系とサモエード系に分かれ、フィン・ウゴル系はそこからさらにフィン系とウゴル系に分かれます。フィンランド語はフィン系に属し、ハンガリー語はウゴル系に属します。サモエード系の言語は、ロシアの北極地方に住む少数民族によって話されています。現在残っているサモエード系の言語はネネツ語、エネツ語、ガナサン語、セリクプ語の四つのみで、特に後の三つは消滅の危機にあります。

サモエード系の言語は、フィンランド語やハンガリー語と同じウラル語族の言語ですが、フィンランド語やハンガリー語とは文法面でも語彙面でも著しく異なっています。同じ言語から分かれた言語同士でも、別々の道を歩み始め、何千年も経過すれば、似ても似つかない言語になってしまいます。特に、サモエード系の言語が辿った運命とフィンランド語・ハンガリー語が辿った運命は対照的です。サモエード系の言語は、北極地方にとどまり、他の言語との接触が比較的少なかったために、昔の姿をよく残しています。それに対して、フィンランド語とハンガリー語は、有力な言語がひしめくヨーロッパに入り込み、大きく姿を変えました。サモエード系の言語は、いわば「生きた化石」です。人類の歴史を解明するうえで、大変重要な言語です。サモエード系の言語との出会いは、筆者にとってショッキングな出来事でした。これ以降、筆者は言語の歴史について本格的に研究し始めることになります。

筆者が初めてサモエード系の言語を見た時には、「文法面ではモンゴル語やツングース諸語に似ているな」という第一印象を受けました。しかし、よく調べると、「あれっ、語彙面では日本語に似ているな」という第二印象を受けました。少なくとも言語の根幹をなす基礎語彙に関しては、モンゴル語やツングース諸語より、ウラル語族のサモエード系の言語のほうが日本語に近いと思いました。なんとも不思議な感じがしました。なんで日本の近くで話されているモンゴル語やツングース諸語より、北極地方で話されているウラル語族のサモエード系の言語のほうが日本語に近いんだろうと考え始めました。様々な言語を見てきましたが、サモエード系の言語には今までにない特別なものを感じました。なにか重大な秘密が隠されている予感がしました。

フィンランド語とハンガリー語だけを見ていた時は気づかなかったのですが、サモエード系の言語を介しながらフィンランド語とハンガリー語を見てみると、やはりフィンランド語とハンガリー語にも日本語との共通語彙があります。日本語の中にある、ウラル語族と共通している語彙、そしてウラル語族と共通していない語彙を見分けていくうちに、二つの疑問が頭に浮かんできました。一つ目の疑問は、日本語の祖先とウラル語族の言語の祖先の接点は地理的にどの辺にあったのだろうという疑問です。二つ目の疑問は、日本語の中にある、ウラル語族と共通していない語彙はどこから来たのだろうという疑問です。日本語の中には、ウラル語族と共通している語彙も多いですが、共通していない語彙も多いのです。

東アジアには黄河文明とは違う文明が存在した

ウラル語族の各言語の語彙を研究するうちに、ウラル語族が日本語だけでなく、モンゴル語、ツングース諸語、朝鮮語、さらには中国語にもなんらかの形で関係していることが明らかになってきたので、ウラル語族の言語と東アジア・東南アジアの言語の大々的な比較研究を開始しました。着実かつ合理的に歴史を解明するため、考古学および生物学の最新の研究成果を適宜参照しました。考古学も生物学も近年めざましい発展を遂げており、数々の重要な発見がありました。

かつては、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、そして東アジアの黄河文明が並べられ、世界四大文明と呼ばれていました。ところが、その後の発見によって、東アジアには黄河文明のほかに二つの大きな文明が存在したことがわかってきました(このテーマを包括的に扱った書籍はいくつかありますが、考察の広さ・深さの点でShelach-Lavi 2015が優れています)。

その二つの大きな文明とは、長江文明と遼河文明(りょうがぶんめい)です。日本列島で縄文時代が進行する間に、大陸側はこのようになっていたのです。黄河文明と長江文明に比べて、遼河文明は知名度が高くないかもしれません。しかし、遼河文明は、日本語の歴史を解明するうえで重要な鍵を握っているようなのです。

