人類学で注目されるアンダマン諸島の人々、南アジアと東南アジアの覆い隠された歴史

前回の記事では、アンダマン諸島が出てきました。アンダマン諸島なんて聞いたことがないという方も多いと思うので、少し説明しておきます(図はThangaraj 2003より引用)。

地図を見ればわかるように、アンダマン諸島はミャンマーの南方に位置し、現在ではインド領になっています。南アジアと東南アジアの境に近い微妙な位置です。

アンダマン人の外見は、南アジアの人々とも東南アジアの人々ともいくらか異なり、アフリカっぽいところもあります。アンダマン人の言語は、南アジアと東南アジアのどの言語にも似ていません。

ちなみに、アンダマン諸島の南にあるニコバル諸島には、典型的な東南アジアの人々が住み、ベトナム語やクメール語(カンボジアの主要言語)と類縁関係を持つ言語を話しています。

アンダマン人は、遠い昔にアフリカから南アジアあるいは東南アジアまでやって来て、その後孤立してしまった人たちではないかと考えられました。アフリカからオーストラリア・パプアニューギニアまで行った人々がいたが、その一部がアンダマン諸島に残ったのではないかと考えられました。アフリカ→中東→南アジア→東南アジア→オーストラリア・パプアニューギニアというルートはよく知られていたので、そのような考えが提示されたのは当然といえます。

しかし、上の考えにはいろいろと問題があります。アンダマン諸島はごく小さな領域であり、アンダマン人のY染色体DNAおよびミトコンドリアDNAはほとんどバリエーションがありません。Y染色体DNAはD系統一色です。ミトコンドリアDNAはM31系統とM32系統の二つです。Y染色体DNAもミトコンドリアDNAもわけありです。

アンダマン人のY染色体DNAはD系統一色ですが、オーストラリア・パプアニューギニア方面にはD系統は全然見られません。オーストラリア・パプアニューギニア方面には、C系統とK系統は多く見られますが(K系統はF系統の一下位系統です)、D系統は全然見られないのです。アフリカからオーストラリア・パプアニューギニアに向かった人々の一部がアンダマン諸島に残ったというのは本当かと疑いたくなります。

ミトコンドリアDNAのほうからも、そのような疑いを強める証拠が出てきました(図はWang 2011より引用)。

ミトコンドリアDNAのM系統は、アフリカの外で生じ、主に南アジアおよびそれより東の諸地域(東南アジア、オセアニア、東アジア、シベリア、アメリカ大陸)に広がりました。特に南アジアと東南アジアには、M系統の下位系統がたくさん存在し、その中にM31系統とM32系統があります。

M31系統は、アンダマン諸島だけでなく、インド、ネパール、ミャンマー、中国にも見られること、そしてM31系統の内部構造が上の図のようになっていることがわかってきました。アンダマン諸島のミトコンドリアDNAのタイプ(紫色)が、インド、ネパール、ミャンマー、中国のミトコンドリアDNAのタイプの中に埋め込まれているのがわかるでしょうか。

M32系統も、M31系統と大体同じ事情です。M系統の一下位系統としてM32’56系統があり、このM32’56系統がM32系統とM56系統に分かれています。M32系統はアンダマン諸島と東南アジアで見つかっており(Eng 2014)、M56系統は南アジアで見つかっています(Chandrasekar 2009)。

アンダマン人の先祖が南アジア・東南アジアの大陸部からアンダマン諸島に渡ったのは、人類が初めて南アジア・東南アジアに達した時代ではなく、いくらか後の時代である可能性が高くなってきました。総じて、M31系統もM32系統も大陸にほとんど残っておらず、アンダマン人の先祖が大陸を離れてから大陸が大きく様変わりしたことが窺えます。

なぜY染色体DNAのD系統はオーストラリア・パプアニューギニア方面に見られないのか

まず、東南アジアの地形が現在と大きく異なっていたことを思い出しましょう(図はScotese 2014より引用)。

※この地図は、約2万年前のLast Glacial Maximum(最終氷期最盛期)の頃の世界地図です。人類がアフリカから東南アジアにやって来た5万年前頃は、もう少し海面が高いです。

東南アジアは、スンダランドという巨大な陸になっていました。その向かい側には、オーストラリアとパプアニューギニアがつながったサフルランドという巨大な陸がありました。スンダランドとフィリピンは、くっつきそうでくっついていなかったようです(Robles 2014)。

オーストラリア(アボリジニ)とパプアニューギニアには、Y染色体DNAのC系統とK系統が多く見られます。フィリピンのネグリトと呼ばれる原住民にも、C系統とK系統が多く見られます(Delfin 2011)。これらは、アフリカ→中東→南アジア→東南アジアと進んできた人の流れを示しています。スンダランドの海岸沿いを進み、スンダランドの先端からサフルランドとフィリピンに渡ったと考えられます。

ここで注目すべきなのは、Y染色体DNAのD系統がオーストラリア、パプアニューギニア、フィリピンに全くと言ってよいほど見られないということです(フィリピンでD系統の独自の下位系統がほんの数例見つかっているだけです(Y-DNA D Haplogroup Project – Y-DNA Classic Chart))。オーストラリア、パプアニューギニア、フィリピンでそうであるということは、スンダランドの海岸沿いを進んでスンダランドの先端に達した人間集団にD系統は全くあるいはほとんど存在しなかったと考えられそうです。

