前回の記事では、日本史上最大の前方後円墳が作られた「倭の五王」の時代について論じました。巨大前方後円墳は、その後どうなったのでしょうか。考古学者の白石太一郎氏によって作成された巨大前方後円墳の編年図を再び見てみましょう(白石2013)。
誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)と大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)の築造はさすがに大変だったようで、その後巨大前方後円墳は小さくなります。雄略天皇(倭の五王の最後の「武」)の陵であると考えられている岡ミサンザイ古墳(おかみさんざいこふん)も小さくなっていますが、その後さらに小さくなります。
天皇の地位をめぐる激しい殺し合いで一族が縮小してしまったこと、そして、拠り所であった宋が滅亡してしまったことが大きく影響しています。まさに弱り目に祟り目です。
古事記と日本書紀によれば、雄略天皇の後、以下の天皇がいたことになっています。清寧天皇、顕宗天皇、仁賢天皇、武烈天皇です。
15代の応神天皇から22代の清寧天皇までを見てください。常に天皇の息子か兄弟が後を継いでいます。ところが、22代の清寧天皇に子ができませんでした。困っているところで、行方不明になっていた億計王(のちの仁賢天皇)と弘計王(のちの顕宗天皇)が都から離れた播磨で発見されます。雄略天皇は即位する前にいとこである市辺押磐皇子を殺しており、市辺押磐皇子の二人の息子である億計王と弘計王は隠れていたのです。弘計王は顕宗天皇になり、億計王は仁賢天皇になります(なぜか弟が兄より先に天皇になります)。しかし、後継者問題は一時的に回避されただけで、25代の武烈天皇に子ができず、またしても窮地に陥ります。この期間の記述は、古事記と日本書紀で若干違いますが、後継者がいないという深刻な事態になったことは間違いありません。
近い縁のある者がいないということで、遠い縁のある者を探したことでしょう。ここでなんと、天皇の側近の者たちは、都から離れた近江からヲホドノオウという人物を連れてきます。古事記と日本書紀によれば、応神天皇の五世の孫ということになっています(応神天皇の五世代下の子孫であるが、仁徳天皇の子孫ではないということです)。このヲホドノオウが継体天皇になるわけですが、ヲホドノオウには強い疑いの目が向けられてきました。歴史学者の井上光貞氏は、継体天皇に関する諸説を検討しながら、以下のように述べています(井上2005)。
戦後、古代史のタブーが解かれたとき、水野祐氏は王朝交替論をとなえ、応神王朝はここで絶え、継体天皇を始祖とする新しい王朝が誕生したのであると解釈した。というのは、記紀では、継体天皇を応神天皇の五世の孫としているが、それは応神王朝の始祖から数え、しかも割り切れた五という数字で血縁関係を結んでいる点がまずおかしいし、また日本書紀によれば、継体天皇は即位後二十年も古都の大和に入れなかったというのもふしぎだからである。記紀はまた、応神王朝の第二世、仁徳天皇を徳の高い天皇とし、最後の武烈天皇はひどい暴君として描いているが、それは応神王朝が武烈天皇で絶えたことをあらわしているのであって、当時、大和政権で最大の権力を握っていた大伴金村は、前王朝とは血縁関係のない継体天皇を擁立したのであろう、と。
直木孝次郎氏は、さらに一歩を進めて、継体天皇は越前の豪族であり、武烈天皇の死後、大和朝廷に分裂がおこり、朝廷の支配を維持していくことができず、各地に動揺が生じたが、このとき、継体天皇は応神五世の子孫と称して興起し、近江・尾張を固めながら河内・山背に進出し、ついに大和に突入し、磐余玉穂に入って皇位についたのではないかとした。
直木氏のこの発想は、一つには継体天皇の后妃の多くは尾張や近江の豪族の子女で、これらは継体天皇がまだ越前にあったころめとったものであろうという判断からきている。つまり継体は、たんに越前の豪族にとどまらず、尾張・近江を一帯とした大きな勢力を統率していたことを示しているとおもわれるからである。また継体天皇が二十年も大和に入れなかったのは、大和に対立する強い勢力があったからで、大和政権の権力者であった大伴金村が継体天皇を擁立したという所伝は現実味がなく、実際は継体天皇が大伴氏を含めた大和政権を降して皇位を簒奪したのである、とした。
