天皇の起源はもしかして・・・倭国大乱と卑弥呼共立について考える

卑弥呼のことは、中国の歴史書(魏志倭人伝)には書かれているが、日本の歴史書(古事記と日本書紀)には書かれていないとお話ししました。魏志倭人伝には、卑弥呼が倭王になるきっかけになった「倭国大乱」のことも書かれていますが、これがとても短い記述で、極めて難解です。微妙な解釈の問題もあるので、ここでは、現代日本語訳ではなく、魏志倭人伝の原文とその書き下し文を示します(藤堂2010)。

其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。

其の国、本亦た男子を以って王と為す。住まること七、八十年、倭国乱れて、相攻伐すること年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。

落ち着いた時代があった後、倭国で戦乱が発生し、それが何年か続き、その終わりに卑弥呼が倭王になったことが読み取れます。ただ、記述があまりに短く、状況がよくわかりません。卑弥呼の登場も不思議ですが、同じく不思議なのが台与の登場です。卑弥呼が死んだ後の場面です。

更立男王、國中不服。更相誅殺。當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王。國中遂定。

更めて男王を立つれども、国中服せず。更に相誅殺す。当時千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女壱与、年十三なるものを立てて王と為す。国中遂に定まる。

ここで当然思うのは、なぜ男王が立つとうまくいかず、少女が立つとうまくいくのかということです。「なぜ男王では統治できなかったのか、お考えをお話しいただけますか」と問われて、歴史学者の吉村武彦氏が以下のように答えています(石野2011)。筆者もこのあたりに卑弥呼と台与の本質があるのではないかと考えています。

「魏志倭人伝」に卑弥呼は「夫婿なし」とあり、卑弥呼は独身であることがわかります。独身ということは、子どもをつくらせないということです。その後の壹与も、宗女と書いていますから一族だろうと思いますが、おそらく子どもをつくらせないことが主眼です。

中国の場合は世襲の王権が成立していますが、倭国では子どもに王位を継がせるような政治状況が望まれていない。文献からわかることは、こうした理解しかありません。子どもをつくらない人に王位を継がせる。その王は、巫女王の性格をもっていてもかまわないのですが、基本的には子どもをつくらせないことが一番大きい。独身の女性を王位に就かせるのは、世襲と関係するのではないかと考えています。男子の王では、それまでの慣習もあって、子どもや兄弟に継承させると思うのです。これが、男子を王位に就かせなかった理由ではないかと思います。

普通の王なら、結婚するかどうか、子どもをつくるかどうかなんて、王の意のままでしょう。卑弥呼と台与は、そういう立場にはなかったと見られます。その意味で、卑弥呼と台与は普通の王ではないのです。

筆者は、卑弥呼と台与は以下のような状況に置かれていたと考えています。筆者も最初からこのように考えていたわけではありません。筆者がなぜこの考えに辿り着いたのかという説明は長くなるので後に回します。

※誤解されやすいことなので先に指摘しておくと、卑弥呼のことを「邪馬台国の女王」と言うのは、あまり適切ではありません。卑弥呼は、邪馬台国の最高位の者ではなく、邪馬台国といくつかの国が作る連合の最高位の者です。

上の図は、男の権力者たち(各国の王たち)が集まって、だれを連合の最高位にするかもめているところです。

下の図は、この男の権力者たち(各国の王たち)が、「象徴」として少女を連合の最高位に据えたところです。

なぜ卑弥呼と台与だとうまくいくかというと、卑弥呼と台与は「象徴」としての役目を完璧に果たすからです。なぜ男王だとうまくいかないかというと、男王は「象徴」としての役目を果たさず、権力をふるおうとするからです。

二番目の図で、卑弥呼が死んでいなくなったらどうなるでしょうか。卑弥呼のまわりにいた男の権力者たちがもめる様子が目に浮かびます。そこに台与が登場したらどうなるでしょうか。卑弥呼がいた時の状態に戻るのです。