生物学が発達し、人間のDNA配列が調べられるようになりました。DNA配列は、正確には「DNAの塩基配列」といい、アデニンA、チミンT、グアニンG、シトシンCという四種類の物質が作る列のことです。最近では、生きている人間のDNA配列だけでなく、はるか昔に生きていた人間のDNA配列も調べられるようになってきました。大変興味深いことに、遼河文明が栄えていた頃に遼河流域で暮らしていた人々のDNA配列を調べた研究があります(Cui 2013)。

人間は父親と母親の間に生まれるので、子のDNA配列が父親のDNA配列と100パーセント一致することはなく、子のDNA配列が母親のDNA配列と100パーセント一致することもありません。しかし、父親から息子に代々不変的に受け継がれていく部分(Y染色体DNA)と、母親から娘に代々不変的に受け継がれていく部分(ミトコンドリアDNA)があります。代々不変的に受け継がれていく部分と書きましたが、この部分にも時に突然変異が起きます。つまり、その部分のDNA配列のある箇所が変化するのです。変化していないY染色体DNA配列を持つ男性がそれを息子に伝える一方で、変化したY染色体DNA配列を持つ男性がそれを息子に伝えるということが起き始めます。同様に、変化していないミトコンドリアDNA配列を持つ女性がそれを娘に伝える一方で、変化したミトコンドリアDNA配列を持つ女性がそれを娘に伝えるということが起き始めます。こうして、時々起きる突然変異のために、Y染色体DNAのバリエーション、ミトコンドリアDNAのバリエーションができてきます。人類の歴史を研究する学者は、このY染色体DNAのバリエーション、ミトコンドリアDNAのバリエーションに注目するのです。

先ほど述べた遼河流域の人々のDNA研究は、Y染色体DNAのバリエーション(例えば、C系統か、D系統か、N系統か、O系統か)を調べたものです。その結果はどうだったでしょうか。古代の人々の研究なのでサンプル数は限られていますが、それでも大まかな傾向は十分に捉えられています。遼河文明が栄えていた頃の遼河流域では、当初はN系統が圧倒的に優勢だったが、次第にO系統とC系統が増え(つまり他の地域から人々が流入してきたということ)、N系統はめっきり少なくなってしまったようです。現在の日本、朝鮮半島、中国では、N系統はほんの少し見られる程度です(Shi 2013)。対照的に、ウラル語族の言語が話されているロシアの北極地方からフィンランド方面にかけてN系統が非常に高い率で観察されています(Rootsi 2007)。

見え始めた日本語の正体

筆者もウラル語族の言語が東アジアの言語と深い関係を持っていることを知った時には大いに驚きましたが、考古学・生物学の発見と照らし合わせると、完全に合致します。日本語がウラル語族の言語と深い関係を持っていることは非常に興味深いですが、もう一つ興味深いことがあります。日本語の中には、ウラル語族と共通している語彙も多いですが、共通していない語彙も多く、ウラル語族とは全く異なる有力な言語群も日本語の形成に大きく関与したようなのです。

ウラル語族の言語と東アジア・東南アジアの言語の大々的な比較研究を行い、様々な紆余曲折はありましたが、漢語流入前の日本語(いわゆる大和言葉)の語彙構成が以下のようになっていることがわかってきました。

「ウラル語族との共通語彙」も多いですが、「黄河文明の言語との共通語彙」と「長江文明の言語との共通語彙」も多く、この三者で漢語流入前の日本語の語彙の大部分を占めています。

「その他の語彙1」というのは、日本語が大陸にいた時に取り入れた語彙で、「ウラル語族との共通語彙」にも、「黄河文明の言語との共通語彙」にも、「長江文明の言語との共通語彙」にも該当しないものです。

「その他の語彙2」というのは、日本語が縄文時代に日本列島で話されていた言語から取り入れた語彙です。

漢語流入前の日本語の語彙構成の特徴的なところは、なんといっても、語彙の大きな源泉が三つあることです。三つの有力な言語勢力が交わっていたことを窺わせます(遼河文明と黄河文明と長江文明の位置を思い出してください)。

「日本語の意外な歴史」では、ウラル語族との共通語彙、黄河文明の言語との共通語彙、長江文明の言語との共通語彙、その他の語彙1、その他の語彙2、いずれも詳しく扱っていきます。

では、日本語およびその他の言語の歴史を研究するための準備に取りかかりましょう。

 

