遼河文明を襲った異変

一般的にBC6200年頃(つまり8200年前ぐらい)に出現した興隆窪文化(こうりゅうわぶんか)が遼河文明の始まりと考えられるようです( Liu 2006 )。ウラル語族の研究者の多くは、ウラル語族のおおもとの言語(ウラル祖語)が話されていたのはBC4000年頃(つまり6000年前ぐらい)であろうと見積もってきましたが( Kallio 2006 )、筆者も、ウラル語族内部の言語の分岐構造、語彙のばらつき・隔たり、そしてインド・ヨーロッパ語族の言語から長きにわたって取り入れられてきた語彙の積層からして、大体それらの見積りの通りであろうと考えています。ウラル語族と日本語の結びつきは6000年前よりもっと古いものということになります。例えば、上肢に関する語彙の考察のところで、フィンランド語のkäsi(手、腕)カスィ、kyynärpää(肘)キューナルパー、olka(肩)、kainalo(脇)という語を取り上げ、これらが日本語の語彙と関係していることを示しましたが、パッと見ただけでは、日本語のどの語に関係しているのか全然わかりません。何千年という時間が経過すると、このようなことになってしまいます。ウラル語族と日本語の結びつきは非常に古く、遼河文明の初期の頃のものと見られます。

遼河文明は、興隆窪文化の後、紅山文化(こうさんぶんか)(BC4500~BC3000年頃)などの文化が栄え、やがて夏家店下層文化(かかてんかそうぶんか)(BC2000~BC1500年頃)に至りますが、実はBC2200年頃から遼河流域で気候変動による砂漠化が始まったことが近年の科学調査でわかってきました( Yang 2015 )。それまでの生活が維持できなくなるような深刻な環境変化に見舞われていたのです。この異変を受けて、遼河流域から南のほう(黄河下流域のほう)へ移動していった人々がいたと見られます。遼河流域から北に向かうとシベリアなので、農耕を行うのであれば選択肢は当然南だったでしょう。BC2200年頃から砂漠化が始まり、まもないタイミングで遼河流域から黄河下流域のほうへ南下していくと、どのようなことになるでしょうか。

まず、この問題を考えるための前提として、遼河文明と黄河文明の初期の頃の様子から見ておきましょう。 Shelach-Lavi 2015 から引用した以下の図は、遼河文明と黄河文明の初期の各文化を示したものです(図中の1、2、3はこれらの文化の発生にいくらか先行する遺跡で、それぞれ南荘頭遺跡(なんそうとういせき)、東胡林遺跡(とうこりんいせき)、虎頭梁遺跡(ことうりょういせき)です)。

Xinglongwaはすでに言及した遼河流域の興隆窪文化(こうりゅうわぶんか)、Houli、Cishan、Peiligang、Dadiwanは黄河流域の後李文化(こうりぶんか)、磁山文化(じさんぶんか)、裴李崗文化(はいりこうぶんか)、大地湾文化(だいちわんぶんか)です。BC6500年~BC5500年頃(つまり8500年前~7500年前ぐらい)の様子です。見ての通り、黄河文明の初期の頃から、有力な文化が内陸部にも下流域にも存在しました。

黄河文明はこのような状態から変化していき、遼河流域で砂漠化が始まったBC2200年頃には、黄河流域は龍山文化(りゅうざんぶんか)に大きく覆われていました。かつて大地湾文化が存在したところも、裴李崗文化・磁山文化が存在したところも、後李文化が存在したところも龍山文化の圏内になります。とはいえ、夏・殷・周の時代に入る前なので、龍山文化の圏内の言語が画一的だったはずはなく、細かく分かれたシナ・チベット語族の言語が並存していたと考えられます。

※夏王朝が実在したかどうかということについては考古学界で議論が続いていますが、夏王朝が実在したのであれば二里頭遺跡(にりとういせき)がその跡であろうという見方が支配的です。二里頭遺跡の位置は、上の地図でいうと、PeiligangとDadiwanの間のあたりです。夏王朝に関しては、禹(う)が大洪水後の治水事業を成功させ、夏王朝の創始者になった話が有名ですが、最近の科学調査で黄河の特大級の洪水の存在が具体的に示され、目が離せない展開になっています( Wu 2016 )。

