前回の記事で「倭の五王」に言及しましたが、これも「邪馬台国」と同様に避けて通れない問題です。よい機会なので、深く切り込みましょう。
中国の歴史書のうちの宋書に、421~478年の期間に倭の五人の王が接触してきたことが記されており、その五人の王は「讃、珍、済、興、武」と記されているという話をしました。
古事記と日本書紀が宋書の「倭の五王」の話に触れたがらないので、「讃、珍、済、興、武」がだれなのか謎めいてしまうわけですが、全く手がかりがないわけではありません。
宋書には、以下のように書かれています(現代日本語訳は藤堂2010から引用)。
讃が死に、その弟の珍が後を継いだ。
倭王済が死に、世嗣の興が使者を遣わして貢ぎ物をたてまつった。
興が死んで、興の弟の武が倭王となった。
倭の五王の最後の「武」が宋の皇帝に送った文書も思い出しましょう(現代日本語訳は藤堂2010から引用)。
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順帝の昇明二年(四七八年)に、倭王武は使者を遣わして上表文をたてまつって言った。
「わが国は遠く辺地にあって、中国の藩屏となっている。昔からわが祖先は自らよろいかぶとを身に着け、山野をこえ川を渡って歩きまわり、落ち着くひまもなかった。東方では毛人の五十五ヵ国を征服し、西方では衆夷の六十六ヵ国を服属させ、海を渡っては北の九十五ヵ国を平定した。皇帝の徳はゆきわたり、領土は遠くひろがった。代々中国をあがめて入朝するのに、毎年時節をはずしたことがない。わたくし武は、愚か者ではあるが、ありがたくも先祖の業をつぎ、自分の統治下にある人々を率いはげまして中国の天子をあがめ従おうとし、道は百済を経由しようとて船の準備も行った。
ところが高句麗は無体にも、百済を併呑しようと考え、国境の人民をかすめとらえ、殺害して、やめようとしない。中国へ入朝する途は高句麗のために滞ってままならず、中国に忠誠をつくす美風を失わされた。船を進めようとしても、時には通じ、時には通じなかった。わたくし武の亡父済は、かたき高句麗が中国へ往来の路を妨害していることを憤り、弓矢を持つ兵士百万も正義の声をあげていたち、大挙して高句麗と戦おうとしたが、その時思いもよらず、父済と兄興を喪い、今一息で成るはずの功業も、最後の一押しがならなかっ た。父と兄の喪中は、軍隊を動かさず、そのため事を起こさず、兵を休めていたので未だ高句麗に勝っていない。
しかし、今は喪があけたので、武器をととのえ、兵士を訓練して父と兄の志を果たそうと思う。義士も勇士も、文官も武官も力を出しつくし、白刃が眼前で交叉しても、それを恐れたりはしない。もし中国の皇帝の徳をもって我らをかばい支えられるなら、この強敵高句麗を打ち破り、地方の乱れをしずめて、かつての功業に見劣りすることはないだろう。かってながら自分に、開府儀同三司を帯方郡を介して任命され、部下の諸将にもみなそれぞれ官爵を郡を介して授けていただき、よって私が中国に忠節をはげんでいる」と。
そこで順帝は詔をくだして武を、使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任命した。
「武」自身が言っています、「済」は父で、「興」は兄であると。
つまり、こういうことです。
- 「讃」と「珍」は兄弟である。
- 「済」の子が「興」と「武」で、「興」は兄で、「武」は弟である。
※カッコ内は、倭のそれぞれの王が宋に使者を送ったことが確実な年です。
困ったことに、前の二人(讃、珍)と後の三人(済、興、武)との間にどういう関係があるのか、宋書には書かれていません。
古事記と日本書紀によれば、その時代の日本の天皇の系図は以下の通りです。
パズルみたいになってきましたが、実はもうちょっと手がかりがあって、「済」が允恭天皇であり、「興」が安康天皇であり、「武」が雄略天皇であることは、確実視されています。
古事記と日本書紀には、允恭天皇が死んだ後に安康天皇が即位したが、その安康天皇がわずか数年で暗殺されてしまったことが記されているのです。安康天皇を暗殺したのは眉輪王で、眉輪王は雄略天皇によって殺されます。雄略天皇が驚き、怒る様子が描かれています。