卑弥呼が倭王になった時に、「象徴」として少女を最高位に据えるというやり方は永続的なやり方であるとは捉えられていなかったと思われます。卑弥呼が死んだ後すぐに男王が立ったことがそのことを示しています。「象徴」として少女を最高位に据えるというやり方が永続的なやり方であると捉えられていたのなら、真っ先に次の少女を探すでしょう。

卑弥呼の即位は一種の「暫定的措置」の性格を持ち、台与の即位も一種の「暫定的措置」の性格を持っていたと見られます。卑弥呼の即位前に大きなもめ事があって、台与の即位前にも大きなもめ事があったら、さすがに次はなんらかの対策が考えられそうなものです。

しかし、どうでしょうか。卑弥呼と台与の時代にこんな状態で、そのすぐ後の時代に、最高位が「ある一族」の内部で継承されていくシステムが確立するでしょうか。そんなシステムでは、全く合意が得られないでしょう。最高位がいくつかの氏族の間で動きながら継承されていくシステムのほうがまだ考えられそうです。

もし日本の真実の歴史が、最高位が「ある一族」の内部で継承されていくシステムではなく、最高位がいくつかの氏族の間で動きながら継承されていくシステムだったとしたら、どうでしょうか。古事記と日本書紀がなぜ卑弥呼のことを隠したのか、なぜ日本の歴史を改竄したのか、その重大な理由がぼんやりと浮かび上がってきそうな気がしないでしょうか。

 

参考文献

石野博信ほか、「研究最前線 邪馬台国 いま、何が、どこまで言えるのか」、朝日新聞出版、2011年。

藤堂明保ほか、「倭国伝 中国正史に描かれた日本 全訳注」、講談社、2010年。

卑弥呼は一体どんな人だったのか、日本の歴史の研究を大混乱させた幻の神功皇后

卑弥呼と邪馬台国のことは、中国の歴史書には書かれているのに、日本の歴史書(「古事記」と「日本書紀」)には書かれていないと述べました。しかし、日本の歴史書にも、怪しげな記述はあるのです。

前回の記事でお話ししたようにより複雑な成立事情を持つ古事記はひとまず脇に置いておき、ここでは日本書紀を見ることにします。日本書紀は、神代(歴代の天皇に先立つ神々の時代)の話がはじめにあり、そこから○○天皇の話、○○天皇の話、○○天皇の話・・・というふうに展開していきます。このように神代の話の後は歴代の天皇の話が続いていくのですが、そこに一人だけ天皇でない人物がいます。一つだけ特別枠が設けられているのです。神功皇后(じんぐうこうごう)という人物です。神功皇后は、第14代天皇の仲哀天皇の妻、第15代天皇の応神天皇の母として描かれています。神功皇后は、地味に登場するのではなく、派手に登場します。夫の仲哀天皇よりも大きく取り上げられており、その姿は日本の歴史における主要人物の一人という感じです。

日本書紀は、時代順に起きた出来事を書いていくスタイルですが、私たちになじみの「西暦」では書かれていません。「天智元年、天智2年、天智3年・・・、天武元年、天武2年、天武3年・・・」のようなスタイルです。そのため、日本書紀に書かれている出来事が西暦何年に起きたのかということは必ずしも自明ではなく、古い時代の話になればなるほど不確かです。

日本書紀の神功皇后の時代の記述を追っていくと、おやっと思わずにはいられません。神功39年、神功40年、神功43年に、以下の記述があります。日本書紀は漢語(つまり昔の中国語)で書かれているので、ここでは「宇治谷孟、日本書紀(上):全現代語訳、講談社、1988年」の現代日本語訳を示します。

►神功39年
魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に、倭の女王は大夫難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢をもってきた。太守の鄧夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。

►神功40年
魏志にいう。正始元年、建忠校尉梯携らを遣わして詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。

