日本語が遼河流域→山東省→朝鮮半島→日本列島と移動してきたことを明確に示す例として、「目」の話をしました。
モンゴル系言語のモンゴル語nüd(目)ヌドゥのような語が日本語に入り、シナ・チベット語族の古代中国語mjuwk(目)ミウク、チベット語mig(目)、ミャンマー語のmyeʔsi(目)ミエッスィのような語が日本語に入り、タイ系言語のタイ語taa(目)のような語が日本語に入り、ベトナム系言語のベトナム語mắt(目)マ(トゥ)のような語が日本語に入ったのでした。
日本語はなぜ遼河流域→山東省→朝鮮半島→日本列島と移動することになったのかという考古学の話にいよいよ移りますが、その前に、前回の記事で余韻を残した朝鮮語に少し言及しておきます(図はRobbeets 2021より引用)。
前回までの記事でお話ししたように、(1)ウラル語族のフィンランド語silmä(目)スィルマのような語、(2)モンゴル系言語のnüd(目)のような語、(3)シナ・チベット語族の古代中国語mjuwk(目)、チベット語mig(目)、ミャンマー語のmyeʔsi(目)のような語、(4)タイ系言語のタイ語taa(目)のような語、そして(5)ベトナム系言語のベトナム語mắt(目)のような語が日本語に含まれており、日本語は、遼河流域から山東省に移動し、山東省から朝鮮半島に移動したことがわかりやすいです(遼河文明は興隆窪文化(こうりゅうわぶんか)から始まりましたが、興隆窪文化は遼河流域の西部に位置していました)。
そのような日本語と対照的なのが、朝鮮語です。朝鮮語の目に関連する語彙を一通り調べても、(1)~(5)のような語は出てきません。nun(目)、nunssop(眉)ヌンッソプ、nunmul(涙)、poda(見る)、kidarida(待つ)、parada(望む)などの語は、(1)~(5)のような語と全然合いません。paraboda(眺める)、norjɔboda/ssoaboda(睨む)ノリョボダ/ッソアボダ、norida(狙う)などの語も、(1)~(5)のような語と全然合いません。
このことからわかるのは、日本語は遼河流域西部から山東省にかけての領域にいたが、その時に朝鮮語はその領域にいなかったということです。朝鮮語が遼河流域西部から山東省にかけての領域にいたのなら、モンゴル系言語の「目」、シナ・チベット語族の「目」、タイ系言語の「目」、ベトナム系言語の「目」のすべてを取り込むことはないにしても、少なくとも一部は取り込んでいたでしょう。朝鮮語には、その形跡が全くないのです。
紀元前1500年頃(つまり3500年前頃)から、中国東海岸地域から朝鮮半島にイネの栽培を導入した人たちがいました。日本語はここに属しますが、朝鮮語はここに属さないということです。
当然、朝鮮語はどこから来たのかという疑問が生じます。以下の二つの可能性が考えられます。
(1)日本語が中国東海岸地域から朝鮮半島に入ったのと同じ頃に、朝鮮語は中国東海岸地域以外の場所から朝鮮半島に入った。
(2)そもそも朝鮮語は日本語と同じ頃に朝鮮半島に入らず、もっと後になってから朝鮮半島に入った。
※理論的には、日本語が中国東海岸地域から朝鮮半島に入る前から朝鮮語は朝鮮半島にいたという第三の可能性があります。しかし、農耕民と狩猟採集民が出会う時、新しくやって来た農耕民は実は・・・の記事などで詳しくお話ししたように、紀元前1500年頃より前に朝鮮半島にいた狩猟採集民の文化は、紀元前1500年頃から朝鮮半島に入ってきた農耕民の文化に全面的に置き換えられてしまったので、第三の可能性は限りなくゼロに近いです。
日本語は山東省→朝鮮半島→日本列島と移動しましたが、山東省に朝鮮語がいないのであれば、日本語が山東省で朝鮮語に接触することは不可能です。しかし、朝鮮半島でならどうでしょうか。日本語が朝鮮半島を通過する時に朝鮮語に接触することはあったのでしょうか。
あったかもしれません。少なくとも、日本語が朝鮮語かそれに近い言語に接触することはあったと思われます。M. Robbeets氏らが指摘しているように、またそれ以前から指摘されているように、朝鮮語のip(口)のような語が日本語に*ipuとして入り、iɸu(言ふ)になったのは間違いなさそうです。
