古代中国語のljang(良)リアンが昔の日本語のyosi(良し)になり、古代中国語のak(惡)が昔の日本語のasi(悪し)になったという話をしました。前者のケースは少し複雑ですが、昔の日本語がryauとは言えず、yauとも言えず、yoと言うことしかできなかったために、yosi(良し)という語が生まれました。私たちがよく使う日本語のyoi(良い)は、中国語由来であるということが判明しました。
ここでは、関連する話題として、「ちゃんとしなさい」のtyan(ちゃん)と「きちんとしなさい」のkitin(きちん)を取り上げます。「ちゃんとしなさい」も「きちんとしなさい」も、よく母親が子どもに言うセリフなので、すっかりおなじみでしょう。しかしなんと、こんなところにも中国語が入っているようなのです。
古代中国語にtsyeng(正)チェンという語がありました。正しいありさま、適切なありさま、整ったありさまなどを表す語です。日本語にはsyauとseiという読みで取り入れられました。しかし、これは日本語の書き言葉だけを見た場合の話です。どうやら、古代中国語のtsyeng(正)は日本語の話し言葉のほうにもtyanという読みで入ったらしいのです。「ちゃんとしなさい」のtyan(ちゃん)は、正しいありさま、適切なありさま、整ったありさまなどを表す古代中国語のtsyeng(正)を取り入れたものではないかというわけです(古代中国語のtsyeng(整)チェンも関わっている可能性があります)。こう考えると、ことごとくつじつまが合ってきます。
「ちゃんとしなさい」のtyan(ちゃん)と意味が似ている「きちんとしなさい」のkitin(きちん)に目を向けましょう。kitin(きちん)のほかにkitiʔ(きちっ)、kittiri(きっちり)という言い方もあるので、kitiがポイントと見られます。このkitiは一体なんでしょうか。
古代中国語にkjit(吉)キイトゥという語がありました。日本語にはkiti、kituという読みで取り入れられました。「吉」という字を見ると、縁起がよいこと、めでたいこと、幸せ、幸運などを連想するかと思います。確かに、中国語でも日本語でも中心的な意味はそのようなものです。しかし、この語には「よい、すぐれている、立派だ」という意味もありました。このマイナーなほうの意味を受け継いだのが、日本語のkitin(きちん)、kitiʔ(きちっ)、kittiri(きっちり)と見られます。
それを裏づけるのが、古代中国語のkhjit(詰)キイトゥです。古代中国語のkjit(吉)と同じように、古代中国語のkhjit(詰)もkiti、kituという読みで日本語に取り入れられました。古代中国語のkjit(吉)のkは息をあまり吐き出さないようにしながら発音する子音、古代中国語のkhjit(詰)のkhは息を強く吐き出しながら発音する子音です(現代の中国語を学んだことがある方は無気音と有気音の区別をご存知だと思いますが、まさにそれです)。ちなみに、「詰」の中の「吉」は音を表しているだけで、縁起がよいこと、めでたいこと、幸せ、幸運などとは全く関係ありません。偏(へん)で意味領域を表し、旁(つくり)で音を表すという中国語のお得意のパターンです。
「詰」の中の「言」が示すように、古代中国語のkhjit(詰)は主に、責めたり、追いつめたりするような発話を意味した語ですが、「詰める、詰まる」という意味も持っていました。この古代中国語のkhjit(詰)が持つ「詰める、詰まる」という意味を受け継いだのが、日本語のgitigiti(ぎちぎち)、gittiri(ぎっちり)、gissiri(ぎっしり)、kitusi(きつし)などと見られます。
古代中国語のkjit(吉)は、日本語の書き言葉にkiti、kituという音読みで入り、日本語の話し言葉にはkitin(きちん)、kitiʔ(きちっ)、kittiri(きっちり)という形で入った、同様に、古代中国語のkhjit(詰)は、日本語の書き言葉にkiti、kituという音読みで入り、日本語の話し言葉にはgitigiti(ぎちぎち)、gittiri(ぎっちり)、gissiri(ぎっしり)、kitusi(きつし)などの形で入ったということです。
日本語にはgitigiti(ぎちぎち)と似た意味を持つgyūgyū(ぎゅうぎゅう)、gyuʔ(ぎゅっ)、kyuʔ(きゅっ)、kyun(きゅん)などの語もありますが、これらももとは古代中国語のgjuwng(窮)ギウウンでしょう。
外国語由来なのにそのことが知らされなかったら、摩訶不思議なものと思われて当然です。日本人は、いわゆる擬態語を日本語の特徴として強調する一方で、その擬態語に異質な感じも抱いてきたのではないでしょうか。その異質な感じは、根拠のないものではなかったのです。
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