朝鮮半島でなにかあったのか(4)

すでにお話ししたように、日本語の中にはウラル語族と共通していない語彙が大量にあり、筆者は日本の近隣地域(東アジア・東南アジア)の言語の語彙を詳細に調べるようになりました。大がかりな比較作業で、最初は暗中模索の状態でしたが、次第に光明が見え始めました。日本語の中にあるウラル語族と共通していない語彙の大部分は、シナ・チベット語族とベトナム系言語の語彙らしいということがわかってきました。

しかしながら、トントン拍子というわけにはいかず、特にシナ・チベット語族の語彙の研究は難局を極めました。日本語のこれらの語彙は古代中国語から取り入れられたようだ、これらの語彙は古代中国語ではなく、遠くに追いやられたシナ・チベット系言語から取り入れられたようだという具合に明らかになってきたのですが、同時にいわくありげな謎の語彙も浮かび上がってきたのです。シナ・チベット語族の雰囲気を漂わせているが、古代中国語の語彙とも、遠くに追いやられたシナ・チベット系言語の語彙ともどうも少し違う、そんな語彙が日本語の中にあり、しかも重要な位置を占めていることがわかってきました。

遼河流域から南下してきた言語は、ごく単純化して示せば、以下のような感じでシナ・チベット語族の言語、ベトナム系の言語、タイ系の言語と接したと見られます(日本語の語彙を見る限り、もっと複雑な歴史があったと考えられますが、まずは日本語に最も大きな影響を与えたシナ・チベット語族の言語とベトナム系の言語、そしてこれらに加えてタイ系の言語に焦点を当てます。日本語に取り入れられたタイ系の語彙は、シナ・チベット系とベトナム系の語彙ほど多くはありませんが、日本語がタイ系の語彙を取り入れた時代・場所は、シナ・チベット系とベトナム系の語彙を取り入れた時代・場所に近いと思われます。そのため、タイ系の語彙はシナ・チベット系とベトナム系の語彙と同時進行で分析していきます)。

時代が進むにつれて古代中国語は他を圧倒する大言語になっていきましたが、かつては古代中国語以外のシナ・チベット系言語が存在する余地も十分にあったのです。それらのシナ・チベット系言語は、消し去られるか、遠くに追いやられるかする運命を辿りました。上の図の「シナ・チベット語族の言語」は、「のちに消し去られるシナ・チベット系言語」+「古代中国語」+「のちに遠くに追いやられるシナ・チベット系言語」です。

筆者も、最初から「消し去られたシナ・チベット系言語」の存在を考えていたわけではありません。日本語の中にあるシナ・チベット語族のものと見られる語彙の総体が、「古代中国語」と「遠くに追いやられたシナ・チベット系言語」だけではどうしても説明しきれなかったのです。「古代中国語」と「遠くに追いやられたシナ・チベット系言語」に似ている、しかし「古代中国語」と「遠くに追いやられたシナ・チベット系言語」とは違う、そういう言語があったようだという考えに筆者は至ります。この過程は、詳しく実例を示す必要があるので、本ブログの記事を書き連ねる中で説明していきます。「日本語の意外な歴史」では当面、以下のような形で日本語の語彙の出所を明らかにしていきます。

「?」の部分は、U~Tのどれにも当てはまらない語彙です。実を言うと、日本語の「?」の部分も複雑です。日本語は、カオスとは言わないまでも、かなりごちゃ混ぜです。筆者もこんなに混ざっているのかと驚愕しました。「日本語の意外な歴史」では、U~Tの語彙をどんどん絞り出し、「?」の部分を残していきます。日本語の語彙の大部分はU~Tの語彙が占めていますが、「?」の部分もすべて寄せ集めるとある程度の量になります。量は比較的少ないものの、「?」の部分の語彙は歴史を明らかにするうえで極めて重要になります。

遼河流域から南下してきた言語が中国東海岸地域(今の山東省・江蘇省のあたり)でシナ・チベット語族の言語、ベトナム系の言語、タイ系の言語と接していたとなれば、当然以下の疑問が生じます。

