この記事は、「天(あま)」の語源は「雨(あま)」の語源よりはるかに難しかった、ミャオ・ヤオ語族と日本語の記事への補足です。同記事は、長くなり、以下の四つの補説も記しました。
- 補説1 過去の記事の修正、aɸu(合ふ)とaɸu(会ふ)
- 補説2 kabu(頭)とkaube(頭)
- 補説3 kabu(頭)と関係がありそうなkabuto(かぶと)
- 補説4 karada(体)の語源もこのパターン
それでも、重要なことを書き尽くせなかったので、ここにもう一つ記事を書くことにします。
今回の記事では、関西とその周辺の地名に注目します。
日本の古代史においてyamato(大和)と並んで重要なkaɸuti(河内)に注目したいところですが、yamato(大和)と違って、kaɸuti(河内)と聞いてもピンとこない方もいるかと思います。まず、日本の古代史を振り返っておきましょう。
前に、日本の巨大前方後円墳の第1号である箸墓古墳(はしはかこふん)と第2号である西殿塚古墳(にしとのづかこふん)が作られた当時の様子を示したことがありました(図は白石2013より引用)。
箸墓古墳は、卑弥呼の墓である可能性が高くなってきた古墳で、西殿塚古墳は、台与の墓である可能性が高くなってきた古墳です。図を見ると、瀬戸内海の東部のあたりにいた勢力が日本という国を作り始めたようだとわかります。当然、この地域で話されていた言語が、私たちの日本語のもとになったでしょう。そのような理由から、このあたりの地名に注目したいのです。
箸墓古墳、西殿塚古墳およびそれらに続く巨大前方後円墳は、奈良盆地の三輪山の麓に作られました(図は千賀2008より引用)。
日本という国が三輪山の麓から作られ始めたことがよくわかります。
箸墓古墳から始まった巨大前方後円墳の築造は、箸墓古墳→西殿塚古墳→桜井茶臼山古墳(さくらいちゃうすやまこふん)→メスリ山古墳(めすりやまこふん)→行燈山古墳(あんどんやまこふん)→渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん)と続きますが、渋谷向山古墳を最後に、この地域には作られなくなってしまいます。考古学者の白石太一郎氏が、その後の巨大前方後円墳の移動を追跡しています(図およびそれに付けられた解説は白石2013より引用)。
箸墓古墳にはじまり、六代にわたって奈良盆地東南部の〝やまと〟の地のオオヤマト古墳群に営まれた王墓は、なぜか渋谷向山古墳を最後として、それ以降は〝やまと〟の地には絶えてみられなくなる。そして四世紀後半になると、王墓と考えられる巨大古墳は奈良盆地北部の佐紀古墳群に営まれるようになる。さらに四世紀末葉以降は、そうした巨大古墳はいずれも大阪平野南部の古市古墳群と百舌鳥古墳群にみられるようになるのである。
こうした畿内における大型古墳造営の動向をまとめたものが一九〇・一九一ページの図である。この図は、畿内の大和・河内・和泉・摂津・山城の地域ごとに、大型の古墳(そのほとんどは前方後円墳であるが)の年代的位置を整理したものである。陵墓に比定されていて墳丘内部への立ち入りができない古墳をも含めて、こうした編年図の作成が可能になったのは、一九七〇年代の後半から急速に進展した円筒埴輪の編年研究が進展したおかげである。
円筒埴輪は大型前方後円墳などの墳丘上だけではなくて、濠の外の外堤上にまで立て並べられている。宮内庁管理地外の外堤上などでは比較的容易に円筒埴輪片を採集することができ、またそこで土木工事などが実施される際には、自治体などにより事前発掘調査が行われ、良好な埴輪資料がえられている。
さらに最近では、陵墓となっている古墳についても、その保存のための工事などが実施される際には、宮内庁書陵部によって事前発掘調査が実施されて遺構の保存対策が講じられるようになっており、そうした陵墓古墳の埴輪の実態が詳しく知られるようになってきている。
もちろん古墳の年代を決めるには、埴輪だけではなく墳丘や周濠の形態、埋葬施設の構造、さらに副葬品などを総合して判断しなければならない。しかし、副葬品はごく一部の古墳でしか知られていない。さらに伝世品を含む場合のある副葬品とは異なって、埴輪は古墳造営時に製作されるものであり、古墳の年代決定の材料としてきわめて有効な資料であることはいうまでもない。
※陵墓(りょうぼ)とは、皇族の墓のことです。埴輪(はにわ)とは、円筒、家、動物、人間などの形に作られた土器のことです(写真は産経新聞様のウェブサイトより引用)。
