(前回の記事の続きです。過去の記事の修正も含まれています。)
「水」を意味していたpataのような語が、「横の部分」を意味するようになったことをお話ししました。
「横の部分」を意味するようになったpataのような語は、ɸata(端)になりましたが、「端」を意味する語は、「終わり」を意味するようになることが多いです。途絶えることを表すpataʔ(ぱたっ)、終わること・終えることを意味するɸatu(果つ)、ɸata(果たす)、ɸate(果て)などがそうです。
ɸatati(二十歳)とɸatuka(二十日)に含まれているɸata/ɸatu(二十)も見逃せません。人間は、手の指が10本、手足の指が20本で、ɸata/ɸatu(二十)は、数えていった時の「終わり」という意味でしょう。
「端」を意味する語は、逆に「始まり」を意味するようになることも多いです。ɸatu(初)がそうです。ɸasi(端)からも、ɸazimu(始む)とɸazimaru(始まる)が生まれました。
ɸatati(二十歳)とɸatuka(二十日)から察せられるように、ɸata(端)という語のほかに、ɸatu(端)という語もありました。この横の部分を意味したɸatu(端)自身は廃れてしまいましたが、ɸaduru(外る)、ɸadure(外れ)、ɸadusu(外す)として残ったと見られます。
「横の部分」を意味するようになった語が、「手・腕」または「羽・翼」を意味するようになるのも、頻出パターンです。pataのような語が、「羽・翼」を意味するようになって、patapata(ぱたぱた)、batabata(ばたばた)、basabasa(ばさばさ)が生まれましたが、「手・腕」を意味することもあったにちがいありません。それは、ɸataku(叩く)という動詞から窺えます。拍手する時のpatipati(ぱちぱち)、指を鳴らす時のpatiʔ(ぱちっ)/patin(ぱちん)、打撃を加える時のbasiʔ(ばしっ)、bisiʔ(びしっ)、bisibasi(びしばし)、pinta(ぴんた)、binta(びんた)なども同源でしょう。
もう一つ指摘しておかなければならないのが、「天(あま)」の語源は「雨(あま)」の語源よりはるかに難しかった、ミャオ・ヤオ語族と日本語の記事でお話ししたaɸu(合ふ)/aɸu(会ふ)(未然形aɸa)のようなケースです。
上記の記事で説明しましたが、上の図のapaは、ここから、「1」を意味することも、「2」を意味することもできるし、「一方」を意味することも、「もう一方」を意味することも、「両方」を意味することもできます。
「2」に近いですが、「対、組、ペア」を意味することもできます。「対、組、ペア」を意味するapa*から生まれたのが、「対になること、組になること、ペアになること」、あるいは場合によっては、「一体になること」を意味する動詞のapu*(未然形apa*)であると説明しました。
上の図のような変遷を、apa*だけでなく、pata*もたどったと見られます。出会うことを表すbattari(ばったり)という語が、そのことを端的に示しています。
pata*の異形であるpita*とpeta*も同様です。pitaʔ(ぴたっ)、pittari(ぴったり)、petaʔ(ぺたっ)、pettari(ぺったり)、betaʔ(べたっ)、bettari(べったり)などにも、上の図のような接触、接合、接着あるいは適合という意味が感じられます(pata*、pita*、peta*はもともと「水」を意味していた語なので、「意味の干渉」が起きて、「濡れている」とか「液状である」という意味が感じられることもあります)。
pitiʔ(ぴちっ)、pittiri(ぴっちり)、bittiri(びっちり)、bissiri(びっしり)も、隙間がないという意味で、仲間です。
「スーツをbisiʔ(びしっ)と着こなす」などと言いますが、なにかを打っているわけではないでしょう。同類の語を見る限り、「隙間がない(隙がない)」→「完璧だ」ぐらいの意味変化でしょう。
battari(ばったり)と形が似ているbattiri(ばっちり)も、当初は「よく合う、ふさわしい、適切だ」という意味だったのではないかと思われます。
apa*が動詞として残り、pata*(異形のpita*やpeta*も含めて)が動詞以外の形で残った点を除けば、両者の変遷はよく似ています。
最後に、雨の図に移りましょう。
「水」→「雨」→「落下、下方向、下」という意味変化の超頻出パターンがあるので、pataのような語も、「雨」や「落下、下方向、下」を意味しようとしたことがあったはずです。しかし、「雨」や「落下、下方向、下」の意味領域では、同源のpotapota、potupotu、potopotoなどがとても強く、pataの存在はあまり感じられません。
しかし、「pataʔ(ぱたっ)/bataʔ(ばたっ)と倒れる、patapata(ぱたぱた)/batabata(ばたばた)倒れる、pattari(ぱったり)/battari(ばったり)倒れる」と言うので、pataのような語が「落下、下方向、下」を意味していたことは間違いありません(ɸetaru(へたる)やɸeta(下手)も同源でしょう。ɸeta(下手)は、「下」を意味する語がそのまま評価を表すようになったと考えられます)。
「水」を意味したpataのような語が、実に様々な意味に変化するのを見てきました。最後に、最難関のɸadi(恥)/ɸadu(恥づ)に挑みましょう。
超難問のɸadi(恥)/ɸadu(恥づ)
ɸadi(恥)/ɸadu(恥づ)なんて「落下、下方向、下」と全然関係ないじゃないかと思われるかもしれません。しかし、そうでもないのです。
