東アジアの運命を決定した三つ巴、二里頭文化と下七垣文化と岳石文化

前回の記事では、山東省で栄えた山東龍山文化(さんとうりゅうざんぶんか)が衰退し、そこに新しい人たちが入ってきたことをお話ししました。こうして、山東省に残っていた人たちと新しく入ってきた人たちによって形成されたのが、丘石文化(がくせきぶんか)です。新しく入ってきた人たちというのは、前回の記事でお話ししたように、遼河流域にいた人たちです。

紀元前1900年頃から山東省で岳石文化が始まりましたが、その岳石文化は以下の図のように二里頭文化(にりとうぶんか)と下七垣文化(かしちえんぶんか)という二つの大きな文化と隣接していました。

二里頭文化という名前は、中国の歴史あるいは考古学に興味を持っている方ならご存じでしょう。中国の歴史書に最初の王朝として記されている夏ではないかと言われている文化です(中国の歴史書としては、史記、竹書紀年、左伝などがあります)。下七垣文化という名前は、ほとんど知られていないでしょう(先商文化(せんしょうぶんか)とも呼ばれます)。下七垣文化は殷の母体、つまり下七垣文化からのちに殷が生まれます(中国ではyīn(殷)インと言わずに、shāng(商)シャンと言うので、注意してください)。

この二里頭文化と下七垣文化と岳石文化の三つ巴から始まる展開が、東アジアの歴史にとって決定的に重要になります。この三者の中で、最も先進的で、最も栄えていたのは、二里頭文化です。二里頭文化の物品は、下七垣文化と岳石文化によく入っています。下七垣文化の物品も、二里頭文化と岳石文化によく入っており、岳石文化の物品も、二里頭文化と下七垣文化によく入っています。三者の間に普通に交流があったことは明らかです(Wei 2017)。

※考古学的には、二里頭文化が存在したこと、そして二里頭文化が当時最も先進的で、最も栄えていたことは確実です。では、中国内外で夏王朝の実在が今でも問題になっているのはなぜでしょうか。それは、中国の歴史書に書かれていることがどこまで本当かわからないからです。中国の歴史書には、夏王朝にはこういう統治者がいた、こういうことをした、こういう統治者がいた、こういうことをしたと書かれていますが、二里頭文化の人間集団が書かれている通りの人間集団だったかどうかはわからないということです。要するに、二里頭文化の人間集団が最も先進的で、最も栄えていたことは間違いないが、その人間集団が後世の歴史書に正しく(つまり作り話なしで)記述されているかどうかはわからないということです。かつては、夏だけでなく、その次の殷の実在も疑われていました。しかし、殷の場合には、殷の時代に相当する遺跡から甲骨文字(亀の甲羅などに刻まれた文字)が発見され、その甲骨文字の記述が後世の歴史書の記述と合っていたことから、実在が認められるに至りました。

二里頭文化は最終的に、下七垣文化の勢力によって武力で滅ぼされます。興味深いことに、中国の歴史書には、二里頭文化を滅ぼした下七垣文化の勢力のことだけでなく、この勢力の先祖のことまで書かれており、先祖(の一部)が夏王朝に仕えていたことが書かれています(Wei 2017)。これは異常なことではありません。本来なら王朝に仕えるはずの者、豪族、武将などが王朝を転覆させてしまうことは、古代からよくありました。これは珍しいパターンではなく、むしろ頻出パターンです。もっと興味深いのは、下七垣文化の勢力が二里頭文化を滅ぼすために「連合」を組み、この「連合」に岳石文化の勢力も加わっていたようだということです(Tian 1997、Zhang 2002)。

ここで出てきた「連合」という概念は、決して特殊なものではありません。殷も連合を組んで夏を倒しにいったし、周も連合を組んで殷を倒しにいきました。人類の歴史を語る時に戦争は外せませんが、そこに出てくる「連合」も外せません。「連合」は大きな要因です。単独の相手なら倒されない強者も、「連合」を組まれて倒されてしまうことがあります。「連合」が組まれると、戦いの規模が大きくなります。さらに、勝利を収めた「連合」の内部で対立が生じることもあります。「連合」は大きな波乱要因とも言えます。

