邪馬台国論争は21世紀に入ってから近畿説が優位に、中国と日本が迎えた大きな転機

邪馬台国論争は、江戸時代から主に九州説と近畿説の間で繰り広げられてきましたが、21世紀に入ってからは近畿説が優位になり、この形勢が固まりつつあります。

ここに至るまでには、実に様々な展開がありました。データが積み重ねられていく過程で、九州説のほうがもっともらしく見えた時もあれば、近畿説のほうがもっともらしく見えた時もありました。筆者自身は、このような展開があったこと自体が貴重だと思っています。

諸説が入り乱れた邪馬台国論争ですが、20世紀終盤から歴史学者の山尾幸久氏、考古学者の都出比呂志氏、考古学者の白石太一郎氏などが主張してきた説がどんどん現実味を帯びてきています。ここでは、1985年の都出氏の発言を引用します(石野2015)。

もし中国の文献が事実を一部でも伝えているのだとすれば、邪馬台国というか、ああいう一つの政治連合体は、近畿および瀬戸内の沿岸地域の一つのブロックを指しているのではないかというのが私の考えです。ですから、種類分けすれば、私の場合は畿内邪馬台国説になるかもしれませんが、従来の畿内説の人と違う点は、弥生中期の段階、すなわち二世紀の初めぐらいまでの段階では、畿内のそういう政治権力は中国などの外交権や商業ルートを確保するという点においては九州に一歩後れていたのではないかというふうに考えているのです。非常に大胆な言い方をしますと、一世紀から二世紀の半ばぐらいまでは、北部九州が中国から冊封に似たお墨付きをもらっていたと思います。それを示すものが須玖遺跡などの前漢鏡や璧です。璧は一つの権威のシンボルですが、それを持った王者がいたのでしょう。実際に文献のほうでもAD五七年やAD一〇七年の朝貢記事がありますが、あれは恐らく北部九州の王様を指していることは間違いないだろうと考えています。

それは後漢王朝にとって良い子だった人たちですが、二世紀末の動乱で、この力関係がひっくり返るのではないか。この考えは立命館大学の山尾幸久さんの研究(『日本古代王権形成史論』岩波書店、一九八三)から学ぶところ大です。その結果、畿内・瀬戸内連合が優勢となり、北部九州はそれ以後衰退し、古墳時代を迎えるという一つの脚本はどうでしょうか。

※都出氏のこの発言は、下で説明する「高地性集落」について論じた時の発言です。

前回の記事では、弥生時代後期に北九州の勢力が中国の文明・文化を取り入れて隆盛を誇っていたことをお話ししました。その一方で、北九州の勢力が中国の文明・文化が東方(北九州より東、すなわち本州と四国)へ流入するのを邪魔していたのではないかと指摘しました。北九州が中国の文明・文化の取り入れをほぼ独占し、東方に不満・怒りがたまっていく状況を想像してください。

山尾氏、都出氏、白石氏らは、このような状況の中で北九州の勢力と東方の勢力の間についに戦争が起きたのではないか、そしてこの戦争が魏志倭人伝に記されている「倭国大乱」ではないかと考えているのです(山尾1983、白石2013、石野2015)。

前回の記事では、弥生時代後期の北九州から豪華な中国鏡が続々と出てくる一方で、東方からは鏡の破片ばかりが出てくるという寺沢薫氏のデータを紹介しました。実は、寺沢氏は興味深い別のデータも示しています(寺沢2014、2021)。

これは、高地性集落と呼ばれるものの分布データです。ここで注意しなければならないのは、寺沢氏などの考古学者が、単に高いところにある集落に注目しているわけではないということです。寺沢氏などの考古学者が注目しているのは、生計・生業上の理由ではなく、防衛上の理由で高いところに形成されている集落です。そういう集落がここで問題とされているのです。

漢が紀元前108~107年に朝鮮半島に楽浪郡などの植民地を置き、中国の文明・文化がぐっと近づきました。そして、北九州の勢力がその中国の文明・文化を取り入れ、隆盛を誇るようになります。その頃から、瀬戸内海の沿岸地域を中心に防衛を意識した高地性集落が現れます(途中から九州中部に少し現れる高地性集落も、同様の性格の高地性集落でしょう)。

中国鏡のデータのところでもうっすらと感じられましたが、やはり、北九州の勢力が東方(と南方)の勢力に非友好的な態度を取り、東方(と南方)の勢力に警戒感を抱かせていると見られます。この緊張状態はその後どうなったのでしょうか。

