日本語の起源と歴史に興味を持つすべての方へ

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こんにちは。金平譲司と申します。ここに「日本語の意外な歴史」と題するブログを立ち上げました。

このブログは、日本語ならびに日本語と深い関係を持つ言語の歴史を解明するものです。言語学者だけでなく、他の分野の専門家や一般の方々も読者として想定しています。

謎に包まれてきた日本語の起源

日本語はどこから来たのかという問題は、ずいぶん前から様々な学者によって論じられてきましたが、決定的な根拠が見つからず、大いなる謎になってしまった感があります。しかしながら、筆者の研究によってようやくその全貌が明らかになってきたので、皆さんにお話ししようと思い立ちました。

日本語は、朝鮮語、ツングース諸語(エヴェンキ語、満州語など)、モンゴル諸語(モンゴル語、ブリヤート語など)、テュルク諸語(トルコ語、中央アジアの言語など)と近い関係にあるのではないか、あるいはオーストロネシア語族(台湾、フィリピン、インドネシア、マレーシア、オセアニアなどの言語から成る言語群)と近い関係にあるのではないかというのが従来の大方の予想でしたが、これらの予想はポイントを外しています。

中国語を見て全く違うと感じた日本人が、日本語は北方の言語と関係があるのではないか、南方の言語と関係があるのではないかと考えたのは、至極当然のことで、北方の言語と南方の言語に視線を注ぐこと自体は間違っていません。問題なのは、北方のごく一部の言語と南方のごく一部の言語に関心が偏ってしまったことです。

上記の言語のうちで、朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語は、日本語によく似た文法構造を持つことから、日本語に近縁な言語ではないかと盛んに注目されてきました。同時に、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語は、互いに特に近い関係にあるとみなされ、いわゆる「アルタイ語族」という名でひとまとめにされることがしばしばありました。日本語の起源をめぐる議論は、このような潮流に飲まれていきました。

しかしながら、筆者がこれから明らかにしていく歴史の真相は、かなり違います。日本語は、朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語と無関係ではないが、別の言語群ともっと近い関係を持っているようなのです。

実を言うと、筆者は日本語やその他の言語の歴史に興味を持つ人間ではありませんでした。筆者は若い頃にフィンランドのヘルシンキ大学で一般言語学や様々な欧州言語を学んでいましたが、その頃の筆者の興味は言語と思考の関係や外国語の学習理論などで、もっぱら現代の言語に関心が向いていました。歴史言語学の講義もありましたが、特に気に留めていませんでした。

筆者が言語の歴史について真剣に考えるようになったきっかけは、ロシアの北極地方で少数民族によって話されているサモエード諸語との出会いでした。サモエード諸語は、フィンランド語やハンガリー語と類縁関係にある言語です。フィンランド語とハンガリー語はヨーロッパの中では異色の存在で、北極地方の少数民族の言語と類縁関係を持っています。フィンランド語、ハンガリー語、サモエード諸語などから成る言語群は、「ウラル語族」と呼ばれます。

言語学者が使う「語族」という用語について若干説明しておきます。私たちが万葉集や源氏物語の言葉を見ると、「読みにくいな」と感じたり、「なにを言っているのかわからないな」と感じたりします。言語は時代とともに少しずつ変化しています。言語は単に変化するだけでなく、分化もします。ある程度広い範囲で話されている言語には、地域差が生じてきます。

この地域ごとに少しずつ異なる言葉が方言です。しかし、これらの方言が地理的に隔たってさらに長い年数が経過すると、最初は小さかった方言同士の差が大きくなっていき、やがて意思疎通ができないほどになります。

あまりに違いが大きくなれば、もう方言ではなく、別々の言語と言ったほうがふさわしくなります。一律の学校教育やマスメディアが発達していない時代には、この傾向は顕著です。ある言語が別々の言語に分化するのです。分化してできた言語がさらに分化することもあります。言語学では、おおもとの言語と分化してできた諸言語をまとめて「語族」といいます。世界で最もよく知られている語族は、インド・ヨーロッパ語族と呼ばれる語族で、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語などはこの語族に属します。例えるなら、イヌ、オオカミ、キツネ、タヌキが共通祖先を持っているように、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語は共通祖先を持っているということです。

日本語とウラル語族

英語などが属するインド・ヨーロッパ語族は巨大な言語群ですが、フィンランド語やハンガリー語が属するウラル語族はこじんまりとした言語群です。ウラル語族の言語は、ロシアの北極地方から北欧・東欧にかけて分布しています。地理的に遠く離れているので、ウラル語族の言語は一見したところ東アジアの言語、特に日本語とはなんの関係もないように見えますが、実はここに大きな盲点があります。日本語の歴史を考えるうえで大変重要になるので、ウラル語族の話を続けます。以下にウラル語族の内部構造を簡単に示します。

ウラル語族の言語を研究する学者の間に意見の相違がないわけではありませんが、上の図は従来広く受け入れられてきた見方です。ウラル語族の言語は、まずフィン・ウゴル系とサモエード系に分かれ、フィン・ウゴル系はそこからさらにフィン系とウゴル系に分かれます。フィンランド語はフィン系に属し、ハンガリー語はウゴル系に属します。サモエード系の言語は、ロシアの北極地方に住む少数民族によって話されています。現在残っているサモエード系の言語はネネツ語、エネツ語、ガナサン語、セリクプ語の四つのみで、特に後の三つは消滅の危機にあります。

