「シールをぺたっと貼る」の「ぺたっ」とは何なのか

この記事は、前回の記事への補足です。

前回の記事では、下を意味する*petaという語から、hetaru(へたる)、hetabaru(へたばる)、hetoheto(へとへと)などの語が生まれたことをお話ししました。

下を意味する語から、落ちること、倒れること、転ぶこと、さらにもっと抽象的になって、疲れること、衰えること、病むこと、死ぬことを意味する語が生まれるのは頻出パターンであり、驚くべきことではありません。

しかし、日本語には、「シールをぺたっと貼る」のような表現もあります。「シールをぺたっと貼る」のpetaʔ(ぺたっ)は、ちょっと立ち止まって考えたいところです。

hetaru(へたる)、hetabaru(へたばる)、hetoheto(へとへと)などの語が存在することから、下を意味する*petaは倒れることを意味することがあったはずです。

下を意味する*pataと*petaという同源の語があって、前者からbataʔ(ばたっ)、battari(ばったり)、batabata(ばたばた)などが生まれ、後者からhetaru(へたる)、hetabaru(へたばる)、hetoheto(へとへと)などが生まれたと見られます。

人が倒れるところを想像してください。以下の図のような感じです(イラストはラ・コミックイラスト部様のウェブサイトより引用、さらに回転)。

女性が倒れてしまったところです。女性と地面が全面的に接触している点に注目してください。この面的接触というのがポイントです。図を90度回転させてみます。

今度はどうでしょうか。女性が壁かなにかに貼りついているように見えないでしょうか。

このような類似性からして、倒れることを意味していた*petaが面的接触を意味するようになったと思われます(現代の日本人が一枚目のような状況で「へばる」と言い、二枚目のような状況で「へばりつく」と言っているのを見ても、一枚目と二枚目の間に大きな障害はないと思われます)。「ぺたっと貼りつく」と言いますが、「ぴたっと貼りつく」とも言うので、petaʔ(ぺたっ)とpitaʔ(ぴたっ)は同源でしょう。

「自分にぴったりの仕事」や「ぴたりと言い当てる」のような表現があるのも驚きます。最初は具体的な物の接触、接合、接着を意味していた語が、次第に抽象化して適合や符合を意味するようになったのでしょう。

※紛らわしいですが、zibeta(地べた)のbetaは語源がちょっと違うと思われます。奈良時代にはɸata(端)とɸeta(辺)という語があり、水と陸の境のあたりをそのように呼んでいたことが窺えます(ɸedatu(隔つ)の語源もここでしょう)。zibeta(地べた)のbetaはかつては単独で地面を意味することができたと思われます。補説も参照してください。

隙間がないことを表すpitiʔ(ぴちっ)、pitipiti(ぴちぴち)、pittiri(ぴっちり)、bittiri(びっちり)、bissiri(びっしり)なども無関係でないでしょう。

下を意味する*pataから、倒れることを意味するbataʔ(ばたっ)、battari(ばったり)、batabata(ばたばた)などが生まれましたが、これも、ここで終わらず、接触、接合、接着のような意味に向かうことがあったのではないでしょうか。「ばったり出会う」のbattari(ばったり)は、そのような流れの中に位置づけたいところです。

battiri(ばっちり)は、今ではすっかり正体不明になっていますが、「相性はばっちり」や「ばっちり似合う」のような表現があることからして、かつては(pittari(ぴったり)のような)適合性(適格、合格)を意味していたのかもしれません。

まさに驚きの意味展開ですが、決して珍しい例ではないようです。

「付く」に関する考察

本ブログで何回か挙げている語彙ですが、歩くことを表すtuktuka(つかつか)や人を歩いて行かせることを意味するtukaɸu(使ふ、遣ふ)から、足・脚を意味する*tukaという語があったことが窺えます。その前には、下を意味する*tukaという語があったと見られます。

下を意味する*tukaは、足・脚を意味するようになっただけでしょうか。そんなことはないでしょう。tukaru(疲る)という語がありました。下を意味する*tukaが倒れることを意味するようになり、そこから生まれたのがtukaru(疲る)とtuku(付く)だったのではないかと思われます(後述の「貼る」に関する考察も参照)。

