日本語にとても近い言語

本ブログでは、日本語が様々な言語から語彙を取り入れてきたことを明らかにしていますが、これまでに示したケースはすべて、自分と全然違う言語から語彙を取り入れたケースです。実は、もう一つ重要な問題があります。それは、自分に近縁な言語から語彙を取り入れるケースです。

例えば、現代のヨーロッパを見てください。英語のそばには、近縁のドイツ語やオランダ語がいます。イタリア語のそばには、近縁のフランス語やスペイン語がいます。ロシア語のそばには、近縁のウクライナ語やポーランド語がいます。かつての英語やその前身であるゲルマン祖語のそばにも、近縁な言語が存在したはずです。そして、そこに接触があったはずです。現代のような国家・国境がない時代であればなおさらです。

印欧言語学が考えなかった世界

英語のwater(水)やヒッタイト語のwatar(水)はインド・ヨーロッパ語族の標準的な語で、同源の語はインド・ヨーロッパ語族に広く見られます。

ヒッタイト語はインド・ヨーロッパ語族のその他の言語から古くに分かれており、インド・ヨーロッパ語族の古い時代の特徴を見せてくれることがあります。ヒッタイト語のwatar(水)は、witarという複数形を持っていました。この複数形は、水域を意味する時に用いられました。インド・ヨーロッパ語族の内部にwatarのような形とwitarのような形が存在していたというのは、大変重要な事実です。

英語のwater(水)とヒッタイト語のwatar(水)と同源の語として、サンスクリット語uda(水)、ラテン語unda(波)、ロシア語voda(水)、リトアニア語vanduo(水)などがあります。サンスクリット語uda(水)とラテン語unda(波)を比べるとどうでしょうか。ロシア語voda(水)とリトアニア語vanduo(水)を比べるとどうでしょうか。nが挿入されているのがわかります。インド・ヨーロッパ語族では、こういうことも起きていたのです。

インド・ヨーロッパ語族のこのような特徴を踏まえると、かつての英語(あるいはゲルマン祖語)の周辺には、水のことを以下のように言う言語があったと推測されます(要点を素早く伝えるために、話を単純化してあります)。

waterのほかに例えば・・・

witer
wanter
winter
wader
wider
wander
winder

母音aがiになったり、nが挿入されたり、子音tがdになったりしています。もっと崩れた形もあったでしょう。

例えば、水のことをwaterと言う言語に、水のことをwinterと言う言語が接触したら、どうなるでしょうか。水のことをwaterという言語に、水のことをwanderという言語が接触したら、どうなるでしょうか。winter(冬)は、水を意味することができず、氷・雪を意味しようとした語かもしれません。wander(歩き回る)は、水を意味することができず、浮くこと・漂うことを意味しようとした語かもしれません。

もう少し例を加えると、wide(広い)とwade(水の中を歩く)も怪しいです。wide(広い)は水・水域の横の平らな土地を意味していた語かもしれません。日本語のɸara(原)、ɸira(平)、ɸiro(広)の話を思い出してください(「墓(はか)」の語源を参照)。wade(水の中を歩く)は説明するまでもないでしょう。

従来の印欧言語学は、このような可能性をほとんど研究してきませんでした。人類の言語の歴史を考えるうえで、大きな欠陥です。

英語にfather(父)という名詞があります。paternal(父の)という形容詞もあります。fとpで子音が一致していません。thとtで子音が一致していません。なぜかというと、英語のpaternal(父の)は、ラテン語のpater(父)から作られたpaternus(父の)が伝わってきたものだからです。現代の英語に存在するfather(父)とpaternal(父の)は、おおもとは同じでも、辿ってきた経路が違うのです。だから、発音が一致しないのです。

印欧祖語から現代の英語に至るまでのどの段階を取っても、そのそばに系統関係のある言語が存在したはずです。それらの系統関係のある言語から英語(あるいは英語の前身言語)に語彙が入れば、上のfather(父)とpaternal(父の)のようなことはいくらでも起きます。

上の図の赤い矢印は、系統関係のある言語から英語(あるいは英語の前身言語)への語彙の流入です。このような語彙の流入が印欧祖語から現代の英語に至るまでずっと起きてきたと考えられるにもかかわらず、ラテン語からの流入(ラテン語の一後継言語であるフランス語を含めて)以外はあまり研究されてきませんでした。文字記録を残さずに消滅していった言語について考えなければならないので、確かに困難な作業です。

しかしながら、全然違う言語から語彙が入ってくることはあるが、近縁な言語から語彙が入ってくることはないと考えるのは、なんともおかしなことです。前者だけでなく、後者も侮れません。

