2009年に、大山誠一氏の「天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト」と題された衝撃的な著作が出版されました(大山2009)。
大山氏の著作は、「聖徳太子はいなかった」というフレーズとともに紹介されることが多いですが、上記の著作は、それを超える驚きの内容になっています。厩戸王という人物は実在したが、彼にかぶせられた「聖徳太子」という人物像は虚像であった、額田部王という人物は実在したが、彼女にかぶせられた「推古天皇」という人物像は虚像であった、大山氏の話はそこで終わらないのです。当時、日本の最高位にあったのが蘇我馬子であること、つまり、蘇我氏が天皇(大王)であったことにまで話が進みます。
「聖徳太子はいなかった」というフレーズと比べても、「蘇我氏は天皇(大王)だった」というフレーズは衝撃的でしょう(今の天皇家はなんなのという問いにつながるからです)。しかし、もう誤魔化せないところまで来ています。少なくとも、この可能性を真剣に検討しなければならないところまで来ています。
大山誠一氏の著作の紹介は次回にまわし、ここでは前回の記事の続きをお話しします。前座のようなものと考えてください。
今となっては、悲劇の始まりにも思えます。
一方では、継体天皇と手白香皇女の間に、広庭皇子がいました。
他方では、継体天皇と尾張目子媛の間に、勾大兄皇子と檜隈高田皇子がいました。
そして、継体天皇が病で死んだ時に、広庭皇子あるいは広庭皇子を押す勢力が、勾大兄皇子と檜隈高田皇子を殺してしまったようだとお話ししました(いわゆる「辛亥の変(しんがいのへん)」はあったということです、呪われた時代の始まりか、継体天皇→安閑天皇→宣化天皇→欽明天皇、最後の巨大前方後円墳が作られる時を参照)。こうして、広庭皇子が欽明天皇になります。
広庭皇子も気になる存在ですが、広庭皇子を押していた勢力も気になります。
欽明天皇およびその後の時代を考えるうえで重要なのは、欽明天皇の以下の三人の妻です。
- 堅塩媛
- 小姉君
- 石姫
堅塩媛と小姉君は、蘇我稲目の娘で、蘇我馬子の姉妹です。
上の図で、堅塩媛と小姉君が欽明天皇と結婚します。欽明天皇と堅塩媛の間には13人の子どもが生まれ、欽明天皇と小姉君の間には5人の子どもが生まれます。欽明天皇の子どもの大部分は、この堅塩媛と小姉君が産んでいます。欽明天皇は、蘇我氏とべったりの天皇なのです。
日本の歴史の研究では、これを「蘇我氏は天皇の外戚になった」と解釈してきました。しかし、この解釈は危ないです。前々回の記事では、古い天皇の直系子孫と結婚することによって応神天皇が誕生したのを見ました。前回の記事では、古い天皇の直系子孫と結婚することによって継体天皇が誕生したのを見ました。そこには、古事記と日本書紀が信じ込ませようとしている「万世一系」とは違い、結婚を通じて新たに皇位継承権が生じるシステムがぼんやり見えるのです。上の蘇我氏と欽明天皇の話は、継体天皇の死の直後の話です。少なくとも、一つの可能性として、上記の結婚によって蘇我氏に皇位継承権が生じた可能性も考えなければならないのです。
残る石姫とは、どんな人でしょうか。ヲホドノオウは、仁賢天皇の娘である手白香皇女と結婚して、継体天皇になりました。息子の勾大兄皇子も、仁賢天皇の娘である春日山田皇女と結婚し、檜隈高田皇子も、仁賢天皇の娘である橘仲皇女と結婚しました。この檜隈高田皇子と橘仲皇女の間に生まれたのが、石姫です。
この図の左側から蘇我氏が欽明天皇(広庭皇子)に近づいてくるわけですが、石姫は蘇我氏とは全然関係のない人です(図示していませんが、手白香皇女の妹である橘仲皇女が、檜隈高田皇子の妻で、石姫の母です)。