外国語の単語の表記について

英語と同じようなアルファベットを使用している言語では、それをそのまま記します。言語学者が諸言語の発音を記述するのに使う国際音声記号(IPA)というのがありますが、音韻論の専門家でない限り、多くが見慣れない記号です。そのため、本ブログではIPAの使用はできるだけ控えます。特に朝鮮語は、IPAを用いて記すと複雑になるため、市販されている初心者向けの韓国語の文法書で採用されている書き方にならいました。一般の読者にとって見慣れない記号を用いる場合には、補助としてのカタカナ表記を付け加えます。慣習を考慮し、ヤ行の子音は基本的に、北方の言語(ウラル語族の言語など)では「j」で表し、南方の言語(中国語、東南アジアの言語)では「y」で表します。古代中国語のアルファベット表記の仕方は、Baxter 2014に従います。

 

参考文献

Baxter W. H. et al. 2014. Old Chinese: A New Reconstruction. Oxford University Press.

Cui Y. et al. 2013. Y chromosome analysis of prehistoric human populations in the West Liao River Valley, Northeast China. BMC Evolutionary Biology 13: 216.

Rootsi S. et al. 2007. A counter-clockwise northern route of the Y-chromosome haplogroup N from Southeast Asia towards Europe. European Journal of Human Genetics 15: 204-211.

Shelach-Lavi G. 2015. The Archaeology of Early China: From Prehistory to the Han Dynasty. Cambridge University Press.

Shi H. et al. 2013. Genetic evidence of an East Asian origin and paleolithic northward migration of Y-chromosome haplogroup N. PLoS One 8(6): e66102.


►言語の歴史を研究するための準備へ

稲作の伝播の真相、ここが盲点!

前回の記事で示したWen 2016の図を再び掲げましょう。

6000年前頃の東アジアの様子です。もうこの頃には本格的な農耕が行われています。北部でアワとキビが栽培され、南部でイネが栽培されたと単純に言われてしまうことが多いですが、北部と南部の間の様相は複雑です。特に、前回の記事で紹介した淮河(わいが)(上の地図には記されていません)は、ちょうど黄河と長江の間にあるので要注意です。

最近の考古学調査により、黄河下流域と長江下流域の間に位置する淮河流域では、8500年前頃からイネの栽培が行われていたことがわかっています(Luo 2016、2019)。稲作発祥の地、つまりイネの栽培が始まったのは、長江下流域~中流域ですが、イネの栽培はかなり早くから北に広がり始めていたということです。

しかし、アワとキビより高温を必要とするイネの栽培は、そうやすやすと北上できたわけではなかったようです。淮河流域よりさらに北に位置する山東省では、苦戦の跡が窺えます。すでにお話ししたように、山東省でイネの栽培が本格的に始まるのは、山東龍山文化の時代(4600~3900年前頃)からです。上の8500年前とこの4600年前では、大きな隔たりがあります。ただし、山東省では山東龍山文化より前にイネの栽培が行われた跡も点々と見つかっており、イネを栽培しようとする試みが繰り返されていたことは窺えます(Luan 2005)。このような試みは決して無駄ではなく、従来のタイプよりいくらか低温に強いタイプの誕生につながったと見られます。

まとめると、こうなります。長江下流域~中流域で始まったイネの栽培は、かなり早い時期に淮河流域に広がった。しかし、淮河流域に広がったイネの栽培は、簡単には山東省に広がることができず、長い苦戦の後で山東省に広がった。

淮河流域でイネを栽培し、その栽培を山東省に広げようと試みていた人間集団はどのような人間集団だったのかということは、大いに考える必要があります。ここで参考になるのが、古代の長江流域のDNAのデータです(Li 2007)。長江下流域(上の地図のSONGZEのあたり)ではY染色体DNAのO-M119が支配的で、長江中流域と下流域の間(DAXIとSONGZEの間のあたり)ではO-M95が支配的で、長江中流域(DAXIのあたり)では複雑だがO-M122が一番多かったことがわかっています。いずれも稲作が盛んに行われていた地域ですが、これらの地域は人間のDNAに関してはそれぞれ明らかに異なる傾向を示しています。南の長江流域でイネを栽培していた人間集団でO-M119とO-M95が支配的だったからといって、北の淮河流域でイネを栽培していた人間集団でもO-M119またはO-M95が支配的だったとは限りません。

