関西とその周辺の地名は特に重要、漢字に騙されてはいけない!大阪(おおさか)の由来とは?

この記事は、「天(あま)」の語源は「雨(あま)」の語源よりはるかに難しかった、ミャオ・ヤオ語族と日本語の記事への補足です。同記事は、長くなり、以下の四つの補説も記しました。

  • 補説1 過去の記事の修正、aɸu(合ふ)とaɸu(会ふ)
  • 補説2 kabu(頭)とkaube(頭)
  • 補説3 kabu(頭)と関係がありそうなkabuto(かぶと)
  • 補説4 karada(体)の語源もこのパターン

それでも、重要なことを書き尽くせなかったので、ここにもう一つ記事を書くことにします。

今回の記事では、関西とその周辺の地名に注目します。

日本の古代史においてyamato(大和)と並んで重要なkaɸuti(河内)に注目したいところですが、yamato(大和)と違って、kaɸuti(河内)と聞いてもピンとこない方もいるかと思います。まず、日本の古代史を振り返っておきましょう。

前に、日本の巨大前方後円墳の第1号である箸墓古墳(はしはかこふん)と第2号である西殿塚古墳(にしとのづかこふん)が作られた当時の様子を示したことがありました(図は白石2013より引用)。

箸墓古墳は、卑弥呼の墓である可能性が高くなってきた古墳で、西殿塚古墳は、台与の墓である可能性が高くなってきた古墳です。図を見ると、瀬戸内海の東部のあたりにいた勢力が日本という国を作り始めたようだとわかります。当然、この地域で話されていた言語が、私たちの日本語のもとになったでしょう。そのような理由から、このあたりの地名に注目したいのです。

箸墓古墳、西殿塚古墳およびそれらに続く巨大前方後円墳は、奈良盆地の三輪山の麓に作られました(図は千賀2008より引用)。

日本という国が三輪山の麓から作られ始めたことがよくわかります。

箸墓古墳から始まった巨大前方後円墳の築造は、箸墓古墳→西殿塚古墳→桜井茶臼山古墳(さくらいちゃうすやまこふん)→メスリ山古墳(めすりやまこふん)→行燈山古墳(あんどんやまこふん)→渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん)と続きますが、渋谷向山古墳を最後に、この地域には作られなくなってしまいます。考古学者の白石太一郎氏が、その後の巨大前方後円墳の移動を追跡しています(図およびそれに付けられた解説は白石2013より引用)。

箸墓古墳にはじまり、六代にわたって奈良盆地東南部の〝やまと〟の地のオオヤマト古墳群に営まれた王墓は、なぜか渋谷向山古墳を最後として、それ以降は〝やまと〟の地には絶えてみられなくなる。そして四世紀後半になると、王墓と考えられる巨大古墳は奈良盆地北部の佐紀古墳群に営まれるようになる。さらに四世紀末葉以降は、そうした巨大古墳はいずれも大阪平野南部の古市古墳群と百舌鳥古墳群にみられるようになるのである。

こうした畿内における大型古墳造営の動向をまとめたものが一九〇・一九一ページの図である。この図は、畿内の大和・河内・和泉・摂津・山城の地域ごとに、大型の古墳(そのほとんどは前方後円墳であるが)の年代的位置を整理したものである。陵墓に比定されていて墳丘内部への立ち入りができない古墳をも含めて、こうした編年図の作成が可能になったのは、一九七〇年代の後半から急速に進展した円筒埴輪の編年研究が進展したおかげである。

円筒埴輪は大型前方後円墳などの墳丘上だけではなくて、濠の外の外堤上にまで立て並べられている。宮内庁管理地外の外堤上などでは比較的容易に円筒埴輪片を採集することができ、またそこで土木工事などが実施される際には、自治体などにより事前発掘調査が行われ、良好な埴輪資料がえられている。

さらに最近では、陵墓となっている古墳についても、その保存のための工事などが実施される際には、宮内庁書陵部によって事前発掘調査が実施されて遺構の保存対策が講じられるようになっており、そうした陵墓古墳の埴輪の実態が詳しく知られるようになってきている。

もちろん古墳の年代を決めるには、埴輪だけではなく墳丘や周濠の形態、埋葬施設の構造、さらに副葬品などを総合して判断しなければならない。しかし、副葬品はごく一部の古墳でしか知られていない。さらに伝世品を含む場合のある副葬品とは異なって、埴輪は古墳造営時に製作されるものであり、古墳の年代決定の材料としてきわめて有効な資料であることはいうまでもない。

※陵墓(りょうぼ)とは、皇族の墓のことです。埴輪(はにわ)とは、円筒、家、動物、人間などの形に作られた土器のことです(写真は産経新聞様のウェブサイトより引用)。

伝世品(でんせいひん)とは、製作された時代から大切に代々受け継がれてきた品のことです。

最高位の者の墓と見られる最大の前方後円墳は、奈良盆地の三輪山の麓に作られなくなった後、同じ盆地内のずっと北に位置する佐紀に現れますが、長くは続かず、奈良盆地を出て、西の大阪平野の河内・和泉に現れます。

よくニュースなどに出てくるのは、河内の誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)(いわゆる「応神天皇陵」)と和泉の大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)(いわゆる「仁徳天皇陵」)です。

日本の古代史に興味を持っている人は、「倭の五王」のことも聞いたことがあるでしょう。中国の歴史書は、日本との接触も記録しており、貴重な資料になっています。中国の歴史書のうちの宋書に、421~478年の期間(上記の誉田御廟山古墳や大仙陵古墳と重なる時期)に倭の五人の王が接触してきたことが記されています。しかし、その五人の王は「讃、珍、済、興、武」と記されているため、それぞれの王が古事記と日本書紀に書かれているどの天皇に対応するのか、議論が繰り広げられてきました。

※興味深いことに、倭の五王の最後の「武」が宋の皇帝に送った文書が、宋書に公開されています。古代日本の最高位の者の生の声です(現代日本語訳は藤堂2010から引用)。

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順帝の昇明二年(四七八年)に、倭王武は使者を遣わして上表文をたてまつって言った。

「わが国は遠く辺地にあって、中国の藩屏となっている。昔からわが祖先は自らよろいかぶとを身に着け、山野をこえ川を渡って歩きまわり、落ち着くひまもなかった。東方では毛人の五十五ヵ国を征服し、西方では衆夷の六十六ヵ国を服属させ、海を渡っては北の九十五ヵ国を平定した。皇帝の徳はゆきわたり、領土は遠くひろがった。代々中国をあがめて入朝するのに、毎年時節をはずしたことがない。わたくし武は、愚か者ではあるが、ありがたくも先祖の業をつぎ、自分の統治下にある人々を率いはげまして中国の天子をあがめ従おうとし、道は百済を経由しようとて船の準備も行った。