継体天皇と尾張目子媛は昔からの夫婦で、継体天皇と手白香皇女は新しい夫婦です。そのため、勾大兄皇子/檜隈高田皇子は、広庭皇子よりかなり年が上だったのです。
古事記と日本書紀は、勾大兄皇子が安閑天皇になり、檜隈高田皇子が宣化天皇になったことにしています。当然、橘仲皇女が宣化天皇の皇后になったことにしています。そして、宣化天皇と宣化天皇の皇后の娘である石姫が、欽明天皇と結婚して皇后になり、淳中倉太珠敷皇子を産んで、この皇子が、欽明天皇の次の敏達天皇になったことにしています。
強調した部分は、今まで当たり前のこととされてきましたが、見直されなければなりません。前回の記事で論じたように、531年に継体天皇が病で死んだ時に、その息子である勾大兄皇子と檜隈高田皇子は殺されたと考えられるからです。勾大兄皇子が天皇になることはないし、檜隈高田皇子が天皇になることもありません。当然、橘仲皇女が皇后になることもありません。こうなると、ドミノ倒しで、石姫が欽明天皇の皇后になったというのは本当か、淳中倉太珠敷皇子が欽明天皇の次の天皇になったというのは本当かということまで問題になってきます(古事記と日本書紀によれば、欽明天皇はまず石姫と結婚し、次いで堅塩媛と結婚したことになっています)。
後で詳しく紹介しますが、大山氏は、「天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト」の中で、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇を怪しいと睨んでいます(大山2009)。筆者も、大山氏と同じように考えますが、筆者は、さらにその前の敏達天皇も怪しいと睨んでいます。大山氏も、筆者も、一連の男女が実在したことは認めていますが、それらの男女が天皇になったのか疑っているのです。
ここで、考古学者の白石太一郎氏によって作成された巨大前方後円墳の編年図をもう一度示します(白石2013)。
最後の巨大前方後円墳となった五条野丸山古墳(ごじょうのまるやまこふん)は、570年に死亡した蘇我稲目の墓か、571年に死亡した欽明天皇の陵かと論じられてきた古墳です(白石2018)。五条野丸山古墳は、蘇我氏の本拠地に堂々と作られています。しかし、五条野丸山古墳を大臣であった蘇我稲目の墓として、欽明天皇の陵をそれよりはるかに小さい古墳に求めるのは、やはり無理があります。欽明天皇は、父は継体天皇、母は仁賢天皇の娘である手白香皇女です。蘇我氏の人間ではありません。その蘇我氏の人間ではない欽明天皇の陵が、蘇我氏の本拠地に堂々と作られたのです。河内大塚古墳(かわちおおつかこふん)の築造が中止されたのは、欽明天皇の陵が蘇我氏の意向によって河内大塚古墳から五条野丸山古墳に変更されたためと見られます。なぜ蘇我氏は蘇我氏の人間ではない欽明天皇にそのような最高の待遇をしたのでしょうか。それは、欽明天皇が蘇我堅塩媛と結婚してくれたことによって、蘇我氏に皇位継承権が生じたからである可能性が高いです。まさにこの点で、欽明天皇は蘇我氏にとって特別な人間だったのです。
欽明天皇の次に即位したという敏達天皇の陵はどうでしょうか。こちらは大変奇妙なことになっています。敏達天皇が死亡した時には、敏達天皇の陵は作られず、母の石姫が眠る古墳に葬られたことになっています。日本書紀がそう述べているのです。このあたりに、限界が感じられます。「作り話」という言葉があります。でも、話を作るのと同じように、巨大な古墳を作ることはできないのです。だから、巨大な古墳は信用できるのです。そして、白石氏が作成したような編年表は貴重なのです。