長江流域で行われていたイネの栽培が山東省に伝わり、山東省で行われていたイネの栽培が遼東半島に伝わり、山東省と遼東半島の両方で行われていたイネの栽培が朝鮮半島に伝わり、朝鮮半島で行われていたイネの栽培が日本列島に伝わったと考えられることはお話ししました(最近の考古学のちょっと危ない傾向、遼東半島の稲作をめぐる問題を参照)。しかし、その日本列島では、O-M119とO-M95はわずかしか見られず、代わりに朝鮮半島と共通のO-M176が大きな位置を占めているのです(日本人のY染色体ハプログループOの研究、人と稲作と言語の広がりは必ずしも一致しないを参照)。

前回の記事で説明したように、古代の黄河下流域(DAWENKOUのあたり)のY染色体DNAのデータはまだ発表されていませんが、淮河流域でイネの栽培が行われ、それが山東省に広がり、さらに朝鮮半島に渡る過程において、大きな役割を担ったのは、O-M176の集団であった可能性が高いです。重要なのは、長江流域で行われていたイネの栽培が非常に早い時期(8500年前頃)に淮河流域に伝わっていたという点です。

東アジアの農耕の起源、とても時間がかかる革命、二つの重要な概念の記事で指摘しましたが、従来の歴史研究では以下の二つの人間集団がしっかり区別されてきませんでした(栽培とはなにかということについては、上記の記事で論じたので、そちらを参照してください)。

左の人間集団が存在していた時代から右の人間集団が存在する時代への変化は連続的なので、「農耕の起源」と題して一気に語りたくなる気持ちもわからなくはありませんが、やはり歴史を説明するのであれば、最初の段階である左の人間集団と最後の段階である右の人間集団の違いは十分に意識しておく必要があります。だれかが家の庭で行う栽培行為と現代の巨大社会の営みを同じようには語れないでしょう。

特にDNAや言語の問題を考える際には、左の人間集団と右の人間集団の区別に注意しなければなりません。右の人間集団であればあるほど、有無を言わさず、まわりのDNA/言語を消し去り、自分のDNA/言語に置き換えてしまう可能性が高く、左の人間集団であればあるほど、その可能性が低いからです。その可能性が低いというのは、植物の栽培行為自体は広がっていくが、まわりのDNA/言語には大した影響を及ぼさないことも十分ありうるということです。植物の栽培行為自体は、少数の人間を介して伝わることが十分に可能です。

先ほど述べたように、重要なのは、長江流域で行われていたイネの栽培が非常に早い時期(8500年前頃)に淮河流域に伝わっていたという点です。長江流域のO-M119とO-M95の集団が行っていたイネの栽培が淮河流域のO-M176の集団に伝わった可能性が高いです。O-M119とO-M95がO-M176を大きく置き換えることはなかったということです。朝鮮半島と日本列島にO-M176が多く見られ、O-M119とO-M95がわずかしか見られないことから、そのように推測されます(朝鮮半島のデータについてはKim 2010、日本列島のデータについてはNonaka 2007を参照)。

ここまでは、ほぼ朝鮮半島と日本列島に限られているO-M176に焦点を当ててきましたが、朝鮮半島と日本列島にはO-M176だけでなくO-M122も多いので、ここからは、O-M176とO-M122の双方に注目しながら話を進めましょう。

 

古代中国の青銅器はどこから来たのか

古代中国の青銅器は非常に高度で、古代中国の青銅器は一体どこから来たのだろうと議論されてきました。青銅とは、銅にスズがいくらか混ざったものです。現在では、世界中の考古学データが蓄積し、銅(あるいは金属一般)の利用が中東から世界に広まっていったことが明らかになっています。以下の図は、Roberts 2009からの引用です。

BCは紀元前という意味です。上は、人類が自然界にほぼ単体で存在する銅(とても少ないです)または銅を含む銅鉱石を集めていた時代です。下は、人類が銅の製錬(銅鉱石からお目当ての銅を取り出す作業)を行っている時代です。

古代中国の青銅器の起源探しは続けられていますが、細かな時期やルートに検討の余地は残っているものの(Mei 2015)、銅(あるいは金属一般)の利用が中東から始まったという事実は揺らぎそうにありません。

ただし、夏と推定される二里頭文化の時代とその後の殷の時代に青銅器の製作が著しく高度化したのも事実です。二里頭文化の前から中国に銅器は点々と見られましたが、二里頭文化の時代に大きな発達を遂げ、殷の時代にさらに大きな発達を遂げました(Xu 2021)。殷は夏を滅ぼした後も二里頭遺跡とそのすぐそばにとどまり、筆者はなにをしているのかと疑問に思っていましたが、夏が持っていた施設や技術者を活用していたようです(Xu 2021)。このあたりの合理的な判断がのちの殷の繁栄にうまくつながったと見られます。