伝世品(でんせいひん)とは、製作された時代から大切に代々受け継がれてきた品のことです。
最高位の者の墓と見られる最大の前方後円墳は、奈良盆地の三輪山の麓に作られなくなった後、同じ盆地内のずっと北に位置する佐紀に現れますが、長くは続かず、奈良盆地を出て、西の大阪平野の河内・和泉に現れます。
よくニュースなどに出てくるのは、河内の誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)(いわゆる「応神天皇陵」)と和泉の大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)(いわゆる「仁徳天皇陵」)です。
日本の古代史に興味を持っている人は、「倭の五王」のことも聞いたことがあるでしょう。中国の歴史書は、日本との接触も記録しており、貴重な資料になっています。中国の歴史書のうちの宋書に、421~478年の期間(上記の誉田御廟山古墳や大仙陵古墳と重なる時期)に倭の五人の王が接触してきたことが記されています。しかし、その五人の王は「讃、珍、済、興、武」と記されているため、それぞれの王が古事記と日本書紀に書かれているどの天皇に対応するのか、議論が繰り広げられてきました。
※興味深いことに、倭の五王の最後の「武」が宋の皇帝に送った文書が、宋書に公開されています。古代日本の最高位の者の生の声です(現代日本語訳は藤堂2010から引用)。
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順帝の昇明二年(四七八年)に、倭王武は使者を遣わして上表文をたてまつって言った。
「わが国は遠く辺地にあって、中国の藩屏となっている。昔からわが祖先は自らよろいかぶとを身に着け、山野をこえ川を渡って歩きまわり、落ち着くひまもなかった。東方では毛人の五十五ヵ国を征服し、西方では衆夷の六十六ヵ国を服属させ、海を渡っては北の九十五ヵ国を平定した。皇帝の徳はゆきわたり、領土は遠くひろがった。代々中国をあがめて入朝するのに、毎年時節をはずしたことがない。わたくし武は、愚か者ではあるが、ありがたくも先祖の業をつぎ、自分の統治下にある人々を率いはげまして中国の天子をあがめ従おうとし、道は百済を経由しようとて船の準備も行った。
ところが高句麗は無体にも、百済を併呑しようと考え、国境の人民をかすめとらえ、殺害して、やめようとしない。中国へ入朝する途は高句麗のために滞ってままならず、中国に忠誠をつくす美風を失わされた。船を進めようとしても、時には通じ、時には通じなかった。わたくし武の亡父済は、かたき高句麗が中国へ往来の路を妨害していることを憤り、弓矢を持つ兵士百万も正義の声をあげていたち、大挙して高句麗と戦おうとしたが、その時思いもよらず、父済と兄興を喪い、今一息で成るはずの功業も、最後の一押しがならなかっ た。父と兄の喪中は、軍隊を動かさず、そのため事を起こさず、兵を休めていたので未だ高句麗に勝っていない。
しかし、今は喪があけたので、武器をととのえ、兵士を訓練して父と兄の志を果たそうと思う。義士も勇士も、文官も武官も力を出しつくし、白刃が眼前で交叉しても、それを恐れたりはしない。もし中国の皇帝の徳をもって我らをかばい支えられるなら、この強敵高句麗を打ち破り、地方の乱れをしずめて、かつての功業に見劣りすることはないだろう。かってながら自分に、開府儀同三司を帯方郡を介して任命され、部下の諸将にもみなそれぞれ官爵を郡を介して授けていただき、よって私が中国に忠節をはげんでいる」と。
そこで順帝は詔をくだして武を、使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任命した。
なかなか生々しい記述です。「武」は、武力で多数の人間集団を次々に征服しながら、日本という国を作っていったことをストレートに語っています。日本列島のみならず、朝鮮半島にも進出していました。
ちなみに、古事記と日本書紀は、宋書の「倭の五王」の話に触れたがりません。だから、「倭の五王」はだれなのかという議論が混乱してきたのです。宋書の「倭の五王」の話は、倭の歴代の王が中国の皇帝に従属し、位を授けられている話です。卑弥呼も、中国の皇帝から倭王として認定を受けていましたが、この姿勢は、倭の五王の時代になっても一貫しています。中国の文明・文化を取り入れたいと切実に願いながら、北九州の勢力に邪魔されて取り入れられなかった本州・四国の一群の勢力が組んだ連合が、日本という国の原型ですから、当然です。しかし、古事記と日本書紀は、天から降りてきた神の子孫である天皇が日本を統治してきたという話をしているため、宋書の「倭の五王」の話を取り込むわけにはいかなかったと見られます。なにしろ、古代日本の象徴といえる最大級の前方後円墳が作られていた時代の話なのです。
