改竄された日本の歴史、なぜ古事記と日本書紀は本当のことを書かなかったのか

日本の歴史に興味を持ったことがある人なら、だれでも「卑弥呼(ひみこ)」という名前を聞いたことがあるでしょう。中国の歴史書には、西暦200~250年頃の日本に卑弥呼という女王がいて、中国と接していたこと、そして邪馬台国という場所にいたことが記されています。

この卑弥呼と邪馬台国のことを書かず、不自然に沈黙しているのが、日本の歴史書の「古事記」と「日本書紀」です。

なぜ古事記と日本書紀という二つの歴史書が残ることになったのか、実は明らかになっていません。一般的には、古事記は712年に完成、日本書紀は720年に完成したとされています。奈良時代(710~794年)のはじめのことです。

ただ、古事記の712年という成立年代には、以前から疑問が投げかけられてきました。古事記という書物には、日本書紀よりも古いのではないかと思わせる部分と、日本書紀よりも新しいのではないかと思わせる部分があり、古事記の成立年代をめぐる議論は混乱模様を呈しています。

これまでに発表された古事記の成立年代をめぐる研究の中で、筆者が特に優れていると思うのは、大和岩雄氏の研究です(大和1997(筆者は1997年の版しか読んでいませんが、新版も出ているようです))。大和氏自身の考察も優れていますが、これまでの他者の研究を網羅的に取り上げている点も優れています。

大和氏は、日本書紀より前に存在した書物があり、その書物に変更・追加が施されて日本書紀よりだいぶ後に完成したのが、今残っている古事記であると考えています。古事記に日本書紀より古いと見られる部分と日本書紀より新しいと見られる部分があることが、うまく説明されています。筆者も、大和氏が示している可能性が高いのではないかと考えています。

日本書紀は、第41代天皇の持統天皇のところで記述が終わっています。持統天皇は奈良時代のすぐ前の天皇であり、これは普通に理解できます。それに対して、古事記は、第33代天皇の推古天皇のところで記述が終わっており、天皇がなにを言ったか、なにをしたかという具体的な記述は、第23代天皇の顕宗天皇のところで終わっています。古事記は未完の感じがありありと出ている書物です。日本書紀より前に、途中まで書かれて、放棄された書物があったのではないかと考えたくなるところです。

ただし、天から降りてきた神の子孫が天皇になったという話の根幹部分は、多少の違いはあれど、古事記と日本書紀に共通しており、このことは認識しておく必要があります。

当面は、古事記の問題には深入りせず、主に日本書紀のほうを取り上げます。

卑弥呼と邪馬台国のことが記されている「魏志倭人伝」

「魏志倭人伝」という名前も、聞いたことのある人が多いでしょう。中国に「魏志(魏書)」という歴史書があり、その中に倭人について書かれている部分があります。この部分が、日本では「魏志倭人伝」と呼びならわされています。魏志倭人伝は2000字ぐらいの記述ですが、同時代に書かれた記録が日本側にないので、魏志倭人伝は非常に貴重な資料になっています。

魏志倭人伝の一部をのぞいてみましょう。中国の皇帝と卑弥呼がやりとりしている場面です。魏志倭人伝の原文は当然昔の中国語なので、ここでは「藤堂明保ほか、倭国伝:中国正史に描かれた日本:全訳注、講談社、2010年」の現代日本語訳を示します。