ところが高句麗は無体にも、百済を併呑しようと考え、国境の人民をかすめとらえ、殺害して、やめようとしない。中国へ入朝する途は高句麗のために滞ってままならず、中国に忠誠をつくす美風を失わされた。船を進めようとしても、時には通じ、時には通じなかった。わたくし武の亡父済は、かたき高句麗が中国へ往来の路を妨害していることを憤り、弓矢を持つ兵士百万も正義の声をあげていたち、大挙して高句麗と戦おうとしたが、その時思いもよらず、父済と兄興を喪い、今一息で成るはずの功業も、最後の一押しがならなかっ た。父と兄の喪中は、軍隊を動かさず、そのため事を起こさず、兵を休めていたので未だ高句麗に勝っていない。

しかし、今は喪があけたので、武器をととのえ、兵士を訓練して父と兄の志を果たそうと思う。義士も勇士も、文官も武官も力を出しつくし、白刃が眼前で交叉しても、それを恐れたりはしない。もし中国の皇帝の徳をもって我らをかばい支えられるなら、この強敵高句麗を打ち破り、地方の乱れをしずめて、かつての功業に見劣りすることはないだろう。かってながら自分に、開府儀同三司を帯方郡を介して任命され、部下の諸将にもみなそれぞれ官爵を郡を介して授けていただき、よって私が中国に忠節をはげんでいる」と。

そこで順帝は詔をくだして武を、使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任命した。

なかなか生々しい記述です。「武」は、武力で多数の人間集団を次々に征服しながら、日本という国を作っていったことをストレートに語っています。日本列島のみならず、朝鮮半島にも進出していました。

ちなみに、古事記と日本書紀は、宋書の「倭の五王」の話に触れたがりません。だから、「倭の五王」はだれなのかという議論が混乱してきたのです。宋書の「倭の五王」の話は、倭の歴代の王が中国の皇帝に従属し、位を授けられている話です。卑弥呼も、中国の皇帝から倭王として認定を受けていましたが、この姿勢は、倭の五王の時代になっても一貫しています。中国の文明・文化を取り入れたいと切実に願いながら、北九州の勢力に邪魔されて取り入れられなかった本州・四国の一群の勢力が組んだ連合が、日本という国の原型ですから、当然です。しかし、古事記と日本書紀は、天から降りてきた神の子孫である天皇が日本を統治してきたという話をしているため、宋書の「倭の五王」の話を取り込むわけにはいかなかったと見られます。なにしろ、古代日本の象徴といえる最大級の前方後円墳が作られていた時代の話なのです。

「武」が語っているように、東西へ大規模な征服活動が展開されたのは歴史的事実であり、この出来事に様々な脚色を施して物語化したのが、ヤマトタケルの話だったのでしょう。かつて津田左右吉氏が指摘した通りです。概していうと、こういう英雄の説話は、その基礎にはよし多人数の力によって行われた大きい歴史的事件があるにしても、その事件をそのままに一人の行為として語るのではなく、事件に基づきながら、それから離れて何らかの構想を一人の英雄の行動に託してつくるのが普通である(津田2020)。

征服が行われる少し前には日本列島でも様々な言語が話されていたんだろうなと思いながら、本記事の続きを読んでいただければと思います。

いずれにせよ、日本の古代史において、河内は大和と並んで重要な場所でした。大和、山城、河内、和泉、摂津は、まとめて「五畿」と呼ばれ、日本の中心でした(「畿」は君主が直接支配する土地を意味します。和泉は、もともと河内の一部でしたが、奈良時代に分離されました。地図はWikipedia(Bcxfu75k様)より引用)。

ここから、本格的な地名の話に入ります。

先に結論を言ってしまうと、日本の地名は、「陸地、土地、場所」を意味していた語(つまり、英語のlandやplaceのような語)が地名になったケースが多いです。これは実に自然な展開ですが、日本では、地名を漢字で書き表していたため、とんでもない誤解を生んできました。

「河内」の読み方ですが、奈良時代には、kaɸutiと呼ばれていました。

三省堂時代別国語大辞典上代編(上代語辞典編修委員会1967)は、kaɸuti(河内)を「川の岸にひらけた盆地。川の流域の平坦地。」と説明した後、「カハ=ウチの約」と記しています。これは、漢字表記に惑わされた誤解のようです。

kaɸuti(河内)のある大阪平野の向かいに、大きな島があります。ここが、aɸadi(淡路)です。そして、aɸadi(淡路)から四国に渡ると、aɸa(阿波)です。

日本語にkoti(こち)やati(あち)という語があったことから、以下のような構図があったと考えられます。

さらに、上記の補説1~4と照らし合わせると、以下のようになっていたと考えられます。

「水」を意味するapaのような語が、「陸地」を意味するようになったのが、aɸa(阿波)である、

「水」を意味するapaのような語が、「横の部分」を意味するtiとくっついて「陸地」を意味するようになったのが、aɸadi(淡路)である、

「水」を意味するkapuのような語が、「横の部分」を意味するtiとくっついて「陸地」を意味するようになったのが、kaɸuti(河内)である

ということです。

「水」を意味したkapuのような語は、「水」を意味したkapaのような語の異形で、gabunomi(がぶ飲み)/gabugabu(がぶがぶ)からその存在が窺えます。

aɸa(阿波)も、aɸadi(淡路)も、kaɸuti(河内)も、「陸地」を意味していた語であるということです。

淡路島の北端の近くに神戸がありますが、神戸もそうです。「神戸」という字をあてたことを考慮すると、もともとの形はkamube*(神戸)であったと推測されます。kamube*(神戸)が、一方ではkaube(神戸)→koube(神戸)に、他方ではkanbe(神戸)に変化したと見られます。「水」を意味するkamuのような語と「横の部分」を意味するɸe(辺、端)がくっついて「陸地」を意味するようになったのが、kamube*(神戸)であるということです。

「水」を意味する語がkapu(またはkaɸu)~kabu~kamuのように発音変化していたことが窺えます(m~b~p(またはɸ)の間は非常に発音変化しやすいので、これは自然です)。

