東アジアの農耕の起源、とても時間がかかる革命、二つの重要な概念

前回の記事では、農耕が広がるとともに言語が広がっていくと考える「農耕/言語拡散仮説」が危うくなってきたという話をしました。この仮説が思い描く場面もあったにちがいありませんが、「農耕/言語拡散仮説」だけで人類の歴史の大部分を説明しようとするのは無理があるようです。

本ブログの読者は、筆者がよく「タイ系の言語は謎めいている」と言うのを耳にしているでしょう。筆者がタイ系の言語がなんなのか理解できなかったのも、実は「農耕/言語拡散仮説」にとらわれていたのが主な原因です。

皆さんも、東アジア(中国)の北部でアワとキビの栽培が始まり、東アジア(中国)の南部でイネの栽培が始まったという話を聞いたことがあるでしょう。筆者がまず考えたのは、アワとキビの栽培を始めたのはシナ・チベット語族の話者だとして、イネの栽培を始めたのはだれだろうという問題でした。

当然、中国南部からインドシナ半島へ広がっているタイ系言語(タイ・カダイ語族)とベトナム系言語(オーストロアジア語族)に目が向きました。

※インドシナ半島は、ベトナム、カンボジア、タイ、ラオス、ミャンマー、マレーシアが集まっているところです。

タイ系言語とベトナム系言語を調べると、明らかな違いがあります。ベトナム系の言語が互いに大きく異なっていて、歴史の深さを感じさせるのに対し、タイ系の言語は互いによく似ていて、歴史の深さを感じさせません。ちなみに、ベトナム系の言語は、インドシナ半島にとどまらず、インドの内部にまで広がっています。ベトナム系の言語は南方で古い歴史を持っているが、タイ系の言語は少なくとも南方では古い歴史を持っていないのではないかと思われました。

ここから筆者は、東アジア北部でアワとキビの栽培を始め、それを広めたのはシナ・チベット語族の話者で、東アジア南部でイネの栽培を始め、それを広めたのはベトナム系言語の話者であるという考えに至りました。今思えば、極端に単純な思考ですが、「農耕/言語拡散仮説」を信じていると、こうなってしまうのです。東アジア北部でアワとキビの栽培を始め、それを広めたシナ・チベット語族の話者の言語が残るのはわかるし、東アジア南部でイネの栽培を始め、それを広めたベトナム系言語の話者の言語が残るのもわかるが、タイ系言語が残ったのはなぜかという問題が生じました。

筆者は、タイ系言語の話者は、アワとキビの栽培を始めたわけでも、イネの栽培を始めたわけでもないが、なにか「特別な理由」があって、タイ系言語の話者の言語が残ったのだろうと考えました。こうして、筆者の中で、タイ系言語は謎めいた存在になりました。

日本語の中に、nama(生)(焼いたり、干したりしておらず、水っぽいという意味です)、nami(波)、namida(涙)、numa(沼)、nomu(飲む)などの語をはじめとして、タイ系言語から入ったと考えられる語彙が続々と見つかり、タイ系言語はますます謎めいた存在になってきました(ちなみに、タイ語の「水」はnaam、「目」はtaa、「涙」はnaam taaです。日本語では修飾語は前に来ますが、タイ語では修飾語はうしろに来ます)。

タイ系言語の語彙が日本語にたくさん入っているのも驚きでしたが、ツングース諸語のエヴェンキ語lāmu(海)、ウデヘ語namu(海)、ナナイ語namo(海)、ウイルタ語namu(海)、満州語namu(海)やモンゴル語のnamag(沼)のような語があるのも驚きでした。やはり、タイ系言語は、当初の推測通り、南方ではあまり古い歴史を持っておらず、北東のほうから移動してきたのではないかという感触が強まってきました。

タイ系言語が謎めいた存在になるのとともに、もう一つの言語群が謎めいた存在になってきました。

それは、オーストロネシア語族です。オーストロネシア語族については、台湾とオーストロネシア語族の記事で紹介しました。オーストロネシア語族は、台湾から南方へ広く拡散した言語群で、フィリピン、インドネシア、マレーシア、オセアニアの多くの言語がここに含まれます。

問題は、そのおおもとの台湾の言語がどこから来たのかという点です。台湾とオーストロネシア語族の記事でお話ししたように、5000年ほど前から見られ始める台湾の初期の農耕がイネよりむしろアワ・キビを盛んに栽培していたことが明らかになり、台湾の言語の起源(つまりオーストロネシア語族の起源)を論じる際には、台湾の向かいの福建省のあたりに目を向けるだけでは不十分で、もっともっと北へ目を向けなければならなくなってきました。

以下は、現代の中国の地図です(中国国家観光局駐大阪代表処のウェブサイトより引用)。

上に述べたように、タイ系言語は、今では中国南部からインドシナ半島へ広がっていますが、かつては北東のほうに存在し、日本語、ツングース系言語、モンゴル系言語などに語彙を提供できる位置にあったと見られます。前回の記事で、山東半島からその北の遼東半島にイネなどを伝える人の流れがあったとお話ししましたが、仮にタイ系言語の話者が山東省のあたりにいたとすると、タイ系言語の語彙が日本語、ツングース諸語、モンゴル語に入っていることがすんなり納得できます。黄河下流域には、黄河文明の最初期から、後李文化 (こうりぶんか)→北辛文化 (ほくしんぶんか)→大汶口文化 (だいぶんこうぶんか)→山東龍山文化 (さんとうりゅうざんぶんか)→岳石文化 (がくせきぶんか)という文化の系譜がありましたが、これらの文化がシナ・チベット語族の話者の文化ではなかった可能性が出てくるのです。この可能性については、後で詳しく論じますが、そうだとすれば、黄河流域は上流から下流までシナ・チベット語族一色の世界ではなかったことになります。

