天皇(大王)だった可能性が出てきた蘇我氏、日本史における最大の衝撃

2009年に、大山誠一氏の「天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト」と題された衝撃的な著作が出版されました(大山2009)。

大山氏の著作は、「聖徳太子はいなかった」というフレーズとともに紹介されることが多いですが、上記の著作は、それを超える驚きの内容になっています。厩戸王という人物は実在したが、彼にかぶせられた「聖徳太子」という人物像は虚像であった、額田部王という人物は実在したが、彼女にかぶせられた「推古天皇」という人物像は虚像であった、大山氏の話はそこで終わらないのです。当時、日本の最高位にあったのが蘇我馬子であること、つまり、蘇我氏が天皇(大王)であったことにまで話が進みます。

「聖徳太子はいなかった」というフレーズと比べても、「蘇我氏は天皇(大王)だった」というフレーズは衝撃的でしょう(今の天皇家はなんなのという問いにつながるからです)。しかし、もう誤魔化せないところまで来ています。少なくとも、この可能性を真剣に検討しなければならないところまで来ています。

大山誠一氏の著作の紹介は次回にまわし、ここでは前回の記事の続きをお話しします。前座のようなものと考えてください。

今となっては、悲劇の始まりにも思えます。

一方では、継体天皇と手白香皇女の間に、広庭皇子がいました。

他方では、継体天皇と尾張目子媛の間に、勾大兄皇子と檜隈高田皇子がいました。

そして、継体天皇が病で死んだ時に、広庭皇子あるいは広庭皇子を押す勢力が、勾大兄皇子と檜隈高田皇子を殺してしまったようだとお話ししました(いわゆる「辛亥の変(しんがいのへん)」はあったということです、呪われた時代の始まりか、継体天皇→安閑天皇→宣化天皇→欽明天皇、最後の巨大前方後円墳が作られる時を参照)。こうして、広庭皇子が欽明天皇になります。

広庭皇子も気になる存在ですが、広庭皇子を押していた勢力も気になります。

欽明天皇およびその後の時代を考えるうえで重要なのは、欽明天皇の以下の三人の妻です。

  • 堅塩媛
  • 小姉君
  • 石姫

堅塩媛と小姉君は、蘇我稲目の娘で、蘇我馬子の姉妹です。

上の図で、堅塩媛と小姉君が欽明天皇と結婚します。欽明天皇と堅塩媛の間には13人の子どもが生まれ、欽明天皇と小姉君の間には5人の子どもが生まれます。欽明天皇の子どもの大部分は、この堅塩媛と小姉君が産んでいます。欽明天皇は、蘇我氏とべったりの天皇なのです。

日本の歴史の研究では、これを「蘇我氏は天皇の外戚になった」と解釈してきました。しかし、この解釈は危ないです。前々回の記事では、古い天皇の直系子孫と結婚することによって応神天皇が誕生したのを見ました。前回の記事では、古い天皇の直系子孫と結婚することによって継体天皇が誕生したのを見ました。そこには、古事記と日本書紀が信じ込ませようとしている「万世一系」とは違い、結婚を通じて新たに皇位継承権が生じるシステムがぼんやり見えるのです。上の蘇我氏と欽明天皇の話は、継体天皇の死の直後の話です。少なくとも、一つの可能性として、上記の結婚によって蘇我氏に皇位継承権が生じた可能性も考えなければならないのです。

残る石姫とは、どんな人でしょうか。ヲホドノオウは、仁賢天皇の娘である手白香皇女と結婚して、継体天皇になりました。息子の勾大兄皇子も、仁賢天皇の娘である春日山田皇女と結婚し、檜隈高田皇子も、仁賢天皇の娘である橘仲皇女と結婚しました。この檜隈高田皇子と橘仲皇女の間に生まれたのが、石姫です。

この図の左側から蘇我氏が欽明天皇(広庭皇子)に近づいてくるわけですが、石姫は蘇我氏とは全然関係のない人です(図示していませんが、手白香皇女の妹である橘仲皇女が、檜隈高田皇子の妻で、石姫の母です)。

継体天皇と尾張目子媛は昔からの夫婦で、継体天皇と手白香皇女は新しい夫婦です。そのため、勾大兄皇子/檜隈高田皇子は、広庭皇子よりかなり年が上だったのです。

古事記と日本書紀は、勾大兄皇子が安閑天皇になり、檜隈高田皇子が宣化天皇になったことにしています。当然、橘仲皇女が宣化天皇の皇后になったことにしています。そして、宣化天皇と宣化天皇の皇后の娘である石姫が、欽明天皇と結婚して皇后になり、淳中倉太珠敷皇子を産んで、この皇子が、欽明天皇の次の敏達天皇になったことにしています。

強調した部分は、今まで当たり前のこととされてきましたが、見直されなければなりません。前回の記事で論じたように、531年に継体天皇が病で死んだ時に、その息子である勾大兄皇子と檜隈高田皇子は殺されたと考えられるからです。勾大兄皇子が天皇になることはないし、檜隈高田皇子が天皇になることもありません。当然、橘仲皇女が皇后になることもありません。こうなると、ドミノ倒しで、石姫が欽明天皇の皇后になったというのは本当か、淳中倉太珠敷皇子が欽明天皇の次の天皇になったというのは本当かということまで問題になってきます(古事記と日本書紀によれば、欽明天皇はまず石姫と結婚し、次いで堅塩媛と結婚したことになっています)。

後で詳しく紹介しますが、大山氏は、「天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト」の中で、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇を怪しいと睨んでいます(大山2009)。筆者も、大山氏と同じように考えますが、筆者は、さらにその前の敏達天皇も怪しいと睨んでいます。大山氏も、筆者も、一連の男女が実在したことは認めていますが、それらの男女が天皇になったのか疑っているのです。

ここで、考古学者の白石太一郎氏によって作成された巨大前方後円墳の編年図をもう一度示します(白石2013)。

最後の巨大前方後円墳となった五条野丸山古墳(ごじょうのまるやまこふん)は、570年に死亡した蘇我稲目の墓か、571年に死亡した欽明天皇の陵かと論じられてきた古墳です(白石2018)。五条野丸山古墳は、蘇我氏の本拠地に堂々と作られています。しかし、五条野丸山古墳を大臣であった蘇我稲目の墓として、欽明天皇の陵をそれよりはるかに小さい古墳に求めるのは、やはり無理があります。欽明天皇は、父は継体天皇、母は仁賢天皇の娘である手白香皇女です。蘇我氏の人間ではありません。その蘇我氏の人間ではない欽明天皇の陵が、蘇我氏の本拠地に堂々と作られたのです。河内大塚古墳(かわちおおつかこふん)の築造が中止されたのは、欽明天皇の陵が蘇我氏の意向によって河内大塚古墳から五条野丸山古墳に変更されたためと見られます。なぜ蘇我氏は蘇我氏の人間ではない欽明天皇にそのような最高の待遇をしたのでしょうか。それは、欽明天皇が蘇我堅塩媛と結婚してくれたことによって、蘇我氏に皇位継承権が生じたからである可能性が高いです。まさにこの点で、欽明天皇は蘇我氏にとって特別な人間だったのです。