殷王朝も周王朝も黄河下流域を支配下に入れましたが、殷王朝の開始はBC16世紀頃、周王朝の開始はBC1046年です。BC2200年頃から遼河流域で砂漠化が始まり、そこから南下してきた人々を待っていたのは、まだ殷王朝・周王朝の支配が存在しない、しかし遠くないうちに殷王朝・周王朝の支配が始まる、そんな時代の黄河下流域だったのです。そのような黄河下流域の言語状況はどのようになっていたのでしょうか。まだ殷王朝・周王朝の支配は始まっていませんが、黄河下流域は黄河文明の初期からその一角を担っており、内陸部と連続する龍山文化が広がっていました。

※BC2200年頃から始まった砂漠化は非常に大きな出来事だったと見られますが、それ以前に遼河流域から黄河方面への人の移動が全くなかったと考えるのは極端です。Y染色体DNAのN系統の拡散のところで見たように、遼河文明の初期の頃からユーラシア大陸の北方に大きく広がっていく人の流れがあり、最も遠いところではヨーロッパにまで及びました。そのようななかで、南方の近場への移動がゼロだったというのは考えづらいことです。

 

参考文献

英語

Shelach-Lavi G. 2015. The Archaeology of Early China: From Prehistory to the Han Dynasty. Cambridge University Press.

Wu Q. et al. 2016. Outburst flood at 1920 BCE supports historicity of China’s Great Flood and the Xia dynasty. Science 353(6299): 579-582.

Yang X. et al. 2015. Groundwater sapping as the cause of irreversible desertification of Hunshandake Sandy Lands, Inner Mongolia, northern China. Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America 112(3): 702-706.

その他の言語

Kallio P. 2006. Suomen kantakielten absoluuttista kronologiaa. Virittäjä 110: 2-25. (フィンランド語)

Liu G. 2006. 西辽河流域新石器时代至早期青铜时代考古学文化概论. 辽宁师范大学学报(社会科学版) 29(1): 113-122. (中国語)

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「ちゃんと」と「きちんと」は中国語由来だった

古代中国語のljang(良)リアンが昔の日本語のyosi(良し)になり、古代中国語のak(惡)が昔の日本語のasi(悪し)になったという話をしました。前者のケースは少し複雑ですが、昔の日本語がryauとは言えず、yauとも言えず、yoと言うことしかできなかったために、yosi(良し)という語が生まれました。私たちがよく使う日本語のyoi(良い)は、中国語由来であるということが判明しました。

ここでは、関連する話題として、「ちゃんとしなさい」のtyan(ちゃん)と「きちんとしなさい」のkitin(きちん)を取り上げます。「ちゃんとしなさい」も「きちんとしなさい」も、よく母親が子どもに言うセリフなので、すっかりおなじみでしょう。しかしなんと、こんなところにも中国語が入っているようなのです。

古代中国語にtsyeng(正)チェンという語がありました。正しいありさま、適切なありさま、整ったありさまなどを表す語です。日本語にはsyauとseiという読みで取り入れられました。しかし、これは日本語の書き言葉だけを見た場合の話です。どうやら、古代中国語のtsyeng(正)は日本語の話し言葉のほうにもtyanという読みで入ったらしいのです。「ちゃんとしなさい」のtyan(ちゃん)は、正しいありさま、適切なありさま、整ったありさまなどを表す古代中国語のtsyeng(正)を取り入れたものではないかというわけです(古代中国語のtsyeng(整)チェンも関わっている可能性があります)。こう考えると、ことごとくつじつまが合ってきます。

「ちゃんとしなさい」のtyan(ちゃん)と意味が似ている「きちんとしなさい」のkitin(きちん)に目を向けましょう。kitin(きちん)のほかにkitiʔ(きちっ)、kittiri(きっちり)という言い方もあるので、kitiがポイントと見られます。このkitiは一体なんでしょうか。

古代中国語にkjit(吉)キイトゥという語がありました。日本語にはkiti、kituという読みで取り入れられました。「吉」という字を見ると、縁起がよいこと、めでたいこと、幸せ、幸運などを連想するかと思います。確かに、中国語でも日本語でも中心的な意味はそのようなものです。しかし、この語には「よい、すぐれている、立派だ」という意味もありました。このマイナーなほうの意味を受け継いだのが、日本語のkitin(きちん)、kitiʔ(きちっ)、kittiri(きっちり)と見られます。

