呪われた時代の始まりか、継体天皇→安閑天皇→宣化天皇→欽明天皇、最後の巨大前方後円墳が作られる時

前回の記事では、日本史上最大の前方後円墳が作られた「倭の五王」の時代について論じました。巨大前方後円墳は、その後どうなったのでしょうか。考古学者の白石太一郎氏によって作成された巨大前方後円墳の編年図を再び見てみましょう(白石2013)。

誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)と大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)の築造はさすがに大変だったようで、その後巨大前方後円墳は小さくなります。雄略天皇(倭の五王の最後の「武」)の陵であると考えられている岡ミサンザイ古墳(おかみさんざいこふん)も小さくなっていますが、その後さらに小さくなります。

天皇の地位をめぐる激しい殺し合いで一族が縮小してしまったこと、そして、拠り所であった宋が滅亡してしまったことが大きく影響しています。まさに弱り目に祟り目です。

古事記と日本書紀によれば、雄略天皇の後、以下の天皇がいたことになっています。清寧天皇、顕宗天皇、仁賢天皇、武烈天皇です。

15代の応神天皇から22代の清寧天皇までを見てください。常に天皇の息子か兄弟が後を継いでいます。ところが、22代の清寧天皇に子ができませんでした。困っているところで、行方不明になっていた億計王(のちの仁賢天皇)と弘計王(のちの顕宗天皇)が都から離れた播磨で発見されます。雄略天皇は即位する前にいとこである市辺押磐皇子を殺しており、市辺押磐皇子の二人の息子である億計王と弘計王は隠れていたのです。弘計王は顕宗天皇になり、億計王は仁賢天皇になります(なぜか弟が兄より先に天皇になります)。しかし、後継者問題は一時的に回避されただけで、25代の武烈天皇に子ができず、またしても窮地に陥ります。この期間の記述は、古事記と日本書紀で若干違いますが、後継者がいないという深刻な事態になったことは間違いありません。

近い縁のある者がいないということで、遠い縁のある者を探したことでしょう。ここでなんと、天皇の側近の者たちは、都から離れた近江からヲホドノオウという人物を連れてきます。古事記と日本書紀によれば、応神天皇の五世の孫ということになっています(応神天皇の五世代下の子孫であるが、仁徳天皇の子孫ではないということです)。このヲホドノオウが継体天皇になるわけですが、ヲホドノオウには強い疑いの目が向けられてきました。歴史学者の井上光貞氏は、継体天皇に関する諸説を検討しながら、以下のように述べています(井上2005)。

戦後、古代史のタブーが解かれたとき、水野祐氏は王朝交替論をとなえ、応神王朝はここで絶え、継体天皇を始祖とする新しい王朝が誕生したのであると解釈した。というのは、記紀では、継体天皇を応神天皇の五世の孫としているが、それは応神王朝の始祖から数え、しかも割り切れた五という数字で血縁関係を結んでいる点がまずおかしいし、また日本書紀によれば、継体天皇は即位後二十年も古都の大和に入れなかったというのもふしぎだからである。記紀はまた、応神王朝の第二世、仁徳天皇を徳の高い天皇とし、最後の武烈天皇はひどい暴君として描いているが、それは応神王朝が武烈天皇で絶えたことをあらわしているのであって、当時、大和政権で最大の権力を握っていた大伴金村は、前王朝とは血縁関係のない継体天皇を擁立したのであろう、と。

直木孝次郎氏は、さらに一歩を進めて、継体天皇は越前の豪族であり、武烈天皇の死後、大和朝廷に分裂がおこり、朝廷の支配を維持していくことができず、各地に動揺が生じたが、このとき、継体天皇は応神五世の子孫と称して興起し、近江・尾張を固めながら河内・山背に進出し、ついに大和に突入し、磐余玉穂に入って皇位についたのではないかとした。

直木氏のこの発想は、一つには継体天皇の后妃の多くは尾張や近江の豪族の子女で、これらは継体天皇がまだ越前にあったころめとったものであろうという判断からきている。つまり継体は、たんに越前の豪族にとどまらず、尾張・近江を一帯とした大きな勢力を統率していたことを示しているとおもわれるからである。また継体天皇が二十年も大和に入れなかったのは、大和に対立する強い勢力があったからで、大和政権の権力者であった大伴金村が継体天皇を擁立したという所伝は現実味がなく、実際は継体天皇が大伴氏を含めた大和政権を降して皇位を簒奪したのである、とした。

以上の諸説のうちで、継体天皇を応神五世の孫としたのは、水野氏も指摘したようにおそらく七世紀の宮廷での創作ではないだろうか。というのは、七〇一年に律令法典が完成したが、継嗣令というその法典の一章には、「天皇の子の親王から第四世までは王というが、第五世からは皇族の待遇をうけない」とし、七〇六年には第五世王も入ると改めた。この四世、五世の「世」はどこから数えるのか、奈良時代の法律家のあいだにも異説を生じたが、この法典のつくられたちょうどそのころに、古事記と日本書紀は完成している。わたくしには、古事記が継体天皇を応神の五世の孫とし、日本書紀が応神五世の孫の子としているのは、この知識が大きく働いているとおもわれるのである。

しかし、これには反対説がある。聖徳太子の古い伝記の一つである『上宮記』に、応神天皇から継体天皇にいたる一人一人の王の名がちゃんと記してあるから、そのような推測の余地はない、という意見がそれである。だが、上宮記がそれほど古い文献かどうか疑わしいし、帝紀や記紀を書いた人がそのことを知っていたなら、皇統には神経質なかれらが、それを書きもらすはずはなかっただろう。

古事記と日本書紀は、継体天皇は応神天皇の五世の孫と言うだけで、応神天皇から継体天皇に至る具体的な系譜を示していません。

一般的には古事記と日本書紀が最も古い書物であると考えられていますが、「古事記と日本書紀より古い可能性がある書物」あるいは「古事記と日本書紀より古い書物に基づいて書かれた可能性がある書物」というのがあり、実はとてもややこしいことになっています。

鎌倉時代に卜部兼方という人物が「釈日本紀」という書物を書きました。「釈日本紀」は、「日本書紀」の注釈書ですが、もう今では残っていない様々な古い書物を参照しています。「釈日本紀」は、もう現存しない「上宮記」という書物を引用しています。引用箇所を見ると、「上宮記曰一云・・・」と書かれています。ある書物が「上宮記」に引用され、そこからさらに、「上宮記」が「釈日本紀」に引用されたのだろうと考えられています。上の「・・・」の箇所に、応神天皇から継体天皇に至る系譜が記されているのです。こういう複雑な経緯があって、「・・・」の箇所に記されている応神天皇から継体天皇に至る系譜は真実なのか、論争になっています。

継体天皇は、古い天皇と血縁関係があるのかないのかという点が論争の焦点になってきましたが、筆者は、現時点ではどちらとも断定できないと思います。古い天皇は、何人もの妻を持ち、大勢の子どもがいたりするので、傍系の王族が都の周辺の地域で有力者になることはあり、継体天皇もその一人であったかもしれないし、なかったかもしれません。

ただ、前回の記事で論じたように、応神天皇は古い天皇の直系子孫と結婚しただけであり、その前の成務天皇と仲哀天皇は捏造されています。喧伝されてきた「万世一系」はもとから成り立っておらず、継体天皇は古い天皇と血縁関係があるのかないのかという点にこだわるのはあまり重要でないと思われます(そもそも、日本という国の始まりに位置する初代の卑弥呼と二代目の台与を無視して、「万世一系」もなにもあったものではありません)。

それよりはるかに重要なのは、前回の記事の応神天皇のところで見たように、結婚を通じて新たに皇位継承権が生じるシステムです。ヲホドノオウも、仁賢天皇の娘である手白香皇女と結婚して、継体天皇になっています。継体天皇は、皆に歓迎されながら天皇になったようには見えませんが、結婚が成立すると、もうだれも文句は言えないようです。

継体天皇の時代には、「磐井の乱」という大きな出来事もありました。継体天皇は、物部氏や大伴氏らとともに、この戦いに勝利します。「磐井の乱」は、九州の勢力の反乱というイメージがあるかもしれませんが、実際には、九州の勢力の自立化の動きを感じ取った大和政権側が仕掛けた戦いだったようです(水谷2001)。継体天皇は、「磐井の乱」の後まもなく、病死します。

