最近の考古学のちょっと危ない傾向、遼東半島の稲作をめぐる問題

紀元前1500年頃(つまり3500年前頃)からイネの栽培(稲作)が朝鮮半島に導入されたことは、これまで何度もお話ししてきました(図はRobbeets 2021より引用)。

イネの栽培は山東省と遼東半島から導入されたのではないかと考えられてきたわけですが、現在では大部分の考古学者の目は遼東半島に向いています。北のほうにある遼東半島でイネの栽培が行われていたという事実(Jin 2009、Zhang 2010)がセンセーショナルで、遼東半島が注目をほぼ独り占めしてしまった感があります。しかし、筆者は、「遼東半島→朝鮮半島」という経路だけに注目し、「山東省→朝鮮半島」という経路に注目しないのは、不適切だろうと考えています。

前回の記事では、紀元前1500年頃から、内陸にいた殷が西から侵攻してきて、山東省の住民が東に逃れたのではないかと述べました(東アジアの運命を決定した三つ巴、二里頭文化と下七垣文化と岳石文化を参照)。紀元前1900~1500年頃に山東省で栄えていた岳石文化は、殷に滅ぼされる形で終わりを迎えました。山東省で栄えた岳石文化が滅ぼされるタイミングと、朝鮮半島にイネの栽培が出現するタイミングはよく合うので、岳石文化の農業がどうなっていたのか見てみることにしましょう。

ちなみに、日本語は「山東省→朝鮮半島」という移動があったことをはっきりと示しています(過去の記事を参照)。
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岳石文化の農業

岳石文化の農業は、Guo Rongzhen氏らによって詳しく調べられています(Guo 2019)。山東省の地理は非常に変化に富んでいるので、山東省のある場所だけを調べて、山東省一般について語ることはできません。その点、Guo氏らの研究は、山東省をまんべんなく調べているので、信頼が置けます。

岳石文化の時代(紀元前1900~1500年頃)の山東省では、イネ、アワ、キビ、コムギ、オオムギが栽培されていたことが明らかになっています。ここにイネとコムギとオオムギが含まれているのは重要です。無文土器時代(紀元前1500年頃~)の朝鮮半島にイネとコムギとオオムギが新登場するからです。おそらく、無文土器時代の朝鮮半島では、イネとコムギとオオムギが新登場し、アワとキビが再登場したのではないかと思われます。アワとキビの栽培は、無文土器時代よりはるかに前に朝鮮半島に導入されましたが、かつてのアワとキビの栽培は、無文土器時代が始ろうかという頃にはすっかり衰えていました(激動の時代、うまくいかなくなったアワとキビの栽培、うまくいかなくなったイネの栽培を参照)。アワとキビの栽培は、無文土器時代の朝鮮半島で再び勢いづき、イネの栽培と同じ頃に日本列島に伝わりました(Endo 2021)。最終的にイネが主食になりましたが、かつての日本ではアワとキビも盛んに栽培されていました。

岳石文化の時代の山東省でイネ、アワ、キビ、コムギ、オオムギが栽培されていたという事実は、その後の朝鮮半島の歴史展開とよく合いますが、山東省のいたるところでイネ、アワ、キビ、コムギ、オオムギという五種類の穀物が栽培されていたわけではありません。山東省のそれぞれの地点で、この五種類の穀物のうちのどれが栽培されていたかは異なります。イネ、アワ、キビ、コムギ、オオムギはいずれもイネ科の植物で、その意味では似た者同士です。ほかにも様々な食べ物が必要なわけですから、全く同じ人たちがこの五種類の穀物を栽培するとは考えづらいです。

