「日本列島は大陸と陸続きだった」という言い方には注意が必要

日本およびその周辺に見られるY染色体DNAの各系統の話をする前に、東南アジアルートを通ってやって来た人々と中央アジアルートを通ってやって来た人々が現れる4万年前頃の地理の話をしておきましょう。

以下の地図は、約2万年前のLast Glacial Maximum(最終氷期最盛期)の頃の日本列島を示しています(図はNakazawa 2018より引用)。

現在とどこが違うでしょうか。まず、中国東海岸地域、朝鮮半島、台湾の間が陸地になっています。そして、大陸とサハリンと北海道がつながっています。さらに、本州と四国と九州がつながっています。しかし、注目してほしいのは、対馬海峡のところと、津軽海峡のところはつながっていないということです。

海洋調査により、LGMの頃には海面が現在より120~130 m低かったことがわかっています(Park 2000)。しかし、対馬海峡は深いところで200 mに達し、津軽海峡もそれ以上の深さを持ちます。海面が現在より120~130 m低ければ、対馬海峡も津軽海峡も現在より細くなりますが、陸続きにはならないのです(津軽海峡のほうは、細い海が凍り、歩いて渡れる季節が少しあったようです(Kawamura 2007))。

上に示した地図は、約2万年前のLGMの頃のものです。東南アジアルートを通ってやって来た人々と中央アジアルートを通ってやって来た人々が現れる4万年前頃は、LGMの頃よりいくらか温度が高いので、もっと海の部分が大きかったはずです。

日本列島は大陸と完全につながっていたと思っていたという方もいるでしょう。確かに、日本列島は大陸と完全につながっていたのです。しかし、それは、人類が日本周辺に現れた4万年前頃の話ではなく、それよりはるか前の話です。人類が日本周辺に現れた4万年前頃から現在に至るまで、日本列島が大陸と完全につながっていたことはないのです。

日本列島の中でまず人類が現れたのは、古本州島(現在の本州、四国、九州)です。人類は38000年前頃に古本州島に現れ、少し遅れて琉球列島、そして大きく遅れて古サハリン・北海道半島に現れました(Izuho 2015)。つまり、日本列島に最初にやって来た人々は、海を渡ってやって来たということです。古本州島に現れた人類は、すぐに静岡県の伊豆半島の南方にある島にも現れます(Ikeya 2015)。確かな航海能力・航海技術を持っていたことを示しています。

誤解を招きやすい遣唐使船

日本には、誤解を招きやすい話があります。遣唐使船の話です。皆さんも、遣唐使船が何度も航海に失敗した話を聞いたことがあるでしょう。遣唐使の時代(飛鳥時代、奈良時代、平安時代)に何度も航海に失敗していたのなら、それより昔はほとんど航海できなかっただろうと考えがちです。これは正しくありません。

遣唐使船はもともと、朝鮮半島沿岸を通る北路を使用していました(図は日経ビジネス様のウェブサイトより引用)。

航海というと、前もうしろも右も左も海のところを進むイメージがあるかもしれませんが、海岸に沿って進むこともあります。

日本は、白村江の戦いで新羅との関係が悪くなり、朝鮮半島を統一した新羅を避けて、唐に向かうようになりました。ところが、この南島路・南路は、北路のように安全な航路ではありませんでした。台湾・フィリピン方面から日本列島のほうへ、黒潮と呼ばれる海流が流れています。黒潮は、世界で一、二を争う流れの速い海流です。黒潮を横切ったり、黒潮に逆らったりすることには大きな危険が伴います。さらに、遣唐使船は、穏やかな季節を選ばなかったり、人や物を積みすぎたりして、危険を一層大きくしていました。かなり無茶をしていたのです。