「水」を意味する語が「陸地」を意味するようになり、そこからさらに「上」または「表面」を意味するようになる過程は、「天(あま)」の語源は「雨(あま)」の語源よりはるかに難しかった、ミャオ・ヤオ語族と日本語の記事で詳しく説明したので、そちらを参照してください。

「水」を意味するkapu(またはkaɸu)~kabu~kamuのような語は、そのままの形でkabu(頭)やkamu*(神)になりました(kami(上)の語源も同じところにあるでしょう)。

「水」を意味するkapu(またはkaɸu)~kabu~kamuのような語は、「横の部分」を意味する語とくっついて、kaɸube*(頭)、kaɸuti(河内)、kamube*(神戸)などになりました。

地名が混じると異様に感じられるかもしれませんが、kaɸuti(河内)とkamube*(神戸)も「陸地」を意味する普通の名詞だったのです。

settu(摂津)という地名もそうです。

本州と四国の間の水域は、setonaikai(瀬戸内海)と呼ばれていますが、naikai(内海)は明らかに漢語なので、問題はseto(瀬戸)です。「瀬戸」は当て字で、かつては「狭門」と書かれていたと説明されることがありますが、「狭門」も当て字です。setogiɸa(瀬戸際)という語があったことから、seto(瀬戸)はもともと「水」を意味していたと考えられます。

tuは、「横の部分」を意味していた語で、奈良時代の日本語では、船が発着する場所を意味するtu(津)として現われています。settu(摂津)も、「水」を意味するsetoと「横の部分」を意味するtuがくっついて「陸地」を意味するようになり、このsetotu*が短縮したものと考えられます。

konata(こなた)やkanata(かなた)から、「(水の)横の部分」を意味したta*の存在が窺え、koti(こち)やati(あち)から、「(水の)横の部分」を意味したti*の存在が窺え、船の発着場所を意味したtu(津)から、「(水の)横の部分」を意味したtu*の存在が窺えます。

同じように、奈良時代の日本語で「場所」を意味したto(処)から、「(水の)横の部分」を意味したto*の存在が窺えます(奈良時代の日本語には、to(外)という語もありましたが、三省堂時代別国語大辞典上代編(上代語辞典編修委員会1967)は「ウチの対。主として建物の外をいう。」と説明しており、「土地」を意味する語であったと考えられます)。以下のようになっていたと考えられます。

「水」を意味するmiと「横の部分」を意味するto*が(連体助詞のnaを介して)くっついたのが、minato(港)で、「水」を意味するkapuのような語と「横の部分」を意味するto*がくっついたのが、kabutoです。kabutoは、当初は「陸地」を意味していたはずですが、そこから、「上」、「頭」、「かぶり物」を意味するようになりました(kabu(頭)とkaɸube*(頭)と同様の変化です)。

yamato(大和)は、すでにお話ししたように、「山」を意味するyamaと「横の部分」を意味するto*がくっついた語で、「山際」という意味でした。「横の部分」を意味するto*が、甲類と乙類の間で揺れていたこともお話ししました。

今回の記事では詳しく取り上げませんが、近畿から瀬戸内海を西に進んでいくと、重要な地名が目白押しです。例えば、終点の山口県には、ube(宇部)、simonoseki(下関)、nagato(長門)などの地名があります。

「水」を意味し、「陸地」を意味するようになったuɸa/uɸeのような語があったらしい、「水」を意味するnagaのような語(nagaru(流る)/nagasu(流す)からその存在が窺えます)と「横の部分」を意味するtoのような語がくっついて、「陸地」を意味するようになったらしいといったことがわかります。

simonoseki(下関)は、船舶を取り締まる関所が設置され、都に近いほうからkaminoseki(上関)、nakanoseki(中関)、simonoseki(下関)と呼ばれていたのが由来ですが、そのsimonoseki(下関)には、海の幸が並ぶ下関の台所「唐戸市場」があります。このkarato(唐戸)という地名も、「水」を意味するkaraのような語と「横の部分」を意味するtoのような語がくっついて「陸地」を意味するようになったことを思わせます(siɸo(潮)とsiɸo (塩)の例を考えると、「水」を意味していたkaraのような語は、「水」を意味できなくなり、「海水」と「塩」を意味しようとしたが失敗し、karasi(辛し)になったのでしょう。実際、奈良時代の日本人は、塩のことをkarasi(辛し)と言っていました)。

今回の記事を併せて読んでいただければ、上記の補説1~4は完全に理解できると思います。

漢字に騙されてはいけない!

日本人は独自の文字を持っていなかったので、日本の地名を漢字で書き表すしかありませんでした(改竄された日本の歴史、なぜ古事記と日本書紀は本当のことを書かなかったのかの記事でお話ししたように、卑弥呼がいた200~250年頃には、すでに漢字を使っていました。ひらがなとカタカナが作られたのは794年から始まる平安時代ですから、かなり長い間、漢字だけでやっていたわけです)。これは、仕方のないことです。

しかし、地名を分析する時には、大いに注意が必要です。今回の記事からわかるように、漢字は全く当てになりません。このことをしっかり認識できず、日本では無茶苦茶な地名解釈が行われてきました。特に、ある一つの地名を見てその由来を考えるのは無理があり、周辺の地名と併せながら考える必要があるでしょう。

漢字は全く当てにならないということがしっかり認識できていれば、地名は依然として非常に重要な資料です。言語の語彙からはわからないことを、地名が教えてくれることもあります。

日本語の歴史を考えるうえで、関西とその周辺の地名は特に重要です。しかし、その他の地域の地名も捨てたものではありません。日本語はどこから来たのかという問題だけでなく、縄文時代の日本列島でどのような言語が話されていたのかという問題、あるいは、弥生時代に日本語以外にどのような言語が日本列島に入って来たのかという問題も、興味深いのではないでしょうか。有力な民族が中央とその周辺を占め、少数民族が僻地に追い込まれるのは、人類の歴史の典型的なパターンです。中央から遠く離れた地方の地名が、貴重な情報を与えてくれるかもしれません。

※ミャオ・ヤオ語族で「水」を意味したam、an、aŋ、um、un、uŋ、om、on、oŋのような語は、日本語に大量に入り、am-、um-、om-のような形だけでなく、ab-、ap-、aɸ-、aw-、ub-、up-、uɸ-、uw-、ob-、op-、oɸ-、ow-のような形でも日本語に残りました。日本の地名を調べても、ミャオ・ヤオ語族の言語が日本列島に入って来ていた可能性が極めて高くなってきました。しかし、それだけではとても済まなそうです。

 

特別付録

大阪(おおさか)の由来とは?