Guo氏らは、岳石文化の時代の山東省では、アワとキビの栽培に比べて、イネの栽培が低調気味であると述べています。山東省は、黄河文明の最初期から後李文化(こうりぶんか)→北辛文化(ほくしんぶんか)→大汶口文化(だいぶんこうぶんか)→山東龍山文化(さんとうりゅうざんぶんか)→岳石文化(がくせきぶんか)と変遷しましたが、後李文化~大汶口文化の時代にはイネの栽培を行おうとしてもうまくいかない状態でした。山東龍山文化の時代(紀元前2600~1900年前頃)に入って、初めてイネの栽培がうまくいったのです。山東龍山文化はイネの栽培とともに大いに繁栄しましたが、これは山東龍山文化の時代の早期~中期に限った話で、気候変化に見舞われた晩期には著しく衰退しました(Gao 2009)。(高い温度を必要とする)イネの栽培がかつてほどうまくいかなくなってしまったことが大きいです。山東龍山文化の時代の晩期にも、岳石文化の時代にも、イネの栽培は行われていましたが、かつての勢いはありませんでした。

ここで考えたいのが、遼東半島の稲作をめぐる問題です。

遼東半島の稲作

遼東半島でイネの栽培が行われていたことは確かです(Jin 2009、Zhang 2010)。山東龍山文化の時代の山東省でイネの栽培が盛んに行われるようになり、それがすぐに遼東半島に伝わりました。遼東半島では、山東龍山文化に対応する時代にも、岳石文化に対応する時代にも、イネの栽培が見られたことが明らかになっています(Jin 2009、Zhang 2010)。あんなに北にある遼東半島でイネの栽培が行われていたのかと、驚きをもって迎えられたのは、よくわかります。

しかし、山東省で行われていたイネの栽培が遼東半島に伝わり、その後、山東省と遼東半島の両方でイネの栽培が行われたというのが真相です(山東省と遼東半島の間には往来がありましたが、山東省の側が遼東半島の側に影響を与えるというのが主たる方向です(Duan 2003))。それにもかかわらず、紀元前1500年頃から始まる朝鮮半島のイネの栽培の起源の話になると、「遼東半島→朝鮮半島」という経路が大きく取り上げられ、「山東省→朝鮮半島」という経路は脇にどけられてしまう傾向があるのです。これには、違和感を覚えます。筆者はイネの栽培の伝播は以下の図のように考えるべきだろうと思っています。

長江流域で行われていたイネの栽培が山東省に伝わり、山東省で行われていたイネの栽培が遼東半島に伝わります。そして、山東省と遼東半島の両方で行われていたイネの栽培が朝鮮半島に伝わり、朝鮮半島で行われていたイネの栽培が日本列島に伝わります。そういう展開です。

ところが、遼東半島に目を向けている多くの考古学者は、上の図の赤い矢印を消して、イネの栽培が「長江流域→山東省→遼東半島→朝鮮半島→日本列島」と伝わってきたと説明しようとする傾向があります。

朝鮮半島には紀元前1500年頃からイネの栽培を行う農耕民が現れますが、その頃に山東省でイネを栽培していた農耕民には、東に移動しようとする深刻な理由があります。前回の記事でお話ししたように、西から殷が侵攻してきているからです(東アジアの運命を決定した三つ巴、二里頭文化と下七垣文化と岳石文化を参照)。

岳石文化の人間集団は、遼東半島の人間集団に比べて、人数が多く、多様だったと考えられます(面積が全然違うので、当然といえば当然です)。夏殷周のあった黄河中流域から見て、東方の異民族を「夷(い)」と総称していましたが、「畎夷、于夷、方夷、黄夷、白夷、赤夷、玄夷、风夷、阳夷」のように細かく呼び分けてもいました(Wei 2017)。中国東海岸地域は、もともと黄河下流域と長江下流域に挟まれているうえに、遼河流域の人たちが入り込んできたので、非常に複雑な様相を呈していたと見られます。紀元前1500年頃から始まる無文土器時代の朝鮮半島に現れた農耕民が、最初からある程度多様だったという話もうなずけます(農耕民と狩猟採集民が出会う時、新しくやって来た農耕民は実は・・・を参照)。

山東省から朝鮮半島に向かう流れを、考古学だけでなく、生物学の観点からも考えてみましょう。以前に、Y染色体ハプログループCとY染色体ハプログループDについてお話ししたことがありました。今度は、日本人に最も多く見られるY染色体ハプログループOについてお話しします。

筆者が上に示したイネの栽培の伝播図を見て、イネが長江流域から日本列島に直接来た可能性はないのか、あるいは長江流域より南の台湾・フィリピン・インドネシア方面から日本列島に直接来た可能性はないのかと思った方もいるのではないでしょうか。その問題も併せて取り上げます。

 

参考文献

英語

Endo E. et al. 2021. The onset, dispersal and crop preferences of early agriculture in the Japanese archipelago as derived from seed impressions in pottery. Quaternary International (in press).

