一年ぶりの記事、まずは昔の話題の続きから、ついにベールを脱ぐミャオ・ヤオ語族

長らくブログの執筆をお休みし、申し訳ありませんでした。

お話ししたいことはたくさんありますが、まずは昔の話題の続きから始めましょう。

前回の記事では、「音」を意味するna*という語があり、これがnaru(鳴る)/nasu(鳴す)になったり、na(名)になったり、ne(音)になったりしたという話をしました。

この話はわかりやすいのですが、筆者は別のnaに長年悩まされてきました。悩まされてきたというより、どうしてよいか全くわからず、手も足も出なかったと言ったほうが適切です。

それは、naru(なる)とnasu(なす)に含まれているnaです。naru(なる)とnasu(なす)は、漢字で書くと「成る」と「成す」です。

日本語には、「~る」が自動詞、「~す」が他動詞になっているペアがたくさんあります。例えば、nagaru(流る)/nagasu(流す)、taɸuru(倒る)/taɸusu(倒す)、toɸoru(通る)/toɸosu(通す)、kudaru(下る)/kudasu(下す)などです。

naru(鳴る)とnasu(鳴す)に含まれるnaに比べると、naru(成る)とnasu(成す)に含まれるnaは謎めいていますね。naru(成る)とnasu(成す)に含まれるnaがなんなのかいきなり説明するのは難しいので、まず他の話をして、最後にこの謎めくnaの話に至ります。

aru(ある)の話

「ある」と「いる」の語源の記事で、日本語のaru(ある)の語源について論じました。ウラル語族を見ると、フィンランド語にalas(下へ)、alle(下へ)、alla(下に、下で)、alta(下から)のような語、ハンガリー語にalá(下へ)アラー、alatt(下に、下で)、alól(下から)アロールのような語があり、かつて「下」を意味するala*という語があったことがはっきりと窺えます。朝鮮語のarɛ(下)アレも、東アジアの遼河周辺にそのような語があったことを証言しています。

日本語のaru(ある)の語源で決定的に重要だったのは、「下」を意味する語が「座ること、座っていること」を意味するようになり、「座ること、座っていること」を意味する語が「存在すること」を意味するようになるというパターンでした。実は、この話には、大いなる続きがあります。

現代の日本語のaru(ある)は、奈良時代の時点ではari(あり)ですが、奈良時代の日本語には、ari(あり)という語のほかに、aru(生る)という語もありました。ari(あり)はラ行変格活用で、aru(生る)は下二段活用です。

奈良時代の日本語のari(あり)

奈良時代の日本語のaru(生る)

「あらかじめ(予め)」とは?の記事で説明したように、奈良時代の動詞の六つの活用形の中で、もとの姿を最もよく示していると考えられるのは、未然形です。

あることを意味するaraのような語と、生まれること・生じることを意味するareのような語が存在したことになります。奈良時代の日本語のaraɸaru(現る)も、この両者と無関係でないでしょう。

考えてみてください。「ある」は、「現れる、生まれる、生じる」と密接な関係にあるのです。

さっきまでなくて、今ある場合に、私たちは「現れた、生まれた、生じた」と言うわけです。その意味で、「ある」は、「現れる、生まれる、生じる」と密接な関係にあります。

大変興味深いことに、奈良時代の日本語には、araɸaru(現る)という動詞だけでなく、umaɸaru(産る、殖る)という動詞がありました。umaɸaru(産る、殖る)は、生まれるという意味です。

umaru(生まる)とumu(生む)の話

araɸaru(現る)の背後に、「下」を意味するaraのような語があったのなら、umaɸaru(産る、殖る)の背後に、「下」を意味するumaのような語があったのではないかと考えたくなるところです。

要するに、「下」を意味するumaのような語があって、それが「座ること、座っていること」を意味するようになり、さらに「存在すること」を意味するようになったのではないかということです。

これは、突拍子もない話ではなく、よくある話です。例えば、日本語にutumuku(うつむく)という語が残っており、かつて「下」を意味するutuのような語があったことが窺えます。そして、奈良時代の日本語に、現実を意味するutu(現)があったのです。utuを重ねたと見られるututu(現)がよく用いられてきました。

「下」を意味するumaのような語があって、それが「座ること、座っていること」を意味するようになり、さらに「存在すること」を意味するようになったとすると、奈良時代の日本語のumaru(生まる)、umu(生む)、umaɸaru(産る、殖る)をうまく説明することができます。

果たして、「下」を意味するumaのような語はあったのでしょうか。

先に種明かし

この後、実に様々な語彙が登場し、読者の混乱を招きかねないので、先に種明かしをしてしまいます。最後まで種明かしをしないほうが盛り上がるかもしれませんが、敢えて先に種明かしをしてしまいます。