D系統がスンダランドの海岸沿いを進まなかったとすると、どのような展開が考えられるでしょうか。実は、大変重要な人骨の発見がありました(Demeter 2012)。この人骨は、ラオスのTam Pa Ling(タムパリン)で発見され、現生人類のものに間違いなく、少なくとも46000年前より古いと推定されました。50000~45000年前頃からオーストラリア・パプアニューギニア方面に人間の暮らしの形跡が現れ始めるので、それより前に人類が東南アジアに到達していたことは確実になっていましたが、それでも、ラオスのタムパリンの人骨の発見は驚きでした。なにが驚きだったかというと、海辺での生活からほど遠い内陸の奥深くから人骨が出てきたことです。

考えてみると、Y染色体DNAのD系統の豊かなバリエーションが見られるチベットのあたりはもろに内陸です。海辺とは正反対と言ってよい環境です。チベットのD系統(D-M15、D-P47、D*(まだよくわかっていないもの))、日本のD系統(D-M55)、アンダマン諸島のD系統(D-Y34637)は非常に古くに分かれており、最新の遺伝学の見積りでも50000年以上前に分かれたと推定されています(Mondal 2017)。D系統は50000年以上前に南アジアから東南アジアへの入口に来ていたのです。しかし、スンダランドの海岸に沿って南に進むことはしなかったのです。どうしたのでしょうか。先ほどの世界地図を見ればわかりますが、東南アジアの入口からスンダランドの海岸に沿って南に進むのも一つの道ですが、内陸を突っ切って東に進むのも一つの道です。ラオスのタムパリンで発見された人骨はまさに、内陸を突っ切って進む人々がいたことを示しています。D系統がこのような進路を取ったとすると、D系統がオーストラリア・パプアニューギニア方面に見られないことが納得できます。スンダランドの海岸を巡るのは大きな旅です。この大きな旅を経て東アジアにやって来た人々もいれば、この大きな旅を経ないで東アジアにやって来た人々もいたということです。アンダマン人の先祖は、南アジアから東南アジアへの入口の近くでしばらく過ごした後で、アンダマン諸島に渡ったのでしょう。

もはや一本の流れでは説明できない東南アジアルート

4万年前の東アジアの記事などで、中東から中央アジア・シベリアを通って東アジアにやって来た人々と、中東から南アジア・東南アジアを通って東アジアにやって来た人々がいたことをお話ししてきました。要するに、中央アジアルートと東南アジアルート、あるいは北方ルートと南方ルートです。

人類が北方ルートと南方ルートの両方から東アジアにやって来たことがわかったのは、一つの前進です。しかし、北方ルートを単純な一本の流れ、南方ルートを単純な一本の流れと考えれば話は済むのかというと、そうもいきません。ここでは、南方ルートに焦点を当てましょう。

アフリカから始まる人類の歴史(Y染色体ハプログループCの研究)の記事で示しましたが、Y染色体DNAのC系統、D系統、F系統が東アジアの歴史に関係してきます。F系統は巨大な系統で、この系統からG系統、H系統、I系統、J系統、K系統が生まれました。F系統に属するが、G系統、H系統、I系統、J系統、K系統に向かう変異を起こしていない男性が少し残っており、それらの男性をF*と表します。

このうちのG系統、H系統、I系統、J系統は西ユーラシアにとどまり、K系統が東(オセアニア、東南アジア、東アジア、シベリア)に盛んに進出しました。F*グループは、現代では主に南アジアで見られますが、東南アジアと中国でもたまに見つかります。F*グループは東アジアにほんの少し進出した程度でしょう。

そのようなわけで、基本的に東アジアに進出してきたのは、C系統、D系統、K系統ということになります。オーストラリア・パプアニューギニア方面に、C系統とK系統は多く見られるが、D系統は全然見られないというのは、すでに述べた通りです。南アジアから東南アジアへの入口からスンダランドの海外沿いを進んだ人間集団にはD系統が全くあるいはほとんど存在せず、内陸に進んだ人間集団にはD系統が多かったわけです。このことを「一本の人の流れ」で説明するのは困難です。

アフリカ・中東→南アジア→東南アジアと進む一本の人の流れを想像してください。そこにはC系統もD系統もK系統も十分に存在します。東南アジアの入口に辿り着いたところで、一本の流れが二本の流れに分かれます。そのうちの一本の流れはほぼC系統とK系統だけで、もう一本の流れはD系統が支配的でした。確率はゼロではありませんが、考えづらいです。

海岸沿いを進むことに徹しながら東南アジアに至った人の流れと、海岸沿いを進むことにこだわらずに東南アジアに至った人の流れがあり、これらの流れの間の交流が(少なくともY染色体DNAの観点からは)限定的であったと考えたほうがはるかに自然です。C系統とK系統はCF系統から来ていますが、D系統はDE系統から来ており、発生場所にも隔たりがあったでしょう。C系統とK系統が互いに密に存在し、D系統が離れて存在していた可能性はあります。