kaɸuti(河内)は昔の地名です。今のōsaka(大阪)の由来も気になるでしょう。

「大阪」は、「大坂」または「小坂」と書かれていました。oɸosakaのように発音されたり、osakaのように発音されたりしていたと見られます。

地名は、やはり周辺の地名と併せながら考えるべきです。

大阪府の大阪市(おおさかし)と兵庫県の尼崎市(あまがさきし)の境に、淀川の大きな分流である神崎川(かんざきがわ)が流れています。神崎川という名称は、尼崎市側の神崎(かんざき)という地名から来ています。

amagasaki(尼崎)とkanzaki(神崎)という地名は、怪しさ満点です。神戸の場合と同様で、kanzaki(神崎)の古形はkamusaki*(神崎)と見られます。「水」を意味するamaのような語と「横の部分」を意味するsakiのような語がくっついたのが、amagasaki(尼崎)で、「水」を意味するkamuのような語と「横の部分」を意味するsakiのような語がくっついたのが、kamusaki*(神崎)でしょう。水と隣接する陸の端という点では、misaki(岬)もamagasaki(尼崎)とkamusaki*(神崎)と同じです。

日本語のsaka*(酒)から、「水」を意味するsakaのような語があったことが窺えます。

「水」を意味するsakaのような語は、「水と陸の境界」を意味するようにもなったし、「陸地」を意味するようにもなりました。前者が、奈良時代の日本語のsaka(境)で、後者が奈良時代の日本語のsaka(坂)です。

「水」を意味していた語が横の「陸地」を意味するようになるのは超頻出パターンで、平らな陸地を意味するようになることが多いです。しかし、昔の人々は、増水時の被害を防ぐために、横の「陸地」を盛り上げることがあり(つまり、土手、堤、堤防)、盛り上がった陸地を意味するようになることも少なくありません。

「水」を意味していたsakaのような語および異形のsakiのような語も、「陸地」を意味するようになり、平らな陸地を意味したり、盛り上がった陸地を意味したりしていたと考えられます。

sakaのような語は、「山」を意味しようとしたことがあったと思われます。その名残が、sakaru(盛る)やsakayu(栄ゆ)です。

sakiのような語も、「山」を意味しようとしたことがあったと思われます。その名残が、sakaru(盛る)やsakayu(栄ゆ)と似た意味を持っていたsaki(幸)/sakiɸaɸu(幸ふ)です(sakiɸaɸu(幸ふ)の連用形のsakiɸaɸiが変化して、現代のsaiwai(幸い)になりました)。

oɸosaka*/osaka*(大坂、小坂)のoɸo/oの部分は「水」を意味し、sakaの部分は「横の部分」を意味していた可能性が濃厚です(midu(水)とmi(水)という形があったように、oɸoとoという形があったのでしょう)。

奈良時代の日本語で、溺れることをoboru(溺る)と言ったり、oboɸoru(溺る)と言ったりしていたからです。oboɸoは、oboかoɸoを重ねたものでしょう。明らかに、「水」を意味するoɸoのような語があったことを示しています。

尼崎市と大阪市が接する近くにも、「淡路」という地名があるので、この一帯で、「水」のことをama/aba/aɸaのように言ったり、omo/obo/oɸoのように言ったりしていたのでしょう(奈良時代の日本語のomo(面)は、omote(面)という形とともに、「表面」を意味したり、「顔」を意味したりしていました。「水」を意味していた語が「陸地」を意味するようになり、「陸地」を意味していた語が「表面」を意味するようになるパターンでしょう。「表面」と「上」という意味から、「顔」を意味しやすいのかもしれません。kaɸo(顔)という語もそうです。「水」→「陸地」→「表面」と意味変化したのがkaɸa(皮)で、「水」→「陸地」→「上」と意味変化したのがkaɸu*(頭)でしたが、kaɸo(顔)もこれらと同源であることは間違いないでしょう)。

ōsaka(大阪)も、「水」を意味したoɸoのような語と「横の部分」を意味したsakaのような語から来ているということです。

このパターンは非常に多いです。

ōsaka(大阪)の南は、wakayama(和歌山)で、wokayama(岡山)と呼ばれていたこともありました。これはとても縄文っぽいです。アイヌ語のwakka(水)のような語と横の「陸地」を意味したyamaのような語がくっついたと見られます。

nara(奈良)は、朝鮮語のnara(国)と同様に、「陸地」を意味していた語でしょう(日本のあちこちにnarahara(奈良原)という地名が見られるので、naraはもともと「水」を意味していたと考えられます)。

本ブログでおなじみの図も健在です。

言うまでもなく、ここから来ているのがnarabu(並ぶ)です。

それよりずっと複雑なのが、naruとnaraɸuという動詞です。

上の図のnara(あるいは変化したnare)は、一方では「親しいこと」、他方では「同じであること」を意味するようになったようです。

こうして、「親しくなること」を意味するnaru(馴る、慣る)/naraɸu(馴らふ、慣らふ)と、「同じになること」を意味するnaraɸu(倣ふ)が生まれます。

そして、このnaraɸu(馴らふ、慣らふ)とnaraɸu(倣ふ)の中間的な存在として生まれてきたのが、naraɸu(習ふ)のようです。つまり、naraɸu(習ふ)は、naraɸu(馴らふ、慣らふ)とnaraɸu(倣ふ)の意味を併せ持っているということです。

naraɸu(習ふ)に関しては筆者も悩まされましたが、上のような複雑な経緯があるようです。

ちなみに、naru(馴る、慣る)は、tuku(付く)と結合してnaretuku(馴れ付く、慣れ付く)になり、短縮形のnatuku(懐く)も生まれました。natukasi(懐かし)という形容詞も生まれます。

平らにすることを意味するnarasu(均す)は、説明するまでもないでしょう。

mie(三重)は、間違いなく、mi(水)とɸe(辺、端)がくっついたものです。

ōsaka(大阪)、wakayama(和歌山)、nara(奈良)、mie(三重)と見ましたが、やはり明らかにパターンがあります。

私たちの名字(苗字)も、このパターンが結構多いのではないかという気がしないでしょうか。

 

参考文献

上代語辞典編修委員会、「時代別国語大辞典 上代編」、三省堂、1967年。

白石太一郎、「古墳からみた倭国の形成と展開」、敬文舎、2013年。

千賀久、「ヤマトの王墓 桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳」、新泉社、2008年。

津田左右吉、「古事記及び日本書紀の研究 完全版」、毎日ワンズ、2020年。

藤堂明保ほか、「倭国伝 中国正史に描かれた日本 全訳注」、講談社、2010年。

かつての日本語の隣人をよく知る(続き)、日本語の超難問に挑む

(前回の記事の続きです。過去の記事の修正も含まれています。)