※日本の古代史の大きな争点となってきた倭国大乱と邪馬台国についてもいずれお話ししたいと思っていますが、日本の形成においても「連合」の存在が重要だったようです。

下七垣文化の勢力は、二里頭文化を滅ぼして殷王朝を建てました。殷王朝は、自分の援軍となってくれた岳石文化の勢力と、しばらくは良好な関係を保っていました(Xu 2012)。この良好な関係が崩れたのは、殷の第10代の王である中丁(ちゅうてい)の時代です(Xu 2012)。ここで初めて、殷が夷(東方の異民族の総称)を攻撃したという記述が歴史書に現れます。以後、殷の時代の終わりまで攻撃が繰り返されます。もちろん、勝者(すなわち殷)の言い分が反映された中国の歴史書では、夷が悪いことをしたので、殷が成敗したという話になっています。しかし、実際のところはわかりません。

考古学的には、殷の文化が岳石文化をどんどん塗り替えていく様子が捉えられています(Xu 2012)。Xu氏は戦争があったことを考古学的に確かめようとしていますが、3000年以上も前のことなのでなかなか難しそうです。殷の文化が岳石文化をどんどん塗り替えていったことを確かめるのは容易だが、その原因が戦争であることを確かめるのは容易でないということです。しかし、中国の歴史書の記述と合わせると、殷が山東省に大々的に侵攻したと考えざるをえません。科学が高度に発達した現代では、自然環境の変化はよく捉えられるようになってきましたが、特定の戦争の存在を捉えるのはなかなか難しいようです。

ちなみに、殷王朝の正確な開始時期は中国の歴史書からはわからず、考古学のデータから紀元前1700~1600年頃と推定されています。殷の初代の王は湯(とう)で、第10代の王が先ほど出てきた中丁です。殷の王位は、父から息子に継承されることもあれば、兄から弟に継承されることもありました。湯の五世代下に中丁がいます。一世代25~30年とすれば、125~150年の差があります。ここに挙げた数字は大いに注目に値します。紀元前1500年頃から朝鮮半島にイネの栽培を行う農耕民が現れたという事実と非常によく合うからです(激動の時代、うまくいかなくなったアワとキビの栽培、うまくいかなくなったイネの栽培などを参照)。

殷が西から侵攻し、山東省の住民が東に逃れた可能性が高まってきました。朝鮮半島と日本列島に大きく関わる問題であり、ここは深く切り込まないといけないでしょう。

 

参考文献

Tian C. et al. 1997. ”景亳之会”的考古学观察. 殷都学刊 04: 1-5.(中国語)

Wei J. 2017. 从夏、夷、商三族关系看夏文化. 中原文化研究 03: 36-41.(中国語)

Xu Z. 2012. 商王朝东征与商夷关系. 考古 02: 61-75.(中国語)

Zhang G. 2002. 論夏末早商的商夷聯盟. 郑州大学学报(哲学社会科学版) 02: 91-97.(中国語)

波乱の時代の幕開け、崩れゆく山東龍山文化、そこに現れた異質な岳石文化

遼河文明の変遷については、遼河文明を襲った異変の記事で少し述べましたが、ここでもっと詳しく見ておきましょう。

遼河文明は8200年前頃に始まりました。興隆窪文化(こうりゅうわぶんか)→趙宝溝文化(ちょうほうこうぶんか)/富河文化(ふがぶんか)→紅山文化(こうさんぶんか)と発展しました。しかし、紅山文化の終わり頃から、調子が狂い始めます。5000年前頃から遺跡の数がどんどん減っていくので、(農業)環境が悪化しているのがわかります(Teng 2013)。4200~4000年前頃には、深刻な事態になります。

ここで注目すべきなのは、同じ頃に、遼河流域より南にある山東龍山文化(さんとうりゅうざんぶんか)とさらに南にある良渚文化(りょうしょぶんか)も致命的なダメージを受けていることです(Wu 2001)。山東龍山文化は黄河下流域の代表的な文化で、良渚文化は長江下流域の代表的な文化ですが、この二つの大文化が崩壊してしまいます。気候変化が、遼河流域に限られたものではなく、もっと広い範囲で起きていたことが窺えます。