(疑問1)中国東海岸地域で話されていた言語は、どのようにして日本列島に入ってきたのか。朝鮮半島を経由したのか、しなかったのか。もし経由したのであれば、朝鮮半島でなにがあったのか。

(疑問2)中国東海岸地域で話されていた言語が日本列島に入ってきた時、そこではどのような言語が話されていたのか。つまり、縄文時代の日本列島ではどのような言語が話されていたのか。

興味をお持ちの方も多いかと思います。これらの疑問を解くための鍵は、日本語の「?」の部分にあります。一見遠回りに見えますが、U~Tの語彙をしっかり把握することによって、「?」の部分がくっきり見えてきます。

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遼河文明を襲った異変(3)

一般的にBC6200年頃(つまり8200年前ぐらい)に出現した興隆窪文化(こうりゅうわぶんか)が遼河文明の始まりと考えられるようです( Liu 2006 )。ウラル語族の研究者の多くは、ウラル語族のおおもとの言語(ウラル祖語)が話されていたのはBC4000年頃(つまり6000年前ぐらい)であろうと見積もってきましたが( Kallio 2006 )、筆者も、ウラル語族内部の言語の分岐構造、語彙のばらつき・隔たり、そしてインド・ヨーロッパ語族の言語から長きにわたって取り入れられてきた語彙の積層からして、大体それらの見積りの通りであろうと考えています。ウラル語族と日本語の結びつきは6000年前よりもっと古いものということになります。例えば、上肢に関する語彙の考察のところで、フィンランド語のkäsi(手、腕)カスィ、kyynärpää(肘)キューナルパー、olka(肩)、kainalo(脇)という語を取り上げ、これらが日本語の語彙と関係していることを示しましたが、パッと見ただけでは、日本語のどの語に関係しているのか全然わかりません。何千年という時間が経過すると、このようなことになってしまいます。ウラル語族と日本語の結びつきは非常に古く、遼河文明の初期の頃のものと見られます。

遼河文明は、興隆窪文化の後、紅山文化(こうさんぶんか)(BC4500~BC3000年頃)などの文化が栄え、やがて夏家店下層文化(かかてんかそうぶんか)(BC2000~BC1500年頃)に至りますが、実はBC2200年頃から遼河流域で気候変動による砂漠化が始まったことが近年の科学調査でわかってきました( Yang 2015 )。それまでの生活が維持できなくなるような深刻な環境変化に見舞われていたのです。この異変を受けて、遼河流域から南のほう(黄河下流域のほう)へ移動していった人々がいたと見られます。遼河流域から北に向かうとシベリアなので、農耕を行うのであれば選択肢は当然南だったでしょう。BC2200年頃から砂漠化が始まり、まもないタイミングで遼河流域から黄河下流域のほうへ南下していくと、どのようなことになるでしょうか。

まず、この問題を考えるための前提として、遼河文明と黄河文明の初期の頃の様子から見ておきましょう。 Shelach-Lavi 2015 から引用した以下の図は、遼河文明と黄河文明の初期の各文化を示したものです(図中の1、2、3はこれらの文化の発生にいくらか先行する遺跡で、それぞれ南荘頭遺跡(なんそうとういせき)、東胡林遺跡(とうこりんいせき)、虎頭梁遺跡(ことうりょういせき)です)。

Xinglongwaはすでに言及した遼河流域の興隆窪文化(こうりゅうわぶんか)、Houli、Cishan、Peiligang、Dadiwanは黄河流域の後李文化(こうりぶんか)、磁山文化(じさんぶんか)、裴李崗文化(はいりこうぶんか)、大地湾文化(だいちわんぶんか)です。BC6500年~BC5500年頃(つまり8500年前~7500年前ぐらい)の様子です。見ての通り、黄河文明の初期の頃から、有力な文化が内陸部にも下流域にも存在しました。