継体天皇の陵は、白石氏の編年図に記されている今城塚古墳(いましろづかこふん)(墳丘長190メートル)であると見られています。それなりに大きい古墳です。大量の埴輪を有しています。

六世紀には、さらに河内大塚古墳(かわちおおつかこふん)(墳丘長335メートル)と五条野丸山古墳(ごじょうのまるやまこふん)(墳丘長310メートル)が作られます。五条野丸山古墳が、最後の巨大前方後円墳になります。その一つ前の河内大塚古墳は、間違いなく巨大な前方後円墳ですが、異様な姿を見せています。円形部分は盛り上がっているのに、台形部分は平坦なのです。埴輪もありません。なんらかの理由で築造作業が中止された、未完成の古墳のようなのです。

継体天皇について語る時には、継体天皇はどこから来たのか、古い天皇と血縁関係があるのかないのかという話、大和になかなか入れなかった話、磐井の乱に勝利した話、そして今城塚古墳の話になることが多いです。しかし、日本の歴史において最も重要なのは、継体天皇の死の話かもしれません。

日本書紀は、継体天皇の巻の最後で、継体天皇の死を伝えています。しかし、継体天皇の死の伝え方が普通ではないのです。日本書紀には、以下のように書かれています(書き下し文は坂本1994、現代語訳は宇治谷1988より引用)。

原文

廿五年春二月、天皇病甚。丁未、天皇崩于磐余玉穗宮、時年八十二。冬十二月丙申朔庚子、葬于藍野陵。

或本云「天皇、廿八年歲次甲寅崩。」而此云廿五年歲次辛亥崩者、取百濟本記、爲文。其文云「太歲辛亥三月、軍進至于安羅、營乞乇城。是月、高麗弑其王安。又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。」由此而言、辛亥之歲、當廿五年矣。後勘校者、知之也。

書き下し文

二十五年の春二月に、天皇、病甚し。丁未に、天皇、磐余玉穂宮に崩りましぬ。時に年八十二。冬十二月の丙申の朔庚子に、藍野陵に葬りまつる。

或本に云はく、天皇、二十八年歳次甲寅に崩りましぬといふ。而るを此に二十五年歳次辛亥に崩りましぬと云へるは、百済本記を取りて文を為れるなり。其の文に云へらく、太歳辛亥の三月に、軍進みて安羅に至りて、乞乇城を営る。是の月に、高麗、其の王安を弑す。又聞く、日本の天皇及び太子・皇子、倶に崩薨りましぬといへり。此に由りて言へば、辛亥の歳は、二十五年に当たる。後に勘校へむ者、知らむ。

現代語訳

二十五年春二月、天皇は病が重くなった。七日、天皇は磐余の玉穂宮で崩御された。時に八十二歳であった。冬十二月五日、藍野陵(摂津国三島郡藍野)に葬った。

ある本によると、天皇は二十八年に崩御としている。それをここに二十五年崩御としたのは、百済本記によって記事を書いたのである。その文に言うのに、「二十五年三月、進軍して安羅に至り、乞屯城を造った。この月高麗はその王、安を弑した。また聞くところによると、日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった」と。これによって言うと辛亥の年は二十五年に当る。後世、調べ考える人が明かにするだろう。

日本書紀のこの箇所は、極めて異常です。日本書紀の筆者の説明から窺えるのは、日本で伝えられている継体天皇の死と、百済本記が伝えている継体天皇の死が食い違っていたのだろうということです。百済本記が伝えている内容は、見ての通り、非常にショッキングです。日本の天皇、皇太子、皇子(天皇の息子)が一挙に死んだことを伝えています。

日本書紀の筆者は、百済人から大和政権に献呈された百済の歴史書である百済本記を信頼しており、ここでも、百済本記の記述を無視することができなかったのです。そして、日本で伝えられている継体天皇の死より、百済本記が伝えている継体天皇の死を優先的に記したのです。実際に、百済本記が伝えているように、当該の531年に高句麗の安臧王は死亡しています。

百済本記が伝えているのは531年の出来事ですが、この情報は大変貴重です。478年の宋への最後の遣使から600年の隋への最初の遣使までの間は、中国の歴史書から日本の情報を得られないからです。

老齢の継体天皇が病で死ぬのは自然としても、皇太子と皇子までいっしょに死ぬとはどういうことでしょうか。

まず、継体天皇と周囲の人間の関係を考えてみましょう。

すでに述べたように、ヲホドノオウは、仁賢天皇の娘である手白香皇女と結婚して、継体天皇になりました。そして、広庭皇子(のちの欽明天皇)が生まれました。

継体天皇は、手白香皇女と結婚して天皇になる前は、地方の有力者でしたが、もうその時点で、何人も妻がいました。そのうちの一人が、尾張目子媛でした。仁賢天皇の娘である手白香皇女と結婚する前は、尾張目子媛が正妻だったと見られます。継体天皇と尾張目子媛の間には、勾大兄皇子と檜隈高田皇子という息子がいました。

ヲホドノオウは、仁賢天皇の娘である手白香皇女と結婚して、継体天皇になりました。ヲホドノオウがもとから連れていたのが、勾大兄皇子と檜隈高田皇子です。ヲホドノオウが継体天皇になって、手白香皇女との間に生まれたのが、広庭皇子です。

継体天皇が死んだら、勾大兄皇子/檜隈高田皇子が天皇になるのか、広庭皇子が天皇になるのか、問題になるでしょう。いやそれどころか、争いになるかもしれません(この問題・争いは、従来「辛亥の変(しんがいのへん)」という名で論じられてきました)。

百済本記は、継体天皇が死んだ時にその皇太子・皇子もいっしょに死んだと伝えています。これが示唆しているのは、継体天皇が死ぬと同時に、勾大兄皇子と檜隈高田皇子が殺され、広庭皇子が天皇になったということです。

古事記と日本書紀の全体を見れば、勾大兄皇子が安閑天皇になり、檜隈高田皇子が宣化天皇になったことになっています(安閑天皇は在位2年、宣化天皇は在位4年という設定になっています)。古事記と日本書紀の制作者(監督者)としては、勾大兄皇子と檜隈高田皇子が殺されたことを隠したかったのでしょう。しかし、日本書紀の継体天皇の巻の筆者が、本当のこと(百済本記が伝えていること)を漏らしてしまったのです。

百済の百済本記だけでなく、日本の「上宮聖徳法王帝説」と「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」も、531年に継体天皇が死亡し、同じ年に欽明天皇が即位したことを示しています。「上宮聖徳法王帝説」と「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」が本当のことを書けるのは、古事記と日本書紀よりも古い書物に基づいて書かれているためと考えられます。

勾大兄皇子と檜隈高田皇子を殺したのは、当然、広庭皇子あるいは広庭皇子を押す勢力です。まずは、広庭皇子(のちの欽明天皇)と広庭皇子を押していた勢力について考えなければなりません。

もう一つ考えなければならないのは、なぜ勾大兄皇子と檜隈高田皇子が広庭皇子(のちの欽明天皇)と広庭皇子を押していた勢力によって殺されたことを、古事記と日本書紀は隠そうとしたのかということです。

「倭の五王」をめぐる論争の行方、いわゆる「応神天皇陵」と「仁徳天皇陵」についての記事で、古事記と日本書紀が成務天皇と仲哀天皇を捏造しているのを見ましたが、今度は安閑天皇と宣化天皇を捏造しています。

ヲホドノオウは、仁賢天皇の娘である手白香皇女と結婚して、継体天皇になりました。勾大兄皇子も、仁賢天皇の娘である春日山田皇女と結婚しました。檜隈高田皇子も、仁賢天皇の娘である橘仲皇女と結婚しました。継体天皇とその息子である勾大兄皇子・檜隈高田皇子は、新天地でなんとか溶け込もうとしていたのかもしれません。

仁賢天皇の娘で、継体天皇の皇后であった手白香皇女の陵は、白石氏の編年図の西山塚古墳(にしやまづかこふん)、勾大兄皇子と春日山田皇女の合葬墓は、高屋城山古墳(たかやしろやまこふん)、檜隈高田皇子と橘仲皇女の合葬墓は、鳥屋ミサンザイ古墳(とりやみさんざいこふん)と見られています(白石2018)。