古代中国の高度な青銅器の製作は中国で発達したものだが、最も素朴な銅器作りは中国の外からやって来たものだということです。

金属の利用(当初は装飾のためだったと考えられています(Roberts 2009))が始まり、広まったことは人類の歴史において大きな出来事でしたが、だからといって単純に中東のDNA/言語が世界を席巻したわけではありません。ある文明・文化的特徴の広がりとDNA/言語の広がりは必ずしも同一視できません。

確かに、農耕の起源は、本格的な階層・分業構造を持つ巨大な人間社会の誕生を可能にしたという意味で、金属の利用の始まり以上の大きな出来事でしょう。しかし、農耕の起源の最初の場面に目を向ければ、それは素朴な栽培行為の始まりであり、その素朴な栽培行為は、素朴な銅器作りと同様に、必ずしも伝わる先々のDNA/言語に大きな影響を及ぼすものではなかったと考えられるのです。

ちなみに、モンゴルの伝統的な遊牧民としての生活スタイルは、農耕と対照的ですが、モンゴルのあの生活スタイルは、もともと東アジアにあったものではなく、西側からもたらされたものです。しかし、モンゴル人に西側からのDNAがどのくらい入っているかというと、驚くほど少ないのです(Jeong 2020)。モンゴル語も、遊牧民の生活スタイルとともに西側からもたらされたとはとても考えられないものです。ある文明・文化的特徴の広がりをDNA/言語の広がりに単純に結びつけることはできないのです。

 

参考文献

英語

Jeong C. et al. 2020. A dynamic 6,000-year genetic history of Eurasia’s Eastern Steppe. Cell 183(4): 890-904.

Kim H. et al. 2010. Y chromosome homogeneity in the Korean population. International Journal of Legal Medicine 124(6): 653-657.

Li H. et al. 2007. Y chromosomes of prehistoric people along the Yangtze River. Human Genetics 122(3-4): 383–388.

Luo W. et al. 2016. Phytolith records of rice agriculture during the Middle Neolithic in the middle reaches of Huai River region, China. Quaternary International 426: 133-140.

Luo W. et al. 2019. Phytoliths reveal the earliest interplay of rice and broomcorn millet at the site of Shuangdun (ca. 7.3–6.8 ka BP) in the middle Huai River valley, China. Journal of Archaeological Science 102: 26-34.

Mei J. et al. 2015. Archaeometallurgical studies in China: Some recent developments and challenging issues. Journal of Archaeological Science 56: 221-232.

Nonaka I. et al. 2007. Y-chromosomal binary haplogroups in the Japanese population and their relationship to 16 Y-STR polymorphisms. Annals of Human Genetics 71(4): 480-495.

Roberts B. W. et al. 2009. Development of metallurgy in Eurasia. Antiquity 83(322): 1012-1022.

Wen S. et al. 2016. Y-chromosome-based genetic pattern in East Asia affected by Neolithic transition. Quaternary International 426: 50-55.

その他の言語

Luan F. 2005. 海岱地区史前时期稻作农业的产生、发展和扩散. 文史哲 6: 41-47.(中国語)

Xu C. 2021. 陶寺、石峁之争与二里头的崛起:寻找中国历史上第一个王朝——夏. 国家人文历史 15: 30-37.(中国語)

パズルの最後の1ピースを探し求めて、注目される山東省のDNAのデータ

前回の記事でお話しした、朝鮮半島と日本列島には多く見られるが、中国を含むその他の地域にはほとんど見られないY染色体DNAのO-M176に焦点を当てましょう(日本人のY染色体ハプログループOの研究、人と稲作と言語の広がりは必ずしも一致しないを参照)。

O系統はO-M119(旧O1)、O-M95(旧O2a)、O-M176(旧O2b)、O-M122(旧O3)という四つの下位系統に大きく分けられますが、そのO系統自体はN系統と比較的近い関係にあります。N系統は、現在では、遼河流域の左上に位置するブリヤート地方東部、その北のヤクート地方、その西のウラル地方、さらに西のフィンランド周辺に多く見られます(ウラル語族の秘密を参照)。