南方ルートをもはや一本の人の流れで説明できないという問題が生じてきましたが、ほかにも考えなければならない問題があります。前々回と前回との記事でお話ししたように、Y染色体DNAのC系統とD系統は古くに東アジアに入っています。しかし、現在の東アジアではO系統が最大勢力です。そして、O系統と姉妹関係にあるN系統が北ユーラシアに大きく広がっています(Rootsi 2007の図を再掲)。

黄河文明と長江文明がO系統の勢力拡大と関係していること、遼河文明がN系統の勢力拡大と関係していることは間違いありません。東アジアの歴史を理解するには、O系統とN系統の理解が欠かせません。

ここで注意しなければならないのは、「O系統」と「N系統」という表記です。アフリカから始まる人類の歴史(Y染色体ハプログループCの研究)の記事で説明したように、Y染色体DNAのC系統、D系統、F系統がアフリカ以外の世界に広がっていきました。この中で、F系統は圧倒的に人数が多く、分布域が広いので、F系統の下位系統の記述には様々なアルファベット文字が用いられています。例えば、F系統の一下位系統がK系統で、K系統の一下位系統がNO系統で、NO系統の下位系統としてN系統とO系統があります。N系統とO系統の話というのは、K系統の内部の話、さらには、F系統の内部の話なのです。C系統とD系統に分類されるY染色体は歴史が深いが、N系統とO系統に分類されるY染色体は歴史が浅いと誤解してはいけません。N系統とO系統を見たら、K系統の問題だな、F系統の問題だなと認識しなければならないのです。アルファベット表記に惑わされないようにしましょう。

オーストラリア(アボリジニ)とパプアニューギニアにC系統に加えてK系統が見られるように、K系統も古くから東に進出しています。O系統とN系統は、その下位系統です。黄河文明、長江文明、遼河文明の起源と深く関係しますが、K系統のある下位系統がどのような過程を経て勢いづいたのか考えなければなりません。これもまた、東アジアの歴史における最重要問題の一つなのです。

 

参考文献

Chandrasekar A. et al. 2009. Updating phylogeny of mitochondrial DNA macrohaplogroup m in India: dispersal of modern human in South Asian corridor. PLoS One 4(10): e7447.

Delfin F. et al. 2011. The Y-chromosome landscape of the Philippines: Extensive heterogeneity and varying genetic affinities of Negrito and non-Negrito groups. European Journal of Human Genetics 19(2): 224-230.

Demeter F. et al. 2012. Anatomically modern human in Southeast Asia (Laos) by 46 ka. Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America 109(36): 14375-14380.

Eng K. 2014. Complete mitochondrial DNA genome variation in Peninsular Malaysia. Doctoral dissertation, University of Leeds.

Mondal M. et al. 2017. Y-chromosomal sequences of diverse Indian populations and the ancestry of the Andamanese. Human Genetics 136(5): 499-510.

Robles E. et al. 2015. Late quaternary sea-level changes and the palaeohistory of Palawan Island, Philippines. Journal of Island and Coastal Archaeology 10(1): 76-96.

Rootsi S. et al. 2007. A counter-clockwise northern route of the Y-chromosome haplogroup N from Southeast Asia towards Europe. European Journal of Human Genetics 15(2): 204-211.

Scotese C. R. 2014. Atlas of Neogene Paleogeographic Maps (Mollweide Projection), Maps 1-7, Volume 1, The Cenozoic, PALEOMAP Atlas for ArcGIS, PALEOMAP Project, Evanston, IL.

Thangaraj K. et al. 2003. Genetic affinities of the Andaman Islanders, a vanishing human population. Current Biology 13(2): 86-93.

Wang H. et al. 2011. Mitochondrial DNA evidence supports northeast Indian origin of the aboriginal Andamanese in the Late Paleolithic. Journal of Genetics and Genomics 38(3): 117-122.

アイヌ人と沖縄人のDNAを比べると・・・(Y染色体ハプログループDの研究)

Y染色体DNAのD系統について

Y染色体DNAのD系統(Y染色体ハプログループD)は、日本人のDNAの話をする時に盛んに注目されてきた系統です。日本全体では、O系統が一番多く、D系統が二番目に多くなっています(Hammer 2006ではO系統51.8%、D系統34.7%、Nonaka 2007ではO系統54.4%、D系統39.2%)。

D系統が注目されてきたのは、O系統が日本の近隣地域によく見られるのに対して、D系統が日本の近隣地域にほとんど見られないからです(図はWang 2013より引用)。

D系統の分布は独特です。チベット側と日本側に分かれています。昔の人々は歩いて移動していたわけですから、かつてはチベットと日本の間の領域にもD系統がたくさん存在したはずです。D系統が支配的だった空間が、O系統が支配的な空間に変わったことが窺えます。農耕の誕生・発展(黄河文明と長江文明)が大きく影響したことは間違いないでしょう。