魏の明帝の景初二年(二三八年)六月、倭の女王卑弥呼は、大夫難升米らを帯方郡によこし、魏の天子に直接あって、朝献したい、と言ってきた。郡の太守劉夏は、役人を遣わして難升米らを魏の都まで送って行かせた。その年の十二月、倭の女王に返事の詔が出た。「親魏倭王卑弥呼へ詔す。帯方郡の太守劉夏が送りとどけた汝の大夫(正使の)難升米、副使の都市牛利らが、汝の献上品である男奴隷四人、女奴隷六人、斑織りの布二匹二丈を持って到着した。汝の住むところは、海山を越えて遠く、それでも使いをよこして貢献しようというのは、汝の真心であり、余は非常に汝を健気に思う。さて汝を親魏倭王として、金印・ 紫綬を与えよう。封印して、帯方郡の太守にことづけ汝に授ける。土地の者をなつけて、余に孝順をつくせ。汝のよこした使い、難升米・都市牛利は、遠いところを苦労して来たので、今、難升米を率善中郎将、都市牛利を率善校尉とし、銀印・青綬を与え、余が直接あってねぎらい、賜り物を与えて送りかえす。そして、深紅の地の交竜の模様の錦五匹、同じく深紅の地のちぢみの毛織り十枚、茜色の絹五十匹、紺青の絹五十匹で、汝の献じて来た貢ぎ物にむくいる。また、そのほかに、特に汝に紺の地の小紋の錦三匹と、こまかい花模様の毛織物五枚、白絹五十匹、金八両、五尺の刀二振り、銅鏡百枚、真珠・鉛丹をおのおの五十斤、みな封印して、難升米・都市牛利に持たせるので、着いたら受け取るように。その賜り物をみな汝の国の人に見せ、魏の国が、汝をいつくしんで、わざわざ汝によい物を賜わったことを知らせよ」と。

正始元年(二四〇年)、帯方郡の太守弓遵は、建中校尉梯儁らを遣わして、詔と印綬を倭の国に持って行かせ、倭王に任命した。そして、詔と一緒に、黄金・白絹・錦・毛織物・刀・鏡、その他の賜り物を渡した。そこで倭王は、使いに託して上奏文を奉り、お礼を言って詔に答えた。

飛行機やインターネットがある時代ではないので、言葉と物のやりとりにとてつもない時間がかかっています。ご存じの方が多いと思いますが、念のために言っておくと、帯方郡(たいほうぐん)とは、当時の中国が朝鮮半島に置いていた植民地のことで、そこを通じて中国の皇帝と卑弥呼のやりとりが行われています。

とてつもない時間がかかっているやりとりですが、中国の皇帝の言葉が倭王の卑弥呼に口頭で伝えられ、倭王の卑弥呼の言葉が中国の皇帝に口頭で伝えられているのでしょうか。いや、そんなことはありません。

現代日本語訳の最後の「そこで倭王は、使いに託して上奏文を奉り、お礼を言って詔に答えた」という部分が明白に示しています。中国語原文では「倭王因使上表答謝恩詔」です。ここに出てくる古代中国語のpjew(表)ピエウは、日本語で「上奏文」と訳されているように、皇帝に出す文書(手紙)のことです。卑弥呼は、皇帝から文書を受け取り、皇帝に文書を出しているのです。卑弥呼自身が筆を動かしているわけではないと思われますが、卑弥呼のそばに文字を読み、文字を書くことのできる人間がいるのです。

前回の記事で、漢字が刻まれた埼玉県出土の稲荷山鉄剣と熊本県出土の江田船山鉄刀に言及し、日本人が奈良時代よりもかなり前から文字を書き記していたと述べました。稲荷山鉄剣と江田船山鉄刀に漢字が刻まれたのは、そこに書かれている内容から、五世紀後半(450~500年頃)と考えられています。

しかし、魏志倭人伝の記述からわかるように、稲荷山鉄剣と江田船山鉄刀の時代(450~500年頃)どころではなく、卑弥呼が倭王だった時代(200~250年頃)に、日本ですでに文字が書き記されていたのです。