►神功43年
魏志にいう。正始四年、倭王はまた使者の大夫伊声者掖耶ら、八人を遣わして献上品を届けた。

さらに、神功66年に以下の記述があります。

►神功66年
この年は晋の武帝の泰初二年である。晋の国の天子の言行などを記した起居注に、武帝の泰初二年十月、倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している。

日本書紀はこのように書いているわけですが、この日本書紀の神功39年、神功40年、神功43年、神功66年の記述に特徴的なのは、あくまで中国の歴史書はそう言っているという体裁を取っているところです。

実際、上の日本書紀の記述は、前回の記事で取り上げた魏志、そしてその次の晋書の記述とよく合います。魏志には、景初二年に倭の女王である卑弥呼が帯方郡に使いを送り、魏の皇帝に朝貢したいと言ってきたこと、正始元年に卑弥呼にそのお返しがあったことが記されています。魏志にはさらに、正始四年に卑弥呼が再び使いを送ったこと、その後まもなく卑弥呼が死亡し、男王が立ったがうまくいかず、殺し合いが発生してしまい、卑弥呼の一族の台与という少女が後を継いだことが記されています。魏志の次の晋書には、泰始二年に倭人が朝貢したことが記されています(泰始が正しく、泰初は誤りです)。

年代的には、よく合います(魏志の景初二年と日本書紀の景初三年が違っているだけです)。しかし、卑弥呼と台与がやったことを、神功皇后がやったかのように書いている日本書紀には大いに問題があります。

卑弥呼と台与は倭王(最高位の者)です。それに対して、神功皇后は摂政(一般的には、最高位の者が幼かったり、病弱だったり、女性だったりする場合に、代わりに政務を執り行う者)です。日本書紀では、第14代天皇の仲哀天皇の死亡から第15天皇の応神天皇の即位まで、天皇の地位が長いこと空位になっています。具体的に言うと、仲哀2年に仲哀天皇が気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)を皇后とし、仲哀9年に仲哀天皇が死亡します。同じ仲哀9年の終わりに神功皇后がのちの応神天皇を生みますが、神功皇后が政務を執り行います。70年ぐらい経って神功皇后が死亡し、ようやく応神天皇が即位します。

最高位は仲哀→応神と継承されており、その間に政務を執り行った神功皇后を、中国の歴史書は「倭の女王」とか「倭王」と呼んでいる、日本書紀はそう言いたいようです。この日本書紀の怪しい感じは、中国・朝鮮の歴史書(中国の魏志、晋書、朝鮮の三国史記)と照らし合わせると、ますます怪しくなってきます。作表は、倉西裕子氏の「日本書紀の真実 紀年輪を解く」(講談社)を参考にしています(倉西2003)。

※「薨じた(こうじた)」というのは、「死んだ」という意味です。ここでは意図的に上の表と下の表に分けていますが、日本書紀には神功39年、40年、43年、55年、64年、65年、66年の出来事はこの順序で平然と書き連ねられています

まず上の表を見てください。日本書紀が神功39年、神功40年、神功43年、神功66年に起きたとしていることは、西暦238年、240年、243年、266年に起きたことなのです。次に下の表を見てください。日本書紀が神功55年、神功64年、神功65年に起きたとしていることは、西暦375年、384年、385年に起きたことなのです。

日本書紀はこうやって歴史を歪めています。卑弥呼がやったことを、卑弥呼がやったと書かずに、神功皇后がやったかのように書く、台与がやったことを、台与がやったと書かずに、神功皇后がやったかのように書く、もうこの時点で明らかな歴史の改竄ですが、上の表は、日本書紀はもっと大がかりな歴史の改竄を行っているのではないかと疑わせるものです。

日本書紀が上の表のような怪しい作りになっていることは、かなり前から井上光貞氏などが指摘してきました(井上1960)。そのことを鮮明な形で改めて示したのが、倉西裕子氏だったわけです(倉西2003)。

