数詞の起源について考える、語られなかった大革命

本ブログの今後の展開にとって重要になるので、ここで数詞の話をはさみます。

農耕の起源が人類の大革命として語られる一方で、数詞の起源はほとんど論じられてきませんでした。しかし、数詞が生まれたことも大革命です。正確に言うと、人間が数について考え始めたことが大革命です。人間が数について考えることがなかったら、数学の発達はないし、物理・化学・情報科学の発達もないし、現代人が愛用するパソコンやスマートフォンも存在しなかったのです。

インド・ヨーロッパ語族の各言語の数詞がよく揃っていることから、数詞は遠い昔からあるものであるといういささか早計な判断が下されました。しかし、高句麗語の数詞に注目するの記事で示したように、日本語の数詞はウラル語族の数詞とは全然違うし、ウラル語族のフィン・ウゴル系の数詞とサモエード系の数詞も明らかに違います。日本の周辺地域のアイヌ語、ニヴフ語、朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル語などもそれぞれに違う数詞を持っています。数詞が遠い昔からあるようには見えないのです。インド・ヨーロッパ語族よりむしろ、数詞の発達が遅かったその他の言語・言語群を観察したほうが、数詞の起源がよく見えるかもしれません。

数詞の起源を考えることはなかなか難しいですが、筆者にヒントを与えてくれたのはフィンランド語のkolme(3)やネネツ語のnjaxər(3)ニャフルでした。

人間の目にまつわる謎の記事で、古代北ユーラシアに水のことをkalm-、kilm-、kulm-、kelm、kolm-(kal-、kil-、kul-、kel-、kol-、kam-、kim-、kum-、kem、kom-)のように言う言語群が存在し、そこからウラル語族に語彙が入ったことをお話ししました。フィンランド語のkylmä(冷たい、寒い)キルマは、水を意味していた語が氷を意味するようになるパターンです。kulma(隅、角、角度)は、水を意味していた語が端を意味するようになるパターンです。では、フィンランド語のkolme(3)はどうでしょうか。この語も水から来ているのでしょうか。北ユーラシアにはコリマ川(Kolyma River)という川があるし、形的にはよく合います。しかし、「水」と「3」の間にどういう関係があるのか不明です。

ネネツ語のnjaxər(3)も気になります。サモエード系の他の言語では、エネツ語nexu(3)ネフ、ガナサン語nagyr(3)ナギル、セリクプ語nøkɨr(3)ノキル、カマス語nāgur(3)、マトル語nagur(3)です。前回の記事で、古代北ユーラシアに水のことをnak-、nag-のように言う言語群が存在したことをお話ししたばかりです。やはり、形的にはよく合います。しかし、「水」と「3」の間にどういう関係があるのか不明です。

ひょっとして、日本語のmidu/mi(水)とmi(3)の間にも関係があるのでしょうか。とはいえ、数詞の起源を考えるのに、1と2をほったらかしにして3から始めるというのは奇妙です。まずは、1と2について考えるべきでしょう。

katate(片手)とmorote(諸手)

現代の日本語でkatate(片手)、ryoute(両手)と言います。しかし、ryoute(両手)のryou(両)は中国語からの外来語です。ryoute(両手)と言う前は、なんと言っていたのでしょうか。実は、morote(諸手)と言っていました。新潟の「潟(かた)」に隠された歴史の記事では、水を意味するkataのような語が日本語に入り、様々な意味を獲得したことをお話ししました。同記事では、以下の図を示しました。

水・水域を意味することができなかったkataがその横の部分を意味するようになったところです。このパターンは超頻出パターンで、人類の歴史において繰り返し起きています。水・水域を意味することができなかったmoroもその横の部分を意味するようになったと見られます(moru(漏る)やmoru(盛る)などの語があることから、水を意味するmor-のような語があったことが窺えます。水のことをmark-、mirk-、murk-、merk-、mork-(mar-、mir-、mur-、mer-、mor-、mak-、mik-、muk-、mek-、mok-)のように言っていた巨大な言語群です。moru(盛る)は、水・水域を意味していた語がその隣接部分、特に盛り上がり、坂、丘、山などを意味するようになるパターンで、morimori(もりもり)やmori(森)と同類です)。

川岸を意味する語がたくさんあってもしょうがないので、多くの語は違う意味に移っていきます。こうして、kataはなにかが二つあってその一方を指す時に用いられるkata(片)になり、moroはなにかが二つあってその両方を指す時に用いられるmoro(諸)になりました。

どうでしょうか、なにかが二つあってその一つを指す、なにかが二つあってその二つを指す、なんだか数詞の話につながりそうな気がしないでしょうか。実は、以下のようなことも起きていたのではないでしょうか。