ちなみに、稲荷山鉄剣に刻まれた文は、乎獲居臣(ヲワケノオミ)と名乗る人物が語っているもので、先祖の意富比垝(オホヒコ)から七世代下の自分に至るまで朝廷に仕えてきたこと、自分が獲加多支鹵大王に仕えていること、そして自分がそのことを刻んだ鉄剣を作らせたことが誇らしく語られています。「獲加多支鹵」の部分をどう読んだらよいかということが問題になりますが、確実にわかるもっと後の隋・唐の頃の発音は以下の通りです。

hwɛk(獲)フウェク
kæ(加)
ta(多)
tsye(支)チエ (tsye(支)は*ke(支)から変化したと考えられている形です(Baxter 2014))
lu(鹵)

これが、幼武(ワカタケル)という実名を持っていた第21代天皇の雄略天皇を思い起こさせるわけです。

乎獲居臣は五世紀後半(450~500年頃)に生き、雄略天皇に仕えていたと考えられる人物ですが、その乎獲居臣が七世代前の意富比垝から朝廷に仕えてきたと言っているのは、興味深いところです。五世紀後半(450~500年頃)から七世代遡ると、いつ頃になるでしょうか。

意富比垝から乎獲居臣までが仕えてきた王を遡っていくと、つまり獲加多支鹵大王から遡っていくと、その先に卑弥呼がいるのでしょうか。それとも、いないのでしょうか。魏志倭人伝を読む限り、卑弥呼は夫を持たず、子もいなかったと考えられる女性です。これは一体どういうことでしょうか。日本という国家の起源を考えるうえで、非常に重大な場面に差しかかります。

このように見てくると、日本の本格的な文字記録が奈良時代(710~794年)のはじめからしか残っていないということに、皆さんは異常なものを感じないでしょうか。なぜ古事記と日本書紀はあんなに長い話を書くことができたのでしょうか。

※最近では、弥生時代の遺跡で硯(すずり)のようなものが相次いで発見され、卑弥呼の時代よりももっと前から文字が書かれていたのではないかという見方すら強まってきています。以下は「朝日新聞、2021年2月10日、弥生時代の「硯」各地で次々」からの一部抜粋です。

弥生時代に西日本で広く文字が使われていた可能性を示す遺物の発見が相次いでいる。福岡県など各地で硯(すずり)の可能性がある石製品が次々と出てきているのに加え、文字のような痕跡がある土器や石製品も見つかった。研究者の見解が分かれる資料もあるが、弥生時代中期後半(紀元前後ごろ)か、さらにそれ以前から日本でも外交や交易で文字が使われていたという見方が強まりつつある。

弥生時代の硯が注目されたのは2001年。西谷正・九州大学名誉教授らが、松江市の環濠(かんごう)集落・田和山(たわやま)遺跡で出土した石製品の破片を「硯ではないか」と指摘した。前漢~後漢時代(紀元前206~紀元220年)の中国や、その出先である朝鮮半島の楽浪郡(紀元前108~313年)では、薄い板石を木製の台にはめた硯が墓の副葬品などとして出土する。田和山遺跡の石製品も、これらと同様の硯と推定された。

九州でも16年、福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で硯とみられる板石が見つかった。同遺跡は「魏志倭人伝」に登場する伊都国の中枢とみられ、弥生時代から中国や朝鮮半島と文書で外交をしていた可能性が浮上した。

出土品を再検討

同市に住む柳田康雄・国学院大客員教授は、今まで砥石(といし)とされてきた弥生時代の石製品の中に硯が含まれているのではないかと注目。17年ごろから各地で過去の出土品を再検討し、これまでに300点以上の弥生の石製品を、硯やそれとセットで使う研石(けんせき)(すり石)だと判定してきた。

弥生時代には固形の墨はなく、粒状の墨を硯と研石ですりつぶし、水に溶いて使ったとみられる。柳田さんは研石とこすれた痕や、顔料らしい黒や赤の付着物を手がかりに硯を見つけている。その分布は九州だけでなく、島根県や岡山県、奈良県に及ぶ。

 

参考文献

日本語

大和岩雄、「古事記成立考 増補改訂版」、大和書房、1997年。

英語

Baxter W. H. et al. 2014. Old Chinese: A New Reconstruction. Oxford University Press.