井上氏や倉西氏の指摘にもかかわらず、多くの学者は日本書紀に対して厳しい態度を取ろうとしません。ただ、これもわからなくはありません。古事記と日本書紀を神聖視するよう強要された時代があり、その余韻が残っていることも理由の一つだと思いますが、筆者はそのほかにも大きな理由があると考えています。

(理由1)日本書紀が歴史を改竄しているような感じはしても、だれがなんのために日本の歴史を改竄したのかさっぱりわからない。

(理由2)日本書紀による歴史の改竄があまりに大規模であるために、その全容が容易には捉えられない。当然の心理として、大規模であればあるほど、信じがたくなる。

この二つの理由が大きいと考えられます。これらに対応しますが、これからの日本の歴史の研究では、以下の二つの問い(観点)が重要になります。

(問い1)だれがなんのために日本の歴史を改竄したのか。

(問い2)日本の実際の歴史はどうだったのか。

卑弥呼と台与と神功皇后の例が示すように、日本書紀が行っている歴史の改竄は全く単純ではありません。日本書紀はゼロからファンタジーを作っているわけではないのです。そんなものを作っても、信用されないでしょう。歴史について語る際には、以下の視点が重要です。

このうちの一部分が正しくないと、それはもう真実の歴史ではないのです。組み合わせの正しさが重要です。「だれが」の部分を改変してしまう、「いつ」の部分を改変してしまう、「どこで」の部分を改変してしまう、「なにをした」の部分を改変してしまう、それはもう真実の歴史ではないのです。日本書紀はまさにこのようなことを行っています。日本書紀が、多くの改竄を含んでいるのに、真実らしく見えてしまう理由が、ここにあります。日本書紀はそのことを巧みに利用しています。読む者を本気で信じさせようとしています。歴史書というより、一種の宗教書の様相を呈しています。

上の(問い1)と(問い2)はどちらも重い問いですが、どちらの問いに関しても21世紀に入ってから重要な研究が発表されています。しかし、以前に述べたように、現代は情報があふれる時代であり、重要な研究がかき消されてしまっています。

今回の記事では「神功皇后」に疑惑を向けましたが、とうとう「聖徳太子」その他の人物にも疑惑が向けられるようになってきました。なにしろ、奈良時代(710~794年)より前に書かれた文献、その直前に書かれた文献すら、残っていないのです。はっきり言いましょう、消されているのです。この領域で最先端を行く大山誠一氏らの研究を紹介したいと思いますが、その前に、日本という国家の起源に関係がありそうなのに、あまりに謎に包まれている卑弥呼と台与についてもう少しお話しします。

 

補説

神功皇后の「三韓征伐」はなんと・・・

日本書紀の神功皇后の箇所には、いわゆる「三韓征伐」の話が出てきます。神功皇后が朝鮮半島に出兵し、新羅、百済、高句麗を服属させたという話です。「三韓征伐」と聞くと、激しい戦いを想像するかもしれませんが、日本書紀の記述は全然違います。再び「宇治谷孟、日本書紀(上):全現代語訳、講談社、1988年」の現代日本語訳を示します。神功皇后らが日本を発つところです。

冬十月三日、鰐浦から出発された。そのとき風の神は風を起こし、波の神は波をあげて、海中の大魚はすべて浮かんで船を助けた。風は順風が吹き、帆船は波に送られた。舵や楫を使わないで新羅についた。そのとき船をのせた波が国の中にまで及んだ。これは天神地祇がお助けになっているらしい。新羅の王は戦慄して、なすべきを知らなかった。多くの人を集めていうのに、「新羅の建国以来、かつて海水が国の中にまで上ってきたことは聞かない。天運が尽きて、国が海となるのかも知れない」と。その言葉も終わらない中に、軍船海に満ち、旗は日に輝き、鼓笛の音は山川に響いた。新羅の王は遥かに眺めて、思いの外の強兵がわが国を滅ぼそうとしていると恐れ迷った。やっと気がついていうのに、「東に神の国があり、日本というそうだ。聖王があり天皇という。きっとその国の神兵だろう。とても兵を挙げて戦うことはできない」と。白旗をあげて降伏し、白い綬を首にかけて自ら捕われた。地図や戸籍は封印して差出した。