※ちなみに、日本の縄文時代の大遺跡として最も有名な東北地方の三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)も、同じ頃に崩壊しています(Kawahata 2009)。遼河流域、黄河下流域、長江下流域、そして日本が気候変化に見舞われていたとなると、その間に位置する朝鮮半島が無傷でいられたはずはありません。激動の時代、うまくいかなくなったアワとキビの栽培、うまくいかなくなったイネの栽培の記事で、朝鮮半島に導入されたアワ・キビの栽培が衰退してしまったことをお話ししましたが、これも同じ脈絡の中で起きたと考えられます。ただ、不思議なことに、中国の各地でそれまで栄えていた文化が衰退する一方で、黄河中流域の文化だけは困難な時代をうまく乗り切っている、いやそれどころか、逆に勢いづいている感すらあります(Wu 2004)。まさにその黄河中流域から、夏殷周の時代が始まるわけです。黄河中流域は、地理的な理由で気候変化の作用が弱かったのか、それとも、気候変化の作用は強かったが、それをはね返せるなんらかの特別な力があったのか、大いに検討する必要があります。

上に述べたように、黄河下流域の山東龍山文化は厳しい気候変化に見舞われましたが、これに関連して、考古学者のZhang Guoshuo氏が鋭い指摘をしています(Zhang 1989、1994)。以前にお話ししたように、黄河下流域は黄河文明の最初期から行李文化(こうりぶんか)→北辛文化(ほくしんぶんか)→大汶口文化(だいぶんこうぶんか)→山東龍山文化(さんとうりゅうざんぶんか)→岳石文化(がくせきぶんか)と変遷しました。Zhang氏は、これらの文化の遺跡、遺構、遺物を広範かつ詳細に研究し、北辛文化と大汶口文化と山東龍山文化に強いつながりを認めています。北辛文化から大汶口文化への変化は漸進的(「徐々に、段々と」という意味)であり、北辛文化の終わりと大汶口文化の始まりは区別するのが容易でない、大汶口文化から山東龍山文化への変化も漸進的であり、大汶口文化の終わりと山東龍山文化の始まりも区別するのが容易でないと述べています。それに対して、山東龍山文化から岳石文化への変化は急激であり、連続性が乏しいと述べています。もちろん山東龍山文化から受け継いだ要素はゼロではありませんが、異質な要素のほうが圧倒的に多いのです。

岳石文化が独立した文化として認められ、論じられるようになったのは、1980年頃からです(Zhang 1996)。岳石文化は、その後も注目されることが少なく、今も謎めいています。山東龍山文化の時代は紀元前2600~1900年頃、岳石文化の時代は紀元前1900~1500年頃です(岳石文化は最後は殷に飲み込まれていきます)。山東龍山文化の遺跡数に比べて、岳石文化の遺跡数はとても少ないです。山東龍山文化は極めて芸術的な土器を大きな特徴としていましたが、岳石文化では実用性しか考えていないような質素な土器ばかりになりました。そのため、岳石文化は山東龍山文化の荒廃した姿かと思われることもありました。

しかし、考古学調査が進むにつれて、そうではないことがわかってきました。ここでもやはり、年代測定の精度が上がってきたことが非常に大きいです。実は、山東龍山文化の時代を早期、中期、晩期の三つに分けると、山東龍山文化の遺跡のほとんどは早期~中期のもので、晩期のものはとても少ないのです(Gao 2009)。つまり、山東龍山文化の時代の途中ですでに衰退していたということです。すでに衰退して、閑散としていた山東省に、別のところから人が入ってきたのです。

Zhang氏は、山東龍山文化とは明らかに異質な岳石文化の要素がどこから来たのか考察しています。そして、それらの要素が主に遼河文明の夏家店下層文化(かかてんかそうぶんか)から来たようだと分析しています。Zhang氏の分析は、筆者が前回までの記事で示した、日本語の遼河流域から山東省への移動を立証する言語学のデータとよく合います。

冒頭の遼河文明の話を思い出してください。5000年前頃から気候が悪化し始め、4200~4000年前頃に深刻な事態になったという話です。この時期を過ぎて、勢いづいたのが夏家店下層文化です。夏家店下層文化の時代は4000~3500年前頃(つまり紀元前2000~1500年頃)です。現実的に考えると、夏家店下層文化の前の気候が悪化している時期から、南(山東省)への人の移動は始まっていたでしょう。その上で、夏家店下層文化の時代にも、南への人の移動があったということでしょう。

