波乱の時代の幕開け、崩れゆく山東龍山文化、そこに現れた異質な岳石文化

遼河文明の変遷については、遼河文明を襲った異変の記事で少し述べましたが、ここでもっと詳しく見ておきましょう。

遼河文明は8200年前頃に始まりました。興隆窪文化(こうりゅうわぶんか)→趙宝溝文化(ちょうほうこうぶんか)/富河文化(ふがぶんか)→紅山文化(こうさんぶんか)と発展しました。しかし、紅山文化の終わり頃から、調子が狂い始めます。5000年前頃から遺跡の数がどんどん減っていくので、(農業)環境が悪化しているのがわかります(Teng 2013)。4200~4000年前頃には、深刻な事態になります。

ここで注目すべきなのは、同じ頃に、遼河流域より南にある山東龍山文化(さんとうりゅうざんぶんか)とさらに南にある良渚文化(りょうしょぶんか)も致命的なダメージを受けていることです(Wu 2001)。山東龍山文化は黄河下流域の代表的な文化で、良渚文化は長江下流域の代表的な文化ですが、この二つの大文化が崩壊してしまいます。気候変化が、遼河流域に限られたものではなく、もっと広い範囲で起きていたことが窺えます。

※ちなみに、日本の縄文時代の大遺跡として最も有名な東北地方の三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)も、同じ頃に崩壊しています(Kawahata 2009)。遼河流域、黄河下流域、長江下流域、そして日本が気候変化に見舞われていたとなると、その間に位置する朝鮮半島が無傷でいられたはずはありません。激動の時代、うまくいかなくなったアワとキビの栽培、うまくいかなくなったイネの栽培の記事で、朝鮮半島に導入されたアワ・キビの栽培が衰退してしまったことをお話ししましたが、これも同じ脈絡の中で起きたと考えられます。ただ、不思議なことに、中国の各地でそれまで栄えていた文化が衰退する一方で、黄河中流域の文化だけは困難な時代をうまく乗り切っている、いやそれどころか、逆に勢いづいている感すらあります(Wu 2004)。まさにその黄河中流域から、夏殷周の時代が始まるわけです。黄河中流域は、地理的な理由で気候変化の作用が弱かったのか、それとも、気候変化の作用は強かったが、それをはね返せるなんらかの特別な力があったのか、大いに検討する必要があります。

上に述べたように、黄河下流域の山東龍山文化は厳しい気候変化に見舞われましたが、これに関連して、考古学者のZhang Guoshuo氏が鋭い指摘をしています(Zhang 1989、1994)。以前にお話ししたように、黄河下流域は黄河文明の最初期から行李文化(こうりぶんか)→北辛文化(ほくしんぶんか)→大汶口文化(だいぶんこうぶんか)→山東龍山文化(さんとうりゅうざんぶんか)→岳石文化(がくせきぶんか)と変遷しました。Zhang氏は、これらの文化の遺跡、遺構、遺物を広範かつ詳細に研究し、北辛文化と大汶口文化と山東龍山文化に強いつながりを認めています。北辛文化から大汶口文化への変化は漸進的(「徐々に、段々と」という意味)であり、北辛文化の終わりと大汶口文化の始まりは区別するのが容易でない、大汶口文化から山東龍山文化への変化も漸進的であり、大汶口文化の終わりと山東龍山文化の始まりも区別するのが容易でないと述べています。それに対して、山東龍山文化から岳石文化への変化は急激であり、連続性が乏しいと述べています。もちろん山東龍山文化から受け継いだ要素はゼロではありませんが、異質な要素のほうが圧倒的に多いのです。

岳石文化が独立した文化として認められ、論じられるようになったのは、1980年頃からです(Zhang 1996)。岳石文化は、その後も注目されることが少なく、今も謎めいています。山東龍山文化の時代は紀元前2600~1900年頃、岳石文化の時代は紀元前1900~1500年頃です(岳石文化は最後は殷に飲み込まれていきます)。山東龍山文化の遺跡数に比べて、岳石文化の遺跡数はとても少ないです。山東龍山文化は極めて芸術的な土器を大きな特徴としていましたが、岳石文化では実用性しか考えていないような質素な土器ばかりになりました。そのため、岳石文化は山東龍山文化の荒廃した姿かと思われることもありました。