サモエード系の言語は、フィンランド語やハンガリー語と同じウラル語族の言語ですが、フィンランド語やハンガリー語とは文法面でも語彙面でも著しく異なっています。同じ言語から分かれた言語同士でも、別々の道を歩み始め、何千年も経過すれば、似ても似つかない言語になってしまいます。特に、サモエード系の言語が辿った運命とフィンランド語・ハンガリー語が辿った運命は対照的です。サモエード系の言語は、北極地方にとどまり、他の言語との接触が比較的少なかったために、昔の姿をよく残しています。それに対して、フィンランド語とハンガリー語は、有力な言語がひしめくヨーロッパに入り込み、大きく姿を変えました。サモエード系の言語は、いわば「生きた化石」です。人類の歴史を解明するうえで、大変重要な言語です。サモエード系の言語との出会いは、筆者にとってショッキングな出来事でした。これ以降、筆者は言語の歴史について本格的に研究し始めることになります。

筆者が初めてサモエード系の言語を見た時には、「文法面ではモンゴル語やツングース諸語に似ているな」という第一印象を受けました。しかし、よく調べると、「あれっ、語彙面では日本語に似ているな」という第二印象を受けました。少なくとも言語の根幹をなす基礎語彙に関しては、モンゴル語やツングース諸語より、ウラル語族のサモエード系の言語のほうが日本語に近いと思いました。なんとも不思議な感じがしました。なんで日本の近くで話されているモンゴル語やツングース諸語より、北極地方で話されているウラル語族のサモエード系の言語のほうが日本語に近いんだろうと考え始めました。様々な言語を見てきましたが、サモエード系の言語には今までにない特別なものを感じました。なにか重大な秘密が隠されている予感がしました。

フィンランド語とハンガリー語だけを見ていた時は気づかなかったのですが、サモエード系の言語を介しながらフィンランド語とハンガリー語を見てみると、やはりフィンランド語とハンガリー語にも日本語との共通語彙があります。日本語の中にある、ウラル語族と共通している語彙、そしてウラル語族と共通していない語彙を見分けていくうちに、二つの疑問が頭に浮かんできました。一つ目の疑問は、日本語の祖先とウラル語族の言語の祖先の接点は地理的にどの辺にあったのだろうという疑問です。二つ目の疑問は、日本語の中にある、ウラル語族と共通していない語彙はどこから来たのだろうという疑問です。日本語の中には、ウラル語族と共通している語彙も多いですが、共通していない語彙も多いのです。

東アジアには黄河文明とは違う文明が存在した

ウラル語族の各言語の語彙を研究するうちに、ウラル語族が日本語だけでなく、モンゴル語、ツングース諸語、朝鮮語、さらには中国語にもなんらかの形で関係していることが明らかになってきたので、ウラル語族の言語と東アジア・東南アジアの言語の大々的な比較研究を開始しました。着実かつ合理的に歴史を解明するため、考古学および生物学の最新の研究成果を適宜参照しました。考古学も生物学も近年めざましい発展を遂げており、数々の重要な発見がありました。

かつては、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、そして東アジアの黄河文明が並べられ、世界四大文明と呼ばれていました。ところが、その後の発見によって、東アジアには黄河文明のほかに二つの大きな文明が存在したことがわかってきました(このテーマを包括的に扱った書籍はいくつかありますが、考察の広さ・深さの点でShelach-Lavi 2015が優れています)。

その二つの大きな文明とは、長江文明と遼河文明(りょうがぶんめい)です。日本列島で縄文時代が進行する間に、大陸側はこのようになっていたのです。黄河文明と長江文明に比べて、遼河文明は知名度が高くないかもしれません。しかし、遼河文明は、日本語の歴史を解明するうえで重要な鍵を握っているようなのです。

生物学が発達し、人間のDNA配列が調べられるようになりました。DNA配列は、正確には「DNAの塩基配列」といい、アデニンA、チミンT、グアニンG、シトシンCという四種類の物質が作る列のことです。最近では、生きている人間のDNA配列だけでなく、はるか昔に生きていた人間のDNA配列も調べられるようになってきました。大変興味深いことに、遼河文明が栄えていた頃に遼河流域で暮らしていた人々のDNA配列を調べた研究があります(Cui 2013)。

人間は父親と母親の間に生まれるので、子のDNA配列が父親のDNA配列と100パーセント一致することはなく、子のDNA配列が母親のDNA配列と100パーセント一致することもありません。しかし、父親から息子に代々不変的に受け継がれていく部分(Y染色体DNA)と、母親から娘に代々不変的に受け継がれていく部分(ミトコンドリアDNA)があります。代々不変的に受け継がれていく部分と書きましたが、この部分にも時に突然変異が起きます。つまり、その部分のDNA配列のある箇所が変化するのです。変化していないY染色体DNA配列を持つ男性がそれを息子に伝える一方で、変化したY染色体DNA配列を持つ男性がそれを息子に伝えるということが起き始めます。同様に、変化していないミトコンドリアDNA配列を持つ女性がそれを娘に伝える一方で、変化したミトコンドリアDNA配列を持つ女性がそれを娘に伝えるということが起き始めます。こうして、時々起きる突然変異のために、Y染色体DNAのバリエーション、ミトコンドリアDNAのバリエーションができてきます。人類の歴史を研究する学者は、このY染色体DNAのバリエーション、ミトコンドリアDNAのバリエーションに注目するのです。