前回の記事の中国鏡と中国銭貨のデータから、東方の勢力が中国の文明・文化に関心を持っていたことは十分に窺えます。しかし、いくら北九州の勢力が邪魔だからといって、北九州の勢力とすぐに対決するわけにはいきません。北九州の勢力は、漢の皇帝から金印を授かっていることからもわかるように、冊封体制に入っている(ゆるやかな君臣関係を結んでいる)からです。要するに、バックに漢がいるのです。歴史学者の井上光貞氏などが推測したように、「虎の威を借る狐」のようなことが起きていたと思われます(井上2005)。漢が「虎」で、北九州が「狐」です。東方(と南方)の勢力にできることといえば、警戒態勢を取ることぐらいです。

しかし、とうとう最大のターニングポイント(転機)がやって来ます。巨大な漢が崩壊し始めるのです。

漢王朝は、正確には前漢(紀元前206年~紀元後8年)と後漢(紀元後25年~紀元後220年)に分けられます。漢王朝の外戚となった王莽が皇帝の地位を奪い取ってしまった時期があるからです。王莽は、前漢の哀帝の死後に、幼い平帝を立て、自分が実権を握り、皇位まで奪い取りました。

このように、皇帝の周囲にいる者が権力を握ったり、権力を争ったりすることは中国の歴史において日常茶飯事であり、前漢から王莽の皇位簒奪をはさんで復活した後漢も結局はそのような形で衰退していきます。

日本の歴史および東アジアの歴史を考えるうえで非常に意義深いのは、漢王朝(後漢)が崩壊していくまさにその過程で「倭国大乱」が起きたということです。この時期は、中国も朝鮮半島も大きく混乱しています。時代的に詳しく見てみましょう。

魏志倭人伝には、以下のように記されていました(藤堂2010)。

其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。

其の国、本亦た男子を以って王と為す。住まること七、八十年、倭国乱れて、相攻伐すること年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。

落ち着いた時代が70~80年あった後、倭国で戦乱が発生したことが記されています。落ち着いた時代とはいっても、あからさまな戦争がなかったというだけで、上の図が示すような高地性集落の形成という緊張状態はあったわけです。

魏志よりも後に完成した中国の歴史書に、倭国大乱が桓帝・霊帝の時代(146~189年)に起きた、あるいは霊帝の時代(168~189年)に起きたという具体的な記述がありますが、筆者はこれらの情報に魏志倭人伝の情報以上の価値を与えることはできないと思います。中国の歴史書に107年に倭国王の帥升らが朝貢したことが記録されており、この男王がいた107年に上記の魏志倭人伝の70~80年を加算したと考えられるからです。ここはひとまず、倭国大乱は2世紀(101~200年)の終わりに近い頃に発生したぐらいの解釈にとどめておくのが賢明でしょう。

有名な黄巾の乱が起きたのは184年です。霊帝は幼くして皇帝の地位につき、霊帝の時代は、皇帝の周囲にいる者たちが激しい権力争いをし、政治が大いに乱れていた時代です(この傾向は霊帝よりも前から現れていました)。霊帝はすでに周辺の異民族との戦いなどで苦しくなっていた財政をなんとかしようとして官位の売買(官位を手に入れたい者がお金で官位を手に入れること)を認めましたが、これは結果的に、役人などが高い地位を求めて庶民に重税を課すことにもつながりました。悪いことに、自然災害も度重なりました。そのような中で、新興宗教の指導者である張角が困窮した農民を率いて起こした反乱が、黄巾の乱です。後漢を転覆させようとした黄巾の乱は、大規模な反乱になりましたが、鎮圧されました。

しかしながら、黄巾の乱の鎮圧によって後漢が威光を取り戻したかというと、そんなことは全くなく、逆に、皇帝の力ではなく、皇帝以外の者たち(黄巾の乱の鎮圧で活躍した武将たち)の力が際立ちました。形式的には漢王朝が消滅するのは皇位が禅譲された220年ですが、実質的には184年の黄巾の乱の鎮圧から次の三国時代(魏、呉、蜀)への移行期が始まります。

