「もと」と「また」の波瀾万丈な歴史

日本語のasi(足、脚)がウラル語族との共通語彙で、日本語のsune(脛)がベトナム系言語からの外来語であることを示しました。次はmata(股)の語源を論じますが、その前にまずmotoの語源を明らかにしなければなりません。motoというのは、ひらがなで「もと」と書かれたり、漢字で「元、本、基、下、許、素」などと書かれている語です。

少し意外かもしれませんが、moto(もと)は木に関係のある語だったようです。木の成長を思い浮かべてください。幹から枝が出て、その枝からさらに枝が出て・・・。理解に難くないと思いますが、人類の言語では木の幹または根を意味していた語が物事の始まりを意味するようになることがよくあります。「日本人のルーツを探る」などと言ったりしますが、これは英語のroot(根)を取り入れた言い方です。

前に、古代中国語のkan(幹)のnの部分がかつてはrだったらしいという話をしました(「体(からだ)」の語源、春秋戦国時代以前の中国語を参照)。その古い形を取り入れたのが奈良時代の日本語のkara(幹、茎、柄)です。三省堂時代別国語大辞典上代編(上代語辞典編修委員会1967)でも推測していますが、木の幹などを意味していたkaraが物事の始まりも意味するようになり、起点を表す助詞のkara(から)を生み出したと考えられます。iegara(家柄)やhitogara(人柄)などの言い方も、「始まり、起源、由来」のような意味から「素性、性質、性格」のような意味が生まれたのでしょう。「柄に合わない、柄じゃない」とも言います。「素性、性質、性格」のような意味からさらに「感じ、ありさま、模様」のような意味につながっていきます。

kara(幹、茎、柄)の例を頭に入れたうえで、moto(もと)の話に戻りましょう。モンゴル語にmod(木)という語があります。ツングース諸語にも、エヴェンキ語mō(木)、ナナイ語mō(木)、満州語moo(木)などの語があり、ウラル語族のサモエード系にも、ネネツ語mo(枝)、ガナサン語muodje(枝)ムオディエ、セリクプ語mo(枝)などの語があります。出所はどこかという問題はともかく、モンゴル語のmod(木)のような語が古くから北ユーラシアに存在するのは確かです。

モンゴル語のmod(木)のような語が日本語に入ろうとすれば、*ko(木)と衝突することが考えられます(kodati(木立ち)、kozue(梢)、kogarasi(木枯らし)などの語が残っているように、ki(木)の古形は*ko(木)です)。「木」を意味することができなくなった語が向かいやすい先が「枝」や「幹」です。モンゴル語のmod(木)のような語はmotoという形で日本語に入り、木の下のほう、幹から根のあたりを指していたと見られます。そこから、先ほどのkara(幹、茎、柄)の場合と同様に、物事の始まりを意味するようになったというわけです。奈良時代の時点ではまだ、植物の幹や茎をkaraと呼んだり、motoと呼んだりしており、もとの意味が十分窺えます。motoは、「はじめの状態になること」を意味するmodoru(戻る)、「はじめの状態にすること」を意味するmodosu(戻す)、「本拠を探し出すこと」を意味するmotomu(求む)なども生み出したと見られます。

motoとひょっとしたら関係があるのではないかと思われるのがmataです。足の付け根のことをmata(股)と言いますが、mataはもともと身体部位というより一本だったものが二本に分岐する箇所を指していた語です。木が枝分かれしている箇所でもよいし、川が枝分かれしている箇所でもよかったのです。

motoに「1」の意味が感じられ、mataに「2」の意味が感じられる点は見逃せません(この話には、「1」を意味するベトナム語のmộtモ(トゥ)のような語が関係しているかもしれません)。

現代の日本語では、「一番大きい」と言うこともできるし、「最も大きい」と言うこともできます。意味を考えると、mottomo(最も)の古形であるmotomo(最も)は、「1」を意味したmotoから作られたのではないかと考えたくなります。この場合、motomo(最も)の末尾のmoは、itomo(いとも)などのmoと同じものでしょう。

mataに目を向けると、もっとはっきりします。「またの名」と言うのは、まず一つ名がある場合です。「また来た」と言うのは、すでに一回来ている場合です。「AまたはB」という言い方も、一番目の要素としてAを挙げ、二番目の要素としてBを挙げる言い方です。