先ほど述べた遼河流域の人々のDNA研究は、Y染色体DNAのバリエーション(例えば、C系統か、D系統か、N系統か、O系統か)を調べたものです。その結果はどうだったでしょうか。古代の人々の研究なのでサンプル数は限られていますが、それでも大まかな傾向は十分に捉えられています。遼河文明が栄えていた頃の遼河流域では、当初はN系統が圧倒的に優勢だったが、次第にO系統とC系統が増え(つまり他の地域から人々が流入してきたということ)、N系統はめっきり少なくなってしまったようです。現在の日本、朝鮮半島、中国では、N系統はほんの少し見られる程度です(Shi 2013)。対照的に、ウラル語族の言語が話されているロシアの北極地方からフィンランド方面にかけてN系統が非常に高い率で観察されています(Rootsi 2007)。

見え始めた日本語の正体

筆者もウラル語族の言語が東アジアの言語と深い関係を持っていることを知った時には大いに驚きましたが、考古学・生物学の発見と照らし合わせると、完全に合致します。日本語がウラル語族の言語と深い関係を持っていることは非常に興味深いですが、もう一つ興味深いことがあります。日本語の中には、ウラル語族と共通している語彙も多いですが、共通していない語彙も多く、ウラル語族とは全く異なる有力な言語群も日本語の形成に大きく関与したようなのです。

ウラル語族の言語と東アジア・東南アジアの言語の大々的な比較研究を行い、様々な紆余曲折はありましたが、漢語流入前の日本語(いわゆる大和言葉)の語彙構成が以下のようになっていることがわかってきました。

「ウラル語族との共通語彙」も多いですが、「黄河文明の言語との共通語彙」と「長江文明の言語との共通語彙」も多く、この三者で漢語流入前の日本語の語彙の大部分を占めています。

「その他の語彙1」というのは、日本語が大陸にいた時に取り入れた語彙で、「ウラル語族との共通語彙」にも、「黄河文明の言語との共通語彙」にも、「長江文明の言語との共通語彙」にも該当しないものです。

「その他の語彙2」というのは、日本語が縄文時代に日本列島で話されていた言語から取り入れた語彙です。

漢語流入前の日本語の語彙構成の特徴的なところは、なんといっても、語彙の大きな源泉が三つあることです。三つの有力な言語勢力が交わっていたことを窺わせます(遼河文明と黄河文明と長江文明の位置を思い出してください)。

「日本語の意外な歴史」では、ウラル語族との共通語彙、黄河文明の言語との共通語彙、長江文明の言語との共通語彙、その他の語彙1、その他の語彙2、いずれも詳しく扱っていきます。

では、日本語およびその他の言語の歴史を研究するための準備に取りかかりましょう。

 

外国語の単語の表記について

英語と同じようなアルファベットを使用している言語では、それをそのまま記します。言語学者が諸言語の発音を記述するのに使う国際音声記号(IPA)というのがありますが、音韻論の専門家でない限り、多くが見慣れない記号です。そのため、本ブログではIPAの使用はできるだけ控えます。特に朝鮮語は、IPAを用いて記すと複雑になるため、市販されている初心者向けの韓国語の文法書で採用されている書き方にならいました。一般の読者にとって見慣れない記号を用いる場合には、補助としてのカタカナ表記を付け加えます。慣習を考慮し、ヤ行の子音は基本的に、北方の言語(ウラル語族の言語など)では「j」で表し、南方の言語(中国語、東南アジアの言語)では「y」で表します。古代中国語のアルファベット表記の仕方は、Baxter 2014に従います。

 

参考文献

Baxter W. H. et al. 2014. Old Chinese: A New Reconstruction. Oxford University Press.

Cui Y. et al. 2013. Y chromosome analysis of prehistoric human populations in the West Liao River Valley, Northeast China. BMC Evolutionary Biology 13: 216.

Rootsi S. et al. 2007. A counter-clockwise northern route of the Y-chromosome haplogroup N from Southeast Asia towards Europe. European Journal of Human Genetics 15: 204-211.

Shelach-Lavi G. 2015. The Archaeology of Early China: From Prehistory to the Han Dynasty. Cambridge University Press.

Shi H. et al. 2013. Genetic evidence of an East Asian origin and paleolithic northward migration of Y-chromosome haplogroup N. PLoS One 8(6): e66102.