それを裏づけるのが、古代中国語のkhjit(詰)キイトゥです。古代中国語のkjit(吉)と同じように、古代中国語のkhjit(詰)もkiti、kituという読みで日本語に取り入れられました。古代中国語のkjit(吉)のkは息をあまり吐き出さないようにしながら発音する子音、古代中国語のkhjit(詰)のkhは息を強く吐き出しながら発音する子音です(現代の中国語を学んだことがある方は無気音と有気音の区別をご存知だと思いますが、まさにそれです)。ちなみに、「詰」の中の「吉」は音を表しているだけで、縁起がよいこと、めでたいこと、幸せ、幸運などとは全く関係ありません。偏(へん)で意味領域を表し、旁(つくり)で音を表すという中国語のお得意のパターンです。

「詰」の中の「言」が示すように、古代中国語のkhjit(詰)は主に、責めたり、追いつめたりするような発話を意味した語ですが、「詰める、詰まる」という意味も持っていました。この古代中国語のkhjit(詰)が持つ「詰める、詰まる」という意味を受け継いだのが、日本語のgitigiti(ぎちぎち)、gittiri(ぎっちり)、gissiri(ぎっしり)、kitusi(きつし)などと見られます。

古代中国語のkjit(吉)は、日本語の書き言葉にkiti、kituという音読みで入り、日本語の話し言葉にはkitin(きちん)、kitiʔ(きちっ)、kittiri(きっちり)という形で入った、同様に、古代中国語のkhjit(詰)は、日本語の書き言葉にkiti、kituという音読みで入り、日本語の話し言葉にはgitigiti(ぎちぎち)、gittiri(ぎっちり)、gissiri(ぎっしり)、kitusi(きつし)などの形で入ったということです。

日本語にはgitigiti(ぎちぎち)と似た意味を持つgyūgyū(ぎゅうぎゅう)、gyuʔ(ぎゅっ)、kyuʔ(きゅっ)、kyun(きゅん)などの語もありますが、これらももとは古代中国語のgjuwng(窮)ギウウンでしょう。

外国語由来なのにそのことが知らされなかったら、摩訶不思議なものと思われて当然です。日本人は、いわゆる擬態語を日本語の特徴として強調する一方で、その擬態語に異質な感じも抱いてきたのではないでしょうか。その異質な感じは、根拠のないものではなかったのです。

 

以下の記事は関連記事です。

「しっかり」の語源、やはり中国語だった

変わりゆくシベリア

近年では、 Ilumäe 2016 のように、Y染色体DNAのN系統の内部が細かく分類され、N系統の拡散が精密に捉えられるようになってきましたが、そこでも、ウラル山脈方面―ヤクート地方―ブリヤート地方の密接なつながりがしっかりと裏づけられています。 Shi 2013 では、N系統の拡散経路を以下のように推定しています。

赤い矢印は「東アジア南部からの最初の拡散(21000年前頃)」、青い矢印は「東アジア北部からシベリアへの第二の拡散(12000~14000年前頃)」、黒い矢印は「中央アジアとヨーロッパへの最近の拡散(8000~10000年前頃)」と説明されています。筆者は、拡散の時期に関してはShi氏らと少し見積りが違いますが、拡散の経路に関しては大体Shi氏らの言う通りであろうと考えています。

遼河文明の言語がいきなりはるか離れたウラル山脈方面に伝わるわけはなく、連続する経路があったはずです。どうやら、遼河文明の言語はかつて遼河流域からウラル山脈方面にかけて広く分布していたが、その後テュルク系の言語やモンゴル系の言語が有力になり、遼河文明の言語(ウラル語族の言語およびそれに近縁な言語)からテュルク系言語やモンゴル系言語への大規模な乗り換えが起きたようです。遼河文明の言語を話していた人々がテュルク系言語やモンゴル系言語に乗り換えたという意味です。遼河文明・黄河文明・長江文明とは全く違う生活様式を持つ遊牧民集団がシベリアで大勢力を築いたのは周知の通りです。