日本語にnomu(飲む)という語があります。この語が、タイ系言語で「水」を意味したnam-、nim-、num-、nem-、nom-のような語から来たことは、本ブログで繰り返しお話ししてきました。一般に、「飲むこと」を意味する語は、人類の歴史を考えるうえで、極めて重要です。

古代中国語にim(飲)という語がありました。imというのは、あくまで、隋・唐の時代の一方言の形です。古代中国語の「飲」の読みは、日本語ではin、朝鮮語ではɯmウム、ベトナム語ではẩmウムです。朝鮮語のɯは、口を横に大きく開いたウです。ベトナム語のẩは、曖昧母音の[ə]です。

「飲むこと」を意味する語が極めて重要なのは、それが、往々にして、近隣に存在した有力な言語で「水」を意味していた語だからです。古代中国語のim(飲)は、古代中国語のそばに、水のことをam-、im-、um-、em-、om-のように言う有力な語族が存在したことを示唆しているのです。

ようやくこの語族についてお話しする時が来ました。ミャオ・ヤオ語族です。

ついにベールを脱ぐミャオ・ヤオ語族

ミャオ・ヤオ語族の存在を知っている人は、非常に少ないかと思います。今では、中国南部から東南アジア大陸部にかけての山岳地帯に住む少数民族の言語というイメージがすっかり定着しています。

シナ・チベット語族の言語は、中国とミャンマーの主要言語になり、タイ・カダイ語族の言語(タイ系言語)は、タイとラオスの主要言語になり、オーストロアジア語族の言語(ベトナム系言語)は、ベトナムとカンボジアの主要言語になり、オーストロネシア語族の言語は、フィリピン、インドネシア、マレーシアの主要言語になりました(シンガポールは、マレーシアから独立した国ですが、マレー語以上に英語と中国語が使われています)。

それに対して、ミャオ・ヤオ語族の言語は、どこの国の主要言語になることもできませんでした。当然、学習されることも、注目されることも、ほとんどありません。ミャオ・ヤオ語族は、古代中国の戦乱で甚大なダメージを受けてしまった語族です。しかし、もう現代では目立ちませんが、この語族を引っ張り出してこないと、東アジア・東南アジアの歴史はよく理解できないのです。

ミャオ・ヤオ語族では、水のことをミャオ語u/ə(ミャオ語の一部の方言では完全に別の語になっています)、プヌ語aŋアン、シェ語ɔŋオン、ミエン語wamのように言います。ミャオ・ヤオ語族を見渡すと、末尾の子音がm~n~ŋの間で変化しています。これは、ミャオ・ヤオ語族というより、中国から東南アジアにかけて非常によく見られる傾向です。かつては、水を意味するam、an、aŋ、um、un、uŋ、om、on、oŋのような語が広く分布していたと推測されます。

鋭い人は、感づくのではないでしょうか。日本語のama*(雨)はここから来たのではないか、umi(海)はここから来たのではないか、una(海)はここから来たのではないかと。そうでしょう。しかし、とてもその程度では済まなそうです(職業のama(海人)も、過去に海を意味した、あるいは意味しようとした語でしょう)。

趣向を変えてimo(芋)の話

先ほどの問いに戻りましょう。「下」を意味するumaのような語はあったのかという問いです。

ちょっと趣向を変えて、imo(芋)の話をしましょう。芋は関係ないではないかと思うかもしれませんが、これが関係があるのです。

現代の日本人には、ジャガイモとサツマイモがおなじみでしょう。これらは、アメリカ大陸のインディアンが栽培していたもので、そこから世界に広がっていきました。それよりも前に日本人が食べていたのは、ヤマイモとサトイモです。

芋は、根菜の一種です。根菜というのは、地下部が食用になっている野菜です。例えば、ダイコンがあります(画像は聖新陶芸様のウェブサイトより引用)。

私たちは、この植物の地下部を食べていますね。ダイコンは漢字で書くと「大根」ですが、この「大根」という名前をよく見てください。「大きな根」と言っているだけです。そもそも、この植物はオホネと呼ばれていて、のちにダイコンと呼ばれるようになりました。ここで注目すべきなのは、植物の地下部を意味していた語が、ある特定の野菜の名前になったという事実です。

実は、imo(芋)は、奈良時代にはumo(芋)だったのです。自動詞のumoru(埋もる)と他動詞のumu(埋む)と関係がありそうです。「下」を意味するumaのような語があって、地下・地中も意味していたと考えられます。

先ほども言及しましたが、「下」を意味するumaのような語だけでなく、「下」を意味するutuのような語もあり、前者からumu(埋む)とumoru(埋もる)が作られ、後者からudumu(埋む)とudumoru(埋もる)が作られ、ややこしい様相を呈していたと思われます(現代では順に、umeru、umoreru、uzumeru、uzumoreruになっています)。

umo(芋)がimo(芋)になったと述べましたが、昔からiとuの間の発音変化は盛んです。日本を含む東アジア・東南アジアで、口を横に大きく開いたウがよく使われることも影響していると思います。朝鮮語も、ベトナム語も、口を横に大きく開いたウをよく使います。