唖然としながらさらに読むと、以下の記述があります。

高麗、百済の二国の王は、新羅が地図や戸籍も差出して、日本に降ったと聞いて、その勢力を伺い、とても勝つことができないことを知って、陣の外に出て頭を下げて、「今後は永く西蕃(西の未開の国)と称して、朝貢を絶やしません」といった。それで内官家屯倉を定めた。これがいわゆる三韓である。皇后は新羅から還られた。

※地図と戸籍を差し出すという行為は、統治下に入ることを示す行為と考えてよいでしょう。内官家屯倉(うちつみやけ)というのは、大和朝廷の直轄領(直接支配する土地)を意味します。

実は、「三韓征伐」の記述は驚くほどあっさりとしていて、倭が戦うまでもなく、新羅、百済、高句麗が降伏したという内容になっています。朝鮮半島の歴史がこの通りだったかというと、そうではありません。倭が朝鮮半島に進出し、一つの勢力になっていたことは事実です。しかし、朝鮮半島全体(新羅、百済、高句麗)を支配していたかのような記述は、事実ではありません。特に、北方の高句麗が強大であり、新羅、百済、倭を含む朝鮮半島の南側の勢力が脅かされたり、痛い目にあわされたりしていたというのが事実です。

昔、江上波夫氏が「騎馬民族征服王朝説」を唱えて、大きな話題になったことがありました(江上1991)。日本は弥生時代に農耕社会になり、その延長線上に大和朝廷が生まれたというのが従来の見方であり、騎馬民族が侵入してきて、大和朝廷を立てたという見方はショッキングなものだったのです。今では、この見方は様々な方面から反論を受け、すっかり下火になっています。

確かに、四世紀後半から五世紀に倭の軍事および文化・文明全体に顕著な変化が見られ、外から何者かが侵入してきたように見えたのは、わからなくはありません。しかし、ここでも、北方の強大な高句麗が朝鮮半島の南側の新羅、百済、倭などを脅かしたり、痛め目にあわせたりしていたことが背景にあります。

高句麗の騎馬隊に苦しめられた倭は、朝鮮半島から新しい軍事品・軍事技術を取り入れることを余儀なくされました。倭の軍事に顕著な変化が見られたのは、このためです。同時に、同じように高句麗に苦しめられていた新羅、百済およびその他の勢力と近づくことにもなりました。日本が中国の文化・文明から大きな影響を受けたことはよく知られていますが、朝鮮半島を介して受けた影響も大きいのです。

倭では弥生時代の途中から石器に代わって鉄器の使用が増えていきましたが、鉄の供給も朝鮮半島に依存していました。鉄器を作るためには、材料の鉄が必要です。鉄は自然界にほとんど単体で存在せず、鉄鉱石・砂鉄から鉄を取り出す作業(すなわち製鉄)が欠かせません。しかし、日本に製鉄遺跡が認められるようになるのは、古墳時代の後のほうの六世紀になってからです(白石2013)。材料の鉄自体は、長いこと朝鮮半島頼みだったのです。

当時の倭と朝鮮半島の関係は、神功皇后の「三韓征伐」が描いている通りではありません。高句麗で414年に建てられた広開土王の石碑などから、倭が朝鮮半島で戦いを起こし、ある程度の戦果を上げていたことは確かですが、神功皇后の「三韓征伐」は話を大きく膨らませてしまっています。

 