「私(わたくし)」の語源

前回の記事でお話ししたように、日本語のかつての一人称代名詞は、北ユーラシアの多くの言語と通じるmi(身)(古形*mu)であったと考えられます。そこに、a(我、吾)とwa(我、吾)が入ってきたわけです。なかなか変わらないはずの一人称代名詞が変わったのです。このa(我、吾)とwa(我、吾)は、どこから来たのでしょうか。

一人称代名詞が変わるというのは、ただごとではありません。日本語がそのような劇的な変化を経たのはいつかというと、真っ先に考えられるのは、気候変化によって遼河流域でアワとキビの栽培を行えなくなった少数の日本語の話者が南下し、そこでシナ・チベット語族の話者、ベトナム系言語の話者、タイ系言語の話者などと出会った時です(現代人あるいは現代の言語学者が陥りがちな考えを参照)。

一人称代名詞と同じように、なかなか変わらないはずの「目」を意味する語が変わったのも、この時でした。シナ・チベット語族の言語から*mi(目)という語が入って、miru(見る)、misu(見す)、miyu(見ゆ)になり、ベトナム系言語から*ma(目)という語が入って、me(目)になったのでした(以下の記事を参照)。

日本語の一人称代名詞が変わったのではないかと見られるのも、その時期です。特に怪しいのは、シナ・チベット語族の古代中国語nga(我)ンガ、チベット語nga、ミャンマー語ngaのような一人称代名詞です。先頭は[ŋ]という子音で、日本語の話者には不慣れな音です。シナ・チベット語族の一人称代名詞を日本語に取り入れるために、一番手っ取り早いのは、先頭の[ŋ]を取り除いて、ŋaをaにすることです。これで、一人称代名詞のa(我、吾)が生まれます(実際に、朝鮮語でも古代中国語のnga(我)をaとしました)。

古代中国語の一人称代名詞であったnga(我)は、方言によってngoになったり、woになったりしています。現代の中国の標準語では、wo(我)ウォです。

唇のところで作る音(m、p、b、f、v、wなど)と口の奥のほうで作る音(k、g、x、hなど)の間にある程度行き来があることは、以前にお話ししました。日本語の「は」の読みがɸaからhaになったのは、そのような例です(唇のところ→口の奥のほう)。古代中国語のnga(我)がngoを通じてwoになったのも、そのような例です(口の奥のほう→唇のところ)。

東アジアにこのような例が実際に存在することから、シナ・チベット語族のŋaという一人称代名詞が、日本語にaとして入るだけでなく、waとして入ることもあったと思われます。これで、一人称代名詞のwa(我、吾)が生まれます(日本語で語頭の濁音が許されるようになった時代であれば、ga(我、吾)も一つの選択肢になりますが、語頭の濁音が許されていない時代には、その選択肢はなかったのです)。

奈良時代の日本語の一人称代名詞であったa(我、吾)とwa(我、吾)は、シナ・チベット語族の言語から入った可能性が非常に高いです。そのシナ・チベット語族の言語というのは、古代中国語に近い言語だったかもしれないし、古代中国語そのものだったかもしれません。つまるところ、a(我、吾)とwa(我、吾)はおおもとは同じである異形です。

一人称代名詞が外来語なのかと驚かれるかもしれませんが、watasi(私)とboku(僕)のうちのboku(僕)のほうは明らかに中国語由来です。watasi(私)のほうはどうでしょうか(ore(俺)については、本記事の最後にある補説を参照してください)。

watakusi(私)の語源

現代の日本語のwatasi(私)のもとになったのは、奈良時代の日本語のwatakusiという語です。奈良時代の日本語のwatakusiは、前回の記事で述べたように、そもそも一人称代名詞ではなく、「公のこと」の反対として「個人的なこと」を意味する語でした。