※古事記と日本書紀の記述に従えば、高屋城山古墳は勾大兄皇子と春日山田皇女の合葬墓で、鳥屋ミサンザイ古墳は檜隈高田皇子と橘仲皇女の合葬墓であるということになりますが、古事記と日本書紀の記述には、疑いもあります。

継体天皇の陵と見られている今城塚古墳に、奈良・大阪の二上山白石、兵庫の竜山石、熊本の阿蘇ピンク石の3つの石棺が納められていたことがわかっています(水野2008)。継体天皇の息子である勾大兄皇子と檜隈高田皇子は、やはり継体天皇が死んだ時に殺されており、三人がいっしょに葬られた可能性があります。

これらの古墳の後に、河内大塚古墳と五条野丸山古墳が現れて、古代日本の長い伝統であった巨大前方後円墳は姿を消します。日本史上の大きな画期といってよいでしょう。

河内大塚古墳は未完成のようですが、なぜ未完成に終わったのでしょうか。

五条野丸山古墳の被葬者はだれで、なぜこの古墳が最後の巨大前方後円墳になったのでしょうか。

 

参考文献

井上光貞、「日本の歴史<1> 神話から歴史へ」、中央公論新社、2005年。

宇治谷孟、「日本書紀(上)」、講談社、1988年。

坂本太郎ほか、「日本書紀(三)」、岩波書店、1994年。

白石太一郎、「古墳からみた倭国の形成と展開」、敬文舎、2013年。

白石太一郎、「古墳の被葬者を推理する」、中央公論新社、2018年。

水谷千秋、「謎の大王 継体天皇」、文藝春秋、2001年。

水野正好ほか、「継体天皇の時代 徹底討論 今城塚古墳」、吉川弘文館、2008年。

「倭の五王」をめぐる論争の行方、いわゆる「応神天皇陵」と「仁徳天皇陵」について

前回の記事で「倭の五王」に言及しましたが、これも「邪馬台国」と同様に避けて通れない問題です。よい機会なので、深く切り込みましょう。

中国の歴史書のうちの宋書に、421~478年の期間に倭の五人の王が接触してきたことが記されており、その五人の王は「讃、珍、済、興、武」と記されているという話をしました。

古事記と日本書紀が宋書の「倭の五王」の話に触れたがらないので、「讃、珍、済、興、武」がだれなのか謎めいてしまうわけですが、全く手がかりがないわけではありません。

宋書には、以下のように書かれています(現代日本語訳は藤堂2010から引用)。

讃が死に、その弟の珍が後を継いだ。

倭王済が死に、世嗣の興が使者を遣わして貢ぎ物をたてまつった。

興が死んで、興の弟の武が倭王となった。

倭の五王の最後の「武」が宋の皇帝に送った文書も思い出しましょう(現代日本語訳は藤堂2010から引用)。

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順帝の昇明二年(四七八年)に、倭王武は使者を遣わして上表文をたてまつって言った。

「わが国は遠く辺地にあって、中国の藩屏となっている。昔からわが祖先は自らよろいかぶとを身に着け、山野をこえ川を渡って歩きまわり、落ち着くひまもなかった。東方では毛人の五十五ヵ国を征服し、西方では衆夷の六十六ヵ国を服属させ、海を渡っては北の九十五ヵ国を平定した。皇帝の徳はゆきわたり、領土は遠くひろがった。代々中国をあがめて入朝するのに、毎年時節をはずしたことがない。わたくし武は、愚か者ではあるが、ありがたくも先祖の業をつぎ、自分の統治下にある人々を率いはげまして中国の天子をあがめ従おうとし、道は百済を経由しようとて船の準備も行った。

ところが高句麗は無体にも、百済を併呑しようと考え、国境の人民をかすめとらえ、殺害して、やめようとしない。中国へ入朝する途は高句麗のために滞ってままならず、中国に忠誠をつくす美風を失わされた。船を進めようとしても、時には通じ、時には通じなかった。わたくし武の亡父済は、かたき高句麗が中国へ往来の路を妨害していることを憤り、弓矢を持つ兵士百万も正義の声をあげていたち、大挙して高句麗と戦おうとしたが、その時思いもよらず、父済と兄興を喪い、今一息で成るはずの功業も、最後の一押しがならなかっ た。父と兄の喪中は、軍隊を動かさず、そのため事を起こさず、兵を休めていたので未だ高句麗に勝っていない。

しかし、今は喪があけたので、武器をととのえ、兵士を訓練して父と兄の志を果たそうと思う。義士も勇士も、文官も武官も力を出しつくし、白刃が眼前で交叉しても、それを恐れたりはしない。もし中国の皇帝の徳をもって我らをかばい支えられるなら、この強敵高句麗を打ち破り、地方の乱れをしずめて、かつての功業に見劣りすることはないだろう。かってながら自分に、開府儀同三司を帯方郡を介して任命され、部下の諸将にもみなそれぞれ官爵を郡を介して授けていただき、よって私が中国に忠節をはげんでいる」と。

そこで順帝は詔をくだして武を、使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任命した。

「武」自身が言っています、「済」は父で、「興」は兄であると。

つまり、こういうことです。

  • 「讃」と「珍」は兄弟である。
  • 「済」の子が「興」と「武」で、「興」は兄で、「武」は弟である。

※カッコ内は、倭のそれぞれの王が宋に使者を送ったことが確実な年です。

困ったことに、前の二人(讃、珍)と後の三人(済、興、武)との間にどういう関係があるのか、宋書には書かれていません。

古事記と日本書紀によれば、その時代の日本の天皇の系図は以下の通りです。

パズルみたいになってきましたが、実はもうちょっと手がかりがあって、「済」が允恭天皇であり、「興」が安康天皇であり、「武」が雄略天皇であることは、確実視されています。

古事記と日本書紀には、允恭天皇が死んだ後に安康天皇が即位したが、その安康天皇がわずか数年で暗殺されてしまったことが記されているのです。安康天皇を暗殺したのは眉輪王で、眉輪王は雄略天皇によって殺されます。雄略天皇が驚き、怒る様子が描かれています。

「武」が、宋の皇帝に送った文書の中で、思いもよらず父の「済」と兄の「興」を失ったと述べていましたが、それと一致します。

雄略天皇は、幼武(ワカタケル)という実名を持っていましたが、この雄略天皇が、倭の五王の最後の「武」だったのです。

「済」が允恭天皇、「興」が安康天皇、「武」が雄略天皇なら、「倭の五王」の問題はすぐに解決しそうです。考えてみてください。残る「讃」と「珍」は兄弟だったと、宋書に書かれているのです。それならもう、履中天皇と反正天皇以外にありえません。「讃」は履中天皇、「珍」は反正天皇、「済」は允恭天皇、「興」は安康天皇、「武」は雄略天皇となりそうなものです。

筆者は、卑弥呼のケースと同様、中国の歴史書の記述が正確で、「讃」は履中天皇、「珍」は反正天皇、「済」は允恭天皇、「興」は安康天皇、「武」は雄略天皇である可能性は高いと考えています。しかし、多くの人はそうは考えてこなかったのです。

なぜでしょうか。

日本史上最大の前方後円墳の存在

この時代は、その象徴である巨大前方後円墳抜きに語ることはできません。なんといっても、日本史上最大の前方後円墳が作られた時代です。考古学者の白石太一郎氏によって作成された巨大前方後円墳の編年図をもう一度示します(白石2013)。

白石氏の編年図は、著しい進歩を遂げる考古学の賜物です。「倭の五王」に関する議論は古くからありますが、ここまで精度の高い編年図を手にして「倭の五王」について考えられるようになったのは、最近のことです。

最高位の者の墓と見られる最大の前方後円墳は、まず奈良盆地の三輪山の麓に作られ、箸墓古墳(はしはかこふん)→西殿塚古墳(にしとのづかこふん)→桜井茶臼山古墳(さくらいちゃうすやまこふん)→メスリ山古墳(めすりやまこふん)→行燈山古墳(あんどんやまこふん)→渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん)と続きます。その後、同じ盆地内のずっと北に位置する佐紀に現れたと思ったら、長くは続かず、奈良盆地を出て、大阪平野の河内・和泉に現れます。