※夏家店下層文化は3500年前頃に終わります。そして、夏家店上層層文化(かかてんじょうそうぶんか)が3000年前頃から始まります。発掘調査で、古い文化は下の層から現れ、新しい文化は上の層から現れるので、夏家店下層文化と夏家店上層文化と呼ばれます。この二つの文化は、時間的に連続しておらず、全然違う文化です。夏家店下層文化は農耕主体の文化で、夏家店上層文化は牧畜主体の文化です。夏家店下層文化が存続できなかったのは、Yang Xiaoping氏らが論じているように、気候の悪化によって、不可逆な砂漠化が始まってしまい、気候が持ち直しても、不可逆な砂漠化は止まらなかったためと見られます(Yang 2015)。

遼河流域から山東省に南下してきた人たちは、山東省に残っていた人たちと混ざり合うことになりますが、彼らがその後どのような運命をたどったのか、追跡しましょう。東アジアの歴史上重要な時代へと突入していきます。

 

参考文献

英語

Kawahata H. et al. 2009. Changes of environments and human activity at the Sannai-Maruyama ruins in Japan during the mid-Holocene Hypsithermal climatic interval. Quaternary Science Reviews 28: 964-974.

Wu W. et al. 2004. Possible role of the “Holocene Event 3” on the collapse of Neolithic Cultures around the Central Plain of China. Quaternary International 117: 153-166.

Yang X. et al. 2015. Groundwater sapping as the cause of irreversible desertification of Hunshandake Sandy Lands, Inner Mongolia, northern China. Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America 112(3): 702-706.

その他の言語

Gao J. et al. 2009. 岳石文化时期海岱文化区人文地理格局演变探析. 考古 11: 48-58.(中国語)

Teng H. 2013. 环境变迁与”文化”的兴衰:以中国北方西辽河流域为考察对象. 东北史地 01: 29-33.(中国語)

Wu W. et al. 2001. 4000a B. P. 前后降温事件与中华文明的诞生. 第四纪研究 21(5): 443-451.(中国語)

Zhang G. 1989. 岳石文化来源初探. 郑州大学学报(哲学社会科学版) 01: 1-6.(中国語)

Zhang G. 1994. 岳石文化的渊源再探. 郑州大学学报(哲学社会科学版) 06: 56-62.(中国語)

Zhang G. 1996. 岳石文化研究綜述. 郑州大学学报(哲学社会科学版) 01: 60-63.(中国語)

闇に包まれた朝鮮語の歴史

日本語が遼河流域→山東省→朝鮮半島→日本列島と移動してきたことを明確に示す例として、「目」の話をしました。

モンゴル系言語のモンゴル語nüd(目)ヌドゥのような語が日本語に入り、シナ・チベット語族の古代中国語mjuwk(目)ミウク、チベット語mig(目)、ミャンマー語のmyeʔsi(目)ミエッスィのような語が日本語に入り、タイ系言語のタイ語taa(目)のような語が日本語に入り、ベトナム系言語のベトナム語mắt(目)マ(トゥ)のような語が日本語に入ったのでした。

日本語はなぜ遼河流域→山東省→朝鮮半島→日本列島と移動することになったのかという考古学の話にいよいよ移りますが、その前に、前回の記事で余韻を残した朝鮮語に少し言及しておきます(図はRobbeets 2021より引用)。

前回までの記事でお話ししたように、(1)ウラル語族のフィンランド語silmä(目)スィルマのような語、(2)モンゴル系言語のnüd(目)のような語、(3)シナ・チベット語族の古代中国語mjuwk(目)、チベット語mig(目)、ミャンマー語のmyeʔsi(目)のような語、(4)タイ系言語のタイ語taa(目)のような語、そして(5)ベトナム系言語のベトナム語mắt(目)のような語が日本語に含まれており、日本語は、遼河流域から山東省に移動し、山東省から朝鮮半島に移動したことがわかりやすいです(遼河文明は興隆窪文化(こうりゅうわぶんか)から始まりましたが、興隆窪文化は遼河流域の西部に位置していました)。