奈良時代の動詞の六つの活用形の中で、未然形がもとの姿を最もよく示していることは、すでにお話しした通りです。

「足りる」と「足す」になぜ「足」という字が使われるのか?の記事で触れたように、足・脚を意味する*tukaからtuku(付く)が生まれた可能性も考えられますが、日本語の語彙全体を見渡す限りでは、倒れることを意味した*tukaからtuku(付く)が生まれた可能性のほうが高そうです。

「貼る」に関する考察

haru(貼る)の語源はとても難しそうです。

「張り紙」と書いたらよいか、「貼り紙」と書いたらよいかという質問がありますが、これもわけがあるようです。

平らに広がること/広げることを意味したɸaruという動詞と、付着すること/付着させることを意味したɸaruという動詞が背後にあるように見えます。

水を意味するpark-、pirk-、purk-、perk-、pork-(par-、pir-、pur-、per-、por-、pak-、pik-、puk-、pek-、pok-)のような語から始まります。

(1)水を意味していた*paraという語が、その横の平らな土地を意味するようになります(これはɸara(原)から窺えます)。ここから、平らに広がること/広げることを意味するɸaruという動詞が生まれます。

(2)水を意味していた*paraという語が、その横の盛り上がった土地を意味するようになります(これはɸara(腹)から窺えます)。ここから、盛り上がることを意味するɸaruという動詞が生まれます(「現役バリバリ」のbaribari(バリバリ)は、盛りにあること、盛んであることを意味しているのでしょう)。

(3)水を意味していた*paraという語が、雨を意味することができず、落下、下方向、下を意味するようになります(これはparapara(ぱらぱら)から窺えます。paratuku(ぱらつく)のparaが水を意味しているのか、雨を意味しているのか、下を意味しているのか微妙ですが、tukuが落ちることを意味しているのは間違いないでしょう)。ここから、倒れることを意味するɸaruという動詞が生まれます。単にɸaruと言うだけではよく通じず、前に語を付け足して、倒れることを意味しようとしたと見られます(kutabaru(くたばる)やhetabaru(へたばる)など)。倒れることを意味するɸaruという動詞があったのなら、上のpetaʔ(ぺたっ)とtuku(付く)で見たように、付着という意味が生まれてくる可能性は大いにあります。

「張り紙」と書いたらよいか、「貼り紙」と書いたらよいかという問題が生じるのは、「壁にharu」のharuに、平らに広がる/広げるという(1)の意味と、付着する/付着させるという(3)の意味が混在しているからでしょう。同じ音の語があれば、それらが干渉し合うこともあります。「壁にharu」のharuは、(1)の流れと(3)の流れを汲んでいるのでしょう。

 

補説

ɸata(端)とɸasi(端)だけではない

本ブログの読者は日本語のいわゆる「擬態語」がなんなのかだんだんわかってきたと思うので、もう少し例を追加しておきます。

奈良時代の日本語のɸata(端)とɸasi(端)から、水と陸の境のあたりを*pataと言ったり、*pasiと言ったりしていたことが窺えます。*pataと言ったり、*pasiと言ったりしていたのなら、*pasaと言うことだってあったでしょう。この境を意味する*pasaから生まれたのが、切ることを意味するbasaʔ(ばさっ)/bassari(ばっさり)と見られます。

いつもの図は示しませんが、水(川)を意味していた語が横の部分を意味するようになるのは超頻出パターンです。水を意味していた*pataは、手・腕を意味するようになることもあったはずです。そのことは、utu(打つ)とtataku(叩く)の類義語であるɸataku(叩く)から窺えます。手を叩く時のpatipati(ぱちぱち)や頬を叩く時のbasiʔ(ばしっ)なども同じところから来たのでしょう。

*pataは、人間の手・腕だけでなく、鳥の羽・翼を意味することもあったにちがいありません。patapata(ぱたぱた)、batabata(ばたばた)、basabasa(ばさばさ)がそのことを物語っています。

日本語のいわゆる「擬態語」は、あくまで他の語彙といっしょに、他の語彙と同じように考えるべきものなのです。

正直に言って、日本語の起源と歴史を考えるうえで日本語の「擬態語」がこんなに重要になるとは、筆者も思っていませんでした。