日本の誕生のからくり、まさかこのようにして生まれた国だったとは・・・

前回の記事では、184年に起きた黄巾の乱は鎮圧されたが、この乱の鎮圧で活躍した武将たちの存在感が高まり、皇帝の権威の失墜とともに、後漢が崩壊し始めたという話をしました。

すでに述べたように、前漢は紀元前108~107年に朝鮮半島に楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡という四つの植民地を置きました。その後、真番郡と臨屯郡は廃止され、玄菟郡は隣接する遼東地方に後退するように移動し、後漢で黄巾の乱が起きる頃には、遼東地方の玄菟郡と朝鮮半島の楽浪郡が残っていました。

(以下の記述は、前回の記事の内容を前提としているので、筋が追えない方は、前回の記事を参照してください。)

霊帝の時代(168~189年)の遼東地方には、公孫氏という一族がいました。公孫なになに、公孫なになに、公孫なになにという人たちから成る一族が公孫氏です。公孫琙は遼東地方の玄菟郡の太守(郡の長官)で、この公孫琙に公孫延が仕え、公孫延の息子が公孫度でした。

公孫度は公孫琙に気に入られ、役人として順調に出世を果たしていましたが、讒言(他人を陥れるために目上の人に悪く言うこと)の被害に遭って、罷免されてしまいます。

ところが、この落ち目になりかけていた公孫度に、再び運が巡ってきます。すでに前回の記事で、霊帝の死後の混乱に乗じて董卓という武将が漢王朝を乗っ取った話をしましたが、この董卓の右腕だった徐栄が、自分と親しい公孫度を推薦して、遼東郡の太守にするのです。董卓が漢王朝を乗っ取った189年のことです。

董卓による漢王朝の乗っ取りから戦乱の時代に入り、後漢が崩壊していく中で、地方官だった公孫度はちゃっかりと半独立政権を築き、楽浪郡にまで力を伸ばします。204年に公孫度が死亡し、息子の公孫康が後を継ぎます。公孫康は、楽浪郡を北と南に分け、南を帯方郡とします。

中国の魏志(魏書)の中で倭について書かれている部分が「魏志倭人伝」で、韓について書かれている部分が「魏志韓伝」です。魏志韓伝に、以下の記述があります(藤堂2010)。

桓・靈之末、韓・濊彊盛、郡縣不能制、民多流入韓國。

桓・霊の末、韓・濊彊盛にして、郡県制する能わず、民多く韓国に流入す。

桓・霊の末といえば、黄巾の乱から霊帝の死亡に至るあたりです。そのすぐ後に、董卓による漢王朝の乗っ取りがあります。やはり、黄巾の乱から後漢は揺らぎ始めており、その動揺が楽浪郡にも伝わり、朝鮮半島の韓族・濊族が勢いづいていることが窺えます。中国の大激震がいつ日本に伝わってきたかということですが、早ければ黄巾の乱の頃(184年頃)から、遅ければ董卓による漢王朝の乗っ取りの頃(189年頃)から伝わってきた可能性が高いです。

卑弥呼が倭王に即位したのは何年か?

ここで、日本側に目を移しましょう。

卑弥呼は一体どんな人だったのか、日本の歴史の研究を大混乱させた幻の神功皇后の記事で明確に論じたように、日本書紀は、神功皇后という人物を登場させて、卑弥呼と台与の存在を隠しています。とはいえ、神功皇后は日本書紀の中で卑弥呼と台与の存在を隠す役目を担っているので、この神功皇后に注目しないわけにもいきません。

卑弥呼は一体どんな人だったのか、日本の歴史の研究を大混乱させた幻の神功皇后の記事では、以下のことを示しました。

(1)中国の歴史書で西暦238年に起きたとされていることが、日本書紀では神功39年に起きたとされている。(卑弥呼の朝貢)

(2)中国の歴史書で西暦240年に起きたとされていることが、日本書紀では神功40年に起きたとされている。(中国の皇帝からのお返し)

(3)中国の歴史書で西暦243年に起きたとされていることが、日本書紀では神功43年に起きたとされている。(卑弥呼の再びの朝貢)

(4)中国の歴史書で西暦266年に起きたとされていることが、日本書紀では神功66年に起きたとされている。(台与の朝貢)

日本書紀には、神功皇后は神功69年に死亡したと記されています。日本書紀によれば、神功皇后は神功元年から神功69年まで摂政(一般的には、最高位の者が幼かったり、病弱だったり、女性だったりする場合に、代わりに政務を執り行う者)として政務を執り行ったことになっています。