上のようなタイ系言語の話に加えて、オーストロネシア語族の話が出てきているのです。オーストロネシア語族は北から福建省のあたりにやって来て、福建省のあたりから台湾に渡ったのではないかという話です。この説を提唱しているL. Sagart氏らは、学際的研究(複数の異なる分野にまたがる研究。「国際」の「際」と同じで、「学際」の「際」は間(あいだ)を意味しています)に基づいて、オーストロネシア語族は山東省のあたりからやって来たのではないかと考えています(Sagart 2018)。Sagart氏らは、別の研究でシナ・チベット語族の原郷も推定しており、山東省に隣接する河北省のあたりで栄えた磁山文化(じさんぶんか)が怪しいとにらんでいます(Sagart 2019)。

どうやら、シナ・チベット語族の原郷、タイ系言語の原郷、オーストロネシア語族の原郷は、互いに近そうです。重要なのは、シナ・チベット語族の言語と、タイ系言語と、オーストロネシア語族の言語が近くで話されていたとしても、それらの言語の間に近い系統関係は認められないということです(黄河文明の始まりまで遡ったところで結びついてしまうような近い系統関係はないということです)。

なにが言いたいかというと、アワとキビがいくつかの異なる語族の話者によって栽培されていたということです。近くでアワとキビを栽培している人たちがいる、自分もアワとキビを栽培してみたい、しかしそのためには、自分の言語を捨てて、その人たちの言語に乗り換えなければならない、必ずしもそんなことは起きていないということです。アワとキビの栽培に関連する用語を自分の言語に取り入れることはありえますが、それと自分の言語を捨てることは全然違うことです。

なぜ農耕の広がりと言語の広がり(ある種の用語の広がりではありません)を同一視する考えが生まれてきたかというと、農耕が始まったことによって人間世界が大きく変わったから、つまり農耕が人間世界に与えた影響の大きさがその理由でしょう。農耕の始まりを革命と捉えるのもわからなくはありません。しかし、従来「農耕の始まり」あるいは「農耕の起源」という一言で済まされてきた局面は、細かく分解して考える必要があります。

「農耕の起源」とはなんなのか

約2万年前の最終氷期最盛期(Last Glacial Maximum)の頃の黄河中流域を調べたL. Liu氏らの貴重な考古学研究があります(Liu 2013)。黄河文明が始まるよりはるかに前の人々が、ムギ類、キビ類、マメ類、イモ類、ウリ類を含む様々な植物を探し求め、食用にしていたことが明らかにされています。当たり前といえば当たり前ですが、黄河文明が始まるよりはるかに前の人々も、植物を食べていたのです。まず、以下のことを大前提として押さえなければなりません。

人類は、農耕が始まる前も植物を食べていたし、農耕が始まった後も植物を食べている。

では、なにが変わったのでしょうか。以下の点が変わったのです。

(旧) 自然のままの環境下・条件下で生育している植物を食べていた。
(新) 人間が選んだあるいは作った環境下・条件下で生育している植物を食べている。

なぜ旧方式から新方式に変わったのでしょうか。それは、最初に旧方式の代わりに新方式を採用した人たちにとって、旧方式より新方式のほうがなにかしら都合がよかったからでしょう。旧方式より新方式のほうが都合が悪いのに、わざわざその新方式を選んでそれを続ける理由はないでしょう。具体的には、新方式のほうに、自分たちが欲する植物がより確実に/安定して得られる、より多く得られる、より少ない労力で得られるなどの利点があったと思われます。

新方式に見られる「植物を人間が選んだあるいは作った環境下・条件下で生育させる」という行為を、ここでは「栽培」と呼ぶことにします。旧方式の代わりに新方式を採用したことで生じる直接的効果は、自分たちが欲する植物がより確実に/安定して得られる、より多く得られる、より少ない労力で得られるなどにとどまります。最初に旧方式の代わりに新方式を採用した人たちの集団はとても小さかったでしょう。この段階の考察を大切にしたいのです。従来のように、いきなり狩猟採集社会から農耕社会へという社会の変化について論じるのではなく、まずは人間の一つ一つの小さな行為に目を向けようというのが、筆者のスタンスです。「農耕」あるいは「農業」という言葉は、組織的、体系的、大規模な行動を含意しがちで、人間社会への甚大な影響までも含意しがちです。ここでは、人間が旧方式から新方式へ踏み出すその最初の一歩に特に焦点を当てたいので、「栽培」という言葉を用います。

考古学には、CultivationとDomesticationという二つの重要な概念があります。少し理屈っぽい話になりますが、人間が旧方式から新方式に足を踏み出す局面を考えるうえで非常に重要なので、CultivationとDomesticationについて説明します。

まず、自然のままの環境下・条件下で、ある植物が生育しているところを考えてください。青い丸はその植物の集団です。

図1

次に、その植物の集団の一部を、人間が選んだあるいは作った環境下・条件下で生育させるようにします。この行為がCultivationです。つまり先ほど説明した「栽培」です。