遣唐使船のことを聞かされると、それより昔のことがかすんでしまいますが、実は遣唐使船の時代よりはるかに前から人類は航海を行っていました。

オーストラリアとパプアニューギニアの例

オーストラリアとパプアニューギニアの例を挙げましょう。なぜオーストラリアとパプアニューギニアなのかと思われるかもしれません。しかし、これは的外れではありません。

東南アジアルートと中央アジアルートのところでお話ししたように、アフリカから中東に出て、そこから南アジアを通り、東南アジアに達する大きな人の流れがありました。ある人々は東南アジアから東アジアに向かい、ある人々は東南アジアからオセアニアに向かいました。東アジアに向かった人々の航海能力・航海技術を考えるうえで、オセアニアに向かった人々に注目することは適切です。

日本周辺の地形が現在と大きく異なっていたように、オセアニア方面の地形も現在と大きく異なっていました(図はWikipediaより引用)。

人類が東南アジアからオセアニアに向かう頃には、上の図のように、スンダランドとサフルランドという二つの巨大な陸が相対していました。当時は、オーストラリアとパプアニューギニアはつながっていました。人類は45000~50000年前頃からこのサフルランドに現れます(O’Connell 2015、O’Connell 2018)。ポイントは、スンダランドとサフルランドはつながっていなかったということです。M. I. Bird氏らが具体的にいくつかのルートを検討していますが、陸塊から陸塊への移動を繰り返さなければならないうえ、どのルートを取っても、出発する陸塊から到達する陸塊が見えない長距離の航海が避けられません(Bird 2019)。やはり、スンダランドからサフルランドに渡った人々は、高い航海能力・航海技術を持っていたと考えられます。サフルランドで存続していくためには、ある程度の人数がサフルランドに到着する必要があるため、そのような高い航海能力・航海技術が共有されていたということでしょう。

スンダランドからサフルランドに向かう途中の東ティモールで、4万年以上前に遠海魚を捕獲していたことを示す証拠が見つかっています(O’Connor 2011)。遠海漁業というのは重要な視点かもしれません。人間が段々と高い航海能力・航海技術を身につけていったことを無理なく説明できるかもしれません。易しい試みから難しい試みに移っていったと考えるのが妥当でしょう。日頃から遠海漁業を行っている人たちなら、高い航海能力・航海技術を持っていたことも納得できます。また、陸地から次の陸地が見えなくても、遠海漁業を行っている位置から次の陸地が見えたかもしれません。

日本の古本州島と琉球列島に渡った人々の航海能力・航海技術も驚きですが、サフルランドに渡った人々の航海能力・航海技術も驚きです。しかし、一方の航海能力の高さを考えると、他方の航海能力の高さも納得です。両者の航海能力の高さは無関係でないでしょう。

しかし、どのような材料でどのように舟を作っていたのかという謎が残ります。何万年も前の遠い昔になると、石器以外のものはなかなか残ってくれません。石は明らかに舟の材料に向いていません。海部陽介氏らが草の舟、竹の舟、丸木舟を作製し、丸木舟で台湾から与那国島への航海実験を成功させるという貴重なニュースがありました(3万年前の航海、丸木舟で完遂 科学博物館チーム、台湾から沖縄・与那国島に到着)。

人類はアフリカ大陸で非常に長い歴史を持っているにもかかわらず、アフリカ大陸の近くにあるマダガスカル島は最近まで人間の暮らしの形跡がなく(台湾とオーストロネシア語族を参照)、人類の航海能力はいつから発達し始めたのかという問題もあります。

アフリカ→中東→南アジア→東南アジアと移動し、そこから東アジアとオセアニアに分かれていくルートを、今度はY染色体DNAの観点から追ってみましょう。

 

参考文献

Bird M. I. et al. 2019. Early human settlement of Sahul was not an accident. Scientific Reports 9: 8220.

Ikeya N. 2015. Maritime transport of obsidian in Japan during the Upper Palaeolithic. In Kaifu Y. et al., eds., Emergence and diversity of modern human behavior in Paleolithic Asia, Texas A&M University Press, 362-375.