上の(1)~(4)を考えると、神功皇后が政務を執り行った神功元年~神功69年というのは、理屈の上では、西暦201~269年のことになりそうです。神功皇后はそういう設定で登場しているということです。神功皇后が政務を執り行った神功元年~神功69年、すなわち西暦201~269年というのは、なんとも気になるところです。神功皇后は卑弥呼と台与の存在を隠すために登場している人物だからです。西暦201~269年という期間が、卑弥呼と台与と全く無関係であるとも考えづらいのです。いやむしろ、卑弥呼と台与の活動時期とよく合うのです。

上で述べたように、早ければ黄巾の乱の頃(184年頃)から、遅ければ董卓による漢王朝の乗っ取りの頃(189年頃)から、中国で異変が起きている、後漢が崩壊し始めたようだという知らせが日本に次々と入ってきたらどうでしょうか。そこから、今までずっと北九州の勢力に邪魔されてきた東方(本州、四国)の勢力が、北九州の勢力に鋭い目を向け始め、ついには北九州の勢力に対して戦いを起こしたらどうでしょうか。魏志倭人伝がいうように「倭国大乱」が何年か続き、それが終わった西暦200年前後に卑弥呼が倭王として即位したと考えるのは、それほど無理がないのです。

東方(本州、四国)の勢力が北九州の勢力に対して戦いを起こしたのだとしたら、それは重大な決定だったにちがいありません。しかしその一方で、あまりもたもたしている時間もなかったかもしれません。中国の混乱が収束し、次にできる強力な国と北九州の勢力が近づいてしまったら、悔やんでも悔やみきれないでしょう。

非常にわかりにくい卑弥呼登場の場面をもう一度見てみましょう。

其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。

其の国、本亦た男子を以って王と為す。住まること七、八十年、倭国乱れて、相攻伐すること年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。

細かい論証は後続の記事に回し、まずは筆者が倭国大乱について考えていることをざっと示します。

卑弥呼登場の場面が非常にわかりにくいのは、魏志倭人伝の記述がとても短く、倭国大乱の発生と卑弥呼の共立を短絡的に結びつけようとしてきたからです。

倭国大乱は、九州連合と本州・四国連合の間の戦いだったと見られます(九州全体が参加したわけではないので、九州連合と呼ぶのは適切ではないし、本州・四国全体が参加したわけではないので、本州・四国連合と呼ぶのも適切ではありませんが、倭国大乱の一方の当事者と他方の当事者を指す必要があるので、ここでは暫定的に九州連合と本州・四国連合と呼ぶことにします)。

この戦いに勝ったのは、本州・四国連合です。この連合は、中国の文明・文化を取り入れたいが、北九州の勢力に邪魔されてなかなか取り入れられなかった勢力が集まってできた連合です。この連合は、中国の文明・文化を取り入れることを目的としており、九州連合を倒したことによって、その目的を今まさに果たそうとしています。しかし、ここで問題が起きます。この連合を構成する各勢力(具体的には各国、もっと具体的には各国の王たち)は、この連合を統率する最高位の者を決めることができなかったのです。この状況を示したのが、あの図なのです(天皇の起源はもしかして・・・倭国大乱と卑弥呼共立について考えるを参照)。

各国の王たちは、だれを連合の最高位にするかもめ、決めることができなかったのです。そこで、「象徴」として少女を連合の最高位に据えたのです(これらの王たちは、仲がよいわけではありませんが、中国の文明・文化を取り入れたいと思っており、その点は一致しているのです)。

ここでの重要なポイントは、倭国大乱で本州・四国連合が九州連合に勝ち、長年の悲願であった中国の文明・文化を取り入れる道が開けたが、本州・四国連合の王たちは、連合を統率する最高位の者を決めることができず、「象徴」として少女を連合の最高位に据えたということです。倭国大乱の発生から卑弥呼の共立までのプロセスは、二つに分けて考える必要があったのです。

1. 倭国大乱で本州・四国連合が九州連合に勝ち、長年の悲願であった中国の文明・文化を取り入れる道が開けた。
2. 本州・四国連合の王たちは、連合を統率する最高位の者を決めることができず、「象徴」として少女を連合の最高位に据えた。

卑弥呼の存在は特殊ですが、こうなると、卑弥呼が身を置く都も特殊にならざるをえません。上の一番目の図で、男の王たちは、連合を統率する最高位の者をだれにするかもめました。つまり、どの王も最高位の者になれないということです。当然、これらの王たちは、連合の都をどこにするかもめるでしょう。つまり、どの王の本拠地も都にならないということです。ここから、なにが起きるかわかるでしょうか。意外です、でも、必然的です。有力者がおらず、栄えていない場所が選ばれ、そこに都が作られるのです。有力者がおらず、栄えていないがゆえにいきなり都になった特別な場所が、日本の歴史にはあったのです。それはどこでしょうか。これが大和(やまと)です。

 

参考文献

藤堂明保ほか、「倭国伝 中国正史に描かれた日本 全訳注」、講談社、2010年。