欽明天皇の次に即位したという敏達天皇の陵はどうでしょうか。こちらは大変奇妙なことになっています。敏達天皇が死亡した時には、敏達天皇の陵は作られず、母の石姫が眠る古墳に葬られたことになっています。日本書紀がそう述べているのです。このあたりに、限界が感じられます。「作り話」という言葉があります。でも、話を作るのと同じように、巨大な古墳を作ることはできないのです。だから、巨大な古墳は信用できるのです。そして、白石氏が作成したような編年表は貴重なのです。

欽明天皇の陵と見られる五条野丸山古墳には、二つの石棺が納められていることが古くから知られていました。そのため、考古学が発達していない時代には、天武天皇と持統天皇が葬られた古墳であると考えられていたこともありました。しかし、考古学が発達した現代では、年代が大きく異なり、欽明天皇と堅塩媛が葬られた古墳であると考えられています(白石1999)。欽明天皇は、皇后であるはずの石姫ではなく、皇后ではないはずの堅塩媛と眠っていることになります。

このように、欽明天皇の皇后になったという石姫も、欽明天皇の次の天皇になったという淳中倉太珠敷皇子も、なんとも怪しげです。

ちなみに、欽明天皇が死亡した後、淳中倉太珠敷皇子が敏達天皇になり、同時に、蘇我馬子が大臣になったことになっています。

本当にそうなのでしょうか。

古事記と日本書紀の制作者にとって、淳中倉太珠敷皇子(敏達天皇になったとされる)は極めて重要な存在です。淳中倉太珠敷皇子と息長氏出身の広姫の間から生まれた子孫に、田村皇子(舒明天皇になったとされる)と宝皇女(皇極天皇になったとされる)がいるからです。

この田村皇子と宝皇女の間に、天智天皇と天武天皇が生まれるのです。田村皇子と宝皇女は、叔父と姪ですが、年齢はほとんど変わりません。当時の日本では、このようなことはよくありました。

想像すると恐ろしいですが、淳中倉太珠敷皇子が天皇にならなかったとしたら、天智天皇と天武天皇の位置づけはどうなってしまうでしょうか。有名な645年の「乙巳の変(いっしのへん)」では、皇極天皇がいるところで、中大兄皇子(のちの天智天皇)たちが蘇我入鹿(天皇の地位は唯一の一族の者しか継承できないのに、その地位を奪おうとした無礼者として描かれている)を斬り殺したことになっているのです。

不穏な空気が漂ってきました。

筆者が今回の記事で述べたようなことを本格的に考えるようになったのは、大山氏の著作に触れてからです。筆者も、大山氏の著作から大きな影響を受けた一人です。

前座はこのくらいにして、大山氏の著作を紹介することにしましょう。

※上では、通説の通り、田村皇子と宝皇女の間に天智天皇と天武天皇が生まれたことにしました。しかし、筆者は、天智天皇と天武天皇は、母親は同じだが、父親が異なっていた可能性があると考えています。また、天智天皇と天武天皇の間は穏やかではなかったと考えています。これについては、別の機会に大和岩雄氏のすぐれた研究を紹介します(大和2010)。

 

蘇我稲目の墓はどこにあるのか?

最後の巨大前方後円墳である五条野丸山古墳が欽明天皇の陵なら、蘇我稲目の墓はどこにあるのでしょうか。

どうやら、蘇我氏は競って大きな前方後円墳を作るようなことはせず、独自の墓を築いていたようです。

欽明天皇の五条野丸山古墳が最後の巨大前方後円墳になったのは、蘇我氏の意向によるものでしょう。

最近、蘇我稲目の墓ではないかと注目を集めているのは、都塚古墳(みやこづかこふん)です。

都塚古墳の近くには、蘇我馬子の墓と考えられている石舞台古墳(いしぶたいこふん)があります。石舞台古墳は、本来あるはずの墳丘土がなくなっており、石室がむき出しになっています(写真はWikipedia(663highland様)より引用)。

蘇我氏を滅ぼした人たちが大人げないことをやったのでしょうか。

 

参考文献

大山誠一、「天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト」、NHK出版、2009年。

大和岩雄、「日本書紀成立考 天武・天智異父兄弟考」、大和書房、2010年。

白石太一郎、「古墳とヤマト政権 古代国家はいかに形成されたか」、文藝春秋、1999年。

白石太一郎、「古墳からみた倭国の形成と展開」、敬文舎、2013年。

白石太一郎、「古墳の被葬者を推理する」、中央公論新社、2018年。

呪われた時代の始まりか、継体天皇→安閑天皇→宣化天皇→欽明天皇、最後の巨大前方後円墳が作られる時

前回の記事では、日本史上最大の前方後円墳が作られた「倭の五王」の時代について論じました。巨大前方後円墳は、その後どうなったのでしょうか。考古学者の白石太一郎氏によって作成された巨大前方後円墳の編年図を再び見てみましょう(白石2013)。

誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)と大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)の築造はさすがに大変だったようで、その後巨大前方後円墳は小さくなります。雄略天皇(倭の五王の最後の「武」)の陵であると考えられている岡ミサンザイ古墳(おかみさんざいこふん)も小さくなっていますが、その後さらに小さくなります。

天皇の地位をめぐる激しい殺し合いで一族が縮小してしまったこと、そして、拠り所であった宋が滅亡してしまったことが大きく影響しています。まさに弱り目に祟り目です。

古事記と日本書紀によれば、雄略天皇の後、以下の天皇がいたことになっています。清寧天皇、顕宗天皇、仁賢天皇、武烈天皇です。

15代の応神天皇から22代の清寧天皇までを見てください。常に天皇の息子か兄弟が後を継いでいます。ところが、22代の清寧天皇に子ができませんでした。困っているところで、行方不明になっていた億計王(のちの仁賢天皇)と弘計王(のちの顕宗天皇)が都から離れた播磨で発見されます。雄略天皇は即位する前にいとこである市辺押磐皇子を殺しており、市辺押磐皇子の二人の息子である億計王と弘計王は隠れていたのです。弘計王は顕宗天皇になり、億計王は仁賢天皇になります(なぜか弟が兄より先に天皇になります)。しかし、後継者問題は一時的に回避されただけで、25代の武烈天皇に子ができず、またしても窮地に陥ります。この期間の記述は、古事記と日本書紀で若干違いますが、後継者がいないという深刻な事態になったことは間違いありません。