►言語の歴史を研究するための準備へ

邪馬台国論争は21世紀に入ってから近畿説が優位に、中国と日本が迎えた大きな転機

邪馬台国論争は、江戸時代から主に九州説と近畿説の間で繰り広げられてきましたが、21世紀に入ってからは近畿説が優位になり、この形勢が固まりつつあります。

ここに至るまでには、実に様々な展開がありました。データが積み重ねられていく過程で、九州説のほうがもっともらしく見えた時もあれば、近畿説のほうがもっともらしく見えた時もありました。筆者自身は、このような展開があったこと自体が貴重だと思っています。

諸説が入り乱れた邪馬台国論争ですが、20世紀終盤から歴史学者の山尾幸久氏、考古学者の都出比呂志氏、考古学者の白石太一郎氏などが主張してきた説がどんどん現実味を帯びてきています。ここでは、1985年の都出氏の発言を引用します(石野2015)。

もし中国の文献が事実を一部でも伝えているのだとすれば、邪馬台国というか、ああいう一つの政治連合体は、近畿および瀬戸内の沿岸地域の一つのブロックを指しているのではないかというのが私の考えです。ですから、種類分けすれば、私の場合は畿内邪馬台国説になるかもしれませんが、従来の畿内説の人と違う点は、弥生中期の段階、すなわち二世紀の初めぐらいまでの段階では、畿内のそういう政治権力は中国などの外交権や商業ルートを確保するという点においては九州に一歩後れていたのではないかというふうに考えているのです。非常に大胆な言い方をしますと、一世紀から二世紀の半ばぐらいまでは、北部九州が中国から冊封に似たお墨付きをもらっていたと思います。それを示すものが須玖遺跡などの前漢鏡や璧です。璧は一つの権威のシンボルですが、それを持った王者がいたのでしょう。実際に文献のほうでもAD五七年やAD一〇七年の朝貢記事がありますが、あれは恐らく北部九州の王様を指していることは間違いないだろうと考えています。

それは後漢王朝にとって良い子だった人たちですが、二世紀末の動乱で、この力関係がひっくり返るのではないか。この考えは立命館大学の山尾幸久さんの研究(『日本古代王権形成史論』岩波書店、一九八三)から学ぶところ大です。その結果、畿内・瀬戸内連合が優勢となり、北部九州はそれ以後衰退し、古墳時代を迎えるという一つの脚本はどうでしょうか。

※都出氏のこの発言は、下で説明する「高地性集落」について論じた時の発言です。

前回の記事では、弥生時代後期に北九州の勢力が中国の文明・文化を取り入れて隆盛を誇っていたことをお話ししました。その一方で、北九州の勢力が中国の文明・文化が東方(北九州より東、すなわち本州と四国)へ流入するのを邪魔していたのではないかと指摘しました。北九州が中国の文明・文化の取り入れをほぼ独占し、東方に不満・怒りがたまっていく状況を想像してください。

山尾氏、都出氏、白石氏らは、このような状況の中で北九州の勢力と東方の勢力の間についに戦争が起きたのではないか、そしてこの戦争が魏志倭人伝に記されている「倭国大乱」ではないかと考えているのです(山尾1983、白石2013、石野2015)。

前回の記事では、弥生時代後期の北九州から豪華な中国鏡が続々と出てくる一方で、東方からは鏡の破片ばかりが出てくるという寺沢薫氏のデータを紹介しました。実は、寺沢氏は興味深い別のデータも示しています(寺沢2014、2021)。

これは、高地性集落と呼ばれるものの分布データです。ここで注意しなければならないのは、寺沢氏などの考古学者が、単に高いところにある集落に注目しているわけではないということです。寺沢氏などの考古学者が注目しているのは、生計・生業上の理由ではなく、防衛上の理由で高いところに形成されている集落です。そういう集落がここで問題とされているのです。

漢が紀元前108~107年に朝鮮半島に楽浪郡などの植民地を置き、中国の文明・文化がぐっと近づきました。そして、北九州の勢力がその中国の文明・文化を取り入れ、隆盛を誇るようになります。その頃から、瀬戸内海の沿岸地域を中心に防衛を意識した高地性集落が現れます(途中から九州中部に少し現れる高地性集落も、同様の性格の高地性集落でしょう)。

中国鏡のデータのところでもうっすらと感じられましたが、やはり、北九州の勢力が東方(と南方)の勢力に非友好的な態度を取り、東方(と南方)の勢力に警戒感を抱かせていると見られます。この緊張状態はその後どうなったのでしょうか。

前回の記事の中国鏡と中国銭貨のデータから、東方の勢力が中国の文明・文化に関心を持っていたことは十分に窺えます。しかし、いくら北九州の勢力が邪魔だからといって、北九州の勢力とすぐに対決するわけにはいきません。北九州の勢力は、漢の皇帝から金印を授かっていることからもわかるように、冊封体制に入っている(ゆるやかな君臣関係を結んでいる)からです。要するに、バックに漢がいるのです。歴史学者の井上光貞氏などが推測したように、「虎の威を借る狐」のようなことが起きていたと思われます(井上2005)。漢が「虎」で、北九州が「狐」です。東方(と南方)の勢力にできることといえば、警戒態勢を取ることぐらいです。

しかし、とうとう最大のターニングポイント(転機)がやって来ます。巨大な漢が崩壊し始めるのです。

漢王朝は、正確には前漢(紀元前206年~紀元後8年)と後漢(紀元後25年~紀元後220年)に分けられます。漢王朝の外戚となった王莽が皇帝の地位を奪い取ってしまった時期があるからです。王莽は、前漢の哀帝の死後に、幼い平帝を立て、自分が実権を握り、皇位まで奪い取りました。

このように、皇帝の周囲にいる者が権力を握ったり、権力を争ったりすることは中国の歴史において日常茶飯事であり、前漢から王莽の皇位簒奪をはさんで復活した後漢も結局はそのような形で衰退していきます。