河内・和泉でまず注目しなければならないのは、仲津山古墳(なかつやまこふん)です。以下は、日本で最も大きい前方後円墳10基を示したランキング表です(大阪府堺市のウェブサイトより引用、一部改変)。

仲津山古墳ができる前は、三輪山の麓に作られた渋谷向山古墳が最大でした。仲津山古墳は、墳丘長(円形部分の一番上から台形部分の一番下までの長さ)が290m、円形部分直径が170mです。渋谷向山古墳は、墳丘長が300m、円形部分直径が168mです。仲津山古墳は、渋谷向山古墳とほぼ同じサイズに作られたといってよいでしょう。

仲津山古墳の次に作られた上石津ミサンザイ古墳(かみいしづみさんざいこふん)は、墳丘長が365mで、作られた時点では、文句なしに日本史上最大です。

そのような仲津山古墳と上石津ミサンザイ古墳ですが、これまでの研究で重要視されてきたとは言い難いです。それらの後に続く誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)と大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)がもっと大きく、これらが日本史上最大だからです。

古事記と日本書紀は、上記の系図の各天皇について記述していますが、天皇によって記述量は異なります。中でも、応神天皇と仁徳天皇と雄略天皇の記述量が多いです。

雄略天皇の後は、衰退傾向が顕著です。天皇の地位をめぐる激しい殺し合いで一族が縮小してしまったこと、そして、拠り所であった宋が滅亡してしまったことが大きいです(雄略天皇が宋に使者を送ったのは478年ですが、その翌年の479年に宋は滅亡してしまいます。以後、中国への遣使は長く途絶えます)。

そのように古事記と日本書紀に大きく描かれている応神天皇と仁徳天皇を、日本史上最大の誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)と大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)に結びつけたいという心理が、研究者の間に働いています。

宮内庁は、仲津山古墳を応神天皇の皇后であった仲津姫の陵に、上石津ミサンザイ古墳を履中天皇の陵に、誉田御廟山古墳を応神天皇の陵に、大仙陵古墳を仁徳天皇の陵に治定しています。これは、だれが考えても正しくありません。応神天皇に死なれた仲津姫の陵が、応神天皇の陵よりずっと早くに来てしまうし、履中天皇の陵が、父の仁徳天皇の陵と祖父の応神天皇の陵より早くに来てしまいます。だれもが間違っていると考えるけれども、どう修正してよいのかわからず、混乱しています。

古事記と日本書紀に大きく描かれている応神天皇と仁徳天皇を、日本史上最大の誉田御廟山古墳と大仙陵古墳に結びつけたいという心理があるわけですが、これはちょっと危険です。

前述のように、仲津山古墳と上石津ミサンザイ古墳は、作られた時点では、日本史上最大(あるいは最大タイ)なのです。河内・和泉の勢力の創始者は、仲津山古墳と上石津ミサンザイ古墳の被葬者なのです。例えば、私たちにもっとなじみのある江戸幕府を考えてください。初代の徳川家康について、日本人はどれだけ語ってきたでしょうか。その後の秀忠、家光、家綱・・・について、日本人はどれだけ語ってきたでしょうか、雲泥の差があります。日本の歴史を通時的に語っている古事記と日本書紀が、河内・和泉の勢力の創始者である仲津山古墳と上石津ミサンザイ古墳の被葬者について全く書かないあるいは少ししか書かないというのは、まずありえないのです。

誉田御廟山古墳は、仲津山古墳のすぐ近くにあります。大仙陵古墳は、上石津ミサンザイ古墳のすぐ近くにあります。もし、誉田御廟山古墳が仲津山古墳と大して変わらないサイズだったら、どうなっていたでしょうか。もし、大仙陵古墳が上石津ミサンザイ古墳と大して変わらないサイズだったら、どうなっていたでしょうか。その後の前方後円墳のサイズダウンを見ても、誉田御廟山古墳と大仙陵古墳の築造があまりに重い負担であったことは明らかです。なぜ誉田御廟山古墳と大仙陵古墳をそこまで大きくしたのでしょうか。

先ほどの前方後円墳のランキング表を見てください。大仙陵古墳、誉田御廟山古墳、上石津ミサンザイ古墳の後に、なんと近畿外の造山古墳(つくりやまこふん)がランクインしています。この造山古墳は、近畿外の巨大前方後円墳なので白石氏の編年図には入っていませんが、上石津ミサンザイ古墳、誉田御廟山古墳、大仙陵古墳と同じ頃の古墳なのです。吉備は、邪馬台国の時代、いや、その前の時代から有力な地域ですが、その吉備の大首長が、河内・和泉の巨大前方後円墳に匹敵する巨大前方後円墳を見せつけてきたわけです。誉田御廟山古墳は、すぐ近くの十分に大きい仲津山古墳よりさらに大きくなり、大仙陵古墳は、すぐ近くの十分に大きい上石津ミサンザイ古墳よりさらに大きくなりましたが、誉田御廟山古墳と大仙陵古墳の無理といえるほどの巨大化には、外部からの影響もあったと思われます。

単純に、誉田御廟山古墳が仲津山古墳より明らかに大きいこと、大仙陵古墳が上石津ミサンザイ古墳より明らかに大きいことをもって、誉田御廟山古墳と大仙陵古墳を応神天皇と仁徳天皇に結びつけるのは、危険だということです。

卑弥呼は一体どんな人だったのか、日本の歴史の研究を大混乱させた幻の神功皇后の記事で、日本書紀が日本の歴史を大々的に改竄し、応神天皇が無理矢理、前の天皇に接続されていることをお話ししました。第14代天皇の仲哀天皇の死亡から第15代天皇の応神天皇の即位まで、天皇の地位が長いこと空位になっており、仲哀天皇の皇后である神功皇后がその間の70年ぐらい摂政(一般的には、最高位の者が幼かったり、病弱だったり、女性だったりする場合に、代わりに政務を執り行う者)を務め、母の神功皇后が死亡してようやく、応神天皇が即位しました(古事記は、日本書紀と違って、独立した神功皇后の巻を設けていません。古事記でも、神功皇后は仲哀天皇の皇后で、応神天皇の母であるという設定はできあがっていますが、神功皇后は日本書紀におけるほど極端な豪傑にはなっていません)。

応神天皇は、なぜこんなに無理のある話に付き合わされているのでしょうか。応神天皇が誉田御廟山古墳の被葬者であるのなら、仲津山古墳の被葬者→上石津ミサンザイ古墳の被葬者→誉田御廟山古墳の被葬者→大仙陵古墳の被葬者と続く流れの中に無理なく位置づけられるだけではないでしょうか。

応神天皇のところでなにか重大な出来事あるいは変化があったのではないかと考えたくなるところです。重大な出来事あるいは変化があったのではないかと推測されるのは、誉田御廟山古墳の前ではなく、仲津山古墳の前です。仲津山古墳のところで、箸墓古墳からずっと奈良盆地にあった最高位の者の墓が初めて奈良盆地の外に出るからです。

歴史学者の井上光貞氏が、以下の鋭い指摘をしています(井上1960)。

箸墓古墳(はしはかこふん)についてもっと詳しく、古代日本に果たして殉葬はあったのかの記事で述べたように、第10代の崇神天皇、第11代の垂仁天皇、第12代の景行天皇は、奈良盆地に実在した最高位の者そのものではないとしても、少なくともそれらの最高位の者をモデルにした天皇です。

その景行天皇のところで、他の天皇のところでは出てこない三太子伝承というものが出てきます。景行天皇には大勢の子どもがいたが、そのうちの三人、ワカタラシヒコ(のちに第13代の成務天皇)、ヤマトタケル、イオキイリヒコに、皇位継承権が与えられたという話です。

古事記と日本書紀では、第10代の崇神天皇、第11代の垂仁天皇、第12代の景行天皇に比べて、第13代の成務天皇の記述がほぼゼロであり、ワカタラシヒコに実在性はありません(成務天皇が国造と稲置という地方官を置いたことが短く記されますが、これは先代の景行天皇の記述と重複していることが指摘されてきました。景行天皇の次のこの世代に天皇はいませんでしたということにしてしまうと、話のつながりが悪くなるのでしょう)。