「武」が語っているように、東西へ大規模な征服活動が展開されたのは歴史的事実であり、この出来事に様々な脚色を施して物語化したのが、ヤマトタケルの話だったのでしょう。かつて津田左右吉氏が指摘した通りです。概していうと、こういう英雄の説話は、その基礎にはよし多人数の力によって行われた大きい歴史的事件があるにしても、その事件をそのままに一人の行為として語るのではなく、事件に基づきながら、それから離れて何らかの構想を一人の英雄の行動に託してつくるのが普通である
(津田2020)。
征服が行われる少し前には日本列島でも様々な言語が話されていたんだろうなと思いながら、本記事の続きを読んでいただければと思います。
いずれにせよ、日本の古代史において、河内は大和と並んで重要な場所でした。大和、山城、河内、和泉、摂津は、まとめて「五畿」と呼ばれ、日本の中心でした(「畿」は君主が直接支配する土地を意味します。和泉は、もともと河内の一部でしたが、奈良時代に分離されました。地図はWikipedia(Bcxfu75k様)より引用)。
ここから、本格的な地名の話に入ります。
先に結論を言ってしまうと、日本の地名は、「陸地、土地、場所」を意味していた語(つまり、英語のlandやplaceのような語)が地名になったケースが多いです。これは実に自然な展開ですが、日本では、地名を漢字で書き表していたため、とんでもない誤解を生んできました。
「河内」の読み方ですが、奈良時代には、kaɸutiと呼ばれていました。
三省堂時代別国語大辞典上代編(上代語辞典編修委員会1967)は、kaɸuti(河内)を「川の岸にひらけた盆地。川の流域の平坦地。」と説明した後、「カハ=ウチの約」と記しています。これは、漢字表記に惑わされた誤解のようです。
kaɸuti(河内)のある大阪平野の向かいに、大きな島があります。ここが、aɸadi(淡路)です。そして、aɸadi(淡路)から四国に渡ると、aɸa(阿波)です。
日本語にkoti(こち)やati(あち)という語があったことから、以下のような構図があったと考えられます。
さらに、上記の補説1~4と照らし合わせると、以下のようになっていたと考えられます。
「水」を意味するapaのような語が、「陸地」を意味するようになったのが、aɸa(阿波)である、
「水」を意味するapaのような語が、「横の部分」を意味するtiとくっついて「陸地」を意味するようになったのが、aɸadi(淡路)である、
「水」を意味するkapuのような語が、「横の部分」を意味するtiとくっついて「陸地」を意味するようになったのが、kaɸuti(河内)である
ということです。
「水」を意味したkapuのような語は、「水」を意味したkapaのような語の異形で、gabunomi(がぶ飲み)/gabugabu(がぶがぶ)からその存在が窺えます。
aɸa(阿波)も、aɸadi(淡路)も、kaɸuti(河内)も、「陸地」を意味していた語であるということです。
淡路島の北端の近くに神戸がありますが、神戸もそうです。「神戸」という字をあてたことを考慮すると、もともとの形はkamube*(神戸)であったと推測されます。kamube*(神戸)が、一方ではkaube(神戸)→koube(神戸)に、他方ではkanbe(神戸)に変化したと見られます。「水」を意味するkamuのような語と「横の部分」を意味するɸe(辺、端)がくっついて「陸地」を意味するようになったのが、kamube*(神戸)であるということです。
「水」を意味する語がkapu(またはkaɸu)~kabu~kamuのように発音変化していたことが窺えます(m~b~p(またはɸ)の間は非常に発音変化しやすいので、これは自然です)。
「水」を意味する語が「陸地」を意味するようになり、そこからさらに「上」または「表面」を意味するようになる過程は、「天(あま)」の語源は「雨(あま)」の語源よりはるかに難しかった、ミャオ・ヤオ語族と日本語の記事で詳しく説明したので、そちらを参照してください。