近い縁のある者がいないということで、遠い縁のある者を探したことでしょう。ここでなんと、天皇の側近の者たちは、都から離れた近江からヲホドノオウという人物を連れてきます。古事記と日本書紀によれば、応神天皇の五世の孫ということになっています(応神天皇の五世代下の子孫であるが、仁徳天皇の子孫ではないということです)。このヲホドノオウが継体天皇になるわけですが、ヲホドノオウには強い疑いの目が向けられてきました。歴史学者の井上光貞氏は、継体天皇に関する諸説を検討しながら、以下のように述べています(井上2005)。

戦後、古代史のタブーが解かれたとき、水野祐氏は王朝交替論をとなえ、応神王朝はここで絶え、継体天皇を始祖とする新しい王朝が誕生したのであると解釈した。というのは、記紀では、継体天皇を応神天皇の五世の孫としているが、それは応神王朝の始祖から数え、しかも割り切れた五という数字で血縁関係を結んでいる点がまずおかしいし、また日本書紀によれば、継体天皇は即位後二十年も古都の大和に入れなかったというのもふしぎだからである。記紀はまた、応神王朝の第二世、仁徳天皇を徳の高い天皇とし、最後の武烈天皇はひどい暴君として描いているが、それは応神王朝が武烈天皇で絶えたことをあらわしているのであって、当時、大和政権で最大の権力を握っていた大伴金村は、前王朝とは血縁関係のない継体天皇を擁立したのであろう、と。

直木孝次郎氏は、さらに一歩を進めて、継体天皇は越前の豪族であり、武烈天皇の死後、大和朝廷に分裂がおこり、朝廷の支配を維持していくことができず、各地に動揺が生じたが、このとき、継体天皇は応神五世の子孫と称して興起し、近江・尾張を固めながら河内・山背に進出し、ついに大和に突入し、磐余玉穂に入って皇位についたのではないかとした。

直木氏のこの発想は、一つには継体天皇の后妃の多くは尾張や近江の豪族の子女で、これらは継体天皇がまだ越前にあったころめとったものであろうという判断からきている。つまり継体は、たんに越前の豪族にとどまらず、尾張・近江を一帯とした大きな勢力を統率していたことを示しているとおもわれるからである。また継体天皇が二十年も大和に入れなかったのは、大和に対立する強い勢力があったからで、大和政権の権力者であった大伴金村が継体天皇を擁立したという所伝は現実味がなく、実際は継体天皇が大伴氏を含めた大和政権を降して皇位を簒奪したのである、とした。

以上の諸説のうちで、継体天皇を応神五世の孫としたのは、水野氏も指摘したようにおそらく七世紀の宮廷での創作ではないだろうか。というのは、七〇一年に律令法典が完成したが、継嗣令というその法典の一章には、「天皇の子の親王から第四世までは王というが、第五世からは皇族の待遇をうけない」とし、七〇六年には第五世王も入ると改めた。この四世、五世の「世」はどこから数えるのか、奈良時代の法律家のあいだにも異説を生じたが、この法典のつくられたちょうどそのころに、古事記と日本書紀は完成している。わたくしには、古事記が継体天皇を応神の五世の孫とし、日本書紀が応神五世の孫の子としているのは、この知識が大きく働いているとおもわれるのである。

しかし、これには反対説がある。聖徳太子の古い伝記の一つである『上宮記』に、応神天皇から継体天皇にいたる一人一人の王の名がちゃんと記してあるから、そのような推測の余地はない、という意見がそれである。だが、上宮記がそれほど古い文献かどうか疑わしいし、帝紀や記紀を書いた人がそのことを知っていたなら、皇統には神経質なかれらが、それを書きもらすはずはなかっただろう。

古事記と日本書紀は、継体天皇は応神天皇の五世の孫と言うだけで、応神天皇から継体天皇に至る具体的な系譜を示していません。

一般的には古事記と日本書紀が最も古い書物であると考えられていますが、「古事記と日本書紀より古い可能性がある書物」あるいは「古事記と日本書紀より古い書物に基づいて書かれた可能性がある書物」というのがあり、実はとてもややこしいことになっています。

鎌倉時代に卜部兼方という人物が「釈日本紀」という書物を書きました。「釈日本紀」は、「日本書紀」の注釈書ですが、もう今では残っていない様々な古い書物を参照しています。「釈日本紀」は、もう現存しない「上宮記」という書物を引用しています。引用箇所を見ると、「上宮記曰一云・・・」と書かれています。ある書物が「上宮記」に引用され、そこからさらに、「上宮記」が「釈日本紀」に引用されたのだろうと考えられています。上の「・・・」の箇所に、応神天皇から継体天皇に至る系譜が記されているのです。こういう複雑な経緯があって、「・・・」の箇所に記されている応神天皇から継体天皇に至る系譜は真実なのか、論争になっています。

継体天皇は、古い天皇と血縁関係があるのかないのかという点が論争の焦点になってきましたが、筆者は、現時点ではどちらとも断定できないと思います。古い天皇は、何人もの妻を持ち、大勢の子どもがいたりするので、傍系の王族が都の周辺の地域で有力者になることはあり、継体天皇もその一人であったかもしれないし、なかったかもしれません。

ただ、前回の記事で論じたように、応神天皇は古い天皇の直系子孫と結婚しただけであり、その前の成務天皇と仲哀天皇は捏造されています。喧伝されてきた「万世一系」はもとから成り立っておらず、継体天皇は古い天皇と血縁関係があるのかないのかという点にこだわるのはあまり重要でないと思われます(そもそも、日本という国の始まりに位置する初代の卑弥呼と二代目の台与を無視して、「万世一系」もなにもあったものではありません)。

それよりはるかに重要なのは、前回の記事の応神天皇のところで見たように、結婚を通じて新たに皇位継承権が生じるシステムです。ヲホドノオウも、仁賢天皇の娘である手白香皇女と結婚して、継体天皇になっています。継体天皇は、皆に歓迎されながら天皇になったようには見えませんが、結婚が成立すると、もうだれも文句は言えないようです。