奈良時代の日本語には、iɸu(言ふ)の類義語として、noru(宣る)という語がありました。noru(宣る)は現代では廃れてしまいましたが、nanoru(名のる)などに組み込まれて残っています。iɸu(言ふ)とnoru(宣る)は言葉を発することを意味する語ですが、一般に言葉を発することを意味する語が大量にあってもしょうがありません。多くの語は、特殊な意味を帯びていきます。よくあるのは、一般に言葉を発することを意味していた語が、よい言葉を発することを意味するようになるパターン、あるいは、一般に言葉を発することを意味していた語が、悪い言葉を発することを意味するようになるパターンです。前者のパターンに属するのが、iɸu(言ふ)と同源のiɸaɸu(祝ふ)で、後者のパターンに属するのが、noru(宣る)と同源のnoroɸu(呪ふ)です。iɸaɸu(祝ふ)は、口からよい言葉が出てくることを意味し、noroɸu(呪ふ)は、口から悪い言葉が出てくることを意味しています。iɸaɸu(祝ふ)はかつては、幸福を祈ることが意味の中心であり、不幸を祈ることを意味するnoroɸu(呪ふ)と対のようになっていました。
朝鮮語のip(口)のような語が日本語のiɸu(言ふ)とiɸaɸu(祝ふ)になったということです。朝鮮語のip(口)のような語は*ipuという形で日本語に入り、言うことだけでなく、食べることも意味していたようです。言うことも、食べることも、口で行う動作です。しかし、言うことを意味する動詞が*ipuで、食べることを意味する動詞が*ipuでは、やはり都合が悪いです。言うことを意味する*ipuという動詞は、iɸu(言ふ)という動詞として残り、食べることを意味する*ipuという動詞は、一歩譲ってiɸi(飯)という名詞として残ったようです(食べることを意味するmesu(召す)からmesi(飯)ができたのと同様です)。
ちなみに、昔の日本語のiɸi(飯)と現代の日本語のmesi(飯)、gohan(ごはん)に対応する朝鮮語は、pap(ごはん)です。朝鮮語のpap(ごはん)も、「口」から来ているようです。どこかに口のことをpapのように言う言語があって、それが朝鮮語ではpap(ごはん)になり、日本語ではɸaɸuru(祝る)になったと見られます(日本語のɸaɸuru(祝る)は遠い昔に死語になっています)。
※上記の口を意味するpapは「下→穴→口」という意味変化をしていたはずです(「口(くち)」の語源を参照)。ɸaɸu(這ふ)やɸaɸuru/ɸaburu(葬る)もこの系統でしょう。現代では、ɸaɸu(這ふ)はhau(這う)になり、ɸaɸuru/ɸaburu(葬る)はhoumuru(葬る)になっています。houmuru(葬る)は、もともと埋めることを意味していたのです。
日本語は朝鮮半島を通過する時に、朝鮮語にあまり接触できなかったようです。日本語に朝鮮語のnun(目)のような語が入っていないのも、そのためと考えられます。逆に、日本語のma(目)のような語も朝鮮語に入っていません。日本語と朝鮮語の間にいくつもの言語/言語群があって、それらの言語/言語群が一方で日本語に語彙を提供し、他方で朝鮮語に語彙を提供することはよくあったが、日本語が朝鮮語に直接接する機会はあまりなかったようです。冒頭の図を見ればわかりますが、日本語の朝鮮半島での滞在期間はさほど長くないし、その滞在期間中も移動していたのです。ただし、朝鮮半島に残った日本語に近縁な言語が朝鮮語に語彙を提供するケースはある程度あったでしょう。
※上の赤で強調した箇所は重要です。日本語と朝鮮語の間では、以下のようなことが起きていたと見られます。
日本語と朝鮮語のそばに、言語群A、言語群B、言語群Cが存在します。言語群Aは同系統の言語の集まりですが、それらの言語は少しずつ異なっています。言語群Bも、言語群Cも、そのような言語の集まりです。言語群A、言語群B、言語群Cのそれぞれは、日本語にわりと近縁かもしれません、朝鮮語にわりと近縁かもしれません、あるいは、日本語とも朝鮮語とも全然違うかもしれません。
言語群Aから、一方では日本語に、他方では朝鮮語に語彙が流入しています。同じように、言語群Bから、一方では日本語に、他方では朝鮮語に語彙が流入しています。やはり同じように、言語群Cから、一方では日本語に、他方では朝鮮語に語彙が流入しています。このようにして、日本語の内部と朝鮮語の内部に語彙が貯まっていきます。そして、言語群A、言語群B、言語群Cが消滅したとしましょう。日本語と朝鮮語だけが残るわけです。どうなるでしょうか。
日本語と朝鮮語の双方に、形がよく似ていて、意味的関係が深い語が見られるのです。そのような語が多く見られると、日本語と朝鮮語は同系統ではないかという話が始まりますが、上の図の通り、そういう話ではないのです。
言語群Aは、少しずつ異なる言語の集まりです。言語群Aから日本語に入る語の形と、言語群Aから朝鮮語に入る語の形は、同じであることもあれば、微妙に異なっていることもあるでしょう。それどころか、日本語が言語群Aから微妙に異なる複数の語を受け取ったり、朝鮮語が言語群Aから微妙に異なる複数の語を受け取ったりすることだってあるでしょう。言語群Bと言語群Cの場合についても、全く同様です。