そのような日本語と対照的なのが、朝鮮語です。朝鮮語の目に関連する語彙を一通り調べても、(1)~(5)のような語は出てきません。nun(目)、nunssop(眉)ヌンッソプ、nunmul(涙)、poda(見る)、kidarida(待つ)、parada(望む)などの語は、(1)~(5)のような語と全然合いません。paraboda(眺める)、norjɔboda/ssoaboda(睨む)ノリョボダ/ッソアボダ、norida(狙う)などの語も、(1)~(5)のような語と全然合いません。

このことからわかるのは、日本語は遼河流域西部から山東省にかけての領域にいたが、その時に朝鮮語はその領域にいなかったということです。朝鮮語が遼河流域西部から山東省にかけての領域にいたのなら、モンゴル系言語の「目」、シナ・チベット語族の「目」、タイ系言語の「目」、ベトナム系言語の「目」のすべてを取り込むことはないにしても、少なくとも一部は取り込んでいたでしょう。朝鮮語には、その形跡が全くないのです。

紀元前1500年頃(つまり3500年前頃)から、中国東海岸地域から朝鮮半島にイネの栽培を導入した人たちがいました。日本語はここに属しますが、朝鮮語はここに属さないということです。

当然、朝鮮語はどこから来たのかという疑問が生じます。以下の二つの可能性が考えられます。

(1)日本語が中国東海岸地域から朝鮮半島に入ったのと同じ頃に、朝鮮語は中国東海岸地域以外の場所から朝鮮半島に入った。

(2)そもそも朝鮮語は日本語と同じ頃に朝鮮半島に入らず、もっと後になってから朝鮮半島に入った。

※理論的には、日本語が中国東海岸地域から朝鮮半島に入る前から朝鮮語は朝鮮半島にいたという第三の可能性があります。しかし、農耕民と狩猟採集民が出会う時、新しくやって来た農耕民は実は・・・の記事などで詳しくお話ししたように、紀元前1500年頃より前に朝鮮半島にいた狩猟採集民の文化は、紀元前1500年頃から朝鮮半島に入ってきた農耕民の文化に全面的に置き換えられてしまったので、第三の可能性は限りなくゼロに近いです。

日本語は山東省→朝鮮半島→日本列島と移動しましたが、山東省に朝鮮語がいないのであれば、日本語が山東省で朝鮮語に接触することは不可能です。しかし、朝鮮半島でならどうでしょうか。日本語が朝鮮半島を通過する時に朝鮮語に接触することはあったのでしょうか。

あったかもしれません。少なくとも、日本語が朝鮮語かそれに近い言語に接触することはあったと思われます。M. Robbeets氏らが指摘しているように、またそれ以前から指摘されているように、朝鮮語のip(口)のような語が日本語に*ipuとして入り、iɸu(言ふ)になったのは間違いなさそうです。

奈良時代の日本語には、iɸu(言ふ)の類義語として、noru(宣る)という語がありました。noru(宣る)は現代では廃れてしまいましたが、nanoru(名のる)などに組み込まれて残っています。iɸu(言ふ)とnoru(宣る)は言葉を発することを意味する語ですが、一般に言葉を発することを意味する語が大量にあってもしょうがありません。多くの語は、特殊な意味を帯びていきます。よくあるのは、一般に言葉を発することを意味していた語が、よい言葉を発することを意味するようになるパターン、あるいは、一般に言葉を発することを意味していた語が、悪い言葉を発することを意味するようになるパターンです。前者のパターンに属するのが、iɸu(言ふ)と同源のiɸaɸu(祝ふ)で、後者のパターンに属するのが、noru(宣る)と同源のnoroɸu(呪ふ)です。iɸaɸu(祝ふ)は、口からよい言葉が出てくることを意味し、noroɸu(呪ふ)は、口から悪い言葉が出てくることを意味しています。iɸaɸu(祝ふ)はかつては、幸福を祈ることが意味の中心であり、不幸を祈ることを意味するnoroɸu(呪ふ)と対のようになっていました。