欽明天皇の陵と見られる五条野丸山古墳には、二つの石棺が納められていることが古くから知られていました。そのため、考古学が発達していない時代には、天武天皇と持統天皇が葬られた古墳であると考えられていたこともありました。しかし、考古学が発達した現代では、年代が大きく異なり、欽明天皇と堅塩媛が葬られた古墳であると考えられています(白石1999)。欽明天皇は、皇后であるはずの石姫ではなく、皇后ではないはずの堅塩媛と眠っていることになります。
このように、欽明天皇の皇后になったという石姫も、欽明天皇の次の天皇になったという淳中倉太珠敷皇子も、なんとも怪しげです。
ちなみに、欽明天皇が死亡した後、淳中倉太珠敷皇子が敏達天皇になり、同時に、蘇我馬子が大臣になったことになっています。
本当にそうなのでしょうか。
古事記と日本書紀の制作者にとって、淳中倉太珠敷皇子(敏達天皇になったとされる)は極めて重要な存在です。淳中倉太珠敷皇子と息長氏出身の広姫の間から生まれた子孫に、田村皇子(舒明天皇になったとされる)と宝皇女(皇極天皇になったとされる)がいるからです。
この田村皇子と宝皇女の間に、天智天皇と天武天皇が生まれるのです。田村皇子と宝皇女は、叔父と姪ですが、年齢はほとんど変わりません。当時の日本では、このようなことはよくありました。
想像すると恐ろしいですが、淳中倉太珠敷皇子が天皇にならなかったとしたら、天智天皇と天武天皇の位置づけはどうなってしまうでしょうか。有名な645年の「乙巳の変(いっしのへん)」では、皇極天皇がいるところで、中大兄皇子(のちの天智天皇)たちが蘇我入鹿(天皇の地位は唯一の一族の者しか継承できないのに、その地位を奪おうとした無礼者として描かれている)を斬り殺したことになっているのです。
不穏な空気が漂ってきました。
筆者が今回の記事で述べたようなことを本格的に考えるようになったのは、大山氏の著作に触れてからです。筆者も、大山氏の著作から大きな影響を受けた一人です。
前座はこのくらいにして、大山氏の著作を紹介することにしましょう。
※上では、通説の通り、田村皇子と宝皇女の間に天智天皇と天武天皇が生まれたことにしました。しかし、筆者は、天智天皇と天武天皇は、母親は同じだが、父親が異なっていた可能性があると考えています。また、天智天皇と天武天皇の間は穏やかではなかったと考えています。これについては、別の機会に大和岩雄氏のすぐれた研究を紹介します(大和2010)。
蘇我稲目の墓はどこにあるのか?
最後の巨大前方後円墳である五条野丸山古墳が欽明天皇の陵なら、蘇我稲目の墓はどこにあるのでしょうか。
どうやら、蘇我氏は競って大きな前方後円墳を作るようなことはせず、独自の墓を築いていたようです。
欽明天皇の五条野丸山古墳が最後の巨大前方後円墳になったのは、蘇我氏の意向によるものでしょう。
最近、蘇我稲目の墓ではないかと注目を集めているのは、都塚古墳(みやこづかこふん)です。
都塚古墳の近くには、蘇我馬子の墓と考えられている石舞台古墳(いしぶたいこふん)があります。石舞台古墳は、本来あるはずの墳丘土がなくなっており、石室がむき出しになっています(写真はWikipedia(663highland様)より引用)。
蘇我氏を滅ぼした人たちが大人げないことをやったのでしょうか。
参考文献
大山誠一、「天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト」、NHK出版、2009年。
大和岩雄、「日本書紀成立考 天武・天智異父兄弟考」、大和書房、2010年。
白石太一郎、「古墳とヤマト政権 古代国家はいかに形成されたか」、文藝春秋、1999年。
白石太一郎、「古墳からみた倭国の形成と展開」、敬文舎、2013年。
白石太一郎、「古墳の被葬者を推理する」、中央公論新社、2018年。