「武」が、宋の皇帝に送った文書の中で、思いもよらず父の「済」と兄の「興」を失ったと述べていましたが、それと一致します。
雄略天皇は、幼武(ワカタケル)という実名を持っていましたが、この雄略天皇が、倭の五王の最後の「武」だったのです。
「済」が允恭天皇、「興」が安康天皇、「武」が雄略天皇なら、「倭の五王」の問題はすぐに解決しそうです。考えてみてください。残る「讃」と「珍」は兄弟だったと、宋書に書かれているのです。それならもう、履中天皇と反正天皇以外にありえません。「讃」は履中天皇、「珍」は反正天皇、「済」は允恭天皇、「興」は安康天皇、「武」は雄略天皇となりそうなものです。
筆者は、卑弥呼のケースと同様、中国の歴史書の記述が正確で、「讃」は履中天皇、「珍」は反正天皇、「済」は允恭天皇、「興」は安康天皇、「武」は雄略天皇である可能性は高いと考えています。しかし、多くの人はそうは考えてこなかったのです。
なぜでしょうか。
日本史上最大の前方後円墳の存在
この時代は、その象徴である巨大前方後円墳抜きに語ることはできません。なんといっても、日本史上最大の前方後円墳が作られた時代です。考古学者の白石太一郎氏によって作成された巨大前方後円墳の編年図をもう一度示します(白石2013)。
白石氏の編年図は、著しい進歩を遂げる考古学の賜物です。「倭の五王」に関する議論は古くからありますが、ここまで精度の高い編年図を手にして「倭の五王」について考えられるようになったのは、最近のことです。
最高位の者の墓と見られる最大の前方後円墳は、まず奈良盆地の三輪山の麓に作られ、箸墓古墳(はしはかこふん)→西殿塚古墳(にしとのづかこふん)→桜井茶臼山古墳(さくらいちゃうすやまこふん)→メスリ山古墳(めすりやまこふん)→行燈山古墳(あんどんやまこふん)→渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん)と続きます。その後、同じ盆地内のずっと北に位置する佐紀に現れたと思ったら、長くは続かず、奈良盆地を出て、大阪平野の河内・和泉に現れます。
河内・和泉でまず注目しなければならないのは、仲津山古墳(なかつやまこふん)です。以下は、日本で最も大きい前方後円墳10基を示したランキング表です(大阪府堺市のウェブサイトより引用、一部改変)。
仲津山古墳ができる前は、三輪山の麓に作られた渋谷向山古墳が最大でした。仲津山古墳は、墳丘長(円形部分の一番上から台形部分の一番下までの長さ)が290m、円形部分直径が170mです。渋谷向山古墳は、墳丘長が300m、円形部分直径が168mです。仲津山古墳は、渋谷向山古墳とほぼ同じサイズに作られたといってよいでしょう。
仲津山古墳の次に作られた上石津ミサンザイ古墳(かみいしづみさんざいこふん)は、墳丘長が365mで、作られた時点では、文句なしに日本史上最大です。
そのような仲津山古墳と上石津ミサンザイ古墳ですが、これまでの研究で重要視されてきたとは言い難いです。それらの後に続く誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)と大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)がもっと大きく、これらが日本史上最大だからです。
古事記と日本書紀は、上記の系図の各天皇について記述していますが、天皇によって記述量は異なります。中でも、応神天皇と仁徳天皇と雄略天皇の記述量が多いです。
雄略天皇の後は、衰退傾向が顕著です。天皇の地位をめぐる激しい殺し合いで一族が縮小してしまったこと、そして、拠り所であった宋が滅亡してしまったことが大きいです(雄略天皇が宋に使者を送ったのは478年ですが、その翌年の479年に宋は滅亡してしまいます。以後、中国への遣使は長く途絶えます)。
そのように古事記と日本書紀に大きく描かれている応神天皇と仁徳天皇を、日本史上最大の誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)と大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)に結びつけたいという心理が、研究者の間に働いています。