「水」を意味していたpataのような語が、「横の部分」を意味するようになったことをお話ししました。

「横の部分」を意味するようになったpataのような語は、ɸata(端)になりましたが、「端」を意味する語は、「終わり」を意味するようになることが多いです。途絶えることを表すpataʔ(ぱたっ)、終わること・終えることを意味するɸatu(果つ)、ɸata(果たす)、ɸate(果て)などがそうです。

ɸatati(二十歳)とɸatuka(二十日)に含まれているɸata/ɸatu(二十)も見逃せません。人間は、手の指が10本、手足の指が20本で、ɸata/ɸatu(二十)は、数えていった時の「終わり」という意味でしょう。

「端」を意味する語は、逆に「始まり」を意味するようになることも多いです。ɸatu(初)がそうです。ɸasi(端)からも、ɸazimu(始む)とɸazimaru(始まる)が生まれました。

ɸatati(二十歳)とɸatuka(二十日)から察せられるように、ɸata(端)という語のほかに、ɸatu(端)という語もありました。この横の部分を意味したɸatu(端)自身は廃れてしまいましたが、ɸaduru(外る)、ɸadure(外れ)、ɸadusu(外す)として残ったと見られます。

「横の部分」を意味するようになった語が、「手・腕」または「羽・翼」を意味するようになるのも、頻出パターンです。pataのような語が、「羽・翼」を意味するようになって、patapata(ぱたぱた)、batabata(ばたばた)、basabasa(ばさばさ)が生まれましたが、「手・腕」を意味することもあったにちがいありません。それは、ɸataku(叩く)という動詞から窺えます。拍手する時のpatipati(ぱちぱち)、指を鳴らす時のpatiʔ(ぱちっ)/patin(ぱちん)、打撃を加える時のbasiʔ(ばしっ)、bisiʔ(びしっ)、bisibasi(びしばし)、pinta(ぴんた)、binta(びんた)なども同源でしょう。

もう一つ指摘しておかなければならないのが、「天(あま)」の語源は「雨(あま)」の語源よりはるかに難しかった、ミャオ・ヤオ語族と日本語の記事でお話ししたaɸu(合ふ)/aɸu(会ふ)(未然形aɸa)のようなケースです。

上記の記事で説明しましたが、上の図のapaは、ここから、「1」を意味することも、「2」を意味することもできるし、「一方」を意味することも、「もう一方」を意味することも、「両方」を意味することもできます。

「2」に近いですが、「対、組、ペア」を意味することもできます。「対、組、ペア」を意味するapa*から生まれたのが、「対になること、組になること、ペアになること」、あるいは場合によっては、「一体になること」を意味する動詞のapu*(未然形apa*)であると説明しました。

上の図のような変遷を、apa*だけでなく、pata*もたどったと見られます。出会うことを表すbattari(ばったり)という語が、そのことを端的に示しています。

pata*の異形であるpita*とpeta*も同様です。pitaʔ(ぴたっ)、pittari(ぴったり)、petaʔ(ぺたっ)、pettari(ぺったり)、betaʔ(べたっ)、bettari(べったり)などにも、上の図のような接触、接合、接着あるいは適合という意味が感じられます(pata*、pita*、peta*はもともと「水」を意味していた語なので、「意味の干渉」が起きて、「濡れている」とか「液状である」という意味が感じられることもあります)。

pitiʔ(ぴちっ)、pittiri(ぴっちり)、bittiri(びっちり)、bissiri(びっしり)も、隙間がないという意味で、仲間です。

「スーツをbisiʔ(びしっ)と着こなす」などと言いますが、なにかを打っているわけではないでしょう。同類の語を見る限り、「隙間がない(隙がない)」→「完璧だ」ぐらいの意味変化でしょう。

battari(ばったり)と形が似ているbattiri(ばっちり)も、当初は「よく合う、ふさわしい、適切だ」という意味だったのではないかと思われます。

apa*が動詞として残り、pata*(異形のpita*やpeta*も含めて)が動詞以外の形で残った点を除けば、両者の変遷はよく似ています。

最後に、雨の図に移りましょう。

「水」→「雨」→「落下、下方向、下」という意味変化の超頻出パターンがあるので、pataのような語も、「雨」や「落下、下方向、下」を意味しようとしたことがあったはずです。しかし、「雨」や「落下、下方向、下」の意味領域では、同源のpotapota、potupotu、potopotoなどがとても強く、pataの存在はあまり感じられません。

しかし、「pataʔ(ぱたっ)/bataʔ(ばたっ)と倒れる、patapata(ぱたぱた)/batabata(ばたばた)倒れる、pattari(ぱったり)/battari(ばったり)倒れる」と言うので、pataのような語が「落下、下方向、下」を意味していたことは間違いありません(ɸetaru(へたる)やɸeta(下手)も同源でしょう。ɸeta(下手)は、「下」を意味する語がそのまま評価を表すようになったと考えられます)。

「水」を意味したpataのような語が、実に様々な意味に変化するのを見てきました。最後に、最難関のɸadi(恥)/ɸadu(恥づ)に挑みましょう。

超難問のɸadi(恥)/ɸadu(恥づ)

ɸadi(恥)/ɸadu(恥づ)なんて「落下、下方向、下」と全然関係ないじゃないかと思われるかもしれません。しかし、そうでもないのです。

ɸadu(恥づ)という動詞の活用を見てみましょう。上二段活用です。

未然形はɸadiで、このɸadiがなにを意味していたのか考えなければなりません。他の語と同様に、padi*という古形が推定されます。

皆さんは、otu(落つ)、otosu(落とす)、otoru(劣る)、otoroɸu(衰ふ)という語を見て、どう思うでしょうか。明らかに、「落下、下方向、下」という意味が感じられます。

では、odu(怖づ)、odosu(脅す)、odoroku(驚く)、odorokasu(驚かす)という語は、どうでしょうか。ちょっと、「落下、下方向、下」という意味は感じられません。

しかし、日本語のsagaru(下がる)が典型的な例ですが、「下への動き」を意味していた語が「うしろへの動き」を意味するようになることがあります。kubomu(くぼむ)やɸekomu(へこむ)にも、似たところがあります。「床がくぼむ、床がへこむ」と言うだけでなく、「壁がくぼむ、壁がへこむ」とも言います。