Izuho M. et al. 2015. The appearance and characteristics of the early Upper Paleolithic in the Japanese Archipelago. In Kaifu Y. et al., eds., Emergence and diversity of modern human behavior in Paleolithic Asia, Texas A&M University Press, 289-313.

Kawamura Y. 2007. Last glacial and Holocene land mammals of the Japanese Islands: Their fauna, extinction and immigration. Quaternary Research 46(3): 171-177.

Nakazawa Y. et al. 2018. Quaternary paleoenvironmental variation and its impact on initial human dispersals into the Japanese Archipelago. Palaeogeography, Palaeoclimatology, Palaeoecology 512: 145-155.

O’Connell J. F. et al. 2015. The process, biotic impact, and global implications of the human colonization of Sahul about 47,000 years ago. Journal of Archaeological Science 56: 73-84.

O’Connell J. F. et al. 2018. When did Homo sapiens first reach Southeast Asia and Sahul? Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America 115(34): 8482-8490.

O’Connor S. et al. 2011. Pelagic fishing at 42,000 years before the present and the maritime skills of modern humans. Science 334(6059): 1117-1121.

Park S. et al. 2000. Last glacial sea-level changes and paleogeography of the Korea (Tsushima) Strait. Geo-Marine Letters 20: 64-71.

一夫一妻制ではない世界

インディアンのDNAから重大な結果が・・・の記事にアクセスしてくださる方が多く、感謝しております。前回の記事で示したGoebel 2007の図を再び示します。

アフリカから中東に出て、そこからアメリカ大陸に到達するには、二つのルートがあります。

「東南アジアルート(南ルート)」・・・中東から南アジアを通って東南アジアに移動し、そこから北に進んでアメリカ大陸に入っていくルート

「中央アジアルート(北ルート)」・・・中東から中央アジアに移動し、そこから東に進んでアメリカ大陸に入っていくルート

インディアンのDNAに関しては、母から娘へ代々伝わるミトコンドリアDNAを見ると、東南アジアからの流れが強いが、父から息子へ代々伝わるY染色体DNAを見ると、中央アジアからの流れが圧倒的であるという話をしました(熾烈な歴史、子孫を残す少数の男と多数の女および異色のカップルの誕生を参照)。東南アジアから北に進んでいった人々と、中央アジアから東に進んでいった人々の間で、なにがあったのでしょうか。

ミトコンドリアDNAは多様だが、Y染色体DNAは単調である人間集団は世界的によく見られ、人類学者・生物学者はまずpatrilocality(父方居住性=男性とその親族が住んでいるところに、女性が移ってくるパターン)に目を向けました。太田博樹氏らの研究が有名です(Oota 2001)。これはもっともなことです。

四角の中に男女が住んでいて、以下のような傾向があったらどうなるでしょうか。

・四角の中で生まれた男性は一生そこにとどまる。
・四角の中で生まれた女性は一生そこにとどまることもあれば、外に出ていくこともある。逆に、外から女性が入ってくることもある。

当然、このような傾向があれば、四角の中の男性のY染色体DNAのバリエーションは乏しく、四角の中の女性のミトコンドリアDNAのバリエーションは豊かになるでしょう。

この説明はもっともです。しかし、それだけでは説明できない現象もあります。しかも、それが人類史において非常に大きな現象なのです。その典型的な例が、インディアンのDNAです。Baranovsky 2017の図を再び示します。

アメリカ大陸のインディアンに特徴的なY染色体DNAのQ系統の分布図です。この図は、Y染色体DNAのQ系統がかつて北ユーラシアと南北アメリカ大陸で大勢力を誇ったが、のちに北ユーラシアのほうで他の系統(R系統、N系統、C系統)が台頭し、Q系統がすっかり衰退してしまったことを示しています(R系統、N系統、C系統は、インド・ヨーロッパ語族の話者、ウラル語族の話者、テュルク系言語の話者、モンゴル系言語の話者、ツングース系言語の話者に多く見られる系統です)。