日本の歴史および東アジアの歴史を考えるうえで非常に意義深いのは、漢王朝(後漢)が崩壊していくまさにその過程で「倭国大乱」が起きたということです。この時期は、中国も朝鮮半島も大きく混乱しています。時代的に詳しく見てみましょう。

魏志倭人伝には、以下のように記されていました(藤堂2010)。

其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。

其の国、本亦た男子を以って王と為す。住まること七、八十年、倭国乱れて、相攻伐すること年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。

落ち着いた時代が70~80年あった後、倭国で戦乱が発生したことが記されています。落ち着いた時代とはいっても、あからさまな戦争がなかったというだけで、上の図が示すような高地性集落の形成という緊張状態はあったわけです。

魏志よりも後に完成した中国の歴史書に、倭国大乱が桓帝・霊帝の時代(146~189年)に起きた、あるいは霊帝の時代(168~189年)に起きたという具体的な記述がありますが、筆者はこれらの情報に魏志倭人伝の情報以上の価値を与えることはできないと思います。中国の歴史書に107年に倭国王の帥升らが朝貢したことが記録されており、この男王がいた107年に上記の魏志倭人伝の70~80年を加算したと考えられるからです。ここはひとまず、倭国大乱は2世紀(101~200年)の終わりに近い頃に発生したぐらいの解釈にとどめておくのが賢明でしょう。

有名な黄巾の乱が起きたのは184年です。霊帝は幼くして皇帝の地位につき、霊帝の時代は、皇帝の周囲にいる者たちが激しい権力争いをし、政治が大いに乱れていた時代です(この傾向は霊帝よりも前から現れていました)。霊帝はすでに周辺の異民族との戦いなどで苦しくなっていた財政をなんとかしようとして官位の売買(官位を手に入れたい者がお金で官位を手に入れること)を認めましたが、これは結果的に、役人などが高い地位を求めて庶民に重税を課すことにもつながりました。悪いことに、自然災害も度重なりました。そのような中で、新興宗教の指導者である張角が困窮した農民を率いて起こした反乱が、黄巾の乱です。後漢を転覆させようとした黄巾の乱は、大規模な反乱になりましたが、鎮圧されました。

しかしながら、黄巾の乱の鎮圧によって後漢が威光を取り戻したかというと、そんなことは全くなく、逆に、皇帝の力ではなく、皇帝以外の者たち(黄巾の乱の鎮圧で活躍した武将たち)の力が際立ちました。形式的には漢王朝が消滅するのは皇位が禅譲された220年ですが、実質的には184年の黄巾の乱の鎮圧から次の三国時代(魏、呉、蜀)への移行期が始まります。

ここからの人間模様はとても複雑です。しかし、後漢の滅亡は日本の歴史を考えるうえで無視できないので、ざっと見ておきましょう。

189年5月に霊帝が病死すると、ただでさえ混乱していた状況がさらに混乱します。

霊帝の後は、霊帝と何皇后の子である劉弁が少帝として即位します。何皇后とその兄である何進(黄巾の乱を鎮圧した際の大将軍)が、少帝を立てました。

霊帝には、何皇后との間に劉弁という子がいましたが、側室の王美人との間にも劉協という子がいました。何皇后は、王美人が出産した時に激しく嫉妬し、王美人を毒殺してしまった過去があります。

霊帝の後に劉弁が皇帝になるか、劉協が皇帝になるかという話も、穏やかには済みませんでした。劉弁を立てようとした何進は、劉協を立てようとする宦官に殺されそうになりました。

※宦官とは、去勢されて(性器を切除されて)、皇帝や後宮(皇帝が家庭生活を営む場所)の世話をしていた男性です。これだけ聞くと単なる召使いのように思えますが、中国の歴史においては必ずしもそうではなく、政治に大きな影響力を持つケースが度々ありました。

少帝を立てた後、何進は自分を殺そうとした宦官を殺します。何進は部下だった袁紹に進言されて宦官たちをすべて排除しようとしますが、何太后(かつての何皇后)に止められます。そうこうしているうちに、何進は他の宦官に殺されてしまいます。

これを受けて、袁紹らは宦官たちをほぼ皆殺しにしますが、ごく一部の宦官が少帝と劉協を連れて逃げ出します。

この時に少帝と劉協を取り戻したのが、董卓という武将でした。董卓は、もともと宦官たちと対立する何進・袁紹に呼ばれてやって来た武将の一人ですが、少帝と劉協を取り戻した後は、首都の洛陽を占拠し、武力に物を言わせた暴政を勝手に開始します。とんでもない人物を呼び寄せてしまったわけです。189年9月に董卓は少帝を皇位から外し、劉協を皇位につけて献帝とします。少帝とその母の何太后は、のちに董卓に殺されます。

当然、他の有力な武将はこんな董卓に反感を持ちますが、寄せ集めの反董卓連合軍(袁紹、曹操(曹丕の父)、孫堅(孫権の父)、劉備などがいました)は董卓を苦しめはしますが、完全に倒せません。董卓は結局、192年に董卓の近くに仕えていた王允と呂布の共謀によって殺されます。董卓の暴虐さに従えなくなった王允が董卓の警護役の呂布を引き込んだのでした。その後、王允は董卓の部下らに殺され、呂布は曹操に殺されます。