その長さからしても、watakusiは複合語と考えられます。このwatakusiについては、いろいろと考えさせられましたが、watakusiのwaの部分は一人称代名詞のwa(我、吾)である可能性が高いと考えていました。wa(我、吾)は、上で説明したように、古代中国語に近い言語か、古代中国語そのものから入った可能性が非常に高いわけです。そうなると、watakusiのwaのうしろのtakusiの部分も中国語に関係があるかなと考えてみたくなります。

ああではないかこうではないかと考えていた筆者が次第に注目するようになったのは、古代中国語のtsak(作)ツァクとdrzi(事)という語でした。

古代中国語のtsak(作)に関しては、日本語の話者に説明しておかなければならないことがあります。

英語にdo(する)という語とmake(作る)という語があることは、皆さんもご存じでしょう。

英語のdoにあたるフランス語はfaireフェールです。そして、英語のmakeにあたるフランス語もfaireです。

英語のdoにあたるロシア語はdelat’ヂェーラチです。そして、英語のmakeにあたるロシア語もdelat’です。

ちょっと違和感があるかもしれませんが、「する」と「作る」のところで同じ言い方をする言語は世界にとても多いのです。

日本語でも、「揚げ物をする」と言ったり、「揚げ物を作る」と言ったりするので、全くわからないということもないかもしれません(写真はエブリー様のウェブサイトより引用)。

古代中国語のtsak(作)も、「する」と「作る」の意味を併せ持つ語でした。

日本語では「作」にsakuとsaという音読みが与えられ、「事」にziとsiという音読みが与えられましたが、これは日本語と中国語の長きにわたる広範な接触の一端を示しているにすぎません。

古代中国語といっても、時代と場所によって、様々なバリエーションがあります。中国語から日本語への語彙の流入は単純ではないのです。

古代中国語のtsak(作)は、sakuという形だけでなく、*takuという形や*tukuという形でも日本語に入ったかもしれません。専門職人がなにかを製造することを意味していたtakumu(巧む)は関係がありそうだし、tukuru(作る)も関係がありそうです(takumu(巧む)は設計すること・計画することも意味していたので、takuramu(企む)も同源と考えられます)。

古代中国語のtsak(作)が「作る」という意味だけでなく、「する」という意味も持っていたことを思い出してください。

奈良時代の日本語のwatakusiは、一人称代名詞のwa、「する」を意味する*taku、「こと」を意味する*siがくっついてできた語と推測されます。「我」+「作」+「事」という構造です。つまり、中国語のフレーズであるということです。「私のすること」という意味です。「する」を意味するsuruと「こと」を意味するkotoがくっついてsigotoができるのと同様に、「する」を意味する*takuと「こと」を意味する*siがくっついてtakusiができているわけです(現代の日本語に「作事」という語は残っていますが、「仕事、仕業、作業、工事、工業」などと違って、ほとんど使われることのない語として残っています)。

日本で本格的な文字記録が残っているのが「古事記」と「日本書紀」から、つまり奈良時代のはじめからなので、日本語と中国語の関係というと、奈良時代のはじめからの日本語と中国語の関係を考えがちです。

しかし、奈良時代の日本語に入っている中国語を見ると、日本語は奈良時代よりもかなり前から中国語と接触してきたと考えられます。日本人は、奈良時代のはじめよりもかなり前から中国の文明・文化を取り入れ、中国語も取り入れてきたのです。当然、自分たちは持っていないが中国人は持っている「文字」というものにも大きな関心を抱いたはずです。

考古学に詳しい方は、漢字が刻まれた埼玉県出土の稲荷山鉄剣や熊本県出土の江田船山鉄刀をご存じだと思います。これらは、日本人が奈良時代よりもかなり前から「文字」を書き記していたことを明確に示しています。

ここで不思議なのは、もっと露骨に言うと怪しいのは、日本人は奈良時代のはじめよりもかなり前から「文字」というものに関心を抱き、「文字」を書き記していたにもかかわらず、日本での文字記録が、稲荷山鉄剣や江田船山鉄刀のような土の中に埋まっているごく断片的な遺物を除いて、奈良時代のはじめからしか残っていないということです。