昔からiとuの間の発音変化が盛んであったことを考えると、「下」を意味するumaのような語だけでなく、「下」を意味するimaのような語があった可能性が極めて高いです。日本語の語彙を見る限り、100%断言できます。

ime(夢)とima(今)の話

「下」を意味する語が「座ること、座っていること」を意味するようになるのは超頻出パターンですが、「下」を意味する語が「寝ること、寝ていること」を意味するようになるのも超頻出パターンです。

奈良時代の日本語には、nu(寝)という動詞がありました。

寝ることを意味するneのような語があったと考えられます。考えられますというか、実際に奈良時代の日本語にはne(寝)という名詞がありました。

nu(寝)の尊敬語として、nasu(寝す)がありました。

そのほかに、neburu(眠る)という動詞もありました。

タイ系言語で「水」を意味したnam-、nim-、num-、nem-、nom-のような語が、「水」→「雨」→「落下、下方向、下」と変化し、この最後のところから「寝ること、寝ていること」を意味する語が生まれてくるわけです。

namaru(鈍る)やniburu(鈍る)も、同じところから来ています。「腕が落ちる、腕が衰える」と似た意味で、「腕が鈍る(なまる、にぶる)」と言いますね。namaru(鈍る)とniburu(鈍る)も、下への動きを意味していた語なのです。namaku(怠く)は、活動状態が低下・停止することです。

mとbの間の変化は、世界中の言語でよく起きる変化です。

「下」を意味したutuのような語は、uturautura(うつらうつら)、utouto(うとうと)、uttori(うっとり)などになりました。「下」を意味したimaのような語があったとしたら、それはどうなったのでしょうか。

ここで問題にしたいのが、奈良時代の日本語のime(夢)です。現代の日本語では、yume(夢)になっています。

ime(夢)のmeは乙類です。したがって、me(目)からma*という古形が推定されるのと同様に、ime(夢)からima*という古形が推定されます。

先ほど、奈良時代の日本語には、寝ることを意味するne(寝)という名詞があったと述べました。実は、奈良時代の日本語には、寝ることを意味するi(寝)という名詞もありました。

日本の古語辞典は、i(寝)とme(目)がくっついたのがime(夢)であろうと説明してきました(上代語辞典編修委員会1967、大野1990)。一見もっともらしいですが、筆者はちょっと違うと思います。

世界の言語の代表例として、英語のdream(夢)を取り上げましょう。英語が属するゲルマン系の外に目をやると、イタリック系にイタリア語dormire(寝る)のような語があり、スラヴ系にロシア語dremat’(居眠りする、まどろむ)ドリマーチのような語があります。ロシア語は端的で、同一のsonという名詞が「眠り」も「夢」も意味します。

奈良時代以前の日本語のima*も、寝ることを意味していたと考えられます。日本語ではimという語形が許されないので、iという形とima*という形になっていたということです。

「下」を意味するima*という語が存在した可能性が高まってきました。

これを裏づけるのが、奈良時代の日本語のimasu(座す)です(現代の日本語のiru(いる)は当時はwiru(居る)で、それとは別物です)。imasu(座す)は、ari(あり)の尊敬語でした。

極めつけは、ima(今)です。

英語のpast(過去)、present(現在)、future(未来)のうちのpresent(現在)について考えてみましょう。英語のpresent(現在)は、ラテン語のpraeesse(前にある)の変化形から来ています。ラテン語のpraeesseは、前を意味するpraeとあることを意味するesseがくっついた語です。要するに、「前にあること」を意味する語が、「現在」を意味するようになったのです。

古代中国語のhen dzoj(現在)ヘンヅォイも、見えることを意味するhen(現)とあることを意味するdzoj(在)がくっついた語ですから、大体同じ発想です。

日本語のima(今)も、「(目の前に)あること」を意味していて、そこから「現在」を意味するようになったと考えられます。

「下」を意味するutu*は、「現実」を意味するようになりましたが、「下」を意味するima*は、「現在」を意味するようになったのです。

※ari(あり)の尊敬語としてimasu(座す)がありましたが、imasu(座す)と全く同じ働きをするmasu(座す)という語もありました。masu(座す)からimasu(座す)が生まれたのか、それとも、imasu(座す)からmasu(座す)が生まれたのかという問題がありましたが(上代語辞典編修委員会1967、大野1990)、正しいのは後者でしょう。奈良時代の日本語を見ると、imasu(座す)のほうが明らかによく使われています。imada(未だ)からmada(まだ)が生まれたのと同様に、imasu(座す)からmasu(座す)が生まれたと考えられます。