董卓と王允、呂布がいなくなった後は、反董卓連合軍を形成していた武将同士の本格的な戦いです。董卓を憎んでいるという点が一致していただけで、これらの武将同士は決して仲がよいわけではなく、各々は自分が支配することを目論んでいます。曹操が袁紹を破った官渡の戦いをはじめ、幾多の戦いを経ながら、三国時代に向かっていきます。

最終的には、220年にもはや形だけの存在になっていた後漢最後の皇帝の献帝が曹操の子の曹丕に皇位を禅譲し、漢王朝が消滅するとともに、曹丕が「魏」の皇帝になります。対抗して、孫権が「呉」の皇帝になり、劉備が「蜀」の皇帝になります。

長々と書きましたが、黄巾の乱があり、霊帝が死亡した後、後漢の皇帝は完全に形骸化し、武将たちの殺し合い・戦いが激しく展開されたわけです。

ここで興味深いのは、この中国の動揺、というより大激震が、いつ日本に伝わって来たのかという問題です。朝鮮半島の動きが気になるところです。中国の大激震はまず朝鮮半島に伝わり、そこから日本に伝わって来た可能性が高いからです。今度は朝鮮半島に目を向けましょう。

 

参考文献

石野博信ほか、「倭国乱とは何か 「クニ」への胎動」、新泉社、2015年。

井上光貞、「日本の歴史<1> 神話から歴史へ」、中央公論新社、2005年。

白石太一郎、「古墳からみた倭国の形成と展開」、敬文舎、2013年。

寺沢薫、「弥生時代の年代と交流」、吉川弘文館、2014年。

寺沢薫、「弥生国家論 国家はこうして生まれた」、敬文舎、2021年。

藤堂明保ほか、「倭国伝 中国正史に描かれた日本 全訳注」、講談社、2010年。

山尾幸久、「日本古代王権形成史論」、岩波書店、1983年。

「大和(やまと)」という日本の不思議な都

前回の記事で示した魏志倭人伝が記す卑弥呼登場の場面をもう一度見てみましょう(藤堂2010)。

其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。共立一女子爲王。名曰卑彌呼。

其の国、本亦た男子を以って王と為す。住まること七、八十年、倭国乱れて、相攻伐すること年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。

赤字にしたのは、古代中国語のnoj(乃)ノイという語です。「乃」の前には、「倭国が乱れて、攻め合いが何年か続いたこと」が記されています。「乃」の後には、「一人の女子を共立して、王としたこと」が記されています。

「乃」はなにを意味しているのかということですが、これは実は微妙な問題です。上記の「乃」は、日本では普通、「そこで」と訳されてきました。

・「倭国が乱れて、攻め合いが何年か続いた」→「そこで」→「一人の女子を共立して、王とした」

「乃」を「そこで」と訳せる場合があるのは事実です。しかし、古代中国語の「乃」という語は、元来英語のthenのような語だったのです。上の文を以下のように書き換えてみると、どうでしょうか。

・「倭国が乱れて、攻め合いが何年か続いた」→「そして」→「一人の女子を共立して、王とした」

・「倭国が乱れて、攻め合いが何年か続いた」→「それから」→「一人の女子を共立して、王とした」

・「倭国が乱れて、攻め合いが何年か続いた」→「その後」→「一人の女子を共立して、王とした」

「乃」は、「そして」、「それから」、「その後」などと訳せる場合もあるのです。少なくとも、機械的に「そこで」と訳せばよいというものではありません。

魏志倭人伝の原文から確実に読み取れるのは、倭国の展開の中で、「倭国が乱れて、攻め合いが何年か続いたこと」と「一人の女子を共立して、王としたこと」の間に時間的な前後関係があることぐらいです。そう考えておくのが、安全です。

しかし、「倭国が乱れて、攻め合いが何年か続いたこと」を時間的に前に来る出来事、「一人の女子を共立して、王としたこと」を時間的に後に来る出来事と考えてみても、なかなか理解しづらいです。皆さんの頭の中で、「倭国が乱れて、攻め合いが何年か続いた」→「一人の女子を共立して、王とした」とすんなりつながるでしょうか。

例えば、古代中国の春秋・戦国時代を考えてみましょう。多くの国が入り乱れて戦った時代です。強い国だけが残っていきました。最後はどうなったでしょうか。秦が統一を果たしたのです。ここに「卑弥呼共立」のような展開はありません。

統一を果たした秦は、短命に終わります。もともと秦の王で、初代皇帝になった始皇帝が死ぬと、各地で反乱が起き、早くも崩壊し始めます。この反乱軍の中に、項羽と劉邦がいました。項羽は自分が天下を取るんだと意気込んでいましたが、項羽より先に劉邦が秦の都の咸陽を陥落させてしまいます。ここから項羽と劉邦の対立が始まります。そこから小説化されたりドラマ化されたりした壮大な戦いがありましたが、最終的に劉邦が項羽を破り、漢王朝を打ち立てます。ここにもやはり「卑弥呼共立」のような展開はありません。