継体天皇の時代には、「磐井の乱」という大きな出来事もありました。継体天皇は、物部氏や大伴氏らとともに、この戦いに勝利します。「磐井の乱」は、九州の勢力の反乱というイメージがあるかもしれませんが、実際には、九州の勢力の自立化の動きを感じ取った大和政権側が仕掛けた戦いだったようです(水谷2001)。継体天皇は、「磐井の乱」の後まもなく、病死します。

継体天皇の陵は、白石氏の編年図に記されている今城塚古墳(いましろづかこふん)(墳丘長190メートル)であると見られています。それなりに大きい古墳です。大量の埴輪を有しています。

六世紀には、さらに河内大塚古墳(かわちおおつかこふん)(墳丘長335メートル)と五条野丸山古墳(ごじょうのまるやまこふん)(墳丘長310メートル)が作られます。五条野丸山古墳が、最後の巨大前方後円墳になります。その一つ前の河内大塚古墳は、間違いなく巨大な前方後円墳ですが、異様な姿を見せています。円形部分は盛り上がっているのに、台形部分は平坦なのです。埴輪もありません。なんらかの理由で築造作業が中止された、未完成の古墳のようなのです。

継体天皇について語る時には、継体天皇はどこから来たのか、古い天皇と血縁関係があるのかないのかという話、大和になかなか入れなかった話、磐井の乱に勝利した話、そして今城塚古墳の話になることが多いです。しかし、日本の歴史において最も重要なのは、継体天皇の死の話かもしれません。

日本書紀は、継体天皇の巻の最後で、継体天皇の死を伝えています。しかし、継体天皇の死の伝え方が普通ではないのです。日本書紀には、以下のように書かれています(書き下し文は坂本1994、現代語訳は宇治谷1988より引用)。

原文

廿五年春二月、天皇病甚。丁未、天皇崩于磐余玉穗宮、時年八十二。冬十二月丙申朔庚子、葬于藍野陵。

或本云「天皇、廿八年歲次甲寅崩。」而此云廿五年歲次辛亥崩者、取百濟本記、爲文。其文云「太歲辛亥三月、軍進至于安羅、營乞乇城。是月、高麗弑其王安。又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。」由此而言、辛亥之歲、當廿五年矣。後勘校者、知之也。

書き下し文

二十五年の春二月に、天皇、病甚し。丁未に、天皇、磐余玉穂宮に崩りましぬ。時に年八十二。冬十二月の丙申の朔庚子に、藍野陵に葬りまつる。

或本に云はく、天皇、二十八年歳次甲寅に崩りましぬといふ。而るを此に二十五年歳次辛亥に崩りましぬと云へるは、百済本記を取りて文を為れるなり。其の文に云へらく、太歳辛亥の三月に、軍進みて安羅に至りて、乞乇城を営る。是の月に、高麗、其の王安を弑す。又聞く、日本の天皇及び太子・皇子、倶に崩薨りましぬといへり。此に由りて言へば、辛亥の歳は、二十五年に当たる。後に勘校へむ者、知らむ。

現代語訳

二十五年春二月、天皇は病が重くなった。七日、天皇は磐余の玉穂宮で崩御された。時に八十二歳であった。冬十二月五日、藍野陵(摂津国三島郡藍野)に葬った。

ある本によると、天皇は二十八年に崩御としている。それをここに二十五年崩御としたのは、百済本記によって記事を書いたのである。その文に言うのに、「二十五年三月、進軍して安羅に至り、乞屯城を造った。この月高麗はその王、安を弑した。また聞くところによると、日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった」と。これによって言うと辛亥の年は二十五年に当る。後世、調べ考える人が明かにするだろう。

日本書紀のこの箇所は、極めて異常です。日本書紀の筆者の説明から窺えるのは、日本で伝えられている継体天皇の死と、百済本記が伝えている継体天皇の死が食い違っていたのだろうということです。百済本記が伝えている内容は、見ての通り、非常にショッキングです。日本の天皇、皇太子、皇子(天皇の息子)が一挙に死んだことを伝えています。

日本書紀の筆者は、百済人から大和政権に献呈された百済の歴史書である百済本記を信頼しており、ここでも、百済本記の記述を無視することができなかったのです。そして、日本で伝えられている継体天皇の死より、百済本記が伝えている継体天皇の死を優先的に記したのです。実際に、百済本記が伝えているように、当該の531年に高句麗の安臧王は死亡しています。

百済本記が伝えているのは531年の出来事ですが、この情報は大変貴重です。478年の宋への最後の遣使から600年の隋への最初の遣使までの間は、中国の歴史書から日本の情報を得られないからです。

老齢の継体天皇が病で死ぬのは自然としても、皇太子と皇子までいっしょに死ぬとはどういうことでしょうか。

まず、継体天皇と周囲の人間の関係を考えてみましょう。

すでに述べたように、ヲホドノオウは、仁賢天皇の娘である手白香皇女と結婚して、継体天皇になりました。そして、広庭皇子(のちの欽明天皇)が生まれました。

継体天皇は、手白香皇女と結婚して天皇になる前は、地方の有力者でしたが、もうその時点で、何人も妻がいました。そのうちの一人が、尾張目子媛でした。仁賢天皇の娘である手白香皇女と結婚する前は、尾張目子媛が正妻だったと見られます。継体天皇と尾張目子媛の間には、勾大兄皇子と檜隈高田皇子という息子がいました。

ヲホドノオウは、仁賢天皇の娘である手白香皇女と結婚して、継体天皇になりました。ヲホドノオウがもとから連れていたのが、勾大兄皇子と檜隈高田皇子です。ヲホドノオウが継体天皇になって、手白香皇女との間に生まれたのが、広庭皇子です。

継体天皇が死んだら、勾大兄皇子/檜隈高田皇子が天皇になるのか、広庭皇子が天皇になるのか、問題になるでしょう。いやそれどころか、争いになるかもしれません(この問題・争いは、従来「辛亥の変(しんがいのへん)」という名で論じられてきました)。

百済本記は、継体天皇が死んだ時にその皇太子・皇子もいっしょに死んだと伝えています。これが示唆しているのは、継体天皇が死ぬと同時に、勾大兄皇子と檜隈高田皇子が殺され、広庭皇子が天皇になったということです。

