下(した)、下(しも)、下(もと)の比較

前回の記事で示した大事な図をもう一度示します。

川のXのほうを意味していた語がkami(上)になり、川のYのほうを意味していた語がsimo(下)になったという話でした。川のXのほうを意味していた語が一般に上またははじめを意味するようになり、川のYのほうを意味していた語が一般に下または終わりを意味するようになるというのは、重要なパターンです。

ここで、水を意味していたmat-、mit-、mut-、met-、mot-のような語の話に戻ります。いよいよ、mot-の出番です。kami(上)とsimo(下)の話をした後で注目したいのが、moto(もと)です。「もとは、もともと、もとから、もとより」などのmoto(もと)は、はじめを意味しており、これもやはり、水・水域を意味していた語が川のXのほうを意味するようになり、川のXのほうを意味していた語がはじめを意味するようになったものと考えられます。しかし、moto(もと)の場合はちょっと複雑で、はじめという意味だけでなく、下という意味も持っています。実際、moto(もと)は漢字で「下」と書かれることがあります。moto(もと)がはじめという意味と下という意味を持っているのはなぜでしょうか。

これは難しい問題ですが、植物が関係しているかもしれません。「根源」のような語が存在するのを見ると、ある点を起点として川が流れていく様とある点を起点として植物が伸びていく様を同じように捉えていたことが窺えます。感覚的にわからないではありません。しかし、川が流れていく起点と植物が伸びていく起点には大きな違いがあります。川が流れていく起点は上にありますが、植物が伸びていく起点は下にあります。はじめを意味するmoto(もと)という語を川だけでなく植物にも使うと、下という意味が生じてきます。実際、奈良時代の人々はmoto(もと)という語を川より植物に対して多く使っていました。moto(もと)がはじめという意味と下という意味を持っているのはこのためではないかと思われます。

川のXのほうを意味していた語がはじめを意味するようになるのは、頻出パターンです。日本語の起点を表す助詞であるkara(から)とyori(より)も、このパターンと考えられます。kara(から)は、水のことをkalm-、kilm-、kulm-、kelm-、kolm-(kal-、kil-、kul-、kel-、kol-、kam-、kim-、kum-、kem-、kom-)のように言っていた言語群から来ており、yori(より)は、水のことをjark-、jirk-、jurk-、jerk-、jork-(jar-、jir-、jur-、jer-、jor-、jak-、jik-、juk-、jek-、jok-)のように言っていた言語群から来ていると考えられます。

先ほどのmoto(もと)と同様のことがkara(から)にも言えそうです。奈良時代の人々は、植物の幹・茎のことをkara(柄)と呼んでいました。はじめを意味するkara(から)が川だけでなく植物にも使われて、こうなったのでしょう。現代のiegara(家柄)のgara(柄)も、はじめを意味していたと考えられるものです。どのような先祖を持ち、今に至っているかということです。「始まり、起源、由来」のような意味から「素性、性質、性格」のような意味も生じました。そうして、hitogara(人柄)などの言い方ができます。「柄に合わない、柄じゃない」のような言い方もあります。

起点を表す助詞のkara(から)とyori(より)が上の通りなら、終点を表す助詞のmade(まで)はどうでしょうか。made(まで)の語源も、水・水域を意味していたmat-、mad-のような語であると思われます。ただし、古代中国語のmat(末)も気になります。おおもとに水・水域のことをmat-、mad-のように言っていた言語があり、そこから古代中国語のmat(末)と日本語のmade(まで)が来ていることは間違いなさそうです。はじめ・最初を意味するmadu(まづ)の語源も、水・水域を意味していたmat-、mad-のような語であると思われます。

motomoto(もともと)とは全然使い方が違いますが、somosomo(そもそも)という語があります。両者は大きく異なりますが、「もともとの原因」と「そもそもの原因」のように少し共通しているところもあります。奈良時代には、始まること・始めることを意味するsomu(初む)という語があり、廃れてしまいましたが、naresome(馴れ初め)に組み込まれて残っています。ひょっとしたら、somosomo(そもそも)の前に、はじめを意味する*somoという語があったのかもしれません。そうだとすれば、この*somoは、simo(下)と同じように、水のことをsam-、sim-、sum-、sem-、som-のように言う言語群から来たものでしょう。

simo(下)とmoto(下)がそうなら、sita(下)はどうか

simo(下)とmoto(下)の語源を説明しましたが、sita(下)の語源はどうでしょうか。

なかなか単純にはいきません。日本語にsita(下)という語があるので、筆者は「雨がしとしと降る」のsitostio(しとしと)はsita(下)またはその異形から作られた語であろうと長い間考えていました。どうやら、少し違うようです。