上の秦の話と漢の話はわかりやすいです。一番強い者が勝って、あるいはより強い者が勝って、支配するという話です。

それに比べると、「卑弥呼共立」はとてもわかりにくいです。日本にも多くの戦いがありましたが、「卑弥呼共立」はとてもわかりにくいです。

前回の記事では、男の権力者(各国の王たち)が集まって、象徴として少女を連合の最高位に据えたのだろうと推測しました。

男の権力者(各国の王たち)のうちのだれも連合の最高位につくことができず、象徴として少女を連合の最高位に据えているのです。上の図で卑弥呼がいなくなってしまうと、男の権力者(各国の王たち)は争いを始めてしまいます。これは非常に不思議な光景です。男の権力者(各国の王たち)は、殺し合いすらしてしまうような関係です。しかしその一方で、連合を形成・維持したがってもいるのです。

非常に不思議な光景ですが、日本という国家の起源を考えるうえでも、邪馬台国論争(邪馬台国が九州にあったのか近畿にあったのかという論争)を考えるうえでも、極めて重要な場面です。

前に、日本の歴史は弥生時代→古墳時代→飛鳥時代→奈良時代と推移し、邪馬台国の時代はちょうど弥生時代と古墳時代の境目のあたりであるとお話ししました。

ただ、弥生時代はとても長いです。紀元前900~800年頃(日本列島に稲作が入ってきた時を基準にする場合)から紀元後200~250年頃まで続きます。当然、弥生時代のはじめの頃と終わりの頃では、日本列島の様子もかなり違います。

弥生時代の終わりに近いほうでは、中国の文明・文化を取り入れようとする姿勢が顕著です。漢が紀元前108~107年に朝鮮半島に楽浪郡などの植民地を置いたので、中国の文明・文化がぐっと近づきました。考古学者の寺沢薫氏がデータを示しながら興味深い状況を描き出しているので、紹介しましょう(ここでは、「東方」というのは「北九州より東」を意味しているので注意してください)(文章と図は寺沢2014、2021より引用)。

とはいえ中期後半以降にあって、東方のクニ・国の首長層がもっとも入手を期待したのは、やはり中国鏡と武器(この段階ではすでに鉄製の刀と剣)であったろう。しかしそのほとんどはイト国連合とナ国連合を頂点とする北部九州の首長層に配分され、その周縁ですらわずかな小形鏡と鏡片を入手できたに過ぎない。弥生時代をつうじて東方諸国のオウや王が手に入れた完形の中国鏡は、わずかに兵庫県加古川市西条五二号墳丘墓(後期末)と岐阜市瑞龍寺山遺跡墳丘墓(後期中ごろ)の後漢の連弧文鏡の二点でしかない。畿内のクニグニのオウたちは中国鏡の破片を北部九州から手に入れて、破断面がツルツルになるまで後生大事に磨きつづけたのである。

寺沢氏のデータが示すように、弥生時代後期には、北九州から豪華な中国鏡が続々と出てくる一方で、東方からは鏡の破片ばかりが出てきます。これは一体なにを物語っているのでしょうか。

弥生時代後期の北九州に、中国の文明・文化が豊かに取り入れられていたことは広く知られています。皆さんも、北九州の奴国(なこく)の王が57年に漢の光武帝から与えられたと見られている、「漢委奴國王」と刻まれた金印をご存じでしょう(写真はWikipediaより引用)。

弥生時代後期に、北九州の勢力が中国の文明・文化を取り入れて隆盛を誇っていたことは間違いありません。同じ時期に、東方の勢力が中国の文明・文化の取り入れという点で大きく見劣りしていたことも間違いありません。

しかし、寺沢氏のデータは、気になることを示唆しています。中国鏡と中国銭貨のデータは、東方の勢力が中国の文明・文化に決して無関心でなかったことを示しています。

北九州から豪華な中国鏡が続々と出てきて、東方から鏡の破片ばかりが出てくる状況は、要注意です。北九州の勢力が中国の文明・文化の取り入れをほぼ独占していた、別の言い方をすると、北九州の勢力が中国の文明・文化が東方へ流入するのを邪魔していた可能性があるからです。

中国鏡と中国銭貨のデータから、吉備(岡山県のあたり)と摂津・河内・和泉(大阪府のあたり)の存在感が感じられるのは気になるところですが、弥生時代後期になっているのに、大和(奈良県のあたり)の存在感が感じられないのも気になるところです(もちろん、この時期の大和にも人は住んでいますが、有力者がいないということです)。

北九州の勢力が中国の文明・文化の取り入れをほぼ独占していた、別の言い方をすると、北九州の勢力が中国の文明・文化が東方へ流入するのを邪魔していた可能性があると述べましたが、この話は日本の歴史を考えるうえで最も重要なので、この話を続けます。

 

参考文献

寺沢薫、「弥生時代の年代と交流」、吉川弘文館、2014年。

寺沢薫、「弥生国家論 国家はこうして生まれた」、敬文舎、2021年。

藤堂明保ほか、「倭国伝 中国正史に描かれた日本 全訳注」、講談社、2010年。

天皇の起源はもしかして・・・倭国大乱と卑弥呼共立について考える

卑弥呼のことは、中国の歴史書(魏志倭人伝)には書かれているが、日本の歴史書(古事記と日本書紀)には書かれていないとお話ししました。魏志倭人伝には、卑弥呼が倭王になるきっかけになった「倭国大乱」のことも書かれていますが、これがとても短い記述で、極めて難解です。微妙な解釈の問題もあるので、ここでは、現代日本語訳ではなく、魏志倭人伝の原文とその書き下し文を示します(藤堂2010)。