以上の諸説のうちで、継体天皇を応神五世の孫としたのは、水野氏も指摘したようにおそらく七世紀の宮廷での創作ではないだろうか。というのは、七〇一年に律令法典が完成したが、継嗣令というその法典の一章には、「天皇の子の親王から第四世までは王というが、第五世からは皇族の待遇をうけない」とし、七〇六年には第五世王も入ると改めた。この四世、五世の「世」はどこから数えるのか、奈良時代の法律家のあいだにも異説を生じたが、この法典のつくられたちょうどそのころに、古事記と日本書紀は完成している。わたくしには、古事記が継体天皇を応神の五世の孫とし、日本書紀が応神五世の孫の子としているのは、この知識が大きく働いているとおもわれるのである。
しかし、これには反対説がある。聖徳太子の古い伝記の一つである『上宮記』に、応神天皇から継体天皇にいたる一人一人の王の名がちゃんと記してあるから、そのような推測の余地はない、という意見がそれである。だが、上宮記がそれほど古い文献かどうか疑わしいし、帝紀や記紀を書いた人がそのことを知っていたなら、皇統には神経質なかれらが、それを書きもらすはずはなかっただろう。
古事記と日本書紀は、継体天皇は応神天皇の五世の孫と言うだけで、応神天皇から継体天皇に至る具体的な系譜を示していません。
一般的には古事記と日本書紀が最も古い書物であると考えられていますが、「古事記と日本書紀より古い可能性がある書物」あるいは「古事記と日本書紀より古い書物に基づいて書かれた可能性がある書物」というのがあり、実はとてもややこしいことになっています。
鎌倉時代に卜部兼方という人物が「釈日本紀」という書物を書きました。「釈日本紀」は、「日本書紀」の注釈書ですが、もう今では残っていない様々な古い書物を参照しています。「釈日本紀」は、もう現存しない「上宮記」という書物を引用しています。引用箇所を見ると、「上宮記曰一云・・・」と書かれています。ある書物が「上宮記」に引用され、そこからさらに、「上宮記」が「釈日本紀」に引用されたのだろうと考えられています。上の「・・・」の箇所に、応神天皇から継体天皇に至る系譜が記されているのです。こういう複雑な経緯があって、「・・・」の箇所に記されている応神天皇から継体天皇に至る系譜は真実なのか、論争になっています。
継体天皇は、古い天皇と血縁関係があるのかないのかという点が論争の焦点になってきましたが、筆者は、現時点ではどちらとも断定できないと思います。古い天皇は、何人もの妻を持ち、大勢の子どもがいたりするので、傍系の王族が都の周辺の地域で有力者になることはあり、継体天皇もその一人であったかもしれないし、なかったかもしれません。
ただ、前回の記事で論じたように、応神天皇は古い天皇の直系子孫と結婚しただけであり、その前の成務天皇と仲哀天皇は捏造されています。喧伝されてきた「万世一系」はもとから成り立っておらず、継体天皇は古い天皇と血縁関係があるのかないのかという点にこだわるのはあまり重要でないと思われます(そもそも、日本という国の始まりに位置する初代の卑弥呼と二代目の台与を無視して、「万世一系」もなにもあったものではありません)。
それよりはるかに重要なのは、前回の記事の応神天皇のところで見たように、結婚を通じて新たに皇位継承権が生じるシステムです。ヲホドノオウも、仁賢天皇の娘である手白香皇女と結婚して、継体天皇になっています。継体天皇は、皆に歓迎されながら天皇になったようには見えませんが、結婚が成立すると、もうだれも文句は言えないようです。
継体天皇の時代には、「磐井の乱」という大きな出来事もありました。継体天皇は、物部氏や大伴氏らとともに、この戦いに勝利します。「磐井の乱」は、九州の勢力の反乱というイメージがあるかもしれませんが、実際には、九州の勢力の自立化の動きを感じ取った大和政権側が仕掛けた戦いだったようです(水谷2001)。継体天皇は、「磐井の乱」の後まもなく、病死します。
継体天皇の陵は、白石氏の編年図に記されている今城塚古墳(いましろづかこふん)(墳丘長190メートル)であると見られています。それなりに大きい古墳です。大量の埴輪を有しています。
六世紀には、さらに河内大塚古墳(かわちおおつかこふん)(墳丘長335メートル)と五条野丸山古墳(ごじょうのまるやまこふん)(墳丘長310メートル)が作られます。五条野丸山古墳が、最後の巨大前方後円墳になります。その一つ前の河内大塚古墳は、間違いなく巨大な前方後円墳ですが、異様な姿を見せています。円形部分は盛り上がっているのに、台形部分は平坦なのです。埴輪もありません。なんらかの理由で築造作業が中止された、未完成の古墳のようなのです。