宮内庁は、仲津山古墳を応神天皇の皇后であった仲津姫の陵に、上石津ミサンザイ古墳を履中天皇の陵に、誉田御廟山古墳を応神天皇の陵に、大仙陵古墳を仁徳天皇の陵に治定しています。これは、だれが考えても正しくありません。応神天皇に死なれた仲津姫の陵が、応神天皇の陵よりずっと早くに来てしまうし、履中天皇の陵が、父の仁徳天皇の陵と祖父の応神天皇の陵より早くに来てしまいます。だれもが間違っていると考えるけれども、どう修正してよいのかわからず、混乱しています。
古事記と日本書紀に大きく描かれている応神天皇と仁徳天皇を、日本史上最大の誉田御廟山古墳と大仙陵古墳に結びつけたいという心理があるわけですが、これはちょっと危険です。
前述のように、仲津山古墳と上石津ミサンザイ古墳は、作られた時点では、日本史上最大(あるいは最大タイ)なのです。河内・和泉の勢力の創始者は、仲津山古墳と上石津ミサンザイ古墳の被葬者なのです。例えば、私たちにもっとなじみのある江戸幕府を考えてください。初代の徳川家康について、日本人はどれだけ語ってきたでしょうか。その後の秀忠、家光、家綱・・・について、日本人はどれだけ語ってきたでしょうか、雲泥の差があります。日本の歴史を通時的に語っている古事記と日本書紀が、河内・和泉の勢力の創始者である仲津山古墳と上石津ミサンザイ古墳の被葬者について全く書かないあるいは少ししか書かないというのは、まずありえないのです。
誉田御廟山古墳は、仲津山古墳のすぐ近くにあります。大仙陵古墳は、上石津ミサンザイ古墳のすぐ近くにあります。もし、誉田御廟山古墳が仲津山古墳と大して変わらないサイズだったら、どうなっていたでしょうか。もし、大仙陵古墳が上石津ミサンザイ古墳と大して変わらないサイズだったら、どうなっていたでしょうか。その後の前方後円墳のサイズダウンを見ても、誉田御廟山古墳と大仙陵古墳の築造があまりに重い負担であったことは明らかです。なぜ誉田御廟山古墳と大仙陵古墳をそこまで大きくしたのでしょうか。
先ほどの前方後円墳のランキング表を見てください。大仙陵古墳、誉田御廟山古墳、上石津ミサンザイ古墳の後に、なんと近畿外の造山古墳(つくりやまこふん)がランクインしています。この造山古墳は、近畿外の巨大前方後円墳なので白石氏の編年図には入っていませんが、上石津ミサンザイ古墳、誉田御廟山古墳、大仙陵古墳と同じ頃の古墳なのです。吉備は、邪馬台国の時代、いや、その前の時代から有力な地域ですが、その吉備の大首長が、河内・和泉の巨大前方後円墳に匹敵する巨大前方後円墳を見せつけてきたわけです。誉田御廟山古墳は、すぐ近くの十分に大きい仲津山古墳よりさらに大きくなり、大仙陵古墳は、すぐ近くの十分に大きい上石津ミサンザイ古墳よりさらに大きくなりましたが、誉田御廟山古墳と大仙陵古墳の無理といえるほどの巨大化には、外部からの影響もあったと思われます。
単純に、誉田御廟山古墳が仲津山古墳より明らかに大きいこと、大仙陵古墳が上石津ミサンザイ古墳より明らかに大きいことをもって、誉田御廟山古墳と大仙陵古墳を応神天皇と仁徳天皇に結びつけるのは、危険だということです。
卑弥呼は一体どんな人だったのか、日本の歴史の研究を大混乱させた幻の神功皇后の記事で、日本書紀が日本の歴史を大々的に改竄し、応神天皇が無理矢理、前の天皇に接続されていることをお話ししました。第14代天皇の仲哀天皇の死亡から第15代天皇の応神天皇の即位まで、天皇の地位が長いこと空位になっており、仲哀天皇の皇后である神功皇后がその間の70年ぐらい摂政(一般的には、最高位の者が幼かったり、病弱だったり、女性だったりする場合に、代わりに政務を執り行う者)を務め、母の神功皇后が死亡してようやく、応神天皇が即位しました(古事記は、日本書紀と違って、独立した神功皇后の巻を設けていません。古事記でも、神功皇后は仲哀天皇の皇后で、応神天皇の母であるという設定はできあがっていますが、神功皇后は日本書紀におけるほど極端な豪傑にはなっていません)。
応神天皇は、なぜこんなに無理のある話に付き合わされているのでしょうか。応神天皇が誉田御廟山古墳の被葬者であるのなら、仲津山古墳の被葬者→上石津ミサンザイ古墳の被葬者→誉田御廟山古墳の被葬者→大仙陵古墳の被葬者と続く流れの中に無理なく位置づけられるだけではないでしょうか。