「水」を意味するkapu(またはkaɸu)~kabu~kamuのような語は、そのままの形でkabu(頭)やkamu*(神)になりました(kami(上)の語源も同じところにあるでしょう)。
「水」を意味するkapu(またはkaɸu)~kabu~kamuのような語は、「横の部分」を意味する語とくっついて、kaɸube*(頭)、kaɸuti(河内)、kamube*(神戸)などになりました。
地名が混じると異様に感じられるかもしれませんが、kaɸuti(河内)とkamube*(神戸)も「陸地」を意味する普通の名詞だったのです。
settu(摂津)という地名もそうです。
本州と四国の間の水域は、setonaikai(瀬戸内海)と呼ばれていますが、naikai(内海)は明らかに漢語なので、問題はseto(瀬戸)です。「瀬戸」は当て字で、かつては「狭門」と書かれていたと説明されることがありますが、「狭門」も当て字です。setogiɸa(瀬戸際)という語があったことから、seto(瀬戸)はもともと「水」を意味していたと考えられます。
tuは、「横の部分」を意味していた語で、奈良時代の日本語では、船が発着する場所を意味するtu(津)として現われています。settu(摂津)も、「水」を意味するsetoと「横の部分」を意味するtuがくっついて「陸地」を意味するようになり、このsetotu*が短縮したものと考えられます。
konata(こなた)やkanata(かなた)から、「(水の)横の部分」を意味したta*の存在が窺え、koti(こち)やati(あち)から、「(水の)横の部分」を意味したti*の存在が窺え、船の発着場所を意味したtu(津)から、「(水の)横の部分」を意味したtu*の存在が窺えます。
同じように、奈良時代の日本語で「場所」を意味したto(処)から、「(水の)横の部分」を意味したto*の存在が窺えます(奈良時代の日本語には、to(外)という語もありましたが、三省堂時代別国語大辞典上代編(上代語辞典編修委員会1967)は「ウチの対。主として建物の外をいう。」と説明しており、「土地」を意味する語であったと考えられます)。以下のようになっていたと考えられます。
「水」を意味するmiと「横の部分」を意味するto*が(連体助詞のnaを介して)くっついたのが、minato(港)で、「水」を意味するkapuのような語と「横の部分」を意味するto*がくっついたのが、kabutoです。kabutoは、当初は「陸地」を意味していたはずですが、そこから、「上」、「頭」、「かぶり物」を意味するようになりました(kabu(頭)とkaɸube*(頭)と同様の変化です)。
yamato(大和)は、すでにお話ししたように、「山」を意味するyamaと「横の部分」を意味するto*がくっついた語で、「山際」という意味でした。「横の部分」を意味するto*が、甲類と乙類の間で揺れていたこともお話ししました。
今回の記事では詳しく取り上げませんが、近畿から瀬戸内海を西に進んでいくと、重要な地名が目白押しです。例えば、終点の山口県には、ube(宇部)、simonoseki(下関)、nagato(長門)などの地名があります。
「水」を意味し、「陸地」を意味するようになったuɸa/uɸeのような語があったらしい、「水」を意味するnagaのような語(nagaru(流る)/nagasu(流す)からその存在が窺えます)と「横の部分」を意味するtoのような語がくっついて、「陸地」を意味するようになったらしいといったことがわかります。
simonoseki(下関)は、船舶を取り締まる関所が設置され、都に近いほうからkaminoseki(上関)、nakanoseki(中関)、simonoseki(下関)と呼ばれていたのが由来ですが、そのsimonoseki(下関)には、海の幸が並ぶ下関の台所「唐戸市場」があります。このkarato(唐戸)という地名も、「水」を意味するkaraのような語と「横の部分」を意味するtoのような語がくっついて「陸地」を意味するようになったことを思わせます(siɸo(潮)とsiɸo (塩)の例を考えると、「水」を意味していたkaraのような語は、「水」を意味できなくなり、「海水」と「塩」を意味しようとしたが失敗し、karasi(辛し)になったのでしょう。実際、奈良時代の日本人は、塩のことをkarasi(辛し)と言っていました)。
今回の記事を併せて読んでいただければ、上記の補説1~4は完全に理解できると思います。
漢字に騙されてはいけない!
