「あらかじめ(予め)」とは?

現代の日本語のarika(ありか)、sumika(すみか)、koko(ここ)、soko(そこ)、asoko(あそこ)などに見られるkaとkoは、かつて場所を意味していたものです。大昔のなごりとして残っているだけで、もうこのkaとkoを使って新しい語を生み出すことはできません。

上記の場所を意味するkaとkoに対応するものは、ウラル語族にも見つけることができます。ただ、それらも大昔のなごりとして残っているだけです。例えば、フィンランド語にtäällä(ここに、ここで)ターッラ、ネネツ語にtjukona(ここに、ここで)テュコナという語があります。現代のフィンランド人にとっては、täälläは完全に一語であり、現代のネネツ人にとっては、tjukonaは完全に一語です。しかし、成り立ちを考えると、täälläとtjukonaはそれぞれ三つの要素からできています。

フィンランド語のtäällä(ここに、ここで)は、古形の*täkällä(ここに、ここで)タカッラが変化したものです(副詞のtäällä(ここに、ここで)ではkが消えてしまいましたが、形容詞のtäkäläinen(ここの)タカライネンではkが残っています)。*täkällä(ここに、ここで)のtäがthisを意味し、käがplaceを意味し、lläがinを意味していました。ネネツ語のほうは、tjukona(ここに、ここで)のtjuがthisを意味し、koがplaceを意味し、naがinを意味していました。日本語のkokoni/kokode(ここに、ここで)の一番目のkoがthisを意味し、二番目のkoがplaceを意味し、ni/deがinを意味しているのと同様です。

日本語の場所を意味するkaとkoは、ウラル語族との共通語彙であり、とても歴史が古いのです。注目すべきことに、奈良時代の日本語には、arika(ありか)のほかにaraka(あらか)という語がありました。araka(あらか)は、神、天皇およびその他の貴人の居場所、御殿を意味していました。意味を考えれば、arika(ありか)のariだけでなく、araka(あらか)のaraも、存在動詞のari(あり)に関係があると見るべきです。

なぜaraka(あらか)という語に注目すべきかというと、日本語にかつて存在したと見られる*ara(下)がのちに奈良時代のari(あり)につながったのであれば、その途中に*araが「座ること、座っていること」、そして「存在すること」を意味していた時期があったと予想されるからです。

arika(ありか)という複合語は、動詞の連用形のariとkaがくっついてできており、これは私たちにとってなじみのパターンです。連用形のkuɸiとmonoがくっついてkuɸimono(食ひ物)、連用形のnomiとmonoがくっついてnomimono(飲み物)、連用形のamiとmonoがくっついてamimono(編み物)、連用形のnuɸiとmonoがくっついてnuɸimono(縫ひ物)という具合です。

ここで、奈良時代の日本語の動詞の活用パターンを一通り示しておきましょう。表中のkuɸu(食ふ)は四段活用、miru(見る)は上一段活用、otu(落つ)は上二段活用、uku(受く)は下二段活用、ku(来)はカ行変格活用、su(為)はサ行変格活用、sinu(死ぬ)はナ行変格活用、ari(あり)はラ行変格活用です。

※古文の学習でkeru(蹴る)は下一段活用であると聞いたことがあるかもしれませんが、下一段活用は奈良時代より後に生じた活用パターンです。

未然形と比べると、連用形は、下二段活用動詞を除けばすべてiで終わっており、統一感があります(イ列甲類とイ列乙類の違いには目をつむっています)。終止形も、ラ行変格活用動詞を除けばすべてuで終わっており、統一感があります。連体形、已然形、命令形の末尾も、未然形の末尾ほどばらばらではありません。連用形、終止形、連体形、已然形、命令形には、未然形より後にそれぞれかなり画一的な方法(1パターンか2パターン)で作られたのではないかと思わせるところがあります。なにが言いたいかというと、未然形にかつての姿がよく保存されているのではないかと言いたいのです。

すでに述べたように、奈良時代の日本語にはaraka(あらか)という語があり、神、天皇およびその他の貴人の居場所、御殿を意味していました。araka(あらか)は、最初からこのような限定された意味を持っていたのでしょうか。もしかしたら、最初は一般に居場所を意味していたのではないでしょうか。より新しいarika(ありか)などの語彙に押しやられて、限定された意味を持つようになったのではないでしょうか。

奈良時代の日本語には、arakazime(あらかじめ)という語もありました。意味は現代と同じで、「前もって、事前に」という意味です。おそらく、奈良時代の日本人はarakazime(あらかじめ)がaraka(あらか)に関係があるとは思っていなかったでしょう。しかし、araka(あらか)がだれかまたはなにかが存在する場所を意味していて、このaraka(あらか)とsimu(占む)がくっついてarakazime(あらかじめ)ができたと考えると、無理がないのです。arakazime(あらかじめ)はもともと場所の確保を意味していたのだろうという解釈です。皆さんも以下のような表示を見たことがあるのではないでしょうか。