「下への動き」ではなく「うしろへの動き」、もっと具体的には「人が身を引く動き」を考えると、odu(怖づ)、odosu(脅す)、odoroku(驚く)、odorokasu(驚かす)もしっくりきます(ɸiku(引く)、bikubiku(びくびく)、bikkuri(びっくり)と同じ関係です)。

ここで参考になるのが、英語のshyです。「恥ずかしがり屋の、内気な、引っ込み思案の」という意味です。しかし、これは現代の意味で、昔の英語では、恐れたり、驚いたりする様子を表していました。意味が微妙に変化しています。恐れたり、驚いたりすることと恥ずかしがることは違いますが、身を引く動きが共通しており、そのために、このような意味変化が起きると思われます。

「恐れる」や「驚く」より、「気が引ける」や「気後れする」のほうが、恥の感覚に近いでしょうか。それでもやはり、「うしろへの動き」が感じられます。

「下」を意味する語が、「下への動き」にとどまらず、「うしろへの動き」を意味するようになり、odu(怖づ)、odosu(脅す)、odoroku(驚く)、odorokasu(驚かす)という語が生まれました。

同じように、「下」を意味する語が、「下への動き」にとどまらず、「うしろへの動き」を意味するようになり、ɸadi(恥)/ɸadu(恥づ)という語が生まれた可能性を考えなければなりません。

「下」を意味するpadi*/pati*のような語があったかどうかが、大きな鍵になります。

ここで、朝鮮語に目を向けましょう。

詳しくは、前々回の「天(あま)」の語源は「雨(あま)」の語源よりはるかに難しかった、ミャオ・ヤオ語族と日本語の記事と、前回のかつての日本語の隣人をよく知る、日本語と朝鮮語の間に存在した言語の記事を参照していただければと思いますが、日本語の近縁言語で「水」を意味したpataのような語は、朝鮮語ではpada(海)になり、日本語ではbatyabatya(ばちゃばちゃ)/basyabasya(ばしゃばしゃ)を含む様々な語になりました。日本語の近縁言語で「水」を意味したpataのような語は、「陸地」も意味するようになり、朝鮮語ではpat(畑)パ(トゥ)とpadak(表面)パダ(ク)になり、日本語ではɸata(畑)/ɸataka*(畑)とɸada(肌)/ɸadaka(裸)になりました。

日本語の近縁言語の語彙は、朝鮮語にも日本語にもしっかり入っており、期待が持てます。

「下」を意味するpadi*/pati*のような語があったかどうかが、ポイントでした。

朝鮮語に、padʒiパヂという語があります。現代でもよく使われます。padʒiは、朝鮮の民族衣装の下のパーツを意味していた語です(写真は夢市場様のウェブサイトより引用)。

写真では少ししか見えませんが、男性が下に穿いているのがpadʒiです。padʒiは、今では「ズボン」を意味しています。

日本語の近縁言語で「水」を意味したpataのような語が、「水」→「雨」→「落下、下方向、下」という意味変化の超頻出パターンをたどったことは確実でしたが、やはり「下」を意味するpadi*/pati*のような語があったのです。

「下」を意味するpadi*/pati*のような語が、「下への動き」にとどまらず、「うしろ(あるいは奥)への動き」を意味するようになったのが、ɸadi(恥)/ɸadu(恥づ)のようです。ɸadi(恥)/ɸadu(恥づ)も、英語のshyのように、恐れたり、驚いたりすることを意味していたかもしれません。

※「水」を意味していた語が、「水」→「雨」→「落下、下方向、下」と意味変化した後、「下への動き」にとどまらず、「うしろへの動き」を意味するようになるのは、決して珍しいケースではないようです。「水」を意味していたpataのような語が、「下への動き」で止まってしまったら、「はったり」のような語は生まれないでしょう。「下への動き」にとどまらず、「うしろへの動き」を意味するようになれば、脅すこと・驚かすことを表す「はったり」のような語も生まれます。下に移動させることを意味するotosu(落とす)に続いて、うしろに移動させることを意味するodosu(脅す)が生まれるのと同じです。

日本語と朝鮮語の例を見ると、以下のような構図を考えることが重要だとわかります。

日本語と朝鮮語は残りましたが、圧倒的大多数の言語は消滅しました。しかし、消えていった大多数の言語が残した語彙が、日本語と朝鮮語に蓄積しています。消滅した大多数の言語を考慮に入れないと、言語の歴史は研究できないのです。

かつての日本語の隣人をよく知る、日本語と朝鮮語の間に存在した言語

「生意気(なまいき)」とは何か、誰もが違和感を覚える「舐める」と「ナメる」の記事で「意味の干渉」についてお話しし、タイミングがよいので、日本語の隣人の話をします。

「水」のことをmat-、mit-、mut-、met-、mot-のように言ったり、bat-、bit-、but-、bet-、bot-のように言ったり、pat-、pit-、put-、pet-、pot-のように言ったりしていた隣人です。日本語にとっては、単なる隣人ではなく、近縁関係にある隣人です。

これらの隣人をよく知ることは、非常に重要です。日本語が大陸にいた時に、日本語が中国語と朝鮮語に直接接触しなくても、日本語の隣人が中国語と朝鮮語に直接接触した可能性があるからです(無数の小さい言語が存在していた時代には、後者のほうがはるかに可能性が高いです)。

話の都合上、「水」のことをpataのように言っていた隣人を中心に見ていきます。

「水」のことをpataのように言っていた日本語の隣人が、朝鮮語に出会ったら、どうなるでしょうか。pataは、「水」を意味することができなくなって、「海」を意味しようとするかもしれません。「川」を意味しようとするかもしれません。「雨」を意味しようとするかもしれません。

実際、朝鮮語では、「海」のことをpadaと言います。「川」は、古代中国語のkæwng(江)カウンを取り入れて、kaŋカンと言います。「雨」のことは、piと言います。

pada(海)は、日本語の近縁言語から入った可能性が非常に高いです。pi(雨)は、一音節なので、検討の余地が残ります(しかし、日本語のpityapitya(ぴちゃぴちゃ)、ɸitu(漬つ)(未然形ɸita)、ɸitasu(浸す)、ɸitaru(浸る)などの語から、「水」のことをpitaのように言う言語があったことは確実です)。