imada(未だ)からmada(まだ)が生まれましたが、imada(未だ)は、意味と形を考えれば、間違いなくima(今)と関係のある語でしょう。奈良時代の日本語を見ると、imadaという形にほんの少しimataという形が混じっており、imataのほうが古い形と思われます。konata(こなた)やkanata(かなた)などの語に方向・場所を意味するtaが含まれていますが、これが非常に怪しいです。ima(今)と場所を意味するtaがくっついたのが、imataだったのではないかということです。現代の日本語で、「今」と「今のところ」と言うようなものです。

iとuの間の発音変化が盛んであったことを考えると、「下」を意味したima*とuma*のような例は、ほかにもあったでしょう。sita(下)とsuta*(下)の間にも、そのような発音変化があったと思われます。suta*(下)が「足」を意味する語になり、「足」を意味する語が「歩くこと」を意味するようになったのが、sutasuta(すたすた)でしょう。転倒を表すsutten(すってん)や落下を表すsuton(すとん)も怪しいです。

 

補説1

onore(己)とore(俺)も

ミャオ・ヤオ語族が日本語に非常に大きな影響を与えていたというのは、なんとも驚きだったのではないでしょうか。これは、まだまだ序の口です。次回の記事でもミャオ・ヤオ語族を取り上げますが、ここでいつもの図を示しておきましょう。

ミャオ・ヤオ系言語で「水」を意味したam、an、aŋ、um、un、uŋ、om、on、oŋのような語は、やはりその横の部分を意味するようになったようです。

「水」を意味したonaは、「なにかが二つあること」を意味することもできたでしょう(この話題については、数詞の起源について考える、語られなかった大革命を参照。「水」を意味した語が「横の陸」を意味するようになり、「横の陸」を意味した語が「2」を意味するようになる話です)。しかし、onaは、「同じであること」を意味するようになったようです。

奈良時代の日本語のona(同)だけでなく、ono(己)もここから来たと考えられます。ono(己)に、他の代名詞と同様にreが付けられたのが、onore(己)です。onore(己)は、もともと上の図のような語ですから、二つあるうちの一方を指すこともできるし、他方を指すこともできます。だから、一人称代名詞として働くこともあったし、二人称代名詞として働くこともあったのです(onore(己)が短縮したのが、ore(俺)です)。

なにかが複数あって、その一つ一つを指す時にonoono(各々)と言いますね。このono(各)も、上の図から来たと考えられます。

数詞の起源について考える、語られなかった大革命の記事でお話ししたpitoにそっくりです。pitoは、語頭のpがɸに変化して、ɸito(一)になったり、ɸito(等)になったりしたのでした。

 

補説2

uturu(映る)、uturu(写る)、uturu(移る)の共通点

上でお話ししたように、「下」を意味したutu*という語は、「現実」を意味する奈良時代の日本語のutu(現)になりました。

奈良時代の日本語には、utusi(現し)という形容詞があって、「あること、見えること」を意味していました。このことから、uturuという動詞は、当初は「現れること」を意味していたと思われます。岩波古語辞典がそのような考えを示していますが、筆者も同じ考えです(大野1990)。

uturuという動詞は、他の動詞に押されて、単純に「現れること」を意味することができなくなったのでしょう。そこで、「ある場所に存在していたものが、別の場所に現れる」という特殊な意味を帯びていくのです。

現代の日本語では、uturuは「映る」、「写る」、「移る」などと書かれ、それぞれの使い方がありますが、「ある場所に存在していたものが、別の場所に現れる」という意味は共通しています。

 

補説3

最後にnaru(成る)とnasu(成す)の話

ここまで読んでいただいた方なら、naru(なる)とnasu(なす)の語源も理解できるでしょう。

ポイントは、奈良時代の日本人が、naruを「成」と書くだけでなく、「生」とも書いていたことです。現代の日本語に「実がなる」という言い方がありますが、この「なる」は、「成る」とも、「生る」とも書かれていたのです。

タイ系言語で「水」を意味したnam-、nim-、num-、nem-、nom-のような語が、「下」を意味するようになるのを見ました。namaru(鈍る)やnasu(寝す)などの話を思い出してください。ne(寝)のみならず、ne(根)も「下」を意味していた語でしょう。

na*は「下」を意味していた語で、「あること」を意味するようになり、それから作られた動詞のnaru(なる)は、「生まれること、生じること」を意味していたと考えられます。だから、「実がなる」と言うのです。そして、「実が生る」と書いていたのです。

しかし、補説2の話に似ていますが、naru(なる)は、他の動詞に押されて、単純に「生まれること、生じること」を意味することができなくなっていったようです。そこで、「なんらかの過程を経て生まれること、生じること」を意味するようになっていったようです(奈良時代の日本語で生産を意味していたnari(業)も同源でしょう)。

現代の日本人にとっては、naru(なる)は、ほぼ完全に変化を意味する語になっていますが、上のような歴史があったのです。

 