もちろん文字がない時代にはこれと同じ表示は出せませんが、それでも場所を確保する必要が生じることはあったはずです。arakazime(あらかじめ)という語は、前もって場所を確保する時に使われていたが、そのうち意味が一般化して、前もってなにかをする時に使われるようになったと見られます。確保する場所が座る場所であることも多かったでしょう。araka(あらか)とarakazime(あらかじめ)のaraの部分は「座ること、座っていること、存在すること」を意味していたということです。

やはり、かつて日本語にウラル語族の*ala(下)や朝鮮語のarɛ(下)アレと同源の*ara(下)という語があり、この語が奈良時代の日本語のari(あり)につながったと考えられます。奈良時代の日本語のari(あり)、つまり現代の日本語のaru(ある)がウラル語族の*ala(下)や朝鮮語のarɛ(下)と同源であるとなると、英語のare(ある、いる)はなんなのでしょうか。

「ある」と「いる」の語源(続き)—雨とあられ

「ある」と「いる」の語源の記事の中で、かつて日本語にウラル語族の*ala(下)や朝鮮語のarɛ(下)アレと同源の*ara(下)という語があったのではないか、あったとすれば*ara(下)はどこに行ってしまったのかという話をしました。

「下」と「座る、座っている」の間に密接なつながりがあること、そして「座る、座っている」と「存在する」の間に密接なつながりがあることを考えると、上記の*ara(下)と奈良時代の日本語のari(あり)の関係は検討する必要があります。ari(あり)は、ラ行変格活用という活用パターンを示しました。

ラ行変格活用は、最も一般的な活用パターンである四段活用によく似ており、終止形がuでなくiで終わるところだけが違います。

*ara(下)と奈良時代の日本語のari(あり)の関係を検討する前に、*ara(下)という語が本当にあったのか検証しましょう。かつて日本語に*ara(下)という語があったのであれば、*ara(下)はsita(下)に追いやられて、少し違うことを意味するようになった可能性があります。

arare(あられ)

「下」が「座る、座っている」と密接につながっていること、そして「座る、座っている」が「存在する」と密接につながっていることは、様々な言語の例を挙げて示しました。実は、「下」と密接なつながりがある語がまだあります。意外かもしれませんが、あるいは意外でないかもしれませんが、「雨」です。

例えば、ハンガリー語にはesik(落ちる)(語幹es-)という動詞があり、この動詞からeső(雨)エショーという語が作られています。

フィンランド語にはsataa(降る)という動詞があり、この動詞からsade(雨)という語が作られています。英語のsit、set、settleの類に対応する日本語としてsita(下)、sizumu(沈む)(古形sidumu)、sadamaru(定まる)、sato(里)などを挙げましたが、フィンランド語のsataa(降る)も仲間でしょう。

日本語にはsita(下)のほかにsitosito(しとしと)という語があるので、「下」と「雨」の間のつながりはわかりやすいと思います。かつて日本語に*ara(下)という語があったのであれば、雨が降るのを見て*ara*araと言うこともあったでしょう。現代の日本人が「あら、あらあら、あらら、あれ、あれあれ、あれれ」と言っているように、*ara*ara→*arara→arareのような変化があった可能性は十分にあります。ちなみに、奈良時代の日本語のarareは、霰(あられ)も雹(ひょう)も含んでいました。しかし、空から降ってくるものといえば、なんといっても雨ではないでしょうか。極寒地方では、雪でしょう。これらに比べると、霰(あられ)と雹(ひょう)は非常にマイナーな存在です。*ara(下)を重ねた*ara*araは、sitosito(しとしと)がそうであるように、まず雨に対して使われそうなものです。

奈良時代の日本語には、ame(雨)という語もありました。推定古形は*ama(雨)です。おそらく、この*ama→ameと*arara→arareの間で衝突があり、前者が押し切る形、つまり前者が雨を意味し、後者がマイナーな霰(あられ)と雹(ひょう)を意味する形で決着したのではないかと思われます。奈良時代の日本語のarareが、もともと雨を意味していたにせよ、雨を意味することなく霰(あられ)と雹(ひょう)を意味していたにせよ、*ara(下)という語の存在を示唆している点は見逃せません。

arasi(荒し、粗し)

奈良時代の日本は、今のように北海道から沖縄まで統一されておらず、本州ですら統一が完了していませんでした。この頃に東北方面に住んでいた人々はemisi(蝦夷)またはebisu(蝦夷)と呼ばれていました。朝廷に従わないemisi(蝦夷)は、さげすんでaraemisi(麁蝦夷)とも言われました。奈良時代の日本語のaraはすでに、現代のarai(荒い、粗い)と同じ意味を持っていました。

異民族を蔑視する姿勢は古代からありました。奈良時代の日本語のaraも、*ara(下)がsita(下)に追いやられて、「下等」という抽象的な意味を持つようになったと考えると、合点がいくのです。人であれば、「下等」から「未開の、粗野な、野蛮な」という意味が生じ、物であれば、「下等」から「でき・質がよくない」という意味が生じたということです。後者は、arasagasi(あら探し)のara(あら)にもつながります。