日本語にとても近い言語

「生きる」の語源の記事で述べたように、日本語のmidu(水)はかつては*mida(水)であったと考えられます。日本語のそばにも、日本語に近縁な言語が存在して、水のことをmitaと言ったり、pitaと言ったり、witaと言ったり、itaと言ったりしていたかもしれません(昔の日本語では不可能ですが、bitaと言ったり、vitaと言ったりする言語もあったかもしれません)。

mitu(満つ)/mitasu(満たす)という形を見ると、水を意味するmitaという語があったのではないかと考えたくなります。

ɸitu(漬つ)/ɸitasu(漬す)/ɸitaru(漬る)(古形は*pitu、*pitasu、*pitaru)という形を見ると、水を意味するpitaという語があったのではないかと考えたくなります(昔は「浸」ではなく「漬」と書いていました)。

witaはどうでしょうか。現代の日本語にido(井戸)という語があり、地面を掘って地下水を汲みあげる場所を意味していますが、古形のwido(井戸)はもともと、湧き水や川も含めて一般に水を汲みとる場所を意味していました。widoのほかに、wiと言うことも、wideと言うこともありました。wideの古形は*widaと考えられるので、水汲み場がwi、*wida、widoと呼ばれていたことになります。短い形と長い形があるのは、mi(水)とmidu(水)と同様でしょう。水を意味するwitaという語があった可能性が高いです。

itaはどうでしょうか。凍ることを意味するitu(凍つ)は、水を意味することができず、氷を意味することもできなかった語から作られたと見られます。itu(凍つ)は現代の日本語でiteru(凍てる)になっていますが、単独で使われることは普通なく、itetuku(凍てつく)という形で使われるくらいです。ita(板)とito(糸)も関係がありそうです。ita(板)は水・水域の横の平らな土地を意味していた語でしょう。英語のplate(板)も古代ギリシャ語のplatus(平らな、広い)から来ています。ito(糸)は水と陸の境を意味していた語でしょう。境を意味していた語が線状・糸状のものを意味するようになるのも頻出パターンです。水を意味するitaという語があったと考えられます。

このように、日本語に比較的近い言語がたくさん存在していたことがわかります。日本語とウラル語族の間に特別な結びつきがあるというより、互いに近縁な多数の言語が存在したが、そのほとんどは消滅し、ある一言語がウラル語族として残り、別の一言語が日本語として残ったと言ったほうが的確でしょう。

これからの歴史言語学

言語の起源や歴史を明らかにしたければ、全然違う言語から入ってくる語彙だけでなく、近縁な言語から入ってくる語彙も分析しなければなりません。日本語の語彙のほとんどは、他の言語(全然違う言語、近縁な言語)から入ってきた語彙です。もちろん、これは日本語に限った話ではありません。消滅した言語がとてつもなく多く、それらの消滅した言語が、残るわずかな言語に語彙(の一部)を託したという構図があります。人類の言語の歴史がそのようなものであると認識しておくことは、非常に重要です。

全然違う言語から語彙が入ってくるケース(第一のケース)

これは、日本語と全然違う言語から日本語に語彙が流入しているところです。全然違う言語1~4が互いに近縁だったらどうでしょうか。全然違う言語1~4から、少しずつ形の違う語が入ってくることになります。

近縁な言語から語彙が入ってくるケース(第二のケース)

これは、日本語に近縁な言語から日本語に語彙が流入しているところです。近縁な言語1~4から、日本語と少し形の違う語が入ってくることになります。

日本語とある言語群の間で、第一のケースが起きる。日本語と別の言語群の間で、第一のケースが起きる。日本語とさらに別の言語群の間で、第一のケースが起きる。同時に、日本語と日本語に近縁な言語の間で、第二のケースも起きる。日本語の語彙のほとんどは、このようにして蓄積してきた語彙です。

日本語の語彙全体の歴史を発音変化(音韻変化)の規則によって記述することは全く不可能です。発音変化(音韻変化)の規則というのは、出所が同じでなおかつその後の経路も同じ一連の語に対してのみ適用できるものです。日本語の語彙を構成する一語一語は、出所または辿ってきた経路がまるでばらばらです。

歴史言語学が人類の言語の起源や歴史を考える際に発音(音韻)に注目したことは適切でした。しかし、今回の記事の英語や日本語の例からわかるように、見て取れるのは「規則」というより「傾向」です。短期の歴史ではなく長期の歴史を考えると、そうなのです。長期の歴史には、第一のケースと第二のケースがふんだんに含まれているからです。

従来の歴史言語学はひたすら発音に関する「規則」を追い求めて行き詰まってしまいましたが、筆者は試行錯誤する中で、発音に関する「規則」を「傾向」に改め、発音の変化と同じくらい意味の変化の分析を重視し、浮かび上がる歴史を考古学・人類学・遺伝学と積極的に照らし合わせる研究スタイルを選択しました。