ここからの人間模様はとても複雑です。しかし、後漢の滅亡は日本の歴史を考えるうえで無視できないので、ざっと見ておきましょう。

189年5月に霊帝が病死すると、ただでさえ混乱していた状況がさらに混乱します。

霊帝の後は、霊帝と何皇后の子である劉弁が少帝として即位します。何皇后とその兄である何進(黄巾の乱を鎮圧した際の大将軍)が、少帝を立てました。

霊帝には、何皇后との間に劉弁という子がいましたが、側室の王美人との間にも劉協という子がいました。何皇后は、王美人が出産した時に激しく嫉妬し、王美人を毒殺してしまった過去があります。

霊帝の後に劉弁が皇帝になるか、劉協が皇帝になるかという話も、穏やかには済みませんでした。劉弁を立てようとした何進は、劉協を立てようとする宦官に殺されそうになりました。

※宦官とは、去勢されて(性器を切除されて)、皇帝や後宮(皇帝が家庭生活を営む場所)の世話をしていた男性です。これだけ聞くと単なる召使いのように思えますが、中国の歴史においては必ずしもそうではなく、政治に大きな影響力を持つケースが度々ありました。

少帝を立てた後、何進は自分を殺そうとした宦官を殺します。何進は部下だった袁紹に進言されて宦官たちをすべて排除しようとしますが、何太后(かつての何皇后)に止められます。そうこうしているうちに、何進は他の宦官に殺されてしまいます。

これを受けて、袁紹らは宦官たちをほぼ皆殺しにしますが、ごく一部の宦官が少帝と劉協を連れて逃げ出します。

この時に少帝と劉協を取り戻したのが、董卓という武将でした。董卓は、もともと宦官たちと対立する何進・袁紹に呼ばれてやって来た武将の一人ですが、少帝と劉協を取り戻した後は、首都の洛陽を占拠し、武力に物を言わせた暴政を勝手に開始します。とんでもない人物を呼び寄せてしまったわけです。189年9月に董卓は少帝を皇位から外し、劉協を皇位につけて献帝とします。少帝とその母の何太后は、のちに董卓に殺されます。

当然、他の有力な武将はこんな董卓に反感を持ちますが、寄せ集めの反董卓連合軍(袁紹、曹操(曹丕の父)、孫堅(孫権の父)、劉備などがいました)は董卓を苦しめはしますが、完全に倒せません。董卓は結局、192年に董卓の近くに仕えていた王允と呂布の共謀によって殺されます。董卓の暴虐さに従えなくなった王允が董卓の警護役の呂布を引き込んだのでした。その後、王允は董卓の部下らに殺され、呂布は曹操に殺されます。

董卓と王允、呂布がいなくなった後は、反董卓連合軍を形成していた武将同士の本格的な戦いです。董卓を憎んでいるという点が一致していただけで、これらの武将同士は決して仲がよいわけではなく、各々は自分が支配することを目論んでいます。曹操が袁紹を破った官渡の戦いをはじめ、幾多の戦いを経ながら、三国時代に向かっていきます。

最終的には、220年にもはや形だけの存在になっていた後漢最後の皇帝の献帝が曹操の子の曹丕に皇位を禅譲し、漢王朝が消滅するとともに、曹丕が「魏」の皇帝になります。対抗して、孫権が「呉」の皇帝になり、劉備が「蜀」の皇帝になります。

長々と書きましたが、黄巾の乱があり、霊帝が死亡した後、後漢の皇帝は完全に形骸化し、武将たちの殺し合い・戦いが激しく展開されたわけです。

ここで興味深いのは、この中国の動揺、というより大激震が、いつ日本に伝わって来たのかという問題です。朝鮮半島の動きが気になるところです。中国の大激震はまず朝鮮半島に伝わり、そこから日本に伝わって来た可能性が高いからです。今度は朝鮮半島に目を向けましょう。

 

参考文献

石野博信ほか、「倭国乱とは何か 「クニ」への胎動」、新泉社、2015年。

井上光貞、「日本の歴史<1> 神話から歴史へ」、中央公論新社、2005年。

白石太一郎、「古墳からみた倭国の形成と展開」、敬文舎、2013年。

寺沢薫、「弥生時代の年代と交流」、吉川弘文館、2014年。

寺沢薫、「弥生国家論 国家はこうして生まれた」、敬文舎、2021年。

藤堂明保ほか、「倭国伝 中国正史に描かれた日本 全訳注」、講談社、2010年。

山尾幸久、「日本古代王権形成史論」、岩波書店、1983年。