なかなか変わらない一人称代名詞、ところが日本語では・・・

次回の記事で日本語の「私(わたくし)」の語源を明らかにしますが、この記事はその前座です。

前に以下の二つの記事を書きました。

人類の言語において、水を意味する語と目を意味する語は一番変わりにくいという話をしました。これはウラル語族にも当てはまり、ウラル祖語で「水」を意味していた語は、現代のウラル語族のほぼすべての言語で「水」を意味しているし、ウラル祖語で「目」を意味していた語は、現代のウラル語族のすべての言語で「目」を意味しています。

この「水」と「目」のケースは本当に例外的です。ウラル語族にほかにそういう語があるかというと、ほとんどありません。しかし、明らかに変わっていない語がもう一つあります。それは一人称代名詞(日本語のwatasi(私)に相当する語)です。

ウラル語族の「私」

マンシ語am(私)とハンガリー語én(私)エーンについては疑問が残りますが、それ以外の言語の「私」は同源です。やはり、「私」を意味する語も変わりにくいといえます。

ちなみに、テュルク諸語の「私」は、トルコ語ben(私)、カザフ語men(私)、ウイグル語men(私)、ヤクート語min(私)、チュヴァシ語epɘ(私)エプのようになっています。総じて、ウラル語族の「私」に似ています。モンゴル諸語の「私」はモンゴル語bi(私)のような語、ツングース諸語の「私」はエヴェンキ語bi(私)のような語です。これらも、ウラル語族の「私」に似ています。

インド・ヨーロッパ語族の英語I(私)などは関係がなさそうですが、インド・ヨーロッパ語族の英語my、me、mine(私の、私を、私に、私のもの)などは関係がありそうです。同じような語が北ユーラシアに広く分布していたことは間違いありません。

遼河流域からやって来た日本語も、上に列挙した語に似た一人称代名詞を持っていたはずです。

奈良時代の日本語の一人称代名詞であったa(我、吾)とwa(我、吾)がそうでしょうか。これらからare(我、吾)とware(我、吾)という形も作られました。おそらく、a(我、吾)とwa(我、吾)は違うと思われます。

怪しいのは、奈良時代の日本語のmi(身)です(mi(身)は、組み込まれたmu-という形を見せていたので、*muが古形と考えられます)。

現代の日本語に、onozukara(おのずから)とmizukara(みずから)という似た語があります。昔の日本語では、onodukara(おのづから)とmidukara(みづから)です。日本語のmi(身)は体を意味する語であるという説明で済まされてしまうことが多いですが、mi(身)は、「体」を意味するだけでなく、ono(己)のように「自分」も意味していたと思われます。「身の程を知れ」とはどういうことでしょうか。「自分の身分や能力を考えろ」ということでしょう。ここに出てくるmi(身)は、「体」というより「自分」です。

「自分」を意味したり、「体」を意味したりしていたmi(身)とは、一体何者なのでしょうか。東アジア・東南アジアの言語を見ていると、同一の語が「自分」と「体」を意味しているケースが多いです。古代中国語のsyin(身)シンもそういう語でした。日本語のmi(身)もそういう語だったのです。

「自分」を意味したり、「体」を意味したりしていたmi(身)とは何者なのかという問いですが、ずばりこのmi(身)(古形*mu)が日本語の一人称代名詞だったと見られます。一人称代名詞だったmi(身)(古形*mu)は、ある時から「私」を意味することができなくなり、「自分」を意味するようになったのです。そして、東アジア・東南アジアの言語でよくあるように、「自分」だけでなく、「体」も意味するようになったのです。

一人称代名詞だったmi(身)(古形*mu)は、なぜ「私」を意味することができなくなったのでしょうか。それは、a(我、吾)とwa(我、吾)という語が外から入ってきたからでしょう。

a(我、吾)とwa(我、吾)がどこから来たのか、筆者は非常に悩みました。そしてそれ以上に、watakusi(私)がどこから来たのか悩みました。

ちなみに、奈良時代の日本語には、a(我、吾)も、wa(我、吾)も、watakusi(私)も存在しました。しかし、a(我、吾)とwa(我、吾)が一人称代名詞だったのに対し、watakusi(私)は一人称代名詞ではありませんでした。watakusi(私)は、「公のこと」の反対として「個人的なこと」を意味していた語です。そのように一人称代名詞でなかった語が、のちに一人称代名詞になってしまったのです。

次回の記事では、a(我、吾)とwa(我、吾)、そして異色の歴史を持つwatakusi(私)の語源を明らかにします。

watakusi(私)が「公のこと」の反対として「個人的なこと」を意味していたことから、筆者はwatakusi(私)はもともと複合語だったのではないかと考えました。watakusiは長いので、皆さんもそう思わないでしょうか。欧米の人たちになんで一人称代名詞がこんなに長いのと尋ねられたことがありましたが、筆者はずっとその答えを見つけることができませんでした。watakusiが複合語であると考えたところまではよかったのですが、そこから先は長期にわたる大苦戦を強いられました。大苦戦の末に辿り着いた答えは、全く予想していなかったものでした。