ちなみに、O系統とD系統の割合は日本内部でも地域差があります(Hammer 2006、Nonaka 2007)。明らかにO系統が優勢なのは、西日本(沖縄を除く)の日本人です。西日本(沖縄を除く)の日本人→東日本の日本人→沖縄の日本人→アイヌ人の順にD系統が強くなっていきます。大陸から日本に農耕を伝えた人々の遺伝学的影響は、特に西日本(沖縄を除く)において顕著であるということです。

D系統はチベットと日本によく見られますが、チベットに見られるD系統と日本に見られるD系統は非常に遠い関係にあります。

前回の記事で、Y染色体DNAのC系統、D系統、F系統がアフリカ以外の世界に広がっていったことをお話ししました。しかし、アフリカの外の男性のY染色体DNAは、ほとんどがF系統です。F系統は、人数が多く、分布域が広いので、G、H、I、J、K・・・のような細かな下位系統に分類されています。それに対して、D系統は、人数が少なく、分布域が狭いので、そのように細かく分類されていません。

例えば、ヨーロッパによく見られるR系統とインディアンによく見られるQ系統の隔たりより、チベットによく見られるD系統と日本によく見られるD系統の隔たりのほうがずっと大きいです。ここでいう隔たりとは、分かれてから経過した時間のことです。

D系統は世界の中ですっかり稀少になっており、わずかな手がかりからその歴史を探らなければなりません。D系統の内部を細かく調べるための分析手法として、Short Tandem Repeatの話をします。Short Tandem Repeatは、生物学・人類学における重要な分析手法の一つです。

Short Tandem Repeatを理解する

Short Tandem Repeat(ショートタンデムリピート)は、Microsatellite(マイクロサテライト)と呼ばれることもあります。

Y染色体DNAは、他のDNAと同じように、アデニンA、チミンT、グアニンG、シトシンCという四種類の物質が列を作っています。延々と続く長い列ですが、ところどころにある配列が繰り返されている箇所があります。

(注意! 以下では、Short Tandem Repeatのポイントをすばやく伝えるために、話を実際より単純にしてあります。)

例えば、上の図ではTCTAという配列が10回繰り返されています。このような配列の繰り返しを、Short Tandem Repeatといいます。なぜShort Tandem Repeatが重要かというと、配列が繰り返されている箇所は、その他の箇所より変異(変化)しやすいのです。上の図ではTCTAという配列が10回繰り返されていますが、この10回という繰り返し回数が、遠くない将来に11回になったり、9回になったりします(繰り返し回数が1回増えたり1回減ったりするのが普通です)。さらに、11回だった繰り返し回数が12回になることもあるし、9回だった繰り返し回数が8回になることもあります。

上の図のTCTAという配列が繰り返されている領域を「繰り返し領域1」と呼ぶことにしましょう。同じようになんらかの配列が繰り返されている領域を次々に見つけ、それらに「繰り返し領域2、繰り返し領域3、繰り返し領域4、繰り返し領域5、繰り返し領域6、繰り返し領域7」と名前をつけます。繰り返し領域1ではTCTAという配列が何回か繰り返されている、繰り返し領域2では別の配列が何回か繰り返されている、繰り返し領域3ではさらに別の配列が何回か繰り返されている・・・という具合です。

繰り返し領域1で配列が10回繰り返されている
繰り返し領域2で配列が10回繰り返されている
繰り返し領域3で配列が10回繰り返されている
繰り返し領域4で配列が10回繰り返されている
繰り返し領域5で配列が10回繰り返されている
繰り返し領域6で配列が10回繰り返されている
繰り返し領域7で配列が10回繰り返されている

このようになっている場合に、それを「10‒10‒10‒10‒10‒10‒10」と書き表すことにします。D系統のY染色体DNAを持つ日本人男性10名を集め、繰り返し領域1~7を調べたところ、以下のようになっていたとしましょう。

日本人男性1~4は「10‒10‒10‒10‒10‒10‒10」のタイプです。日本人男性5のタイプは、日本人男性1~4のタイプと比べて、領域2で数値が1減っています。日本人男性6のタイプは、日本人男性1~4のタイプと比べて、領域3で数値が1減っています。日本人男性7のタイプは、日本人男性1~4のタイプと比べて、領域3で数値が1増えています。日本人男性8のタイプは、日本人男性1~4のタイプと比べて、領域5で数値が1増えています。

日本人男性5のタイプ、日本人男性6のタイプ、日本人男性7のタイプ、日本人男性8のタイプは、日本人男性1~4のタイプから1ステップずれていますが、ずれ方がそれぞれに異なります。日本人男性1~8は、以下のように書き表すことができます。

日本人男性9と日本人男性10はどうでしょうか。日本人男性9のタイプと日本人男性10のタイプは、日本人男性8のタイプから1ステップずれているタイプです。日本人男性9と日本人男性10は、以下のように書き表すことができます。

このように、Short Tandem Repeatを調べると、D系統のY染色体DNAを持つ日本人男性同士が互いにどのような関係にあるのか明らかにすることができます。Y染色体DNAの系統分類は繰り返し領域以外で行われますが、繰り返し領域も調べることによって細かな区別が可能になります。

大変興味深いことに、小金渕佳江氏らがD系統のY染色体DNAを持つアイヌ人と沖縄人のShort Tandem Repeatを調べています(図はKoganebuchi 2012より引用)。