例えば、「雨がぱらぱら降る」という表現を考えましょう。ame(雨)(古形*ama)は、水を意味することができず、雨を意味するようになったと考えられる語です。水を意味することができなかった語が雨を意味するようになるのは、超頻出パターンです。水を意味することができなかった語が向かう先として、「雨」は大人気だということです。このことから、水を意味することができず、雨を意味することもできなかった語は非常に多いと予想されます。水を意味することができず、雨を意味することもできなかった語は、なにを意味するようになるのでしょうか。

「雨がぱらぱら降る」のparapara(ぱらぱら)とhuru(降る)(古形*puru)がその答えを示しています。parapara(ぱらぱら)は、水のことをpark-、pirk-、purk-、perk-、pork-(par-、pir-、pur-、per-、por-、pak-、pik-、puk-、pek-、pok-)のように言っていた言語群から来ていると考えられる語です。*puru(降る)も、水のことをpark-、pirk-、purk-、perk-、pork-(par-、pir-、pur-、per-、por-、pak-、pik-、puk-、pek-、pok-)のように言っていた言語群から来ていると考えられる語です。水を意味することができず、雨を意味することもできなかった語が、落下を意味するようになるパターンを示しています。

「雨がぽつぽつ降る」のpotupotu(ぽつぽつ)もそうです。potapota(ぽたぽた)とpotopoto(ぽとぽと)とともに落下を意味しています。背後には、水のことをpat-、pit-、put-、pet-、pot-のように言っていた言語群があります(数詞の起源について考える、語られなかった大革命を参照)。

huru(降る)、parapara(ぱらぱら)、potupotu(ぽつぽつ)のおおもとに「水」があるように、sita(下)とsitosito(しとしと)のおおもとにも「水」があるようです。考えてみると、sitataru(滴る)という語も示唆的です。この語は、基本的に水またはその他の液体に関して使われます。sitataru(滴る)はsitaとtaruがくっついた語であるという従来の説明は正しいと考えられますが、sitaはもともと「水」を意味していた可能性が高いです。

水を意味するsit-、sid-のような語があったと考えると、sita(下)、sidumu(沈む)、siduku(沈く)(奈良時代に存在した動詞)、siduku(雫)、sitosito(しとしと)、sittori(しっとり)、zitozito(じとじと)、zittori(じっとり)などはすべてしっくりきます。水・水域を意味することができなかったsit-、sid-がその横の部分を意味することもあったでしょう。

sitasi(親し)が怪しいです。sitasi(親し)の語源は、日本語が属していた語族を知るの記事で見たmutumu(睦む)/mutumasi(睦まし)の語源と同様ではないかと思われます。なにかが二つ並んでいること、特に二人がいっしょにいることを意味していたのでしょう。sitasii(親しい)にせよ、mutumazii(睦まじい)にせよ、対象が一つでは使えず、対象が二つになってはじめて使える言葉です。

今回の記事の重要なポイントは、以下の二つです。

(1)水を意味していた語が下を意味するようになることが多い。

(2)しかし、水を意味していた語が下を意味するようになるパターンは一通りではなく、いくつかのパターンがある。

(1)は極めて重要です。(1)で終わらないからです。水を意味していた語が横を意味するようなり、横を意味していた語が手・腕・肩を意味するようになるパターンを思い出してください。もう予想できるかもしれませんが、水を意味していた語が下を意味するようになり、下を意味していた語が足・脚を意味するようになるパターンがあるのです。

例えば、ウラル語族のフィンランド語jalka(足、脚)ヤルカなどは、水を意味したjark-、jirk-、jurk-、jerk-、jork-(jar-、jir-、jur-、jer-、jor-、jak-、jik-、juk-、jek-、jok-)のような語から来ている可能性が高いです。

同じように、朝鮮語のpal(足)は、水を意味したpark-、pirk-、purk-、perk-、pork-(par-、pir-、pur-、per-、por-、pak-、pik-、puk-、pek-、pok-)のような語から来ている可能性が高いです。また、朝鮮語のtari(脚)と日本語のtaru(垂る)の背後には、別のところで詳しく論じますが、水を意味したtark-、tirk-、turk-、terk-、tork-(tar-、tir-、tur-、ter-、tor-、tak-、tik-、tuk-、tek-、tok-)のような語がある可能性が高いです。

こうなると、日本語のasi(足、脚)も俄然怪しくなってきます。明るさと赤さの記事で挙げたasa(浅)やase(汗)などから、水を意味するas-のような語が存在したことは確実だからです。

ここではこれ以上深入りしませんが、(1)はそれだけ重要だということです。

水を意味していたmat-、mit-、mut-、met-、mot-のような語については、まだまだお話ししなければならないことがあるので、話を続けます。