参考文献

井上光貞、「日本国家の起源」、岩波書店、1960年。

江上波夫、「騎馬民族国家 日本古代史へのアプローチ」、中央公論新社、1991年。

倉西裕子、「日本書紀の真実 紀年輪を解く」、講談社、2003年。

白石太一郎、「古墳からみた倭国の形成と展開」、敬文舎、2013年。

改竄された日本の歴史、なぜ古事記と日本書紀は本当のことを書かなかったのか

日本の歴史に興味を持ったことがある人なら、だれでも「卑弥呼(ひみこ)」という名前を聞いたことがあるでしょう。中国の歴史書には、西暦200~250年頃の日本に卑弥呼という女王がいて、中国と接触していたこと、そして邪馬台国という場所にいたことが記されています。

この卑弥呼と邪馬台国のことを書かず、不自然に沈黙しているのが、日本の歴史書の「古事記」と「日本書紀」です。

なぜ古事記と日本書紀という二つの歴史書が残ることになったのか、実は明らかになっていません。一般的には、古事記は712年に完成、日本書紀は720年に完成したとされています。奈良時代(710~794年)のはじめのことです。

ただ、古事記の712年という成立年代には、以前から疑問が投げかけられてきました。古事記という書物には、日本書紀よりも古いのではないかと思わせる部分と、日本書紀よりも新しいのではないかと思わせる部分があり、古事記の成立年代をめぐる議論は混乱模様を呈しています。

これまでに発表された古事記の成立年代をめぐる研究の中で、筆者が特に優れていると思うのは、大和岩雄氏の研究です(大和1997(筆者は1997年の版しか読んでいませんが、新版も出ているようです))。大和氏自身の考察も優れていますが、これまでの他者の研究を網羅的に取り上げている点も優れています。

大和氏は、日本書紀より前に存在した書物があり、その書物に変更・追加が施されて日本書紀よりだいぶ後に完成したのが、今残っている古事記であると考えています。古事記に日本書紀より古いと見られる部分と日本書紀より新しいと見られる部分があることが、うまく説明されています。筆者も、大和氏が示している可能性が高いのではないかと考えています。

日本書紀は、第41代天皇の持統天皇のところで記述が終わっています。持統天皇は奈良時代のすぐ前の天皇であり、これは普通に理解できます。それに対して、古事記は、第33代天皇の推古天皇のところで記述が終わっており、天皇がなにを言ったか、なにをしたかという具体的な記述は、第23代天皇の顕宗天皇のところで終わっています。古事記は未完の感じがありありと出ている書物です。日本書紀より前に、途中まで書かれて、放棄された書物があったのではないかと考えたくなるところです。

ただし、天から降りてきた神の子孫が天皇になったという話の根幹部分は、多少の違いはあれど、古事記と日本書紀に共通しており、このことは認識しておく必要があります。

当面は、古事記の問題には深入りせず、主に日本書紀のほうを取り上げます。

卑弥呼と邪馬台国のことが記されている「魏志倭人伝」

「魏志倭人伝」という名前も、聞いたことのある人が多いでしょう。中国に「魏志(魏書)」という歴史書があり、その中に倭人について書かれている部分があります。この部分が、日本では「魏志倭人伝」と呼びならわされています。魏志倭人伝は2000字ぐらいの記述ですが、同時代に書かれた記録が日本側にないので、魏志倭人伝は非常に貴重な資料になっています。

魏志倭人伝の一部をのぞいてみましょう。中国の皇帝と卑弥呼がやりとりしている場面です。魏志倭人伝の原文は当然昔の中国語なので、ここでは「藤堂明保ほか、倭国伝:中国正史に描かれた日本:全訳注、講談社、2010年」の現代日本語訳を示します。