残された謎

今回の記事では、タイ系言語で「水」を意味した語が、「水」→「雨」→「下」と意味変化し、この「下」を意味する語が、様々な日本語になったことを見ました。同様に、ミャオ・ヤオ系言語で「水」を意味した語が、「水」→「雨」→「下」と意味変化し、この「下」を意味する語が、様々な日本語になったことを見ました。

タイ系言語とミャオ・ヤオ系言語が日本語に語彙を与えていたというのは、日本語の歴史を考えるうえで極めて重要です。

その一方で、疑問点も残ったかと思います。

それは、「下」を意味したutu*という語です。案の定というか、奈良時代の日本語には、utu/udu(渦)という語がありました。「水」を意味するutuのような語がどこかにあったことを示唆しています。

シナ・チベット語族は、「水」のことを中国語shuiシュイ、チベット語chuチュのように言うので、該当しません。オーストロアジア語族(ベトナム系言語)も、「水」のことをベトナム語nướcヌウク、クメール語tɨkトゥクのように言うので、該当しません(クメール語はカンボジアの主要言語です)。

この「水」を意味したutuのような語に関しては、筆者も長年理解に苦しみました。しかし、ようやく光明が見えてきました。

「水」を意味したutuのような語も、日本語の歴史を考えるうえで極めて重要になります。

この話は長くなるので、別の記事に回します。

 

参考文献

大野晋ほか、「岩波 古語辞典 補訂版」、岩波書店、1990年。

上代語辞典編修委員会、「時代別国語大辞典 上代編」、三省堂、1967年。

「名前(なまえ)」とは何か、平仮名と片仮名についてもう一言

最近は言語以外に関する記事が続いていたので、たまには言語に関する記事も書きましょう。

人を惑わせる万葉仮名、ひらがなとカタカナの誕生の記事にアクセスしてくださる方が多く、感謝しております。

「万葉仮名、平仮名、片仮名」にはkana(仮名)という語が含まれていますが、これは歴史的にはkarina(仮名)→kanna(仮名)→kana(仮名)と変化したものです。もともとは、karina(仮名)だったわけです。

karina(仮名)ってなに?ということなりますが、ひとまずkari(仮)とna(名)に分け、na(名)について考えましょう。

現代の日本ではnamae(名前)という語がよく使われますが、奈良時代の日本にはまだこの語はありませんでした。

na(名)の語源は、以下のように考えるのが適切と思われます。

以前にお話ししたように、奈良時代の日本語には、naru(鳴る)、nasu(鳴す)、naku(鳴く)という語がありました(nasu(鳴す)は廃れてしまいましたが、「鳴らす」という意味です)。これらにはnaが組み込まれており、かつて*na(音)という語があったと推測されます。ne(音)という語の存在も、この推測を裏づけています。*na(音)→ne(音)の変化は、*ma(目)→me(目)や*ta(手)→te(手)の変化と同じです。

*na(音)がne(音)になったのは確かですが、その一方で、*na(音)はそのままの形でも残り、na(名)になったのではないかと考えられます。

私たち一人一人は、それぞれ違う名前を持っています。みんなの名前がTarouだったら、困るでしょう。「Tarouが○○をした」と聞かされても、どのTarouかなと考え込んでしまいます。区別するために、私たち一人一人にそれぞれ違う名前が与えられているのです。

昔は文字がなく、名前はただ「音」として存在していました。区別するために、一人一人に違う「音」が割り当てられていたわけです。こう考えると、*na(音)がna(名)になったのは自然です。

筆者は、この*na(音)が文字を意味することもあったと考えています。日本人が「あ、い、う、え、お、か、き、く、け、こ・・・」と書き並べて、それを「五十音(表)」と呼んできたことを思い起こしてください(日本語の発音が変化しているので、もう五十ではありませんが)。

このような例を見るに、*na(音)が文字を意味することがあってもおかしくありません。

奈良時代の日本語には、まだ平仮名と片仮名がありませんでした。例えば、kaɸa(川、河)という日本語があっても、「かは」または「カハ」と書くことはできず、「可波」と書いていました。

独自の文字がないので、中国語から漢字を借りてこないといけないわけです。この中国語から借りた文字が、karina(仮名)にほかなりません。kariの部分は借りたことを意味し、naの部分は文字を意味しています。karina(仮名)というのは、「借りた文字」ということです(karu(借る)/kari(借り)/kari(仮)が中国語からの外来語であることについては、「足りる」と「足す」になぜ「足」という字が使われるのか?の記事を参照)。