朝鮮語のip(口)のような語が日本語のiɸu(言ふ)とiɸaɸu(祝ふ)になったということです。朝鮮語のip(口)のような語は*ipuという形で日本語に入り、言うことだけでなく、食べることも意味していたようです。言うことも、食べることも、口で行う動作です。しかし、言うことを意味する動詞が*ipuで、食べることを意味する動詞が*ipuでは、やはり都合が悪いです。言うことを意味する*ipuという動詞は、iɸu(言ふ)という動詞として残り、食べることを意味する*ipuという動詞は、一歩譲ってiɸi(飯)という名詞として残ったようです(食べることを意味するmesu(召す)からmesi(飯)ができたのと同様です)。

ちなみに、昔の日本語のiɸi(飯)と現代の日本語のmesi(飯)、gohan(ごはん)に対応する朝鮮語は、pap(ごはん)です。朝鮮語のpap(ごはん)も、「口」から来ているようです。どこかに口のことをpapのように言う言語があって、それが朝鮮語ではpap(ごはん)になり、日本語ではɸaɸuru(祝る)になったと見られます(日本語のɸaɸuru(祝る)は遠い昔に死語になっています)。

※上記の口を意味するpapは「下→穴→口」という意味変化をしていたはずです(「口(くち)」の語源を参照)。ɸaɸu(這ふ)やɸaɸuru/ɸaburu(葬る)もこの系統でしょう。現代では、ɸaɸu(這ふ)はhau(這う)になり、ɸaɸuru/ɸaburu(葬る)はhoumuru(葬る)になっています。houmuru(葬る)は、もともと埋めることを意味していたのです。

日本語は朝鮮半島を通過する時に、朝鮮語にあまり接触できなかったようです。日本語に朝鮮語のnun(目)のような語が入っていないのも、そのためと考えられます。逆に、日本語のma(目)のような語も朝鮮語に入っていません。日本語と朝鮮語の間にいくつもの言語/言語群があって、それらの言語/言語群が一方で日本語に語彙を提供し、他方で朝鮮語に語彙を提供することはよくあったが、日本語が朝鮮語に直接接する機会はあまりなかったようです。冒頭の図を見ればわかりますが、日本語の朝鮮半島での滞在期間はさほど長くないし、その滞在期間中も移動していたのです。ただし、朝鮮半島に残った日本語に近縁な言語が朝鮮語に語彙を提供するケースはある程度あったでしょう。

※上の赤で強調した箇所は重要です。日本語と朝鮮語の間では、以下のようなことが起きていたと見られます。

日本語と朝鮮語のそばに、言語群A、言語群B、言語群Cが存在します。言語群Aは同系統の言語の集まりですが、それらの言語は少しずつ異なっています。言語群Bも、言語群Cも、そのような言語の集まりです。言語群A、言語群B、言語群Cのそれぞれは、日本語にわりと近縁かもしれません、朝鮮語にわりと近縁かもしれません、あるいは、日本語とも朝鮮語とも全然違うかもしれません。

言語群Aから、一方では日本語に、他方では朝鮮語に語彙が流入しています。同じように、言語群Bから、一方では日本語に、他方では朝鮮語に語彙が流入しています。やはり同じように、言語群Cから、一方では日本語に、他方では朝鮮語に語彙が流入しています。このようにして、日本語の内部と朝鮮語の内部に語彙が貯まっていきます。そして、言語群A、言語群B、言語群Cが消滅したとしましょう。日本語と朝鮮語だけが残るわけです。どうなるでしょうか。

日本語と朝鮮語の双方に、形がよく似ていて、意味的関係が深い語が見られるのです。そのような語が多く見られると、日本語と朝鮮語は同系統ではないかという話が始まりますが、上の図の通り、そういう話ではないのです。

言語群Aは、少しずつ異なる言語の集まりです。言語群Aから日本語に入る語の形と、言語群Aから朝鮮語に入る語の形は、同じであることもあれば、微妙に異なっていることもあるでしょう。それどころか、日本語が言語群Aから微妙に異なる複数の語を受け取ったり、朝鮮語が言語群Aから微妙に異なる複数の語を受け取ったりすることだってあるでしょう。言語群Bと言語群Cの場合についても、全く同様です。