Robbeets M. et al. 2021. Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature 599(7886): 616-621.

その他の言語

Duan T. 2003. 胶东半岛和辽东半岛岳石文化的相关问题. 边疆考古研究 0: 131-151.(中国語)

Gao J. et al. 2009. 岳石文化时期海岱文化区人文地理格局演变探析. 考古 11: 48-58.(中国語)

Guo R. et al. 2019. 岳石文化农业经济的植物考古新证. 东南文化 01: 87-95.(中国語)

Jin G. et al. 2009. 辽东半岛南部农业考古调查报告——植硅体证据. 东方考古 6: 306-316.(中国語)

Wei J. 2017. 从夏、夷、商三族关系看夏文化. 中原文化研究 03: 36-41.(中国語)

Zhang C. 2010. 辽东半岛南部农业考古新发现与突破. 辽宁省博物馆馆刊 0(1): 113-120.(中国語)

東アジアの運命を決定した三つ巴、二里頭文化と下七垣文化と岳石文化

前回の記事では、山東省で栄えた山東龍山文化(さんとうりゅうざんぶんか)が衰退し、そこに新しい人たちが入ってきたことをお話ししました。こうして、山東省に残っていた人たちと新しく入ってきた人たちによって形成されたのが、丘石文化(がくせきぶんか)です。新しく入ってきた人たちというのは、前回の記事でお話ししたように、遼河流域にいた人たちです。

紀元前1900年頃から山東省で岳石文化が始まりましたが、その岳石文化は以下の図のように二里頭文化(にりとうぶんか)と下七垣文化(かしちえんぶんか)という二つの大きな文化と隣接していました。

二里頭文化という名前は、中国の歴史あるいは考古学に興味を持っている方ならご存じでしょう。中国の歴史書に最初の王朝として記されている夏ではないかと言われている文化です(中国の歴史書としては、史記、竹書紀年、左伝などがあります)。下七垣文化という名前は、ほとんど知られていないでしょう(先商文化(せんしょうぶんか)とも呼ばれます)。下七垣文化は殷の母体、つまり下七垣文化からのちに殷が生まれます(中国ではyīn(殷)インと言わずに、shāng(商)シャンと言うので、注意してください)。

この二里頭文化と下七垣文化と岳石文化の三つ巴から始まる展開が、東アジアの歴史にとって決定的に重要になります。この三者の中で、最も先進的で、最も栄えていたのは、二里頭文化です。二里頭文化の物品は、下七垣文化と岳石文化によく入っています。下七垣文化の物品も、二里頭文化と岳石文化によく入っており、岳石文化の物品も、二里頭文化と下七垣文化によく入っています。三者の間に普通に交流があったことは明らかです(Wei 2017)。

※考古学的には、二里頭文化が存在したこと、そして二里頭文化が当時最も先進的で、最も栄えていたことは確実です。では、中国内外で夏王朝の実在が今でも問題になっているのはなぜでしょうか。それは、中国の歴史書に書かれていることがどこまで本当かわからないからです。中国の歴史書には、夏王朝にはこういう統治者がいた、こういうことをした、こういう統治者がいた、こういうことをしたと書かれていますが、二里頭文化の人間集団が書かれている通りの人間集団だったかどうかはわからないということです。要するに、二里頭文化の人間集団が最も先進的で、最も栄えていたことは間違いないが、その人間集団が後世の歴史書に正しく(つまり作り話なしで)記述されているかどうかはわからないということです。かつては、夏だけでなく、その次の殷の実在も疑われていました。しかし、殷の場合には、殷の時代に相当する遺跡から甲骨文字(亀の甲羅などに刻まれた文字)が発見され、その甲骨文字の記述が後世の歴史書の記述と合っていたことから、実在が認められるに至りました。