人を惑わせる万葉仮名、ひらがなとカタカナの誕生の記事で説明したように、平仮名と片仮名は、漢字を崩したり、漢字の一部を抜き出したりして作られました(図はWikipediaより引用)。

hiragana(平仮名)とkatakana(片仮名)のhiraとkataの部分は、漢字を崩したり、漢字の一部を抜き出したりすることと関係があると見られます。日本語にhitohira(一片)という語があるのを思い出してください。

na(名)、kana(仮名)、hiragana(平仮名)、katakana(片仮名)については、このようにして理解できます。

となると、疑問として残るのは、namae(名前)です。

namae(名前)という語は、明治のいくらか前に現れ、明治から頻繁に使用されるようになりました。

明治というのは、庶民が名字(苗字)を名乗り始めた時代です。それまでは、名字を名乗っていたのは、武士や公家のような特別な身分の人たちでした。

そのような経緯を考えると、namae(名前)は、「na(名)のmae(前)」と解釈するのが自然です。当初は、na(名)は下の名前を意味し、namae(名前)は上の名前を意味していたのでしょう。そこから、namae(名前)の使い方がどんどん広がっていったのです。

namae(名前)という語が頻繁に使用されるようになった時期と、庶民が名字を名乗り始めた時期が一致しているのは、偶然でないと思われます。

読者の皆様へ、本ブログの今後の予定について3 藤原不比等が残したもの、過去、現在、未来

梅原猛氏、上山春平氏、大山誠一氏らの研究によって浮かび上がってきた藤原不比等の存在は、日本の歴史を考えるうえで非常に重要で、本ブログでも大きく取り上げます。

前回の記事でお話ししたように、藤原不比等は、天武天皇の後を継いだ持統天皇の時代に頭角を現します。

当時は、中国の法体系を見習った日本の法体系を作っている時期でした。この法体系またはそれに基づく国の体制は、律令制(りつりょうせい)と呼ばれます。中国の「律」(刑法)と「令」(行政法その他)から来ています。

日本の律令制を確立する作業の中心にいたのが、藤原不比等でした。従来は、藤原不比等といえば、この律令制を確立した政治家というイメージでした。しかし、梅原氏、上山氏、大山氏らの研究によって、そのイメージが変わってきました。

上山氏が当時の中国の政治体制と日本の政治体制をわかりやすく比較しています(上山1985)。確かに、日本は中国の法体系を見習ったのですが、もとになった中国の法体系とできあがった日本の法体系には違いもあり、特に違いが著しいのが、中国の皇帝と日本の天皇です。中国の皇帝が絶大な権力を持つのに対し、日本の天皇は権力を剥ぎ取られた格好になっています。現代の日本の話をしているのではありません。藤原不比等の時代の日本の話をしているのです。

日本の律令制では、天皇の傍らに「太政官」(だいじょうかん)というものが置かれました。「太政官」は、一人の人間ではなく、何人かの人間から成る組織・機関です。ここで注目すべきなのは、政治は「太政官」に委ねられ、天皇は単に祭祀を行う存在になってしまったことです(祭祀というのは、神霊相手の儀式で、慰めたり、祈ったり、感謝したり、崇めたりします)。日本の法体系を整えますよと言いつつ、さりげなくあるいは巧妙に、天皇を政治から外したのです。日本の天皇は、中国の皇帝とは全然違う運命を辿ることになります(うしろを読んでいただければわかると思いますが、天皇がなぜ残っているかというと、権力を持っていないからです)。

律令制より少し遅れて日本書紀が完成し、日本の奇妙な展開が始まります。政治から外された天皇は、どうでもよい存在になったのかというと、そうはなりません。読んでの通り、日本書紀は、神の子孫として天皇を崇拝させる気満々です。どうなるかというと、天皇を神の子孫として崇拝させつつ、違う人間が政治決定を下すという構図ができるのです。なんか、おなじみというか、鮮明に目に浮かぶ構図です。

恐ろしいのは、この構図は偶然生じたのではなく、計算されていたであろうということです。

藤巻一保氏が「偽史の帝国〝天皇の日本〟はいかにして創られたか」という著作で明治から戦後にかけての日本の歴史を冷静・冷徹に描いています。藤巻氏は、以下のように書いています(藤巻2021)。

神輿に担がれたシンボルとして生きるという生き方は、天皇家の伝統といってよい。神輿の争奪戦は、過去から連綿とつづいてきた。古い担ぎ手が斃され、新たな担ぎ手が表舞台に出てくるというのが「天皇の国」の歴史の大半で、皇居の外が神輿の争奪戦でいかに騒然となっていようとも、神輿そのものはおおむね安泰だった。鎌倉倒幕に動いた後鳥羽天皇や、室町倒幕に動いた後醍醐天皇のように、神輿から飛び出してその手に実権をにぎろうとした天皇は、まったく例外的な存在だった。

武家政権の最後の担ぎ手となった徳川家康は、天皇家を京都御所という事実上の座敷牢に封じこめ、文化的な権威と多少の権力、小大名程度のわずかな食禄(禁裏御料、当初は一万石でのちに三万石になった)を与えて、政治にはいっさい関わらせない体制をつくった。しかも天皇家は、時代が進むにつれてこの暮らしに次第になじんでいき、安住するまでになった。