話が複雑になりましたが、モンゴル語のmod(木)のような語がmotoという形で日本語に入り、木の幹から根のあたりを指しているうちに、物事の始まりを意味するようになったことから(あるいはベトナム語のmột(1)のような語がmotoという形で日本語に入ったことから)、母音交替を介するmoto(1)―mata(2)というペアが作り出されたのかもしれません。昔の日本語のɸito(1)―ɸuta(2)、mi(3)―mu(6)、yo(4)―ya(8)というペアを見ると、いかにもありえそうです。motoとmataは最終的には数詞にならなかったが、「1」と「2」を思わせる上のような用法を残したのかもしれません。

英語のtwo(2)とtwig(小枝)が同源であるように(英語のbranch(枝)はフランス語からの外来語です)、「2」と「枝分かれ」の間には密接な関係があり、「2」を意味していたmataが「枝分かれ」を意味するようになった可能性が高そうです。

 

補説

timata(巷)とは?

前にお話ししたように、昔の日本語で「道」を意味していたのは*tiです。これにmiを冠して、miti(道)という語が作られました。形は変わってしまいましたが、iezi(家路)やtabizi(旅路)の中にも残っています。

今でも人口が少ない地方ではそうですが、人が住んでいないところは、長い道が一本伸びていて、人が集まっている集落に入ると、その道が細かく分かれ始めます。「道」を意味する*tiと「枝分かれ」を意味するmataがくっついて、人々が暮らしている場所を意味するようになりました。これがtimata(巷)です。

 

参考文献

上代語辞典編修委員会、「時代別国語大辞典 上代編」、三省堂、1967年。

「脛(すね)」の語源、神武天皇と戦ったナガスネヒコ

前に、ベトナム語のtay(手)のような語が日本語に入り、まずは*ta(手)になり、のちにte(手)になったことをお話ししました(詳細については、「手(て)」の語源、なんと外来語だった!および「背(せ)」の語源を参照してください)。ベトナム系言語から、「手」を意味する語だけでなく、「足」を意味する語も入ったのではないかと考えたくなるところです。

奈良時代の日本語にsuneという語がありました。この語は漢字で「髄」と書かれていました。骨は外側は硬いですが、中には柔らかい組織が詰まっています。この柔らかい組織は、赤血球、白血球、血小板などを作り出して造血を担っている場所で、髄(ずい)と呼ばれます。これを奈良時代の日本語ではsuneと言っていたわけです。

奈良時代の日本語のsune(髄)は、意味を考えると、現代の日本語のsune(脛)に結びつけるのはちょっと難しいです。では、現代の日本語のsune(脛)はどこから来たのかということになりますが、奈良時代に完成した日本書紀と古事記に、ナガスネヒコという人物が出てきます。ナガスネヒコは、神武天皇の最大の敵として記述されています。三省堂時代別国語大辞典上代編(上代語辞典編修委員会1967)は、ナガスネヒコのスネは、「髄」を意味しているとは考えにくく、「脛」を意味しているのではないかと推測しています。確かに、「髄(ずい)が長い」というのは明らかに不自然です。しかし考えてみると、「脛(すね)が長い」というのも少し奇妙です。人の描写として、普通は「脛(すね)が長い」ではなく、「足・脚(あし)が長い」と言うのではないでしょうか。

実は、ベトナム語にchânチュンという語とxươngスーンという語があります。chânは「足・脚」を意味し、xươngは「骨」を意味します。仮にこれらの語を現代の日本語に取り入れるとすれば、chânはtyunになり、xươngはsūnになりそうですが、奈良時代より前の日本語ではそうはいきません。

現代の日本人はチャンス、チーズ、チューリップ、チェック、チョコレートなどの語に慣れていますが、「チャ、チ、チュ、チェ、チョ」の類はもともと日本語にはなかったものです。他言語の語彙を取り入れる際には、現代の日本人が「チャ、チ、チュ、チェ、チョ」の類を用いそうなところで、昔の日本人は「サ、スィ、ス、セ、ソ」の類を用いたり、「タ、ティ、トゥ、テ、ト」の類を用いたりしていました。このようにして、昔の日本語ではベトナム語のchân(足、脚)のような語をtyunではなくsuneという形で取り入れ、ベトナム語のxương(骨)のような語をsūnではなくsuneという形で取り入れたと見られます。ベトナム系言語で「足・脚」を意味していた語と「骨」を意味していた語が、日本語ではsuneという同じ形になってしまったのです。違う音が日本語で同じ音にされてしまうケースは、中国の個々の漢字に音読みを与えた時にも大量に発生しました。