※O系統の中でごくわずかしか見られないマイナーな下位系統は図から省いてあります。

以下の地図は、Wen 2016からの引用で、6000年前頃の東アジアの様子を示しています。

※HONGSHAN——遼河流域の紅山文化(こうさんぶんか)、YANGSHAO——黄河上流域・中流域の仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)、DAWENKOU——黄河下流域の大汶口文化(だいぶんこうぶんか)、DAXI——長江中流域の大渓文化(だいけいぶんか)、SONGZE——長江下流域の崧沢文化(すうたくぶんか)。上記の大汶口文化の後の時代が、すでに取り上げた山東龍山文化で、上記の崧沢文化の後の時代が、すでに取り上げた良渚文化です。

Wen Shaoqing氏らが述べているように、この時代は、五つの文化圏の間に全く交流がなかったわけではありませんが、五つの文化圏がはっきり区別できました。のちの時代に、遼河流域にいた人々が山東省に南下したり、殷が西から山東省に侵攻したりしますが、まだそういうことが起きていない時代です。東アジアの歴史を考えるうえで、一つ重要な時代です。

古代人のY染色体DNAのデータはまだ限られていますが、遼河流域(上の地図のHONGSHANのあたり)ではNが支配的だったこと、黄河上流域・中流域(YANGSHAOのあたり)ではO-M122が支配的だったこと、長江中流域(DAXIのあたり)では複雑だがO-M122が一番多かったこと、長江中流域と下流域の間(DAXIとSONGZEの間のあたり)ではO-M95が支配的だったこと、長江下流域(SONGZEのあたり)ではO-M119が支配的だったことが明らかになっています(Li 2007、Cui 2013)。ちなみに、古代の遼河流域と黄河流域の間の地域のY染色体DNAを調べた貴重な研究もあり、そこでは当初はNが支配的で、のちにO-M122が支配的になったことが明らかになっています(Zhang 2017)。

簡単にまとめると、HONGSHANのあたりはN、YANGSHAOのあたりはO-M122、DAXIのあたりは複雑だがO-M122、DAXIとSONGZEの間のあたりはO-M95、SONGZEのあたりはO-M119という具合です。お察しかと思いますが、現時点では、残念ながら古代の黄河下流域(DAWENKOUのあたり)のY染色体DNAのデータが欠けています。しかし、快調に進む最近の中国の研究を考えると、古代の黄河下流域(DAWENKOUのあたり)のY染色体DNAのデータが出てくるのは、時間の問題と見られます。

現時点でも、推測することは十分に可能です。考えてみてください。朝鮮半島と日本列島に多く見られるO-M176が、HONGSHANのあたりに見られない、HONGSHANとYANGSHAOの間のあたりに見られない、YANGSHAOのあたりに見られない、DAXIのあたりに見られない、DAXIとSONGZEの間のあたりに見られない、SONGZEのあたりに見られないのです。こうなると、もうDAWENKOUのあたりしか残っていません。唯一のデータ欠落地域です。

古代ではなく現代の山東省のY染色体DNAのデータはあります。非常に詳しく調べられていますが、O-M176はごくわずかです。現代の山東省には、インド・ヨーロッパ語族と関係の深いRやインディアンと関係の深いQまで少し見られますが、O-M176はそれらよりも断然少ないです。以下はYin 2020のデータで、上が雲南省のデータ、下が山東省のデータです。

※最近の研究なので、最新式の表記が用いられています。「O1a」がO-M119に一致、「O1b」がO-M95に大体一致、「O1b2」がO-M176に一致、「O2」以下すべてを合わせたものがO-M122に一致します。雲南省でも、山東省でも、O-M176が完全にゼロでないことには留意する必要があります。

ぱっと見たところ、かつて山東省でO-M176が繁栄していたようにはとても見えません。なぜこんなことになっているのでしょうか(もちろん、6000年前頃から現在に至るまでに中国は幾多の激動の歴史を経ており、Y染色体DNAのバリエーションや分布が複雑になっていることは言うまでもありません)。とはいえ、上で説明したように、これまで発表されている古代人のY染色体DNAのデータから推測する限りでは、朝鮮半島と日本列島に多く見られるO-M176はDAWENKOUのあたりから来たとしか考えられないので、あっさりと引き下がるわけにはいきません(上の図の山東省のデータで、O-M122が圧倒的に多いのは当然です。黄河中流域の勢力が拡大して、中国が形成されていったからです。しかし、それと逆の意味で、O-M176の少なさが目立ちます。O-M119、O-M95、Nと比べても、明らかに少ないです。殷が山東省に大々的に侵攻したことを思い出してください。そこからさらに、周の時代、春秋戦国時代が続きます。古代中国の戦乱が最も激しく襲いかかったのが、O-M176の集団だったのではないかと考えたくなるところです。O-M176の異様な少なさに説得力が感じられるのです)。

