本ブログを本格的に再開する時には、古墳時代から飛鳥時代・奈良時代に入っていくところから再開します。
古事記と日本書紀は、日本という国家の始まりに位置する卑弥呼たちのことを隠しましたが、飛鳥時代・奈良時代についても重大なことを隠しているようです。
戦前に、津田左右吉氏が、古事記と日本書紀の先頭に堂々と掲げられた神話は、ほのぼのした昔話ではなく、強い政治的意図に基づいて作られた話ではないかと主張し、波紋を呼びました。
その後、梅原猛氏、上山春平氏、大山誠一氏らのすぐれた研究が現れます。その後の研究を見ると、古事記と日本書紀の神話は強い政治的意図に基づいて作られた話であるという津田左右吉氏の主張は正しかったようです。
津田左右吉氏の主張は、その後の研究のきっかけを作ったという点で重要な意義を持ちますが、大きな修正も必要なようです。津田左右吉氏は、古事記と日本書紀に記された神話は、古事記と日本書紀の完成時期よりずっと前からあったものと考えましたが、梅原猛氏、上山春平氏、大山誠一氏らは、古事記と日本書紀に記された神話は、古事記と日本書紀の完成時期のほんの少し前に作られたものと考えています。だれが日本の歴史を書き換えたのか(改竄したのか)、梅原猛氏と上山春平氏の研究でぼんやりと浮かび上がってきて、大山誠一氏の研究でいよいよはっきりしてきた感があります。
今はこの件についてブログを書き進める時間がないので、ひとまず大山誠一氏の著作を紹介しておきます(梅原猛氏、上山春平氏、大山誠一氏らの著作は、本ブログでも詳しく取り上げます)。
(1)大山誠一、「聖徳太子と日本人、天皇制とともに生まれた<聖徳太子>像」、角川書店、2005年。
(2)大山誠一、「天孫降臨の夢、藤原不比等のプロジェクト」、NHK出版、2009年。
(1)は、聖徳太子に焦点を当てた本です。大山氏の研究は、最初聖徳太子の話から始まって、そこから古事記・日本書紀の話へと発展していきます。なので、(1)から読んだほうが、大山氏の研究を理解しやすいです。
大山氏の研究は、「聖徳太子はいなかった」というフレーズとともに紹介されることが多いですが、これにはちょっと注意が必要です。大山氏と違って、大部分の日本人は飛鳥時代のことをほとんどなにも知りません。いきなり「聖徳太子はいなかった」と言うと、大山氏の著作はトンデモ本なのかなと受け取られかねません。大山氏の著作は、そういう本ではなく、堅実な研究書です。
正確に言えば、大山氏の主張は、「一般に厩戸王(うまやどおう)と呼ばれている人物は実在したが、彼にかぶせられたスーパーマン的な「聖徳太子」という人物像は虚像であった」といったところです。
私は、青の文は赤の文より長いですが、青の文のほうが誤解を招きにくく、大部分の日本人にとって受け入れやすいのではないかと思っています。大山氏自身は、赤のような言い方をする時もあれば、青のような言い方をする時もあります。ただ、大山氏の研究が紹介される時には、短くて言いやすいので赤の文が選択されるのです。
(2)ではいよいよ、だれが日本の歴史を改竄したのかが明らかになってきます。梅原氏と上山氏と同様に、大山氏も、古事記と日本書紀に記された神話は、古事記と日本書紀の完成時期のほんの少し前に作られたものと考えています。
古事記と日本書紀の完成時期のほんの少し前というのは、天皇で言えば、天武天皇から元正天皇にかけての時代です。
第40代 天武天皇 在位673⁓686年
第41代 持統天皇 在位690⁓697年
第42代 文武天皇 在位697⁓707年
第43代 元明天皇 在位707⁓715年
第44代 元正天皇 在位715⁓724年
※上の表を見ると、天武天皇の死と持統天皇の即位の間に数年の空白があるのがわかります。天武天皇の死後、数年の空白を挟んで、天武天皇の皇后が持統天皇として即位したのです。注目に値する時期ですが、ここでは踏み込まずに通り過ぎます。