図2

この図の右側では、試みが成功し、欲する植物がより確実に/安定して得られる、あるいはより多く得られるようになっているかもしれません。しかしそれでも、左側の植物と右側の植物は同じ植物なのです。話はここで終わりません。

図3

長い年月が過ぎると、人間が選んだあるいは作った環境下・条件下で生育している植物は、自然のままの環境下・条件下で生息している植物と生物学的(遺伝学的)に異なる植物になるのです。左側の植物は「野生種」と呼ばれ、右側の植物は「栽培種」と呼ばれます。このようにして、「野生種」と生物学的(遺伝学的)に異なる「栽培種」が生まれることを、Domesticationと言います。日本語では「栽培化」と訳していますが、ちょっとわかりにくいかもしれません。「野生種」と生物学的(遺伝学的)に異なる「栽培種」が生まれること、あるいは「野生種」と生物学的(遺伝学的)に異なる「栽培種」を生み出すことを意味します。

なぜ「野生種」と生物学的(遺伝学的)に異なる「栽培種」が生まれるのでしょうか。もちろん、「人間が選んだあるいは作った環境下・条件下」という新しい環境下・条件下に置かれたことによって、植物が新しい反応・変化を見せやすくなるのが一因です。そこへ、人間の意向が加わります。新しい反応・変化が人間にとって好ましいと、人間はその反応・変化を示している個体を積極的に残していくのです(人間の場合には「個人」と言いますが、植物の場合には「個体」と言います)。この人間の選択行為が、「栽培種」の誕生に大きく貢献しています。

上の図2から図3のところは、説明の都合上、単純に描いてあります。図2から図3への変化は、実際には少しずつ進みます。図2は、人間が栽培行為を開始したところですが、栽培行為を開始したからといって、すぐに植物が新しい反応・変化を見せるわけではありません。さらに、植物集団中のある個体が新しい反応・変化を見せても、それが植物集団全体を覆うまでには長い年月がかかります。図2から図3に至るまでの過程は結構長い過程なのです。これは、人類の歴史を考えるうえで重要なポイントです。

図2から図3に至るまでの過程が長い過程であるということを頭に入れて、考えてみてください。考古学調査で栽培種が発見されれば、栽培が行われていたのだなとわかります。しかし、その時代に栽培が行われていたことはわかりますが、いつから栽培が行われていたかはわからないのです。その時代というのは、栽培開始よりかなり後の時代かもしれません。栽培開始の時点まで遡ろうとすればするほど、野生種と栽培種の区別はないのです。人間がいつ栽培行為を開始したのかという問題は、現在でもぼんやりしています。

D. J. Cohen氏は、ぼんやりしている12500~9000年前(遼河文明、黄河文明、長江文明が始まる前にあたります)が重大な時期であり、東アジア(中国)の北部で始まったアワとキビの栽培と東アジア(中国)の南部で始まったイネの栽培は無関係でないと考えています(Cohen 2011)。筆者も同様の考えです。以下の図は、遼河文明、黄河文明、長江文明の初期の頃の主な文化を示しています(Cohen 2011より引用)。

※Xinglongwa—興隆窪文化 (こうりゅうわぶんか)、Houli—後李文化 (こうりぶんか)、Cishan—磁山文化 (じさんぶんか)、Peiligang—裴李崗文化 (はいりこうぶんか)、Dadiwan—大地湾文化 (だいちわんぶんか)、Shangshan—上山文化 (じょうざんぶんか)、Pengtoushan—彭頭山文化 (ほうとうざんぶんか)

「東アジア(中国)の北部でアワとキビの栽培が始まり、東アジア(中国)の南部でイネの栽培が始まった」とさらっと言われると、二つの別々の出来事があったように感じられますが、そうとは限りません。中国北部の山東省のあたりでイネが本格的に栽培されるようになるのは山東龍山文化の時代(4600~3900年前頃)からですが、後李文化の時代(8500~7500年前頃)でもイネがわずかに見つかっています(Crawford 2006、Jin 2014、Guedes 2015)。気温が低いために、イネの栽培はあまりうまくいかなかったようです(Guedes 2015)。しかし、イネの存在に目を向けることはあったのです。

C. Wang氏らが、遼河文明、黄河文明、長江文明が始まる前から中国北部と中国南部の人々がどのような植物を食用にしてきたか研究していますが、それらの文明が始まる前の5000年間ぐらいを見ても、中国北部でアワとキビが主要な地位にあり、中国南部でイネが主要な地位にあったようには見えません(Wang 2016)。様々な植物が食用にされる中で、アワ、キビ、イネの地位は高くなく、ナッツ類(ドングリ、クルミなど)や果物類などへの関心のほうが断然高いです。やや意外ですが、特に中国北部ではムギ類もある程度の地位を持っていました(Liu 2013、Wang 2016)。そんなアワ、キビ、イネが、遼河文明、黄河文明、長江文明が始まるあたりから、ぐんぐん地位を上げ、主要な地位につくのです(細かく見ると、遼河文明と黄河文明の最初期には、アワは目立たず、キビが目立ちます(Lu 2009))。