上に説明した要領で、アイヌ人男性と沖縄人男性のY染色体DNAのShort Tandem Repeatが調べられ、それらの男性が線で結ばれています。赤い数字は、何ステップ隔たっているかを示しています。YAP(+)と書いてある側が、Y染色体DNAのD系統のデータです。アイヌ人も沖縄人も含めて、日本に見られるD系統は、ほぼすべてD-M55という下位系統です。アイヌ人にD-M55系統が多く見られる、沖縄人にD-M55系統が多く見られるというところで話が終わってしまうことが多いですが、小金渕氏らの研究はさらに踏み込んでShort Tandem Repeatまで調べています。

見ての通り、Short Tandem Repeatのバリエーションはアイヌ人と沖縄人で大きく違います。沖縄人がアイヌ人に対してバリエーションの豊かさを見せています。沖縄人の調査人数に比べてアイヌ人の調査人数が少ないということもありますが、それを差し引いても、大きな差がありそうです。D系統は南から北へ広がっていった(つまり南にいた集団の一部が北に広がっていった)のではないかと思わせるデータです。

H. Shi氏らが東ユーラシアでD系統の男性のShort Tandem Repeatを広く調べていますが、チベットのD系統もとても北(中央アジアやモンゴル)から来たようには見えず、南から来たと考えざるをえません(Shi氏らが指摘しているように、Short Tandem Repeatに基づいて図を描いた時に、中央アジアやモンゴルのD系統の男性はことごとく、中心ではなく、末端に位置します。D系統に関しては、中央アジアやモンゴルからチベットに広がっているのではなく、チベットから中央アジアやモンゴルに広がっているのです)(Shi 2008)。

実は、チベットと日本のほかにもう一つ、D系統が多く見られる場所があります。それは、インド洋東部に浮かぶアンダマン諸島です(図はWikipediaより引用)。

南から広がったように見える日本のD系統、南から広がったように見えるチベットのD系統、そしてアンダマン諸島に残るD系統・・・。こうなると、D系統はアフリカから中東に出て、中東から南アジアを通って東南アジアに達したのではないかと考えたくなります。これは、どこかで見たルートです。そうです、前回の記事でお話ししたC系統と同じルートです。しかし、不思議なことに、古くに東南アジアに達したC系統はオーストラリア・パプアニューギニア方面によく見られますが、同じく古くに東南アジアに達したはずのD系統はオーストラリア・パプアニューギニア方面に全然見られません。この問題はほとんど触れられないまま現在に至っていますが、東アジアの歴史を考えるうえで重要な問題と思われます。なぜそのようになっているのでしょうか。

 

補説

ついにアフリカで発見されたD系統

Y染色体DNAのD系統は東ユーラシアでしか見つかっていなかったため、D系統はアフリカで生じたのか、西ユーラシアで生じたのか、東ユーラシアで生じたのかという問題がありました。しかし、M. Haber氏らの研究によって、D系統のY染色体DNAを持つアフリカ(ナイジェリア)の男性がいることが明らかにされました(Haber 2019)。正確に言うと、これらの男性のY染色体DNAは、チベット、アンダマン諸島、日本などのD系統に極めて近いが、チベット、アンダマン諸島、日本などのD系統に共通しているM174という変異を持っていませんでした。M174という変異が起きる少し前に分かれて、そこからM-174という変異を経験しなかったのが今回のタイプ、M-174という変異を経験したのがチベット、アンダマン諸島、日本などのタイプということです。

今回の発見により、D系統はM174という変異ではなく、CTS3946という変異によって定義されるようになりました。D系統と姉妹関係にあるE系統がアフリカで生じていることを考えると、上のCTS3946という変異はアフリカで起き、M174という変異はアフリカの外で起きた可能性が濃厚です。謎めくD系統の研究が一歩前進しました。

 

参考文献

Haber M. et al. 2019. A rare deep-rooting D0 African Y-chromosomal haplogroup and its implications for the expansion of modern humans out of Africa. Genetics 212(4): 1421-1428.

Hammer M. F. et al. 2006. Dual origins of the Japanese: Common ground for hunter-gatherer and farmer Y chromosomes. Journal of Human Genetics 51(1): 47-58.

Koganebuchi K. et al. 2012. Autosomal and Y-chromosomal STR markers reveal a close relationship between Hokkaido Ainu and Ryukyu islanders. Anthropological Science 120(3): 199-208.

Nonaka I. et al. 2007. Y-chromosomal binary haplogroups in the Japanese population and their relationship to 16 Y-STR polymorphisms. Annals of Human Genetics 71(4): 480-495.

Shi H. et al. 2008. Y chromosome evidence of earliest modern human settlement in East Asia and multiple origins of Tibetan and Japanese populations. BMC Biology 6: 45.

Wang C. et al. 2013. Inferring human history in East Asia from Y chromosomes. Invetigative Genetics 4(1): 11.

