「はっきり」と「くっきり」の語源は正反対、古代中国語の白と黑

古代中国語のxok(黑)ホクは実に多様な形で日本語に浸透しましたが、古代中国語のbæk(白)バクはどうなったのでしょうか。ちなみに、日本語のsiro(白)(古形*sira)に関係がありそうな語はウラル語族に見られ、特にサモエード系のほうに、ネネツ語sɨra(雪)スィラ、エネツ語sɨra(雪)スィラ、ガナサン語siry(雪)スィリ、セリクプ語sɨrɨ(雪)スィリ、カマス語sərɛ(雪)スレ、マトル語sirä(雪)スィラのような語があります。日本語のsiro(白)には、かなり古い歴史がありそうです。

日本語の中に入ろうとする古代中国語のxok(黑)ホクがkura(暗)/kuro(黒)に直面して小さな意味の変化を起こしたように、古代中国語のbæk(白)バクもsiro(白)に直面して小さな意味の変化を起こしたようです。

「白」を意味する語と「雪」を意味する語に結びつきが認められるのは、珍しいことではありません。しかし、「白」を意味する語ともっと頻繁に結びつきが認められる語があります。例を挙げましょう。

英語のwhite(白い)に対応する語は、同じゲルマン系の言語では、ドイツ語weiß(白い)ヴァイス、オランダ語wit(白い)、デンマーク語hvid(白い)、スウェーデン語vit(白い)、ノルウェー語hvit(白い)、アイスランド語hvítur(白い)フヴィートゥルのようになっています。しかし、スラヴ系の言語を見ると、少し様子が違います。例えば、ロシア語のbjelyj(白い)ビェーリイは、英語のwhite(白い)と同源ではありません。英語のwhite(白い)と同源なのは、ロシア語のsvjet(光)スヴィエートゥやsvjetlyj(明るい)スヴィエートゥリイなどです。

「白」は「光」や「明るさ」と関係が深いのです。ウラル語族のフィンランド語などは端的で、valkoinen/valkea(白い)、valo(光)、valoisa/vaalea(明るい)という具合に、同一の語根が支配しています。

日本語の中に入ろうとする古代中国語のbæk(白)が単純に「白」を意味できないとなると、「光」や「明るさ」のほうに向かう可能性が高いのです。「明るさ」が少し抽象化すれば、「明瞭さ、明確さ、明白さ」などにもなります。古代中国語のbæk(白)は、特にɸaku→hakuという音読みで日本語に取り込まれましたが、同時にhakkiri(はっきり)のもとになった可能性が高いのです。タイ語のpaak(口)のような語が日本語のpakupaku(パクパク)、pakuʔ(パクッ)、pakkuri(ぱっくり)のような擬態語になったようだという話をしましたが、それともよく合います。「り」という形式が日本語の擬態語において大きな位置を占めていることは、今さら説明するまでもないでしょう。

古代中国語のbæk(白)が日本語でhakuと読まれる一方でhakkiri(はっきり)という語を生んだのなら、古代中国語のxok(黑)は日本語でkokuと読まれる一方でkokkiriという語を生んだでしょうか。当たらずといえども遠からずで、kukkiri(くっきり)という語を生んだと見られます。日本語にmotimoti(もちもち)、mutimuti(むちむち)、mottiri(もっちり)、muttiri(むっちり)、dossiri(どっしり)、zussiri(ずっしり)、dosin(どしん)、zusin(ずしん)などの擬態語があるので、oがuにブレることはあったと考えられます。古代中国語の対義語である「白」と「黑」から、日本語の類義語である「はっきり」と「くっきり」が生まれたとしても、不思議はありません。

例えば、目の前にパソコンの画面があって、どこかの風景と何人かの人物が映っているところを想像してください。画面の設定が極度に暗かったり、濃かったりすると、見づらいです。画面の設定が極度に明るかったり、薄かったりしても、見づらいです。私たちが見やすいと感じるのは、それらの間のほどよいところです。

左端の状態であれば、もっと明るい/薄い方向に進んで、ちょうどよい見やすい状態になります。右端の状態であれば、もっと暗い/濃い方向に進んで、ちょうどよい見やすい状態になります。したがって、明るい方向を意味する「白」と暗い方向を意味する「黑」の双方から「見やすさ」を意味する語が生まれても、不思議はないのです。

擬態語は日本語の特徴としてずいぶん強調されてきたので、その語源が古代中国語であるなどと聞かされると、面食らってしまう方もいるでしょう。もちろん、古代中国語を含むシナ・チベット語族の言語、ベトナム系の言語、タイ系の言語などの語彙から作られたと見られる擬態語も多いですが、日本語がこれらの言語と接触する前から持っていた語彙から作られたと見られる擬態語も多いです。擬態語は他言語の語彙を取り入れるための専用形式ではないが、他言語の語彙を取り入れるのに多用されてきたというのが真相のようです。筆者も、ほんのいくつかの例を見て、このように考えるようになったわけではありません。膨大な例を見るうちに、そのような考えが徐々に形成されてきたのです。

本当に古代中国語のbæk(白)が日本語のhakkiri(はっきり)のもとになったのかと戸惑い気味の方もいると思うので、古代中国語のbæk(白)についてもう少し考察してみましょう。

 

補説

日本語の「そっくり」とは

「はっきり」と「くっきり」だけでなく、日本語には「り」という形をした擬態語がたくさんあります。例えば、よく似ていることを意味する「そっくり」はどうでしょうか。これも、古代中国語に由来すると考えられます。日本語では、なにかを基準にして、それにsokusuru(即する、則する)と言いますが、このsoku(即、則)がもとになっていると見られます。ちなみに、奈良時代の日本語に見られるnoru(似る)とniru(似る)自体も、外来語である可能性が大です(noru(似る)のほうは廃れてしまいました)。「~のようだ、~みたいだ」という意味を持つ語として、古代中国語にnyo(如)ニョ、ベトナム語にnhưという語があるのです(これらは互いに関係があると考えられています)。奈良時代の日本語のnoru(似る)(四段活用)とniru(似る)(上一段活用)も、古代中国語とベトナム系の言語をもとにして作られたようです。