中国北部のアワとキビ、中国南部のイネというふうに対比されることが多いですが、アワ、キビ、イネは、様々な植物がある中で、イネ科の植物として互いによく似ています。人間がその種子(日常語で言えば種(たね))を食べている点も共通しています。もともと地位が高くなかったのに、遼河文明、黄河文明、長江文明が始まるあたりから大人気を博す点も同じです。どこかでイネ科の植物(イネ科の植物のどれとは厳しく限定せず)の種子を盛んに食べる習慣ができ、その習慣が広まったと考えるのが自然でしょう。中国北部と中国南部の気候の違いにより、中国北部では試行錯誤の末にイネ科のアワとキビに落ち着き、中国南部では試行錯誤の末にイネ科のイネに落ち着いたにすぎないと思われます(中国南部では、長江文明が始まる少し前の時期に、やはりイネ科のヒエも重要とされていたことが報告されています(Yang 2015))。

遼河文明、黄河文明、長江文明の初期の頃の主な文化を示した上の地図をもう一度見てください。それらの文化が分布していた範囲は、シナ・チベット語族の原郷、タイ系言語の原郷、オーストロネシア語族の原郷があったと見られる河北省と山東省のあたりを含んでいますが、もっと広範です。その範囲は、ずっと後世の春秋戦国時代に激しい戦いが繰り広げられた範囲とよく重なります。私たちは、シナ・チベット語族、タイ系言語(タイ・カダイ語族)、オーストロネシア語族、ベトナム系言語(オーストロアジア語族)、ミャオ・ヤオ語族という五つの言語群の存在を知っていますが、とても五つでは済まない数の言語群が存在したはずです。遼河文明、黄河文明、長江文明が始まるはるか前(遅くとも4万年前)から、人類はそこにいたからです。

※ミャオ・ヤオ語族という名前は、聞いたことがない人が多いかもしれません。現在では、ミャオ・ヤオ語族の言語は、中国南部からインドシナ半島にかけて、少数民族の言語として存在しているだけで、どこの国の主要言語にもなっていません。かつては一大勢力であったと思われますが、今ではひっそりと存在しているだけです。ミャオ・ヤオ語族の言語は、文法はタイ系言語とベトナム系言語によく似ていますが、語彙はタイ系言語とベトナム系言語と全く違います。シナ・チベット語族とオーストロネシア語族とも全く違います。上に挙げたシナ・チベット語族、タイ系言語、オーストロネシア語族、ベトナム系言語、ミャオ・ヤオ語族の中で、ミャオ・ヤオ語族が一番謎めいていて、一番他の言語群から隔絶しているようにも見えます。

人類は遅くとも4万年前からいたのに、シナ・チベット語族、タイ系言語、オーストロネシア語族、ベトナム系言語、ミャオ・ヤオ語族という五つの言語群しか残っていないというのは、どういうことでしょうか。これらの五つの言語群は、せいぜい過去1万年以内に存在した五つの言語に帰着してしまいます。これはつまり、ほとんどの言語は消滅したということです。

この言語の激減を引き起こしたのは、なんだったのでしょうか。とても小さい人間集団のだれかが初めて植物を人間が選んだあるいは作った環境下・条件下で生育させたシーンから、春秋戦国時代の強国同士が戦うシーンまでは、確かに一続きのプロセスです。しかし、これは非常に長いプロセスです。

筆者は、どこかでイネ科の植物(アワ、キビ、イネなど)の種子を食べる習慣ができ、その小規模な栽培行為が上の地図のように広まる過程が、言語を激減させたというより、その小規模な栽培行為が上の地図のように広まった後の時代(つまり、欲する植物がより確実に/安定して得られる、より多く得られる、より少ない労力で得られるなどの直接的影響だけでなく、ありとあらゆる種類の間接的影響(本格的な分業、階層、戦争などもここに含まれます)が顕著に現れてくる時代)に起きたことが、言語を激減させたのではないかと考えています。要するに、イネ科の植物の小規模な栽培行為が広まっただけの段階なら、まだまだ言語の多様性は存在できたのではないかと考えているのです。

ここでもう一度、11月にニュースになったM. Robbeets氏らの「Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages」の論文(Robbeets 2021)の話に戻ります。

次回の記事からは、遼河流域に存在した日本語(正確には日本語の前身言語)がどのような経路を通って日本列島に入ったのかという、日本語の歴史を考えるうえでの核心問題に踏み込んでいきます。想像以上に複雑な状況だったことがわかってきました。

人類はなぜ農耕を始めたのか?

人類がなぜ農耕を始めたのかというのは、盛んに論じられてきたテーマです。「なぜ農耕を始めたのか」というのは、根源まで遡れば、「なぜ栽培を始めたのか」ということです。磁山遺跡(上の地図を参照)は、11000~10000年前頃から、大量のキビが保存された穴が見られたことで有名です(当初は細かい種類まではわかっていませんでしたが、今ではキビと判明しています)(Lu 2009)。磁山遺跡は、遼河文明、黄河文明、長江文明の初期の頃の主な文化の分布を見た時に、その中心に位置することでも注目されます。最初に栽培を始めた理由について、自分たちが欲する植物がより確実に/安定して得られる、より多く得られる、より少ない労力で得られるなどの利点があったのだろうと述べましたが、一番目に挙げた「確実に/安定して」が大きかったのではないかと思われます。磁山遺跡で見つかった大量のキビが保存された穴も、もちろんのちに現れるような大規模社会を作ろうと考えていたのではなく、蓄えを作っていたのでしょう。つまり、「確実に/安定して」を目指していたのでしょう。マンモスのような大型の動物が獲れなくなり、人々の注意・関心が植物などに強く向かうようになっていたことも遠因になっています。

 

参考文献

英語

Cohen D. J. 2011. The beginnings of agriculture in China: A multiregional view. Current Anthropology 52: S273-293.