しかし、考古学調査が進むにつれて、そうではないことがわかってきました。ここでもやはり、年代測定の精度が上がってきたことが非常に大きいです。実は、山東龍山文化の時代を早期、中期、晩期の三つに分けると、山東龍山文化の遺跡のほとんどは早期~中期のもので、晩期のものはとても少ないのです(Gao 2009)。つまり、山東龍山文化の時代の途中ですでに衰退していたということです。すでに衰退して、閑散としていた山東省に、別のところから人が入ってきたのです。

Zhang氏は、山東龍山文化とは明らかに異質な岳石文化の要素がどこから来たのか考察しています。そして、それらの要素が主に遼河文明の夏家店下層文化(かかてんかそうぶんか)から来たようだと分析しています。Zhang氏の分析は、筆者が前回までの記事で示した、日本語の遼河流域から山東省への移動を立証する言語学のデータとよく合います。

冒頭の遼河文明の話を思い出してください。5000年前頃から気候が悪化し始め、4200~4000年前頃に深刻な事態になったという話です。この時期を過ぎて、勢いづいたのが夏家店下層文化です。夏家店下層文化の時代は4000~3500年前頃(つまり紀元前2000~1500年頃)です。現実的に考えると、夏家店下層文化の前の気候が悪化している時期から、南(山東省)への人の移動は始まっていたでしょう。その上で、夏家店下層文化の時代にも、南への人の移動があったということでしょう。

※夏家店下層文化は3500年前頃に終わります。そして、夏家店上層層文化(かかてんじょうそうぶんか)が3000年前頃から始まります。発掘調査で、古い文化は下の層から現れ、新しい文化は上の層から現れるので、夏家店下層文化と夏家店上層文化と呼ばれます。この二つの文化は、時間的に連続しておらず、全然違う文化です。夏家店下層文化は農耕主体の文化で、夏家店上層文化は牧畜主体の文化です。夏家店下層文化が存続できなかったのは、Yang Xiaoping氏らが論じているように、気候の悪化によって、不可逆な砂漠化が始まってしまい、気候が持ち直しても、不可逆な砂漠化は止まらなかったためと見られます(Yang 2015)。

遼河流域から山東省に南下してきた人たちは、山東省に残っていた人たちと混ざり合うことになりますが、彼らがその後どのような運命をたどったのか、追跡しましょう。東アジアの歴史上重要な時代へと突入していきます。

 

参考文献

英語

Kawahata H. et al. 2009. Changes of environments and human activity at the Sannai-Maruyama ruins in Japan during the mid-Holocene Hypsithermal climatic interval. Quaternary Science Reviews 28: 964-974.

Wu W. et al. 2004. Possible role of the “Holocene Event 3” on the collapse of Neolithic Cultures around the Central Plain of China. Quaternary International 117: 153-166.

Yang X. et al. 2015. Groundwater sapping as the cause of irreversible desertification of Hunshandake Sandy Lands, Inner Mongolia, northern China. Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America 112(3): 702-706.

その他の言語

Gao J. et al. 2009. 岳石文化时期海岱文化区人文地理格局演变探析. 考古 11: 48-58.(中国語)

Teng H. 2013. 环境变迁与”文化”的兴衰:以中国北方西辽河流域为考察对象. 东北史地 01: 29-33.(中国語)

Wu W. et al. 2001. 4000a B. P. 前后降温事件与中华文明的诞生. 第四纪研究 21(5): 443-451.(中国語)

Zhang G. 1989. 岳石文化来源初探. 郑州大学学报(哲学社会科学版) 01: 1-6.(中国語)

Zhang G. 1994. 岳石文化的渊源再探. 郑州大学学报(哲学社会科学版) 06: 56-62.(中国語)

Zhang G. 1996. 岳石文化研究綜述. 郑州大学学报(哲学社会科学版) 01: 60-63.(中国語)