古事記と日本書紀の全体を見れば、勾大兄皇子が安閑天皇になり、檜隈高田皇子が宣化天皇になったことになっています(安閑天皇は在位2年、宣化天皇は在位4年という設定になっています)。古事記と日本書紀の制作者(監督者)としては、勾大兄皇子と檜隈高田皇子が殺されたことを隠したかったのでしょう。しかし、日本書紀の継体天皇の巻の筆者が、本当のこと(百済本記が伝えていること)を漏らしてしまったのです。

百済の百済本記だけでなく、日本の「上宮聖徳法王帝説」と「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」も、531年に継体天皇が死亡し、同じ年に欽明天皇が即位したことを示しています。「上宮聖徳法王帝説」と「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」が本当のことを書けるのは、古事記と日本書紀よりも古い書物に基づいて書かれているためと考えられます。

勾大兄皇子と檜隈高田皇子を殺したのは、当然、広庭皇子あるいは広庭皇子を押す勢力です。まずは、広庭皇子(のちの欽明天皇)と広庭皇子を押していた勢力について考えなければなりません。

もう一つ考えなければならないのは、なぜ勾大兄皇子と檜隈高田皇子が広庭皇子(のちの欽明天皇)と広庭皇子を押していた勢力によって殺されたことを、古事記と日本書紀は隠そうとしたのかということです。

「倭の五王」をめぐる論争の行方、いわゆる「応神天皇陵」と「仁徳天皇陵」についての記事で、古事記と日本書紀が成務天皇と仲哀天皇を捏造しているのを見ましたが、今度は安閑天皇と宣化天皇を捏造しています。

ヲホドノオウは、仁賢天皇の娘である手白香皇女と結婚して、継体天皇になりました。勾大兄皇子も、仁賢天皇の娘である春日山田皇女と結婚しました。檜隈高田皇子も、仁賢天皇の娘である橘仲皇女と結婚しました。継体天皇とその息子である勾大兄皇子・檜隈高田皇子は、新天地でなんとか溶け込もうとしていたのかもしれません。

仁賢天皇の娘で、継体天皇の皇后であった手白香皇女の陵は、白石氏の編年図の西山塚古墳(にしやまづかこふん)、勾大兄皇子と春日山田皇女の合葬墓は、高屋城山古墳(たかやしろやまこふん)、檜隈高田皇子と橘仲皇女の合葬墓は、鳥屋ミサンザイ古墳(とりやみさんざいこふん)と見られています(白石2018)。

※古事記と日本書紀の記述に従えば、高屋城山古墳は勾大兄皇子と春日山田皇女の合葬墓で、鳥屋ミサンザイ古墳は檜隈高田皇子と橘仲皇女の合葬墓であるということになりますが、古事記と日本書紀の記述には、疑いもあります。

継体天皇の陵と見られている今城塚古墳に、奈良・大阪の二上山白石、兵庫の竜山石、熊本の阿蘇ピンク石の3つの石棺が納められていたことがわかっています(水野2008)。継体天皇の息子である勾大兄皇子と檜隈高田皇子は、やはり継体天皇が死んだ時に殺されており、三人がいっしょに葬られた可能性があります。

これらの古墳の後に、河内大塚古墳と五条野丸山古墳が現れて、古代日本の長い伝統であった巨大前方後円墳は姿を消します。日本史上の大きな画期といってよいでしょう。

河内大塚古墳は未完成のようですが、なぜ未完成に終わったのでしょうか。

五条野丸山古墳の被葬者はだれで、なぜこの古墳が最後の巨大前方後円墳になったのでしょうか。

 

参考文献

井上光貞、「日本の歴史<1> 神話から歴史へ」、中央公論新社、2005年。

宇治谷孟、「日本書紀(上)」、講談社、1988年。

坂本太郎ほか、「日本書紀(三)」、岩波書店、1994年。

白石太一郎、「古墳からみた倭国の形成と展開」、敬文舎、2013年。

白石太一郎、「古墳の被葬者を推理する」、中央公論新社、2018年。

水谷千秋、「謎の大王 継体天皇」、文藝春秋、2001年。

水野正好ほか、「継体天皇の時代 徹底討論 今城塚古墳」、吉川弘文館、2008年。

「倭の五王」をめぐる論争の行方、いわゆる「応神天皇陵」と「仁徳天皇陵」について

前回の記事で「倭の五王」に言及しましたが、これも「邪馬台国」と同様に避けて通れない問題です。よい機会なので、深く切り込みましょう。

中国の歴史書のうちの宋書に、421~478年の期間に倭の五人の王が接触してきたことが記されており、その五人の王は「讃、珍、済、興、武」と記されているという話をしました。

古事記と日本書紀が宋書の「倭の五王」の話に触れたがらないので、「讃、珍、済、興、武」がだれなのか謎めいてしまうわけですが、全く手がかりがないわけではありません。

宋書には、以下のように書かれています(現代日本語訳は藤堂2010から引用)。

讃が死に、その弟の珍が後を継いだ。

倭王済が死に、世嗣の興が使者を遣わして貢ぎ物をたてまつった。

興が死んで、興の弟の武が倭王となった。

倭の五王の最後の「武」が宋の皇帝に送った文書も思い出しましょう(現代日本語訳は藤堂2010から引用)。

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順帝の昇明二年(四七八年)に、倭王武は使者を遣わして上表文をたてまつって言った。

「わが国は遠く辺地にあって、中国の藩屏となっている。昔からわが祖先は自らよろいかぶとを身に着け、山野をこえ川を渡って歩きまわり、落ち着くひまもなかった。東方では毛人の五十五ヵ国を征服し、西方では衆夷の六十六ヵ国を服属させ、海を渡っては北の九十五ヵ国を平定した。皇帝の徳はゆきわたり、領土は遠くひろがった。代々中国をあがめて入朝するのに、毎年時節をはずしたことがない。わたくし武は、愚か者ではあるが、ありがたくも先祖の業をつぎ、自分の統治下にある人々を率いはげまして中国の天子をあがめ従おうとし、道は百済を経由しようとて船の準備も行った。

ところが高句麗は無体にも、百済を併呑しようと考え、国境の人民をかすめとらえ、殺害して、やめようとしない。中国へ入朝する途は高句麗のために滞ってままならず、中国に忠誠をつくす美風を失わされた。船を進めようとしても、時には通じ、時には通じなかった。わたくし武の亡父済は、かたき高句麗が中国へ往来の路を妨害していることを憤り、弓矢を持つ兵士百万も正義の声をあげていたち、大挙して高句麗と戦おうとしたが、その時思いもよらず、父済と兄興を喪い、今一息で成るはずの功業も、最後の一押しがならなかっ た。父と兄の喪中は、軍隊を動かさず、そのため事を起こさず、兵を休めていたので未だ高句麗に勝っていない。