これは、先ほどのpatrilocality(父方居住性)とは全然違う話です。Y染色体DNAのある系統がずっと居座る話ではなく、Y染色体DNAのある系統が消えてしまう話です。このようにQ系統は北ユーラシアではすっかり衰退してしまいましたが、そのQ系統自身もかつては他の系統を消滅させていたかもしれません。中米・南米のインディアンのY染色体DNAがQ系統一色に染まっているのは怪しいです。

筆者は、かつて東ユーラシアの北のほうで以下のようなことがあったのではないかと考えています。は中央アジアから東に進んできた男性、は中央アジアから東に進んできた女性、は東南アジアから北に進んできた男性、は東南アジアから北に進んできた女性です。説明のために、極端なモデルを示します。

中央アジアからやって来た男女より、東南アジアからやって来た男女のほうが断然多いとしましょう。そして、これらの男女の間で子作りが行われます。ここで、中央アジアからやって来た男性が力関係(権力・武力)あるいは物質的豊かさの点で東南アジアからやって来た男性より優位にあり、この優位にある男性とすべての女性の間で子作りが行われたら、どうなるでしょうか。生まれてくる子どもたちのY染色体DNAは、中央アジアからやって来た系統一色になります。生まれてくる子どもたちのミトコンドリアDNAは、東南アジアからやって来た系統が優勢になります。もともと、中央アジアからやって来た女性より東南アジアからやって来た女性のほうが多いからです。インディアンのY染色体DNAとミトコンドリアDNAは、まさにこのようになっているのです。

中央アジアからやって来た男女より、東南アジアからやって来た男女のほうが断然多かったことは、現代の東アジアの人々のミトコンドリアDNAを調べればわかります。熾烈な歴史、子孫を残す少数の男と多数の女の記事でお話ししたように、アフリカ以外の人々のミトコンドリアDNAはM系統とN系統に大別することができ、M系統は以下のように拡散したと考えられます。

M系統は、東南アジアルートを通って東アジアにやって来たことが明らかな系統です。これに対して、N系統は、東南アジアルートを通って東アジアにやって来た可能性と、中央アジアルートを通って東アジアにやって来た可能性があります。しかしながら、異色のカップルの誕生の記事でN系統の一下位系統であるB系統について考察しましたが、東アジアに存在するN系統の大半も東南アジアルートを通ってやって来たと考えられるものです。日本人のミトコンドリアDNAに関する詳細なデータは、Tanaka 2004などで見ることができます。日本人に見られるミトコンドリアDNAのN系統の下位系統の中で、中央アジアルートを通ってやって来た可能性があるのは、A系統とN9系統(下位系統としてN9a、N9b、Yがあります)ぐらいです(篠田2007)。A系統とN9系統を合わせても、日本人のミトコンドリアDNAに占める割合は14%ほどです(Tanaka 2004、篠田2007)。中央アジアルートを通ってやって来た人々は、東南アジアルートを通ってやって来た人々より断然少ないのです。

4万年前の東アジアの記事などでお話ししたように、考古学は明らかに中央アジアルートを通ってやって来た人々が東南アジアルートを通ってやって来た人々より先進的であったことを示しています(ただし、航海技術は、中東→南アジア→東南アジア→東アジアと海沿いを移動してきた人々のほうが高かったでしょう)。本ブログに登場する、ヨーロッパ方面から東アジア方面に及ぶ古代北ユーラシアのいくつかの巨大な言語群の存在も、そのことを示しています。

中央アジアからやって来た男女と東南アジアからやって来た男女による子作りは説明のために極端に描きましたが、そこまで極端な偏りはなく、もっと穏やかな偏りだったとしても、子作りが代々行われれば、やはり筆者が説明したようになります。しかし、インディアンのDNAが示す男女の歴史は、特殊な例なのでしょうか。それとも、日本人、朝鮮人、中国人などにも同じような男女の歴史があるのでしょうか。人間集団と人間集団が混ざり合うといっても、液体と液体の混合のように単純でないことを思わせます。一夫一妻制ではない世界をもう少し探求してみましょう。