応神天皇のところでなにか重大な出来事あるいは変化があったのではないかと考えたくなるところです。重大な出来事あるいは変化があったのではないかと推測されるのは、誉田御廟山古墳の前ではなく、仲津山古墳の前です。仲津山古墳のところで、箸墓古墳からずっと奈良盆地にあった最高位の者の墓が初めて奈良盆地の外に出るからです。
歴史学者の井上光貞氏が、以下の鋭い指摘をしています(井上1960)。
箸墓古墳(はしはかこふん)についてもっと詳しく、古代日本に果たして殉葬はあったのかの記事で述べたように、第10代の崇神天皇、第11代の垂仁天皇、第12代の景行天皇は、奈良盆地に実在した最高位の者そのものではないとしても、少なくともそれらの最高位の者をモデルにした天皇です。
その景行天皇のところで、他の天皇のところでは出てこない三太子伝承というものが出てきます。景行天皇には大勢の子どもがいたが、そのうちの三人、ワカタラシヒコ(のちに第13代の成務天皇)、ヤマトタケル、イオキイリヒコに、皇位継承権が与えられたという話です。
古事記と日本書紀では、第10代の崇神天皇、第11代の垂仁天皇、第12代の景行天皇に比べて、第13代の成務天皇の記述がほぼゼロであり、ワカタラシヒコに実在性はありません(成務天皇が国造と稲置という地方官を置いたことが短く記されますが、これは先代の景行天皇の記述と重複していることが指摘されてきました。景行天皇の次のこの世代に天皇はいませんでしたということにしてしまうと、話のつながりが悪くなるのでしょう)。
ヤマトタケルも、東西に展開された大規模な征服活動が美化されながら一人の人間に仮託された英雄であり、実在性がありません。
残るイオキイリヒコは、先祖のミマキイリヒコ(崇神天皇の実名)やイクメイリヒコ(垂仁天皇の実名)と同系統の名前を持ち、本物っぽいのですが、なぜか、皇位継承権を与えられた後どうなったのか、全く語られません。ワカタラシヒコとヤマトタケルと違って、全く語られないのです。
しかし、系譜上、イオキイリヒコにホムダマワカという息子がいたこと、そして、ホムダマワカに仲津姫という娘がいたことがわかっています。ホムダマワカは仲津姫を応神天皇と結婚させています。
応神天皇の皇后であった仲津姫は、素性がこの上なくはっきりしています。仲津姫は、奈良盆地に存在した最高位の者の直系子孫だったのです。
そして、イオキイリヒコ→ホムダマワカ→仲津姫という正統なラインの横に、ヤマトタケル→仲哀天皇(神功皇后と結婚)→応神天皇という怪奇的なラインが走っています。
実際の歴史は、およそ井上氏が考えているように展開したのでしょう。
井上氏が説明しているように、応神天皇の前に付けられた怪奇的なラインを消すと、上の図のようになります。
応神天皇の祖先に古い天皇はおらず、応神天皇は古い天皇の直系子孫と結婚したということです。
応神天皇は、日本で大人気の「サザエさん」にたとえれば、マスオさんのような人です(画像はサザエさん公式ホームページ(www.sazaesan.jp)より引用)。
波平さんの後にマスオさんが最高位に就くことは、古代中国では認められません。波平さんは磯野家の人間で、マスオさんはフグ田家の人間であるという見方をするからです。しかし、古代日本では、波平さんの後にマスオさんが最高位に就いても、よかったのです(なんなら、サザエさん自身が最高位に就いてもよいのです)。
古代日本の最高位の継承システムがこのようになっていたというのは、納得のいくところです。
天皇の起源はもしかして・・・倭国大乱と卑弥呼共立について考えるの記事でお話ししたように、卑弥呼の即位前にも、台与の即位前にも、大きなもめ事がありました。結局、どの男の権力者も最高位に就くことができず、象徴として少女の卑弥呼と台与を最高位に据えることしかできませんでした。殺し合いまで起きた二度の大きなもめ事を経験した男の権力者たちは、さすがに考えたし、話し合ったでしょう。しかし、卑弥呼と台与の時代の直後に、最高位がある一族の内部で継承されていくシステムが確立したとは全く考えられません。男の権力者たちがどうにかこうにか合意したのは、最高位がいくつかの氏族の間で動きうるシステムだったでしょう。少なくとも、結婚を通じて新たに皇位継承権が生じるシステムだったことは間違いなさそうです。応神天皇のケースだけでなく、その後のケースからも、そのように判断できます。この話には、後でまた戻ることにしましょう。