魏の明帝の景初二年(二三八年)六月、倭の女王卑弥呼は、大夫難升米らを帯方郡によこし、魏の天子に直接あって、朝献したい、と言ってきた。郡の太守劉夏は、役人を遣わして難升米らを魏の都まで送って行かせた。その年の十二月、倭の女王に返事の詔が出た。「親魏倭王卑弥呼へ詔す。帯方郡の太守劉夏が送りとどけた汝の大夫(正使の)難升米、副使の都市牛利らが、汝の献上品である男奴隷四人、女奴隷六人、斑織りの布二匹二丈を持って到着した。汝の住むところは、海山を越えて遠く、それでも使いをよこして貢献しようというのは、汝の真心であり、余は非常に汝を健気に思う。さて汝を親魏倭王として、金印・ 紫綬を与えよう。封印して、帯方郡の太守にことづけ汝に授ける。土地の者をなつけて、余に孝順をつくせ。汝のよこした使い、難升米・都市牛利は、遠いところを苦労して来たので、今、難升米を率善中郎将、都市牛利を率善校尉とし、銀印・青綬を与え、余が直接あってねぎらい、賜り物を与えて送りかえす。そして、深紅の地の交竜の模様の錦五匹、同じく深紅の地のちぢみの毛織り十枚、茜色の絹五十匹、紺青の絹五十匹で、汝の献じて来た貢ぎ物にむくいる。また、そのほかに、特に汝に紺の地の小紋の錦三匹と、こまかい花模様の毛織物五枚、白絹五十匹、金八両、五尺の刀二振り、銅鏡百枚、真珠・鉛丹をおのおの五十斤、みな封印して、難升米・都市牛利に持たせるので、着いたら受け取るように。その賜り物をみな汝の国の人に見せ、魏の国が、汝をいつくしんで、わざわざ汝によい物を賜わったことを知らせよ」と。

正始元年(二四〇年)、帯方郡の太守弓遵は、建中校尉梯儁らを遣わして、詔と印綬を倭の国に持って行かせ、倭王に任命した。そして、詔と一緒に、黄金・白絹・錦・毛織物・刀・鏡、その他の賜り物を渡した。そこで倭王は、使いに託して上奏文を奉り、お礼を言って詔に答えた。

飛行機やインターネットがある時代ではないので、言葉と物のやりとりにとてつもない時間がかかっています。ご存じの方が多いと思いますが、念のために言っておくと、帯方郡(たいほうぐん)とは、当時の中国が朝鮮半島に置いていた植民地のことで、そこを通じて中国の皇帝と卑弥呼のやりとりが行われています。

とてつもない時間がかかっているやりとりですが、中国の皇帝の言葉が倭王の卑弥呼に口頭で伝えられ、倭王の卑弥呼の言葉が中国の皇帝に口頭で伝えられているのでしょうか。いや、そんなことはありません。

現代日本語訳の最後の「そこで倭王は、使いに託して上奏文を奉り、お礼を言って詔に答えた」という部分が明白に示しています。中国語原文では「倭王因使上表答謝恩詔」です。ここに出てくる古代中国語のpjew(表)ピエウは、日本語で「上奏文」と訳されているように、皇帝に出す文書(手紙)のことです。卑弥呼は、皇帝から文書を受け取り、皇帝に文書を出しているのです。卑弥呼自身が筆を動かしているわけではないと思われますが、卑弥呼のそばに文字を読み、文字を書くことのできる人間がいるのです。

前回の記事で、漢字が刻まれた埼玉県出土の稲荷山鉄剣と熊本県出土の江田船山鉄刀に言及し、日本人が奈良時代よりもかなり前から文字を書き記していたと述べました。稲荷山鉄剣と江田船山鉄刀に漢字が刻まれたのは、そこに書かれている内容から、五世紀後半(450~500年頃)と考えられています。

しかし、魏志倭人伝の記述からわかるように、稲荷山鉄剣と江田船山鉄刀の時代(450~500年頃)どころではなく、卑弥呼が倭王だった時代(200~250年頃)に、日本ですでに文字が書き記されていたのです。