しかし、今は喪があけたので、武器をととのえ、兵士を訓練して父と兄の志を果たそうと思う。義士も勇士も、文官も武官も力を出しつくし、白刃が眼前で交叉しても、それを恐れたりはしない。もし中国の皇帝の徳をもって我らをかばい支えられるなら、この強敵高句麗を打ち破り、地方の乱れをしずめて、かつての功業に見劣りすることはないだろう。かってながら自分に、開府儀同三司を帯方郡を介して任命され、部下の諸将にもみなそれぞれ官爵を郡を介して授けていただき、よって私が中国に忠節をはげんでいる」と。

そこで順帝は詔をくだして武を、使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任命した。

「武」自身が言っています、「済」は父で、「興」は兄であると。

つまり、こういうことです。

  • 「讃」と「珍」は兄弟である。
  • 「済」の子が「興」と「武」で、「興」は兄で、「武」は弟である。

※カッコ内は、倭のそれぞれの王が宋に使者を送ったことが確実な年です。

困ったことに、前の二人(讃、珍)と後の三人(済、興、武)との間にどういう関係があるのか、宋書には書かれていません。

古事記と日本書紀によれば、その時代の日本の天皇の系図は以下の通りです。

パズルみたいになってきましたが、実はもうちょっと手がかりがあって、「済」が允恭天皇であり、「興」が安康天皇であり、「武」が雄略天皇であることは、確実視されています。

古事記と日本書紀には、允恭天皇が死んだ後に安康天皇が即位したが、その安康天皇がわずか数年で暗殺されてしまったことが記されているのです。安康天皇を暗殺したのは眉輪王で、眉輪王は雄略天皇によって殺されます。雄略天皇が驚き、怒る様子が描かれています。

「武」が、宋の皇帝に送った文書の中で、思いもよらず父の「済」と兄の「興」を失ったと述べていましたが、それと一致します。

雄略天皇は、幼武(ワカタケル)という実名を持っていましたが、この雄略天皇が、倭の五王の最後の「武」だったのです。

「済」が允恭天皇、「興」が安康天皇、「武」が雄略天皇なら、「倭の五王」の問題はすぐに解決しそうです。考えてみてください。残る「讃」と「珍」は兄弟だったと、宋書に書かれているのです。それならもう、履中天皇と反正天皇以外にありえません。「讃」は履中天皇、「珍」は反正天皇、「済」は允恭天皇、「興」は安康天皇、「武」は雄略天皇となりそうなものです。

筆者は、卑弥呼のケースと同様、中国の歴史書の記述が正確で、「讃」は履中天皇、「珍」は反正天皇、「済」は允恭天皇、「興」は安康天皇、「武」は雄略天皇である可能性は高いと考えています。しかし、多くの人はそうは考えてこなかったのです。

なぜでしょうか。

日本史上最大の前方後円墳の存在

この時代は、その象徴である巨大前方後円墳抜きに語ることはできません。なんといっても、日本史上最大の前方後円墳が作られた時代です。考古学者の白石太一郎氏によって作成された巨大前方後円墳の編年図をもう一度示します(白石2013)。

白石氏の編年図は、著しい進歩を遂げる考古学の賜物です。「倭の五王」に関する議論は古くからありますが、ここまで精度の高い編年図を手にして「倭の五王」について考えられるようになったのは、最近のことです。

最高位の者の墓と見られる最大の前方後円墳は、まず奈良盆地の三輪山の麓に作られ、箸墓古墳(はしはかこふん)→西殿塚古墳(にしとのづかこふん)→桜井茶臼山古墳(さくらいちゃうすやまこふん)→メスリ山古墳(めすりやまこふん)→行燈山古墳(あんどんやまこふん)→渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん)と続きます。その後、同じ盆地内のずっと北に位置する佐紀に現れたと思ったら、長くは続かず、奈良盆地を出て、大阪平野の河内・和泉に現れます。

河内・和泉でまず注目しなければならないのは、仲津山古墳(なかつやまこふん)です。以下は、日本で最も大きい前方後円墳10基を示したランキング表です(大阪府堺市のウェブサイトより引用、一部改変)。

仲津山古墳ができる前は、三輪山の麓に作られた渋谷向山古墳が最大でした。仲津山古墳は、墳丘長(円形部分の一番上から台形部分の一番下までの長さ)が290m、円形部分直径が170mです。渋谷向山古墳は、墳丘長が300m、円形部分直径が168mです。仲津山古墳は、渋谷向山古墳とほぼ同じサイズに作られたといってよいでしょう。

仲津山古墳の次に作られた上石津ミサンザイ古墳(かみいしづみさんざいこふん)は、墳丘長が365mで、作られた時点では、文句なしに日本史上最大です。

そのような仲津山古墳と上石津ミサンザイ古墳ですが、これまでの研究で重要視されてきたとは言い難いです。それらの後に続く誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)と大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)がもっと大きく、これらが日本史上最大だからです。

古事記と日本書紀は、上記の系図の各天皇について記述していますが、天皇によって記述量は異なります。中でも、応神天皇と仁徳天皇と雄略天皇の記述量が多いです。

雄略天皇の後は、衰退傾向が顕著です。天皇の地位をめぐる激しい殺し合いで一族が縮小してしまったこと、そして、拠り所であった宋が滅亡してしまったことが大きいです(雄略天皇が宋に使者を送ったのは478年ですが、その翌年の479年に宋は滅亡してしまいます。以後、中国への遣使は長く途絶えます)。

そのように古事記と日本書紀に大きく描かれている応神天皇と仁徳天皇を、日本史上最大の誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)と大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)に結びつけたいという心理が、研究者の間に働いています。

宮内庁は、仲津山古墳を応神天皇の皇后であった仲津姫の陵に、上石津ミサンザイ古墳を履中天皇の陵に、誉田御廟山古墳を応神天皇の陵に、大仙陵古墳を仁徳天皇の陵に治定しています。これは、だれが考えても正しくありません。応神天皇に死なれた仲津姫の陵が、応神天皇の陵よりずっと早くに来てしまうし、履中天皇の陵が、父の仁徳天皇の陵と祖父の応神天皇の陵より早くに来てしまいます。だれもが間違っていると考えるけれども、どう修正してよいのかわからず、混乱しています。

古事記と日本書紀に大きく描かれている応神天皇と仁徳天皇を、日本史上最大の誉田御廟山古墳と大仙陵古墳に結びつけたいという心理があるわけですが、これはちょっと危険です。