二里頭文化は最終的に、下七垣文化の勢力によって武力で滅ぼされます。興味深いことに、中国の歴史書には、二里頭文化を滅ぼした下七垣文化の勢力のことだけでなく、この勢力の先祖のことまで書かれており、先祖(の一部)が夏王朝に仕えていたことが書かれています(Wei 2017)。これは異常なことではありません。本来なら王朝に仕えるはずの者、豪族、武将などが王朝を転覆させてしまうことは、古代からよくありました。これは珍しいパターンではなく、むしろ頻出パターンです。もっと興味深いのは、下七垣文化の勢力が二里頭文化を滅ぼすために「連合」を組み、この「連合」に岳石文化の勢力も加わっていたようだということです(Tian 1997、Zhang 2002)。

ここで出てきた「連合」という概念は、決して特殊なものではありません。殷も連合を組んで夏を倒しにいったし、周も連合を組んで殷を倒しにいきました。人類の歴史を語る時に戦争は外せませんが、そこに出てくる「連合」も外せません。「連合」は大きな要因です。単独の相手なら倒されない強者も、「連合」を組まれて倒されてしまうことがあります。「連合」が組まれると、戦いの規模が大きくなります。さらに、勝利を収めた「連合」の内部で対立が生じることもあります。「連合」は大きな波乱要因とも言えます。

※日本の古代史の大きな争点となってきた倭国大乱と邪馬台国についてもいずれお話ししたいと思っていますが、日本の形成においても「連合」の存在が重要だったようです。

下七垣文化の勢力は、二里頭文化を滅ぼして殷王朝を建てました。殷王朝は、自分の援軍となってくれた岳石文化の勢力と、しばらくは良好な関係を保っていました(Xu 2012)。この良好な関係が崩れたのは、殷の第10代の王である中丁(ちゅうてい)の時代です(Xu 2012)。ここで初めて、殷が夷(東方の異民族の総称)を攻撃したという記述が歴史書に現れます。以後、殷の時代の終わりまで攻撃が繰り返されます。もちろん、勝者(すなわち殷)の言い分が反映された中国の歴史書では、夷が悪いことをしたので、殷が成敗したという話になっています。しかし、実際のところはわかりません。

考古学的には、殷の文化が岳石文化をどんどん塗り替えていく様子が捉えられています(Xu 2012)。Xu氏は戦争があったことを考古学的に確かめようとしていますが、3000年以上も前のことなのでなかなか難しそうです。殷の文化が岳石文化をどんどん塗り替えていったことを確かめるのは容易だが、その原因が戦争であることを確かめるのは容易でないということです。しかし、中国の歴史書の記述と合わせると、殷が山東省に大々的に侵攻したと考えざるをえません。科学が高度に発達した現代では、自然環境の変化はよく捉えられるようになってきましたが、特定の戦争の存在を捉えるのはなかなか難しいようです。

ちなみに、殷王朝の正確な開始時期は中国の歴史書からはわからず、考古学のデータから紀元前1700~1600年頃と推定されています。殷の初代の王は湯(とう)で、第10代の王が先ほど出てきた中丁です。殷の王位は、父から息子に継承されることもあれば、兄から弟に継承されることもありました。湯の五世代下に中丁がいます。一世代25~30年とすれば、125~150年の差があります。ここに挙げた数字は大いに注目に値します。紀元前1500年頃から朝鮮半島にイネの栽培を行う農耕民が現れたという事実と非常によく合うからです(激動の時代、うまくいかなくなったアワとキビの栽培、うまくいかなくなったイネの栽培などを参照)。

殷が西から侵攻し、山東省の住民が東に逃れた可能性が高まってきました。朝鮮半島と日本列島に大きく関わる問題であり、ここは深く切り込まないといけないでしょう。

 

参考文献

Tian C. et al. 1997. ”景亳之会”的考古学观察. 殷都学刊 04: 1-5.(中国語)

Wei J. 2017. 从夏、夷、商三族关系看夏文化. 中原文化研究 03: 36-41.(中国語)

Xu Z. 2012. 商王朝东征与商夷关系. 考古 02: 61-75.(中国語)