明治になり、新たな担ぎ手である薩長幕府の不動のエースとなった伊藤博文は、表向きはいっさいの権力を天皇に集中させるとともに、天皇家を日本一の大財閥に仕立てあげ、政治的には政府を筆頭とする補弼機関が国家全体を動かすという秀逸なシステムをつくりあげた。形態こそ前代とは異なっているが、天皇が神輿のなかの御神体であることに変わりはなかった。

伊藤がはしなくも漏らした本音を、東京医学校教師としてドイツから招かれ、宮内省侍医も勤めたベルツが日記に書き留めている。明治三十三年(一九〇〇)五月の明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)と九条節子(貞明皇后)の結婚に関する会議の席上、なかば有栖川宮のほうに顔を向けて、伊藤がこういったというのだ。

「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいながら伊藤は、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたのである。(五月九日条)

天皇を神の子孫として崇拝させつつ、違う人間が政治決定を下すという構図は、明治以降露骨になり、狂気といえるほどエスカレートし(日本は神の子孫である天皇が統治する国であるという意識、そして他国はそうでないという意識から、どんどん尊大で過激な態度になっていきます)、最終的には第二次世界大戦での敗北にまで至ります。上述の藤巻氏の著作は、その過程を鮮やかに示した著作です。

第二次世界大戦後に、東條英機は、東京裁判の宣誓供述書で以下のように述べました(藤巻2021)。

天皇は自己の自由の意思をもって、内閣及び統帥部[陸軍参謀部と海軍軍令部]の組織を命ぜられませぬ。内閣及び統帥部の進言は拒否せらるることはありませぬ。天皇陛下の御希望は[常時補弼の任にある]内大臣の助言によります。しかもこの御希望が表明せられました時においても、これを内閣及び統帥部においてその責任において審議し上奏します。この上奏は拒否せらるることはありませぬ。これが我国史上空前の重大危機における天皇陛下の御立場であられたのであります。現実の慣例が以上の如くでありますから、政治的、外交的及び軍事上の事項決定の責任は、全然内閣及び統帥部にあるのであります。

ここに、ドイツのヒトラーやイタリアのムッソリーニとは異なる日本の天皇の微妙な立場(外国からするとわかりにくい立場)があります。

藤原不比等の時代に行われたことは、現代の日本に無関係な遠い昔の話ではありません。その後の日本の歴史全体に特大の影響を与えており、現代の日本にも影を落としています。

マッカーサーの腹心であったフェラーズからマッカーサーへの報告書に、以下のように記されています(藤巻2021)。

天皇の退位や絞首刑は、日本人全員の大きく激しい反応を呼び起こすであろう。日本人にとって天皇の処刑は、われわれにとってのキリストの十字架刑に匹敵する。そうなれば、全員がアリのように死ぬまで戦うであろう。軍国主義者のギャングたちの立場は、非常に有利になるであろう。・・・・・・天皇にだけ責任を負う独立した軍部が日本にあるかぎり、それは平和にたいする永久の脅威である。しかし、天皇が日本の臣民にたいしてもっている神秘的な指導力や、神道の信仰があたえる精神的な力は、適切な指導があれば、必ずしも危険であるとは限らない。日本の敗北が完全であり、日本の軍閥が打倒されているならば、天皇を平和と善に役立つ存在にすることは可能である。

※フェラーズが「軍国主義者のギャングたち」と呼んでいるのは、天皇のまわりにいる軍閥のことです。フェラーズは、戦争を起こしているのが天皇ではなく、天皇のまわりにいる軍閥であることを見抜いたうえで、上のように言っているのです。

当時の日本は、古事記と日本書紀の神話(天皇が神の子孫であるという話)に異を唱えられる国ではありませんでした。大日本帝国憲法からして「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス、皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス、天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス・・・」という憲法です。異論の余地はないのです。

現代の日本では、古事記と日本書紀は学校教育に入っていませんが、これはGHQが危険とみなして外したからであって、日本が自発的に外したわけではありません。

※GHQは、第二次世界大戦で敗北した日本を占領・管理するための連合国の機関です。上に「古事記と日本書紀」と書きましたが、正確に言うと、古事記と日本書紀は漢文で書かれていて、普通の日本人は読めないので、古事記と日本書紀の内容をもとにした教材が与えられていました。

GHQに言われていやいや教材を引っ込めただけで、古事記と日本書紀に対する日本の認識が変わったわけではなく、実はまだ危険が残っています(補説も参照)。

古事記と日本書紀の問題は、依然として日本に突き刺さっています。古事記と日本書紀が弥生時代から奈良時代にかけての日本の歴史をぐちゃぐちゃに歪めているので、どうしても古事記と日本書紀を無視することはできません。これは、民族の問題を考える場合にもそうだし、言語の問題を考える場合にもそうだし、政治の問題を考える場合にもそうです。