継体天皇について語る時には、継体天皇はどこから来たのか、古い天皇と血縁関係があるのかないのかという話、大和になかなか入れなかった話、磐井の乱に勝利した話、そして今城塚古墳の話になることが多いです。しかし、日本の歴史において最も重要なのは、継体天皇の死の話かもしれません。
日本書紀は、継体天皇の巻の最後で、継体天皇の死を伝えています。しかし、継体天皇の死の伝え方が普通ではないのです。日本書紀には、以下のように書かれています(書き下し文は坂本1994、現代語訳は宇治谷1988より引用)。
原文
廿五年春二月、天皇病甚。丁未、天皇崩于磐余玉穗宮、時年八十二。冬十二月丙申朔庚子、葬于藍野陵。
或本云「天皇、廿八年歲次甲寅崩。」而此云廿五年歲次辛亥崩者、取百濟本記、爲文。其文云「太歲辛亥三月、軍進至于安羅、營乞乇城。是月、高麗弑其王安。又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。」由此而言、辛亥之歲、當廿五年矣。後勘校者、知之也。
書き下し文
二十五年の春二月に、天皇、病甚し。丁未に、天皇、磐余玉穂宮に崩りましぬ。時に年八十二。冬十二月の丙申の朔庚子に、藍野陵に葬りまつる。
或本に云はく、天皇、二十八年歳次甲寅に崩りましぬといふ。而るを此に二十五年歳次辛亥に崩りましぬと云へるは、百済本記を取りて文を為れるなり。其の文に云へらく、太歳辛亥の三月に、軍進みて安羅に至りて、乞乇城を営る。是の月に、高麗、其の王安を弑す。又聞く、日本の天皇及び太子・皇子、倶に崩薨りましぬといへり。此に由りて言へば、辛亥の歳は、二十五年に当たる。後に勘校へむ者、知らむ。
現代語訳
二十五年春二月、天皇は病が重くなった。七日、天皇は磐余の玉穂宮で崩御された。時に八十二歳であった。冬十二月五日、藍野陵(摂津国三島郡藍野)に葬った。
ある本によると、天皇は二十八年に崩御としている。それをここに二十五年崩御としたのは、百済本記によって記事を書いたのである。その文に言うのに、「二十五年三月、進軍して安羅に至り、乞屯城を造った。この月高麗はその王、安を弑した。また聞くところによると、日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった」と。これによって言うと辛亥の年は二十五年に当る。後世、調べ考える人が明かにするだろう。
日本書紀のこの箇所は、極めて異常です。日本書紀の筆者の説明から窺えるのは、日本で伝えられている継体天皇の死と、百済本記が伝えている継体天皇の死が食い違っていたのだろうということです。百済本記が伝えている内容は、見ての通り、非常にショッキングです。日本の天皇、皇太子、皇子(天皇の息子)が一挙に死んだことを伝えています。
日本書紀の筆者は、百済人から大和政権に献呈された百済の歴史書である百済本記を信頼しており、ここでも、百済本記の記述を無視することができなかったのです。そして、日本で伝えられている継体天皇の死より、百済本記が伝えている継体天皇の死を優先的に記したのです。実際に、百済本記が伝えているように、当該の531年に高句麗の安臧王は死亡しています。
百済本記が伝えているのは531年の出来事ですが、この情報は大変貴重です。478年の宋への最後の遣使から600年の隋への最初の遣使までの間は、中国の歴史書から日本の情報を得られないからです。
老齢の継体天皇が病で死ぬのは自然としても、皇太子と皇子までいっしょに死ぬとはどういうことでしょうか。
まず、継体天皇と周囲の人間の関係を考えてみましょう。
すでに述べたように、ヲホドノオウは、仁賢天皇の娘である手白香皇女と結婚して、継体天皇になりました。そして、広庭皇子(のちの欽明天皇)が生まれました。
継体天皇は、手白香皇女と結婚して天皇になる前は、地方の有力者でしたが、もうその時点で、何人も妻がいました。そのうちの一人が、尾張目子媛でした。仁賢天皇の娘である手白香皇女と結婚する前は、尾張目子媛が正妻だったと見られます。継体天皇と尾張目子媛の間には、勾大兄皇子と檜隈高田皇子という息子がいました。
ヲホドノオウは、仁賢天皇の娘である手白香皇女と結婚して、継体天皇になりました。ヲホドノオウがもとから連れていたのが、勾大兄皇子と檜隈高田皇子です。ヲホドノオウが継体天皇になって、手白香皇女との間に生まれたのが、広庭皇子です。