※上のpatrilocality(父方居住性)の話と力関係・物質的豊かさで優位に立つ男性の話は違うものですが、互いに排他的なものではありません。Y染色体DNAのある系統がずっと居座り、その系統が別の系統に取って代わられ、今後はその別の系統がずっと居座ることも考えられるからです。複数の要因が相乗的に働いて、ある地域のY染色体DNAのバリエーションが単調になっている可能性があります(Heyer 2012)。

 

参考文献

日本語

篠田謙一、「日本人になった祖先たち DNAから解明するその多元的構造」、NHK出版、2007年。

英語

Balanovsky O. et al. 2017. Phylogeography of human Y-chromosome haplogroup Q3-L275 from an academic/citizen science collaboration. BMC Evolutionary Biology 17: 18.

Goebel T. 2007. The missing years for modern humans. Science 315(5809): 194-196.

Heyer E. et al. 2012. Sex-specific demographic behaviours that shape human genomic variation. Molecular Ecology 21(3): 597-612.

Oota H. et al. 2001. Human mtDNA and Y-chromosome variation is correlated with matrilocal versus patrilocal residence. Nature Genetics 29(1): 20-21.

Tanaka M. et al. 2004. Mitochondrial genome variation in eastern Asia and the peopling of Japan. Genome Research 14(10a): 1832-1850.

北ユーラシアに向かう人類、バルカシュ湖とバイカル湖

otu(落つ)の語源

日本語が属していた語族を知るの記事で、水を意味していたmat-、mit-、mut-、met-、mot-のような語から、様々な語彙が生まれたことを示しました。その中に、以下の語がありました。

mudaku(抱く)、udaku(抱く)、idaku(抱く)
ude(腕)(推定古形は*uda)
utu(打つ)
muti(鞭)
motu(持つ)

これは、「水」を意味していた語が「横」を意味するようになり、「横」を意味していた語が「手、腕、肩」を意味するようになるパターンです。上の日本語の語彙がややこしく見えるのは、語頭のmがしばしば消えているからです。以下のようになっていたら、わかりやすかったでしょう。

mudaku(抱く)
muda(腕)
mutu(打つ)
muti(鞭)
motu(持つ)

ところが、実際にはこうならなかったのです。上の一連の語は、もともと*mudaまたは*mutaという語があり、その語頭のmがしばしば脱落していたことを示しています。

このことは、otu(落つ)の語源を考えるうえでも示唆的です。otu(落つ)は、otosu(落とす)、otoru(劣る)、otoroɸu(衰ふ)などと同源と考えられます。下を意味する*otoという語があったのでしょう。弟または妹を意味したoto/otoɸi/otoɸitoという語もそのことを裏づけています。

現代の日本語にutumuku(俯く)などの語がありますが、下を意味する*utuという語もあったと考えられます。日本語で「眠りに落ちる」と言ったり、英語で「fall asleep」と言ったりしますが、人類の言語を見渡すと、落下と眠りの間には深い関係があります。立ったまま眠ることができず、横になるか座るかして眠るというのもあるかもしれません。立っているのは活動中で、横になったり座ったりしているのは休止中ということかもしれません。落下、下方向、下を意味する*utuの異形として*utaと*utoがあり、これがutatane(うたた寝)やutouto(うとうと)などの表現を生み出したのではないかと思われます。potapota(ぽたぽた)、potupotu(ぽつぽつ)、potopoto(ぽとぽと)が存在するようなものでしょう。uttori(うっとり)も、もともと寝ている様子や寝ぼけている様子を表し、そこから意味がずれていったのではないかと思われます。