先ほど言及したZhang 2017の研究で、古代の遼河流域と黄河流域の間の地域のY染色体DNAを調べているにもかかわらず、O-M176が見られないので、O-M176の起源という観点からは、山東省の南部とその南側の隣接地域に注目したほうがよさそうです。冒頭の系統図からわかるように、O-M176に最も近いのはO-M95であり、このO-M95が長江中流域と下流域の間で支配的だったことはわかっているので、O-M176の起源という観点から山東省の南部とその南側の隣接地域に注目することは適切と思われます(地図は中国国家観光局駐大阪代表処のウェブサイトより引用)。

山東省の南部は、河南省(かなんしょう)、安徽省(あんきしょう)、江蘇省(こうそしょう)に隣接しています。河南省、安徽省、江蘇省には、淮河(わいが)とその支流が流れています。淮河は、巨大な黄河と長江に挟まれているのであまり目立ちませんが、結構大きな川で、多くの支流を持ちます。実は、淮河は長江、黄河に次ぐ中国第三の大河なのです(もちろん、長江、黄河は別格ですが)。謎めくY染色体DNAのO-M176の起源を探し求めて、河南省、安徽省、江蘇省の考古学調査をのぞいてみることにしましょう。

 

参考文献

Cui Y. et al. 2013. Y Chromosome analysis of prehistoric human populations in the West Liao River Valley, Northeast China. BMC Evolutionary Biology 13(1): 216.

Li H. et al. 2007. Y chromosomes of prehistoric people along the Yangtze River. Human Genetics 122(3-4): 383–388.

Wen S. et al. 2016. Y-chromosome-based genetic pattern in East Asia affected by Neolithic transition. Quaternary International 426: 50-55.

Yin C. et al. 2020. Genetic reconstruction and forensic analysis of Chinese Shandong and Yunnan Han population by co-analyzing Y chromosomal STRs and SNPs. Genes 11(7): 743.

Zhang Y. et al. 2017. Genetic diversity of two Neolithic populations provides evidence of farming expansions in North China. Journal of Human Genetics 62(2): 199-204.

日本人のY染色体ハプログループOの研究、人と稲作と言語の広がりは必ずしも一致しない

日本人に最も多く見られるY染色体DNAはO系統で、次に多く見られるのはD系統であると以前にお話ししました(アイヌ人と沖縄人のDNAを比べると・・・(Y染色体ハプログループDの研究)を参照、図はWang 2013より引用)。

O系統は日本の近隣に非常に多く見られ、D系統は日本の近隣にほとんど見られません。この点で、O系統とD系統は対照的です。基本的に、O系統は弥生時代初めから稲作とともに日本列島に入ってきた系統で、D系統はそれ以前から日本列島に存在した系統と考えられます(縄文時代の途中からO系統が日本列島に入ってきていた可能性もありますが、話がそれてしまうので、その可能性はここでは脇に置いておきます)。

東アジア・東南アジアに見られるY染色体DNAの大部分はO系統で、O系統は大雑把に言うと以下の四つの下位系統に分けることができます(東アジア・東南アジア全体でごくわずかしか見られないマイナーな下位系統は図から省いてあります)。

この中で、日本人に最も多く見られるのはO-M176(旧O2b)、次に多く見られるのはO-M122(旧O3)で、O-M119(旧O1)とO-M95(旧O2a)はわずかしか見られません(Nonaka 2007では、西日本(沖縄を除く)で36.1%、23.9%、4.1%、1%、関東で30.7%、14.5%、2.2%、0%となっており、沖縄人とアイヌ人を除けば、大体このようになりそうです)。日本人に最も多く見られるO-M176は特殊で、分布がほとんど朝鮮半島と日本列島に限られています(Xue 2006)。O-M176は、朝鮮半島と日本列島に多く見られ、稲作に関係がありそうなので、中国のどこかにも見られそうですが、中国には全くと言ってよいほど見られないのです。なぜでしょうか。

Li Hui氏らの興味深い研究があります(Li 2007)。長江文明が栄えていた頃の長江流域の住民のY染色体DNAを調べていますが、長江下流域ではO-M119が支配的で、長江中流域ではO-M95が支配的だったことが明らかになっています。これは興味深い結果です。稲作発祥の地である長江下流域と中流域で支配的だったO-M119とO-M95が、日本列島にはわずかしか見られないからです。

