「耳(みみ)」の語源、なぜパンの耳と言うのか?

「パンの耳」という言い方を聞いて、なんか変な言い方だなと感じた方は多いと思います。

「借金を耳を揃えて返す」という言い方もあります。これは借金を全額返済することを意味しますが、もともと大判・小判の端を揃える様子を描写したものです。

私たちが「パンの耳」や「借金を耳を揃えて返す」という言い方を聞いて奇妙に感じるのは、mimiがもともと身体部位(聴覚器官)を意味していたと考えているからです。逆に、mimiがもともと一般に端や縁を意味していたと考えると、すっきり理解できます。

昔の日本人は、水のことをmiduと言ったり、miと言ったりしていました。水・水域を意味していた語が端の部分や境界の部分を意味するようになるケースは本ブログで大量に示していますが、上記のmiduまたはmiが端の部分や境界の部分を意味するようになることはなかったのでしょうか。特に、水という意味で用いられることが少なくなっていったmiのほうは怪しいです。

miが端を意味することはあったのか、奈良時代のmidura(みづら)という語を手がかりに考えましょう。midura(みづら)は、奈良時代より前の日本で一般的だった男性の髪型で、日本神話などでおなじみだと思います(画像は橿原神宮様のウェブサイトより引用)。

さて、midura(みづら)という語はどのようにしてできたのでしょうか。話が入り組むので先に言ってしまうと、筆者はmidura(みづら)はmiとturaがくっついてできた語で、 miは「端、横、脇」を意味し、turaは「毛、髪」を意味していたと考えています。

もとを辿ると、miは日本語で水を意味していた語で、turaは別の言語で水を意味していた語のようです。水を意味するturaのような語が存在したことは、日本語の語彙を調べればわかります。水・水域を意味していた語が端の部分や境界の部分を意味するようになるパターンを思い出してください。

まずは、tura(面)から行きましょう。turaは、現代では顔を意味していますが、奈良時代には頬を意味していました。顔の側面を意味していたturaが顔全体を意味するようになったので、yokoを付け足してyokotura、さらにyokotturaと言うようになったのです。

古代北ユーラシアで水を意味したjak-、jik-、juk-、jek-、jok-のような語が日本語のyoko(横)になった、昔の日本語で水を意味したmiが横を意味するようになった、別の言語で水を意味したturaのような語が横を意味するようになったのであれば、これはやはり超頻出パターンと言ってよいでしょう。

turaの話を続けます。水・水域を意味していた語が水と陸の境を意味するようになり、水と陸の境を意味していた語が線または線状のものを意味するようになるパターンを思い出してください(世(よ)の誕生を参照)。上の画像で神武天皇が弓を持っていますが、弓の弦のことをturaと言っていました。弓の弦のことはturuとも言い、植物のturu(蔓)も無関係でないと思われます。奈良時代の日本語には、tura(列)という語もありました。英語のlineが線を意味したり、列を意味したりしていることを思い起こしてください。奈良時代の日本語のtura(列)は、turanaru(連なる)、turaneru(連ねる)、zuraʔ(ずらっ)、zurazura(ずらずら)、zurari(ずらり)などの形で残っています。turaが線または線状のものを意味していたことは明らかです。

turaが水・水域を意味していたと考えると、横を意味したturaも、線または線状のものを意味したturaもスムーズに説明でき、頬を意味したturaにも、毛・髪を意味したturaにもつながります。

水を意味していた語が端の部分や境界の部分を意味するようになり、そこからさらに線または線状のものを意味するようになるのは重要パターンですが、水を意味していた語が氷を意味するようになるのも重要パターンです。

turaが氷を意味することもあったと思われます。氷を意味していたturaからturara(つらら)が作られた可能性があります。turara(つらら)は、今では垂れ下がった氷を言いますが、昔は一面に張った氷を言いました。turanuku(貫く)も、tura(氷)+nuku(抜く)で、(釣りのために)氷に穴を開けることを意味していたのかもしれません。上記の列を意味するturaからturaturaやturaraのような形が作り出されていたので、氷を意味するturaからturaturaやturaraのような形が作り出されていた可能性は高いです。

※水・水域を意味していたturaは、ひょっとしたら、魚を捕ることを意味するturu(釣る)、その派生と見られるturu(吊る)とも無関係でないかもしれません。ちなみに、釣りというと金属の釣り針が思い浮かびますが、人類は金属を使用するはるか前から、動物の骨や角を使って釣り針を作り、釣りを行っていました。

水・水域を意味していたturaが横の部分を意味するようになった、そしてさらに頬を意味するようになった、水を意味していたmiが横の部分を意味するようになった、そしてさらに耳を意味するようになったと考えると、筋が通ります。miのほうは、途中で重ねられたmimiという形が優勢になったのでしょう。ɸasiからɸasibasiが作られたように、miからmimiが作られたと見られます。

前回の記事で、ハンガリー語のorr(鼻)オーッルという語を取り上げ、身体部位を意味する語は初めから身体部位を意味していたのかという問題を提起しました。上に例として示したように、日本語のmimi(耳)とtura(面)はもともと身体部位を意味していた語ではありません。これらの例は、氷山の一角にすぎないかもしれません。me(目)がもともと身体部位を意味していた語でなかったら、hana(鼻)がもともと身体部位を意味していた語でなかったら、kuti(口)がもともと身体部位を意味していた語でなかったら、それはショッキングなことです。me(目)、mimi(耳)、hana(鼻)、kuti(口)のような語はなかなか変わらないので、ずっと昔から同じ意味を持っているような気がしますが、そうではないかもしれないということです。me(目)、mimi(耳)、hana(鼻)、kuti(口)のような語が辿ってきた道を明らかにすることは、人類の言語の歴史、そして一般に人類の歴史を考えるうえで間違いなく重要になるでしょう。

 

補説

「つれない」という言葉

あまり使われませんが、現代の日本語にturenai(つれない)という言葉があります。この言葉は、そっけない様子、冷淡な様子、無関心な様子を表します。奈良時代の日本語に関係を意味するture(つれ)という語があり、これにnasi(なし)がくっついてturenasi(つれなし)という言葉ができ、それが変化してturenai(つれない)になりました。

水が陸に上がって思いもよらぬ展開にの記事で説明したように、水・水域を意味していた語が境を意味するようになることは非常に多いですが、境というのは、分かれているところと捉えることもできるし、つながっているところと捉えることもできます。奈良時代の日本語で関係を意味したture(つれ)(推定古形は*tura)は、水・水域を意味していたturaが境を意味するようになり、境を意味していたturaがつながりを意味するようになったものと考えられます。水を意味するturaのような語が存在したことが、ここでも確かめられます。