アフリカから始まる人類の歴史(Y染色体ハプログループCの研究)

人間のY染色体DNAが調べられるようになって年数が経過し、その分類も精緻になってきました。Y染色体DNAは、父から息子へ代々伝わるものです。日本ではY染色体DNAのO系統、D系統、C系統が多く見られますが、これらについて考察する前に、まずはすべての系統のおおもとであるアフリカのA系統に目を向けましょう(専門的には、ハプログループA、ハプログループC、ハプログループD、ハプログループOのように言いますが、本ブログでは一般の方にとって見慣れない専門用語を避けて、A系統、C系統、D系統、O系統のように言います)。

最初は、A系統の男性しかいませんでした(図はA系統の男性が集まっているところです)。

A系統のある男性に変異が起きて、BT系統が生まれます。

さらに、BT系統のある男性に変異が起きて、CT系統が生まれます。

※正確に言うと、A系統の一下位系統からBT系統が生まれ、BT系統の一下位系統からCT系統が生まれましたが、ここでは単純に表現してあります。

ここまでは、アフリカで起きたことです。アフリカ以外のすべての男性のY染色体DNAは、このCT系統から来ています。CT系統から、複雑になっていきます。CT系統から、以下の系統が生まれました。

CT系統からDE系統とCF系統が生まれました。そして、DE系統からD系統とE系統が生まれ、CF系統からC系統とF系統が生まれました。

DE*という表記について説明しておきましょう。CT系統から変異を経てDE系統が生まれましたが、DE系統の男性の集まりを考えてください。

このうちの左端の男性にある変異が起き、D系統が生まれたとしましょう。そして、右端の男性に別の変異が起き、E系統が生まれたとしましょう。すると、D系統になるための変異も、E系統になるための変異も起きていない男性が残ります。実際に、そのような男性が少し残っているようなのです。そのような男性をDE*と書き表しています。

読者の方は、DE系統と同様のことがCF系統にもあったのではないかと考えるでしょう。もっともです。CT系統から変異を経てCF系統が生まれましたが、CF系統の男性の集まりを考えてください。

このうちの左端の男性にある変異が起き、C系統が生まれたとしましょう。そして、右端の男性に別の変異が起き、F系統が生まれたとしましょう。すると、C系統になるための変異も、F系統になるための変異も起きていない男性が残ります。実際に、そのような男性は存在したはずです。しかし、残っていないのです。そのため、上の系統図に「DE*」という表記はありますが、「CF*」という表記はないのです。

これまでに蓄積されているデータからすると、CT系統からDE系統への変異はアフリカで起きた可能性が高く、CT系統からCF系統への変異はアフリカの外で起きた可能性が高いです。アフリカにいたCT系統のある男性に変異が起きてDE系統が生まれ、アフリカの外にいたCT系統のある男性に変異が起きてCF系統が生まれたということです。

上の系統図のE系統、DE*グループ、D系統、C系統、F系統の分布について述べておきましょう。

E系統の分布は、圧倒的にアフリカに偏っています。ヨーロッパと中東に見られるE系統は、アフリカで生まれたE系統がかなり後になってアフリカの外に出たと考えられるものです。

F系統の分布は、圧倒的にアフリカの外に偏っています。アフリカに見られるF系統は、アフリカの外で生まれたF系統がかなり後になってアフリカに入ったと考えられるものです。アフリカの外の男性のY染色体DNAは、大部分がF系統です。ヨーロッパで支配的なR系統も、東アジア・東南アジアで支配的なO系統も、アメリカ大陸のインディアンで支配的なQ系統も、F系統の下位系統です。

DE*グループは、チベットで報告されていますが、報告例がごくわずかで、まだその存在が確実に認められていません(Shi 2008)。

残るは、C系統とD系統です。日本およびその周辺地域の遠い過去からの歴史を考えるうえで、まず重要になるのが、このC系統とD系統です。F系統と違って、C系統とD系統はアフリカの外で限定された特徴的な分布を示しています。その限定された特徴的な分布は、人類の歴史についてなにか物語っているようです。話の都合上、C系統から始めます。

Y染色体DNAのC系統について

Y染色体DNAのC系統に関しては、H. Zhong氏らの優れた研究があります(Zhong 2010)。この研究は、Y染色体DNAのC系統が世界にどのように分布しているか調べ、C系統のかつての拡散経路を明らかにしたものです。Zhong氏らの結論を先に示します(図はZhong 2010より引用)。

現在、Y染色体DNAのC系統は、以下の二つの地域で多く見られます。

・オーストラリアとその他のオセアニア地域

・東ユーラシアの北のほうを中心として、一方では中央アジアに、他方では北米北西部にかけて(東ユーラシアの北のほうにC系統がほとんど分布していないところがありますが、これはN系統が支配的なヤクート人のいるところです)

Zhong氏らは、C系統は中東から南アジアを通って東南アジアに進み、そこからオセアニア方面と東アジア方面に分かれたと考えています。Zhong氏らは、C系統の以下の下位系統の分布を調べています。

※Zhong氏らの論文では、旧表記が用いられています。C-M8=旧C1、C-M217=旧C3、C-M347=旧C4、C-M38=旧C2、C-M356=旧C5、C-P55=旧C6です。C*は、C-M8~C-P55のどれになる変異も起こしていないことを意味します。