前述のように、仲津山古墳と上石津ミサンザイ古墳は、作られた時点では、日本史上最大(あるいは最大タイ)なのです。河内・和泉の勢力の創始者は、仲津山古墳と上石津ミサンザイ古墳の被葬者なのです。例えば、私たちにもっとなじみのある江戸幕府を考えてください。初代の徳川家康について、日本人はどれだけ語ってきたでしょうか。その後の秀忠、家光、家綱・・・について、日本人はどれだけ語ってきたでしょうか、雲泥の差があります。日本の歴史を通時的に語っている古事記と日本書紀が、河内・和泉の勢力の創始者である仲津山古墳と上石津ミサンザイ古墳の被葬者について全く書かないあるいは少ししか書かないというのは、まずありえないのです。

誉田御廟山古墳は、仲津山古墳のすぐ近くにあります。大仙陵古墳は、上石津ミサンザイ古墳のすぐ近くにあります。もし、誉田御廟山古墳が仲津山古墳と大して変わらないサイズだったら、どうなっていたでしょうか。もし、大仙陵古墳が上石津ミサンザイ古墳と大して変わらないサイズだったら、どうなっていたでしょうか。その後の前方後円墳のサイズダウンを見ても、誉田御廟山古墳と大仙陵古墳の築造があまりに重い負担であったことは明らかです。なぜ誉田御廟山古墳と大仙陵古墳をそこまで大きくしたのでしょうか。

先ほどの前方後円墳のランキング表を見てください。大仙陵古墳、誉田御廟山古墳、上石津ミサンザイ古墳の後に、なんと近畿外の造山古墳(つくりやまこふん)がランクインしています。この造山古墳は、近畿外の巨大前方後円墳なので白石氏の編年図には入っていませんが、上石津ミサンザイ古墳、誉田御廟山古墳、大仙陵古墳と同じ頃の古墳なのです。吉備は、邪馬台国の時代、いや、その前の時代から有力な地域ですが、その吉備の大首長が、河内・和泉の巨大前方後円墳に匹敵する巨大前方後円墳を見せつけてきたわけです。誉田御廟山古墳は、すぐ近くの十分に大きい仲津山古墳よりさらに大きくなり、大仙陵古墳は、すぐ近くの十分に大きい上石津ミサンザイ古墳よりさらに大きくなりましたが、誉田御廟山古墳と大仙陵古墳の無理といえるほどの巨大化には、外部からの影響もあったと思われます。

単純に、誉田御廟山古墳が仲津山古墳より明らかに大きいこと、大仙陵古墳が上石津ミサンザイ古墳より明らかに大きいことをもって、誉田御廟山古墳と大仙陵古墳を応神天皇と仁徳天皇に結びつけるのは、危険だということです。

卑弥呼は一体どんな人だったのか、日本の歴史の研究を大混乱させた幻の神功皇后の記事で、日本書紀が日本の歴史を大々的に改竄し、応神天皇が無理矢理、前の天皇に接続されていることをお話ししました。第14代天皇の仲哀天皇の死亡から第15代天皇の応神天皇の即位まで、天皇の地位が長いこと空位になっており、仲哀天皇の皇后である神功皇后がその間の70年ぐらい摂政(一般的には、最高位の者が幼かったり、病弱だったり、女性だったりする場合に、代わりに政務を執り行う者)を務め、母の神功皇后が死亡してようやく、応神天皇が即位しました(古事記は、日本書紀と違って、独立した神功皇后の巻を設けていません。古事記でも、神功皇后は仲哀天皇の皇后で、応神天皇の母であるという設定はできあがっていますが、神功皇后は日本書紀におけるほど極端な豪傑にはなっていません)。

応神天皇は、なぜこんなに無理のある話に付き合わされているのでしょうか。応神天皇が誉田御廟山古墳の被葬者であるのなら、仲津山古墳の被葬者→上石津ミサンザイ古墳の被葬者→誉田御廟山古墳の被葬者→大仙陵古墳の被葬者と続く流れの中に無理なく位置づけられるだけではないでしょうか。

応神天皇のところでなにか重大な出来事あるいは変化があったのではないかと考えたくなるところです。重大な出来事あるいは変化があったのではないかと推測されるのは、誉田御廟山古墳の前ではなく、仲津山古墳の前です。仲津山古墳のところで、箸墓古墳からずっと奈良盆地にあった最高位の者の墓が初めて奈良盆地の外に出るからです。

歴史学者の井上光貞氏が、以下の鋭い指摘をしています(井上1960)。

箸墓古墳(はしはかこふん)についてもっと詳しく、古代日本に果たして殉葬はあったのかの記事で述べたように、第10代の崇神天皇、第11代の垂仁天皇、第12代の景行天皇は、奈良盆地に実在した最高位の者そのものではないとしても、少なくともそれらの最高位の者をモデルにした天皇です。

その景行天皇のところで、他の天皇のところでは出てこない三太子伝承というものが出てきます。景行天皇には大勢の子どもがいたが、そのうちの三人、ワカタラシヒコ(のちに第13代の成務天皇)、ヤマトタケル、イオキイリヒコに、皇位継承権が与えられたという話です。

古事記と日本書紀では、第10代の崇神天皇、第11代の垂仁天皇、第12代の景行天皇に比べて、第13代の成務天皇の記述がほぼゼロであり、ワカタラシヒコに実在性はありません(成務天皇が国造と稲置という地方官を置いたことが短く記されますが、これは先代の景行天皇の記述と重複していることが指摘されてきました。景行天皇の次のこの世代に天皇はいませんでしたということにしてしまうと、話のつながりが悪くなるのでしょう)。

ヤマトタケルも、東西に展開された大規模な征服活動が美化されながら一人の人間に仮託された英雄であり、実在性がありません。

残るイオキイリヒコは、先祖のミマキイリヒコ(崇神天皇の実名)やイクメイリヒコ(垂仁天皇の実名)と同系統の名前を持ち、本物っぽいのですが、なぜか、皇位継承権を与えられた後どうなったのか、全く語られません。ワカタラシヒコとヤマトタケルと違って、全く語られないのです。

しかし、系譜上、イオキイリヒコにホムダマワカという息子がいたこと、そして、ホムダマワカに仲津姫という娘がいたことがわかっています。ホムダマワカは仲津姫を応神天皇と結婚させています。