ちなみに、uzu(渦)の古形はudu(渦)であり、やはり根底には「水」がありそうです。

oru(下る、降る)の語源の考察で見たように、oru(下る、降る)の語源が「水」であり、ɸuru(降る)の語源が「水」であり、sagaru(下がる)の語源が「水」であり、kudaru(下る)の語源が「水」であるならば、otu(落つ)の語源も「水」である可能性が極めて高いです。

どちらも本ブログで頻繁に登場する言語群ですが、古代北ユーラシアで水のことを(A)のように言っていた言語群と、水のことを(B)のように言っていた言語群を思い出しましょう。

(A)

mark-、mirk-、murk-、merk-、mork-(mar-、mir-、mur-、mer-、mor-、mak-、mik-、muk-、mek-、mok-)

bark-、birk-、burk-、berk-、bork-(bar-、bir-、bur-、ber-、bor-、bak-、bik-、buk-、bek-、bok-)

park-、pirk-、purk-、perk-、pork-(par-、pir-、pur-、per-、por-、pak-、pik-、puk-、pek-、pok-)

wark-、wirk-、wurk-、werk-、work-(war-、wir-、wur-、wer-、wor-、wak-、wik-、wuk-、wek-、wok-)

vark-、virk-、vurk-、verk-、vork-(var-、vir-、vur-、ver-、vor-、vak-、vik-、vuk-、vek-、vok-)

(B)

mat-、mit-、mut-、met-、mot-

bat-、bit-、but-、bet-、bot-

pat-、pit-、put-、pet-、pot-

wat-、wit-、wut-、wet-、wot-

vat-、vit-、vut-、vet-、vot-

※時に語頭の子音が脱落して、urk-、ork-のような語が生じたり、ut-、ot-のような語が生じたりします。

(A)の言語群は、朝鮮語mul(水)、ツングース諸語のエヴェンキ語mū(水)、ナナイ語muə(水)ムウ、満州語mukə(水)ムク、アイヌ語wakka(水)(推定古形は*warkaあるいは*walka)などが属すると見られる言語群です。インド・ヨーロッパ語族に英語のmark(印)(かつては境を意味していた)のような語があったり、ウラル語族にフィンランド語のmärkä(濡れている)マルカのような語があったりするのを見ればわかるように、(A)の言語群は北ユーラシアに広く分布していた言語群です。

東アジアの人々の本質、アフリカから東アジアに至る二つの道の記事でお話ししたように、アフリカから中東に出て、そこから中央アジアを経由して東アジアにやって来た人々と、東南アジアを経由して東アジアにやって来た人々がいました(図は上記記事のGoebel 2007の図を再掲)。

4万年前の東アジアの記事でもお話ししたように、当時先進的だったのは、中東から中央アジアを経由して東アジアにやって来た人々であり、これらの人々の言語は、人類の言語の歴史を考えるうえで大変注目されます。地図からわかるように、中央アジアのバルカシュ湖(地図中に名前は記されていませんが、中東からバイカル湖に向かう途中にある湖で、中央アジアでは最大の湖です)のあたりと、シベリアのバイカル湖のあたりが、北ユーラシア・東アジアへの進出の重要な拠点になりました。

このように、北ユーラシア・東アジアに進出する人類の重要な拠点となった湖が二つあり、その一つはバルカシュ湖(Lake Balkhash)と呼ばれ、もう一つはバイカル湖(Lake Baikal)と呼ばれています。当然、このBalkhashとBaikalにも語源があるはずです。Balkhashのほうは、古代北ユーラシアで水を意味したmark-、bark-、park-、wark-、vark-のような語から来たと考えてよいでしょう。

Baikalのほうは、どうでしょうか。Baikalは難問です。筆者は、北ユーラシアの言語や地名と照らし合わせながら、Baikalのbaiの部分とkalの部分は別々の語源を持っているのではないかと考えています。Baikalの語源はここでは見送りますが、バイカル湖東部にバルグジン川(Barguzin River)、バルグジン湾(Barguzin Bay)、バルグジン山脈(Barguzin Range)があり、バイカル湖周辺に水のことをbark-のように言う人々がいたことは確実です。