Zhang G. 2002. 論夏末早商的商夷聯盟. 郑州大学学报(哲学社会科学版) 02: 91-97.(中国語)

波乱の時代の幕開け、崩れゆく山東龍山文化、そこに現れた異質な岳石文化

遼河文明の変遷については、遼河文明を襲った異変の記事で少し述べましたが、ここでもっと詳しく見ておきましょう。

遼河文明は8200年前頃に始まりました。興隆窪文化(こうりゅうわぶんか)→趙宝溝文化(ちょうほうこうぶんか)/富河文化(ふがぶんか)→紅山文化(こうさんぶんか)と発展しました。しかし、紅山文化の終わり頃から、調子が狂い始めます。5000年前頃から遺跡の数がどんどん減っていくので、(農業)環境が悪化しているのがわかります(Teng 2013)。4200~4000年前頃には、深刻な事態になります。

ここで注目すべきなのは、同じ頃に、遼河流域より南にある山東龍山文化(さんとうりゅうざんぶんか)とさらに南にある良渚文化(りょうしょぶんか)も致命的なダメージを受けていることです(Wu 2001)。山東龍山文化は黄河下流域の代表的な文化で、良渚文化は長江下流域の代表的な文化ですが、この二つの大文化が崩壊してしまいます。気候変化が、遼河流域に限られたものではなく、もっと広い範囲で起きていたことが窺えます。

※ちなみに、日本の縄文時代の大遺跡として最も有名な東北地方の三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)も、同じ頃に崩壊しています(Kawahata 2009)。遼河流域、黄河下流域、長江下流域、そして日本が気候変化に見舞われていたとなると、その間に位置する朝鮮半島が無傷でいられたはずはありません。激動の時代、うまくいかなくなったアワとキビの栽培、うまくいかなくなったイネの栽培の記事で、朝鮮半島に導入されたアワ・キビの栽培が衰退してしまったことをお話ししましたが、これも同じ脈絡の中で起きたと考えられます。ただ、不思議なことに、中国の各地でそれまで栄えていた文化が衰退する一方で、黄河中流域の文化だけは困難な時代をうまく乗り切っている、いやそれどころか、逆に勢いづいている感すらあります(Wu 2004)。まさにその黄河中流域から、夏殷周の時代が始まるわけです。黄河中流域は、地理的な理由で気候変化の作用が弱かったのか、それとも、気候変化の作用は強かったが、それをはね返せるなんらかの特別な力があったのか、大いに検討する必要があります。

上に述べたように、黄河下流域の山東龍山文化は厳しい気候変化に見舞われましたが、これに関連して、考古学者のZhang Guoshuo氏が鋭い指摘をしています(Zhang 1989、1994)。以前にお話ししたように、黄河下流域は黄河文明の最初期から行李文化(こうりぶんか)→北辛文化(ほくしんぶんか)→大汶口文化(だいぶんこうぶんか)→山東龍山文化(さんとうりゅうざんぶんか)→岳石文化(がくせきぶんか)と変遷しました。Zhang氏は、これらの文化の遺跡、遺構、遺物を広範かつ詳細に研究し、北辛文化と大汶口文化と山東龍山文化に強いつながりを認めています。北辛文化から大汶口文化への変化は漸進的(「徐々に、段々と」という意味)であり、北辛文化の終わりと大汶口文化の始まりは区別するのが容易でない、大汶口文化から山東龍山文化への変化も漸進的であり、大汶口文化の終わりと山東龍山文化の始まりも区別するのが容易でないと述べています。それに対して、山東龍山文化から岳石文化への変化は急激であり、連続性が乏しいと述べています。もちろん山東龍山文化から受け継いだ要素はゼロではありませんが、異質な要素のほうが圧倒的に多いのです。

岳石文化が独立した文化として認められ、論じられるようになったのは、1980年頃からです(Zhang 1996)。岳石文化は、その後も注目されることが少なく、今も謎めいています。山東龍山文化の時代は紀元前2600~1900年頃、岳石文化の時代は紀元前1900~1500年頃です(岳石文化は最後は殷に飲み込まれていきます)。山東龍山文化の遺跡数に比べて、岳石文化の遺跡数はとても少ないです。山東龍山文化は極めて芸術的な土器を大きな特徴としていましたが、岳石文化では実用性しか考えていないような質素な土器ばかりになりました。そのため、岳石文化は山東龍山文化の荒廃した姿かと思われることもありました。