ɸadu(恥づ)という動詞の活用を見てみましょう。上二段活用です。
未然形はɸadiで、このɸadiがなにを意味していたのか考えなければなりません。他の語と同様に、padi*という古形が推定されます。
皆さんは、otu(落つ)、otosu(落とす)、otoru(劣る)、otoroɸu(衰ふ)という語を見て、どう思うでしょうか。明らかに、「落下、下方向、下」という意味が感じられます。
では、odu(怖づ)、odosu(脅す)、odoroku(驚く)、odorokasu(驚かす)という語は、どうでしょうか。ちょっと、「落下、下方向、下」という意味は感じられません。
しかし、日本語のsagaru(下がる)が典型的な例ですが、「下への動き」を意味していた語が「うしろへの動き」を意味するようになることがあります。kubomu(くぼむ)やɸekomu(へこむ)にも、似たところがあります。「床がくぼむ、床がへこむ」と言うだけでなく、「壁がくぼむ、壁がへこむ」とも言います。
「下への動き」ではなく「うしろへの動き」、もっと具体的には「人が身を引く動き」を考えると、odu(怖づ)、odosu(脅す)、odoroku(驚く)、odorokasu(驚かす)もしっくりきます(ɸiku(引く)、bikubiku(びくびく)、bikkuri(びっくり)と同じ関係です)。
ここで参考になるのが、英語のshyです。「恥ずかしがり屋の、内気な、引っ込み思案の」という意味です。しかし、これは現代の意味で、昔の英語では、恐れたり、驚いたりする様子を表していました。意味が微妙に変化しています。恐れたり、驚いたりすることと恥ずかしがることは違いますが、身を引く動きが共通しており、そのために、このような意味変化が起きると思われます。
「恐れる」や「驚く」より、「気が引ける」や「気後れする」のほうが、恥の感覚に近いでしょうか。それでもやはり、「うしろへの動き」が感じられます。
「下」を意味する語が、「下への動き」にとどまらず、「うしろへの動き」を意味するようになり、odu(怖づ)、odosu(脅す)、odoroku(驚く)、odorokasu(驚かす)という語が生まれました。
同じように、「下」を意味する語が、「下への動き」にとどまらず、「うしろへの動き」を意味するようになり、ɸadi(恥)/ɸadu(恥づ)という語が生まれた可能性を考えなければなりません。
「下」を意味するpadi*/pati*のような語があったかどうかが、大きな鍵になります。
ここで、朝鮮語に目を向けましょう。
詳しくは、前々回の「天(あま)」の語源は「雨(あま)」の語源よりはるかに難しかった、ミャオ・ヤオ語族と日本語の記事と、前回のかつての日本語の隣人をよく知る、日本語と朝鮮語の間に存在した言語の記事を参照していただければと思いますが、日本語の近縁言語で「水」を意味したpataのような語は、朝鮮語ではpada(海)になり、日本語ではbatyabatya(ばちゃばちゃ)/basyabasya(ばしゃばしゃ)を含む様々な語になりました。日本語の近縁言語で「水」を意味したpataのような語は、「陸地」も意味するようになり、朝鮮語ではpat(畑)パ(トゥ)とpadak(表面)パダ(ク)になり、日本語ではɸata(畑)/ɸataka*(畑)とɸada(肌)/ɸadaka(裸)になりました。
日本語の近縁言語の語彙は、朝鮮語にも日本語にもしっかり入っており、期待が持てます。
「下」を意味するpadi*/pati*のような語があったかどうかが、ポイントでした。
朝鮮語に、padʒiパヂという語があります。現代でもよく使われます。padʒiは、朝鮮の民族衣装の下のパーツを意味していた語です(写真は夢市場様のウェブサイトより引用)。
写真では少ししか見えませんが、男性が下に穿いているのがpadʒiです。padʒiは、今では「ズボン」を意味しています。
日本語の近縁言語で「水」を意味したpataのような語が、「水」→「雨」→「落下、下方向、下」という意味変化の超頻出パターンをたどったことは確実でしたが、やはり「下」を意味するpadi*/pati*のような語があったのです。
「下」を意味するpadi*/pati*のような語が、「下への動き」にとどまらず、「うしろ(あるいは奥)への動き」を意味するようになったのが、ɸadi(恥)/ɸadu(恥づ)のようです。ɸadi(恥)/ɸadu(恥づ)も、英語のshyのように、恐れたり、驚いたりすることを意味していたかもしれません。
※「水」を意味していた語が、「水」→「雨」→「落下、下方向、下」と意味変化した後、「下への動き」にとどまらず、「うしろへの動き」を意味するようになるのは、決して珍しいケースではないようです。「水」を意味していたpataのような語が、「下への動き」で止まってしまったら、「はったり」のような語は生まれないでしょう。「下への動き」にとどまらず、「うしろへの動き」を意味するようになれば、脅すこと・驚かすことを表す「はったり」のような語も生まれます。下に移動させることを意味するotosu(落とす)に続いて、うしろに移動させることを意味するodosu(脅す)が生まれるのと同じです。
日本語と朝鮮語の例を見ると、以下のような構図を考えることが重要だとわかります。
日本語と朝鮮語は残りましたが、圧倒的大多数の言語は消滅しました。しかし、消えていった大多数の言語が残した語彙が、日本語と朝鮮語に蓄積しています。消滅した大多数の言語を考慮に入れないと、言語の歴史は研究できないのです。