日本語のbatabata(ばたばた)とbasabasa(ばさばさ)、batyabatya(ばちゃばちゃ)とbasyabasya(ばしゃばしゃ)のような語を見れば、[t]~[tʃ]~[ʃ]~[s]の間で発音変化が頻繁に起きていたこともわかります([t]は「タ、ティ、トゥ、テ、ト」の類、[tʃ]は「チャ、チュ、チョ」の類、[ʃ]は「シャ、シュ、ショ」の類、[s]は「サ、スィ、ス、セ、ソ」の類です)。

そうであるなら、朝鮮語のmasida(飲む)マシダ(daは動詞・形容詞に付く形式的な要素です)も、「水」のことをmat-、mit-、mut-、met-、mot-のように言っていた日本語の近縁言語から入った可能性が高いです。

※朝鮮語にはmit(下)ミ(トゥ)という語もあり、これも絶対に無視できません。「水」→「雨」→「落下、下方向、下」の超頻出パターンです。

上のpada(海)やmasida(飲む)が非常に重要なのは、「水」→「海」という意味変化、「水」→「飲む」という意味変化がダイレクトだからです。「水」が、いくつもの意味変化を経て、「海」を意味するようになった、あるいは、「水」が、いくつもの意味変化を経て、「飲むこと」を意味するようになった、そういう間接的なストーリーは考えられないのです。日本語の近縁言語が直接、朝鮮語に接したということです。

日本語のumi(海)とuna(海)は、ミャオ・ヤオ系言語から入った語で、nomu(飲む)は、タイ系言語から入った語でした。同じように、朝鮮語のpada(海)は、日本語の近縁言語から入った語で、masida(飲む)も、日本語の近縁言語から入った語のようです。これは、順当と言ってよいでしょう。朝鮮語も、多数の言語が消えていく中で生き残った有力な言語です。遼河文明の影響を受けることがなければ、それは不可能だったでしょう。

要するに、日本語の歴史はもちろん、朝鮮語の歴史を知るうえでも、東アジアの歴史を知るうえでも、日本語の近縁言語を知ることは重要だということです(お話しするのはまだ先になりますが、北ユーラシアの壮大な歴史を知るうえでも、大変重要になってきます)。

日本語の近縁言語を知ることの重要性を認識したうえで、「水」のことをpataのように言っていた言語をクローズアップしましょう。

いざ本題へ

先ほどの図をもう一度貼ります。

まずは、海の図から始めましょう。

「水」を意味していた語が、「海」または「波」を意味するようになるのは、よくあるパターンです。しかし、「海」も「波」も人気の行き先なので、すぐに他の語に占められてしまいます。「海」も「波」も意味できない場合は、どうしたらよいでしょうか。

前に、波に揺られての記事で少しお話ししましたが、「揺れること、動くこと」を意味するようになるのです。陸の上に置いた物は、動かないでしょう。しかし、水の上に浮かんでいる物は、どうでしょうか。ふらふらと動きますね(uku(浮く)(未然形uka)、ukabu(浮かぶ)とugoku(動く)、ugomeku(蠢く)を見ると、似ていないでしょうか)。

日本語にɸataraku(働く)という語がありました。現代のhataraku(働く)とはちょっと違っていました。ɸataraku(働く)の使用例を岩波古語辞典(大野1990)から引いてみます。

  • 「俄かに弓に箭を番ひて、本の男に差し充て強く引きて、『おのれ働かば射殺してむ』と云へば」(今昔物語集)
  • 「死にて六日といふ日の未の時ばかりに、にはかにこの棺働く」(宇治拾遺物語)

上の例は、弓矢を引いて、動いたら殺すぞと言っています。下の例は、死体が入っているはずの棺が動いたと言っています。

これらの例からわかるように、ɸataraku(働く)は、ugoku(動く)と同じ意味でした。

「水」を意味していたpataのような語が、「水」を意味できず、「海」も「波」も意味できず、「動くこと」を意味するようになったのです。

現代の日本語でも、「今、ばたばたしておりまして」などと言いますね。このbatabata(ばたばた)も同じところから来ており、動きまわることを意味しているのです。

zitabata(じたばた)も関係があるでしょう。この語は、「足」を意味するsitaと「動くこと」を意味するpataがくっついたと見られます。日本語では、昔からiとuの間の発音変化が盛んで(一年ぶりの記事、まずは昔の話題の続きから、ついにベールを脱ぐミャオ・ヤオ語族を参照)、sutasuta(すたすた)という語が残っているので、sitaが「足」を意味することもあったと考えられます。

dotabata(どたばた)も、騒がしく歩くあるいは走ることを表すdotadota(どたどた)があるので、「足」+「動く」でしょう。

ɸataraku(働く)と同様に、ɸatameku(はためく)も、「動くこと」を意味していたはずです。しかし、ɸatameku(はためく)という動詞では、「意味の干渉」が強く起きているように見受けられます(「意味の干渉」については、「生意気(なまいき)」とは何か、誰もが違和感を覚える「舐める」と「ナメる」を参照)。

左のɸataに、右のɸataが干渉してきます。その結果、ɸatameku(はためく)は、かつてのように自由に動きを表すことはできず、旗のような動きしか表せなくなったのです。

ちなみに、ɸata(旗)はどこから来たのでしょうか。

奈良時代の日本語には、ɸata(旗)のほかに、ɸata(機)という語がありました。ɸata(機)は、布を織る機械です。「布を織る」とは、経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を組み合わせて布を作ることです(図は藤岡糊付所様のウェブサイトより引用)。

要するに、ɸata(機)とは、糸から布を作る機械です。

ɸata(旗)とɸata(機)には、「糸」が共通しています。

現代人は、ほとんど完成品を買うだけですが、昔の人にとっては、糸から布、布から服に至るプロセスはもっと身近であったと考えられます。そのプロセスを自分で行わないとしても、身近にいるだれかが行うのを見ていたでしょう。糸の状態でも、布の状態でも、服の状態でも、kinu(絹、衣)という語が使われていましたが、これも、全く違和感のないことだったのでしょう。

豊富な糸関連の語彙の中で、ɸataは「糸」を意味しようとしたが、他の語に押され、糸から作られる織物(ɸata(旗))と、糸から織物を作る機械(ɸata(機))を意味するようになったと見られます。

「水」を意味していた語が「糸」を意味するようになるのは、頻出パターンです。「水」を意味していた語が、「(水と陸の)境」を意味するようになり、「境」を意味していた語が、「線状のもの」を意味するようになるのです。「水」を意味していたpataのような語も、このパターンをたどったと見られます。