しかし、考古学調査が進むにつれて、そうではないことがわかってきました。ここでもやはり、年代測定の精度が上がってきたことが非常に大きいです。実は、山東龍山文化の時代を早期、中期、晩期の三つに分けると、山東龍山文化の遺跡のほとんどは早期~中期のもので、晩期のものはとても少ないのです(Gao 2009)。つまり、山東龍山文化の時代の途中ですでに衰退していたということです。すでに衰退して、閑散としていた山東省に、別のところから人が入ってきたのです。

Zhang氏は、山東龍山文化とは明らかに異質な岳石文化の要素がどこから来たのか考察しています。そして、それらの要素が主に遼河文明の夏家店下層文化(かかてんかそうぶんか)から来たようだと分析しています。Zhang氏の分析は、筆者が前回までの記事で示した、日本語の遼河流域から山東省への移動を立証する言語学のデータとよく合います。

冒頭の遼河文明の話を思い出してください。5000年前頃から気候が悪化し始め、4200~4000年前頃に深刻な事態になったという話です。この時期を過ぎて、勢いづいたのが夏家店下層文化です。夏家店下層文化の時代は4000~3500年前頃(つまり紀元前2000~1500年頃)です。現実的に考えると、夏家店下層文化の前の気候が悪化している時期から、南(山東省)への人の移動は始まっていたでしょう。その上で、夏家店下層文化の時代にも、南への人の移動があったということでしょう。

※夏家店下層文化は3500年前頃に終わります。そして、夏家店上層層文化(かかてんじょうそうぶんか)が3000年前頃から始まります。発掘調査で、古い文化は下の層から現れ、新しい文化は上の層から現れるので、夏家店下層文化と夏家店上層文化と呼ばれます。この二つの文化は、時間的に連続しておらず、全然違う文化です。夏家店下層文化は農耕主体の文化で、夏家店上層文化は牧畜主体の文化です。夏家店下層文化が存続できなかったのは、Yang Xiaoping氏らが論じているように、気候の悪化によって、不可逆な砂漠化が始まってしまい、気候が持ち直しても、不可逆な砂漠化は止まらなかったためと見られます(Yang 2015)。

遼河流域から山東省に南下してきた人たちは、山東省に残っていた人たちと混ざり合うことになりますが、彼らがその後どのような運命をたどったのか、追跡しましょう。東アジアの歴史上重要な時代へと突入していきます。

 

参考文献

英語

Kawahata H. et al. 2009. Changes of environments and human activity at the Sannai-Maruyama ruins in Japan during the mid-Holocene Hypsithermal climatic interval. Quaternary Science Reviews 28: 964-974.

Wu W. et al. 2004. Possible role of the “Holocene Event 3” on the collapse of Neolithic Cultures around the Central Plain of China. Quaternary International 117: 153-166.

Yang X. et al. 2015. Groundwater sapping as the cause of irreversible desertification of Hunshandake Sandy Lands, Inner Mongolia, northern China. Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America 112(3): 702-706.

その他の言語

Gao J. et al. 2009. 岳石文化时期海岱文化区人文地理格局演变探析. 考古 11: 48-58.(中国語)

Teng H. 2013. 环境变迁与”文化”的兴衰:以中国北方西辽河流域为考察对象. 东北史地 01: 29-33.(中国語)

Wu W. et al. 2001. 4000a B. P. 前后降温事件与中华文明的诞生. 第四纪研究 21(5): 443-451.(中国語)

Zhang G. 1989. 岳石文化来源初探. 郑州大学学报(哲学社会科学版) 01: 1-6.(中国語)

Zhang G. 1994. 岳石文化的渊源再探. 郑州大学学报(哲学社会科学版) 06: 56-62.(中国語)

Zhang G. 1996. 岳石文化研究綜述. 郑州大学学报(哲学社会科学版) 01: 60-63.(中国語)