歴史学者の井上光貞氏が、以下のように述べています(井上2005)。

歴史をまとめるばあい、過去のことを記録しておきたいというすなおな動機もたしかにあるだろう。しかし国家や宗教の支配層に属する公の機関が歴史をまとめるばあい、そこに自分たちの支配体制を歴史的に肯定しようという意図がしばしば一本の筋となって貫かれている。つまり、自分たちが君臨しているのは偶然のことではなく、本来、当然そうあるべきだったのだ、ということを自他ともに示したい動機がひそんでいるのである。とすれば、どうしても、自分たちに都合のわるいことはタブーとしてなるべく書かないし、実際にはなかったことでも書きたくなるであろう。したがって、自分たちに都合のわるい事実を明らかにする者が出ると、世を惑わす者として処罰するといったことも起こってくる。そして、これらの支配体制が変革をうけると、たちまち歴史が書きかえられるのである。

このような「歴史」のありかたは、古今東西に共通してみられることで、ここに例をあげるまでもないとおもう。しかし、このような「歴史」のありかたを克服したときに、はじめて近代的な文明国になったといえるのではないだろうか。

私も、井上氏と同じようなことを思います。

井上氏が指摘しているのは、深刻な問題です。

人々が、遠い過去ではなく、近い過去(日本なら、明治から令和)のことをどれだけ知っているだろうと考えてみても、深刻な問題です。

支配層が自分に都合の悪いことを知られないようにするというのは、昔に限った話ではないからです。

過去を正確に知らないと、なぜ現在のようになっているのか理解することができません。

 

補説

変わっていない認識

第二次世界大戦で敗北した後の昭和21年の元日に、昭和天皇は詔書を発しました。この詔書は、今日では「人間宣言」と呼ばれています。詔書には、以下のように述べられています。

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。

現御神(あきつみかみ)というのは、奈良時代から用いられてきた言葉で、「この世に人間の姿で現れている神」という意味です。現人神(あらひとがみ)も同じ意味です。人間宣言では、「天皇は現御神である、日本人は他の民族より優れた民族である、世界を支配しなければならない運命にある」というのは架空の観念とされています。

実は、上の詔書が発せられる前に、日本とアメリカの間で以下のような応酬がありました(藤巻2021)。

日本側:「日本人は神の子孫である」というのは架空の観念である。

アメリカ側:「天皇は神の子孫である」というのは架空の観念である。

日本側:「天皇は現御神である」というのは架空の観念である。

最終的に、日本側の文案が通ります。日本側の思惑通りです。一見まるくおさまったように見えますが、そうではありません。藤巻氏は、以下のように鋭く指摘しています(藤巻2021)。

人間宣言をめぐっては、今日にいたるまで天皇による現人神説の否定部分に焦点をあてた論説ばかりがおこなわれてきた。しかし、この詔書のもつほんとうの意味、もっと重要なポイントは、右に記したとおり、天皇を「神の裔」とする観念を保存することに成功したところにこそあったのである。

藤巻氏の指摘通り、日本側は「天皇は神の子孫である」という主張を死守しています。天皇は神なのか、人間なのか、ポイントはそこではないのです。詔書を発する前から、昭和天皇は、以下のように言っていました(藤巻2021)。

「本庄だったか、宇佐美だったか、私を神だと云うから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない、そういう事を云われては迷惑だと云ったことがある」

日本に特大の問題をもたらしたのは、古事記と日本書紀の「天皇は神の子孫である」という主張です。天皇は神なのか、人間なのかというのは、ポイントがずれているのです。そのようにしてポイントをずらし、「天皇は神の子孫である」という主張を死守するのが、日本側の思惑だったわけです。

第二次世界大戦で、日本が形勢不利になっていき、敗北に至ったことは、皆が知っています。しかし、敗北に至るまでの過程をよく見ると、「(このままでは)神の子孫である天皇が統治する国が消滅してしまう!」→「いかん!」→「敗北を認めよう!」という展開だったのです。

戦前も、戦中も、戦後も、日本は「天皇は神の子孫である」という主張にしがみついているのです。

天皇という地位の継承者である昭和天皇自身は、藤巻氏が記しているような状態にありました(藤巻2021)。

このように、昭和天皇は一貫して自分が現人神だということについては否定していたが、自分が「神の裔」だという点については、「架空」と認めることはできなかった。

 

参考文献

井上光貞、「日本の歴史<1> 神話から歴史へ」、中央公論新社、2005年。

上山春平、「天皇制の深層」、朝日新聞社、1985年。

藤巻一保、「偽史の帝国〝天皇の日本〟はいかにして創られたか」、アルタープレス、2021年。