仲津山古墳が応神天皇の陵なら、上石津ミサンザイ古墳は仁徳天皇の陵ということになりますが、これについてはどうでしょうか。
日本書紀の仁徳天皇の巻の最後のほうに、仁徳天皇が河内(のちの和泉)の石津原にやって来て、ここに陵を築こうと決める場面があります。石津川の近くに、上石津ミサンザイ古墳があり、石津川から上石津ミサンザイ古墳を挟んでもっと離れたところに、大仙陵古墳があります。
古市古墳群の仲津山古墳→百舌鳥古墳群の上石津ミサンザイ古墳→古市古墳群の誉田御廟山古墳→百舌鳥古墳群の大仙陵古墳という動きは、多くの研究者の注目を集めてきました。白石氏の編年図でも、「ジグザグの動き」が見て取れます。意図せずにこうなったのではなく、意図してこうなったのでしょう。
仁徳天皇は自ら石津原に出向いて、ここに陵を築こうと決めたということですが、それがふさわしいのは、②の古墳ではないでしょうか。自分の頭で考えて、わざわざ①と違うところに陵を築くことを決めたのです。③の古墳は①の古墳の近くに作っただけで、④の古墳は②の古墳の近くに作っただけです。仁徳天皇の陵は、パターンを踏襲しただけの④の古墳(大仙陵古墳)より、②の古墳(上石津ミサンザイ古墳)である可能性が高いです。日本書紀の「石津原」が、石津川からどのくらい離れたところまで含むのか不明ですが、明らかに石津川の近くにあるのは上石津ミサンザイ古墳で、大仙陵古墳は結構離れています。
従来、仁徳天皇は大仙陵古墳に結びつけられてきましたが、上石津ミサンザイ古墳に結びつけても、問題はないのです。いや、そっちのほうが自然で、仲津山古墳が応神天皇の陵であることを支持するのです。
上の応神天皇の話は、古代日本の最高位の継承システムを示唆しているという点で非常に重要です(改竄された日本の歴史、なぜ古事記と日本書紀は本当のことを書かなかったのかの記事で、雄略天皇に仕えたと見られる乎獲居臣(ヲワケノオミ)という人物が、先祖の意富比垝(オホヒコ)から自分に至るまで代々天皇に仕えてきたことを誇り、先祖の名をずらずらと稲荷山鉄剣に刻ませたことをお話ししましたが、天皇に仕える者ですら、このこだわりようです。天皇自体の継承となれば、それどころではなかったでしょう)。
応神天皇の話に付随して、もう一つ見過ごせないことがあります。それは、古事記と日本書紀が、成務天皇と仲哀天皇という天皇を捏造しているということです。換言すると、実際に天皇であった者を天皇でなかったことにしているということです。古事記と日本書紀による歴史の改竄は、そこまで及んでいるのです。このことが、後で重大な意味を持ってきます。
※古事記と日本書紀によれば、景行天皇は晩年に三輪山の麓から近江(佐紀の近く)に移り、景行天皇の陵は三輪山の麓に築かれたが、次の成務天皇の陵は佐紀に築かれたことになっています。現代の高度に発達した考古学のおかげで、私たちは、古代日本の最高位の者の墓が三輪山の麓から佐紀に移り、佐紀から河内・和泉に移ったことを知りました。しかし、考古学など全く存在しない時代の古事記と日本書紀の制作者は、すでにそのことを知っていたのです。古代日本の最高位の者の墓が三輪山の麓から佐紀に移り、佐紀から河内・和泉に移る過程を詳しく記した書物があったことは間違いありません。
三輪山の麓の古墳群を研究する際には、卑弥呼と台与について記した中国の魏志(魏書)がある程度助けてくれます。河内・和泉の古墳群を研究する際には、倭の五王について記した中国の宋書がある程度助けてくれます。しかし、最高位の者の墓が佐紀古墳群に築かれた時代に関しては、いつもは頼りになる中国の歴史書の記述が存在しません。この時代は、いわゆる「空白の四世紀」にすっぽりと収まっています。中国の歴史書からは一切窺えないその時代に、成務天皇と仲哀天皇が投入されているのです。
参考文献
井上光貞、「日本国家の起源」、岩波書店、1960年。
白石太一郎、「古墳からみた倭国の形成と展開」、敬文舎、2013年。
藤堂明保ほか、「倭国伝 中国正史に描かれた日本 全訳注」、講談社、2010年。