ヤマトタケルも、東西に展開された大規模な征服活動が美化されながら一人の人間に仮託された英雄であり、実在性がありません。

残るイオキイリヒコは、先祖のミマキイリヒコ(崇神天皇の実名)やイクメイリヒコ(垂仁天皇の実名)と同系統の名前を持ち、本物っぽいのですが、なぜか、皇位継承権を与えられた後どうなったのか、全く語られません。ワカタラシヒコとヤマトタケルと違って、全く語られないのです。

しかし、系譜上、イオキイリヒコにホムダマワカという息子がいたこと、そして、ホムダマワカに仲津姫という娘がいたことがわかっています。ホムダマワカは仲津姫を応神天皇と結婚させています。

応神天皇の皇后であった仲津姫は、素性がこの上なくはっきりしています。仲津姫は、奈良盆地に存在した最高位の者の直系子孫だったのです。

そして、イオキイリヒコ→ホムダマワカ→仲津姫という正統なラインの横に、ヤマトタケル→仲哀天皇(神功皇后と結婚)→応神天皇という怪奇的なラインが走っています。

実際の歴史は、およそ井上氏が考えているように展開したのでしょう。

井上氏が説明しているように、応神天皇の前に付けられた怪奇的なラインを消すと、上の図のようになります。

応神天皇の祖先に古い天皇はおらず、応神天皇は古い天皇の直系子孫と結婚したということです。

応神天皇は、日本で大人気の「サザエさん」にたとえれば、マスオさんのような人です(画像はサザエさん公式ホームページ(www.sazaesan.jp)より引用)。

波平さんの後にマスオさんが最高位に就くことは、古代中国では認められません。波平さんは磯野家の人間で、マスオさんはフグ田家の人間であるという見方をするからです。しかし、古代日本では、波平さんの後にマスオさんが最高位に就いても、よかったのです(なんなら、サザエさん自身が最高位に就いてもよいのです)。

古代日本の最高位の継承システムがこのようになっていたというのは、納得のいくところです。

天皇の起源はもしかして・・・倭国大乱と卑弥呼共立について考えるの記事でお話ししたように、卑弥呼の即位前にも、台与の即位前にも、大きなもめ事がありました。結局、どの男の権力者も最高位に就くことができず、象徴として少女の卑弥呼と台与を最高位に据えることしかできませんでした。殺し合いまで起きた二度の大きなもめ事を経験した男の権力者たちは、さすがに考えたし、話し合ったでしょう。しかし、卑弥呼と台与の時代の直後に、最高位がある一族の内部で継承されていくシステムが確立したとは全く考えられません。男の権力者たちがどうにかこうにか合意したのは、最高位がいくつかの氏族の間で動きうるシステムだったでしょう。少なくとも、結婚を通じて新たに皇位継承権が生じるシステムだったことは間違いなさそうです。応神天皇のケースだけでなく、その後のケースからも、そのように判断できます。この話には、後でまた戻ることにしましょう。

仲津山古墳が応神天皇の陵なら、上石津ミサンザイ古墳は仁徳天皇の陵ということになりますが、これについてはどうでしょうか。

日本書紀の仁徳天皇の巻の最後のほうに、仁徳天皇が河内(のちの和泉)の石津原にやって来て、ここに陵を築こうと決める場面があります。石津川の近くに、上石津ミサンザイ古墳があり、石津川から上石津ミサンザイ古墳を挟んでもっと離れたところに、大仙陵古墳があります。

古市古墳群の仲津山古墳→百舌鳥古墳群の上石津ミサンザイ古墳→古市古墳群の誉田御廟山古墳→百舌鳥古墳群の大仙陵古墳という動きは、多くの研究者の注目を集めてきました。白石氏の編年図でも、「ジグザグの動き」が見て取れます。意図せずにこうなったのではなく、意図してこうなったのでしょう。

仁徳天皇は自ら石津原に出向いて、ここに陵を築こうと決めたということですが、それがふさわしいのは、②の古墳ではないでしょうか。自分の頭で考えて、わざわざ①と違うところに陵を築くことを決めたのです。③の古墳は①の古墳の近くに作っただけで、④の古墳は②の古墳の近くに作っただけです。仁徳天皇の陵は、パターンを踏襲しただけの④の古墳(大仙陵古墳)より、②の古墳(上石津ミサンザイ古墳)である可能性が高いです。日本書紀の「石津原」が、石津川からどのくらい離れたところまで含むのか不明ですが、明らかに石津川の近くにあるのは上石津ミサンザイ古墳で、大仙陵古墳は結構離れています。

従来、仁徳天皇は大仙陵古墳に結びつけられてきましたが、上石津ミサンザイ古墳に結びつけても、問題はないのです。いや、そっちのほうが自然で、仲津山古墳が応神天皇の陵であることを支持するのです。

上の応神天皇の話は、古代日本の最高位の継承システムを示唆しているという点で非常に重要です(改竄された日本の歴史、なぜ古事記と日本書紀は本当のことを書かなかったのかの記事で、雄略天皇に仕えたと見られる乎獲居臣(ヲワケノオミ)という人物が、先祖の意富比垝(オホヒコ)から自分に至るまで代々天皇に仕えてきたことを誇り、先祖の名をずらずらと稲荷山鉄剣に刻ませたことをお話ししましたが、天皇に仕える者ですら、このこだわりようです。天皇自体の継承となれば、それどころではなかったでしょう)。

応神天皇の話に付随して、もう一つ見過ごせないことがあります。それは、古事記と日本書紀が、成務天皇と仲哀天皇という天皇を捏造しているということです。換言すると、実際に天皇であった者を天皇でなかったことにしているということです。古事記と日本書紀による歴史の改竄は、そこまで及んでいるのです。このことが、後で重大な意味を持ってきます。

※古事記と日本書紀によれば、景行天皇は晩年に三輪山の麓から近江(佐紀の近く)に移り、景行天皇の陵は三輪山の麓に築かれたが、次の成務天皇の陵は佐紀に築かれたことになっています。現代の高度に発達した考古学のおかげで、私たちは、古代日本の最高位の者の墓が三輪山の麓から佐紀に移り、佐紀から河内・和泉に移ったことを知りました。しかし、考古学など全く存在しない時代の古事記と日本書紀の制作者は、すでにそのことを知っていたのです。古代日本の最高位の者の墓が三輪山の麓から佐紀に移り、佐紀から河内・和泉に移る過程を詳しく記した書物があったことは間違いありません。

三輪山の麓の古墳群を研究する際には、卑弥呼と台与について記した中国の魏志(魏書)がある程度助けてくれます。河内・和泉の古墳群を研究する際には、倭の五王について記した中国の宋書がある程度助けてくれます。しかし、最高位の者の墓が佐紀古墳群に築かれた時代に関しては、いつもは頼りになる中国の歴史書の記述が存在しません。この時代は、いわゆる「空白の四世紀」にすっぽりと収まっています。中国の歴史書からは一切窺えないその時代に、成務天皇と仲哀天皇が投入されているのです。

 

参考文献

井上光貞、「日本国家の起源」、岩波書店、1960年。

白石太一郎、「古墳からみた倭国の形成と展開」、敬文舎、2013年。

藤堂明保ほか、「倭国伝 中国正史に描かれた日本 全訳注」、講談社、2010年。

関西とその周辺の地名は特に重要、漢字に騙されてはいけない!大阪(おおさか)の由来とは?