ちなみに、長江下流域で支配的だったO-M119(その主な下位系統としてO-M110があります)は、特に台湾(正確には台湾原住民)とフィリピンに多く見られます(Delfin 2011)。中国南部の福建省のあたりから台湾を経由してさらに南方に広がっていったオーストロネシア語族の話者と関係があると考えられます(台湾とオーストロネシア語族を参照)。

O-M119が日本にわずかしか見られないことから、長江下流域あるいはさらに南方にいた稲作民が日本に直接来ることがあったとしても、それが主流でなかったことは明らかです。

長江中流域で支配的だったO-M95は、現代では特にオーストロアジア語族(ベトナム系言語)の分布地域(インドシナ半島からインド内部にかけて)に多く見られ、マレーシアとインドネシア西部にもある程度見られます(Chaubey 2011)。

上に示したO系統の系統図を見ると、O-M95とO-M176が比較的近い関係にあるので、過去にはこんな考えもありました。長江中流域で稲作が始まり、そこにいた人間集団の一部がインドシナ半島に向かい、一部が朝鮮半島と日本列島に向かったのではないかという考えです。要するに、O-M95とO-M176の共通祖先型O-M268(旧O2)がかつて長江中流域に存在し、一下位系統であるO-M95がインドシナ半島に向かい、別の下位系統であるO-M176が朝鮮半島と日本列島に向かったのではないかと言いたいのです。しかし、長江中流域から稲作が広がった出来事と、Y染色体DNAのO-M268がO-M95とO-M176に分かれた出来事は、時間的に全然合いません。長江中流域から稲作が広がったのは、せいぜい過去1万年ぐらいのことですが、Y染色体DNAのO-M268がO-M95とO-M176に分かれたのは、2.5~3万年前ぐらいのことです(www.23mofang.com/ancestry/ytree/O-M268を参照、O-M176はO-P49と記されることもあります)。稲作開始よりはるか前に、O-M95とO-M176は分かれていたのです。稲作開始の時点では、O-M95を持つ人間集団が長江中流域で稲作を行い、O-M176を持つ人間集団はいくらか離れたところにいて、稲作を行っていなかったと見られます。O-M268の下位系統は長江下流域に見られないので、O-M268が中国南部の内陸に存在し、そこからインドシナ半島方面と朝鮮半島・日本列島方面に分かれたのではないかというG. Chaubey氏らの考えは、的を射ているのではないかと思われます(Chaubey 2020)。

本記事で示したのは、一例にすぎません。そもそも、人と稲作と言語の広がりは一致するとは限らないのです(稲作のところをその他の文明・文化的特徴に置き換えても、同じことが言えます)。確かな根拠がないのに、人と稲作と言語の広がりは常に一体だと思い込んでしまうから、日本人の起源探しも、稲作の起源探しも、日本語の起源探しも難航するのです。日本の例でも明らかになってきましたが、なぜ人と稲作と言語の広がりが必ずしも一致しないのか考えてみることにしましょう。

ほぼ朝鮮半島と日本列島に限られているY染色体DNAのO-M176がどこから来たのかという問題も、興味深い問題であり、中核的な問題です。

 

参考文献

Chaubey G. et al. 2011. Population genetic structure in Indian Austroasiatic speakers: the role of landscape barriers and sex-specific admixture. Molecular Biology and Evolution 28(2): 1013-1024.

Chaubey G. et al. 2020. Munda languages are father tongues, but Japanese and Korean are not. Evolutionary Human Sciences 2: e19.

Delfin F. et al. 2011. The Y-chromosome landscape of the Philippines: Extensive heterogeneity and varying genetic affinities of Negrito and non-Negrito groups. European Journal of Human Genetics 19(2): 224-230.

Li H. et al. 2007. Y chromosomes of prehistoric people along the Yangtze River. Human Genetics 122(3-4): 383–388.

Nonaka I. et al. 2007. Y-chromosomal binary haplogroups in the Japanese population and their relationship to 16 Y-STR polymorphisms. Annals of Human Genetics 71(4): 480-495.

Wang C. et al. 2013. Inferring human history in East Asia from Y chromosomes. Invetigative Genetics 4(1): 11.

Xue Y. et al. 2006. Male demography in East Asia: A north-south contrast in human population expansion times. Genetics 172(4): 2431-2439.