そしてその「古事記」と「日本書紀」には、天から降りてきた神の子孫が天皇になったという話が示されているのです。

いよいよ、予告しておいた日本の古代史の話に入ります(予告は特集!激動の日本の古代史、邪馬台国論争を含めての予告編をご覧ください)。

 

補説

ore(俺)の語源

現代の日本語には、watasi(私)とboku(僕)のほかに、ore(俺)という一人称代名詞があります。ore(俺)は、onore(己)が変化したものであるという従来の説が妥当でしょう。奈良時代の日本語を見ると、onore(己)は、「自分」を意味する語として機能したり、一人称代名詞として機能したり、二人称代名詞として機能したりしていました。

奈良時代の日本語には、このようなonore(己)と同じような振る舞いを見せていたna(己)という語がありました。na(己)も、「自分」を意味する語として機能したり、一人称代名詞として機能したり、二人称代名詞として機能したりしていたのです。

なんで一人称代名詞と二人称代名詞が必要なのか考えてみてください。会話は基本的に二人で行うもので、二人のうちの一方を指しているのか、他方を指しているのか知らせたいからです。日本語で「こっちは元気です。そっちはどうですか。」などと言ったりしますが、このようなところに人称代名詞の本質があるのです。本ブログの読者は、筆者がいつもしている「川と両岸」の話だなと察しがつくでしょう。そうです、「川と両岸」の話なのです。

水を意味していた語がその横の部分を意味するようになるというおなじみのパターンです。上の図には、naと記しましたが、この部分はnamであったり、namV(Vはなんらかの母音)であったりもします。おおもとにあるのは、タイ系言語のタイ語naam(水)のような語です。

「自分」を意味する語として機能したり、一人称代名詞として機能したり、二人称代名詞として機能したりしていた奈良時代の日本語のna(己)の語源は、まさにここにあります。奈良時代の日本語の二人称代名詞であったna(汝)、namu(汝)、namuti(汝)の語源も、ここにあります。namuti(汝)に含まれているtiは、kotti(こっち)やsotti(そっち)に残っているtiと同じもので、方向を意味するtiでしょう。namuti(汝)はのちにnanzi(汝)になりました。

日本語のna(己)、na(汝)、namu(汝)、namuti(汝)について述べましたが、朝鮮語の超頻出語であるna(私、僕、俺、自分)の語源も、上の図にあると見られます。

朝鮮語のnam(他人、よその人)などについて説明した「人(ひと)」の語源、その複雑なプロセスが明らかに(改訂版)の記事を参照していただくと、理解が非常に深まります。日本語のhito(人)の語源も記されています。

なかなか変わらない一人称代名詞、ところが日本語では・・・

次回の記事で日本語の「私(わたくし)」の語源を明らかにしますが、この記事はその前座です。

前に以下の二つの記事を書きました。

人類の言語において、水を意味する語と目を意味する語は一番変わりにくいという話をしました。これはウラル語族にも当てはまり、ウラル祖語で「水」を意味していた語は、現代のウラル語族のほぼすべての言語で「水」を意味しているし、ウラル祖語で「目」を意味していた語は、現代のウラル語族のすべての言語で「目」を意味しています。

この「水」と「目」のケースは本当に例外的です。ウラル語族にほかにそういう語があるかというと、ほとんどありません。しかし、明らかに変わっていない語がもう一つあります。それは一人称代名詞(日本語のwatasi(私)に相当する語)です。

ウラル語族の「私」

マンシ語am(私)とハンガリー語én(私)エーンについては疑問が残りますが、それ以外の言語の「私」は同源です。やはり、「私」を意味する語も変わりにくいといえます。