日本語と朝鮮語に近い系統関係があるわけではない、日本語が朝鮮語に大量の語彙を提供したわけでもない、朝鮮語が日本語に大量の語彙を提供したわけでもない、それなのに、日本語と朝鮮語に共通語彙が次々に見つかるからくりが、まさに上の図です。要するに、ある言語と別の言語が同じ地域に存在すれば、その二つの言語の間に近い系統関係がなくても、その二つの言語の間に直接的なやりとりがなくても、必然的にかなりの共通語彙を持つことになるのです。

これが、実際の歴史です。形がよく似ていて、意味的関係が深い語を見つけ出し、日本語と朝鮮語に近い系統関係があるのではないかと主張したのは、わからなくはないですが、早とちりです。従来の歴史言語学では、日本語と朝鮮語に、形がよく似ていて、意味的関係が深い語を見出しては、これは日本語と朝鮮語の共通祖語から来たものだ、いや、日本語から朝鮮語に入ったものだ、いや、朝鮮語から日本語に入ったものだという具合に論じてきました。かつて日本語と朝鮮語の近くに存在し、消えていった膨大な数の言語のことが全く考えられてきませんでした。消えていった膨大な数の言語が日本語と朝鮮語に与えた影響は、とてつもなく大きいのです。実際の歴史が上の図のようだったわけですから、それに合った研究の仕方・方法が求められます(上の図は説明のために示した単純なモデルです。もっと語彙が飛び交っていたでしょう。実際の歴史が上の図よりはるかに複雑だったことはいうまでもありません)。

遼河文明の始まりの頃(8200年前頃)まで遡ったぐらいでは、日本語とウラル語族の系統関係を考えるのがせいぜいです。現存する他の言語との系統関係を考えるためには、歴史を1万年、2万年、3万年、4万年、5万年と遡らなければなりません。特に、消えていった膨大な数の言語(現実的には言語群)を探る作業が重要になります。日本語とウラル語族に近縁だった言語もごっそり消えています。

朝鮮語の歴史は難解です。激動の時代、うまくいかなくなったアワとキビの栽培、うまくいかなくなったイネの栽培の記事などでお話ししたように、紀元前1500年頃から朝鮮半島にイネの栽培が導入されて一気に広がり、人口が激増しました。この時点では、イネの栽培を行う人たちの言語が勢力を誇っていたにちがいありません。しかし、紀元前1000年をいくらか過ぎたところでイネの栽培は大きく減少し、しばらく持ちこたえた後、再び大きく減少してしまいました。こうして、紀元前300年頃にはイネの栽培がほとんど行われなくなってしまいました(Ahn 2010)。これは、イネの栽培が導入され、まずまず順調に継続した日本の歴史とは明らかに違います。

このように朝鮮半島ではイネの栽培が衰退してしまったので、イネの栽培を行っていた人たちの言語以外の言語が台頭した可能性があります(ちなみに、イネの栽培が力を取り戻し始めるのは、紀元後になって三国時代(高句麗、百済、新羅の時代)に向かい始める頃です(Ahn2010))。朝鮮語はどのような言語だったのでしょうか。イネの栽培を行っていた人たちの言語でしょうか。それとも、イネの栽培を行う人たちの近くで、他の栽培を行っていた人たちの言語でしょうか。はたまた、イネの栽培が衰退したところで、外から新しく入ってきた人たちの言語でしょうか。この問題は興味深いですが、別の機会に論じることにしましょう。

考古学の話に戻り、日本語が歩んできた遼河流域→山東省→朝鮮半島→日本列島という道のりを追跡していきます。日本語はなぜこのような運命をたどることになったのでしょうか。最初の「遼河流域→山東省」の移動と最後の「朝鮮半島→日本列島」の移動は、自然環境の変化が引き起こしたものですが、真ん中の「山東省→朝鮮半島」の移動は、自然環境の変化が引き起こしたものではなかったようです。なにが「山東省→朝鮮半島」の移動を引き起こしたのでしょうか。

 

参考文献

Ahn S. 2010. The emergence of rice agriculture in Korea: Archaeobotanical perspectives. Archaeological and Anthropological Sciences 2(2): 89-98.

Robbeets M. et al. 2021. Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature 599(7886): 616-621.