応神天皇の皇后であった仲津姫は、素性がこの上なくはっきりしています。仲津姫は、奈良盆地に存在した最高位の者の直系子孫だったのです。

そして、イオキイリヒコ→ホムダマワカ→仲津姫という正統なラインの横に、ヤマトタケル→仲哀天皇(神功皇后と結婚)→応神天皇という怪奇的なラインが走っています。

実際の歴史は、およそ井上氏が考えているように展開したのでしょう。

井上氏が説明しているように、応神天皇の前に付けられた怪奇的なラインを消すと、上の図のようになります。

応神天皇の祖先に古い天皇はおらず、応神天皇は古い天皇の直系子孫と結婚したということです。

応神天皇は、日本で大人気の「サザエさん」にたとえれば、マスオさんのような人です(画像はサザエさん公式ホームページ(www.sazaesan.jp)より引用)。

波平さんの後にマスオさんが最高位に就くことは、古代中国では認められません。波平さんは磯野家の人間で、マスオさんはフグ田家の人間であるという見方をするからです。しかし、古代日本では、波平さんの後にマスオさんが最高位に就いても、よかったのです(なんなら、サザエさん自身が最高位に就いてもよいのです)。

古代日本の最高位の継承システムがこのようになっていたというのは、納得のいくところです。

天皇の起源はもしかして・・・倭国大乱と卑弥呼共立について考えるの記事でお話ししたように、卑弥呼の即位前にも、台与の即位前にも、大きなもめ事がありました。結局、どの男の権力者も最高位に就くことができず、象徴として少女の卑弥呼と台与を最高位に据えることしかできませんでした。殺し合いまで起きた二度の大きなもめ事を経験した男の権力者たちは、さすがに考えたし、話し合ったでしょう。しかし、卑弥呼と台与の時代の直後に、最高位がある一族の内部で継承されていくシステムが確立したとは全く考えられません。男の権力者たちがどうにかこうにか合意したのは、最高位がいくつかの氏族の間で動きうるシステムだったでしょう。少なくとも、結婚を通じて新たに皇位継承権が生じるシステムだったことは間違いなさそうです。応神天皇のケースだけでなく、その後のケースからも、そのように判断できます。この話には、後でまた戻ることにしましょう。

仲津山古墳が応神天皇の陵なら、上石津ミサンザイ古墳は仁徳天皇の陵ということになりますが、これについてはどうでしょうか。

日本書紀の仁徳天皇の巻の最後のほうに、仁徳天皇が河内(のちの和泉)の石津原にやって来て、ここに陵を築こうと決める場面があります。石津川の近くに、上石津ミサンザイ古墳があり、石津川から上石津ミサンザイ古墳を挟んでもっと離れたところに、大仙陵古墳があります。

古市古墳群の仲津山古墳→百舌鳥古墳群の上石津ミサンザイ古墳→古市古墳群の誉田御廟山古墳→百舌鳥古墳群の大仙陵古墳という動きは、多くの研究者の注目を集めてきました。白石氏の編年図でも、「ジグザグの動き」が見て取れます。意図せずにこうなったのではなく、意図してこうなったのでしょう。

仁徳天皇は自ら石津原に出向いて、ここに陵を築こうと決めたということですが、それがふさわしいのは、②の古墳ではないでしょうか。自分の頭で考えて、わざわざ①と違うところに陵を築くことを決めたのです。③の古墳は①の古墳の近くに作っただけで、④の古墳は②の古墳の近くに作っただけです。仁徳天皇の陵は、パターンを踏襲しただけの④の古墳(大仙陵古墳)より、②の古墳(上石津ミサンザイ古墳)である可能性が高いです。日本書紀の「石津原」が、石津川からどのくらい離れたところまで含むのか不明ですが、明らかに石津川の近くにあるのは上石津ミサンザイ古墳で、大仙陵古墳は結構離れています。

従来、仁徳天皇は大仙陵古墳に結びつけられてきましたが、上石津ミサンザイ古墳に結びつけても、問題はないのです。いや、そっちのほうが自然で、仲津山古墳が応神天皇の陵であることを支持するのです。

上の応神天皇の話は、古代日本の最高位の継承システムを示唆しているという点で非常に重要です(改竄された日本の歴史、なぜ古事記と日本書紀は本当のことを書かなかったのかの記事で、雄略天皇に仕えたと見られる乎獲居臣(ヲワケノオミ)という人物が、先祖の意富比垝(オホヒコ)から自分に至るまで代々天皇に仕えてきたことを誇り、先祖の名をずらずらと稲荷山鉄剣に刻ませたことをお話ししましたが、天皇に仕える者ですら、このこだわりようです。天皇自体の継承となれば、それどころではなかったでしょう)。

応神天皇の話に付随して、もう一つ見過ごせないことがあります。それは、古事記と日本書紀が、成務天皇と仲哀天皇という天皇を捏造しているということです。換言すると、実際に天皇であった者を天皇でなかったことにしているということです。古事記と日本書紀による歴史の改竄は、そこまで及んでいるのです。このことが、後で重大な意味を持ってきます。

※古事記と日本書紀によれば、景行天皇は晩年に三輪山の麓から近江(佐紀の近く)に移り、景行天皇の陵は三輪山の麓に築かれたが、次の成務天皇の陵は佐紀に築かれたことになっています。現代の高度に発達した考古学のおかげで、私たちは、古代日本の最高位の者の墓が三輪山の麓から佐紀に移り、佐紀から河内・和泉に移ったことを知りました。しかし、考古学など全く存在しない時代の古事記と日本書紀の制作者は、すでにそのことを知っていたのです。古代日本の最高位の者の墓が三輪山の麓から佐紀に移り、佐紀から河内・和泉に移る過程を詳しく記した書物があったことは間違いありません。

三輪山の麓の古墳群を研究する際には、卑弥呼と台与について記した中国の魏志(魏書)がある程度助けてくれます。河内・和泉の古墳群を研究する際には、倭の五王について記した中国の宋書がある程度助けてくれます。しかし、最高位の者の墓が佐紀古墳群に築かれた時代に関しては、いつもは頼りになる中国の歴史書の記述が存在しません。この時代は、いわゆる「空白の四世紀」にすっぽりと収まっています。中国の歴史書からは一切窺えないその時代に、成務天皇と仲哀天皇が投入されているのです。

 

参考文献

井上光貞、「日本国家の起源」、岩波書店、1960年。

白石太一郎、「古墳からみた倭国の形成と展開」、敬文舎、2013年。

藤堂明保ほか、「倭国伝 中国正史に描かれた日本 全訳注」、講談社、2010年。