この記事は、「天(あま)」の語源は「雨(あま)」の語源よりはるかに難しかった、ミャオ・ヤオ語族と日本語の記事への補足です。同記事は、長くなり、以下の四つの補説も記しました。

  • 補説1 過去の記事の修正、aɸu(合ふ)とaɸu(会ふ)
  • 補説2 kabu(頭)とkaube(頭)
  • 補説3 kabu(頭)と関係がありそうなkabuto(かぶと)
  • 補説4 karada(体)の語源もこのパターン

それでも、重要なことを書き尽くせなかったので、ここにもう一つ記事を書くことにします。

今回の記事では、関西とその周辺の地名に注目します。

日本の古代史においてyamato(大和)と並んで重要なkaɸuti(河内)に注目したいところですが、yamato(大和)と違って、kaɸuti(河内)と聞いてもピンとこない方もいるかと思います。まず、日本の古代史を振り返っておきましょう。

前に、日本の巨大前方後円墳の第1号である箸墓古墳(はしはかこふん)と第2号である西殿塚古墳(にしとのづかこふん)が作られた当時の様子を示したことがありました(図は白石2013より引用)。

箸墓古墳は、卑弥呼の墓である可能性が高くなってきた古墳で、西殿塚古墳は、台与の墓である可能性が高くなってきた古墳です。図を見ると、瀬戸内海の東部のあたりにいた勢力が日本という国を作り始めたようだとわかります。当然、この地域で話されていた言語が、私たちの日本語のもとになったでしょう。そのような理由から、このあたりの地名に注目したいのです。

箸墓古墳、西殿塚古墳およびそれらに続く巨大前方後円墳は、奈良盆地の三輪山の麓に作られました(図は千賀2008より引用)。

日本という国が三輪山の麓から作られ始めたことがよくわかります。

箸墓古墳から始まった巨大前方後円墳の築造は、箸墓古墳→西殿塚古墳→桜井茶臼山古墳(さくらいちゃうすやまこふん)→メスリ山古墳(めすりやまこふん)→行燈山古墳(あんどんやまこふん)→渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん)と続きますが、渋谷向山古墳を最後に、この地域には作られなくなってしまいます。考古学者の白石太一郎氏が、その後の巨大前方後円墳の移動を追跡しています(図およびそれに付けられた解説は白石2013より引用)。

箸墓古墳にはじまり、六代にわたって奈良盆地東南部の〝やまと〟の地のオオヤマト古墳群に営まれた王墓は、なぜか渋谷向山古墳を最後として、それ以降は〝やまと〟の地には絶えてみられなくなる。そして四世紀後半になると、王墓と考えられる巨大古墳は奈良盆地北部の佐紀古墳群に営まれるようになる。さらに四世紀末葉以降は、そうした巨大古墳はいずれも大阪平野南部の古市古墳群と百舌鳥古墳群にみられるようになるのである。

こうした畿内における大型古墳造営の動向をまとめたものが一九〇・一九一ページの図である。この図は、畿内の大和・河内・和泉・摂津・山城の地域ごとに、大型の古墳(そのほとんどは前方後円墳であるが)の年代的位置を整理したものである。陵墓に比定されていて墳丘内部への立ち入りができない古墳をも含めて、こうした編年図の作成が可能になったのは、一九七〇年代の後半から急速に進展した円筒埴輪の編年研究が進展したおかげである。

円筒埴輪は大型前方後円墳などの墳丘上だけではなくて、濠の外の外堤上にまで立て並べられている。宮内庁管理地外の外堤上などでは比較的容易に円筒埴輪片を採集することができ、またそこで土木工事などが実施される際には、自治体などにより事前発掘調査が行われ、良好な埴輪資料がえられている。

さらに最近では、陵墓となっている古墳についても、その保存のための工事などが実施される際には、宮内庁書陵部によって事前発掘調査が実施されて遺構の保存対策が講じられるようになっており、そうした陵墓古墳の埴輪の実態が詳しく知られるようになってきている。

もちろん古墳の年代を決めるには、埴輪だけではなく墳丘や周濠の形態、埋葬施設の構造、さらに副葬品などを総合して判断しなければならない。しかし、副葬品はごく一部の古墳でしか知られていない。さらに伝世品を含む場合のある副葬品とは異なって、埴輪は古墳造営時に製作されるものであり、古墳の年代決定の材料としてきわめて有効な資料であることはいうまでもない。

※陵墓(りょうぼ)とは、皇族の墓のことです。埴輪(はにわ)とは、円筒、家、動物、人間などの形に作られた土器のことです(写真は産経新聞様のウェブサイトより引用)。

伝世品(でんせいひん)とは、製作された時代から大切に代々受け継がれてきた品のことです。

最高位の者の墓と見られる最大の前方後円墳は、奈良盆地の三輪山の麓に作られなくなった後、同じ盆地内のずっと北に位置する佐紀に現れますが、長くは続かず、奈良盆地を出て、西の大阪平野の河内・和泉に現れます。

よくニュースなどに出てくるのは、河内の誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)(いわゆる「応神天皇陵」)と和泉の大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)(いわゆる「仁徳天皇陵」)です。

日本の古代史に興味を持っている人は、「倭の五王」のことも聞いたことがあるでしょう。中国の歴史書は、日本との接触も記録しており、貴重な資料になっています。中国の歴史書のうちの宋書に、421~478年の期間(上記の誉田御廟山古墳や大仙陵古墳と重なる時期)に倭の五人の王が接触してきたことが記されています。しかし、その五人の王は「讃、珍、済、興、武」と記されているため、それぞれの王が古事記と日本書紀に書かれているどの天皇に対応するのか、議論が繰り広げられてきました。

※興味深いことに、倭の五王の最後の「武」が宋の皇帝に送った文書が、宋書に公開されています。古代日本の最高位の者の生の声です(現代日本語訳は藤堂2010から引用)。

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順帝の昇明二年(四七八年)に、倭王武は使者を遣わして上表文をたてまつって言った。

「わが国は遠く辺地にあって、中国の藩屏となっている。昔からわが祖先は自らよろいかぶとを身に着け、山野をこえ川を渡って歩きまわり、落ち着くひまもなかった。東方では毛人の五十五ヵ国を征服し、西方では衆夷の六十六ヵ国を服属させ、海を渡っては北の九十五ヵ国を平定した。皇帝の徳はゆきわたり、領土は遠くひろがった。代々中国をあがめて入朝するのに、毎年時節をはずしたことがない。わたくし武は、愚か者ではあるが、ありがたくも先祖の業をつぎ、自分の統治下にある人々を率いはげまして中国の天子をあがめ従おうとし、道は百済を経由しようとて船の準備も行った。

ところが高句麗は無体にも、百済を併呑しようと考え、国境の人民をかすめとらえ、殺害して、やめようとしない。中国へ入朝する途は高句麗のために滞ってままならず、中国に忠誠をつくす美風を失わされた。船を進めようとしても、時には通じ、時には通じなかった。わたくし武の亡父済は、かたき高句麗が中国へ往来の路を妨害していることを憤り、弓矢を持つ兵士百万も正義の声をあげていたち、大挙して高句麗と戦おうとしたが、その時思いもよらず、父済と兄興を喪い、今一息で成るはずの功業も、最後の一押しがならなかっ た。父と兄の喪中は、軍隊を動かさず、そのため事を起こさず、兵を休めていたので未だ高句麗に勝っていない。

しかし、今は喪があけたので、武器をととのえ、兵士を訓練して父と兄の志を果たそうと思う。義士も勇士も、文官も武官も力を出しつくし、白刃が眼前で交叉しても、それを恐れたりはしない。もし中国の皇帝の徳をもって我らをかばい支えられるなら、この強敵高句麗を打ち破り、地方の乱れをしずめて、かつての功業に見劣りすることはないだろう。かってながら自分に、開府儀同三司を帯方郡を介して任命され、部下の諸将にもみなそれぞれ官爵を郡を介して授けていただき、よって私が中国に忠節をはげんでいる」と。

そこで順帝は詔をくだして武を、使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任命した。

なかなか生々しい記述です。「武」は、武力で多数の人間集団を次々に征服しながら、日本という国を作っていったことをストレートに語っています。日本列島のみならず、朝鮮半島にも進出していました。

ちなみに、古事記と日本書紀は、宋書の「倭の五王」の話に触れたがりません。だから、「倭の五王」はだれなのかという議論が混乱してきたのです。宋書の「倭の五王」の話は、倭の歴代の王が中国の皇帝に従属し、位を授けられている話です。卑弥呼も、中国の皇帝から倭王として認定を受けていましたが、この姿勢は、倭の五王の時代になっても一貫しています。中国の文明・文化を取り入れたいと切実に願いながら、北九州の勢力に邪魔されて取り入れられなかった本州・四国の一群の勢力が組んだ連合が、日本という国の原型ですから、当然です。しかし、古事記と日本書紀は、天から降りてきた神の子孫である天皇が日本を統治してきたという話をしているため、宋書の「倭の五王」の話を取り込むわけにはいかなかったと見られます。なにしろ、古代日本の象徴といえる最大級の前方後円墳が作られていた時代の話なのです。

