くりくりした目

興味深い「火」の話に入る前に、一つ補足記事をはさみます。

波に関係のある話として、yurayura(ゆらゆら)やkurakura(くらくら)の話をしました。

yurayura(ゆらゆら)をyuruyuru(ゆるゆる)に替えると、意味は少し変わりますが、まだ同じ範疇にある感じがします。しかし、kurakura(くらくら)をkurukuru(くるくる)に替えると、どうでしょうか。kurukuru(くるくる)は、「揺れる、振れる、振動する」というより、「回る、回転する」という感じです。形と意味を考えると、kuruma(車)も関係がありそうです。

日本語にはkurikuri(くりくり)という語もあります。まるい目をかわいらしく表現して、「くりくりした目」と言います。kurukuru(くるくる)とkurikuri(くりくり)には、共通性が感じられます。その共通性とは、ずばり円形です。

前に、参考になる例がありました。「目(め)」の語源の記事を思い出してください。ベトナム語のmắt(目)マ(トゥ)のような語が日本語に入って、*ma(目)、mato(的)、matoka(円か)/matoyaka(円やか)などになったようだとお話ししました。目を意味していた語が、目だけでなく、まるいもの・まるいことを意味している点に注目してください。

古代人はこのように考えていたの記事で、古代人が人間の目を切れ目・裂け目・割れ目などの一種として捉えたことを説明しました。しかし、人間の目がただの切れ目・裂け目・割れ目と違うのは、中にまるいものが入っているところです。

水を意味しようとしてそれができなかった語は、なんとかして水に関係のあるものを意味しようとします。同じように、目を意味しようとしてそれができなかった語は、なんとかして目に関係のあるものを意味しようとします。目を意味することができなかった語がまるいもの・まるいことを意味するようになるのは、一つのパターンのようです。

日本語のkurakura(くらくら)は、古代北ユーラシアで水を意味したkalm-、kilm-、kulm-、kelm-、kolm-(kal-、kil-、kul-、kel-、kol-、kam-、kim-、kum-、kem-、kom-)のような語から来ていました。水を意味していた語が波を意味するようになるのはよくあるパターンですが、水を意味していた語が目を意味するようになるのもよくあるパターンです。

水から波を経て、揺れることを意味するようになったのがkurakura(くらくら)で、水から目を経て、まるいもの・まるいことを意味するようになったのがkurikuri(くりくり)とkurukuru(くるくる)と考えられます(kurikuri(くりくり)が目について使われることが圧倒的に多いのもその傍証でしょう)。kuruma(車)も同類です。kurumaは、もともと車輪を意味していて、そこから乗り物を意味するようになった語です。kuruma(車)は、古代北ユーラシアに存在したkulm-(あるいはkurm-)という形をよく残していると考えられます。

abaru(暴る)、ikaru(怒る)、midaru(乱る)などがもともと水・水域が荒れ狂うことを意味していたように、kuruɸu(狂ふ)ももともと水・水域が荒れ狂うことを意味していたのでしょう。やはり古代北ユーラシアで水を意味したkalm-、kilm-、kulm-、kelm-、kolm-(kal-、kil-、kul-、kel-、kol-、kam-、kim-、kum-、kem-、kom-)のような語から来ているわけです。

このように、kurikuri(くりくり)、kurukuru(くるくる)、kuruma(車)などは水から来ていると考えられますが、肝心のmaru(丸、円)の語源はどうかというと、なかなか微妙です。

奈良時代の人々は、小便・大便を排泄することをmaru(まる)と言っていました。現代の日本語のomaru(おまる)はここから来ています。水を意味していた語が水以外の液体(血、汗、涙、唾液、尿など)を意味するようになるのはよくあるパターンです。古代北ユーラシアに水のことをmark-、mirk-、murk-、merk-、mork-(mak-、mik-、muk-、mek-、mok-、mar-、mir-、mur-、mer-、mor-)のように言う巨大な言語群が存在し、日本語のそばにも水のことをmar-のように言う言語があったと思われます。

奈良時代の人々は、mari(鋺、椀)と呼ばれるお椀のような器を使って水や酒を飲んでいました(写真は長野県松本市のウェブサイトより引用)。

水は直接手に持てないので、奈良時代の人々に限らず、人類は器を用意して、水を飲んできたにちがいありません。水を意味する語が実に様々なものを意味するようになっていく過程は本ブログで詳しく示していますが、水を意味する語が水を入れる器を意味するようになることも多かったと思われます。水と水を入れる器の関係は極めて近いと言ってよいでしょう。

上記のmari(鋺、椀)も水から来ている可能性が高いです。mari(鋺、椀)は、写真のような形状をしているので、上から見れば円形、横から見れば半球状です。maririka(まりりか)という語もあり、まるいことを意味していました。mari(鋺、椀)とmaririka(まりりか)のほかに、mari(鞠)(蹴ったりして遊ぶものです)とmaro(丸、円)という語もありました。後者が現代のmaru(丸、円)になります。

水と水を入れる器の極めて近い関係を考えると、水を入れる器を意味していた語が一般に円形・球形を意味するようになっていったのかもしれません。円形・球形というのは抽象的な概念です。それに先立つ具体的ななにかがあったはずです。奈良時代のmari(鋺、椀)もそうですが、現代の私たちが使っているコップや鍋や洗面器もまるいです。水から丸・円に直接行くことはなさそうですが、水から水を入れる器を経由して丸・円に行くことはありそうです。

水から目を経由してまるいという意味に至ることもあれば、水から水を入れる器を経由してまるいという意味に至ることもあったように見えます。いずれにせよ、水と丸・円の間には深い関係がありそうです。日本語以外の言語も調べながら、さらに検討する必要があるでしょう。

それでは、「火」の話に入ります。