黄河文明はこのような状態から変化していき、遼河流域で砂漠化が始まったBC2200年頃には、黄河流域は龍山文化(りゅうざんぶんか)に大きく覆われていました。かつて大地湾文化が存在したところも、裴李崗文化・磁山文化が存在したところも、後李文化が存在したところも龍山文化の圏内になります。とはいえ、夏・殷・周の時代に入る前なので、龍山文化の圏内の言語が画一的だったはずはなく、細かく分かれたシナ・チベット語族の言語が並存していたと考えられます。

※夏王朝が実在したかどうかということについては考古学界で議論が続いていますが、夏王朝が実在したのであれば二里頭遺跡(にりとういせき)がその跡であろうという見方が支配的です。二里頭遺跡の位置は、上の地図でいうと、PeiligangとDadiwanの間のあたりです。夏王朝に関しては、禹(う)が大洪水後の治水事業を成功させ、夏王朝の創始者になった話が有名ですが、最近の科学調査で黄河の特大級の洪水の存在が具体的に示され、目が離せない展開になっています( Wu 2016 )。

殷王朝も周王朝も黄河下流域を支配下に入れましたが、殷王朝の開始はBC16世紀頃、周王朝の開始はBC1046年です。BC2200年頃から遼河流域で砂漠化が始まり、そこから南下してきた人々を待っていたのは、まだ殷王朝・周王朝の支配が存在しない、しかし遠くないうちに殷王朝・周王朝の支配が始まる、そんな時代の黄河下流域だったのです。そのような黄河下流域の言語状況はどのようになっていたのでしょうか。まだ殷王朝・周王朝の支配は始まっていませんが、黄河下流域は黄河文明の初期からその一角を担っており、内陸部と連続する龍山文化が広がっていました。

どうやら、遼河流域からやって来た言語はまず、古代中国語ではなく、古代中国語と比較的近い関係を持つ言語に出会ったようです。

※BC2200年頃から始まった砂漠化は非常に大きな出来事だったと見られますが、それ以前に遼河流域から黄河方面への人の移動が全くなかったと考えるのは極端です。Y染色体DNAのN系統の拡散のところで見たように、遼河文明の初期の頃からユーラシア大陸の北方に大きく広がっていく人の流れがあり、最も遠いところではヨーロッパにまで及びました。そのようななかで、南方の近場への移動がゼロだったというのは考えづらいことです。

 

参考文献

英語

Shelach-Lavi G. 2015. The Archaeology of Early China: From Prehistory to the Han Dynasty. Cambridge University Press.

Wu Q. et al. 2016. Outburst flood at 1920 BCE supports historicity of China’s Great Flood and the Xia dynasty. Science 353(6299): 579-582.

Yang X. et al. 2015. Groundwater sapping as the cause of irreversible desertification of Hunshandake Sandy Lands, Inner Mongolia, northern China. Proceedings of the National Academy of Sciences 112(3): 702-706.

その他の言語

Kallio P. 2006. Suomen kantakielten absoluuttista kronologiaa. Virittäjä 110: 2-25. (フィンランド語)

Liu G. 2006. 西辽河流域新石器时代至早期青铜时代考古学文化概论. 辽宁师范大学学报(社会科学版) 29(1): 113-122. (中国語)

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「ちゃんと」と「きちんと」は中国語由来だった

古代中国語のljang(良)リアンが昔の日本語のyosi(良し)になり、古代中国語のak(惡)が昔の日本語のasi(悪し)になったという話をしました。前者のケースは少し複雑ですが、昔の日本語がryauとは言えず、yauとも言えず、yoと言うことしかできなかったために、yosi(良し)という語が生まれました。私たちがよく使う日本語のyoi(良い)は、中国語由来であるということが判明しました。

ここでは、関連する話題として、「ちゃんとしなさい」のtyan(ちゃん)と「きちんとしなさい」のkitin(きちん)を取り上げます。「ちゃんとしなさい」も「きちんとしなさい」も、よく母親が子どもに言うセリフなので、すっかりおなじみでしょう。しかしなんと、こんなところにも中国語が入っているようなのです。