継体天皇が死んだら、勾大兄皇子/檜隈高田皇子が天皇になるのか、広庭皇子が天皇になるのか、問題になるでしょう。いやそれどころか、争いになるかもしれません(この問題・争いは、従来「辛亥の変(しんがいのへん)」という名で論じられてきました)。
百済本記は、継体天皇が死んだ時にその皇太子・皇子もいっしょに死んだと伝えています。これが示唆しているのは、継体天皇が死ぬと同時に、勾大兄皇子と檜隈高田皇子が殺され、広庭皇子が天皇になったということです。
古事記と日本書紀の全体を見れば、勾大兄皇子が安閑天皇になり、檜隈高田皇子が宣化天皇になったことになっています(安閑天皇は在位2年、宣化天皇は在位4年という設定になっています)。古事記と日本書紀の制作者(監督者)としては、勾大兄皇子と檜隈高田皇子が殺されたことを隠したかったのでしょう。しかし、日本書紀の継体天皇の巻の筆者が、本当のこと(百済本記が伝えていること)を漏らしてしまったのです。
百済の百済本記だけでなく、日本の「上宮聖徳法王帝説」と「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」も、531年に継体天皇が死亡し、同じ年に欽明天皇が即位したことを示しています。「上宮聖徳法王帝説」と「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」が本当のことを書けるのは、古事記と日本書紀よりも古い書物に基づいて書かれているためと考えられます。
勾大兄皇子と檜隈高田皇子を殺したのは、当然、広庭皇子あるいは広庭皇子を押す勢力です。まずは、広庭皇子(のちの欽明天皇)と広庭皇子を押していた勢力について考えなければなりません。
もう一つ考えなければならないのは、なぜ勾大兄皇子と檜隈高田皇子が広庭皇子(のちの欽明天皇)と広庭皇子を押していた勢力によって殺されたことを、古事記と日本書紀は隠そうとしたのかということです。
「倭の五王」をめぐる論争の行方、いわゆる「応神天皇陵」と「仁徳天皇陵」についての記事で、古事記と日本書紀が成務天皇と仲哀天皇を捏造しているのを見ましたが、今度は安閑天皇と宣化天皇を捏造しています。
ヲホドノオウは、仁賢天皇の娘である手白香皇女と結婚して、継体天皇になりました。勾大兄皇子も、仁賢天皇の娘である春日山田皇女と結婚しました。檜隈高田皇子も、仁賢天皇の娘である橘仲皇女と結婚しました。継体天皇とその息子である勾大兄皇子・檜隈高田皇子は、新天地でなんとか溶け込もうとしていたのかもしれません。
仁賢天皇の娘で、継体天皇の皇后であった手白香皇女の陵は、白石氏の編年図の西山塚古墳(にしやまづかこふん)、勾大兄皇子と春日山田皇女の合葬墓は、高屋城山古墳(たかやしろやまこふん)、檜隈高田皇子と橘仲皇女の合葬墓は、鳥屋ミサンザイ古墳(とりやみさんざいこふん)と見られています(白石2018)。
※古事記と日本書紀の記述に従えば、高屋城山古墳は勾大兄皇子と春日山田皇女の合葬墓で、鳥屋ミサンザイ古墳は檜隈高田皇子と橘仲皇女の合葬墓であるということになりますが、古事記と日本書紀の記述には、疑いもあります。
継体天皇の陵と見られている今城塚古墳に、奈良・大阪の二上山白石、兵庫の竜山石、熊本の阿蘇ピンク石の3つの石棺が納められていたことがわかっています(水野2008)。継体天皇の息子である勾大兄皇子と檜隈高田皇子は、やはり継体天皇が死んだ時に殺されており、三人がいっしょに葬られた可能性があります。
これらの古墳の後に、河内大塚古墳と五条野丸山古墳が現れて、古代日本の長い伝統であった巨大前方後円墳は姿を消します。日本史上の大きな画期といってよいでしょう。
河内大塚古墳は未完成のようですが、なぜ未完成に終わったのでしょうか。
五条野丸山古墳の被葬者はだれで、なぜこの古墳が最後の巨大前方後円墳になったのでしょうか。
参考文献
井上光貞、「日本の歴史<1> 神話から歴史へ」、中央公論新社、2005年。
宇治谷孟、「日本書紀(上)」、講談社、1988年。
坂本太郎ほか、「日本書紀(三)」、岩波書店、1994年。
白石太一郎、「古墳からみた倭国の形成と展開」、敬文舎、2013年。
白石太一郎、「古墳の被葬者を推理する」、中央公論新社、2018年。
水谷千秋、「謎の大王 継体天皇」、文藝春秋、2001年。
水野正好ほか、「継体天皇の時代 徹底討論 今城塚古墳」、吉川弘文館、2008年。