明るさと赤さ

光の届く空間と届かない空間の記事では、日本語のyoru(夜)、kura(暗)、ɸuka(深)が「水」から来ていることをお話しし、ɸiru(昼)、aka(明)、asa(浅)も「水」から来ているのではないかと示唆しました。

asa(浅)について

水域における浅さと明るさの一体性からして、asa(浅)とasa(朝)は同源でしょう(昔のasa(浅)は色の淡さ・薄さも意味しました。奈良時代のasu(浅す)が現代のaseru(褪せる)になっています)。

水を意味するasaのような語が存在したことは、日本語のase(汗)(推定古形*asa)から窺えます。水を意味していた語が水以外の液体(血、汗、涙、唾液、尿など)を意味するようになるパターンです。

azayaka(鮮やか)も関係があるかもしれません。奈良時代には、azayaka(鮮やか)とazaraka(鮮らか)という語があり、azayaka(鮮やか)ははっきりした美しさ、際立った美しさを意味し、azaraka(鮮らか)は新鮮であること、生き生きとしていることを意味していました。azaraka(鮮らか)については、現代のmizumizusii(みずみずしい)という語を考えるとわかりやすいと思います。mizumizusii(みずみずしい)は、「水」を語源に持ちながら、新鮮であること、生き生きとしていることを意味しています。同じように、azaraka(鮮らか)も、「水」を語源に持ちながら、新鮮であること、生き生きとしていることを意味していたと見られます。azayaka(鮮やか)は水の透明性(つまりぼやけていないということ)から来ている語かもしれません。

aka(明)について

奈良時代のakaは、明るさを意味することもあれば、赤さを意味することもありました。それにしたがって、「明」と書かれたり、「赤」と書かれたりしていました。

ここで「赤」が出てくるのが特徴的です。先ほどのasa(浅)のケースと違うところです。akaとakiという形で明るいことを意味していましたが、それに対応して、akaとakiという形で赤いことを意味することもあったと思われます。

日本語のaki(秋)はここから来ている可能性が高いです。世界の言語を見渡すと、木々の葉が見せる変化が季節または月の名前に取り込まれているケースが散見されます。日差し・気温の変化に加えて、木々の葉の変化を観察しながら、季節の移り変わりを感じていたのでしょう。アメリカ英語では落葉の季節ということでfall(秋)と言うようになりましたが、日本語では紅葉の季節ということでaki(秋)と言うようになったと考えられます(写真はリクルートライフスタイルじゃらんニュース様のウェブサイトより引用)。

しかし、なぜ「赤」が出てきたのでしょうか。水域の浅いところは確かに明るいですが、水域の浅いところを見ていても、上の写真のような色は出てきそうにありません。

現代のような照明器具のない時代において、明るいものといえばなんでしょうか。言うまでもなく、太陽と火です。地味な存在として、月とその他の星があります。太陽または火なら、上の写真の色と完全に合います。

asa(浅)/asa(朝)の語源は「水」で、aka(明)/aka(赤)の語源は「太陽」または「火」であると考えれば、この問題は解決しそうに見えます。ところが、この問題はそこで終わらないのです。

※よく聞く「真っ赤な嘘」は、「akaの嘘」というフレーズを変形して作ったと考えられるものです。「akaの嘘」のakaは明らかであることを意味したが、それが赤いことを意味していると解釈され、その結果、「真っ赤な嘘」という表現ができたというわけです。「akaの他人」のakaも、明らかであること、明確であること、はっきりしていることを意味していたものです。

 

補説

「諦める」の哲学

akarui(明るい)やakiraka(明らか)と同源の語として、意外ですが、akirameru(諦める)があります。akirameru(諦める)は実は、明らかにすることを意味するakiramu(明らむ)という動詞でした。なんだか戸惑ってしまいますが、この話は英語のclearに似たところがあります。

英語のclearはもともと、明るい感じ、透明な感じ、澄んだ感じを意味する語でした。そこから、そのような感じを作り出す行為を意味するようになり、「きれいにする、取り除く、一掃する、消し去る」などの意味が生じました。この意味展開は、英語以外の言語にもよく見られます。

日本語のakiramu(明らむ)も、似た経緯をたどり、うまくいかない考えや望みを捨てることを意味するようになっていったようです。現代の日本語で「きれいさっぱりと捨てる」などと言いますが、akirameru(諦める)というのは、そのようにきれいさっぱりとした状態にする行為だったのです。

明らかにするという意味のakiramu(明らむ)は、理解すること、認識すること、悟ることなども意味していたので、そのような意味も現代の日本語のakirameru(諦める)に影を落としていると考えられます。