古代中国語にtsyeng(正)チェンという語がありました。正しいありさま、適切なありさま、整ったありさまなどを表す語です。日本語にはsyauとseiという読みで取り入れられました。しかし、これは日本語の書き言葉だけを見た場合の話です。どうやら、古代中国語のtsyeng(正)は日本語の話し言葉のほうにもtyanという読みで入ったらしいのです。「ちゃんとしなさい」のtyan(ちゃん)は、正しいありさま、適切なありさま、整ったありさまなどを表す古代中国語のtsyeng(正)を取り入れたものではないかというわけです(古代中国語のtsyeng(整)チェンも関わっている可能性があります)。こう考えると、ことごとくつじつまが合ってきます。

「ちゃんとしなさい」のtyan(ちゃん)と意味が似ている「きちんとしなさい」のkitin(きちん)に目を向けましょう。kitin(きちん)のほかにkitiʔ(きちっ)、kittiri(きっちり)という言い方もあるので、kitiがポイントと見られます。このkitiは一体なんでしょうか。

古代中国語にkjit(吉)キイトゥという語がありました。日本語にはkiti、kituという読みで取り入れられました。「吉」という字を見ると、縁起がよいこと、めでたいこと、幸せ、幸運などを連想するかと思います。確かに、中国語でも日本語でも中心的な意味はそのようなものです。しかし、この語には「よい、すぐれている、立派だ」という意味もありました。このマイナーなほうの意味を受け継いだのが、日本語のkitin(きちん)、kitiʔ(きちっ)、kittiri(きっちり)と見られます。

それを裏づけるのが、古代中国語のkhjit(詰)キイトゥです。古代中国語のkjit(吉)と同じように、古代中国語のkhjit(詰)もkiti、kituという読みで日本語に取り入れられました。古代中国語のkjit(吉)のkは息をあまり吐き出さないようにしながら発音する子音、古代中国語のkhjit(詰)のkhは息を強く吐き出しながら発音する子音です(現代の中国語を学んだことがある方は無気音と有気音の区別をご存知だと思いますが、まさにそれです)。ちなみに、「詰」の中の「吉」は音を表しているだけで、縁起がよいこと、めでたいこと、幸せ、幸運などとは全く関係ありません。偏(へん)で意味領域を表し、旁(つくり)で音を表すという中国語のお得意のパターンです。

「詰」の中の「言」が示すように、古代中国語のkhjit(詰)は主に、責めたり、追いつめたりするような発話を意味した語ですが、「詰める、詰まる」という意味も持っていました。この古代中国語のkhjit(詰)が持つ「詰める、詰まる」という意味を受け継いだのが、日本語のgitigiti(ぎちぎち)、gittiri(ぎっちり)、gissiri(ぎっしり)、kitusi(きつし)などと見られます。

古代中国語のkjit(吉)は、日本語の書き言葉にkiti、kituという音読みで入り、日本語の話し言葉にはkitin(きちん)、kitiʔ(きちっ)、kittiri(きっちり)という形で入った、同様に、古代中国語のkhjit(詰)は、日本語の書き言葉にkiti、kituという音読みで入り、日本語の話し言葉にはgitigiti(ぎちぎち)、gittiri(ぎっちり)、gissiri(ぎっしり)、kitusi(きつし)などの形で入ったということです。

日本語にはgitigiti(ぎちぎち)と似た意味を持つgyūgyū(ぎゅうぎゅう)、gyuʔ(ぎゅっ)、kyuʔ(きゅっ)、kyun(きゅん)などの語もありますが、これらももとは古代中国語のgjuwng(窮)ギウウンでしょう。

外国語由来なのにそのことが知らされなかったら、摩訶不思議なものと思われて当然です。日本人は、いわゆる擬態語を日本語の特徴として強調する一方で、その擬態語に異質な感じも抱いてきたのではないでしょうか。その異質な感じは、根拠のないものではなかったのです。

 

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「しっかり」の語源、やはり中国語だった