「武」が語っているように、東西へ大規模な征服活動が展開されたのは歴史的事実であり、この出来事に様々な脚色を施して物語化したのが、ヤマトタケルの話だったのでしょう。かつて津田左右吉氏が指摘した通りです。概していうと、こういう英雄の説話は、その基礎にはよし多人数の力によって行われた大きい歴史的事件があるにしても、その事件をそのままに一人の行為として語るのではなく、事件に基づきながら、それから離れて何らかの構想を一人の英雄の行動に託してつくるのが普通である(津田2020)。

征服が行われる少し前には日本列島でも様々な言語が話されていたんだろうなと思いながら、本記事の続きを読んでいただければと思います。

いずれにせよ、日本の古代史において、河内は大和と並んで重要な場所でした。大和、山城、河内、和泉、摂津は、まとめて「五畿」と呼ばれ、日本の中心でした(「畿」は君主が直接支配する土地を意味します。和泉は、もともと河内の一部でしたが、奈良時代に分離されました。地図はWikipedia(Bcxfu75k様)より引用)。

ここから、本格的な地名の話に入ります。

先に結論を言ってしまうと、日本の地名は、「陸地、土地、場所」を意味していた語(つまり、英語のlandやplaceのような語)が地名になったケースが多いです。これは実に自然な展開ですが、日本では、地名を漢字で書き表していたため、とんでもない誤解を生んできました。

「河内」の読み方ですが、奈良時代には、kaɸutiと呼ばれていました。

三省堂時代別国語大辞典上代編(上代語辞典編修委員会1967)は、kaɸuti(河内)を「川の岸にひらけた盆地。川の流域の平坦地。」と説明した後、「カハ=ウチの約」と記しています。これは、漢字表記に惑わされた誤解のようです。

kaɸuti(河内)のある大阪平野の向かいに、大きな島があります。ここが、aɸadi(淡路)です。そして、aɸadi(淡路)から四国に渡ると、aɸa(阿波)です。

日本語にkoti(こち)やati(あち)という語があったことから、以下のような構図があったと考えられます。

さらに、上記の補説1~4と照らし合わせると、以下のようになっていたと考えられます。

「水」を意味するapaのような語が、「陸地」を意味するようになったのが、aɸa(阿波)である、

「水」を意味するapaのような語が、「横の部分」を意味するtiとくっついて「陸地」を意味するようになったのが、aɸadi(淡路)である、

「水」を意味するkapuのような語が、「横の部分」を意味するtiとくっついて「陸地」を意味するようになったのが、kaɸuti(河内)である

ということです。

「水」を意味したkapuのような語は、「水」を意味したkapaのような語の異形で、gabunomi(がぶ飲み)/gabugabu(がぶがぶ)からその存在が窺えます。

aɸa(阿波)も、aɸadi(淡路)も、kaɸuti(河内)も、「陸地」を意味していた語であるということです。

淡路島の北端の近くに神戸がありますが、神戸もそうです。「神戸」という字をあてたことを考慮すると、もともとの形はkamube*(神戸)であったと推測されます。kamube*(神戸)が、一方ではkaube(神戸)→koube(神戸)に、他方ではkanbe(神戸)に変化したと見られます。「水」を意味するkamuのような語と「横の部分」を意味するɸe(辺、端)がくっついて「陸地」を意味するようになったのが、kamube*(神戸)であるということです。

「水」を意味する語がkapu(またはkaɸu)~kabu~kamuのように発音変化していたことが窺えます(m~b~p(またはɸ)の間は非常に発音変化しやすいので、これは自然です)。

「水」を意味する語が「陸地」を意味するようになり、そこからさらに「上」または「表面」を意味するようになる過程は、「天(あま)」の語源は「雨(あま)」の語源よりはるかに難しかった、ミャオ・ヤオ語族と日本語の記事で詳しく説明したので、そちらを参照してください。

「水」を意味するkapu(またはkaɸu)~kabu~kamuのような語は、そのままの形でkabu(頭)やkamu*(神)になりました(kami(上)の語源も同じところにあるでしょう)。

「水」を意味するkapu(またはkaɸu)~kabu~kamuのような語は、「横の部分」を意味する語とくっついて、kaɸube*(頭)、kaɸuti(河内)、kamube*(神戸)などになりました。

地名が混じると異様に感じられるかもしれませんが、kaɸuti(河内)とkamube*(神戸)も「陸地」を意味する普通の名詞だったのです。

settu(摂津)という地名もそうです。

本州と四国の間の水域は、setonaikai(瀬戸内海)と呼ばれていますが、naikai(内海)は明らかに漢語なので、問題はseto(瀬戸)です。「瀬戸」は当て字で、かつては「狭門」と書かれていたと説明されることがありますが、「狭門」も当て字です。setogiɸa(瀬戸際)という語があったことから、seto(瀬戸)はもともと「水」を意味していたと考えられます。

tuは、「横の部分」を意味していた語で、奈良時代の日本語では、船が発着する場所を意味するtu(津)として現われています。settu(摂津)も、「水」を意味するsetoと「横の部分」を意味するtuがくっついて「陸地」を意味するようになり、このsetotu*が短縮したものと考えられます。

konata(こなた)やkanata(かなた)から、「(水の)横の部分」を意味したta*の存在が窺え、koti(こち)やati(あち)から、「(水の)横の部分」を意味したti*の存在が窺え、船の発着場所を意味したtu(津)から、「(水の)横の部分」を意味したtu*の存在が窺えます。

同じように、奈良時代の日本語で「場所」を意味したto(処)から、「(水の)横の部分」を意味したto*の存在が窺えます(奈良時代の日本語には、to(外)という語もありましたが、三省堂時代別国語大辞典上代編(上代語辞典編修委員会1967)は「ウチの対。主として建物の外をいう。」と説明しており、「土地」を意味する語であったと考えられます)。以下のようになっていたと考えられます。

「水」を意味するmiと「横の部分」を意味するto*が(連体助詞のnaを介して)くっついたのが、minato(港)で、「水」を意味するkapuのような語と「横の部分」を意味するto*がくっついたのが、kabutoです。kabutoは、当初は「陸地」を意味していたはずですが、そこから、「上」、「頭」、「かぶり物」を意味するようになりました(kabu(頭)とkaɸube*(頭)と同様の変化です)。

yamato(大和)は、すでにお話ししたように、「山」を意味するyamaと「横の部分」を意味するto*がくっついた語で、「山際」という意味でした。「横の部分」を意味するto*が、甲類と乙類の間で揺れていたこともお話ししました。

今回の記事では詳しく取り上げませんが、近畿から瀬戸内海を西に進んでいくと、重要な地名が目白押しです。例えば、終点の山口県には、ube(宇部)、simonoseki(下関)、nagato(長門)などの地名があります。

「水」を意味し、「陸地」を意味するようになったuɸa/uɸeのような語があったらしい、「水」を意味するnagaのような語(nagaru(流る)/nagasu(流す)からその存在が窺えます)と「横の部分」を意味するtoのような語がくっついて、「陸地」を意味するようになったらしいといったことがわかります。

simonoseki(下関)は、船舶を取り締まる関所が設置され、都に近いほうからkaminoseki(上関)、nakanoseki(中関)、simonoseki(下関)と呼ばれていたのが由来ですが、そのsimonoseki(下関)には、海の幸が並ぶ下関の台所「唐戸市場」があります。このkarato(唐戸)という地名も、「水」を意味するkaraのような語と「横の部分」を意味するtoのような語がくっついて「陸地」を意味するようになったことを思わせます(siɸo(潮)とsiɸo (塩)の例を考えると、「水」を意味していたkaraのような語は、「水」を意味できなくなり、「海水」と「塩」を意味しようとしたが失敗し、karasi(辛し)になったのでしょう。実際、奈良時代の日本人は、塩のことをkarasi(辛し)と言っていました)。

今回の記事を併せて読んでいただければ、上記の補説1~4は完全に理解できると思います。

漢字に騙されてはいけない!

