モンゴル語がこっそり教えてくれる日本語の歴史、もう一人の証人が現れる

モンゴル系言語の「目」

ベトナム系言語のベトナム語mắt(目)マ(トゥ)のような語が日本語に入るところ、タイ系言語のtaa(目)のような語が日本語に入るところ、そしてシナ・チベット語族の古代中国語mjuwk(目)ミウク、チベット語mig(目)、ミャンマー語のmyeʔsi(目)ミエッスィのような語が日本語に入るところを捉えました。

日本語が来た道:遼河流域→山東省→朝鮮半島→日本列島の記事でお話しした以下の意味変化のパターンを思い出してください。

日本語のma(目)は、matu(待つ)とともに、ベトナム系言語のベトナム語mắt(目)のような語から来ていました。日本語のmiru(見る)は、misu(見す)とmiyu(見ゆ)とともに、シナ・チベット語族の古代中国語mjuwk(目)、チベット語mig(目)、ミャンマー語のmyeʔsi(目)のような語から来ていました。今度は、日本語のnozomu(望む)がどこから来たのか考える番です。

日本語のnozomu(望む)も、やはり「目」から来たのでしょうか。間違いありません。nozomu(望む)はもともと見ることを意味していたし、nozoku(覗く)という語もあるからです。目を意味する*nozoのような語があったと考えられます。この語は、ベトナム系言語の「目」、タイ系言語の「目」、シナ・チベット語族の「目」とは明らかに違います。日本周辺に存在するその他の言語の「目」を見てみましょう(東アジアには、以下に挙げる言語以外にも、膨大な数の言語が存在したと考えられますが、それらの言語は直接調べることができないので、とりあえず現在残っている言語の「目」を見てみましょう)。

目を意味する*nozoのような語はどこにあったのだろうと考えた時に、一番怪しいのは、モンゴル系言語のモンゴル語nüd(目)ヌドゥのような語でしょう。ツングース系言語のエヴェンキ語ə̄sa(目)ウーサ、ナナイ語nasal(目)、満州語jasa(目)ヤサのような語も、ひょっとしたら関係があるかもしれません。

モンゴル語の「目」はnüdですが、モンゴル語の「涙」はnulimsです。このモンゴル語のnulims(涙)という語も注意を引きます。現代のモンゴル語ではnulims(涙)ですが、昔のモンゴル語ではnilmusun(涙)(またはnilbusun)でした。

nilmusunという語は長いので、複合語と見られます。例えば、朝鮮語はnun(目)とmul(水)からnunmul(涙)という語を作り、満州語はjasa(目)とmukə(水)ムクからjasai mukə(涙)ヤサイムクという語を作っています。同じように、昔のモンゴル語のnilmusunも、「目」を意味する語と「水」を意味する語がくっついた語である可能性が高いです。切れ目はどこでしょうか。「nil-」と「-musun」でしょうか、「nilm-」と「-usun」でしょうか、「nilmu-」と「-sun」でしょうか。モンゴル語のus(水)の古形がusunなので、「nilm-」の部分が目を意味し、「-usun」の部分が水を意味していると考えるのが穏当です。

これは、目を意味するnilm-のような語があったことを示しています。当然、日本語のniramu(睨む)が思い起こされます。miru(見る)と同様、niramu(睨む)も明らかに目に関係のある語です(少し語形が違いますが、neraɸu(狙ふ)も無関係でないと思われます。me(目)からmegakeru(目がける)やmezasu(目ざす)のような語が作られていることに注意してください。neraɸu(狙ふ)も目に関係のある語なのです)。

モンゴル系言語は、モンゴル語、ダウール語、ブリヤート語、オイラト語などのいくつかの言語から成る小さいグループです。これらの言語は互いに非常によく似ており、その共通祖語はせいぜい1000年前ぐらいに存在したと考えられます。日本語に近縁な言語が次々に消滅し、日本語が孤立状態になったように、モンゴル系言語に近縁な言語も次々に消滅し、モンゴル系言語も孤立状態になりました。日本語のnozomu(望む)とnozoku(覗く)は、すでに消滅した、モンゴル系言語に近縁な言語から入ったと考えられます。そしてこの両者の近くに、目のことをnilm-のように言う言語群があったと考えられます。日本語でdi(ぢ)がzi(じ)に変化し、du(づ)がzu(ず)に変化するという出来事がありましたが、dとzの間の変化は日本語でも外国語でも非常に起きやすく、日本語のnozomu(望む)とnozoku(覗く)が、すでに消滅した、モンゴル系言語に近縁な言語から入ったと考えることに無理はありません。目のことをnilm-のように言う言語群の存在も、この考えを支えています。

モンゴル系言語とそれに近縁な言語から成る言語群から、nozomu(望む)とnozoku(覗く)という語が入ってきて、目のことをnilm-のように言う言語群から、niramu(睨む)という語が入ってきたということです。

「あの人たち(日本語を話す人たち)は近くに住んでいました」と、モンゴル系言語は証言しているわけです。ここまでお話ししてきたように、モンゴル系言語のモンゴル語nüd(目)のような語が日本語に入り、シナ・チベット語族の古代中国語mjuwk(目)、チベット語mig(目)、ミャンマー語のmyeʔsi(目)のような語が日本語に入り、タイ系言語のタイ語taa(目)のような語が日本語に入り、ベトナム系言語のベトナム語mắt(目)のような語が日本語に入りました。日本語がどの辺にいたか十分に窺えます。

しかし、注目すべきことに、朝鮮語のnun(目)のような語は日本語に入っていないのです。アイヌ語のsik(目)ですら、sigesige(しげしげ)という形で日本語に入ったと見られます(ziroziro(じろじろ)ほどは使われませんが、ziroziro(じろじろ)と同じような意味で使われます)。なぜ、朝鮮語のnun(目)のような語は日本語に入っていないのでしょうか。

※ベトナム系言語のベトナム語mắt(目)のような語は、できる限り近い形で取り入れるのであればmatとしたいところです。しかし、日本語では、matという語形は許されないので、maかmatV(Vはなんらかの母音)という形にしなければなりません。ベトナム系言語のベトナム語mắt(目)のような語は、ma(目)という形だけでなく、*mati(目)という形でも取り入れられることがあったのではないかと思われます。この*mati(目)が、*madiという形を経由して、mazimazi(まじまじ)になったのではないかと思われます。上のziroziro(じろじろ)とsigesige(しげしげ)の類義語であるmazimazi(まじまじ)です。