Zhong氏らの研究は、2010年に発表されたものですが、DNAの研究・調査が急速に進んでおり、若干のアップデートが必要です。

上の下位系統の中でC-M347は、オーストラリア(アボリジニ)に非常に多く見られる系統です。C-M38は、オーストラリア以外のオセアニアに多く見られる系統です。上の下位系統の中でC-M347とC-M38は近い関係にありますが、両者の分岐はとても古いです。オーストラリアの住民とオーストラリア以外のオセアニアの住民が早くに分かれたことを示しています。

このC-M347とC-M38に系統上やや近いのが、C-M356です。C-M356は、インド周辺でわずかに見られる系統です。C-M347、C-M38、C-M356は、アフリカから中東に出て、中東→南アジア→東南アジアと進み、オーストラリアとそれ以外のオセアニアに分かれた人の流れを示しています。C-P55は、パプアニューギニアでわずかに報告されている系統です。

残るは、C-M8とC-M217です。実は、日本人に見られるC系統がこのC-M8とC-M217です。C-M8とC-M217を合わせて、日本人のY染色体DNAに占める割合は10%弱です(Hammer 2006)。

C-M217は、東ユーラシアの北のほう、中央アジア、北米北西部に大きく広がっている系統です。

C-M8は、日本以外でなかなか発見されず、謎めいていましたが、中国と朝鮮半島でわずかに見つかっています(www.yfull.com/tree/C/)。C-M8系統に関しては、驚くべき発見がありました。C-M8に系統上やや近いC-V20という系統がヨーロッパとその周辺にわずかに残っていることがわかってきました(Scozzari 2012)。中東でC系統のある下位系統が生じ、この下位系統が一方でヨーロッパ方面に、他方で東アジア方面に達したことを示唆しています。当然、その下位系統はヨーロッパと東アジアの間にも存在したはずです。激しい歴史展開の中で多くの系統が消滅し、遠い系統関係を持つ系統と系統が両極で見つかるよい例でしょう。

さて、C-M8とC-M217はどのようにして今の位置に到達したのでしょうか。先の地図のように、C系統が一方ではオセアニア方面、他方では東ユーラシアの北のほうで繁栄しているのを見ると、中東からの東南アジアルートと中央アジアルートを考えたくなります。しかし、これはいささか早計なようです。

まず、一夫一妻制ではない世界の記事の話を思い出してください。

中央アジアから東に進んできた人々と、東南アジアから北に進んできた人々が混ざり合った話です。は中央アジアから東に進んできた男性、は中央アジアから東に進んできた女性、は東南アジアから北に進んできた男性、は東南アジアから北に進んできた女性です。

中央アジアからやって来た男性が力関係(権力・武力)あるいは物質的豊かさの点で東南アジアからやって来た男性より優位にあったため、上の図のような子作りが行われ、中央アジアからやって来たY染色体DNAが残ることになりました。

しかし、上の図をよく見てください。中央アジアからやって来た人数と東南アジアからやって来た人数を比べれば、東南アジアからやって来た人数のほうが断然多いのです。の男性、すなわち東南アジアからやって来た男性は子作りに参加していませんが、これらの男性はどのようなタイプのY染色体DNAを持っていたのでしょうか。東南アジアからやって来たわけですから、そのY染色体DNAはQ系統ではありえません。Q系統は、の男性、すなわち中央アジアからやって来た男性が持っていたY染色体DNAです。

東南アジアから北に進んできたの男性のY染色体DNAは、中央アジアから東に進んできたの男性のY染色体DNAに遮られて、それ以上北に進むことができません。つまり、東南アジアから北にある程度進んだものの、そこで止まってしまったY染色体DNAの系統があったのです。このY染色体DNAは何系統だったのでしょうか(もちろん、画一的だったとは限りません)。

次に、「日本列島は大陸と陸続きだった」という言い方には注意が必要の記事の話を思い出してください(図はWikipediaの図を再掲)。

アフリカから中東に出て、中東から南アジアを通って東南アジアに達する人の流れがありました。この人の流れは、海岸沿いを進んでいく人の流れです。当時の東南アジアはスンダランドという巨大な陸になっていたというのが重要なポイントです。

上の地図の左上(南アジア方面)から人がやって来て、海岸沿いを進んでいきます。スンダランドからサフルランドに渡るのも一つの道ですが、さらに海岸沿いを進んで右上(東アジア方面)に抜けていくのも一つの道です。当時の東南アジアの地形を考えると、オセアニア方面に向かうか、東アジア方面に向かうかというのは、ほんのわずかな選択の差だったのです。オセアニア方面で高い航海能力を示した人々と、東アジア方面で高い航海能力を示した人々の話をしましたが、これらの人々の出所は同じである可能性が高いです。こうなると、オセアニア方面と東アジア方面に共通しているY染色体DNAの系統が大きな関心になります。そしてオセアニア方面と東アジア方面に共通しているY染色体DNAの系統というのが、まさにC系統なのです。