ちなみに、テュルク諸語の「私」は、トルコ語ben(私)、カザフ語men(私)、ウイグル語men(私)、ヤクート語min(私)、チュヴァシ語epɘ(私)エプのようになっています。総じて、ウラル語族の「私」に似ています。モンゴル諸語の「私」はモンゴル語bi(私)のような語、ツングース諸語の「私」はエヴェンキ語bi(私)のような語です。これらも、ウラル語族の「私」に似ています。

インド・ヨーロッパ語族の英語I(私)などは関係がなさそうですが、インド・ヨーロッパ語族の英語my、me、mine(私の、私を、私に、私のもの)などは関係がありそうです。同じような語が北ユーラシアに広く分布していたことは間違いありません。

遼河流域からやって来た日本語も、上に列挙した語に似た一人称代名詞を持っていたはずです。

奈良時代の日本語の一人称代名詞であったa(我、吾)とwa(我、吾)がそうでしょうか。これらからare(我、吾)とware(我、吾)という形も作られました。おそらく、a(我、吾)とwa(我、吾)は違うと思われます。

怪しいのは、奈良時代の日本語のmi(身)です(mi(身)は、組み込まれたmu-という形を見せていたので、*muが古形と考えられます)。

現代の日本語に、onozukara(おのずから)とmizukara(みずから)という似た語があります。昔の日本語では、onodukara(おのづから)とmidukara(みづから)です。日本語のmi(身)は体を意味する語であるという説明で済まされてしまうことが多いですが、mi(身)は、「体」を意味するだけでなく、ono(己)のように「自分」も意味していたと思われます。「身の程を知れ」とはどういうことでしょうか。「自分の身分や能力を考えろ」ということでしょう。ここに出てくるmi(身)は、「体」というより「自分」です。

「自分」を意味したり、「体」を意味したりしていたmi(身)とは、一体何者なのでしょうか。東アジア・東南アジアの言語を見ていると、同一の語が「自分」と「体」を意味しているケースが多いです。古代中国語のsyin(身)シンもそういう語でした。日本語のmi(身)もそういう語だったのです。

「自分」を意味したり、「体」を意味したりしていたmi(身)とは何者なのかという問いですが、ずばりこのmi(身)(古形*mu)が日本語の一人称代名詞だったと見られます。一人称代名詞だったmi(身)(古形*mu)は、ある時から「私」を意味することができなくなり、「自分」を意味するようになったのです。そして、東アジア・東南アジアの言語でよくあるように、「自分」だけでなく、「体」も意味するようになったのです。

一人称代名詞だったmi(身)(古形*mu)は、なぜ「私」を意味することができなくなったのでしょうか。それは、a(我、吾)とwa(我、吾)という語が外から入ってきたからでしょう。

a(我、吾)とwa(我、吾)がどこから来たのか、筆者は非常に悩みました。そしてそれ以上に、watakusi(私)がどこから来たのか悩みました。

ちなみに、奈良時代の日本語には、a(我、吾)も、wa(我、吾)も、watakusi(私)も存在しました。しかし、a(我、吾)とwa(我、吾)が一人称代名詞だったのに対し、watakusi(私)は一人称代名詞ではありませんでした。watakusi(私)は、「公のこと」の反対として「個人的なこと」を意味していた語です。そのように一人称代名詞でなかった語が、のちに一人称代名詞になってしまったのです。

次回の記事では、a(我、吾)とwa(我、吾)、そして異色の歴史を持つwatakusi(私)の語源を明らかにします。

watakusi(私)が「公のこと」の反対として「個人的なこと」を意味していたことから、筆者はwatakusi(私)はもともと複合語だったのではないかと考えました。watakusiは長いので、皆さんもそう思わないでしょうか。欧米の人たちになんで一人称代名詞がこんなに長いのと尋ねられたことがありましたが、筆者はずっとその答えを見つけることができませんでした。watakusiが複合語であると考えたところまではよかったのですが、そこから先は長期にわたる大苦戦を強いられました。大苦戦の末に辿り着いた答えは、全く予想していなかったものでした。