日本語のɸitotu(一つ)のɸito(一)の語源はなんでしょうか。日本語のɸitosi(等し)のɸito(等)の語源はなんでしょうか。

日本語のmizu(水)は*mida→midu→mizuと変化してきたと推定される語ですが、日本語のまわりには水のことをmid-、mit-、bid-、bit-、pid-、pit-、wid-、wit-、vid-、vit-のように言う言語が多数存在していたと考えられます(日本語にとても近い言語を参照)。

水のことをpit-のように言う言語があったことはɸitu(漬つ)/ɸitasu(漬す)/ɸitaru(漬る)から窺えます。bityabitya(びちゃびちゃ)、bityobityo(びちょびちょ)、bisyabisya(びしゃびしゃ)、bisyobisyo(びしょびしょ)なども無関係ではなさそうです。水のことをpitaと言ったり、pitoと言ったりしていたのでしょう。日本語のɸito(一)とɸito(等)はここから来ていると見られます。

上の図を見ればわかると思いますが、川の横の部分を意味していた語は、一方または両方という意味を持つようになるだけでなく、左または右という意味を持つようになる可能性もあります。水を意味するpidaあるいはpidarのような語が日本語のɸidari(左)になったのかもしれません(インド・ヨーロッパ語族の英語water(水)、ヒッタイト語watar(水)、その複数形witar(水域)などを見ると、子音rが付いた形もあったと思われます)。

同じように、水のことをmark-、mirk-、murk-、merk-、mork-(mar-、mir-、mur-、mer-、mor-、mak-、mik-、muk-、mek-、mok-)のように言っていた巨大な言語群のmik-のような語が日本語のmigi(右)になったのかもしれません(鹿や牛などの動物の胃を食用にしていて、その胃のことをmige(胘)(推定古形*miga)と言っていました。mige(胘)も、前回の記事で説明したwata(腸)やkimo(肝)と同様に、広く内臓を意味し、そこから意味が限定されていったと見られます。「水」→「中」→「内臓」のパターンでしょう。水を意味するmig-のような語が存在した可能性が高いです)。

上の一連の図は、川が流れていて、その横に岸があるという素朴な風景です。筆者はここに数詞の起源があるのではないかと推測しています。古代人としては、左右になにかが並んでいて、左のものまたは右のものを指す、あるいは左のものと右のものを指すという感覚だったのかもしれません。人類の初期の数量把握は、下の図の1段目と2段目を明確に区別し、3段目以降は特に区別しないものだったでしょう。3段目以降は、「いくつか」あるいは「多い」といったところだったでしょう。インド・ヨーロッパ語族の言語も、ウラル語族の言語も、かつては単数形、双数形、複数形(多数形と言ってもよいかもしれません)という三つの形を持っていました。

「3」を意味する数詞はどのように生まれたのでしょうか。なにかが二つあってその二つを指す時に使っていた語を、なにかが三つあってその三つを指す時に使おうとしたのではないかと思われます。奈良時代のmoro(諸)は、morote(諸手)のように二つのものを指す時だけでなく、二つより多いものがあってそのすべてを指す時にも用いられていました。日本語のmi(3)も、フィンランド語のkolme(3)も、ネネツ語のnjaxər(3)も、なにかが二つあってその二つを指す時に使われていた段階を経て、「3」を意味する数詞になったのではないかと思われます(miが川の横を意味していたという話は、「耳(みみ)」の語源、なぜパンの耳と言うのか?の記事でもありました)。そう考えると、「水」と「3」の間につながりが認められることが納得できます。

 

補説

ɸuta(2)の語源は?

ɸito(1)とmi(3)の語源が上の通りなら、ɸuta(2)の語源はどうでしょうか。

日本語のそばに水のことをpita、pito、puta、putoのように言う言語があったと思われます。ɸuta(2)はɸuta(蓋)と同源と見られます。蓋を意味する語は山、山状のもの、頂上、てっぺんなどから来ていることが多いです。ɸuta(2)もɸuta(蓋)も水から陸に上がった語であるということです。

もっと大きく見ると、水のことをpat-、pit-、put-、pet-、pot-のように言う言語群(日本語に比較的近縁な言語群)があって、そこから日本語に語彙が入ったという構図があります。ɸata(端)、batyabatya(ばちゃばちゃ)、basyabasya(ばしゃばしゃ)、potapota(ぽたぽた)、potupotu(ぽつぽつ)、ɸotori(ほとり)などと同じところから来ているわけです。ɸotori(ほとり)のほかに、寸前の状態を意味するɸotoɸoto(ほとほと)という語もありました。このɸotoɸoto(ほとほと)が変化して、hotondo(ほとんど)になりました。

ɸito(1)、ɸuta(2)、mi(3)の背後には「水」が隠れているのです。