日本語にはasi(足、脚)とɸone(骨)という語があったので、「足・脚」を意味していたsuneも「骨」を意味していたsuneも意味の変更を迫られ、「足・脚」を意味していたsuneは膝から足首までの部分を意味するようになり、「骨」を意味していたsuneは骨の中心部分を意味するようになったと考えられます。こう考えると、奈良時代およびそれ以降の日本語のsuneに完全に説明がつきます。

昔の日本語ではsunという形は認められないので、sunではなくsuneという形になっていますが、うしろにeという母音が補われているのが大きなポイントです。昔の日本語では、子音で終わる語を取り入れる時にうしろに母音を補っていましたが、a、i、u、oを補っているケースに比べて、eを補っているケースは極端に少ないのです。sune以外には、例えば「米、ごはん、食事」を意味するベトナム語のcơmクム/コムのような語が日本語のkome(米)になったり(「米(こめ)」の語源、中国とベトナムとタイのごはんを参照)、中国語の「常」に当たるベトナム語のthườngトゥーンのような語が日本語のtune(常)になったりしています。

母音eを補ってできたと見られる語彙は、大変気になるところです。ベトナム系言語の単語に母音eを補って日本語に取り込んだのなら、その時すでに日本語は母音e(あるいはエ列の音)を持っていたことになります(奈良時代の日本語のine(稲)とyone(米)は組み込まれたina-、yona-という形を見せますが、kome(米)は組み込まれたkoma-という形を見せず、対照的です。たとえkome(米)の古形として*komaが存在したとしても、その歴史が浅いことは明白です)。日本語とベトナム系言語の接触は、奈良時代から見てそう遠くない過去まで続いていた可能性があります。日本語は中国東海岸地域だけでなく、日本列島でもベトナム系言語に接していたかもしれないということです。もしそうであれば、中国東海岸地域で話されていたベトナム系言語が日本列島に入ってきていたことを意味します。

 

補説

廃れてしまったɸagi(脛)

ɸagi(脛)は膝から足首までの部分を指す語でしたが、sune(脛)に取って代わられてしまいました。今では、hukurahagi(ふくらはぎ)という言い方の中に残っています。

奈良時代の日本語のɸagi(脛)は、古代中国語のheng(脛)ヘンから来たと考えられます。昔の日本語にはhという子音がなく、当時の日本語の傾向からして、hengの先頭のhはp-かk-になりそうで、末尾のngは-nVか-gVになりそうです(Vは母音です)。

古代中国語のheng(脛)は*pagiという形で日本語に入り、ɸagiという形に変化したと見られます。昔の日本語でhengiとできないことを考えれば、自然な展開です。もしかしたら、古代中国語のheng(脛)が日本語に入った時には、日本語にまだ母音e(あるいはエ列の音)がなかったのかもしれません。

 

参考文献

上代語辞典編修委員会、「時代別国語大辞典 上代編」、三省堂、1967年。

まさか朝鮮語だったとは・・・

「言(こと)」と「事(こと)」の関係でお話ししたように、古代日本語のkotoが話を意味していたとすると、kotobaという語もよく理解できます。岩波古語辞典(大野1990)が述べているように、kotoにɸa(端)をくっつけたのがkotobaと考えられます。kotoは口から発せられるもの全体、kotobaはその断片といったところでしょう。現代ではkotobaに「言葉」という漢字が当てられていますが、kotobaの語源は上の通りです。

※物の端部はɸa(端)ともɸasi(端)とも呼ばれました。人類の言語では物の端部を意味する語は開始または終了を意味する語と関係していることが多く、ɸasi(端)はɸazimaru(始まる)とɸazimu(始む)(前者が自動詞で、後者が他動詞です)と関係があると見られます。物の端部を意味したり、終了を意味したりしている英語のendとは逆のケースです。