Guedes J. A. et al. 2015. The impact of climate on the spread of rice to north-eastern China: A new look at the data from Shandong Province. PLoS One 10(6): e0130430.

Jin G. et al. 2014. 8000-year old rice remains from the north edge of the Shandong Highlands, East China. Journal of Archaeological Science 51: 34-42.

Liu L. et al. 2013. Paleolithic human exploitation of plant foods during the last glacial maximum in North China. Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America 110(14): 5380-5385.

Lu H. et al. 2009. Earliest domestication of common millet (Panicum miliaceum) in East Asia extended to 10,000 years ago. Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America 106(18): 7367-7372.

Robbeets M. et al. 2021. Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature 599(7886): 616-621.

Sagart L. et al. 2018. A northern Chinese origin of Austronesian agriculture: New evidence on traditional Formosan cereals. Rice 11(1): 57.

Sagart L. et al. 2019. Dated language phylogenies shed light on the ancestry of Sino-Tibetan. Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America 116(21): 10317-10322.

Wang C. et al. 2016. Macro-process of past plant subsistence from the Upper Paleolithic to Middle Neolithic in China: A quantitative analysis of multi- archaeobotanical data. PLoS One 11(2): e0148136.

Yang X. et al. 2015. Barnyard grasses were processed with rice around 10000 years ago. Scientific Reports 5: 16251.

その他の言語

Crawford G. W. et al. 2006. 山东济南长清区月庄遗址发现后李文化时期的炭化稻. 东方考古 3: 247-251.(中国語)

大きな修正を迫られる「農耕/言語拡散仮説」、インド・ヨーロッパ語族の起源をめぐる論争の行方

11月にM. Robbeets氏らが「Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages」と題された論文(Robbeets 2021)をNature誌に発表し、日本と海外でニュースになりました。

毎日新聞の記事(2021年11月13日付)
日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」 国際研究チームが発表

NEWSポストセブンの記事(2021年11月24日付)
「日本語の起源は中国東北部のキビ・アワ農家」 壮大な新説に注目

遼河文明は黄河文明と長江文明に比べてほとんど知られていないので、今回のRobbeets氏らの論文発表で遼河流域に注目が集まったのはよかったと思います。

Robbeets氏らの研究は、言語学、生物学(遺伝学)、考古学という三つの分野を総合しながら、歴史の真相を明らかにしようとしています。これは、本ブログの方針と全く同じであり、共感できるところです。

以下は、Robbeets氏らが論文の中で示しているアワ、キビ、イネの伝播図です(Robbeets 2021より引用)。

赤い矢印はMillet(アワとキビ)の伝播、深緑の矢印はRice(イネ)の伝播を示しています。7000 BP、6500 BP、5000 BP、3500 BP、2900 BPと記されていますが、これは今から7000年前、6500年前、5000年前、3500年前、2900年前という意味です。

近年の考古学の進歩はすばらしく、上のアワ、キビ、イネの伝播図は、今後細かく変更されることはあるにせよ、大きくは変わりそうにありません。

上の図を見ると、イネの矢印(深緑の矢印)が二箇所から出ていることに気づくでしょう。下は山東半島から、上は遼東半島から出ています。複雑な東アジアの歴史を暗示しています。かなり北に位置する遼東半島にイネがあったというのは意外かもしれません。しかし、遼東半島にイネが存在したこと、しかもそこで栽培されていたことの証拠は強固であり、動きません(Jin 2009、Zhang 2010)。場所によっては、アワとキビよりイネのほうが多かったくらいなのです。

山東省のあたりには、黄河文明の最初期から順に、後李文化 (こうりぶんか)→北辛文化 (ほくしんぶんか)→大汶口文化 (だいぶんこうぶんか)→山東龍山文化 (さんとうりゅうざんぶんか)→岳石文化 (がくせきぶんか)という文化の系譜がありました(岳石文化の後は、殷に飲み込まれていきます)。

山東省のあたりでイネの栽培が本格的に始まったのは、山東龍山文化の時代(4600~3900年前頃)です。それより前の時代のイネもほんの少し見つかっていますが、イネはアワとキビより高い温度を必要とするので、なかなかうまくいかなかったようです(Guedes 2015)。山東半島で本格的なイネの栽培が始まってすぐに、遼東半島でもイネの栽培が始まります(Jin 2009、Zhang 2010)。石器、土器、陶器にも強い共通性が認められ、山東半島から遼東半島に向かう人の流れがあったことは確実と考えられています(宮本2009)。

Robbeets氏らの研究が、目覚ましい進歩を遂げる考古学の成果を取り込んでいるのは、もちろんとてもよいことです。しかし、Robbeetsらの研究には、大きな問題がいくつかあります。その一つは、Robbeets氏らの研究が「農耕/言語拡散仮説(Farming/Language Dispersal Hypothesis)」と呼ばれる仮説に完全に依存していることです。

「農耕/言語拡散仮説」というのは、農耕が広がるとともに言語が広がっていくと考える仮説で、極端な立場では、農耕の広がりと言語の広がりを完全に同一視します。Robbeets氏らの研究には、この傾向が顕著に認められます。