やはり、かつて日本語に*ara(下)という語があったようです。それでは、この*ara(下)と奈良時代の日本語のari(あり)の関係を考察することにしましょう。

英語のbe動詞、インド・ヨーロッパ語族の存在動詞

インド・ヨーロッパ語族の存在動詞(英語のbe(ある、いる)の類)についてもう少しお話ししておきます。インド・ヨーロッパ語族の存在動詞は北ユーラシアの言語の歴史を明らかにするうえで大変重要になってくるので、耳を傾けていただければと思います。

ゲルマン系言語の英語be(ある、いる)、スウェーデン語vara(ある、いる)、アイスランド語vera(ある、いる)、ドイツ語sein(ある、いる)の活用を見たので、今度は古典語のラテン語sum(ある、いる)、古代ギリシャ語eimi(ある、いる)、サンスクリット語asmi(ある、いる)の活用を見てみましょう(活用表をたくさん示しますが、試験のための暗記ではないので、さっと目を走らせる程度で十分です。重要なポイントは後で述べます)。

※インド・ヨーロッパ語族の古典語に関しては、慣習にしたがって動詞の1人称単数現在形を見出しにしてあります。昔のインド・ヨーロッパ語族の言語には単数と複数のほかに双数というカテゴリーがありますが、それは表から省いてあります。

従来の印欧比較言語学は、ラテン語、古代ギリシャ語、サンスクリット語を中心に据え、スラヴ語派とバルト語派の言語をあまり重視してこなかった傾向があり、筆者はこれを大問題だと考えているので、以下にスラヴ系言語のロシア語byt’(ある、いる)ビーチ、ポーランド語być(ある、いる)ビチュ、ブルガリア語sɤm(ある、いる)スムならびにバルト系言語のリトアニア語būti(ある、いる)、ラトビア語būt(ある、いる)の活用も示します。

まずは、ラテン語から始めましょう。ラテン語のsum(ある、いる)の現在形は一見不揃いに見えますが、sum、sumus、suntが先頭部分を落とされた形であると考えると納得がいきます。例えば、スラヴ系のロシア語jest’(ある、いる)イェースチとブルガリア語sɤm(ある、いる)スムの現在形を比べてみてください。ブルガリア語のほうで先頭部分が落とされているのがわかります(1人称単数、2人称単数、1人称複数、2人称複数のところです)。このようなことはよくあるのです。先頭部分の脱落は、ラテン語のsum(ある、いる)の現在形だけでなく、サンスクリット語のasmi(ある、いる)の現在形でも起きています。

「ある、いる」にあたる動詞は、頻繁に使われます。発音しやすい形はそのまま残し、発音しにくい形は変形しようとする力が強く働きます。そのため、当初はよく揃っていた形がばらばらになってしまうこともあるのです。上に示した表を一通り眺めると、ロシア語jest’(ある、いる)の現在形がよく整っているのが目立ちます(ポーランド語jest(ある、いる)イェストゥの現在形もよく整っていますが、ポーランド語の現在形は、3人称単数のjestという形をもとにして作りなおされたものです。ポーランド語の現在形も、昔はロシア語の現在形と同じような姿をしていました)。

ロシア語のjest’(ある、いる)の現在形をラテン語のsum(ある、いる)およびサンスクリット語のasmi(ある、いる)の現在形と比べると、大きな違いはラテン語とサンスクリット語のほうで先頭部分がところどころ落とされていることぐらいです。また、ロシア語のjest’(ある、いる)の現在形をリトアニア語のbūti(ある、いる)およびラトビア語のbūt(ある、いる)の現在形と比べると、大きな違いはリトアニア語とラトビア語のほうで3人称単数と3人称複数のところにyra、irという全く異質な形が現れていることぐらいです。こうして見ると、ロシア語のjest’(ある、いる)の現在形は印欧祖語の姿をかなりよく映し出していると考えられます。

英語のbe動詞の活用体系は、(1)beという形のもと、(2)amとisという形のもと、(3)areという形のもと、(4)wasとwereという形のもとという四つのもとからできているようだと述べました。上に並べた他の言語の活用表を見ればわかるように、amとisという形のもとが印欧祖語の存在動詞です。amとisは、古英語の段階ではeomとisでした。eomのoの部分はかつてのsの残骸のようなものと考えられます。印欧祖語の存在動詞に同じようなあるいは似たような意味を持ついくつかの語が合流して、英語のbe動詞の活用体系ができたのです。ラテン語のsum(ある、いる)の現在形と過去形や、ロシア語のjest’(ある、いる)の現在形と過去形を見ても、異なるものを混ぜ合わせて活用体系を作っているのがわかります。インド・ヨーロッパ語族では、このようなことが平然と行われてきたのです。それぞれの言語が好き勝手に混ぜ合わせを行ってきたので、英語be(ある、いる)の過去形とラテン語sum(ある、いる)の過去形は違うし、英語be(ある、いる)の過去形とロシア語jest'(ある、いる)の過去形も違います。混ぜ合わせに使ったもとの材料が共通しているのです。