上の表には歴代の天皇が並んでいますが、この時代を語るうえで、いやそれどころか日本の歴史を語るうえで、絶対に外せない重要な人物がもう一人います。それは、藤原不比等という人物です。
藤原不比等は、天武天皇の時代には存在感がありませんが、持統天皇の時代に急浮上し、持統天皇の後の時代には、実質的な最高権力者にまで上り詰めてしまいます。15歳の文武天皇の即位、皇后の経験もない女性の元明天皇の即位、その娘であるやはり女性の元正天皇の即位と続くあたりは、裏に真の支配者がいることを思わせます。実際にこの後、藤原氏が支配する世になっていきます。
藤原不比等は、もともと天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子の舎人(皇族・貴族のそばに仕え、警備や雑用などをする者)でしたが、その異例の出世ぶりからして、持統天皇に対して大きな功績があった、もっと俗っぽく言えば、持統天皇に大いに気に入られることをした人物であることは間違いありません。もちろん、運だけでなく、卓越した政治能力・手腕があってのことです。
天武天皇は686年に死亡し、持統天皇は703年に死亡します。藤原不比等は720年に死亡しますが、この藤原不比等の死の直前に日本書紀が世に出されるという実に怪しい展開です。藤原不比等の命がもう長くないことが明らかになり、急遽日本書紀が世に出されたのではないかと疑いたくなるところです。
古事記も、日本書紀も、天武天皇が歴史書の編纂を命じたと書いています(古事記は、以前にお話ししたように、推古天皇のところで記述が終わっていますが、古事記の序文が、天武天皇が歴史書の編纂を命じたことを記しています)。おそらく、これは事実でしょう。天武天皇は、壬申の乱(じんしんのらん)によって位についた天皇、すなわち、武力によって位についた天皇であり、自分の立場を正当化する歴史書を後世に残す必要があったと考えられるからです。
※壬申の乱とは、天智天皇の死後に、天智天皇の息子である大友皇子側の勢力と、天智天皇の弟である大海人皇子側の勢力の間に起きたとされる争いです。大海人皇子側が勝利し、大海人皇子が天武天皇として即位しました(ただし、従来は、天武天皇は天智天皇の弟であると、日本書紀の記述がそのまま信じられてきましたが、最近では、疑いが投げかけられています。この問題については、ブログを再開した際に論じます)。
ただ、問題なのは、天武天皇の死から非常に長い年月が過ぎた後で、日本書紀という歴史書が世に出されたということです。天武天皇が死んだのは686年で、日本書紀が世に出されたのは720年です。天武天皇がいなくなって持統天皇と藤原不比等が残っている時期、そして持統天皇がいなくなって藤原不比等だけが残っている時期がとても長いのです。天武天皇は歴史書の編纂を命じたが、最終的にできた歴史書は天武天皇が考えていた歴史書とは全然違うものになった、そんな可能性もなくはないのです。
梅原猛氏、上山春平氏、大山誠一氏らの研究は、ブログを再開した時に詳しく取り上げますが、同氏らが考えるように、古事記と日本書紀に記された神話が古事記と日本書紀の完成時期のほんの少し前に作られた可能性は、もはや揺らぎそうにありません。大山氏らが示している根拠は、非常に強固です。
しかしながら、日本の歴史が天武天皇から元正天皇にかけての時代に改竄されたことがわかっても、どの部分が天武天皇の意向によるものなのか、どの部分が持統天皇の意向によるものなのか、どの部分が藤原不比等の意向によるものなのか見極めるのは、容易ではありません。
これに関しては、私もまだ曖昧な部分が多いです。
特に、「天皇の地位は神の子孫である一家によってずっと受け継がれてきた」と主張するところに古事記と日本書紀の本質があり、この部分がだれの意向によるものなのかという点は注目されます。