東アジアの運命を決定した三つ巴、二里頭文化と下七垣文化と岳石文化

前回の記事では、山東省で栄えた山東龍山文化(さんとうりゅうざんぶんか)が衰退し、そこに新しい人たちが入ってきたことをお話ししました。こうして、山東省に残っていた人たちと新しく入ってきた人たちによって形成されたのが、丘石文化(がくせきぶんか)です。新しく入ってきた人たちというのは、前回の記事でお話ししたように、遼河流域にいた人たちです。

紀元前1900年頃から山東省で岳石文化が始まりましたが、その岳石文化は以下の図のように二里頭文化(にりとうぶんか)と下七垣文化(かしちえんぶんか)という二つの大きな文化と隣接していました。

二里頭文化という名前は、中国の歴史あるいは考古学に興味を持っている方ならご存じでしょう。中国の歴史書に最初の王朝として記されている夏ではないかと言われている文化です(中国の歴史書としては、史記、竹書紀年、左伝などがあります)。下七垣文化という名前は、ほとんど知られていないでしょう(先商文化(せんしょうぶんか)とも呼ばれます)。下七垣文化は殷の母体、つまり下七垣文化からのちに殷が生まれます(中国ではyīn(殷)インと言わずに、shāng(商)シャンと言うので、注意してください)。

この二里頭文化と下七垣文化と岳石文化の三つ巴から始まる展開が、東アジアの歴史にとって決定的に重要になります。この三者の中で、最も先進的で、最も栄えていたのは、二里頭文化です。二里頭文化の物品は、下七垣文化と岳石文化によく入っています。下七垣文化の物品も、二里頭文化と岳石文化によく入っており、岳石文化の物品も、二里頭文化と下七垣文化によく入っています。三者の間に普通に交流があったことは明らかです(Wei 2017)。

※考古学的には、二里頭文化が存在したこと、そして二里頭文化が当時最も先進的で、最も栄えていたことは確実です。では、中国内外で夏王朝の実在が今でも問題になっているのはなぜでしょうか。それは、中国の歴史書に書かれていることがどこまで本当かわからないからです。中国の歴史書には、夏王朝にはこういう統治者がいた、こういうことをした、こういう統治者がいた、こういうことをしたと書かれていますが、二里頭文化の人間集団が書かれている通りの人間集団だったかどうかはわからないということです。要するに、二里頭文化の人間集団が最も先進的で、最も栄えていたことは間違いないが、その人間集団が後世の歴史書に正しく(つまり作り話なしで)記述されているかどうかはわからないということです。かつては、夏だけでなく、その次の殷の実在も疑われていました。しかし、殷の場合には、殷の時代に相当する遺跡から甲骨文字(亀の甲羅などに刻まれた文字)が発見され、その甲骨文字の記述が後世の歴史書の記述と合っていたことから、実在が認められるに至りました。

二里頭文化は最終的に、下七垣文化の勢力によって武力で滅ぼされます。興味深いことに、中国の歴史書には、二里頭文化を滅ぼした下七垣文化の勢力のことだけでなく、この勢力の先祖のことまで書かれており、先祖(の一部)が夏王朝に仕えていたことが書かれています(Wei 2017)。これは異常なことではありません。本来なら王朝に仕えるはずの者、豪族、武将などが王朝を転覆させてしまうことは、古代からよくありました。これは珍しいパターンではなく、むしろ頻出パターンです。もっと興味深いのは、下七垣文化の勢力が二里頭文化を滅ぼすために「連合」を組み、この「連合」に岳石文化の勢力も加わっていたようだということです(Tian 1997、Zhang 2002)。

ここで出てきた「連合」という概念は、決して特殊なものではありません。殷も連合を組んで夏を倒しにいったし、周も連合を組んで殷を倒しにいきました。人類の歴史を語る時に戦争は外せませんが、そこに出てくる「連合」も外せません。「連合」は大きな要因です。単独の相手なら倒されない強者も、「連合」を組まれて倒されてしまうことがあります。「連合」が組まれると、戦いの規模が大きくなります。さらに、勝利を収めた「連合」の内部で対立が生じることもあります。「連合」は大きな波乱要因とも言えます。

※日本の古代史の大きな争点となってきた倭国大乱と邪馬台国についてもいずれお話ししたいと思っていますが、日本の形成においても「連合」の存在が重要だったようです。

下七垣文化の勢力は、二里頭文化を滅ぼして殷王朝を建てました。殷王朝は、自分の援軍となってくれた岳石文化の勢力と、しばらくは良好な関係を保っていました(Xu 2012)。この良好な関係が崩れたのは、殷の第10代の王である中丁(ちゅうてい)の時代です(Xu 2012)。ここで初めて、殷が夷(東方の異民族の総称)を攻撃したという記述が歴史書に現れます。以後、殷の時代の終わりまで攻撃が繰り返されます。もちろん、勝者(すなわち殷)の言い分が反映された中国の歴史書では、夷が悪いことをしたので、殷が成敗したという話になっています。しかし、実際のところはわかりません。

考古学的には、殷の文化が岳石文化をどんどん塗り替えていく様子が捉えられています(Xu 2012)。Xu氏は戦争があったことを考古学的に確かめようとしていますが、3000年以上も前のことなのでなかなか難しそうです。殷の文化が岳石文化をどんどん塗り替えていったことを確かめるのは容易だが、その原因が戦争であることを確かめるのは容易でないということです。しかし、中国の歴史書の記述と合わせると、殷が山東省に大々的に侵攻したと考えざるをえません。科学が高度に発達した現代では、自然環境の変化はよく捉えられるようになってきましたが、特定の戦争の存在を捉えるのはなかなか難しいようです。

ちなみに、殷王朝の正確な開始時期は中国の歴史書からはわからず、考古学のデータから紀元前1700~1600年頃と推定されています。殷の初代の王は湯(とう)で、第10代の王が先ほど出てきた中丁です。殷の王位は、父から息子に継承されることもあれば、兄から弟に継承されることもありました。湯の五世代下に中丁がいます。一世代25~30年とすれば、125~150年の差があります。ここに挙げた数字は大いに注目に値します。紀元前1500年頃から朝鮮半島にイネの栽培を行う農耕民が現れたという事実と非常によく合うからです(激動の時代、うまくいかなくなったアワとキビの栽培、うまくいかなくなったイネの栽培などを参照)。

殷が西から侵攻し、山東省の住民が東に逃れた可能性が高まってきました。朝鮮半島と日本列島に大きく関わる問題であり、ここは深く切り込まないといけないでしょう。

 

参考文献

Tian C. et al. 1997. ”景亳之会”的考古学观察. 殷都学刊 04: 1-5.(中国語)

Wei J. 2017. 从夏、夷、商三族关系看夏文化. 中原文化研究 03: 36-41.(中国語)

Xu Z. 2012. 商王朝东征与商夷关系. 考古 02: 61-75.(中国語)

Zhang G. 2002. 論夏末早商的商夷聯盟. 郑州大学学报(哲学社会科学版) 02: 91-97.(中国語)