言語の歴史を研究するための準備

言語の歴史を研究するには、若干の予備知識が必要です。ここでは、言語の歴史を研究するうえで重要なポイントを三つだけ押さえましょう。どれもそんなに難しいことではありません。本ブログを読み進める際の前提になります。

ポイント1 文法ではなく、基礎語彙を見る

皆さんも外国語の学習で苦労したことがあるかと思います。外国語の学習はなぜ難しいのでしょうか。それは、単に単語を置き換えるだけでは済まないからです。「持つ」を「have」に置き換えたり、「行く」を「go」に置き換えたりするだけで英語が話せるようになるなら楽ですが、実際にはそうはいきません。語法・文法で苦労するのです。

現代では外国語の文法書や辞書が売られていますが、大昔にはそのようなものはなく、文字すらありません。しかし、そのような時代から、違う言語を話す人間と人間が出会い、コミュニケーションを試みてきたのです。国家や国境がなければ、異言語を話す人間と出くわすことも多いのです。

説明のために、人工的な例を作ります。

(A)私が昨日受け取った贈り物はどこにある?
(B)どこにあるその贈り物どっち私が受け取った昨日?
(C)Where is the gift which I received yesterday?

(A)は日本語です。(C)は英語です。(B)はなんでしょうか。(B)は、今まで英語を話していた人が、日本語を話そうとした結果なのです。がんばって単語を置き換えてみたものの、日本語の語法・文法がきちんと身についておらず、英語の語法・文法を持ち込んでしまった状態です。(B)を(A)と比べると、語順が変わったり、関係代名詞が発生したり、冠詞が付いたりしていますが、フィンランド語とハンガリー語はこの(A)→(B)のような変化を過去に起こしています。実際に起きることなのです。当初おかしいと思われた言い方でも、その言い方をする人が増えると、それが「正しく」なります。

(B)には英語の単語が全くなく、これを英語と呼ぶことはできません。(B)は日本語の変種と呼ぶべきものです。(B)と(C)は語法・文法がそっくりですが、だからといって(B)と(C)が同系統の言語だとは言えないのです。(B)は(A)と同系統の言語なのです。このような事情があって、言語学者は言語の系統関係(同系統か別系統か)を調べる際に文法ではなく基礎語彙を見ます。

ただ、(A)と(B)のような言語を見た時に、なんでこんなに語法・文法が違うのだろうと考えることは重要であり、(B)と(C)のような言語を見た時に、なんでこんなに語法・文法が似ているのだろうと考えることも重要です。そこには、理由があるからです。人類の歴史において、ある人間集団が別の人間集団の言語に乗り換えるケースが多々あったことは頭に入れておく必要があります(この問題については、高句麗語と百済語、その他の消滅した言語たちの記事に、筆者の見方を詳しく示しました)。

ポイント2 意味はずれていく

「文法ではなく、基礎語彙を見る」と前に書きましたが、その基礎語彙も徐々に変化していきます。インド・ヨーロッパ語族のゲルマン系とスラヴ系の言語の例を挙げます。

英語とドイツ語はゲルマン系の言語で、特に近い関係にあります。handとHandハントゥは同源で意味が一致していますが、boneとBeinバインは同源なのに意味がずれています。

ロシア語とポーランド語はスラヴ系の言語で、特に近い関係にあります。rukaルカーとrękaレンカは同源で意味が一致していますが、plechoプリチョーとplecyプレツィは同源なのに意味がずれています。

このように、長い年月が過ぎると、意味がずれてきます。密接な関係があるなにかに意味がずれることがほとんどです。「骨」と「脚(または脛)」の間で意味がずれるパターンも、「肩」と「背中」の間で意味がずれるパターンも、よくあるパターンです。日本語の歴史を探る時にも重要になるので、覚えておいてください。身体部位を表す語は隣接部位・関連部位に意味がずれやすいです。

ちなみに、ロシア語のruka(手)、ポーランド語のręka(手)は、英語のrake(熊手、レーキ)、ドイツ語のRechen(熊手、レーキ)レヒェンに対応しています。ロシア語とポーランド語のほうは手で、英語とドイツ語のほうは落ち葉をかき集めたり、地表を整えたりする道具です。

ポイント3 組み込まれている形は古い形

現代の日本語には目という語があり、「め」と読みます。しかし、まなこ、まつげのような語もあります。このような場合、目はもともと「ま」で、それが「め」に変化したと考えられます。昔の日本語には、「の」と同じような働きをする「な」および「つ」という助詞がありました。助詞の「な」が「ま」と「こ」をつないで「まなこ」が作られ、助詞の「つ」が「ま」と「け」をつないで「まつげ」が作られました。そして、裸の「ま」は「め」に変化したが、組み込まれた「ま」はそのまま残ったというわけです。

人間の言語では、このような現象がよく起きます。組み込まれた形は往々にして古い形を示しているということを覚えておいてください。

これで準備は整いました。いよいよ、日本語とウラル語族およびその他の言語の語彙比較に入ります。基礎語彙の中でも特に変わりにくい身体に関する語彙と自然に関する語彙を中心に見ていきます。身体に関する語彙は、人間の体を上肢、胴体、下肢、頭部の四つに区分し、この順番で調べていきます。