ウラル語族の言語およびそれに近縁な言語がヤクート地方、ブリヤート地方、遼河流域に連続して分布しているのを見たら、日本語の起源を探求する学者たちもそれらの言語に大いに注目したことでしょう。しかし、大規模な言語の乗り換えが起きた結果、日本からはるか離れたウラル山脈方面にウラル語族の言語が残るのみになってしまいました。しかも、テュルク系言語とモンゴル系言語とツングース系言語が同系統であると主張する「アルタイ語族」という仮説が根拠が十分でないにもかかわらずあまりに有名になり、ウラル語族の研究者の視線は「アルタイ語族」でせき止められて日本語まで届かず、日本語の研究者の視線も「アルタイ語族」でせき止められてウラル語族まで届かないようになってしまいました。総じて、ウラル語族の研究者の意識はインド・ヨーロッパ語族と「アルタイ語族」にあり、日本語の研究者の意識は朝鮮語と「アルタイ語族」にあったので、ウラル語族と日本語を比較する舞台設定すらありませんでした。

さらに困難なことに、(奈良時代から現代の)日本語を例えばフィンランド語やハンガリー語と並べる機会があったとしても、似ていると感じることはできません。筆者自身、歴史とは全然違う言語学の研究でフィンランド語やハンガリー語を長年研究していましたが、フィンランド語やハンガリー語は日本語に関係があるのではないかなどと考えたことは全くありませんでした。今では巨大な体系になったインド・ヨーロッパ語族の研究も、もともとイギリス人のウィリアム・ジョーンズ氏らがヨーロッパの言語とインドの言語を見比べて似ていると感じたところから始まっています。まず最初にある程度似ていると感じなければ、系統関係の研究は始まらないのです。

筆者にも幸運が訪れます。ある時に、フィンランド語やハンガリー語と遠い類縁関係にある北極地方のサモエード諸語の研究を始めました。もうずいぶん昔のことなので記憶が定かではありませんが、せっかくフィンランド語とハンガリー語を研究したのだから、ついでに親類の言語も見ておこうかぐらいの動機だったと思います。この時点では、言語の歴史に興味は持っておらず、一般言語学・言語類型論の観点から様々なタイプの言語を見ることに興味がありました。ウラル語族の言語とはいえ、フィンランド語とハンガリー語から最も遠い言語なので、サモエード諸語はとても異質に見えました。

そこから先は本ブログの最初のほうで説明したショッキングな展開になり、筆者はサモエード諸語と日本語の語彙の類似性、さらにはそれをきっかけにウラル語族と日本語の語彙の類似性に気づき始めます。研究を進めるにつれ、日本語の中にウラル語族と共通していない語彙が大量にあること、そしてそのウラル語族と共通していない語彙の大部分がシナ・チベット語族とベトナム系言語の語彙のようだということもわかってきました。

「遼河文明の言語の語彙」と「黄河文明の言語の語彙」と「長江文明の言語の語彙」が混ざり合っていく過程は、日本語の歴史において最も重要な局面です。日本語の大枠が決まった時期、別の言い方をすれば、日本語らしい言語が生じた時期がまさにここなのです。奈良時代から現代に至るまでの日本語も変化していますが、それとは比べ物にならない激動の歴史が前にあります。まず、なぜ「遼河文明の言語の語彙」と「黄河文明の言語の語彙」と「長江文明の言語の語彙」が大々的なスケールで混ざり合うことになったのかお話ししなければなりません。

もう一度上に示したY染色体DNAのN系統の拡散図を見てください。人の移動に伴って、遼河流域からユーラシア大陸の北方に広がっていった言語があります。この一部がウラル語族になります。その一方で、遼河流域に残った言語があります。遼河流域に残った言語はその後どうなったのでしょうか。

 

参考文献

Ilumäe A. M. et al. 2016. Human Y chromosome haplogroup N: A non-trivial time-resolved phylogeography that cuts across language families. American Journal of Human Genetics 99: 163-173.

Shi H. et al. 2013. Genetic evidence of an East Asian origin and paleolithic northward migration of Y-chromosome haplogroup N. PLoS One 8(6): e66102.

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