アメリカ大陸のインディアンに見られるY染色体DNAのQ系統とC系統について再び考える

アメリカ大陸のインディアンに特徴的なY染色体DNAのQ系統の分布図を再び示します(Balanovsky 2017の図を再掲)。

南米のインディアンのY染色体DNAがほぼQ系統一色であることはお話ししました。しかし、南米のインディアンのY染色体DNAにも、わずかにC系統が存在します(Mezzavilla 2014)。このC系統は、C-M217に属します。しかし、ユーラシアおよび北米で知られているC-M217の各下位系統に当てはまりません。そのため、アメリカ大陸に最初に入っていった人々のY染色体DNAはほぼQ系統一色であったが、わずかにC系統(C-M217、ただし現在ユーラシアと北米で知られているタイプとは少し異なるタイプ)が存在していたのではないかと推測されています。

アメリカ大陸に最初に入っていった人々は、約2万年前のLast Glacial Maximum(最終氷期最盛期)の前にシベリアにいた人々です。この人々のY染色体DNAはほぼQ系統一色で、わずかにC系統が存在していたのではないかと思われます。LGMより前にC系統がシベリアに入ろうとしても、Q系統が大きな存在感を誇っていたわけです。南米のインディアンのY染色体DNAはそのことを示しています。その後、LGMが始まって、シベリアはほぼ住めない状態になり、ベーリング地方の人間集団と東アジアの人間集団に二分されます。LGMが終わり、16000年前頃から、北米を覆っていた氷が解け、ベーリング地方の人間集団はアメリカ大陸に入っていきます(このあたりの事情については、閉ざされていたアメリカ大陸への道およびベーリング陸橋、危ない橋を渡った人々を参照)。と同時に、ほぼ住めない状態になっていたシベリアも再び住める状態になります。LGM前のシベリアではQ系統が支配的であったが、いったん人がいなくなり、LGM後のシベリアにはC系統が突進していったと見られます。そう考えると、北米北西部でQ系統が大きく減り、C系統が大きく増えていることが理解できます。アメリカ大陸に最初に入っていった人々にはC系統はほとんど存在しなかったが、アメリカ大陸に後から入っていった人々にはC系統が多かったということです。

LGMが終わり、再び住めるようになったシベリアには、C系統だけでなく、N系統も進出していきました(変わりゆくシベリアを参照)。しかし、C系統は北米北西部に及んでいますが、N系統は北米北西部に及んでいません。C系統が東アジアから北上し始めた時期は、N系統が東アジアから北上し始めた時期より早かったのかもしれません。C系統はLGMが終わってすぐに東アジアから北上し始め、N系統はしばらく経って遼河文明が起こる頃に東アジアから北上し始めたのではないかということです。

C-M217は東ユーラシアの北のほうに大きく広がっていますが、C-M217の内部のバリエーションは、中央アジアの側では乏しく、中国東部、朝鮮、日本の側では豊かです(理解するためにはShort Tandem Repeatの知識も必要であり、これについては次回の記事で説明します)(Zhong 2010)。C-M217は、中央アジアのほうから中国東部のほうに広がったのではなく、中国東部のほうから中央アジアのほうに広がったと考えられます。中国東部のほうに存在したC-M217の一部が中央アジアのほうに広がったということです。

以上すべてを総合すると、以下のように言えそうです。

Y染色体DNAのC系統は中東から南アジアを通って東南アジアに達し、そこからオセアニア方面と東アジア方面に分かれた。東アジアにはC-M8やC-M217などのいくつかの下位系統が到達したが、中央アジアからやって来た寒冷地や内陸での暮らしに長けた男性が力関係(権力・武力)あるいは物質的豊かさの点で優位にあり、C-M8やC-M217はそれ以上北に進むことがほとんどできなかった。C-M8は、東アジア(主に日本)に少数派として残った。C-M217は、LGM前はシベリアにほとんど進出することができなかったが、LGM後はシベリアに盛んに進出し、中央アジアと北米北西部にも至った。

東アジアの歴史の根本を考えるうえで、C系統と並んで重要なのがD系統です。C系統の分布は独特ですが、D系統の分布も独特です。D系統の話に移りましょう。

 

参考文献

Balanovsky O. et al. 2017. Phylogeography of human Y-chromosome haplogroup Q3-L275 from an academic/citizen science collaboration. BMC Evolutionary Biology 17: 18.

Hammer M. F. et al. 2006. Dual origins of the Japanese: Common ground for hunter-gatherer and farmer Y chromosomes. Journal of Human Genetics 51(1): 47-58.

Mezzavilla M. et al. 2014. Insights into the origin of rare haplogroup C3* Y chromosomes in South America from high-density autosomal SNP genotyping. Forensic Science International: Genetics 15: 115-120.

Scozzari R. et al. 2012. Molecular dissection of the basal clades in the human Y chromosome phylogenetic tree. PLoS ONE 7(11): e49170.

Shi H. et al. 2008. Y chromosome evidence of earliest modern human settlement in East Asia and multiple origins of Tibetan and Japanese populations. BMC Biology 6(1): 45.

Zhong H. et al. 2010. Global distribution of Y-chromosome haplogroup C reveals the prehistoric migration routes of African exodus and early settlement in East Asia. Journal of Human Genetics 55(7): 428-435.