日本語と朝鮮語に近い系統関係があるわけではない、日本語が朝鮮語に大量の語彙を提供したわけでもない、朝鮮語が日本語に大量の語彙を提供したわけでもない、それなのに、日本語と朝鮮語に共通語彙が次々に見つかるからくりが、まさに上の図です。要するに、ある言語と別の言語が同じ地域に存在すれば、その二つの言語の間に近い系統関係がなくても、その二つの言語の間に直接的なやりとりがなくても、必然的にかなりの共通語彙を持つことになるのです。
これが、実際の歴史です。形がよく似ていて、意味的関係が深い語を見つけ出し、日本語と朝鮮語に近い系統関係があるのではないかと主張したのは、わからなくはないですが、早とちりです。従来の歴史言語学では、日本語と朝鮮語に、形がよく似ていて、意味的関係が深い語を見出しては、これは日本語と朝鮮語の共通祖語から来たものだ、いや、日本語から朝鮮語に入ったものだ、いや、朝鮮語から日本語に入ったものだという具合に論じてきました。かつて日本語と朝鮮語の近くに存在し、消えていった膨大な数の言語のことが全く考えられてきませんでした。消えていった膨大な数の言語が日本語と朝鮮語に与えた影響は、とてつもなく大きいのです。実際の歴史が上の図のようだったわけですから、それに合った研究の仕方・方法が求められます(上の図は説明のために示した単純なモデルです。もっと語彙が飛び交っていたでしょう。実際の歴史が上の図よりはるかに複雑だったことはいうまでもありません)。
遼河文明の始まりの頃(8200年前頃)まで遡ったぐらいでは、日本語とウラル語族の系統関係を考えるのがせいぜいです。現存する他の言語との系統関係を考えるためには、歴史を1万年、2万年、3万年、4万年、5万年と遡らなければなりません。特に、消えていった膨大な数の言語(現実的には言語群)を探る作業が重要になります。日本語とウラル語族に近縁だった言語もごっそり消えています。
朝鮮語の歴史は難解です。激動の時代、うまくいかなくなったアワとキビの栽培、うまくいかなくなったイネの栽培の記事などでお話ししたように、紀元前1500年頃から朝鮮半島にイネの栽培が導入されて一気に広がり、人口が激増しました。この時点では、イネの栽培を行う人たちの言語が勢力を誇っていたにちがいありません。しかし、紀元前1000年をいくらか過ぎたところでイネの栽培は大きく減少し、しばらく持ちこたえた後、再び大きく減少してしまいました。こうして、紀元前300年頃にはイネの栽培がほとんど行われなくなってしまいました(Ahn 2010)。これは、イネの栽培が導入され、まずまず順調に継続した日本の歴史とは明らかに違います。
このように朝鮮半島ではイネの栽培が衰退してしまったので、イネの栽培を行っていた人たちの言語以外の言語が台頭した可能性があります(ちなみに、イネの栽培が力を取り戻し始めるのは、紀元後になって三国時代(高句麗、百済、新羅の時代)に向かい始める頃です(Ahn2010))。朝鮮語はどのような言語だったのでしょうか。イネの栽培を行っていた人たちの言語でしょうか。それとも、イネの栽培を行う人たちの近くで、他の栽培を行っていた人たちの言語でしょうか。はたまた、イネの栽培が衰退したところで、外から新しく入ってきた人たちの言語でしょうか。この問題は興味深いですが、別の機会に論じることにしましょう。
考古学の話に戻り、日本語が歩んできた遼河流域→山東省→朝鮮半島→日本列島という道のりを追跡していきます。日本語はなぜこのような運命をたどることになったのでしょうか。最初の「遼河流域→山東省」の移動と最後の「朝鮮半島→日本列島」の移動は、自然環境の変化が引き起こしたものですが、真ん中の「山東省→朝鮮半島」の移動は、自然環境の変化が引き起こしたものではなかったようです。なにが「山東省→朝鮮半島」の移動を引き起こしたのでしょうか。
参考文献
Ahn S. 2010. The emergence of rice agriculture in Korea: Archaeobotanical perspectives. Archaeological and Anthropological Sciences 2(2): 89-98.
Robbeets M. et al. 2021. Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature 599(7886): 616-621.