実は、筆者も最初は「農耕/言語拡散仮説」はもっともだと考えていたのです。しかし、この仮説と合わないことがだんだん蓄積していき、「農耕/言語拡散仮説」には大きな修正が必要ではないかと考えるようになりました。筆者の考えがこのように変わっていく過程は、後続の記事で詳しくお話ししていきますが、ここではまず、「農耕/言語拡散仮説」が生まれるきっかけになった、インド・ヨーロッパ語族の起源をめぐる論争に目を向けます。

肝心のヨーロッパで危うくなってきた「農耕/言語拡散仮説」

ヨーロッパには、インド・ヨーロッパ語族の言語はアナトリア(今のトルコのあたり)からやって来たのか、ステップ(今のウクライナ・ロシア南部のあたり)からやって来たのかという議論があり、C. Renfrew氏は、アナトリアからやって来たのだと主張する代表的な人物でした(Renfrew 1987)。中東からヨーロッパに農耕を導入した人々が、インド・ヨーロッパ語族の言語を広めたのだという主張です。

Renfrew氏がこのように主張したのは、よくわかります。農耕が始まったのは中東、牧畜が始まったのも中東、金属の使用が始まったのも中東であり、どう見ても中東が圧倒的に優位にあるように見えます。ただ、筆者は、インド・ヨーロッパ語族の言語そのものを調べると、北ユーラシアらしさが漂っているので、どういうことなのだろうと不思議に思っていました。

Renfrew氏の考えは、P. Bellwood氏らによって拡張されます(Bellwood 2001、2003、2005、Diamond 2009)。インド・ヨーロッパ語族に限らず、世界の大語族の多くは、農耕の広がりとともに広がったものではないかという考えに発展しました。

この考えも、よくわかります。世界の言語の分布を考えるうえで、農耕の広がりを重要事項として考慮に入れなければならないことは間違いありません。しかし、筆者はなにかが、しかも大事ななにかが欠落していると感じていました。

2014年にI. Lazaridis氏らが「Ancient human genomes suggest three ancestral populations for present-day Europeans」と題された論文(Lazaridis 2014)を発表したあたりから、流れが大きく変わってきたように思います。近年の生物学(遺伝学)の急速な進歩によって、古代人のDNAが調べられるようになったこと、しかも古代人のDNA全体が調べられるようになったことが、非常に大きいです。Lazaridis氏らの研究は、(1)農耕が始まる前にヨーロッパにいた人間集団、(2)中東からヨーロッパに農耕を導入した人間集団、そして(3)ロシア方面から入って来た人間集団という三つの人間集団によって、今日のヨーロッパの人々が形成されたことを示すものでした。(1)と(2)の人間集団だけでなく、(3)の人間集団の存在が明るみに出たのがポイントです。

ヨーロッパの現代人のDNAに加えて、古代人のDNAが徹底的に調べられるようになりました。古代人のDNAのデータが蓄積してくると、様々なことがわかってきます。古代人といっても、それぞれ生きていた時代が異なります。古代人のDNAのデータを古いほうから順に並べると、かつての歴史展開が見えてきます。前の時代と変わらない、前の時代から少し変わった、前の時代から大きく変わった、そういうことがわかってくるのです。

I. Olalde氏らの研究は、イギリスに農耕が導入された後、イギリスの人間集団のDNAがどのように変化してきたか調べていますが、大変ショッキングな結果が出ました(図はOlalde 2018より引用)。

※Genome-wide ancestry components=DNA全体に占める各先祖のDNAの割合、British Neolithic=イギリスの新石器文化、Continental Beaker complex=大陸のビーカー文化、Y-chromosome haplogroup=Y染色体DNAの系統、Neolithic=新石器時代(農耕は行われているが、銅器・青銅器は使われていない時代です)、Copper Age and Early Bronze Age=銅器時代・青銅器時代前期、Middle Bronze Age=青銅器時代中期、Late Bronze Age=青銅器時代後期

左側の棒は古代人のDNA全体を調べた結果で、右側の点は古代人(男性)のY染色体DNAを調べた結果です。4000 BCは、紀元前4000年という意味、つまり6000年前頃です。農耕を行っていた人々のDNA(青のDNA)が、銅器時代・青銅器時代が始まるところで、後から入って来た人々のDNA(赤のDNA)にほとんど置き換えられてしまいました。赤のDNAは、ステップ(今のウクライナ・ロシア南部のあたり)と深い関係を持つDNAです。こういう歴史がイギリスにはあったのです。

イギリスで異常な現象が起きてしまったのでしょうか。そうではないようです。Olalde氏らは、ヨーロッパ北西部のイギリスだけでなく、ヨーロッパ南西部のスペイン・ポルトガルでも研究を行っていますが、やはり同じぐらいの時期に、同様の傾向が認められています(Olalde 2019)。スペイン・ポルトガルの変化は、イギリスの変化ほど極端ではありませんが、Y染色体DNAは、イギリスの場合と同様に、ステップ(今のウクライナ・ロシア南部のあたり)から来たR1b系統にほぼ完全に置き換えられてしまいました。

ちなみに、現在の西欧ではR1bが多数派ですが、東欧ではR1aが多数派です。どちらもステップ(今のウクライナ・ロシア南部のあたり)から来ています。ただし、ヨーロッパの中で中東に近い地域ではR1a/R1bの割合は控えめです。