※近くを流れているトゥルカ川(Turka River)やウダ川(Uda River)などの河川名も目を引きます。水を意味するturkaのような語が横を意味するようになり、手・腕を意味する*tukaが生まれたり、頬を意味するturaが生まれたりします。手・腕を意味した*tukaは、tuka(柄)、tukamu(掴む)、tukamaru(捕まる)、tukamaeru(捕まえる)などになっており、頬を意味したturaはtura(面)になっています。バイカル湖の右下の地域は要注意です。

ヨーロッパ方面で最大の規模を誇り、モスクワとサンクトペテルブルクの間からカスピ海までを流れるヴォルガ川(Volga River)の語源も、古代北ユーラシアで水を意味したmark-、bark-、park-、wark-、vark-のような語と関係がありそうです。

こうして見ると、(A)の言語群は、中東から中央アジア、中央アジアから北ユーラシアに広がっていった人々の言語から来ている可能性が高いです。ヨーロッパで孤立しているバスク語のur(水)や、北ユーラシアの真ん中で孤立しているケット語のulj(水)ウリィなどを見ても、その可能性が高いです。しかし、いろいろと謎も残ります。

まず気になるのは、(A)の言語群は(B)の言語群と系統関係があるのかどうかという問題です。

インド・ヨーロッパ語族の英語water(水)、ヒッタイト語watar(水)のような語、ウラル語族のフィンランド語vesi(水)(組み込まれてved-、vet-)、ハンガリー語víz(水)ヴィーズのような語、そして日本語のmidu(水)は(B)の言語群に属するので、これは非常に気になる問題です。日本語が、水のことをmat-、mit-、mut-、met-、mot-のように言う言語に囲まれていたことは、本ブログで示している通りです。

もう一つ気になるのは、現在北ユーラシアに残っている言語とアメリカ大陸のインディアンの言語から、かつて北ユーラシアに水のことをjark-、jirk-、jurk、jerk-、jork-(jar-、jir-、jur-、jer-、jor-、jak-、jik-、juk-、jek-、jok-)(jは日本語のヤ行の子音)のように言う言語群があったと推定されるが、(A)の言語群はこの言語群と系統関係があるのかどうかという問題です。

水のことをjark-、jirk-、jurk、jerk-、jork-(jar-、jir-、jur-、jer-、jor-、jak-、jik-、juk-、jek-、jok-)のように言う言語群が存在した時代はとても古く、例を少し示すと、tʃark-、tʃirk-、tʃurk、tʃerk-、tʃork-(tʃar-、tʃir-、tʃur-、tʃer-、tʃor-、tʃak-、tʃik-、tʃuk-、tʃek-、tʃok-)のような形からtark-、tirk-、turk、terk-、tork-(tar-、tir-、tur-、ter-、tor-、tak-、tik-、tuk-、tek-、tok-)のような形が生まれたり、njark-、njirk-、njurk、njerk-、njork-(njar-、njir-、njur-、njer-、njor-、njak-、njik-、njuk-、njek-、njok-)のような形からnark-、nirk-、nurk、nerk-、nork-(nar-、nir-、nur-、ner-、nor-、nak-、nik-、nuk-、nek-、nok-)のような形が生まれたりしています。

人類は少なくとも45000年前には北ユーラシアに現れており、そこからの言語の歴史は壮大で複雑です。上に述べた問題も、すぐに結論が出せない大きな問題です。しかし、そのような大きな問題を立てることはできるようになってきました。問題は山のようにありますが、少しずつ人類の言語の歴史を明らかにしていきましょう。

 

参考文献

Goebel T. 2007. The missing years for modern humans. Science 315(5809): 194-196.