其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。

其の国、本亦た男子を以って王と為す。住まること七、八十年、倭国乱れて、相攻伐すること年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。

落ち着いた時代があった後、倭国で戦乱が発生し、それが何年か続き、その終わりに卑弥呼が倭王になったことが読み取れます。ただ、記述があまりに短く、状況がよくわかりません。卑弥呼の登場も不思議ですが、同じく不思議なのが台与の登場です。卑弥呼が死んだ後の場面です。

更立男王、國中不服。更相誅殺。當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王。國中遂定。

更めて男王を立つれども、国中服せず。更に相誅殺す。当時千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女壱与、年十三なるものを立てて王と為す。国中遂に定まる。

ここで当然思うのは、なぜ男王が立つとうまくいかず、少女が立つとうまくいくのかということです。「なぜ男王では統治できなかったのか、お考えをお話しいただけますか」と問われて、歴史学者の吉村武彦氏が以下のように答えています(石野2011)。筆者もこのあたりに卑弥呼と台与の本質があるのではないかと考えています。

「魏志倭人伝」に卑弥呼は「夫婿なし」とあり、卑弥呼は独身であることがわかります。独身ということは、子どもをつくらせないということです。その後の壹与も、宗女と書いていますから一族だろうと思いますが、おそらく子どもをつくらせないことが主眼です。

中国の場合は世襲の王権が成立していますが、倭国では子どもに王位を継がせるような政治状況が望まれていない。文献からわかることは、こうした理解しかありません。子どもをつくらない人に王位を継がせる。その王は、巫女王の性格をもっていてもかまわないのですが、基本的には子どもをつくらせないことが一番大きい。独身の女性を王位に就かせるのは、世襲と関係するのではないかと考えています。男子の王では、それまでの慣習もあって、子どもや兄弟に継承させると思うのです。これが、男子を王位に就かせなかった理由ではないかと思います。

普通の王なら、結婚するかどうか、子どもをつくるかどうかなんて、王の意のままでしょう。卑弥呼と台与は、そういう立場にはなかったと見られます。その意味で、卑弥呼と台与は普通の王ではないのです。

筆者は、卑弥呼と台与は以下のような状況に置かれていたと考えています。筆者も最初からこのように考えていたわけではありません。筆者がなぜこの考えに辿り着いたのかという説明は長くなるので後に回します。

※誤解されやすいことなので先に指摘しておくと、卑弥呼のことを「邪馬台国の女王」と言うのは、あまり適切ではありません。卑弥呼は、邪馬台国の最高位の者ではなく、邪馬台国といくつかの国が作る連合の最高位の者です。

上の図は、男の権力者たち(各国の王たち)が集まって、だれを連合の最高位にするかもめているところです。

下の図は、この男の権力者たち(各国の王たち)が、「象徴」として少女を連合の最高位に据えたところです。

なぜ卑弥呼と台与だとうまくいくかというと、卑弥呼と台与は「象徴」としての役目を完璧に果たすからです。なぜ男王だとうまくいかないかというと、男王は「象徴」としての役目を果たさず、権力をふるおうとするからです。

二番目の図で、卑弥呼が死んでいなくなったらどうなるでしょうか。卑弥呼のまわりにいた男の権力者たちがもめる様子が目に浮かびます。そこに台与が登場したらどうなるでしょうか。卑弥呼がいた時の状態に戻るのです。

卑弥呼が倭王になった時に、「象徴」として少女を最高位に据えるというやり方は永続的なやり方であるとは捉えられていなかったと思われます。卑弥呼が死んだ後すぐに男王が立ったことがそのことを示しています。「象徴」として少女を最高位に据えるというやり方が永続的なやり方であると捉えられていたのなら、真っ先に次の少女を探すでしょう。

卑弥呼の即位は一種の「暫定的措置」の性格を持ち、台与の即位も一種の「暫定的措置」の性格を持っていたと見られます。卑弥呼の即位前に大きなもめ事があって、台与の即位前にも大きなもめ事があったら、さすがに次はなんらかの対策が考えられそうなものです。

しかし、どうでしょうか。卑弥呼と台与の時代にこんな状態で、そのすぐ後の時代に、最高位が「ある一族」の内部で継承されていくシステムが確立するでしょうか。そんなシステムでは、全く合意が得られないでしょう。最高位がいくつかの氏族の間で動きながら継承されていくシステムのほうがまだ考えられそうです。

もし日本の真実の歴史が、最高位が「ある一族」の内部で継承されていくシステムではなく、最高位がいくつかの氏族の間で動きながら継承されていくシステムだったとしたら、どうでしょうか。古事記と日本書紀がなぜ卑弥呼のことを隠したのか、なぜ日本の歴史を改竄したのか、その重大な理由がぼんやりと浮かび上がってきそうな気がしないでしょうか。

 

参考文献

石野博信ほか、「研究最前線 邪馬台国 いま、何が、どこまで言えるのか」、朝日新聞出版、2011年。

藤堂明保ほか、「倭国伝 中国正史に描かれた日本 全訳注」、講談社、2010年。