EupediaにR1a系統とR1b系統の歴史がよくまとめられており、これらの系統がどのように拡散したか示されています(図はEupediaのウェブサイトより引用)。

R1a系統の拡散

R1b系統の拡散

ここまで明らかにしてしまう最近のDNA分析には感心します。

インド・ヨーロッパ語族の起源はまだ謎に包まれていますが、少なくとも「中東からヨーロッパに農耕を導入した人々が、インド・ヨーロッパ語族の言語を広めた」という単純な説は成り立たちそうにありません。

肝心のヨーロッパで「農耕/言語拡散仮説」はこのようになっているのです。

このヨーロッパの農耕と言語の問題は人類の歴史における大問題ですが、次回の記事ではヨーロッパから離れ、東アジアの農耕の起源の話に入ります。

 

参考文献

日本語

宮本一夫、「農耕の起源を探る イネの来た道」、吉川弘文館、2009年。

英語

Bellwood P. 2001. Early agricultural population diasporas? Farming, languages, and genes. Annual Review of Anthropology 30(1): 181-207.

Bellwood P. et al. 2003. Examining the Farming/Language Dispersal Hypothesis. McDonald Institute for Archaeological Research.

Bellwood P. 2005. First Farmers: The Origins of Agricultural Societies. Blackwell.

Diamond J. et al. 2009. Farmers and their languages: The first expansions. Science 300(5619): 597-603.

Guedes J. A. et al. 2015. The impact of climate on the spread of rice to north-eastern China: A new look at the data from Shandong Province. PLoS One 10(6): e0130430.

Lazaridis I. et al. 2014. Ancient human genomes suggest three ancestral populations for present-day Europeans. Nature 513(7518): 409-413.

Olalde I. et al. 2018. The Beaker phenomenon and the genomic transformation of northwest Europe. Nature 555(7695): 190-196.

Olalde I. et al. 2019. The genomic history of the Iberian Peninsula over the past 8000 years. Science 363(6432): 1230-1234.

Renfrew C. 1987. Archaeology and Language: The Puzzle of Indo-European Origins. Cambridge University Press.

Robbeets M. et al. 2021. Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature 599(7886): 616-621.

その他の言語

Jin G. et al. 2009. 辽东半岛南部农业考古调查报告——植硅体证据. 东方考古 6: 305-316.(中国語)

Zhang C. 2010. 辽东半岛南部农业考古新发现与突破. 辽宁省博物馆馆刊 0(1): 113-120.(中国語)

「シールをぺたっと貼る」の「ぺたっ」とは何なのか

この記事は、前回の記事への補足です。

前回の記事では、下を意味する*petaという語から、hetaru(へたる)、hetabaru(へたばる)、hetoheto(へとへと)などの語が生まれたことをお話ししました。

下を意味する語から、落ちること、倒れること、転ぶこと、さらにもっと抽象的になって、疲れること、衰えること、病むこと、死ぬことを意味する語が生まれるのは頻出パターンであり、驚くべきことではありません。

しかし、日本語には、「シールをぺたっと貼る」のような表現もあります。「シールをぺたっと貼る」のpetaʔ(ぺたっ)は、ちょっと立ち止まって考えたいところです。

hetaru(へたる)、hetabaru(へたばる)、hetoheto(へとへと)などの語が存在することから、下を意味する*petaは倒れることを意味することがあったはずです。

下を意味する*pataと*petaという同源の語があって、前者からbataʔ(ばたっ)、battari(ばったり)、batabata(ばたばた)などが生まれ、後者からhetaru(へたる)、hetabaru(へたばる)、hetoheto(へとへと)などが生まれたと見られます。

人が倒れるところを想像してください。以下の図のような感じです(イラストはラ・コミックイラスト部様のウェブサイトより引用、さらに回転)。

女性が倒れてしまったところです。女性と地面が全面的に接触している点に注目してください。この面的接触というのがポイントです。図を90度回転させてみます。

今度はどうでしょうか。女性が壁かなにかに貼りついているように見えないでしょうか。

このような類似性からして、倒れることを意味していた*petaが面的接触を意味するようになったと思われます(現代の日本人が一枚目のような状況で「へばる」と言い、二枚目のような状況で「へばりつく」と言っているのを見ても、一枚目と二枚目の間に大きな障害はないと思われます)。「ぺたっと貼りつく」と言いますが、「ぴたっと貼りつく」とも言うので、petaʔ(ぺたっ)とpitaʔ(ぴたっ)は同源でしょう。

「自分にぴったりの仕事」や「ぴたりと言い当てる」のような表現があるのも驚きます。最初は具体的な物の接触、接合、接着を意味していた語が、次第に抽象化して適合や符合を意味するようになったのでしょう。

※紛らわしいですが、zibeta(地べた)のbetaは語源がちょっと違うと思われます。奈良時代にはɸata(端)とɸeta(辺)という語があり、水と陸の境のあたりをそのように呼んでいたことが窺えます(ɸedatu(隔つ)の語源もここでしょう)。zibeta(地べた)のbetaはかつては単独で地面を意味することができたと思われます。補説も参照してください。

隙間がないことを表すpitiʔ(ぴちっ)、pitipiti(ぴちぴち)、pittiri(ぴっちり)、bittiri(びっちり)、bissiri(びっしり)なども無関係でないでしょう。