ミャオ・ヤオ系言語で「水」を意味したam、an、aŋ、um、un、uŋ、om、on、oŋのような語は、amu(編む)(未然形ama)、ami(網)になったと考えられます。タイ系言語で「水」を意味したnam、nim、num、nem、nomのような語は、日本語の糸関連の語彙を見る限り、naɸa(縄)、naɸu(綯う)(未然形naɸa)(糸などをねじり合わせる作業)、nuɸu(縫ふ)などになったのではないかと思われます。三省堂時代別国語大辞典上代編(上代語辞典編修委員会1967)が指摘しているように、niɸiname(新嘗)がかつてniɸinami、niɸinaɸe、niɸinaɸiと呼ばれていたことを考えれば、namのmの部分がbになるだけでなく、p(またはɸ)になることもあったと考えられます。一般に、m~b~p(またはɸ)の間は発音変化が起きやすいところなので、そう考えることに無理はありません。むしろ、m~bの間でだけ変化が起きて、b~p(またはɸ)の間では変化が起きないと考えるほうが不自然です。niɸiname(新嘗)というのは、神に新穀を捧げて収穫を感謝し、自らもそれを食べる古来の儀式のことです。

※ミャオ・ヤオ語族から日本語にuna(海)という語が入りましたが、この語も「動くこと」を意味するようになったようです。まずは、uneru(うねる)です。現代でも「海のうねり」と言いますね。水の上に浮かんでいる物がふらふらと動いているところを想像していただければと思いますが、特に向きを変える動きを意味しやすいようです。uneune(うねうね)がまさにこれです。

ややわかりにくいのが、unagasu(促す)です。英語で「促すこと」をurgeと言ったり、promoteと言ったりします。urgeも、promoteも、昔は今ほど抽象的ではなく、「前に押すこと、前に動かすこと」を意味していました。日本語のunagasu(促す)もこれです。ただ、かつて存在したはずの自動詞のunagu*が完全に消えており、他動詞のunagasu(促す)だけが残っているので、わかりにくくなっています。

次に、川の図に移りましょう。

これは、「水」を意味していた語が、横の部分を意味するようになるパターンです。

「水」を意味していたpataのような語が、横の部分を意味するようになり、日本語のɸata(端、辺)になったことは、すでにお話ししました。そこで終わらず、ɸata(畑)/ ɸatake(畑)(古形ɸataka*)やɸada(肌)/ɸadaka(裸)にもなったという、びっくりする話もしました(前回の記事を参照)。

ここでは、それ以外の話をしましょう。

「水」を意味したpataのような語は、奈良時代の日本語のɸata(端)とɸasi(端)からわかるように、あまり変わっていない形で日本語に残ることもあれば、大きく変わった形で日本語に残ることもありました。たどってきた経緯が少し違うということです。ɸati*やɸasa*のような形もあったでしょう。

「水」を意味していた語は、「陸地」を意味するようになることがありますが、「水と陸の境」を意味するようになることもあります(先ほどお話しした、「糸」を意味しようとしたがそれができなかったɸata(旗)とɸata(機)も、この後者のケースです)。

ややこしいことに、この「水と陸の境」を意味する語が、「間」を意味するようになることがあるのです。

実際、奈良時代の日本語には、ɸasi(端)という語のほかに、もう消滅しかかっていましたが、ɸasi(間)という語がありました。

「端」を意味する語がɸasiで、「間」を意味する語がɸasiだと、さすがに都合が悪いです。だから、ɸasi(間)は消滅しかかっていたのでしょう。消滅しかかったɸasi(間)はどうやら、両岸の間に設置されるɸasi(橋)になったようです。昔の日本人は、現代なら「はしご」や「階段」と呼ぶようなものまで、ɸasi(橋)と呼んでいました。隔たりのある二地点の「間をつなぐもの」という認識だったのでしょう。

ɸasi(間)のほかに、ɸasa*(間)という語もあったと思われます。

ɸasi(端)とɸasi(間)よりはましですが、ɸasi(端)とɸasa*(間)も紛らわしいです(しかも、ɸata(端)もあります)。

ɸasi(間)は、ɸasi(橋)になって生き残りましたが、ɸasa*(間)は、類義語のma(間)を結合し、ɸasama(はさま)として生き残ったようです。ɸasama(はさま)から、ɸasamu(はさむ)、ɸasamaru(はさまる)、さらにɸasami(はさみ)ができ、ɸasama(はさま)自身は、ɸazama(はざま)と濁りました。

ɸasi(間)は、場所を意味するta(konata(こなた)やkanata(かなた)のta)を結合して、「間」という意味を保とうとしたこともあったかと思われます。その名残が、中途半端であることを意味したɸasita(はした)です。「はした金」はもともと、中途半端なお金のことでした。今では、わずかなお金を意味するのが普通でしょう。

ɸasitanasi(はしたなし)も関係がありますが、もっと難しいです。忙しいことを意味するseɸasi(せはし)にnasi(なし)がくっついて強調されたのがseɸasinasi(せはしなし)ですが、それと同様に、中途半端であることを意味するɸasita(はした)にnasi(なし)がくっついて強調されたのがɸasitanasi(はしたなし)です。このnasi(なし)は珍しいですが、奈良時代からありました。中途半端であることから「なっとらん(成っていない)」となり、「なっとらん(成っていない)」が強調されたのが、ɸasitanasi(はしたなし)です。無作法であるという意味です。

「水」を意味していたpataのような語も、ずいぶん遠くまで来たものです。

※おそらく、ɸasi(箸)も今回の話に無関係ではないでしょう。「間」を意味したɸasama(はさま)からɸasami(はさみ)が生まれたことを考えると、ɸasi(箸)の背後にもɸasi(間)があると思われます。同じɸasi(間)から生まれたɸasi(橋)とɸasi(箸)がなぜ異なるアクセントを持つようになったのかということですが、ɸasi(橋)とɸasi(箸)は全く別の物であり、経緯が少し違うのでしょう。ɸasi(橋)とɸasi(箸)が同じ場所で同時に生まれたとは考えづらいです。筆者が生まれ育った関東では、「橋」は「し」にアクセントを置き、「箸」は「は」にアクセントを置くのが普通ですが、関西では、「橋」の「は」にアクセントを置き、「箸」の「し」にアクセントを置く逆のパターンを耳にします。

(続く)

 

参考文献

大野晋ほか、「岩波 古語辞典 補訂版」、岩波書店、1990年。

上代語辞典編修委員会、「時代別国語大辞典 上代編」、三省堂、1967年。