日本人は独自の文字を持っていなかったので、日本の地名を漢字で書き表すしかありませんでした(改竄された日本の歴史、なぜ古事記と日本書紀は本当のことを書かなかったのかの記事でお話ししたように、卑弥呼がいた200~250年頃には、すでに漢字を使っていました。ひらがなとカタカナが作られたのは794年から始まる平安時代ですから、かなり長い間、漢字だけでやっていたわけです)。これは、仕方のないことです。

しかし、地名を分析する時には、大いに注意が必要です。今回の記事からわかるように、漢字は全く当てになりません。このことをしっかり認識できず、日本では無茶苦茶な地名解釈が行われてきました。特に、ある一つの地名を見てその由来を考えるのは無理があり、周辺の地名と併せながら考える必要があるでしょう。

漢字は全く当てにならないということがしっかり認識できていれば、地名は依然として非常に重要な資料です。言語の語彙からはわからないことを、地名が教えてくれることもあります。

日本語の歴史を考えるうえで、関西とその周辺の地名は特に重要です。しかし、その他の地域の地名も捨てたものではありません。日本語はどこから来たのかという問題だけでなく、縄文時代の日本列島でどのような言語が話されていたのかという問題、あるいは、弥生時代に日本語以外にどのような言語が日本列島に入って来たのかという問題も、興味深いのではないでしょうか。有力な民族が中央とその周辺を占め、少数民族が僻地に追い込まれるのは、人類の歴史の典型的なパターンです。中央から遠く離れた地方の地名が、貴重な情報を与えてくれるかもしれません。

※ミャオ・ヤオ語族で「水」を意味したam、an、aŋ、um、un、uŋ、om、on、oŋのような語は、日本語に大量に入り、am-、um-、om-のような形だけでなく、ab-、ap-、aɸ-、aw-、ub-、up-、uɸ-、uw-、ob-、op-、oɸ-、ow-のような形でも日本語に残りました。日本の地名を調べても、ミャオ・ヤオ語族の言語が日本列島に入って来ていた可能性が極めて高くなってきました。しかし、それだけではとても済まなそうです。

 

特別付録

大阪(おおさか)の由来とは?

kaɸuti(河内)は昔の地名です。今のōsaka(大阪)の由来も気になるでしょう。

「大阪」は、「大坂」または「小坂」と書かれていました。oɸosakaのように発音されたり、osakaのように発音されたりしていたと見られます。

地名は、やはり周辺の地名と併せながら考えるべきです。

大阪府の大阪市(おおさかし)と兵庫県の尼崎市(あまがさきし)の境に、淀川の大きな分流である神崎川(かんざきがわ)が流れています。神崎川という名称は、尼崎市側の神崎(かんざき)という地名から来ています。

amagasaki(尼崎)とkanzaki(神崎)という地名は、怪しさ満点です。神戸の場合と同様で、kanzaki(神崎)の古形はkamusaki*(神崎)と見られます。「水」を意味するamaのような語と「横の部分」を意味するsakiのような語がくっついたのが、amagasaki(尼崎)で、「水」を意味するkamuのような語と「横の部分」を意味するsakiのような語がくっついたのが、kamusaki*(神崎)でしょう。水と隣接する陸の端という点では、misaki(岬)もamagasaki(尼崎)とkamusaki*(神崎)と同じです。

日本語のsaka*(酒)から、「水」を意味するsakaのような語があったことが窺えます。

「水」を意味するsakaのような語は、「水と陸の境界」を意味するようにもなったし、「陸地」を意味するようにもなりました。前者が、奈良時代の日本語のsaka(境)で、後者が奈良時代の日本語のsaka(坂)です。

「水」を意味していた語が横の「陸地」を意味するようになるのは超頻出パターンで、平らな陸地を意味するようになることが多いです。しかし、昔の人々は、増水時の被害を防ぐために、横の「陸地」を盛り上げることがあり(つまり、土手、堤、堤防)、盛り上がった陸地を意味するようになることも少なくありません。

「水」を意味していたsakaのような語および異形のsakiのような語も、「陸地」を意味するようになり、平らな陸地を意味したり、盛り上がった陸地を意味したりしていたと考えられます。

sakaのような語は、「山」を意味しようとしたことがあったと思われます。その名残が、sakaru(盛る)やsakayu(栄ゆ)です。

sakiのような語も、「山」を意味しようとしたことがあったと思われます。その名残が、sakaru(盛る)やsakayu(栄ゆ)と似た意味を持っていたsaki(幸)/sakiɸaɸu(幸ふ)です(sakiɸaɸu(幸ふ)の連用形のsakiɸaɸiが変化して、現代のsaiwai(幸い)になりました)。

oɸosaka*/osaka*(大坂、小坂)のoɸo/oの部分は「水」を意味し、sakaの部分は「横の部分」を意味していた可能性が濃厚です(midu(水)とmi(水)という形があったように、oɸoとoという形があったのでしょう)。

奈良時代の日本語で、溺れることをoboru(溺る)と言ったり、oboɸoru(溺る)と言ったりしていたからです。oboɸoは、oboかoɸoを重ねたものでしょう。明らかに、「水」を意味するoɸoのような語があったことを示しています。

尼崎市と大阪市が接する近くにも、「淡路」という地名があるので、この一帯で、「水」のことをama/aba/aɸaのように言ったり、omo/obo/oɸoのように言ったりしていたのでしょう(奈良時代の日本語のomo(面)は、omote(面)という形とともに、「表面」を意味したり、「顔」を意味したりしていました。「水」を意味していた語が「陸地」を意味するようになり、「陸地」を意味していた語が「表面」を意味するようになるパターンでしょう。「表面」と「上」という意味から、「顔」を意味しやすいのかもしれません。kaɸo(顔)という語もそうです。「水」→「陸地」→「表面」と意味変化したのがkaɸa(皮)で、「水」→「陸地」→「上」と意味変化したのがkaɸu*(頭)でしたが、kaɸo(顔)もこれらと同源であることは間違いないでしょう)。

ōsaka(大阪)も、「水」を意味したoɸoのような語と「横の部分」を意味したsakaのような語から来ているということです。

このパターンは非常に多いです。

ōsaka(大阪)の南は、wakayama(和歌山)で、wokayama(岡山)と呼ばれていたこともありました。これはとても縄文っぽいです。アイヌ語のwakka(水)のような語と横の「陸地」を意味したyamaのような語がくっついたと見られます。

nara(奈良)は、朝鮮語のnara(国)と同様に、「陸地」を意味していた語でしょう(日本のあちこちにnarahara(奈良原)という地名が見られるので、naraはもともと「水」を意味していたと考えられます)。

本ブログでおなじみの図も健在です。

言うまでもなく、ここから来ているのがnarabu(並ぶ)です。

それよりずっと複雑なのが、naruとnaraɸuという動詞です。

上の図のnara(あるいは変化したnare)は、一方では「親しいこと」、他方では「同じであること」を意味するようになったようです。

こうして、「親しくなること」を意味するnaru(馴る、慣る)/naraɸu(馴らふ、慣らふ)と、「同じになること」を意味するnaraɸu(倣ふ)が生まれます。

そして、このnaraɸu(馴らふ、慣らふ)とnaraɸu(倣ふ)の中間的な存在として生まれてきたのが、naraɸu(習ふ)のようです。つまり、naraɸu(習ふ)は、naraɸu(馴らふ、慣らふ)とnaraɸu(倣ふ)の意味を併せ持っているということです。

naraɸu(習ふ)に関しては筆者も悩まされましたが、上のような複雑な経緯があるようです。

ちなみに、naru(馴る、慣る)は、tuku(付く)と結合してnaretuku(馴れ付く、慣れ付く)になり、短縮形のnatuku(懐く)も生まれました。natukasi(懐かし)という形容詞も生まれます。

平らにすることを意味するnarasu(均す)は、説明するまでもないでしょう。

mie(三重)は、間違いなく、mi(水)とɸe(辺、端)がくっついたものです。

ōsaka(大阪)、wakayama(和歌山)、nara(奈良)、mie(三重)と見ましたが、やはり明らかにパターンがあります。

私たちの名字(苗字)も、このパターンが結構多いのではないかという気がしないでしょうか。

 

参考文献

上代語辞典編修委員会、「時代別国語大辞典 上代編」、三省堂、1967年。

白石太一郎、「古墳からみた倭国の形成と展開」、敬文舎、2013年。

千賀久、「ヤマトの王墓 桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳」、新泉社、2008年。

津田左右吉、「古事記及び日本書紀の研究 完全版」、毎日ワンズ、2020年。

藤堂明保ほか、「倭国伝 中国正史に描かれた日本 全訳注」、講談社、2010年。