下を意味する*pataから、倒れることを意味するbataʔ(ばたっ)、battari(ばったり)、batabata(ばたばた)などが生まれましたが、これも、ここで終わらず、接触、接合、接着のような意味に向かうことがあったのではないでしょうか。「ばったり出会う」のbattari(ばったり)は、そのような流れの中に位置づけたいところです。

battiri(ばっちり)は、今ではすっかり正体不明になっていますが、「相性はばっちり」や「ばっちり似合う」のような表現があることからして、かつては(pittari(ぴったり)のような)適合性(適格、合格)を意味していたのかもしれません。

まさに驚きの意味展開ですが、決して珍しい例ではないようです。

「付く」に関する考察

本ブログで何回か挙げている語彙ですが、歩くことを表すtuktuka(つかつか)や人を歩いて行かせることを意味するtukaɸu(使ふ、遣ふ)から、足・脚を意味する*tukaという語があったことが窺えます。その前には、下を意味する*tukaという語があったと見られます。

下を意味する*tukaは、足・脚を意味するようになっただけでしょうか。そんなことはないでしょう。tukaru(疲る)という語がありました。下を意味する*tukaが倒れることを意味するようになり、そこから生まれたのがtukaru(疲る)とtuku(付く)だったのではないかと思われます(後述の「貼る」に関する考察も参照)。

奈良時代の動詞の六つの活用形の中で、未然形がもとの姿を最もよく示していることは、すでにお話しした通りです。

「足りる」と「足す」になぜ「足」という字が使われるのか?の記事で触れたように、足・脚を意味する*tukaからtuku(付く)が生まれた可能性も考えられますが、日本語の語彙全体を見渡す限りでは、倒れることを意味した*tukaからtuku(付く)が生まれた可能性のほうが高そうです。

「貼る」に関する考察

haru(貼る)の語源はとても難しそうです。

「張り紙」と書いたらよいか、「貼り紙」と書いたらよいかという質問がありますが、これもわけがあるようです。

平らに広がること/広げることを意味したɸaruという動詞と、付着すること/付着させることを意味したɸaruという動詞が背後にあるように見えます。

水を意味するpark-、pirk-、purk-、perk-、pork-(par-、pir-、pur-、per-、por-、pak-、pik-、puk-、pek-、pok-)のような語から始まります。

(1)水を意味していた*paraという語が、その横の平らな土地を意味するようになります(これはɸara(原)から窺えます)。ここから、平らに広がること/広げることを意味するɸaruという動詞が生まれます。

(2)水を意味していた*paraという語が、その横の盛り上がった土地を意味するようになります(これはɸara(腹)から窺えます)。ここから、盛り上がることを意味するɸaruという動詞が生まれます(「現役バリバリ」のbaribari(バリバリ)は、盛りにあること、盛んであることを意味しているのでしょう)。

(3)水を意味していた*paraという語が、雨を意味することができず、落下、下方向、下を意味するようになります(これはparapara(ぱらぱら)から窺えます。paratuku(ぱらつく)のparaが水を意味しているのか、雨を意味しているのか、下を意味しているのか微妙ですが、tukuが落ちることを意味しているのは間違いないでしょう)。ここから、倒れることを意味するɸaruという動詞が生まれます。単にɸaruと言うだけではよく通じず、前に語を付け足して、倒れることを意味しようとしたと見られます(kutabaru(くたばる)やhetabaru(へたばる)など)。倒れることを意味するɸaruという動詞があったのなら、上のpetaʔ(ぺたっ)とtuku(付く)で見たように、付着という意味が生まれてくる可能性は大いにあります。

「張り紙」と書いたらよいか、「貼り紙」と書いたらよいかという問題が生じるのは、「壁にharu」のharuに、平らに広がる/広げるという(1)の意味と、付着する/付着させるという(3)の意味が混在しているからでしょう。同じ音の語があれば、それらが干渉し合うこともあります。「壁にharu」のharuは、(1)の流れと(3)の流れを汲んでいるのでしょう。

 

補説

ɸata(端)とɸasi(端)だけではない

本ブログの読者は日本語のいわゆる「擬態語」がなんなのかだんだんわかってきたと思うので、もう少し例を追加しておきます。

奈良時代の日本語のɸata(端)とɸasi(端)から、水と陸の境のあたりを*pataと言ったり、*pasiと言ったりしていたことが窺えます。*pataと言ったり、*pasiと言ったりしていたのなら、*pasaと言うことだってあったでしょう。この境を意味する*pasaから生まれたのが、切ることを意味するbasaʔ(ばさっ)/bassari(ばっさり)と見られます。

いつもの図は示しませんが、水(川)を意味していた語が横の部分を意味するようになるのは超頻出パターンです。水を意味していた*pataは、手・腕を意味するようになることもあったはずです。そのことは、utu(打つ)とtataku(叩く)の類義語であるɸataku(叩く)から窺えます。手を叩く時のpatipati(ぱちぱち)や頬を叩く時のbasiʔ(ばしっ)なども同じところから来たのでしょう。

*pataは、人間の手・腕だけでなく、鳥の羽・翼を意味することもあったにちがいありません。patapata(ぱたぱた)、batabata(ばたばた)、basabasa(ばさばさ)がそのことを物語っています。

日本語のいわゆる「擬態語」は、あくまで他の語彙といっしょに、他の語彙と同じように考えるべきものなのです。

正直に言って、日本語の起源と歴史を考えるうえで日本語の「擬態語」がこんなに重要になるとは、筆者も思っていませんでした。