日本人は独自の文字を持っていなかったので、日本の地名を漢字で書き表すしかありませんでした(改竄された日本の歴史、なぜ古事記と日本書紀は本当のことを書かなかったのかの記事でお話ししたように、卑弥呼がいた200~250年頃には、すでに漢字を使っていました。ひらがなとカタカナが作られたのは794年から始まる平安時代ですから、かなり長い間、漢字だけでやっていたわけです)。これは、仕方のないことです。
しかし、地名を分析する時には、大いに注意が必要です。今回の記事からわかるように、漢字は全く当てになりません。このことをしっかり認識できず、日本では無茶苦茶な地名解釈が行われてきました。特に、ある一つの地名を見てその由来を考えるのは無理があり、周辺の地名と併せながら考える必要があるでしょう。
漢字は全く当てにならないということがしっかり認識できていれば、地名は依然として非常に重要な資料です。言語の語彙からはわからないことを、地名が教えてくれることもあります。
日本語の歴史を考えるうえで、関西とその周辺の地名は特に重要です。しかし、その他の地域の地名も捨てたものではありません。日本語はどこから来たのかという問題だけでなく、縄文時代の日本列島でどのような言語が話されていたのかという問題、あるいは、弥生時代に日本語以外にどのような言語が日本列島に入って来たのかという問題も、興味深いのではないでしょうか。有力な民族が中央とその周辺を占め、少数民族が僻地に追い込まれるのは、人類の歴史の典型的なパターンです。中央から遠く離れた地方の地名が、貴重な情報を与えてくれるかもしれません。
※ミャオ・ヤオ語族で「水」を意味したam、an、aŋ、um、un、uŋ、om、on、oŋのような語は、日本語に大量に入り、am-、um-、om-のような形だけでなく、ab-、ap-、aɸ-、aw-、ub-、up-、uɸ-、uw-、ob-、op-、oɸ-、ow-のような形でも日本語に残りました。日本の地名を調べても、ミャオ・ヤオ語族の言語が日本列島に入って来ていた可能性が極めて高くなってきました。しかし、それだけではとても済まなそうです。
特別付録
大阪(おおさか)の由来とは?
kaɸuti(河内)は昔の地名です。今のōsaka(大阪)の由来も気になるでしょう。
「大阪」は、「大坂」または「小坂」と書かれていました。oɸosakaのように発音されたり、osakaのように発音されたりしていたと見られます。
地名は、やはり周辺の地名と併せながら考えるべきです。
大阪府の大阪市(おおさかし)と兵庫県の尼崎市(あまがさきし)の境に、淀川の大きな分流である神崎川(かんざきがわ)が流れています。神崎川という名称は、尼崎市側の神崎(かんざき)という地名から来ています。
amagasaki(尼崎)とkanzaki(神崎)という地名は、怪しさ満点です。神戸の場合と同様で、kanzaki(神崎)の古形はkamusaki*(神崎)と見られます。「水」を意味するamaのような語と「横の部分」を意味するsakiのような語がくっついたのが、amagasaki(尼崎)で、「水」を意味するkamuのような語と「横の部分」を意味するsakiのような語がくっついたのが、kamusaki*(神崎)でしょう。水と隣接する陸の端という点では、misaki(岬)もamagasaki(尼崎)とkamusaki*(神崎)と同じです。
日本語のsaka*(酒)から、「水」を意味するsakaのような語があったことが窺えます。
「水」を意味するsakaのような語は、「水と陸の境界」を意味するようにもなったし、「陸地」を意味するようにもなりました。前者が、奈良時代の日本語のsaka(境)で、後者が奈良時代の日本語のsaka(坂)です。
「水」を意味していた語が横の「陸地」を意味するようになるのは超頻出パターンで、平らな陸地を意味するようになることが多いです。しかし、昔の人々は、増水時の被害を防ぐために、横の「陸地」を盛り上げることがあり(つまり、土手、堤、堤防)、盛り上がった陸地を意味するようになることも少なくありません。
「水」を意味していたsakaのような語および異形のsakiのような語も、「陸地」を意味するようになり、平らな陸地を意味したり、盛り上がった陸地を意味したりしていたと考えられます。
sakaのような語は、「山」を意味しようとしたことがあったと思われます。その名残が、sakaru(盛る)やsakayu(栄ゆ)です。