*kutu(口)から、話すことを意味するkataruと話を意味するkotoが作られたと述べましたが、奈良時代の日本語には、kataru(語る)という語はありますが、ɸanasu(話す)という語はありません。おそらく、後の時代にhanatu(放つ)の別形であるhanasu(放す)からhanasu(話す)が作られたと思われます。古代中国語に「放言」(好き勝手な発言を意味します)という言い方があったり、日本語に「言い放つ」という言い方があったりするのを見ると、その可能性が高いです。hanasuはもともと、「話す」のほかに「咄す」とも書かれ、おしゃべりしたり、雑談したりすることを意味していました。

※古代中国語のpjang(放)ピアン(現代の中国語ではfang(放)ファン)が日本語のɸanatu(放つ)/ɸanasu(放す)、さらにhanatu(放つ)/hanasu(放す)になったと見られます。

kataru(語る)とhanasu(話す)に言及したからには、iu(言う)にも言及しないといけないでしょう。iu(言う)は奈良時代の時点ではiɸu(言ふ)です。古代中国語のkhuw(口)クウからkuɸu(食ふ)が作られたことや、古代日本語の*kutu(口)からkataru(語る)が作られたことを思えば、まず「口」からiɸu(言ふ)が作られた可能性を考えたくなります。ここで注目されるのが、朝鮮語のip(口)です。定説となっている日本語のハ行のp→ɸ→hという変遷を考慮に入れると、朝鮮語のip(口)は奈良時代の日本語のiɸu(言ふ)と完全に合致します(日本語のハ行のp→ɸ→hという変遷については、消えた語頭の濁音の補説を参照してください)。

話すことは口で行う重要な動作で、古代日本語の*kutu(口)からkataru(語る)が作られたことは十分理解できます。食べることも口で行う重要な動作で、古代中国語のkhuw(口)からkuɸu(食ふ)が作られたことも十分理解できます。朝鮮語のip(口)は日本語に入って、「話す」のような語になることも、「食べる」のような語になることもあったのではないかと思われます。

筆者がなぜそう考えるかというと、奈良時代の日本語にiɸi(飯)という語があったからです。mesi(飯)やgohan(ご飯)が一般的になり、iɸi(飯)は廃れてしまいました。mesi(飯)は、kuɸu(食ふ)などの尊敬語であるmesu(召す)から作られた語ですが、同じように、奈良時代の日本語のiɸi(飯)も、食べることを意味したiɸuのような動詞から作られた可能性があります。iɸuのような動詞が「話す」のような意味と「食べる」のような意味を両方持つのは都合が悪く、iɸi(飯)という語を残しつつ、「食べる」のような意味は捨てられたのかもしれません(kuɸu(食ふ)などによる圧迫があったかもしれません)。こうすれば、iɸu(言ふ)とiɸi(飯)が残ります。

朝鮮語のip(口)が日本語に入ったことは間違いないでしょう。こうなると、朝鮮語と日本語の間にいつどこでなにがあったのかと考えたくなりますが、ここではその問題に立ち入らず、先に進むことにします。

 

補説

「吐く」と「吸う」

「食べる」と「話す」は口で行う代表的な動作ですが、「吐く」と「吸う」も無視できません。「吐」と「吸」という漢字にもちゃんと「口」が入っています。日本語のhaku(吐く)(古形ɸaku(吐く))とsuu(吸う)(古形suɸu(吸ふ))が「口」から来ている可能性も考えなければなりません。

ɸaku(吐く)のほうは、タイ系言語のタイ語のpaak(口)のような語から来たものでしょう。タイ語のpaak(口)のような語は、一方でpakupaku(パクパク)、pakuʔ(パクッ)、pakkuri(パックリ)のような擬態語になり、他方でɸaku(吐く)になったと見られます。aをuに変える母音交替によって作られた類義語はこれまでにもいくつか見てきましたが、ɸaku(吐く)とɸuku(吹く)もそうでしょう。

suɸu(吸ふ)のほうは、ウラル語族のフィンランド語のsuu(口)のような語も含めて、直接あるいは間接的に関係のありそうな語が北ユーラシアに大きく広がっており、状況が単純でないため、別のところで考察することにします。

古代中国語khuw(口)、朝鮮語ip(口)、タイ語paak(口)、フィンランド語suu(口)のように並べてみると、印象的です。

 

参考文献

大野晋ほか、「岩波 古語辞典 補訂版」、岩波書店、1990年。