ちなみに、稲荷山鉄剣に刻まれた文は、乎獲居臣(ヲワケノオミ)と名乗る人物が語っているもので、先祖の意富比垝(オホヒコ)から七世代下の自分に至るまで朝廷に仕えてきたこと、自分が獲加多支鹵大王に仕えていること、そして自分がそのことを刻んだ鉄剣を作らせたことが誇らしく語られています。「獲加多支鹵」の部分をどう読んだらよいかということが問題になりますが、確実にわかるもっと後の隋・唐の頃の発音は以下の通りです。

hwɛk(獲)フウェク
kæ(加)
ta(多)
tsye(支)チエ (tsye(支)は*ke(支)から変化したと考えられている形です(Baxter 2014))
lu(鹵)

これが、幼武(ワカタケル)という実名を持っていた第21代天皇の雄略天皇を思い起こさせるわけです。

乎獲居臣は五世紀後半(450~500年頃)に生き、雄略天皇に仕えていたと考えられる人物ですが、その乎獲居臣が七世代前の意富比垝から朝廷に仕えてきたと言っているのは、興味深いところです。五世紀後半(450~500年頃)から七世代遡ると、いつ頃になるでしょうか。

意富比垝から乎獲居臣までが仕えてきた王を遡っていくと、つまり獲加多支鹵大王から遡っていくと、その先に卑弥呼がいるのでしょうか。それとも、いないのでしょうか。魏志倭人伝を読む限り、卑弥呼は夫を持たず、子もいなかったと考えられる女性です。これは一体どういうことでしょうか。日本という国家の起源を考えるうえで、非常に重大な場面に差しかかります。

このように見てくると、日本の本格的な文字記録が奈良時代(710~794年)のはじめからしか残っていないということに、皆さんは異常なものを感じないでしょうか。なぜ古事記と日本書紀はあんなに長い話を書くことができたのでしょうか。

※最近では、弥生時代の遺跡で硯(すずり)のようなものが相次いで発見され、卑弥呼の時代よりももっと前から文字が書かれていたのではないかという見方すら強まってきています。以下は「朝日新聞、2021年2月10日、弥生時代の「硯」各地で次々」からの一部抜粋です。

弥生時代に西日本で広く文字が使われていた可能性を示す遺物の発見が相次いでいる。福岡県など各地で硯(すずり)の可能性がある石製品が次々と出てきているのに加え、文字のような痕跡がある土器や石製品も見つかった。研究者の見解が分かれる資料もあるが、弥生時代中期後半(紀元前後ごろ)か、さらにそれ以前から日本でも外交や交易で文字が使われていたという見方が強まりつつある。

弥生時代の硯が注目されたのは2001年。西谷正・九州大学名誉教授らが、松江市の環濠(かんごう)集落・田和山(たわやま)遺跡で出土した石製品の破片を「硯ではないか」と指摘した。前漢~後漢時代(紀元前206~紀元220年)の中国や、その出先である朝鮮半島の楽浪郡(紀元前108~313年)では、薄い板石を木製の台にはめた硯が墓の副葬品などとして出土する。田和山遺跡の石製品も、これらと同様の硯と推定された。

九州でも16年、福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で硯とみられる板石が見つかった。同遺跡は「魏志倭人伝」に登場する伊都国の中枢とみられ、弥生時代から中国や朝鮮半島と文書で外交をしていた可能性が浮上した。

出土品を再検討

同市に住む柳田康雄・国学院大客員教授は、今まで砥石(といし)とされてきた弥生時代の石製品の中に硯が含まれているのではないかと注目。17年ごろから各地で過去の出土品を再検討し、これまでに300点以上の弥生の石製品を、硯やそれとセットで使う研石(けんせき)(すり石)だと判定してきた。

弥生時代には固形の墨はなく、粒状の墨を硯と研石ですりつぶし、水に溶いて使ったとみられる。柳田さんは研石とこすれた痕や、顔料らしい黒や赤の付着物を手がかりに硯を見つけている。その分布は九州だけでなく、島根県や岡山県、奈良県に及ぶ。

 

参考文献

日本語

大和岩雄、「古事記成立考 増補改訂版」、大和書房、1997年。

英語

Baxter W. H. et al. 2014. Old Chinese: A New Reconstruction. Oxford University Press.