sakiのような語も、「山」を意味しようとしたことがあったと思われます。その名残が、sakaru(盛る)やsakayu(栄ゆ)と似た意味を持っていたsaki(幸)/sakiɸaɸu(幸ふ)です(sakiɸaɸu(幸ふ)の連用形のsakiɸaɸiが変化して、現代のsaiwai(幸い)になりました)。
oɸosaka*/osaka*(大坂、小坂)のoɸo/oの部分は「水」を意味し、sakaの部分は「横の部分」を意味していた可能性が濃厚です(midu(水)とmi(水)という形があったように、oɸoとoという形があったのでしょう)。
奈良時代の日本語で、溺れることをoboru(溺る)と言ったり、oboɸoru(溺る)と言ったりしていたからです。oboɸoは、oboかoɸoを重ねたものでしょう。明らかに、「水」を意味するoɸoのような語があったことを示しています。
尼崎市と大阪市が接する近くにも、「淡路」という地名があるので、この一帯で、「水」のことをama/aba/aɸaのように言ったり、omo/obo/oɸoのように言ったりしていたのでしょう(奈良時代の日本語のomo(面)は、omote(面)という形とともに、「表面」を意味したり、「顔」を意味したりしていました。「水」を意味していた語が「陸地」を意味するようになり、「陸地」を意味していた語が「表面」を意味するようになるパターンでしょう。「表面」と「上」という意味から、「顔」を意味しやすいのかもしれません。kaɸo(顔)という語もそうです。「水」→「陸地」→「表面」と意味変化したのがkaɸa(皮)で、「水」→「陸地」→「上」と意味変化したのがkaɸu*(頭)でしたが、kaɸo(顔)もこれらと同源であることは間違いないでしょう)。
ōsaka(大阪)も、「水」を意味したoɸoのような語と「横の部分」を意味したsakaのような語から来ているということです。
このパターンは非常に多いです。
ōsaka(大阪)の南は、wakayama(和歌山)で、wokayama(岡山)と呼ばれていたこともありました。これはとても縄文っぽいです。アイヌ語のwakka(水)のような語と横の「陸地」を意味したyamaのような語がくっついたと見られます。
nara(奈良)は、朝鮮語のnara(国)と同様に、「陸地」を意味していた語でしょう(日本のあちこちにnarahara(奈良原)という地名が見られるので、naraはもともと「水」を意味していたと考えられます)。
本ブログでおなじみの図も健在です。
言うまでもなく、ここから来ているのがnarabu(並ぶ)です。
それよりずっと複雑なのが、naruとnaraɸuという動詞です。
上の図のnara(あるいは変化したnare)は、一方では「親しいこと」、他方では「同じであること」を意味するようになったようです。
こうして、「親しくなること」を意味するnaru(馴る、慣る)/naraɸu(馴らふ、慣らふ)と、「同じになること」を意味するnaraɸu(倣ふ)が生まれます。
そして、このnaraɸu(馴らふ、慣らふ)とnaraɸu(倣ふ)の中間的な存在として生まれてきたのが、naraɸu(習ふ)のようです。つまり、naraɸu(習ふ)は、naraɸu(馴らふ、慣らふ)とnaraɸu(倣ふ)の意味を併せ持っているということです。
naraɸu(習ふ)に関しては筆者も悩まされましたが、上のような複雑な経緯があるようです。
ちなみに、naru(馴る、慣る)は、tuku(付く)と結合してnaretuku(馴れ付く、慣れ付く)になり、短縮形のnatuku(懐く)も生まれました。natukasi(懐かし)という形容詞も生まれます。
平らにすることを意味するnarasu(均す)は、説明するまでもないでしょう。
mie(三重)は、間違いなく、mi(水)とɸe(辺、端)がくっついたものです。
ōsaka(大阪)、wakayama(和歌山)、nara(奈良)、mie(三重)と見ましたが、やはり明らかにパターンがあります。
私たちの名字(苗字)も、このパターンが結構多いのではないかという気がしないでしょうか。
参考文献
上代語辞典編修委員会、「時代別国語大辞典 上代編」、三省堂、1967年。
白石太一郎、「古墳からみた倭国の形成と展開」、敬文舎、2013年。
千賀久、「ヤマトの王墓 桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳」、新泉社、2008年。
津田左右吉、「古事記及び日本書紀の研究 完全版」、毎日ワンズ、2020年。
藤堂明保ほか、「倭国伝 中国正史に描かれた日本 全訳注」、講談社、2010年。